無料ブログはココログ

« 2023年6月 | トップページ | 2023年8月 »

2023年7月

2023年7月31日 (月)

川北稔「イギリス近代史講義」

11113_20230731224201  10年前に読んだ本の再読。先日、「民衆の大英帝国」を読み直して、著者のことを思い出し、これも、と手に取った次第。現代的視点から歴史学の意義を考えるという意図で、イギリスの近現代史を取り上げている。2010年の刊行で、現代的視点といっても、その現代の状況が変化しているので、とくにイギリスはEU離脱などグーバリゼーションと言えなくなってたりなので、ワンクッション置いて読むことになる。英雄的なリーダーが歴史を変えていくというのではなく、人々の生活が変化し、それが経済を動かし、社会を変えていくものとして記述するのを見ると、こっちの方がダイナミックで面白いと思う。そこで、例えば、現代を未だに工業化社会と指摘するなど、興味深いし、なるほどと思わせられるところがある。情報産業が興隆し、情報化社会といわれるけれど、情報で儲かるかもしれないが、情報は食べられないし、着ることもできない、ネットで何かを取り寄せることはできるが、その何かを誰かが作らなければ取り寄せることはできない。そもそも情報が飛び交う情報インフラは工業製品なのだから。そう言えば、GAFAといい、巨大企業なのはたしかだが、グーグルやフェイスブックの、そもそもの収益は製造業などのクライアントの広告の代行、つまり看板屋で、いわば製造業の寄生虫のようなものだったのだと、いまさらながらに思った。

2023年7月30日 (日)

小野雅章「教育勅語と御真影─近代天皇制と教育」

11112_20230730222701  少し前に読んだ「戦前の正体」が面白かったので、教育勅語や御真影は、まさにネタとして取り入れたものがベタになってしまった典型例だろうから。
 天皇の肖像写真である「御真影」を救うため火中に飛びこみ「殉職」した校長――単なる「紙切れ」は、いかにして「神聖」とされるに至ったのか? 「教育勅語」と「御真影」が当初の目的を逸脱し、「絶対視」されてゆく戦前の過程を丹念にたどる。また、敗戦によりいったん無効と公的に宣言された「教育勅語」が、にもかかわらず、既成事実の積み重ねにより復権を果たしてゆく戦後の過程も客観的に叙述する。
 日本の教育は、戦前は天皇絶対で軍国主義、戦後は日教組の影響で平和主義などと単純に整理されやすい。だがその実態は「近代化を推進するリベラルな理念」と「国体論にもとづく復古的理念」との絶えざる相克の歴史だった。例えば、開明派官僚の代表格であった初代文部大臣の森有礼は、儒教的色彩の強い教育施策を全否定し、修身教育における教科書さえ否定した。そしてあくまで天皇を中心とする近代国家を創設しようとしたが、その国民観は国体主義にもとづき、天皇・天皇制に無条件に服従させるようなものではなかったという。これに対する保守派の対抗策が教育勅語であった。
 一方、近代日本の国家像は大日本帝国憲法に基づく立憲君主国家であった。それは、天皇が統治するという国体主義と国民の自由などの権利を認める近代主義とが併存する構造であり、時代と状況によりどちらかに軸足が揺れ動き続けた。このような構造のもとで。教育勅語は、近代日本が行き過ぎた近代主義に進むことを抑止するための歯止めとして設置された。
 とはいえ、教育勅語の実質的な起草者といわれる井上毅は、教育勅語が「臣民」の自由を制限するようなことはあってはならないと細心の注意を払っていたというから、一筋縄ではない。しかも、戦前の文部省は極端な国体論に対する歯止めとして教育勅語を使っていたこともあった。それは、前近代から人々に受け入れられてきた通俗道徳の徳目を国体論と結びつけ、それを普遍的価値のあるものとしたものだったからで、国体論に一定の枠をはめるものでもあったからだ。しかし、日露戦争後の資本主義経済の発展と帝国主義的な植民地獲得に社会経済が変化していくと現状維持を徳目とする教育勅語は時代遅れ、あるいし成長の邪魔となっていく。そこで、時代に合わせて改定されていく道もあったが、そうではなく、教育勅語が抽象的な理念として捉えられるようになり、実質的なものは詔書が担うことになる。その結果、教育勅語は神棚に祀り上げられる。これって、現代の憲法の平和条項と似たような構造ではないかと思う。
 戦後について書かれた後半では、敗戦後も、国体すなわち天皇制堅持にこだわり続ける政府中枢。それは戦後80年近く経過して、状況が大きく変化して、もはや通用しないかもしれない戦後体制にしがみつくように平和条項に固執する人々に似ているが、それらは自身が変わることが恐ろしくて従前にしがみつく姿と映る。

 

2023年7月29日 (土)

若松英輔、山本芳久「キリスト教講義」(6)~第5章 悪

 一般的には、人生の様々な場面における選択とは、倫理的に生きることを選ぶのか、あるいは金や快楽におぼれて生きるのか、といったわかりやすい道徳的規準に基づいた二分法。でもアウグスティヌスによれば、人助けのような倫理的な行いはもちろんのこと、お金や快楽の追求といったものも、すべて価値があるものであるという広い意味で善なのだという。サービスのよいレストランも、書き心地のよいボールペンも、人間の選択の対象となるのはすべて善なので、悪い行為は悪を選ぶことではなく、常に善を選ぶことに由来することになる。そこで、アウグスティヌスは、より高次の善を犠牲にすることによって、より低い善を実現しようとすることが悪しき行為の本質なのだと考える。
 人間の欲求は善なるもの、価値あるものにしか向かいえないものだというだけではなく、そもそも、神の創造したものはすべて善だとキリスト教では考える。その意味において、実際には善しか選べないのだが、よりよい善に目を閉ざしてしまった場合、そこに悪い行為が生まれてくる、と考える。つまり、悪い行為というものはあっても、それ自体として悪いものなどそもそもありえない、というのがアウグスティヌス以来、キリスト教において悪を考えるときの大前提なのだ。

 悪とは善の欠如という。欠如の類似語に不在があるが、不在は単に何もないという意味だが、欠如はあるはずのものがないという意味だ。当然あるべきはずの倫理的な考慮を欠落させて、快楽や利益という意味での善をひたすら選んでしまう。それは恐るべき空白あるいは空虚だ。悪は善の欠如であるとは、悪そのものは存在しないと言っているのではなく、悪は一種の空虚として存在するという意味だ。そこには人間存在の空虚さが表現されている。

 罪とは、より高次な善を犠牲にしてより低次の善を選んでしまうという在り方のこと。究極的に言えば、神という最高善や神によって創られた秩序を蔑ろにして行為することが罪というもの。
 人間は罪を犯しがちだ。しかしそれでも、罪を犯すことと悪の間には大きな溝がある。人は呼吸をするように罪を犯すという存在であったとしても、本来の意味での悪とはそういうものではない。日々生きているなかで何千という罪を犯す。しかし、足し算で罪が重なってその数が三千なったら悪に転ずるというものではない。悪の門をくぐるときには、何かもっと大きなものを越えていく。
 日本語の罪には、おどろおどろしいイメージが伴う。罪という言葉は、罪を背負って生まれてくるといったように暗く重いイメージを与える。一方、ギリシャ語で罪はハマルティアといって、的外れという意味を持つ。そんなところを目指しても人人間としては満たされないというニュアンス。その流れで言えば、人間は罪を背負って生まれてくるという原罪の教義も、人間には自分を本当に満足させることのできないようなものをなぜか追い求めてしまうとこがある、といった意味で解釈できる。
 アウグスティヌスの『告白』に描かれている話で言えば、出世とか異性との関係とか、そういったものを、最終的に自分を満たしてくれるものと思い込んでしまったけれど、そうではなかった。より大きな善へと心が開かれていなかった。それが罪。出世とか魅力的な異性との関係とか、それ自体は善いものだが、それゆえに、それ以上に善いものがあるということを覆い隠してしまうとこがある。そこに問題がある。だから、罪とは積極的に悪を為すということでは必ずしもない。

 キリスト教は常に個を守ろうとしてきた。キリスト教的な神秘主義では、神と一致するという言い方が出てくるが、この一致は融合とは異なり、神と深く結びつくことによって個が個としてますます輝きだす、お互いを個として認め合う世界が開かれていくことを目指している。新プラトン主義では、個と個が融合してしまい、個が個でなくなってしまうが、キリスト教はそうではない。個であることを失うと、人間は暴走してしまう。

2023年7月28日 (金)

若松英輔、山本芳久「キリスト教講義」(5)~第4章 歴史

 旧約聖書というのは新約聖書があるから、そういう名前になっている。「約」とは神と人間との契約という意味で、イエス・キリストを通じて神と人間との間に新しい契約が打ち立てられたと考える。そのことについて述べられているのが新約聖書。そして、その新しい契約という観点から振り返るとモーセによって神と結ばれた契約は古いものとなった。では、古くなったから無意味かというとそうではなく、最終決定的ではないがかけがえのない意義のあるものとして維持されるということになる。これが旧約聖書。

 ヨハネによる福音書18章はイエスが十字架にかけられる前に逮捕される場面だが、兵士がイエスを捜しに来たというと、イエスは「わたしである」と答える。そして、兵士たちは後ずさりした地に倒れた。徒党を組んで武器を持ってイエスを捕らえにきた人たちが、イエスは誰だと聞いて、イエスが「わたしである」と答えると、なぜ地に倒れるか。非常に不思議だ。
これは旧約聖書と関連している。これはギリシャ語でego eimiで、英語ならI amで、これは出エジプト第3章第14節でモーセが名を問うたのに対して、神が「わたしはわたしであるという者だ(I am that I am)」と答えたのと関連している。つまり、神の名前はI amということになる。だから、イエスの言葉、I amはダブルミーニングになっていて、お前たちが探しているナザレのイエスとは私だよ、という意味と同時に、私は神なのだ、出エジプト記で語られている「わたしはあるという者だ」という神の名前をかたる者なのだ、という宣言なのだ。つまり、イエスは、ここで自分の神としての性質を開示している。だからこそ、神としての力に圧倒されてイエスを捜しに来た人たちは倒れてしまう物語だと分かる。だから、この物語を読もうとすると、旧約聖書の出エジプト記で語られている神の名前にまつわるこの前提を知らないと、十分に読み解けない。旧約聖書の少なくとも重要な部分を知らないと、読み解けない。

 旧約聖書「創世記」で、神が人間を創るときに、「我々に似せて人間を創ろう」と神は宣言するが、この「我々」とは何なのか、唯一なる神のはずが、「我々」という複数形の主語になっている。これを、キリスト教では、旧約聖書の時点で三位一体が暗示されていると解釈する。つまり、旧約聖書が書かれた時点で、父と子と聖霊という複数のものがあることがすでに暗示されていたと、キリスト教が成立した時点から立ち戻ってみると、旧約聖書の真意が初めて分かってくるのだと

 アウグスティヌスの『ソロリキア』には「神と魂を知りたいと熱望しています」という有名な一節がある。自分が知りたいのは神のことと自分の魂のこと。それは別々ではない。自分の精神に直面することによってはじめて、自己を超えた神へと心を向けることができる。神を探求することは、宇宙の彼方にいる神を自分とはまったく別の存在としてとらえることではない。むしろ真に自己に直面することで自分の奥底に神を探求する通路が開かれるのだという。つまり、自己の探求と神の探求というのはひとつながりなのだ。
 キリスト教における歴史とは、単に実証的な何年に誰が何をした、といった出来事のひとつではない。キリスト教には救済という観点から歴史を考える救済史という立場がある。それは、いろいろな苦難に取り囲まれているいまの自己があるとして、その苦難への立ち向かい方をあれこれ模索していくなかで、ふと旧約聖書のひとつの物語が立ちあがってくる、というあり方での歴史の捉え方。たとえば、出エジプト記は、ユダヤ人たちがエジプトで苦しい目にあっていたが、モーセに導かれ、その先でも多くの苦難にあいながらも、神が救ってくれたという物語。この大きな物語を傍らに、神の導きを信じてなんとか目の前にある苦難を克服していこうと考えるような自己のあり方が可能になる。そこで、自分の直面する苦難と、歴史が浮かび上がってくることとはひとつながりと意識される。

 アウグスティヌスの『神の国』は、はじめて歴史哲学を体系化した書物として捉えられている。古代ギリシャは歴史の本はあったが、歴史哲学の本はなかった。なぜなら歴史には真理の現われがない。普遍性がないと捉えられていたから。しかし、キリスト教が成立して、アウグスティヌスにいたってはじめて歴史を哲学的に捉える観点が成立した。それが『神の国』だ。
 彼は、聖書の様々な物語から彼が生きた時代古代ローマ帝国の歴史に至るまで、自己愛中心の地の国と神の国との争い、という観点から歴史を捉えようとする。この歴史観は以後、キリスト教世界に大きな影響を与えた。地の国はローマ帝国に代表され、神の国はキリスト教の教会に代表されると一般的に言われるが、これは間違いではないものの一面的な捉え方で、原典を精読するともっと微妙で複雑な二つの世界の関わりを書いているのが分かる。地の国と神の国のどちらに属しているかは自分でもはっきりとは分からない。世の終わりになってはじめて、自分がどちらに属しているのかが分かるという。つまり、誰にも歴史というものを見通すことはできない。誰が正しく、誰が間違っていたなどと簡単には判断できない。善悪が入り混じった仕方で世界は存在するし、そういう世界のなかに我々は生きている。それゆえに人は常に目を覚ましていなければならない。地の国の歴史、神の国の歴史がある。しかし人間は地の国の歴史に事象を還元する傾向があるから、常に本来あるべき多層的な秩序をどう取り戻していくのかを考えなければならない。そのようなことを語ろうとしている。

2023年7月27日 (木)

若松英輔、山本芳久「キリスト教講義」(4)~第3章 言葉

 言葉はキリスト教を理解する最重要の鍵語である。キリスト教で言葉というものについて語ろうとする時、ほぼすべての人が思い浮かべる一節がヨハネによる福音書の冒頭の部分「はじめに言葉ありき~」であろう。この「言」とは何かというと、14節に「言は肉となって、私たちの前に宿られた」とある。「肉」とは人間のことで、神である言葉が人間となって私たち人間の間に宿られた、これがイエス・キリストだ、というわけだ。キリストは単に人間なのではなく、神が人になった存在だということだ。神が人になったその神のことを「言」という。では、「言葉」とは、私たちの日常を見たとき、語る人のあり方を示すものだ。イエスの言葉を聞けば、それは神の言葉を聞いたにも等しい。イエスの言行を見たら、それはすなわち神のあり方を見たことになる。イエスが神の言葉であるとは、イエスが神とはどういう存在かをありありと無示してくれる存在なのだ、ということだ。
 この「言葉」は原典では古代ギリシャ語で「ロゴス」と書かれている。ところで、旧約聖書はヘブライ語で書かれている。また、イエス自身はアラム語で話していた。新約聖書には、ギリシャ語を話したわけではないイエスの言葉がギリシャ語で書かれている。したがって、新約聖書のギリシャ語を理解するためには、その背景にあるヘブライ語的な発想を知っておく必要がある。ヘブライ語にはバーサールという言葉がある。この言葉は、もともと「肉」という意味なのだが、広くは「人間全体」を指す。旧約聖書では「内的」「霊的」という言葉が出てくる。ヘブライ語では「人間全体」を指す。そうしてみると、「言うは肉となって」とは、神が弱い、はかない人間になった、ということを言っている。単に肉体をまとったというのではなく、肉体も精神もひっくるめて、他の人々とまったく同じはかない弱さを持った人間となって、神が私たちの前に宿られた。という意味になる。」
 「言葉」原典の古代ギリシャ語では「ロゴス」だ。これは古代ギリシャ哲学の中心的な言葉だ。ロゴスには、この世界を統べている理法、理、論理、概念といった訳を充てることもできる。この世界を世界たらしめている根源的な理法でもあれば、それを理解する人間の理性でもあれば、理解したその内容を表わす言葉でもある。そのようなむ意味の広がりを持っている一方で、「はじめに言葉ありき」とは、この世界は、カオス、無秩序なものではなくて、原典にあるのはロゴスであることを述べている。この世界というのは偶然に作られたものではなくて、世界の原点には、ある理法や秩序があるという発想が含まれている。とすると、キリストはロゴスである。ということは、キリスト教には、最初からギリシャ的な要素が含まれていたということになる。

