ピーター・ウィーアー監督「刑事ジョン・ブック」
この映画の粗筋とか、アーミッシュの村を舞台にしているというような特徴は、宣伝惹句やそこかしこでのコメントで散々言われているので、先刻承知という方は多いのではないか。で、そのことは、これ以上触れない。では、この映画について何を語るか。
この映画は視線によって語られるものがたりということ、とくに事件の目撃者であるサミュエルという少年の視線に立たないと、犯人が見つからないし、話が進まない。それは冒頭のシーンから分かる。アーミッシュの人々が集まり並んで、画面のこちらを見つめている目が映し出される。
また、視線のやり取りは母子が列車に乗って、車窓から少年が空に浮かぶ気球を見上げて手を振ると、切り返して宙(の気球)から列車を見返す。あるいは、乗換のターミナル駅で少年は同じ目線の少女と視線を交わし、ロビーの女神像を見上げると次は逆に少年を見返す。このように、最初の数シーンで、この映画が視線のドラマであることをあきらかにしている。
その後で、少年は駅のトイレで殺人の場面に遭遇するのだが、そこでは少年が見つめる目だけがあって、応える視線はない。だから少年は犯人に見つからずにすむ。それは、犯人は少年の眼線の高さまで、自分の目線を下げないから視線が交錯しないからといえる。その後、事件となり少年と目線を落として話をするのがハリソン・フォード扮する刑事ジョン・ブックだった。そして、警察署内で人々が少年に好奇の視線を送るなかで、少年はさまよい表象棚の犯人の写真が掲載された新聞に行き着く。警察署のなかで、少年の視線に応え、少年と同じ目線の高さになることができたのはジョン・ブックだけで、だから彼は少年が警察署の壁に貼ってあった写真に気がつき事件の犯人を行き着くに至るのだ。これらは、言葉を介することなく、視線のやりとりでドラマが形作られる。
また、ジョン・ブックと少年の母親レイチェルとの間に生まれる愛の、それぞれの視線で表現される。さらに、アーミッシュの村に母子がもどり、ジョン・ブックが村に入り込むと、彼らをとりまく人々のかわす視線は、村人が総出で共同の納屋をつくるシーンで最高潮に達する。材木とロープで骨組みを組むのにジョン・ブックや村の男たちが攀じ登り、ロープや材木や釘あるいは道具を手から手へと手渡しで渡っていく、それにつれて家が形づくられていく、それだけでなく一息入れるレモネードも手渡しで伝えられる。その手渡しと同時に人から人へと交わされる視線が、ジョン・ブックを見上げるレイチェルの視線と、応えるブックの視線、そのやり取りを見つめる村人でレイチェルにほのかに思いを寄せるダニエルの視線が、それらが交錯し、行き違い、重なるさまは、まるでオーケストラの交響曲のようでもある。その視線が、それぞれの人々の思いのせて、そのなかで、ブックは村人に受け容れられ、ブック自身もレイチェルへの思いを募らせていく。ダニエルとブックの間に友情の萌芽が芽生える。それが、この映画のクライマックスであり、この抒情的な風景とアクションは、何度みても新たな発見があるし、映画的興奮を何度も誘う。
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