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2023年8月

2023年8月31日 (木)

斎藤慶典「『東洋』哲学の根本問題─あるいは井筒俊彦」(8)~第Ⅲ章 b)〈いま・ここで=現に〉

 ここではまず、なぜかすべてが何か存在者として「ある(存在)」ことが我々の現実のそれ以上遡れない端緒であることを再確認することから出発する。
 前章でとりあげたバスターミーには、もうひとつ注目すべき論点がある。それは「ある(存在)」ということの独一性をめぐる議論である。私が、自己に属すると考えられるもの(属性)を剥ぎ取り、我の絶対的な純粋本性を求め、ついに我の無化に至るという。この私の無は端的な「ある」のことだから「空」ということになる。そのような絶対純粋な「ある」における我が「独一性」すなわち言葉の厳密な意味で〈ある=存在〉という唯一のものとされる。したがって、私は常にさまざまな属性と共にあるが、そのような属性を具えた人物が私でなければならなかった理由はない。この時の私は、そのような諸属性とは別の次元に位置しているということができる。この私は端的な「がある=存在」であり、それが絶対純粋な「ある」における私だ。これを臨済では「無位の真人」と呼び、端的にしてすべての源泉として「ある」としている。インド哲学では、それはブラフマンに重なる。ブラフマンは絶対に取り消されることのあり得ない者とされている。この規定は、幻影と訳されるマーヤーが取り消し可能であることと対比される。つまり、私たちがこの世界で出会う、諸々の名と形を具えた事物や事象は取り消し可能であるのに対して、その源泉である「ある」は取消不可能というわけだ。この取消不可能は、あのデカルトが方法的懐疑の末に辿り着いた「疑いえないもの」に重なる。デカルトにとって、それは「〈いま・ここで=現に〉私に対して何かがそのようなものとして姿を現わしているということ、そのこと」だった。このとき私に対して姿を現わしている当のものは、それが表われている通りのものであるかどうかは疑いうるのに対して、〈現に〉それがそのようなものとして姿を現わしていること、そのことは疑うことができない。すなわち取消不可能。この取消不可能なものの唯一性は、世界は絶えず一から創造されるような仕方で成り立っているという創造不断論の上では、さらに明確になる。世界は、その都度新しく創造される。いわゆる刹那ということだ。そのつば世界が創造されるというのは、前の世界は失われる。そのあと創造される世界は失われた世界が蘇るのではなく、新たな世界が創造される。したがって、失われた世界は「空」という同一者に還帰するのか、永遠に失われる、すなわち「無」に帰するのか分からないこのようにして、その都度現に姿を現わしては消えていく世界の、その〈現に〉ということの唯一性は、可能性の内で存立し続ける。この可能性の内に姿を現わしたのが、フゥィーヤとしての「存在」なのである。フゥィーヤは〈いま・ここで=現に〉ということだ。そこからすべてが始まるのだから。それは、何の根拠もなしに〈ただ(端的に)「ある」〉。もし、そうだとすると、その都度〈現に〉そうで「ある」ことを証言できるのは、それに立ち会った者だけだということなる。そこで唯一確かなことは、少なくとも私は立ち会っているということだ。このとき、「そうです」という証言は、どこから、どこに向けて行われるのか、というと。それは、そうで「ある」ことに向けて、としか言いようがない。それ以外のものは何もないからだ。すなわと「無」に向かって証言している、ということなのだ。
このその都度新たに世界が創造されるという創造不断論について、それは私たちにとって時間は連続的であり、その連続する時間のなかで同一のものが一定期間存続しては消え去っていくようにみえる。それは錯覚で、同じように見えて、実は別のもので、それを井筒は非連続的存在の単位の連鎖と説明している。何かが「ある=存在する」とは当の何かが時間の変転の中で同一であり続けるということではなく、その都度のときごとにその何かが姿を現わしては消えてゆくということだ。
 そして、瞬間ごとの世界の生起と同時に起こる無への還帰を、井筒は「無分節化」すなわち「空」への還帰として捉えている。そこで引っ張り出されるののは道元の「吾有時」という思想だ。何かが何かとして姿を現わす以前の、未だ無限定態にとどまる「空」という〈存在エネルギーの充満状態〉の内に、およそ存在しうるすべてが孕まれている。その図像化が胎蔵界曼荼羅だった。この「空」が限定を被って「何」かとして姿を現わすのは、その都度の瞬間においてだった。すなわち、時間の中ではじめて何かが存在するところのものとして姿を現わす。これが「性起」だった。このようにして成立する時間フィールとの中心に位置するのが「我=私」である。非時間的なものを時間的なものへと展開させるのである。
 この「我」とは誰のことか、それが独一的なものバスターミーであり、それが「私」の下で〈いま・ここで=現に〉生起している。この独一的なものは、たちどころに失われ、別のそれに取って替わられる。そこで、この現実の根本を成している「存在」と「時間」と「私」は同一の事態である。

 

2023年8月30日 (水)