 ヨハネによる福音書の最後には、「イエスの行われたことは、このほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界さえも、その書かれた書物を収めきれないであろう」という一節がある。つまり、聖書はイエスの行ったことをすべて言語で書いたわけではないということと、イエスの生涯は、人間が考えているような言語のなかに収まるようなものではないということが、多層的に語られている。
 そこから聖書は未完の書物であるという認識が生まれる。聖書を受容するだけでは足りない。書かれた聖書の言葉を越えてキリストに触れていくためのひとつの契機であり扉である。
 この認識を否定したのがルターによる宗教改革だった。プロテスタンティズムの運動とは、キリスト教についての新たな理解を打ち立てようとしたというよりはむしろ、キリスト教の原点に帰ろうとする原点回帰運動だった。中世のキリスト教神学はキリスト教とギリシャ的なものを結び付けてキリスト教を歪めてしまったというのがルターの批判だった。中世のカトリック教会は、聖書に書かれていないさまざまな夾雑物をキリスト教に付け加えてしまった。しかし、キリスト教は「聖書のみ」を基準に考えていくべきだというのが、ルターが宗教改革で行った批判のひとつ。しかし、聖書の中には、イエスの活動は聖書だけでは語り尽くせないと書かれている。

2023年7月25日 (火)

若松英輔、山本芳久「キリスト教講義」(3)~第2章 神秘

 キリスト教です、神秘とは単にこの世界を超えたところにある不思議なこと、人間の理解の及ばないことではなく、「今ここに」ある私たちの人生をその最も根底において支えているものだ。例えば、受肉とは、一般には、神が人間になるということで、キリストを神の受肉と捉えるのは
 受肉とは、一般には、神が人間になるということだと捉えられている。キリストを神の受肉と捉えるのはキリスト教の伝統的な教義のひとつ。そこでは
 キリストを単なる人間ではなく、同時に神であると捉える。この場合、厳密には、受肉とは神が人になったことではないという。受肉の本質は神が自らを被造物に一致させることにある。つまり、変化するのは神ではなく、被造物である人間の方なのだというわれ。最も優れた存在である神が、受肉して人間になるようなことがあれば、それは神がはるかに劣った存在になることになる。それは不合理。だから神が人になったのではなく、神が人間性を摂取して神性に深く一致させた存在がキリスト。つまり、人間性を神に深く一致させたキリストという存在が生まれることによって、人間と神が深く結びつくことが論理的に可能であることが、人間に示された。こうなると、受肉の神秘は、神と結びつくというすべての人間が持っている可能性を含意している。
 その時、信仰はもともと人間の内にあるのか、外から与えられるのか、というと、これは人間の救済とは神から働きかけられる恩寵のみか、人間の自由意志が何らかの役割を果たすのか、という議論に重なる。例えば、トマス・アクィナスによれば、人間が生まれつき固有に持っている自然だけでは、無限な幸福に対する憧れは実現するのが難しい。むしろ、実現する力は神の恩寵によって与えられると考える。人間は幸福への憧れのようなもの、そして恩寵と協働する力ももともと持っているけれども、自分一人で実現するだけの力は持っていない。信じられないほどの恩寵に参与させられることで、心底追い求めていたものが自らの思いを越えた仕方で現われ、実現する。そこに恩寵と自由意志がともに必要だと考える。

 イエス・キリストとは個人の氏名ではない。イエス・キリストとは、ひとつの信仰告白になっている。「イエスはキリストである」という信仰の告白を短縮して表現したのがイエス・キリストだという。イエスとは固有名詞、キリストは救い主=メシアの意味。

 カルヴァン予定説は恩寵を極端に強調する。ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義間精神』で有名。二重予定説と言われるもので、天国に行く人間は天国行くように神から予め定められている。それだけではなくて、地獄に行く人間も地獄に行くように定められているという、自由意志を否定し、恩寵を極端に強調する。これによれば、天国に行くか地獄に行くかは予め決まっている。救われるか救われないかは予め決まっていることになる。となれば、もうこの世での努力というものはすべて無意味に思われる。そうすると、あとは好き放題、快楽を追求して生きればいいとなるかといえば、そうはならないという。人々は自分は何とかして救われる立場にいると思いたいから少しでも勤勉な生活をする。こんなに勤勉な生活をしてきちんと貯蓄をしてまっとうな生活をできているのであれば、自分は救われる側にいるに違いないと思うことができる。そう思おうとするから、カルヴァン派の地域では、人々はまじめに働き、その成果を貯蓄し、資本として次に使うことができた、とヴェーバーは説いた。でもそれは、キリスト教の歴史からみれば、非常に特殊な予定の説明である。なぜなら、それまでの予定は救いへの予定は語るけれども熱望の予定を語るものではなかった。予定の概念の原点は、例えばアウグスティヌスの『告白』に見ることができる。彼は若いころはマニ教徒だったのがキリスト教に回心した。それを振り返った時、過去の出来事が解釈し直される。何かのはずみで急にキリスト教徒になったのではない。キリスト教などに入らないと思っていた十代のころからすでにキリスト教徒になるべく神の手に包まれ、導かれていたのだと、過去のさまざまな出来事が解釈し直される。それが予定という言い方で捉えられる。自分の意志だけで神の救いに与れたのではなく、神の大きな枠組みがあって、救いに参与することができた。予定手はあくまで救いの予定という文脈で語られていた。

 『出エジプト記』で、モーセは神に名を訊ねる。キリスト教の難解さを表わす場面。名を訊ねられた神は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答える。「わたしはある」という神の名、原文のヘブライ語を直訳すると「私はあるだろうもので私はあるだろう」となる。これでは意味が分からない。これこそが神秘なのだという。モーセに神の名が告げられることで、逆により謎が深まる形で神が現われる。「私はあるだろうもので私はあるだろう」とは、あなたがたによって神とはこういうものだ、と簡単に定義されるようなものでは私はない、という非常にダイナミックな神のあり方を感じさせる。神とはまさに神秘であるあるのだということ、神の人間を越えたあり方を人間に示している。神のあり方がそうやって示されれば示されるほど、ますます謎は深まってゆく。神が自分のあり方を多少示してくれると、ますます人間の神への問いが深まっていくという形になっている。

 ガブリエル・マルセルの言葉に、「私は私の信じているものをしらない」というものがある。この一節は、信仰とは何かをじつに端的に表現している。信仰とは、知り得ないものを信じるほかはないという地平で起こる出来事だということだ。知り得ないものの代表が神というわけ。

若松英輔、山本芳久「キリスト教講義」(2)~第1章 愛

 キリスト教の愛について、一般的なイメージは献身的で自己犠牲的という義務的なものだろう。しかし、トマス・アクィナスなどは自己愛が基盤にあってはじめて他者への愛も成り立つという。これは、自分を犠牲にして他者を愛するのではなく、自分自身のように他者を愛することが大切。自分自身を愛する仕方を知らないと、他者を愛することもできないだろうというもの。この自己愛の根源は神だという。つまり、神が私に愛を注いでくれるということは、この世界全体の根源である神が私自身を肯定してくれていることにほかならない。そして、神から肯定されているという事実を受け入れることによって、自分自身を肯定することができる。それが自己愛の出発点になる。これは、現代の心理学の一般的な、他者に受容されることによってはじめて他者を受容できるような人間になる、他者に愛されることによって他者を愛することができるようになる、というのは正反対なもの。

2023年7月24日 (月)

若松英輔、山本芳久「キリスト教講義」

11114_20230724224301  カトリックの文芸評論家と中世スコラ哲学の研究者の対談集。読み進めていくと、著者たちの意図とは別に、キリスト教というのが、どうして?て不審感を抱くほど捻じ曲がっている、もはや屈折などというレベルではない、というイメージを強くする。本人たちは、キリスト教の奥深さなんかを語っているのだろうけれど、却って、ヘンテコリンだという意識がないように見える、そういうところが、キリスト教というものかもしれないと思った。その意味では入門書なんだろう。
 キリスト教の奇妙さについては、本書の最初のところで著者たちも言っている。でもこれって、まさに“あばたもえくぼ”なんだよね。CSルイス(「ナルニア国物語」の作者、ファンタジー好きには)などは、キリスト教がでっちあげられたものであるなら、こんな面倒で畸形的なものであるはずがない、だから真実なんだと主張したという。例えば、イエス・キリストは単なる人間ではなく、神が人になったものと考える。神が人になった者であるにもかかわらず、神であるはずの存在が十字架にかけられ、悲惨な最期を遂げてしまう。これだけでも十分におかしな話であるのに、さらにキリストが復活する。そして、折角、復活しても、再び死んでしまう。これって、神は全知全能ぢゃないの?ですよね。例えば、ギリシャ神話の神なら、自分で人間界に降りて神の力を行使して問題解決したり、これはという人を選んでやらせたり、そっちの方が効率的なのに、キリスト教はわざわざ拙いことをしている。CSルイスは、だからこそ真実味があるというが、現代の企業経営だったら、こんな経営者はクビだよね。しかし、現代で当たり前のように常識化している西洋起源の近代的な概念のベースにこういう傾向があるというは、言われてみれば、たしかに納得できるところがある。

 

2023年7月23日 (日)

橋本治「失われた近代を求めて」(14)~第3部 第3章 北村透谷のジレンマ

 社会変革というのは、人は皆同じという全体に立つものである一方、日本の近代文学は私は人とは違う、人は皆同じではないという前提に立つ。両者は両立しないが、人は皆同じという前提に立った社会改良は、人は皆同じではないという現実にぶつかって頓挫する。私は人と違うでスタートした文学も、私は人と違うという同質の人を見つけることによって文学としての位置を獲得する。どこでどう一致するかは知らないが、人は皆同じと人はみな違うはどこかで一致するはずのものである。近代のはじめである明治期の日本で、このことがきちんと理解されていたとは思えない。人は皆同じで、人はそれぞれに違うというのが矛盾などへとも思わない日本の前近代の得意とする理解だ。なまじ近代になってしまったものだから、真面目にこれを考えて壁にぶつかってしまったのが透谷だ。そこでジレンマに陥ってしまう。
 終章 近代が来てどんないいことがあると思っていたのだろうか?
 明治の近代になって、男たちは近代人になろうとする。近代人になろうとして高等教育を受けた男たちは、もうそれだけで自分のことを近代人だと思いこんでしまう。しかし、女にとって近代などというものは、さして意味がない。女たちの生活スタイルは、前近代の江戸時代に完成しているから、近代などどうでもいいもので、それは新しい着物の模様のようなものでしかない。中身が前近代のままの女にとって、近代というものはもっと自由になってもいいと呼びかけるものだ。だから、近代の女は自由になって女というものをよく知らない身も心も近代であろうとした真面目な若い男たちを翻弄する。
 自分より年上の生徒たちを教えなければならない女学校の教師となった島崎藤村は、だからこそ若い女に翻弄されズタズタに傷つく。田山花袋の『蒲団』に登場した主人公を煩悶させる芳子は、夜遅くまで若い男と出歩いていて一向に悪びれない。帰郷して再上京する際には、恋人の学生と嵯峨野に一泊してしまう。江戸時代には性に関する社会の抑圧なんかない。少しくらいはうるさいが、そこに目をつぶってしまえば、父親も認めてしまう。花袋は作家志望の芳子という新しい女に翻弄されているように見えて、実は日本にまだまだ健在な前近代に翻弄されていた。
 近代になって恋愛をすることは自由になったと思われたが、しかしそう簡単に恋愛を手に入れられるわけではない。恋愛の歴史は、近代なんかよりずっと古い。簡単に手にはいらないのは恋愛だけではない。四民平等の世の中になって、西洋には国民の政治参加の権利というものがあるらしいのに、日本にはそれがない。だから自由民権運動というものが起こるが、それがどれほどの成果を上げられたかは分からない。
近代になって自由とか権利とていう考え方が西洋からやって来る。それがあると幸福になれるような気はするが、しかしそれは誤解で、そんなものにやって来られると困難ばかりが増す。なぜなら、自由とか権利というものは、それを手にすることによって前近代的な社会を変革していかなければならなくなる義務でもあるからだ。それをどう行使していいのか分からないうちに義務がのしかかる。権利だ自由だと喜んでいると、いつの間にかその前に自分で切り開かなければならない壁が登場している。それは、権利と不可避的に存在する義務だから、壁に前を阻まれたものが自身で打ち砕かなければ、道は開けない。そしてそれは十分に困難だから、挫折というものが待っている。しかも困ったことに、自由や権利の裏に義務がしっかり存在していることを人はあまり理解しない。
 近代を迎えた日本人が味気無さを抱えた挫折に至るのは、ことの必然のようなものだ。近代を受け入れた日本人は、近代になれば何かいいことがあると漫然と信じていた。しかし、近代にやって来られたら、それを受け入れる人間は、それぞれに近代を担うという義務を引受けなければならない。その大前提を忘れて希望ばかり見ていれば、挫折は当然のこととして訪れる。近代を受け入れた日本人が、その大前提を十分に理解していなかったことは、仕方のないことかもしれない。しかし、今や、日本人がそれを失念していたということは明らかである。

2023年7月22日 (土)

