加藤陽子「戦争まで─歴史を決めた交渉と日本の失敗」(5)~第4章 日本人が戦争に賭けたのはなぜか─日米交渉の厚み
1941年4~11月に日本とアメリカとの間で交渉が行われた日米交渉を取り上げる。陰謀論だが、人気のある解釈として、欧州の大戦に参戦したいと考えていたが、戦争に消極的な国内世論を参戦に持っていくため、日本に経済制裁をすることで参戦を促し、真珠湾の奇襲を察知しながら公表せず、だまし討ちだとして戦意を高揚させた。このような解釈は、それに先立つ日米交渉を詳細に見ていくと、間違いであることが分かる。意外なことに日本側もアメリカ側の暗号を解読し、手の内を知りつつ交渉していたのだった。
アメリカ側で交渉を担ったのはコーデル・ハル。彼は自由貿易主義者で、1929年の大恐慌により英仏などはブック経済で乗り切ろうとし、アメリカは外国製品に高い関税をかけることで対抗しようとした。彼は、これはよくないと考え、低関税自由貿易主義へ移行させようと、1934年から中南米、英仏蘭などの欧州諸国やカナダと互恵通商協定を結び、多くの品目の関税引き下げを実現させた(現在のGATTに継承されている)。このことは、結果的に日米貿易にも恩恵があった。このことは、ハルにとって重要な事項だった。
日米交渉の際に、アメリカは日本が政府と現地(ワシントン)で交わす暗号を解読していたことが知られている。日米開戦の真珠湾攻撃も事前に察知していたが、欧州の戦争に参戦するため、わざと現地のハワイ司令部に警告を与えず、攻撃されるままにし、だまし討ちだとして国民の抗戦意識を高めるために利用したとの説まで出ている。これについては、予測可能な情報は得ていたし、危険を指摘する声も一部にあったというが、アメリカは日本がシンガポールとかフィリピンを奇襲すると思っていた。11月からずっと、空母6隻を択捉島から出撃させて、荒海を無線封鎖してハワイまで行ってくるなんて、当時の常識では考えられなかったから。
また、実は、日本側はアメリカの暗号の9割近くを解読していた。したがって、日本側でも自分たちの暗号が解読されていることは自覚していて、あえて敵地であるワシントンで交渉を行った。その理由は、日本国内に対する情報統制が容易だったからだという。つまり、対米強硬に傾いている新聞が交渉内容をすっぱ抜いて、軍部の中堅層や国家主義団体の反発を買うことを避けるためだった。それほど、日本側は本気で臨んでいた。
なお、真珠湾の件と同様の風説として交渉の終盤でハル・ノートが突然突きつけられ、その理不尽な内容に日本側は開戦を決意せざるを得なくなったというのがあるが、その内容は交渉の当初からアメリカ側は基本的態度として提示していた。この風説では、アメリカが参戦するための準備の時間を確保するために日米交渉を行い、日本からの攻撃を遅らせる、いわゆる時間稼ぎのために日米交渉を行ったという陰謀論に近い説もある。
アメリカ側も、日本と同じように本気で交渉に臨んでいた。そのころ、アメリカは欧州の戦争にき参戦していなかったが、とくにイギリスに武器などを通商という形で提供していた。しかし、その提供した武器等を運ぶイギリスの船舶がドイツの潜水艦の攻撃に遭っていた。そこで、アメリカは大西洋に海軍の哨戒部隊を展開させて、ドイツの潜水艦の位置をイギリス側に教える(アメリカが直接護衛することはできない)ようにしたい。そのためには、太平洋艦隊の何割かを大西洋に移動させる必要がある。そのためには太平洋で日米が平穏な状態でなければならなかった。しかし、アメリカは一枚岩ではなく、陸軍のスチムソンや財務省のモーゲンソーは、日本など資源・資金小国だから、アメリカが日本の出方を顧慮する必要はなく、ただ強硬な態度のみが日本をおとなしくさせられると考えていた。
日本側は、アメリカが対英援助を本格化させていけば、大西洋でアメリカの駆逐艦とドイツの潜水艦が誤って戦ってしまって、米独が交戦状態に陥るリスクは高い。その時、三国同盟が発動して日本が戦争に巻き込まれてしまう。そういう危機感が日本側にあった。前章でみたように三国同盟をドイツの牽制するものと考えていた人々にとっては、逆にドイツに引き摺られてしまうことは避けなければならなかった。また、東南アジアを日本の生存圏として整えていくための平穏な時間も確保しなければならなかった。
交渉は1941年4月、「日米諒解案」がハルから野村に手渡されたことから始まる。これは、日米の民間レベルでまとめられた私案という形になっているが、アメリカではルーズベルトもハルも内容を了解しているものだった。また、日本側で携わった民間人も政府の意を呈した人々だった。例えば、日米のカトリック関係者、宮内省関係者、首相や軍の関係者で、日米交渉の裏には厚い層の人々がいたということだ。