橋本治「失われた近代を求めて」(13)~第3部 第2章 北村透谷と浪漫主義

 近代日本の文学史に主義は二つしかない。それは浪漫主義と自然主義で、言文一致体の創出から始まる日本の本格的な近代文学は、その創出段階ではまだ始まらず、浪漫主義を通って自然主義に至ると、そこでようやく始まることになる。言文一致体の創出をスタートラインとするはずなのに、浪漫主義の段階の日本文学はまた文語体のもので、自然主義になってようやく口語体の時代になる。
 日本の近代文学は、いきなり青年から始まって、それ以前を持たない。日本の近代文学は、基本的に男のもので、男であることが初めから全面的に肯定されている。近代になりはしても、そのメンタリティは江戸時代以来の男性社会のそれをそのまま引き継いで、だからこそ男であることが全肯定されるまでの道筋がない。その必要がないからだ。いきなり男で、男のまま壁にぶつかって、そのなった時に後戻りのしようがない。だから、自殺という結論を選んでしまう文学者が多い。若い=稚いというところへ戻れないのが、日本の近代文学の描く青年の姿なのだ。日本の近代文学は、自然主義=口語体であるような小説を確立した段階で、何かをなくした。その失くしたものとは、後戻りできるような心の余地。それは、スタートできる近代を達成する以前には、あった。それが浪漫主義と言える。日本の近代文学は浪漫主義と手を切って自然主義へと向かったのだった。
 浪漫主義と自然主義という文学史に二つしかない主義を経過した作家に島崎藤村がいる。彼は浪漫主義の詩人から自然主義の小説家へと変わる。北村透谷が浪漫主義と呼ばれるのは、彼のせいである。藤村は、明治30年に25歳で詩集『若菜集』を刊行する。新体詩は七五調で文語体だが、形式が伝統的な和歌や俳句とは違うから新しいというもので、口語体では、まだ詩が作れない、それだけの成熟が当時の日本にはない。長い歴史を持つ文語体は、文飾を持つことを当然として、しかも自在である。それは説明をする言葉を超えて、それ自体が表現となってしまう言葉だった。文語体は派手な模様の振袖の着物のようで、上手な女形の役者がこれを着れば、何も言わなくても着物の動きだけで感情の表現はできる。一方、口語体は飾りっ気のないシンプルな洋服で、表現自体がたいしたことを語ってはくれないから、着た人間が一生懸命に話さなければならない。口語体が説明に終始して、詩の言葉になれないでいた。口語体が当時要することによって文語体と言われるようになってしまった旧来からの日本語は、そのままでも予定調和的に歌の言葉になってしまう。言葉自体が既成の歌である以上、新しい表現を獲得しなければ新しい歌にはならならない。正岡子規は、そこで写生へと向かった。和歌や俳句のような定型詩なら歌の言葉ではない生の言葉を持ち込んでも、定型詩の形式がそれを詩として消化してくれる。しかし、それを散文に持ち込むと大変なことになる。写生をするとは、目の前にあるものを一々言葉で説明することだからだ。
 写生文は、そこになにがあって何が起こったかを、一々説明しなければならない。整理するのはその後で、まずは量で説明しなければならない。説明をしなければ文章として成り立たないというのが、文飾の文語体とは手を切った口語体の宿命で、写生文であることによって、説明する文章としての機能を充実させた口語体は、いつの間にか、説明しかできない文章にもなってしまう。口語体で書かれた自然主義がいつに間にか、自己告白から私小説への道を辿ってしまったのもやむを得ないかもしれない。
 それは文語体とは違って、文章自体で完結するという機能を持ち合わせていない。この文章自体で完結するとは、書かれた文章の中に作者の姿が埋没して見えなくなっていることで、説明するという機能をとり得にしてしまった口語体の作品では、説明する作者の姿がチラついてしまう。説明する能力を持ち合わせてしまった口語体は、その一方で、果たして説明が足りているかという疑問も生みだしてしまう。その結果、説明できるが説明できなければならないという強迫的なものに変わっていく。それは、自分の苦しさを説明できるという喜びが、説明できるだろうか、さらにどうすれば説明するという苦役から解放されるのかという煩悶に変質していった。
 文語体の浪漫主義の夢から、説明する口語体の現実の中へと入って行った。一方、残された浪漫主義では与謝野晶子が官能的な『みだれ髪』を発表する。藤村は、彼女のように自分の情熱を身体化することはできなかった。そこに彼の限界があった。それで、現実の中にはいって説明に奔走する。
 著者は、日本人にとって、浪漫主義というのは文学上の理念というより、政治に立ち向かった時のあり方ではないかという。自由民権運動の生まれる近代日本の政治のあり方こそが浪漫主義的なものだったという。自由民権運動は、在野の側からすれば、「あの悪い政府側の奴らの妨害を排除せよ」という勧善懲悪劇の性格が強く、それこそ情熱の解放のような浪漫的に映ったといえる。それが憲法が発布され帝国議会が始まり制度が定着すると浪漫主義的な動乱は収束し、その後、日本の文語体の近代文学が始まることになる。
 一方、浪漫主義的な文学のなかで奮闘した人物がいた。明治22年に『楚囚之詩』を発表した北村透谷だ。楚囚之詩は難解と思われているが、彼は言うべきことを言うのに心を尽くす人で、自分の表現したいものを持っていた人だった、と著者は言う。日本には和歌や俳句という詩があるが、西洋の言語に存在する詩を存在させようとして書かれたのが楚囚之詩であった。日本に詩が存在しないのは、英語などの西洋の言葉に比べて日本語が不完全のためだという。彼は、明治になって西洋からやってきた詩に触れて衝撃を受けた。そういう形の表現と表現内容が、それまでの日本に存在しなかったのだから、西洋的な詩は生まれようかがない。透谷は、それまでの日本にはなかった西洋的な詩の形で何かを言いたかった。それを言う形式は実のところ二の次だった。だから、自分オリジナルの作品ではなく、原詩があるなら訳詩でもかまわないと思っていた。『楚囚之詩』は、言うまでもなく囚人を題材にしたものである。楚囚はただ囚人を意味するものではなく、古代中国の故事を頭においた、いつとも知れぬ、どことも知れぬ国の囚人である。『楚囚之詩』は囚人という設定を使って孤独を語る詩である。孤独をうたうなら、ただ孤独をうたえばいいというのは、もっと時代が下がっての話で、この時代に孤独をうたうのなら獄に繋がれる囚人という設定を必要とした。孤独という抽象的なものは、囚人という具体性によってようやく人に実感される。だからこそ透谷は、彼の周りに牢獄を設定し、そのことによって囚人の境遇を語りながら、孤独を詩に表わす。そのフィクショナルな手続きがあればこそ、透谷は浪漫主義と言われたりするのだろう。この詩は、孤独の中に藻掻き苦しむ透谷の心境を描き出すもので、後に己の心境を語るのが当たり前になりはしても、当時では珍しい哲学的なものであった。なんでそんなものが出来上がったと言えば、自由民権運動に関わってそして裏切られてしまった心の傷ゆえにだろう。しかし、透谷はいつまでも自分の傷を抱えて沈潜する人ではなく、孤独からの脱出が詩の最後に用意されていた。そこから、透谷の現実への出口があった。

2023年7月21日 (金)

橋本治「失われた近代を求めて」(12)~第3部 明治20年代の作家たち 第1章 青年と少年の断絶

 著者の若いころ、日本の近代文学は中年男のもので、青年を感じさせなかった。青年のあり方は、1950年代、青年と子どもの間に位置するティーンエイジャーというものが生まれて、大きく変わった。それまで、人間には大人と子供の二分法しかなかった。青年は若い大人で、少年は子供だった。十代は、大人と子供の間にあって、どちらかに四捨五入して組み入れられるようなものだったが、これが独立して様相が変わってしまった。十代の少年は大人ではない点で子供だったが、これが青年の下に来る独立した概念になった。その一方で、日本の近代文学は十代の少年というものを問題にしなかった。人生はいきなり青年から始まって、子供の時代は問題にするものが何もない。
 夏目漱石の『坊ちゃん』の主人公は青年である。江戸っ子が地方へ行ってその地を馬鹿にしながら間抜けなドタバタ騒ぎを繰り広げるという、江戸時代の戯作の滑稽小説の伝統を引いている。だから、この小説は近代に生きる前近代人に向けた作品と言える。近代人(大人)が読めば、「主人公はなんでこんなエラソーで、上から目線なんだろうか。生徒をこんな風に馬鹿にする先生なんて、教育者として失格だ」と思ってしまう。それが近代の考え方だ。人は近代というものを受け入れて、青年=大人になる。日本人だけでなく、西洋由来の近代を受け入れる国の人達は皆そうなる。近代化とはそういうものだが、だからと言って、西洋製の近代を受け入れた国のすべての人達が近代人になるわけではない。そこには、近代教育を受けて近代人になった人、近代教育を受けただけの前近代人、近代教育なしの前近代人の三種類がいる。『坊ちゃん』の主人公は、学問は生来好きでなく、ことに語学とか文学といった人の内部に分け入ってあれこれと面倒なことを考える文系の学問はだめだが、そういう面倒なことを言わない理系の実学なら人並みに勉強できる。つまり、彼は近代教育を受けた前近代人なのだ。『坊ちゃん』が赴任先の学校で会う、「赤シャツ」のようなロクでもないいやな奴は文系の近代人だ。『坊ちゃん』という作品は、近代という時代に生きるしかなくなっている主人公が、懐かしく、そしてリアリティを持って迫って来る清という老女と、彼女のいた時代への愛情を語った物語なのだ。
夏目漱石が近代を憎んでいたのかどうかはさておいて、近代を変なもの思っていたことは確かだろう。それは『吾輩は猫である』に、より鮮明に現われる。猫は飼い主である苦沙弥先生の家で、飼い主とそこにやってくる弟子筋の近代知識人たちのバカげたやり取りを、バカにしながら聞いている。猫にとって西洋文明など無縁のものだから、やたらと西洋由来の固有名詞を繰り出す近代知識人の話はすべて「なに言ってやがんだ」である。
 近代になって自由になるかというと、それは西洋の場合で、西洋製の近代を導入する国は違う。そこには近代なんか必要ないと思っている前近代が横たわっているから、近代人には苦しい戦いが待っている。夏目漱石のような鋭敏な人は、近代などロクなものではないと直観できるが、お送り人は近代を疑わず、近代の上に乗っかって前近代の方を疑う。内面の自由を与えてくれたのが近代だから、その近代を否定する理由はない。しかし、まともに考えれば、途中からやってきた近代を前近代の上におっかぶせたって、うまくいくはずがない。文学関係者は頭のなかは近代になっていて、その頭で前近代に向かった結果、立ち往生してしまう。日本の近代人の苦悩の多くはそういうもので、悪いのは自分ではなく現実だということになる。それが日本の近代文学で、だからこそ近代文学史は訳の分からないものになっている。青年になった人間は、子供とつながらない。自分の子供時代=前近代を断絶させることが近代化だから、自分の子供時代を馴化して少しずつ近代へ近づけていくという方法はとらなかった。近代をすぐに理解しなければならず、そこで前近代から近代へ跳躍するしかなかった。その断絶を例証してくれるのが北村透谷という人だ。透谷は、変わった少年だった。

2023年7月20日 (木)

橋本治「失われた近代を求めて」(11)~第2部 第4章 国木田独歩と「自然主義」

 国木田独歩の短編小説は、装飾を排した平明な文章で書かれたもので、一見無技巧のように見えて、余計なことを書かないように、平明であることから脱線しないようにすねために技巧が用いられている。彼の作品の最大の特徴は、作中人物を見つめる作者の視線の適格さとやさしさだ。だから、面白みのない文章で書かれたどうということのない話であるにもかかわらず、小説を読んだ後で、なんとも言いようのない美しさを感じるのである。それが独歩の与える感動の正体である。人生の、社会の、我が身の醜穢、陋劣を描こうとする自然主義とは正反対のものである。そこには、あえて現実を直視しようという態度はなく、あるものはある通りにあるだけで、だからこそ「独歩は独歩である」と言えてしまえるのだ。独歩の作品の美しさは言文一致体の完成と言えると著者は言う。
 言文一致体の文章を書こうとしても、文語体のように、それまでの文章の蓄積に従って、それを頼りにして書くということができない。それで、見たまま感じたままを書いても、底の浅い文章にしかならない。完成した文語体は文飾を必須とするようにもので、文飾は文語体の文章を文章たらしめる礼儀のようなものだ。これに対して、話したままに書くということからスタートした言文一致体には、そのような習慣はない。日常的な会話の中に文語体のような大仰な表現はないからだ。言文一致体は聞き手の存在を前提にして話すというところから出てきたから、「です」「ます」等の語尾が必要になる。しかし、文語体にはその必要がない。書き言葉の歴史がある文語体は丁寧語を使って人と向き合う前に、モノローグとして存在して、そのまま流通できるのだ。その代わりに、剥き出しにならないような文飾が必要となる。文語体は無口なフォーマルウェアで、言文一致体はカジュアルウェアというわけだ。国木田独歩は、見たまま書いても文章にならない言文一致体を文章にするためには、書く前に見たものを凝縮しろ、凝縮それたエッセンスを書け、と言う。つまり、見たまま、感じたままの前に、自分は何を見たか、自分が感じたことは何かという整理凝縮をしろ、そのような実質度を増さなければ文章にならない。このような技術論を独歩の前に言った人はなく、彼以外には誰も考えなかった。
 『浮雲』により言文一致体が発明され、その後の静かなる転換の時期に、国木田独歩は『武蔵野』を書き、島崎藤村は事物を正しく見ることを学ぼうとして言文一致体による写生文の練習を始める。それから、しばらくは二人にとっては沈黙の時期、見出されない時が続いて、これを島村抱月が自然主義だとジャッジする。文語体の文飾を排して、見るべきものを見ということを我がものとした二人が、その見たままを書いたら、それ以前のものとは全く違ったものになってしまった。派手さはないが実質はある。それを抱月は自然主義ということにしてしまった。
『武蔵野』は文語体から言文一致体への転換であったが、文化的な大転換でもあった。独歩は、二葉亭の翻訳した『あひゞき』を読んで、それまでまったく知らなかった秋を知った。その秋は伝統的な日本の秋ではなくて、ロシアの秋なのだった。田山花袋は『あひゞき』の中に全く知らなかった新しい恋愛感情の形が書かれている発見して興奮したが、独歩は『あひゞき』の中にではなく、日本の秋の中にそのままロシアの秋を見た。つまり、近代化を推進する明治の日本は、当然、恣意的に西洋化を推進する。そのため、従来の伝統的なものは存在基盤を危うくすることになるが、反面、国粋化ということにより変に強化もされる。伝統的なものは旧弊として廃棄され、そこに代わって西洋的なものが導入されるのが近代化だったりするが、稀に旧弊のベールを剥がされることによって顕われる日本に在来的な西洋もある。独歩が『あひゞき』によって発見した武蔵野の秋がそれである。それはずっと以前から存在していたが、その存在を発見されず、意味づけをされることもなかったために、存在していないとみなされていた。独歩は、それを発見して見せたのだった。武蔵野は近代に美として発見され、復活した。

2023年7月19日 (水)

橋本治「失われた近代を求めて」(10)~第2部 第3章 「秘密」を抱える男達

 著者は、田山花袋という作家の文学史的な重要さを、彼がしたことではなくてしようとしたこと、つまり彼の試行錯誤にあると言う。
 花袋は、はじめ美文的小説の作家だった。例えば、こういう内容である。一人の若者がいる。知的で、端正な美貌の持ち主だが、生活能力はあまりない。その彼が美しさに富んだ土地で、若くて美しい女に恋をする。彼は恋した相手の女に何も言えず、その土地を去ってしまう。そして、去ったずっと後になって、彼が恋していた相手の女もまた、彼のことを愛していたことを知る。そういう話だ。たったそれだけの話が意味を持つのかというと、彼がその女をひたすらに、純粋に、一方的に愛する。そして、相手も人知れず同じような思いを寄せていたということで、片思いではなく、報われた純粋な愛になる。いわば、田山花袋は「恋に恋する男」で、それを小説の中で「実りはしなかったが思うだけの甲斐はあった」ということにしたかった。現代から見れば妄想の域を出ないだろうが、昔の男にとって恋愛をするということは、とんでもなく大変なことで、恋愛には資格というものが必要だった。そういう時代だった。それゆえ、昔の人間は恋をすると悩む。その人間はおおむね「彼」だが、彼を悩ませるような障害はいくらでもあるから、悩まざるを得ない彼は、その困難を突破する思想を求める。「ああ、自分はダメだ。自分には恋する資格なんかない」と思い込んでしまえば、そう思い込んだ人間は、思いつくままに自分の欠点を掻き集める。それは貧富の差でもあるし、満足できない容姿でもあるし、自分の小心さでもある。例えば、貧富の差では社会主義の目覚めにつながる。それほど、花袋は本気に書いている。小説の中で、花袋は、美しい少女の登場するシーンを美文で延々と叙述する。得られぬ恋に対する激しい思いを書いて、美文的小説を書く花袋の目的ではない。得られぬ恋に対する激しい思いは美しい少女のいる情景あるいは美しい少女のいる美しい情景を書くための動機にすぎなくて、美文的小説を書く花袋の目的は己の思いを奔らせてくれる美しい情景を描くことにすり替わっている。己の書く情景の美しさに呑まれてしまった花袋の小説は、しかし、独白体の小説ではない。一人称語りの小説が、いつのまにか「彼=我」になり、そして遂には語り手である花袋自身の陶然たる表情のクローズアップにさえ至ってしまう。作中のどこにでも花袋が存在してしまう。そこに花袋という作家の激しい情熱がある。美しい情景を描く花袋は、彼自身の書く情景の美しさに呑まれて感嘆の声をあげてしまうが、そうなってしまうのは、彼の情熱が「恋を得たい」ではなく、「美しい恋のある情景の前に跪く」になっているからだ。花袋の恋愛小説は、ほとんど彼自身と思われるような作中人物が、ひたすら激しく純粋かつ一方的に、一人の女を愛しているということが書かれている。これは『蒲団』にも共通している。花袋は恋をしたいと思っていても、それを実現することはできない。美しい恋の情景を夢見ていて、それが夢のまま完結していて恋のある現実へ至り着くことはできない。その苛立たしさが、情景に対して美しいと叫ばせる情熱を生む。だから、花袋の恋愛小説のテーマは恋を得たいではなく、自分の胸に宿る恋への思いを正当化したいなのだ。
 著者は明言していないが、ここに花袋の小説が結果として私小説というものになって、自然主義っぽくなったというプロセスが明らかになる。
 田山花袋の恋愛小説が愛を打ち明けない、つまり、言わない小説であるが、島崎藤村の『破戒』も大事なことを言わない小説である。『破戒』という小説は、他人には言えない「新平民=旧穢多」という素性を抱えて隠し続ける、隠し続けるがゆえに重苦しくならざるを得ない瀬川丑松の胸の内を描く小説である。
 私小説でもない『破戒』を自然主義だとしたのは島村抱月だが、その理由は次のようなものだと著者は言う。本家フランスの自然主義は宗教の支配に抗する考え方でもある。すなわち、すべてのものは神の創造によるもので、調和的で善である。だから、神の意に背いたものは禁忌となる。自然主義は、自然は自然で神とは関係ないとして、あまり芳しくないものを題材に取り上げる。そういうことを、そのまま実践したのが田山花袋の『重右衛門の最後』だった。この作品では先天的に不幸な者を扱った。やがて『蒲団』を契機にして、芳しくないものとして己の性欲を題材にするようになる。恥知らずに告白をして自分の中にも不幸があることを明らかにしたからだ。ここで共通しているのは差別的であるということで、先天的な不幸を抱えた人物を題材する。そうであるなら、社会的に差別された新平民の主人公は自然主義にふさわしいことになる。一方、作者である島崎藤村は『破戒』を自然主義の小説とは思っていなかった。藤村にとっては、『破戒』は新平民の主人公がそのことによって悶々とするのは事実だが、その悲劇を描く小説ではなく、新平民の若者のあり方に仮託されたなにごとかを書く小説なのである。『破戒』というタイトルは戒律を破るという意味である。この戒律とは、主人公の父親が言った「己の素性を隠せ。新平民と言われるような生まれであることを人に言うな」である。『破戒』は、「言うな」という戒律に起因する「言えない」ということを主題とする小説なのである。この「言えない」は「誰にも言えない」だが、その中には「この人にだけは言いたいと思うが、しかし言えない」という思いも含まれる。これは、花袋の恋愛小説の主人と共通したところがある。

2023年7月18日 (火)

橋本治「失われた近代を求めて」(9)~第2部 第2章 理屈はともかくとして、作家達は苦闘しなければならない

 明治40年後、自称自然主義の作品は多数あったが、そこに『蒲団』が登場し、島村抱月は、これぞ自然主義と評価し、その論のために日本自然主義が定義づけられる、ということが起こる。評論家、抱月は個人として、そういうことが必要だったのかもしれないが、そのことが自然主義が恣意的に使われ、国木田独歩、島崎藤村といった自然主義とは無関係な作家たち自然主義と評価したのだった。このように、日本の自然主義と言われていた作品が、実は自然主義という手本とは距離を置く作家たちの作品だったから、その彼らなりの作品が進んで自分ことを書く小説になったとしても不思議ではない。日本の自然主義が私小説に変貌していったのは、そういうわけだ。
 他方実作者たちは、明治の中頃、日本の小説は、西洋の小説は、それまでの日本になかった文学なので、フロンティアであるという『小説神髄』のマニフェストに小説家志望のゴールドラッシュが起こる。理論はあるが実作はないところで、二葉亭四迷は、ツルゲーネフの翻訳を通じて、小説がどんなものかを知っていた。しかし、その文章を書く技術はなかった。その結果、新しい文体である言文一致体を創るとこへ行ってしまう。彼は、すでに存在していた旧来の小説を書く文体、つまり文語体で書こうとしなかった。この頃、文壇で活躍していた尾崎紅葉、幸田露伴、樋口一葉といった作家たちは二葉亭とは違って文語体を駆使した小説を書いて、いわば文章のプロだった。彼らは、言文一致体という文体(スタイル)を何の苦労もなく、自家薬籠中として使いまわすことができた。しかし、言文一致体には、そうでない文体(文語体)に比べて大きな弱点がある。それは、そうでない文章には文章それ自体が語ることを担当する能力があるのに対して、言文一致体の文章では、語るに際して書き手がその姿を現わさなければならない弱点がある。だから、『浮雲』は二葉亭が内海文三の物語を語るという構造になっている。文語体で書かれた小説では、語り手がいることは地の文では理解されるが、その地の文の中に一々物語を語っている語り手を発見するかというと、そうではない。そのうちに誰かが語っているとは思わなくなる。文章それ自体が語ることを担当するとはそういうことだ。尾崎紅葉が書く文章は、そういう文章だ。
 近代文体というものは、書き手のありようと作中人物のありようがどこかで重なって、そうなって、第三者にはならない作者の声が重要なことを語ることによって、近代自我のありようが浮き彫りになってくるというものだ。この近代自我という作者のあり方あるいは作者のポジションが言文一致体の中から、半ば意識的に受け継がれものだと著者は言う。それだけ言文一致体が、それまでの文章に対して特異だということで、その他の文章は言文一致体と対比された文語体と呼ばれるようになってしまった。『浮雲』では、語り手の「言う」が全開状態になったおかげで、作中人物の動き方がイマイチになり、話が進まなくなってしまった。
 このように見ると、日本の近代小説は坪内逍遥という理論家の『小説神髄』というマニュフェストにより、理論先行で実作はお手本なしの状態で手探りで始まった。また、評論家の島村抱月は成長途上の日本文学のために自然主義を発見し、いくつかの作品を勝手に自然主義にまつりあげてしまった。著者は、両者は同じようだという。二人は西洋のありようを理想として、日本の問題点を衝く、それはそれでよいのだが、往々にして、理想としての西洋の方だけを見て、現実の日本のあり方、実作の現場を見ていない。当時の日本にも文学はあった。近代小説ではないが、江戸時代から続いている小説や戯曲の歴史はちゃんとある。二人は、それは小説でないとして切り捨てようとした。これに対して尾崎紅葉らの硯友社は、江戸時代の戯作を否定しなかった。正史の日本文学史は西洋風の近代を達成する方向を追い求めるので、『小説神髄』ばかり見て、その頃、つまり明治中期の主流であった硯友社の文学を後ろ向きとして、無視に近いか、あるいは守旧的と見てしまう。実際、『浮雲』の後も言文一致体は一般化しなかった。
 なぜ言文一致体が時代の主流になれなかったか、著者は、その原因は書き手の側でなく読み手の側にあるという。長い歴史があって。字が読める人なら読める文語体の文章には、読み慣れた者の心を揺さぶる独特のリズムがある。それがあるから、文語体の文章は当時の人々に親しまれている。それにひきかえ、言文一致体の文章は新鮮であっても、とこか違和感がある。新しいかもしれないが、素人っぽくて、ぎこちない。夏目漱石の『吾輩は猫である』が発表と同時に好評で迎えられたのは、『浮雲』の発表から十数年経過し、言文一致体の文章が成熟化し、読むものに読む快感を与えることができるようになっていたからである。そのような成熟は一朝一夕で達成できるようなものではない。『浮雲』を書いた二葉亭と、文語体で書いた尾崎紅葉とは、ほぼ同世代で、新旧の世代対立というものではなかった。
 また、田山花袋は、はじめは文語体の美文的小説の書き手だった。二葉亭の翻訳した『あひゞき』に衝撃を受けても、文語体の小説の方が書きやすく、読者に受け入れやすいことを、彼は知っていた。明治の初めでは、文語体の文章に手を出す方が、誰にとっても楽で自然なのだった。言文一致体にお手本はないが伝統ある文語体はお手本だらけだった。その田山花袋が美文的小説のニュアンスを残しながら言文一致体の小説の方に移行し、やがて自然主義の方向に進む。とはいっても、西洋の自然主義に触れて「すごい!」と思い、大きな影響を受けて自分もやりたいと思いはしても、彼は、西洋の自然主義をそのままコピーしようとは思わなかった。自然主義にインスパイアされた彼は、自分のやりたい創作の可能性をどう名づけたらいいか分からない。自然主義の方向ではあるけれど、自然主義ではない、ちょっと違うのだ。彼は、彼自身の考えに従って創作の筆を進めようとした。自然主義を避けて自然の曖昧さを求めた。彼は自然主義をそのまま移入するコピー商品を作ろうとはしなかった。それとは微妙な距離を置いた自分なりの作品を書こうとした。そこで、あえて『重右衛門の最期』のような不出来なコピー品を作ることによって、手本となるものを自分の方に引き寄せたのだった。『蒲団』はその先にある作品で、日本に自然主義文学を確立するより、まだ口語文体によるろくな作品もない日本で、自分なりの独自性をもった作品を書いた、という作品だと著者は言う。著者は、それは尊重されるべきだし、制作者として正しいあり方だとしている。お手本のないところから創造を始めるというのは大変なことで、その試行錯誤のプロセスそのものが、創造の歴史というべきもので、近代日本の文学史を主義や理論で解明しても仕方がない。ある時期に書き手たちが自分というものを発見してしまったことから始まるようなものなのだ。
 言文一致体からスタートした近代日本文学は、長いブランクにぶつかり、その間は文語体をベースにした硯友社系の文学が主流になった。言文一致体は明治20年代半ばには、ほぼ文体を完成させていた。そこから時間が経って明治39年に『破戒』や『坊ちゃん』が登場して言文一致体の達成が起こるまでの間は、この文体で何を書くかという中身に関する模索の時期だった。田山花袋は、その模索の時期をストレートに体現している。

2023年7月17日 (月)

橋本治「失われた近代を求めて」(8)~第2部 「自然主義」と呼ばれたもの達 第1章 「自然主義」とは何なのか?

 明治になって登場した言文一致体にとって一番重要なことは、どこまでも今の言葉を使って、自然の発達に任せて、やがて花が咲き、実の結ぶのを待つとするという、その成熟を待つはずだった。二葉亭の『浮雲』から18年後の明治40年に田山花袋の『蒲団』が登場し、その前年には、日本の自然主義のもう一つのスタートラインともなる島崎藤村の『破戒』が登場する。このころに、言文一致体も成熟して「口語体」と言われてしかるべきものになっていた。また、明治36年に尾崎紅葉が胃癌で亡くなっている。これは日本の近代文学の黎明期に一つの区切りをつけるもの、あるいは、日本の近代文学の19世紀と20世紀を画するものと考えられる。これを機に、19世紀の日本の近代文学を引っ張ってきた大家たちは、ここでその役目を一段落させて沈黙に入る。例えば森鴎外は文語体の小説の執筆をやめてしまう。
 森鴎外は、数年の後、はじめての言文一致の小説『ヰタ・セクスアリス』を書いた。これは、二葉亭の『平凡』とは違うが、日本の自然主義へのからかいが含まれている。しかし、二人は自然主義を否定しているわけではない。この自然主義が抱えている意味は、人の枢要でもあるような性欲のあり方を書くことにあるとしている点で、二人に共通している。『蒲団』のような作品に対して、性欲ばかり懊悩にして、それが人生だということにしてしまうが、鴎外は性欲だけが人生ではないと考えるが、性欲が人の枢要に位置を占めることについては否定できない。そのため、自然主義を簡単に否定できないのである。それでやってみようか、と書かれたのが『ヰタ・セクスアリス』ということができる。明治の初め、鴎外が子どもの頃の地方は前近代といってよく、性的なものは当たり前に存在していて、それを大っぴらにするかしないかだけだった。売春は公認されていて、18歳未満お断りではなかった。『ヰタ・セクスアリス』の主人公は、自分のいるところは性的なもので満ち満ちた世界であるということを根本のところで了解していたので、性欲を無理に抑圧するよりも先に、周囲の存在する当たり前に性欲的な人々に呆れてしまう。これに対して、『蒲団』に代表される日本の自然主義は、書き手が自身の抱えた性欲で悶々とするという前提で始まるという面がある。だからこそ、作中の人物が性欲を伴ってものを見てしまうことになり、それに対する批評が、そういうのを人生を写し得たものとして認める。これに対して『ヰタ・セクスアリス』の主人公は悶々としない。したがって、日本の自然主義にはならない、しかし、19世紀フランスの本家の自然主義を志向している。
 自然主義はナチュラリズムの訳語であり、宗教の支配に対抗する思想の用語なのだ。キリスト教の世界観では、すべてのものが神の創造にかかるものだから、自然もまた神の支配下にあるものになる。だから、自然は本来、世界を管轄する宗教と調和的であるということになる。自然が宗教と調和的であるならば、そこに属する人間もまた宗教と調和的であらねばならないということになる。自然主義はそれに対して疑問を投げかけた。自然は自然で、神の支配とは別個の、自然独自の法則性によって存在しているという科学の考え方が生まれてしまえば、すべてが宗教勢力の御する調和の中に収まっていなければならないという考え方にはいられなくなる。ナチュラリズムはこうした中で生まれた、教会勢力による聖なる支配からの俗の独立、つまり無神論者の主義なのである。それは、既成の宗教観、あるいはそれによって醸成されたモラルに対して挑戦するものだった。鴎外は、フランス自然主義の大家エミール・ゾラの作品の中で、炭坑労働者のストライキの最中に男女が逢引しているのを覗きに行くという挿話になぜという疑問を抱く。日本人である鴎外は、そんなこともあるのが当たり前で、わざわざ書くのはわざとらしいと感じる。しかし、当時のフランスでは、当たり前とは思わない。だから、ゾラはそういう現実があるということを敢えて示さなければならなかった。別にそういうことがあっても不思議はないと思う鴎外にとってわざとらしく書いていることでも、フランスではそう思われていないから、ゾラはそれを敢えて書いた。それをわざとらしいと鴎外に感じさせてしまう日本は、ナチュラリズムを生まざるを得なかったフランスより、文化的には進んでいたのだ。しかし、進んでいる西洋の近代文明を取り入れてしまった日本の近代青年たちは、結果として、進んでいた前近代の日本の現実を放擲してしまう。だから、そういう進んだ近代青年たちは我が身の性的不自由を嘆くことになる。そもそも、前近代の日本で性的不自由を嘆くのは「もてない男」だけだった。江戸時代の文学には性的飢餓を訴える男の嘆きは題材になり得なかった。近代になって自然主義という窓口ができたとき、近代青年たちは、そこに殺到してしまう。これに対して、自分がフランスより進んでいる前近代の日本に生きていることを知っている森鴎外は、そんなみっともないことはできなかった。
 『ヰタ・セクスアリス』は、鴎外が日本の前近代的土壌の上にいて『ヰタ・セクスアリス』、性的なものに満ち満ちている日本の現実を、ただ、ここにそれがあると淡々と記述している。自然主義などという以前に、それはただ当たり前の事実で、これを読んだ当時の人々は、笑みを浮かべるような内容だ。ここで明らかになるのは、日本の自然主義に本場のモノサシを持ち出しても役に立たないということだ。
 著者は、もう一人の自然主義として島崎藤村を取り上げる。『破戒』が刊行されたのは『蒲団』の前年。『破戒』は作者の経験したことではないし、性的飢餓に懊悩するものではない。つまり、これまで述べられてきた自然主義の文学にあてはまらない小説だった。『破戒』は作者である藤村が自然主義の小説として制作されたものでなく、評論家をはじめとする第三者から自然主義と認定されてしまったものだ。
 そういうところから日本の自然主義というは恣意的なのだ、と著者は言う。かくして、日本の自然主義とは何かと問う意味が疑わしくなった。