日米交渉のプロセスのなかで、最も大きな影響を及ぼしたのは、7月に日本の南部仏領進駐だったと思われる。日本海軍が、ここまで英米が怒らないと考えていたのが蘭印つまりインドネシアだった。40年6月の北部仏印進駐は援蒋ルートの閉鎖を目的とする陸軍が進めた。このとき、欧州ではフランスはドイツに降伏し、占領下のヴィシー政権で、日本はフランス外交交渉により、形式的には平和的に進駐した。この時、アメリカは、日本への鉄鋼や許可制にし、一部の高性能の石油の禁輸措置をとった。つまり、表面上は強硬なかたちをとりながら、内実は日本を追い込まないような冷静なものだった。ハルやルーズベルトは日本側を挑発することを恐れていたと言える。しかし、これに対して、それ以南は海軍による、飛行機や港湾を勢力下に置くことを目的とするので規模が違うし、蘭領植民地やイギリスの極東根拠地の奪取となるし、フィリピンのアメリカ軍基地への侵攻を有利にするものでもあった。一方、日本側では、その主体となる海軍では、アメリカとは戦争はしたくはないが、国内事情に引き摺られていた。海軍はアメリカとの戦争準備だとして、ずっと予算を獲得してきた。それゆえ、アメリカに対して弱気な慎重なしせいは弱気ととられることを恐れていた。また、北部進駐の時のアメリカの対応を見て、楽観的になっていたところもある。南部進駐もフランスとの外交交渉で形式的な協定が基にある。また、1941年7月にアメリカはアイスランドに進駐した。日本側からすれば、アメリカだって同じようなことをしているじゃないか、ということになる。しかし、5万という進駐の兵力規模はシンガポールや香港を持つイギリスへの強い圧力になる。日本側は、そこには思い至っていなかった。この時のアメリカは北部仏印のときとは違う国際環境を抱えていた。1940年ではドイツの攻撃にさらされているのはイギリスだけだったが、独ソ戦により、この時、アメリカにとってはソ連が敗退しては困る状態になっていた。アメリカはソ連の士気を鼓舞するためにも、日本を牽制する必要が生じていたのだった。それに加えて、タイミングが悪かった。このときルーズベルトやハルといった対日交渉を担った主要なメンバーが揃ってワシントンを離れているときに、対日強硬派が独断専行して石油の全面禁輸と資産凍結を実施してしまった。
しかし、日本側は交渉を諦めることななく、日米交渉に消極的な松岡外相を更迭するなどして、8月に近衛首相のメッセージを送り、ルーズベルトと近衛首相がハワイで直接会って首脳交渉を行おうとするところまでいった。日本側とすれば、国内の担当課長、佐官級の事務担当などがうるさく、閣議や大本営連絡会議などの煩瑣な手続きに無駄な時間がかかってしまう。そこでトップ会談をして天皇の裁可を得てしまえば、その過程を省略できて、邪魔が入らずに進められる。ハワイで会談を行えば、政府内の反対派が内容をリークすることは難しい。しかし、結果として首脳交渉は実現しなかった。その原因の一つが、野村駐米大使がアメリカの新聞に漏らしてしまったのが、アメリカで報じられ、それが日本のマスコミに伝わり、日本の首相がアメリカと妥協しようとしていると思った国家主義者たちが強く反発し、近衛が国辱的な懇願をアメリカに行っていると大々的なキャンペーンを始めてしまったのだった。それで、近衛は首相を辞職してしまう。
著者は、日本という国は、戦争や武力行使が必要となるときは、自分はやりたくない、あるいはやくたくないように見せたい、という行為を反復してきたという。南部仏印進駐をした海軍は、アメリカが全面禁輸を仕掛けてきたときには、武力行使せざるを得ないとして、戦争がもっとも起きそうな場合を、相手任せにしてしまっている。これを著者は被動者の位置と呼ぶ。このような日本の決定や選択の特徴を非決定の構図とも両論併記という。それがなし崩しに対米開戦に至った構造のひとつだろう。まさに1941年9月の御前会議で、日米交渉を諦めていないにもかかわらず、まさに両論併記により交渉の期限をきってしまったと言えるからだ。
なお、12月の宣戦布告の通告が駐米日本大使館の怠慢によって遅れてしまったという話がある。本当のところは、東京の外務省が陸海軍の圧力に屈して、出先である大使館がどんなに頑張っても不可能な時間と方法で、ワシントンに電報を送ったためだった。つまり、奇襲を成功させるために軍部が無理をした責任を駐米大使館が押し付けらられたのが真相だという。
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