2023年7月16日 (日)

橋本治「失われた近代を求めて」(7)~第1部 第6章 《・・・・・》で終わる先

 二葉亭四迷は当時の文壇では優れた理論家だったが、言文一致体小説の試みである『浮雲』の失敗は自覚していた。そのためか、彼は小説を書かなくなる。翻訳をしたり、官吏となったり、教師となったり、その後、ようやく書いた小説が『平凡』だった。その『平凡』は、文学とはこうあってしかるべきという、二葉亭の解による小説であると著者は言う。『平凡』の全編が遊びばかりで、意味のないことの集成である。それこそが二葉亭の解なのだという。
 著者には、『浮雲』は十分な用意のないまま、書きようのないことを書き始めてしまった、『平凡』の習作。だから、二葉亭は『平凡』を書いて、書きようのないことを抱えている人間の物語を明快に描き出した。
 二葉亭は、自然主義という文学運動に対して懐疑的、というよりはむしろ拒絶している。『平凡』は、作者の経験したこととは違うことを、技巧をもって、自然主義とは別種のだらだらした文体で描いた小説になっている。その文体こそが、戯作の饒舌を止揚させた二葉亭の言文一致体とも言うべきものだった。『平凡』は、自然主義的私小説のパロディであると同時に、完璧な架空の私小説という高い完成度をもつ小説になっている。この完成度の高い小説は、不思議な形で訴えているものがあるという。それは、『浮雲』で内在するものを持たない文三を書いて、その失敗に気づいた二葉亭が『平凡』で人に内在するものをきちんと描いた。
 「近頃は自然主義とか云って、何でも作者の経験した愚にも附かぬ事を、聊かも技巧を加えず、有の儘に、だらだらと、牛の涎のように書くのが流行るそうだ。好い事が流行る。私も矢張り其で行く」と自然主義の私小説をからかった二葉亭だが、日本の近代小説には二葉亭の方向の可能性もあったはずだが、この系統は彼の後に引き継がれることはなかった。

2023年7月15日 (土)

橋本治「失われた近代を求めて」(6)~第1部 第5章 「平凡」という小説

 著者は、二葉亭四迷は田山花袋のような不器用ではない、という。二葉亭は、自分の口から出る言葉が、自分のあり方に合致して真実かどうかを問題にした。文語体と呼ばれる日本語は声に出して読むには、そこに内在する言語のリズムや調子を知らないといけない、ある種の技術が要るものになっている。例えば、公式の場でのあいさつや祝辞が眠くなるのは、そのためだ。しかし、日常的に声に出されて話されている日常言語にはそういうところがない。こなれているのである。口に出して語られることの自然を獲得した言葉を二葉亭は目指した。そのために、彼は、口に出してあまり語られることのない文章語を、積極的に口から出して、口に馴染ませてしまうことを考えた。彼は、ロシア文学の翻訳者でもあった。外国に存在して、まだ日本に定着していない新しい概念についた新しい訳語を創っても、その語を載せる日本語は、意味としては間違ってはいないが、日本語としてこなれていない。だからら、彼は、それが日本人に定着するまで待つしかない。そう考えた。つまり、言文一致体にとって重要なことは、その言葉を使う人間の成熟だということだ。その言葉が、その言葉によって語られるべき内容が我がものになっていない、それを人に対して自在に話し聞かせるということができない。それができたとき、言文一致体は書き手の思考の息遣いを写すものとなる。
 『蒲団』の発表の翌月に『平凡』を書き始めた二葉亭には、そういう自覚があった。この小説は39歳になる役所勤めの男が自分の人生を振り返って綴る己が半生で、「平凡な者が平凡な筆で、平凡な半生を叙するに、平凡という題は動かぬところだ」というような半生である。そこで語られるのは小説を書くことの不能なのだという。これは主人公の男の不能であるのだが、作者である二葉亭の不能でもある。つまり、彼自身の絶望を描いているのである。しかし、絶望の渦中にいれば、絶望を語ることはできない。そこで、そういうものを語ってしまうことへの自嘲がある。だから、絶望を過大にのさばらせない。だから、全体として暗くならない。そういう複雑な作品になっている。それが著者の言う、二葉亭が不器用でないということだ。
 『蒲団』はこんなに恥ずかしいことをはっきり言ってえらい、という称賛を獲得した作品だが、その背景には、どんどん言う、言えなければならないという考え方がある。このどんどん言うが止まってしまえば、理解が足りない、洞察が甘いということになり、バカの烙印を押されかねない。それがエスカレートすると、なんでも言ってしまおうとして垂れ流しのようなだらしのない文章になってしまう。それがどうしてだらしなくなってしまうのか、それは十全な理解に達していないから、そのことを、きちんと把握していないと、きちんと言うことができないからだ。それは、当人には真実であったとしても、傍から見れば無理がある。それは。まだ言えないことで、小説ならば見るに堪えない稚拙なのだ。二葉亭はそう考えた。『平凡』という作品には、言わないことや言えないことに満ちている。それを、二葉亭は、途中まで言い続け、はたと止めて話の方向を変える、そのように言わないことによって、言えない状態を明らかにする。そういう技巧に満ちた作品なのである。著者は、これを言わないというテクニックという。ただし、『平凡』の主人公が叙する文章は、『蒲団』などよとりとめがなく文章の垂れ流しだ。しかし、それは小説の中でそういう設定だからで、小説家流の力みとは違った、普通の人の当たり前にリアルな人間像を造形しようとしたためである。それはまた、当時の流行である自然主義へのアンチテーゼにもなっている。そしてまた、私小説に見せかけたフィクションということになる。したがって、実は、主人公の絶望は、作者の絶望ではない。

2023年7月14日 (金)

橋本治「失われた近代を求めて」(5)~第1部 第4章 不器用な男たち

 田山花袋の『蒲団』は近代日本文学のあり方を決めてしまったような作品と言える。しかし、著者は不幸な作品と言い、失笑を買うと言う。妻子ある中年の小説家が十歳以上年下の若い女弟子への恋に悩むというという話だが、簡単に言うと、うっかりした中年男の一人合点なのだ。読者は、そこに作者の恥ずかしくてみっともないことが公然と書かれていることに衝撃を受ける。なぜ、花袋は、そんな恥ずかしいことを書いたのか。それは、文学者は他人のことをあれこれ書く。それをするのなら、まず自分のことをはっきりさせなければならない。そのためには、恥ずかしい自分の姿をありのままに直視しなければならないと思い込んだからである。これが、文学者である作家の心構えとなり、それを率先して実践した花袋は文壇のトップに立った。嘘をついてはいけない。どんなに他人には言えない恥ずかしいことを抱えていたとしても、これを正直に申告しなければならない。その勇気を持たなければならない。そうしないと真実から遠ざかってしまう。この場合、他人に言えない恥ずかしいことを抱えている人は、それを正直に告白すればいいが、そんなものを抱えていない人は作家として劣位ということになる。
 一方、恥ずかしいこと正直に書くだけでは文学にならない。そこには描写とか表現が必要となる。そこで、花袋は平面描写という技法を主張した。つまり、そこにあるものをそのまま書くというものだ。見えるものを見たまま書いて、対象の中に深く入り込まない。つまり、見えるものを見るだけで考えない。考えると、書き手の主観が入ってしまうから、リアル(客観的)でないからいけないのである。そうなると心理描写はいけないことになってしまう。他人の心の中なんて見えないのだから。それをあえて書くことは邪推の方向へ踏み込むことになりかねない。自分の恥ずかしいことを正直に書く。これに対して、うっかりしたことを言ったら、弁明になってしまう。だから余計なことは言わない。イマジネーションとか洞察などというのは不要で無意味なのだ。実際の小説では、作者と同一視される主人公の正直とされる胸の内ばかりが延々と繰り広げられて、それ以外の人物にはピントの合わないドラマが出来上がる。そしてそれは、平面描写のあり方によれば、正しい。
 これは『蒲団』という作品が日本の近代小説の本流とされてしまったからだが、田山花袋という作家について見れば。それは作家の個性であり、彼が『蒲団』という作品を書いたことには、彼なりの必然性はあるという。
 そこで著者は、改めて田山花袋という作家に目を向ける。花袋は、不器用な作家であり、また感情過多のセンチメンタリストであり、その上真面目な努力家と評する。花袋は『蒲団』の前に『少女病』という小説を書いているが、主人公の名は『蒲団』と同じ杉田古城という。37歳の妻子持ちの少女小説の作家だが、若い女性の姿を眺め、オナニーばかりしている。現代でいえば美少女オタクは、当時では異常といえる。そういう人物の描写には平面描写が適していると言えるのではないか。ただし、『少女病』は私小説ではない。主人公は最後に令嬢に見とれていて、事故で死んでしまう。そして、『蒲団』を書いた。『少女病』の杉田古城は若い女性との恋を渇望し、相手にされない現実に絶望している。『蒲団』の杉田は現実の恋の成就ではなく恋への思いを解き放とうとする。それだけに妄想がエスカレートする。そもそも、田山花袋は十代の頃に二葉亭訳の『あひゞき』に魅せられた。この小説は他人の恋を目撃した小説の語り手である主人公が、その他人の恋の女性に恋をした話だ。現実の恋にはふさわしくなくなってしまった中年の作家は、この語り手のように、自分の思いを残したかった。それが『蒲団』だった言える。それゆえに、『蒲団』の妄想をエスカレートする主人公の描写が主観的であるのに対して、彼の外側にいる他の人々は平面描写のおかげで客観的になって、周囲の人々のあり方が主人公と一線を画してチグハグなのだ。それゆえ、主人公のあり方に全く引きずられない。若い女への欲望を抱えて悶々としている主人公。しかし、周囲の人々は、彼の内面になど関心を向けない。それをいいことにして、あるいはそうであることに気づかないまま、彼は、自分の苛立たしい内面のありようを書き続ける。同じようなシチュエーションで谷崎潤一郎は『痴人の愛』を書いてしまう。しかし、真面目な花袋は自分知り得た材料を使って、自分なりの『あひゞき』を書こうとした。文壇からは、何と正直な告白なんだろう。自分の中にも、たしかにそのようなのたうつ煩悶が存在しているという受け取られ方をされたのだった。二葉亭も、たしかにそういう煩悶を持った人だった。しかし、二葉亭は、その表現が気に入らなかった。そこで『平凡』を書いたのだった。

橋本治「失われた近代を求めて」(4)~第1部 第3章 言文一致とはなんだっのか

 二葉亭四迷は『浮雲』によって言文一致体を確立したことになっているが、著者は田山花袋の回想を引用する。花袋は、二葉亭の小説『浮雲』よりも、ツルゲーネフの翻訳である『あひゞき』に衝撃と感動を受けたと語っている。また、谷崎潤一郎の論説では二葉亭も『浮雲』も視野に入っていない。 
 著者は、言文一致体=口語文と一般に理解されていることについて、まず、口語文について考察する。口語とは書き言葉に対する話し言葉で、文章として記録されない音声言語ということになる。それが文字化されると口語文というわけではない。口語文とは口語体で書かれた文章で、口語体は話し言葉を基にして作られた話し言葉に近い文体だ。ここには、話し言葉はそのままでは文章にならないということが前提されている。では口語に対する文語は書き言葉だから、文語体は書き言葉による文体といえるかというと、口語体の書き言葉も含んでしまう。文語体が口語体に対する概念であるのは、文語体=古典の文体と理解されているから。したがって、書き言葉と話し言葉の対立ではなく、実は古い言葉と新しい言葉の対立なのである。文語体とは、『源氏物語』や『枕草子』などの和文体の文章を基本とする明治の口語体が定着する以前の和文体を指す。近代以前の本来的な意味合いでは、文語とは漢文のことで、口語とはかなのことで、だから和漢混淆文は漢文と和文が一緒になったもので、これが一般化すれば文語と口語の対立は解消されることになる。その後、生まれた口語と文語の対立は新旧対立なのだ。
 明治になって、新時代の欧米由来の新知識を吸収して育った青年たちは、彼らの心情・信条を語りたいと思い、そのための文体として言文一致体が誕生した、一般的に説明される。著者は、間違いではないが、それでは具体的なディテールが見落とされてしまうと指摘する。話し言葉がそのまま文章にならないという前提は、文章にすれば筆者の姿は隠れるが、話し言葉は話し手が明らかになるということでもある。話し言葉は常に話し手と話す相手を想定している。現実には、相手によって話し方を使い分ける。書き言葉は不特定多数に向けてのものだから具体的な相手を想定しない。そこで口語体では語尾の敬語の有無が問題となる。です・ます調の語尾は敬語(丁寧語)となるのか、それは会話と同じような、書き手と読み手のボジショニングを決めることになるかどうかということだ。一方、話し言葉で敬語がない場合というのは、いわゆるタメ口で、内々の親しい間柄に限られる。そこで、丁寧語のない口語での文章は伝える相手が敬語を使わなくて済む内々の仲間に限定される。そしてもうひとつ、相手というものを存在させないモノローグの文章となる。そこで、丁寧語があると、その文章には必ず読者がいるということになるが、物言いがまだるっこしくなる。そこで、丁寧語を排すると、受け入れてくれる仲間はいるはずと思い込んだ人のモノローグらなってしまう。この書き手はどこにいて、誰に向かって書いているのかは、このように重要な問題になる。そういうディテールを見落とすべきではない。
 言文一致体の創出は、日本の近代文学の文体の模索だが、小説というものは文体だけで成り立つものではなく、中身こそ問われる。『あひゞき』のインパクトは、それに自分がいるということだ。ヒロインのリアリティは、ただそこに捨てられた女がいるだけではなく、その女を見て可哀そうと思う自分がいることによる。小説の語り手の自分は、読者の自分でもある。他人の恋を外から眺めて、捨てられる不幸な女を見てしまう。その女に声を掛けようとして、逃げられてしまう。自分の想いは空振りになり、頭上に広がる空に向けて放たれるしかない。そこで描写される秋の風景は自分の心の情景となる。田山花袋が衝撃を受けたのはそういうところだ。これに対して『浮雲』はお勢と文三の物語だが、それが二人の恋なのか、二人の縁談なのか、それともお勢という女に代表される外界に振り回される文三の物語なのかはっきりしない。文三に感情移入できるようなリアリティがない。『浮雲』の中には語り手としての自分はいない。主人公の文三は作者である二葉亭の分身ではあるけれど、「文三は私だ」という切迫感で書かれているわけではない。読者も「文三は私だ」と捉えたわけではない。物語の語り手は、物語の局外者である。しかし、『あひゞき』の自分はそうではない。語り手として物語の外にいて、それが最後には物語の中心になってしまう。主役として存在する物語の局外者という不思議なものが提出されて、これがその後の日本文学に大きな影響を与えたのだった。『あひゞき』を読んだ田山花袋は、のちに『蒲団』という私小説を書く。『あひゞき』を翻訳した二葉亭によって、作中の自分は二葉亭ではなく、もちろん作者のツルゲーネフである。二葉亭にとっては自分は自分という名の他人で、この小説が私を語るものだという認識はなかったと思われる。翻訳者である二葉亭は、この一人称語りの『あひゞき』という小説を三人称語りのように理解したが、読者は作中の自分を読者である私と重ねてしまった。『蒲団』は作者である田山自身を主人公に設定した三人称語りの作品である。これが私小説と呼ばれる一連の作品の最初となった。この後、二葉亭は『平凡』という一人称語りの私小説もどきを書いたのだった。

2023年7月12日 (水)

橋本治「失われた近代を求めて」(3)~第1部 第2章 新しい日本語文体の模索─二葉亭四迷と大僧正慈円

 兼好法師の完成した和漢混淆文は、センテンスが短く、論理展開が分かりやすい文章で、ひとつの完成形だが、著者は、果たして文章はそれだけでいいのか?と問いかける。そこで、取り上げるのが、鎌倉時代の慈円の『愚管抄』だ。“今、かなにて書く事たかき様なれど、世の移り行く次第とを心得べきやうを書きつけ侍る意趣は、惣じて僧も俗も今の世を見るに、智解のむげに失せて学問と云ふことをせぬなり。”という一節。この文章はかなの文章だが漢文の難解な用語が混入している。日本人が外国語である中国語のテクストを読んで学ぶのだから、簡単に分かるはずもない。いきなり分かるなどということはなく、「ああか、こうか」と苦吟を繰り返して分かる能力が宿ってようやく、学ぶことが面白くなっていくという。なのに、慈円の時代には、この原則は忘れられている。分かる能力を身につけようとしなくなっているのだが、それは分かる能力を必須とするような学び方をしていないのだから、学問をしていることにはならない。そんなだから、漢文のテクストに向かっても、漢字が並んでいるとしか見えなくなる。そこで慈円は、そんな学問をする者は情けないと非難するわけではない。テクストの本文が難しいからという方向へ行く。
 慈円の時代、本当は漢文を巧みに操れなければならない官吏や僧侶でさえも、漢文を読まなくなった。漢文で書かれた正式テキストを読もうという人が少なくなってしまったご時世、漢文ではない日本語、つまり和漢混淆文が流行っている。それを単に和文脈に漢語を混入させた和漢混淆文では、当時の日本語では明確に論旨を通す論述はできなかった。だから曖昧な和文と難解な漢文をひとつにした和漢混淆文は、かえって分かりにくいものでもあった。そこで、慈円は漢文翻訳体を創ろうとした。それは漢文で書かれてしかるべきものを漢文でない文体で書く事で、変な日本語になってしまうとこが出てくる。慈円は漢語にはない日本語本来のニュアンスを大事にする。生き生きとした言葉、ニュアンスに富んだ言葉を使うことこそが言葉による表現だと信じている。そけが日本語の本来形であり、それが漢文の内容を表わそうとして、それを失うことを恐れている。翻訳の対象となる漢文よりも日本語のほうが表現のニュアンスに富んでいると思っている。そもそも『愚管抄』は歴史に関する書物である。慈円が対象とする『愚管抄』の読者は漢文の書物を読まなければならない人間たち、僧侶や官僚である。本来だったら漢文の書物を読んで、物事に対処する努力を備えているはずの人間が、それを怠っているから困ったことになる。そこで、その困ったことに対処するために、分かりやすいものを読ませて、彼らに本来性を志向させようとした。それが分かりやすいものであると同時に面白いものになっていなければならないと考えた。だからこそ、その文章に面白いと思わせる生き生きとした躍動感がなければならない。とはいえ、歴史を扱った物語ではない。平安時代に書かれた物語は、作者はなぜこれをこのように書いたのかという作者のあり方がはっきりしない。これに対して、『愚管抄』は作者の意図が明確に示されている。慈円には、自分のやるべきことがはっきり分かっている。それは人の関心を歴史に向かわせることで、そのためになすべきことは、歴史ではないが、人の関心を歴史に向かわせるものを書くことだ。そのために何が必要か、それが日本語の文章、つまり、かなで面白い躍動感のある文章を書くこと、そのために新しい文体を創ろうとした。
 著者は、慈円の試みと苦労は、明治初期の言文一致体を創ろうとした二葉亭四迷の苦労を重ねて見ている。ただし、二葉亭には、慈円にあった何を書くか、が明確になかった。慈円にあった内的必然性がなかった。近代小説の言文一致体は、そういうとこから始まった。

2023年7月11日 (火)

橋本治「失われた近代を求めて」(2)~第1部 言文一致体の誕生 第1章 そこへ行くために

 まず、近代文学以前の日本の文学から話が始まる。近代日本が明治維新により始まるとして、それ以前の江戸時代までの文学ということになり、現代の日本では、それらは一括して古典とか古文と総称されている。これらは、現代人には簡単に読めない。なにしろ、そこに書かれている日本語は現代の日本語とは違う言葉で、それらを読むためには学習が必要になる。だから、大半の日本人は、無教養と謗られるのを避けるために、古典のタイトルと作者名という文学史の知識を暗記しておけば、恥をかかなくて済む、程度の意識である。そんな古典を読むのはどうしてか、に対して、橋本治は文学史というものが分からないから読むと答えている。「なんじゃ、こりゃ?」
 日本の文学史は『古事記』からら始まる。『古事記』は漢文でない日本語の文体の最初の書物だ。もともとは「歴史書」として書かれたはずだが、今では歴史書と考える人はいないだろう。ただし、近代以降「歴史」と「文学」の間には一線が引かれて区別されている。その区別は史実と虚構の差だが、近代以前にはその区別がはっきりしない。だから、今では、当時の人にとって歴史であったものを題材とする文学として捉えているのではないか。これに対して『日本書紀』は歴史の書物として捉えられている。『日本書紀』は文学というより史料としての価値を評価されている。そして、『日本書紀』は『日本後記』に継承され、平安時代まで書き継がれていった。これに対して、『古事記』は継承されず、絶えてしまった。
 漢字を使って日本語を日本語のままに記述するというのは『古事記』に始まったが、それは和歌に引き継がれる。そもそも、和歌や歌謡は、まだ文字を持たない日本人が歌っていた日本語だから、その意味を捉えて漢文にしても仕方がない。その音を生かすような漢字表記の日本語にしなければならない。そこで生まれたのが万葉仮名だ。だから、この時代の日本人がどのような喋り方をしていたのかは分からないが、口にしていた言葉は分かる。和歌には形式があり、言葉をその形式に乗せるというものだから、散文の日本語の文章を漢字で記すというまでには至っていない。当時は日本語を文章で語るということはできなかったことになる。『古事記』が継承されなかったように、『万葉集』は『続日本紀』のような歴史には記述がない。勅撰和歌集である『古今和歌集』が編纂されたのは平安中期になってからである。つまり、その時まで、日本語を表記するということは俗用として表には表われないでいた。『古事記』の文体は、『万葉集』から和歌と深く結びついた平安時代のかな文字で書かれた物語へとつながっていく。和歌は韻文、物語は散文と区分する文学史とは異なるが。日本語のありように従って文学史を考えると、『古事記』→『万葉集』→『古今和歌集』→『源氏物語』というつながりが生まれ、他方で中国語系の漢文脈の『日本書紀』系統のふたつの文学史が併行して存在していると言える。この二つは和漢混淆文でひとつになるという流れがあるが、そのひとつが14世紀の兼好法師の『徒然草』だ。『徒然草』の文章は古文のなかでは、現代人の我々にも読み易い。この分かり易さは、センテンスが短いこと、余分なことを言っていないところにある。センテンスが短いのは漢文の影響だ。それ以前の日本語の文章(和文調のもの)は、文章がだらだらと続いて意味を取りにくい。それが整理され、漢文の整理され過ぎて難解に感じられるという極端に陥らず、中庸なのである。しかし、『徒然草』は隠者の文学と言われるように、新しい日本語の文章を完成させながら、継承されず、行方不明になってしまう。兼好法師の生きた室町時代は、それまでの文学が形を変える時代で、能と狂言が完成した時代で、歌謡という歌の芸能化が完成し、『平家物語』のような琵琶法師による語りがうまれ、文学の大衆化が本格化する。『徒然草』とは違った形で和漢混淆文が作られる。こちらは江戸時代の文芸に継承されていく。
 この流れを橋本は次のようにまとめる。『古事記』から『徒然草』まで、日本の文学史は一つの流れを辿ることができる。文字を持たない日本語が、中国渡来の漢字という文字と、漢文という文章論理を得て、「かな」という文字を作りだし、日本語の文章を完成させていったというプロセスである。だからこそ和漢混淆文というゴールが設定できる。漢文脈と和文脈がなかなか混じり合わなかったのは、漢文が朝廷の公式文書として採用され、それ以外のものが必要とされなかった。それが平安時代になって紀貫之が『古今和歌集』の仮名序で訴えたような和歌の重要性が理解され勅撰和歌集の編纂が国家事業となり、かな文字の文章が公式文書いがいのところで拡がっていく。この二つの文脈の併行が鎌倉時代になると、一方で純粋化、もう一方で混淆の道を辿る。純粋化の一例は『新古今和歌集』の編纂であり、混淆は『平家物語』である。女文字とも呼ばれ、公式文書には使われず、漢文脈に比べて下に見られていた和文脈は、鎌倉の武士に対して、京都の朝廷や貴族が教養という優位性を示すものとして漢文より上位に位置づけられるという逆転が起こった。室町時代になると、遠い鎌倉にあった幕府は京都にやってくる。一方、朝廷は南北朝の争乱により支配力と文化的影響力を失ってしまう。そんなカオス状態の中から、それまでの文化のジャンルからはずれたものが登場する。そのころ、朝廷の下級官僚から出家した兼好法師の書いた『徒然草』、『枕草子』の真似のような章段をもち、長く続いた王朝文化の末席に連なるようなものと言えた。このように和漢混淆文は、それまで続いたものの終結と言うことができる。

2023年7月10日 (月)

橋本治「失われた近代を求めて」

11112_20230710212201  橋本治の著作は、考察した結果を整理して論述するというものではなくて、考えながら書いたというものが多い。この著作もそうで、日本の近代文学というものに対して、一般的に知られている近代文学史に対して、「それ何?」と問いかけ、実は、それに対する明確な答えがないことを明らかにし、しかたなく自分で考えてみる。その結果、近代文学史のようなものだが、近代文学史とは似て非なるもので見えてくる、というものがある。それを読者として読むと、出来上がった結果を結論として提示されるわけではなく、「それ何?」という問いかけから始まり、近代文学史をなぞるように、ああでもないこうでもないと考えをめぐらせるプロセスを追いかけることになる。だから、結論を求める人には、まどろっこしい。考え方のプセスも整理されていないので、同じことが繰り返されたり、ここまで考えたのに、それ以前に戻ってしまったりと、こんなことが書いてあるという要約をし辛く、結局、橋本治は近代文学とはどういうものだと言っているのか、という結論を一言では言えない。
 そして、追いかけている思考の軌跡には、ユニークなものがある。そこで見えてくる視点は新鮮だ。例えば、文学史で近代小説のスタートとして坪内逍遥の「小説神髄」が一般的だが、それは文明開化に追随して西洋の文学(小説)を日本に導入しようというマニュフェストで、その煽りにのって書かれた作品の中に、二葉亭四迷の「浮雲」があった。しかし、工業製品であれば蒸気機関車のような現物のお手本がない。そこで、江戸時代からの伝統的な文学でないものを求めた。そのひとつとして、手っ取り早く成果がすぐ見えそうなものとして、伝統的な文語体の文章は古臭いと否定して、新しい文体という仕方、それが口語体という話し言葉をそのまま文章にする。それが言文一致体だった。しかし、言文一致体の文章を書こうとしても、文語体のように、それまでの文章の蓄積に従って、定型パターンに従って書くということができない。それで、見たまま感じたままを書いても、底の浅い文章にしかならない。文語体は完成された文体で文章の中に筆者が埋没し、文章字体が語ってくれるものだった。例えば、言文一致体は聞き手の存在を前提にして話すというところから出てきたから、「です」「ます」等の語尾が必要になる。しかし、文語体にはその必要がない。書き言葉の歴史がある文語体は丁寧語を使って人と向き合う前に、モノローグとして存在して、そのまま流通できるのだ。その代わりに、剥き出しにならないような文飾が必要となる。文語体は無口なフォーマルウェアで、言文一致体はカジュアルウェアというわけだ。そこで言文一致体は誰が語るかということが明らかにしなければならない。そこに語る主体というものが必要になる。見たまま書いても文章にならない言文一致体を文章にするためには、書く前に見たものを凝縮し、凝縮されたエッセンスを書く、つまり、見たまま、感じたままの前に、自分は何を見たか、自分が感じたことは何かという整理凝縮をする、そのような実質度を増さなければ文章にならない。このような近代的な主体の成立は、言文一致体という文体の要請から必然的に生まれることになった。それゆえに二葉亭四迷の「浮雲」は完成することができない失敗作となった。

 

2023年7月 9日 (日)

中畑正志「アリストテレスの哲学」(6)~Ⅴ.なぜ形而上学という知が必要なのか─「ある」ことの探究

 『形而上学』という著作は、「すべての人間は、自然本性によって知ることを求める」という命題から始まる。それに続く議論で、人間が希求する知の対象は物事の原因根拠であること、そしてこの書で探究するのは、すべてのものにかかわる最も普遍的で、そしてそれ以上遡れない第一の原因根拠であることが告げられる。原因については、自然的な事象については素材、形相、始動、目的の4つの原因をあげているが、それとは別の、それ以上に基本的な世界のあり方がある。それは「ある」ということだ。「ある」ということがなければ、日常生活も自然的な事象も語ることはできない。「何かである」と特定されてはじめて、そうすることが可能になるからである。変化や生成でさえ、すでにこの「ある」という事態を含んでいる。では、あらゆる事象に認められる、普遍的で原初的な「ある」とは何であろうか。アリストテレスは特定の対象や領域に限定されない「ある」ということの原因根拠を追究しようとする。それゆえ、アリストテレスはこの試みを「あるものをあるという限りにおいて探究する」と特徴づける。「ある」の原因となるものが存在することが、はじめから自明視されているわけではない。したがって、もしかりに、すべての「ある」ものが運動変化するのであれば、運動変化するものは自然学であるので、すべてのものの原因を求める知は自然学に縮約される可能性を彼は認めている。しかし、もしいっさいの運動変化を免れるようなあるものが成立するとすれば、「ある」は生成変化することに還元されないことになる。とすれば、自然学とは別の知の可能性が追究されねばならないという。
 ここで、探究の一般的枠組みは、「Xがあるかどうか」を把握する「ことの知」から「なぜXか」を理解する「なぜの知」へと向かうが、前者はXの存在を知ることである。言い換えると、その主題となるものが存在するかどうかは、それぞれの学的知識で決定される。『形而上学』での「ある」の原因根拠の探究では、「~がある」と「~である」という対比が表立って論じられることはない。彼が注意する「ある」の種類は、次の4つである。
  (1)付帯的な仕方の「ある」
  (2)真としての「ある」
  (3)述定される項としての「ある」
  (4)デュナミスとエネルゲイアに即した「ある」
 このなかで、(1)は知の対象とはなりえないという理由で探究の行程から除外される。また、(2)は言明や判断が真であるという意味での「ある」なので、この書での直接の考察対象とはならない。それで、『形而上学』で考察されているのは、(3)と(4)である。
まず、(3)の「述定される項」としての「ある」については、この書では一定の了解が前提されている。それがカテゴリーの理論である。彼にとってカテゴリーとは、われわれが自然に受け入れているものごとの把握を前提にして、普段発している問いを形式に従って整理したものである。その区別はわれわれの認知が世界のあり方を受容し反映することにもとづいて、実在のレベルでの相違や区分と相即すると想定されている。具体的には問いの形式に従って「ある」ものの種類を分類している。例えば、性質は「どのような」を表わす疑問詞から派生した。最初のカテゴリーであるウーシアーは「何であるか」という疑問詞から。このウーシアーが『形而上学』での考察の最大の焦点となる。一般には実体と訳されるが、ここでは日常的な問答の場面で考えてみる。日常の場面で「何だこれ?」と問う場合を考えてみると、たとえば台所で目の前を動く小さな黒いものを見た場合、その問いを口にする時は、それに近寄ってよく見た上で、蜘蛛とかゴキブリだ、というように、それが「何であるか」を特定するものとして、何らかの虫として把握している。そこから、ウーシアーの意味は、事物ではなく、「何であるか」という問いに対して答えとなるものである。だから、ウーシアーは日常的に出会うそれぞれのものそれ自身でもない。それらは、むしろ「何であるか」という問いに先立って把握された前提的な対象であるとともに「どのようか」や「どれだけか」という問いの対象でもある。
 それぞれのカテゴリーは、問いの形式に応じて、一つの具体的なもののあり方を異なる局面で分類する。性質だったり量だったりする、それらの「ある」はウーシアーの「ある」の基礎のうえにたっている。一方、ウーシアーは基礎的な存在である。
 さらにウーシアーとは何であるかという問いを進める。アリストテレスは、それぞれのウーシアーの候補として、次の4つをあげる。
  (ⅰ)基に措定されているもの
  (ⅱ)本質
  (ⅲ)普遍的なもの
  (ⅳ)類
 ウーシアーとは何かという問いに対して、アリストテレスは一義的な回答をしていない。この考察は複眼的、というより多眼的である。一定の条件を設定したり、異なるアプローチをとることを通じて、この問いに答えようとしている。
 (ⅰ)の基に措定されているものは、さまざまな述定される項がそれに述定されるもので、ウーシアーではありえない。
 (ⅱ)の本質は、「(Xで)あるとはもともと何であるか」といった意味であろうと推定される。つまり、「もともと」あるいは「本来的に」という条件の下で(Xの)「何であるか」を示すものだ。したがって、この意味での「何であるか」は、はじめから自明とは限らない。本質として「何であるか」は探究を通じてはじめて明らかとなる。本質については、まず論理学的考察と呼ばれる述定関係に基づく概念的考察によって「それぞれのもの」と本質との関係が論じられる。それによれば、本質は「それぞれのもの」自体と同一である。アリストテレスの本質概念の基本は、それぞれのものが、まさに当のものであることを説明する規定を与えるということにある。彼は、さらに探究を進め、原因としてのウーシアーの考察を始める。「なぜXか」の問いを「YがXであるのはなぜか」という形式に開くことから始まる。例えば、何かが「なぜ家であるか」という問いは、「ある木材が家であるのはなぜか」とか、一般的には「ある素材や構成要素が、それとは異なる何かであるのはなぜか」という問いへ変換される。アリストテレスが用意する応答は、素材や構成要素をある何か(X)として規定するものこそがウーシアーということである。これは形相であり本質である。この意味で、形相や本質は、原因としてのウーシアーである。
 ウーシアーとは何であるかという問いは、このように複数の観点から考察されている。もともとの問いは、「それぞれのもののウーシアーとは何であるか」ということであった。アリストテレスは、そのウーシアーを「それぞれのもの」について、(A)それに付帯する属性ではなくそれ自体として規定するものとして、あるいは(B)その部分を含めた素材に統一性を与えるものとして、そして、(C)そのあり方の原因となるものとして考察している。ウーシアーは、このような仕方で、それぞれのものの「何であるか」を示す。そそれゆえ、この意味でのウーシアーを、探究を通じてはじめて理解することができる。

2023年7月 8日 (土)

中畑正志「アリストテレスの哲学」(5)~Ⅳ.なぜ「心」ではなく「魂」なのか─生きることを基本に考える

 魂はギリシャ語で「プシューケー」で、現在では英語のpsychoの語源となって心とか精神の意味で使われている。古代ギリシャ語では精神の意味にかぎらず、もっと広い意味で使用されていた。精神や心の働きに限らず、生命あるいは生きることに関わる、魂、すなわち生きることの源、あるいは生の原理という意味を芯に持っていた。アリストテレスは『魂について』で“魂を知るということは、真理の全体にとっても貢献するところは大きいが、とりわけ自然の研究に対する資するところは最大であると思われる。なぜなら、魂は生物(動物)の始源(原理)に相当するものだからである”。魂は自然的な物体(身体)の形相、あるいは自然的物体の第一次の終極実現状態(エンテレケイア)として規定される。これは自然的な物体のもつ本質的な機能であり能力である。そして魂と身体は素材と形相の関係にある。このような身体に実現するはたらきのひとつという魂の捉え方は、現代では、デカルト的な心身二元論に対比的に捉えられている。しかし、心と身体の概念についてはアリストテレスと現代とでは基本的に見解が相違する。彼は、一般的で共通的な魂の規定から進め、「魂の最も本来固有の説明規定(定義)」と呼ぶ、もう一つの規定を提出する。それは、魂とは、栄養摂取、運動、感覚知覚、思考というそれぞれの能力であるという規定である。この定義を支えているのは、魂が生きることの原理であり、しかし、植物と動物と人間では「生き方」が異なるという洞察である。植物は栄養を摂取して生きるが、動物は運動と感覚知覚を行い、人間は思考することができる。現代では生きるということを、生命の維持、つまり、アリストテレスのいう栄養摂取のはたらきとして、まず考える。実際のところ、感覚したり思考することも、栄養摂取や新陳代謝がなければできない。したがって、魂の能力は一つの能力を基礎として次の能力が成立するという階層的な構造をしている。しかし、同時に、栄養摂取だけでなく、運動、感覚知覚、そして思考も、それぞれが生の形式であり、生きる能力の発現の形である。そこでは栄養摂取だけ生きることの形としているのではない。彼は、知性、感覚知覚、場所的運動、そして栄養摂取のうちのどれか一つがそなわっているとすれば、それだけで生きているという。現代では、このような魂の概念を通して世界を見ていないで、そういうのにかわって心という概念を持ち、世界を切り分けている。アリストテレスにとっては、栄養摂取も感覚知覚もたんなる物理的過程、身体の活動ではない感覚知覚が栄養摂取と並行的に関係しているのは、身体=物理的なプロセスとしてだけではない。生きることのひとつの形としての意味や役割を持っている。食物という対象も、食べるという行為も、接種・消化し人間の成長や健康、生存を担うという連関のなかではじめて成立する。栄養摂取という、有機体全体の生き方の一部となりそれに貢献する活動という意味を持つことによって、はじめて行為として特定され理解される。感覚知覚もまた、動物や人間の生き方の一部となりそれに貢献する活動として特定され理解される。このような意味で、栄養摂取も感覚知覚も、生きるための活動であり、生きることの表現である。とすれば、その営みによって主体の置かれた環境や外的な世界との適切な関係は本質的である。それは生物がその環境に存在する自身の生存に役立つものを、摂取し消化し血肉化するという仕方で受容する活動である。また、感覚知覚は、これと並行して、動物が周囲の世界が提供する知覚情報を、認知するというかたちで受容する活動である。
 このようなアリストテレスの魂の概念に対立するのがデカルト的な心身二元論である。デカルトは方法的懐疑により、すべての知の確実な基礎となりうる原点を求めた。そこでは多くの認識が不確実として切り捨てられる。その結果思考する私の存在だけは確実であるとする。しかし、その確実な存在としての私とは何だろうか。デカルトはアリストテレスによる魂の第二の規定を源泉とした各能力のうち、栄養摂取、運動、感覚などは身体を伴い、疑うことができるので「私」から引き離すことができる。しかし残る思考は「私」とは不可分で疑いえない。「私」とは思考するものであり、この思考するものこそが心であり精神である。このようにして魂の概念を引き裂くことにより思考するものとしての精神と延長するものとしての物体という実在的な区別が導かれる。
 デカルトは経験的世界を区分する最も基本的な境界線の位置を変更した。アリストテレスが引いた魂を持つ者と持たないもの、つまり生物と無生物の間に引かれた境界線を、心と物体の境界線に引き直した。アリストテレスにとって魂の概念の統一性は、それがさまざまな生の原理であるということだった。これに対して、デカルトにとって心に一つの概念としてのまとまりを与えるのは意識である。心とか精神は思考するものである。この思考とは、知識から欲求や想像そして感覚知覚にまでわたる多種多様な活動を含むものだ。そして、これらに共通の特質は、意識する活動だ。知的認識も、意志も、想像もこの意識することであり、それゆえ思考の内にある。そこで問題は、感覚知覚である。それは外界に関わり、身体を必要とする。デカルトは、それが何かの意識であるという点に注目し、身体的局面と外的世界との関係を反故にすることによって、思考の仲間に迎え入れる。例えば「白い色を見ている」という感覚は、白いものが存在しないために偽である可能性があるが「白く見えていると思われる」かぎりでは確実である。意識している、思われているという部分だけを抜き書きすることによって、感覚知覚も確実なものとされる。デカルトは、このようにして外的世界との関係を遮断することによって、外的世界とは独立でありながら確実で真なる領域を見出した。その領域は「われわれの内」とデカルトが呼ぶ領域であり、いわゆる主観性の領域だ。
 アリストテレスとデカルトの違いは根本的な志向の相違であり、認識論においてそれが顕著に現われる。認識論の最も基本的な問いは、「われわれはいかにして外的な世界を知り得るのか」だった。

2023年7月 7日 (金)

中畑正志「アリストテレスの哲学」(4)~Ⅲ.現代自然科学は十分ではないのか─自然を理解するための知

 古代において、アリストテレス以前から自然についての探求は様々に行われてきた。しかし、古代ギリシャ思想の世界では、動いたり変化したりする諸現象に対して、そこに立ち入って論ずることに障壁があり、自然的世界の全体が禁忌の領域となっていた。アリストテレスは、その呪縛を解いて、自然学のフロンティアとなった。
 自然について語ることを困難にしたのはパルメニデスの学説である。パルメニデスは英語のbe動詞に相当する「ある」とその否定である「あらぬ」とは峻別し、それが決して交わってはならないことを主張した。「あらぬ」はないことなので探究することも語ることもてきない。「ある」は探究の対象となるが、不生不滅でいかなる運動も認められないからである。そこで、一般的に変化とは「何かであらぬ」ことから「何かである」ことに至ることであり、生成とは「何かがあらぬ」ことから「何かがある」ことへと至ることである。「ある」は「何かである」と「何かがある」の両方の意味を持っている。だから、変化も生成も峻別しなければならない「あらぬ」と「ある」を結びつけることなる。論理的に矛盾する。このようなパルメニデスの主張に対して、その後の人々は何らかの応答を迫られることなる。多くの人は、そこから逃げたため生成や変化については避けるようになった。
 アリストテレスは、これに批判的に応答した。生成変化することは自然の最も基本となる事態で、それを探求するのが自然学であるからだ。彼は、パルメニデスの議論を診断し、彼を誤った主張へと導いた病根を発見し、それを取り除こうとした。まず、彼はパルメニデスの前提を批判的に検証する。パルメニデスの主張の根幹にあるのは「ある」が一義的にあるという前提である。「ある」に、「がある」という存在の意味と「である」という述定的意味が、区別されず一義的に持たれているということである。それは、Xに「ある」を認めるなら、「ある」と認められるものはそのXと同じあり方でなければならないことになる。すると、世界は一義的な「ある」だけに塗り尽くされ、差異がなくなってしまう。文字通り、すべてが一つになる。ここには「あらぬ」という差異を含む生成変化を否定することも含意されている。
 これに対して、アリストテレスは、運動や生成変化とはどのような事象であるかを説明することを通じて、「ある」の成立の仕方を明らかにしていく。同じひとつの変化には複数の記述の仕方が可能です。例えば同一の変化を次のように記述することができる。
  (1)ある人間が音楽的になる
  (2)非音楽的なものが音楽的なものになる
  (3)非音楽的な人間が音楽的な人間になる
 彼によれば、このような「AがBになる」という形式で記述される変化で、AとBは(3)ではAが「非音楽的」と「人間」、Bが「音楽的」と「人間」として明示されるように複合的であり、かつそのような複合的なものは変化の前後で同一の規定、つまり「人間」と相対立する規定、つまり「非音楽的」と「音楽的」との分析できる。生成変化では対立関係にない同一の者が存続し、対立関係にあるものは存続しない。この同一のものについては複数の規定が存在する。この例であれば「音楽的」と「人間」という複数の異なった局面や相貌を持つということである。このように、変化は「存続するもの+対立するものの一方」から「存続するもの+対立するものの他方」へと交代するという構造をとる。このような分析から、生成変化の基本的契機つぎのように集約される。
  (ⅰ)新たに生成した〈形相〉─音楽的
  (ⅱ)変化においてその〈基に措定されているもの〉─人間
  (ⅲ)新たな形相と対立しそれを欠いている状態─非音楽的
 性質や量の変化の場合には、(ⅱ)の〈基に措定されているもの〉は存続する。例えば、人間の色や身長が変わっても人間であることに変更はない。ウーシアの生成の場合には、ある仕方で変化後にまで存続するが、それ自体も何らかの変化をする。ひまわりの種子は大輪の花に変化する。しかし、それは生成の起点にあり、また生成したものに何らかの仕方で内蔵している。これを「素材」と呼ぶ。ちなみに「素材」と対義語的な関係にあるのが「形相」だ。彼は、このような分析を通じて、世界には多様な形の「ある」が、均一でない仕方で関係しながら、成立していることを明らかにした。変化を構成する一方の項には、「人間」「音楽的」が「人間が音楽的である」というかたちで結びついて成立している。この二つを区別するなら、「音楽的であらぬ」の意味で「あらぬ」ものから変化や生成が成立することに困難はない。このように、アリストテレスは、人々の経験に即して、「ある」「あらぬ」の非一義的な使用と、両者の結合を認める。このことによって、パルメニデスの主張の前提の誤りをつきとめたのだった。
 変化について、理解や記述の枠組みを提示した上で、自然を次のように定義する。“自然とは、動と静止の始源が、附帯的にではなく、第一にそれ自体内蔵している当のものが運動変化したり静止したりすることの、ある始源ないし原因にほかならない。”この自然のあり方を理解し説明するためには、アリストテレスは4種類の原因をあげ、それについて、家の生成という例で説明すれば次のようになる。
  (ⅰ)素材因─事物に内在していて、その事物がそこから生成するとこのもの。木材やレンガ
  (ⅱ)形相因─形相あるいは範型、すなわち、当の事物が「それであるということはもともと何であるのか(=本質)」を表わす規定(ロゴス)。「風雨から身を守るもの」
  (ⅲ)始動因─運動変化あるいは静止がそこから始まる最初の始源。建築家あるいは建築術
  (ⅳ)目的因─目的としての原因。すなわちそれのために、というそれ。「風雨から身を守るため」
 アリストテレスのいう原因は、現代の一般的な原因とは意味合いが違う。現代の場合、たとえば、投げたボールが当たってガラスが割れる。この原因はボールが当たるという出来事であり、結果はガラスが割れるという出来事である。この二つの出来事は互いに独立の事象である。その間には、ボールが当たるとガラスが割れるという法則的、恒常的な連接関係が認められる。そこから、一方は原因であり、他方は結果であるという因果関係が成立している。このような原因と結果の理解が描き出す世界は、単純化すれば、Aの次はB、Bの次はC、というように個別的出来事が次々と継起する世界である。そのなかで、Xが起こると常に、ないしは必ずYが起こる、という恒常的ないしは必然的な関係が因果の関係である。したがって、自然的な事象を説明する知は、恒常的あるいは必然的に継起する関係のうちにその事象を位置付けことによって得られる。法則に訴える知とはそういうものだ。
 しかし、アリストテレスの原因とは、これとは基本から異なっている。問題となる事象をXとすれば、Xの原因、あるいは「なぜXなのか」という問いは、「Xとは何であるか」という問いと一体的に考えられていた。「Xとは何であるか」という問いに応答するのは、XをXとして想定する何かである。彼の原因の基本には、ある事象をその事象たらしめているもの、という理解がある。
 事象を事象たらしめているものとしては形相が第一にあげられる。人工物の場合は機能がそれにあたるが、自然ン物の場合は本質がそれに当たる。今飲んだ液体が水であることの原因は、その液体が水の形相ないし本質としてのH2Oであるからである。この意味において形相は原因であり、それを参照することは「なぜ」という問いに答えることである。しかし、自然は変化する事象である。形相は、それだけでは変化する事象としての自然の原因をすべて語ることはできない。そのためには別の原因が必要となる。そこで、一つの生成や変化には終わりがある。目的を表わす「テロス」というギリシャ語は、ある一連の事象がそこへと至りそこで終わったりそこで限界づけられている終極を意味していた。このような目的ないし終極は、当のものをそれたらしめるものとしての形相とは同じであったり、あるいは形相を規定する「何であるか」という定義のなかに含まれている。例えばひまわりの種子は、ひまわりをひまわりたらしめているものを終極としてそこに向かって成長する。当の事象をその事象たらしめるものである形相は、生成や変化の目的・終極という性格をもつ。形相因と目的因が多くの場合一致するとアリストテレスがいうのは、こういうことである。したがって、それが終極する目的を知るために、原因を問う事象を、ある一定の時間の相の下で見ることが求められる。ただし、目的因は、終極する未来からその事象を索引して引っ張り上げる巻上機のようなものではない。その事象の内に特定の終極へと向かうことができる、目的を実現すべき内在的力がそなわっているので、目的は原因であり得る。
 始動因は、文字通り運動を始める、運動を起こすという意味での原因である。アリストテレスによれば、この原因は、因果過程のうえでたんに時間的に先行する出来事ではなく、問題となる事物や事象が「何であるか」あるいは「何のためであるか」と密接にかかわっている。始動因は因果過程のなかのひとつの出来事ではなく、その事象の目的・終極に至る運動変化を引き起こしたものとして原因である。その意味で、始動因も、ある事象をまさにそのものたらしめていることに貢献するという意味での変化や生成の原因である。
 目的因や始動因が形相因と密接に関係しているのに対して、残る素材因は形相因と対比される原因である。それは、ある形相の実現を可能とするために欠かせない物質的要素だからである。素材を表わすギリシャ語「ヒューレー」は材木を意味しているので、何かのために使用されるという目的との関係を含みもつ言葉であり、その意味では、素材はある事物や事象を構成している物質であるが、その事物や生物のあり方と独立別個に探究される構成要素ではない。
 アリストテレス的な原因の概念と近代的な原因の概念の主要な対立点は、アリストテレスの原因の概念が、近代の原因概念より広く、説明や理由なども含む、という点にあるのではない。むしろこの世界を、一連の出来事が因果的ないし継起的に進行する世界と考えるのか、それとも生物をはじめとしたそれぞれのものに原因となる力の存在と可知性を認めるのかという点に求められる。探究される自然的な事物や事象は、素材と形相という相関する二つの局面をそなえており、それぞれが原因として働いている。それゆえ、自然学的な知は、形相因と素材因を探究することになる。ただし、それを別々に行うのではなく、その知は相関的である。さらに目的因も始動因も形相因と不可分である。

2023年7月 6日 (木)

中畑正志「アリストテレスの哲学」(3)~Ⅱ.なぜ倫理学は月並みなのか─幸福・徳・共同体

 アリストテレス以前にも倫理的な問い、つまり、「いかに生きるべきか」「善い行いとは何か」といった問いは、つねに問われてきた。しかし、のような問いを倫理学というひとつの知、学問として構想したのはアリストテレスである。彼は、自然学などの観想・考究的知と倫理学のような知との間に明確な一線を引いた。それは、倫理学の目的は認識ではなく行為だからだ。しかし、倫理学的探究も、一般的枠組に沿って進められる。全体としては「われわれにとって知られることから無条件に知られることへ」と向かうのであり、「~であること」の把握から「なぜ~なのか」の知へと至る。「これこれのことが正しい」「しかじかの行為が立派だ」という認識や見方を身につけたうえで、なぜそうなのか、それらが正しかったり立派であったりすることの理由や根拠は何であるのか、ということを明らかにする。しかし、倫理的な事柄の場合、その出発点となる「~であること」の把握が、自然現象の探究に比べて、はるかに決定的な重要性をもつ。この「ことの把握」の対象として彼が直接に念頭においているのは、「節度ある行為は立派なことだ」という命題である。彼にとって倫理的な事柄における「ことの把握」は、習慣づけるというプロセスを通じてはじめて把握されると主張する。その把握に至るまでに、個々の状況で当事者が具体的に何かを行い、それに対して周囲の者が「よいことをした」という言葉を行為の当事者にかける場面が繰り返されるプロセスが想定されている。そのようなプロセスを通じて、どのような状況でどのような行為がふさわしいかを認識し、それを行うような自分自身のあり方を身につける。このような習慣づけにより養われるのは、性格や人柄と呼ばれる人のあり方である。ここには「なぜそうであるのか」の説明は、それほど必要ではない。
 このような考察で、彼が。まず注目するのは、日常生活では人間の行動は「何かのため」という形で何かを目指していることである。その目的は「善」と呼ばれる。しかし、この場合の善は、すべての行いに認められるものなので、道徳的に善いという意味ではなく、何かを行う主体にとって善いこと、つまり有益であることを意味する。それも、行為者が行為する上であらかじめそれが目的だと意識しているとは、それを目指して決断したとかいう意味ではなく、とりあえず「なぜそうしたか」を、自身が「~のために」と答えられる程度のものだ。これは行為者の心理ではなく、行動の構造だ。人の行為には様々な目的があるが、それには一定の階層と秩序がある。例えば、家庭教師をするのはバイト代が目当てだが、それはジムに通うための資金を得るため、という後に行くにしたがって目的は上位となる。このように目的の階層関係を系列化したときに、その系列が無限に遡ることはないとすれば、最終目的というものを考えることができる。それは、その人にとっての究極目的であり、最高の「善」である。彼の考える最終目的とは「幸福」である。人々は誰でも、それを目指すものだ。著者は、これを日本語の「しあわせ」の語感に近いのではないかという。アリストテレスの考察のスタート地点が人々の日頃抱く思いであり、それを分析して洗練する形で至ったということからである。つまり、理論的には、降伏の形式的条件として、①他の目的のためでなくそれ自体として選び取る終局的なものであり、②それだけで十分望ましいという充足的なものであることをあげる。これさえあれば、他はものいらないというものだ。一方、内実をみれば、人間に固有の働きがあり、その働きをよくはたすことこそ人間としての善さてあるという。そこで、人間の固有の働きをロゴスにしたがった魂の活動と特定する。そこで、人が行うべき行為について、彼は、「徳のある行為」、つまり、「徳のある人の行う行為」であるという。「徳」とは優れたあり方を指す。つまり、人間としての働きの優れたあり方ということになる。このような説明から、行為のあり方を人のあり方に基づいて考えていることが分かる。ある状況で行う特定の行為が得ある行為と言えるのは、徳ある人間が行うような行為であるから、つまり徳あるひとが把握するような仕方でその状況を把握し意味づけ、そして徳ある人が行うような行為であるからである。したがさって、徳を中心とする倫理的な考え方にとって、正しい倫理的な見方とは、徳ある人において初めて見えてくる見方であるということになる。例えば、親切な行為というのは親切という徳のある人の困っている人を助けるというものであって、他人にいいところを見せるために行うのは親切にはならない。単に振る舞いを真似するのでは済まないのである。習慣づけが重要視されるのも、徳ある人が行うような行為に快さを感じ苦痛を感じないという心のあり方が獲得される。
 そしてさらに、一人ひとりにとっての善き生き方は、政治や共同体についての考察を必然的に含むものとなる。もともと、アリストテレスは倫理学での考察を政治学であると繰り返し表現している。「個人的なことは政治的なこと」と。これは、人間はポリス的動物であるに結びつく。彼は言葉(ロゴス)を通じて善と悪、正と不正を共有する点にポリスの形成の根拠を認める。人間の本性は、共同体の中で、言葉を使用して、習慣づけをはじめとした日々の教育を通じて養われ陶冶される。それを養うのは、直接的には家族や周囲の人間であっても、その言葉は、共同体のなかで共有された価値観を反映している。それには一種の道徳感覚があり、その共有がポリスを構成する。
 アリストテレスの知的営みは、全体として見れば、それ自体が核心的であった。彼は哲学だけでなく知の営みの歴史に大きな変革をもたらした。この試みは、受け入れられている見方を手がかりに考察するという知の行程の一般的枠組に基づくものだった。しかし、受容された見解から考察を始めることは、それに裏書きを与えることではない。そもそも、手がかりとすべき受容された見解や情報も、実は改めてそれを明確な形で記述し、相互につきあわせるなら、しばしばその自明性は失われ、むしろ当惑や驚きを生みだす。だからこそ、アリストテレスも知は驚きから発すると言う。自分自身が抱く様々な信念、あるいは受け入れている考えについてさえ、それが潜在的に含意することや相互の精確な関係を、すべてはじめから見通すといったことは人間にはできない。しかし他方で、現状のたしかな認識の上に、手持ちの信念や考えにより明確な形を与え、問いただし、見直すことによって、そこに潜在する深い内実を掘り起こしたり、それらを超えて新たな知へと至ることは可能である。人間の知的営みは、そういう力を持っている。アリストテレスが信頼する人間の知的能力とはそういう者であった。そしてまた、現実も、いまある現状に終わるものではない。それ自身が変化する力を潜在させているのである。

2023年7月 4日 (火)

中畑正志「アリストテレスの哲学」(2)~Ⅰ.アリストテレスはほんとうに重要なのか─知的探求の行程=方法

 今、私が、日本語の文章を当たり前に書いているが、200年前だったら、このような文章を書いてはいなかった。当時は、文語体が常識だった。それを明治になって口語体の文章に変えられていったのだが、当時は大変革だったはず。そのような当たり前すぎて、もはや見えなくなって、意識もされないこと、現代の哲学にも、そういうものがある。アリストテレスの大きな業績として、そういうものがある。例えば理論と実践といったような概念を対にして扱うこと、可能と現実、個別と普遍、主語と述語、これらはみなアリストテレスによるものだ。あるいは、本質、カテゴリー、想像力といった概念も彼に負っている。たしかに彼以前にも概念を作ったり使った人がいたが、それはその人の思想を表わすための用語に留まり、アリストテレスに負う概念は、表現内容が固定・定着し、一般的な用語となって広く使用されている。だから、ある意味では、現代の哲学はアリストテレスの概念によって規制されている、つまり影響下にあると言えてしまうのである。
 アリストテレスの師にあたるプラトンは、イデアという概念に集約されるようなところがあり統一的なイメージを持つことが比較的容易だ。しかし、アリストテレスの場合は、哲学、倫理学から政治、自然科学、弁論術、演劇論等々多肢にわたる専門分野の研究をそれぞれの領域の現場に赴いて、多種多様な事象に即して、そのあり方を解明していて、全体像をイメージしにくい。しかし、その多様性が彼の特徴とも言える。彼は、それぞれの専門分野の研究だけでなく、より一般的に、人間の知的営みの本性や構造、そして探求の方法について、またそうした知の対象となる世界の全体のあり方について吟味と考察を重ねた。本書は、この点でアリストテレスの哲学像を描こうとしている。そして、アリストテレスの哲学をつぎのように言っている。“われわれの経験する世界は多種多様でありながら、それぞれの仕方で認識することが可能であり、また人間はそのような世界に応答できる認知能力をそなえている。さらにこの世界は、人間の知的な進展に呼応してそのあり方が開示されるような、知的な深さをもっている。したがって探求を通じてわれわれは世界を知的に理解することができる。その探求の全体がアリストテレスの哲学である。”
 この章では、彼の知的探求の方法を見ていく。彼は探求の方法論についてきわめて意識的だった。その方法は知的探求についての一般的枠組みと個別的方法論の二段構えになっている。まず、一般的枠組みは、知的探求全般に妥当する方法であり、信頼、収集、習熟、により「なぜか」を知るという方法だ。
 まず「知る」ということ、つまり知に対する彼の態度の基本となるのは、人間の知的欲求の肯定と知的能力への信頼である。人間はもともと本性として知ることを求める。このような肯定に基づいて、探求を始めるには、まずデータや情報の収集からだが、彼は、その重要性を探求の行程として明確に位置づけ、知識獲得の方法として理論化した。その結果、研究課題に必要かつふさわしい情報を集めることが規範化した。
そして、情報を収集すれば自動的に知的成果になるわけではない。ひとつの知へと結実するためには探究というプロセスが必要となる。彼にとって「知る」というのは、見て分かるとでもいうような、「それがそうであること」を知る(「ことの知」)と、もうひとつ、探究により得られるその原因や原理、根拠を知る(「なぜの知」)である。その探究の方法として、彼が打ち立てたのが論証という形式だ。いわゆる三段論法というものだ。そこで、彼は経験的習熟の必要性を説く。これらの論証を通じて示される探究と説明の構造は、「○○学」というひとつの領域の学的な知識の全体としてまとめ上げられる。そして、彼は、知の性格や対象の相違に基づいて分類を行ったが、それは現代の学問分野の区分に至るものだ。このような知の区分ということは、当時の文化では革新的であった。彼によって自然的な世界の認識と実践的な知識が区分された。例えば、自然の真理が個人の倫理に結びつくと言うことに対して、彼が両者を切断したのだ。人間の行為の倫理性は、生物としてのヒトの生態とは独立であり、後者の知見によって脅かされることのない独自のものであるとしたのだ。
 まとめるとこうなる。“人間は知を希求し、そしてその知的能力は信頼するに値する。それゆえ、得られる情報やさまざまな先行見解を十分に収集し参考にすべきである。そしてその探究は、事実や現象の存在を把握する「ことの知」からその原因や根拠を説明する「なぜの知」へと向かう。さらに、その知の行程と構造は「論証」のかたちに表現可能である。そのようにして成立する学的知識は、それぞれに固有の基礎措定にもとづいて成立し、他の知識による正当化に依存することのない、自律的な性格を持つ。”
 ここまでが、知的探求の一般的枠組み、次からは個別的方法論を、それぞれの領域で見ていく。最初は倫理学から。

2023年7月 3日 (月)

中畑正志「アリストテレスの哲学」

11114_20230703213001  プラトンは『饗宴』などの対話篇や『ソクラテスの弁明』といったものを、哲学入門編だったり、ドラマや小説のようなものだったりして、高校生のころから親しんだりした。これに対して、アリストテレスは、著作に直接触れることなく縁遠い存在。著者も“プラトンの対話篇からアリストテレスの著作へと読み進めるなら、イサリス川のほとりでの生き生きとした対話から薄暗い教室での講義の場に移動したような気がする”と親しみにくさを書いている。アリストテレスの著作の多くは、講義のためのノートのようなもので、プラトンのような読者に向けて書かれたものではなかったという。
 しかし、アリストテレスこそが、私が日本語を意識していないように、哲学においてもはや無意識のうちに、目に見えないものを作った人なのだと言う。例えば、彼が作りだした概念には、本質、カテゴリー、あるいは対概念として個別/普遍、可能/現実、理論/実践、主語/述語といったもの。そしてまた、哲学書の著述で一般的な様々な見解を粘り強く吟味し批判した上で、自分自身の見解を論拠に基づいて構築する論証という方法(メソッドという概念もアリストテレスがつくった)も、アリストテレスが確立した。本書は、アリストテレスのこういうところが、どのように形づくられたかということ。そしてまた、彼の頃に比べて、現代では変質してしまったものも多々あり、それが彼に対する誤解を招いているのだが、それをルーツに遡って明らかにしていく。それが、とても面白い。発見の歓びに満ちている。岩波新書で○○の哲学というと、哲学者の伝記とか時代環境から始めたりするのだが、それはすっ飛ばして、補遺で申し訳程度に扱っているのもいい。

 

« 2023年6月 | トップページ | 2023年8月 »