斎藤慶典「『東洋』哲学の根本問題─あるいは井筒俊彦」(7)~第Ⅲ章 〈いま・ここで=現に〉 a)「本質(マーヒーヤ)」と「存在(フウィーヤ)」

 井筒「東洋」哲学の最終的な到達地点を確定し、同時にそれが孕む問題を明示する。具体的には、その到達地点において見据えられていた問題をあらためて定式化し直し、その問題に応ずるために進むべき、ないし進みうる途筋を呈示する。

a)「本質(マーヒーヤ)」と「存在(フウィーヤ)」
 西洋中世スコラ哲学を騒がせた「存在の偶有性」のテーゼがその提唱者である11世紀イスラームのイブン・シーナ(アヴィセンナ)において、正確には何を問題としていたのかを、井筒に従って解明することから始まる。シーナの「存在は本質の偶有である」という命題は、真に実在しているのは「本質」なのか「存在」なのかという中世のスコラ哲学で大きな論争を引き起こした。井筒は、この論争はシーナに対する誤解が生んだという。トマス・アクィナスをはじめとするスコラ哲学者たちは「偶有」を範疇的偶有の意味として受け取った。これは、白さとか赤さなどのように、花のような実体に外から偶有してその花に宿る属性のことで、白はそれ自身として現実には存在しえないが花という白が現われる場所(基体)を必要とする。これに対して、花はそれ自身で、つまり白がなくても存在する。しかし、「存在は本質の偶有である」というのだから、白という偶有、つまり存在はなくて、花が存在するということになる。これは矛盾だ。これは、本質というものが、まだ存在しないうちから外界に存立し、そこに存在が宿るという考えに基づいている。これは、本質が存在しているということに他ならない。
 では、シーナはもともと、どう考えていたのか。偶有としての存在は、他の偶有とは異なる。他の偶有はそれの宿る基体があってはじめて場所を見出すのに対して、偶有としての存在は、偶有なのに基体に先行する。
 そこから井筒は、まず存在のみがあり、それが本質によって様々に限定される。というより、存在が自身を限定して顕現する、と結論付ける。井筒は、偶有を抽象的な概念操作により本質と存在が分離され、その分離された本質を可能的存在者として捉え直した時はじめて、その本質に存在が偶有するという。そんな面倒な概念操作の結果が偶有ならば、無とか空といった概念化以前の在るという話と関係ないのではないかと著者は言う。井筒は存在の概念と存在のリアリティーにわけて、存在のリアリティーの問題だとする。著者は、そんなことをすると、肝心の偶有性は重要でなくなるのではないかと指摘する。本質の側から眺めれば存在は偶有だが、存在の側から捉えれば(存在というリアリティーでは)そうではないということになるからだ。 
 何か、このあたりの議論、イメージできないというか、言葉遊びに見えてくる。「存在は本質の偶有である」という命題の読みについて、素直でないというか、やたらとこねくり回していて、わざとらしいというか、そんなことやっているから、際限のない議論になってしまうんだよと言いたくなる。偶有って、必ずそうだとはかぎらず、そうかもしれないし、そうでないかもしれないという意味合いでしょ。
 著者は、シーナの存在の偶有性について、次のように解釈する。我々の現実では、何かが何かとして現象することで成り立っているこの世界では、「がある」(存在)は「である」(本質)と切り離すことができない。何か「である」ことなしに、何か「がある」というわけにはいかない。総じて「がある」(存在)ということは、それだけで意味をもつということはない。しかし、そうであるにもかかわらず、その「何である」その「何か」は、必ずしもそれでなければならないわけではなく、別のものであってもよいし、現に別のものでもありうる。そうであるなら、その限りで「何かである」こと(本質)と「何かがある」こと(存在)と切り離される。この場合、「何かがある」の「何か」は、その当のもの「がある」こと自体を規定するわけではない。「がある」というその当のもの、すなわち「何か」は何であってもよい。これは、「存在」の根ざす次元が「本質」の存立する次元と異なることを、そして「本質」の方は何であってもよいかぎりでそれに「存在」が先行することを意味する。しかも、この次元では、「存在」に先行するものは何もない。
 ということで、イブン・シーナは、「存在」のこの特異な異次元性と根底性を発見したのであり、さきの「存在は本質の偶有である」という命題は、その宣言ということができる。
 「存在」のこのような先行するものがない次元は、この現実のこれ以上遡ることができない根底であり、それに先行するものは何もない。すなわち、それは「無」ということだ。思考が「存在」の異次元性と根底性を発見したことで、思考は同時に「無」ということが可能であることに開かれる、つまり気がつく。つまり、なぜかすべては「ある(存在)」のであって、「ない(無)」ではないということに思い至る。そしてこのとき、このなぜかに答えはないこともまた、明らかになる。かりに、このことを納得させてくれる根拠(原因)が見いだされたとすれば、その根拠は既に存在している何ものかということになる。「存在」が何かによって引き起こされたのだとすると、その引き起こした何かは「存在」に先行して存在していなければならない。これは背理だ。こうして、この次元では、「存在」には根拠がない。この根拠のないということが、イブン・シーナのいう「偶有性」ということなのだ。存在の根拠がないから分からない、それは神秘であるとも言える。それをなぜか分からないが、偶々存在しているとしか言いようがない。そして本質も根拠の一形態なのである。
 そこで西洋中世の範疇的偶有に戻る、花が白かったり赤かったりすることには、それなりの理由、原因がある。だから神秘ではない。
 一方で、井筒は老荘思想や大乗仏教のような、「本質」によって分節化される以前の「混沌」や「空」といった無限定な「存在」こそが世界の実相であるという、シーナの有「本質」論に対しての無「本質」論を盛んに取り上げる。そうなると、この相対立するような「本質」論を並べてどうなるのか、井筒は議論を進めようとはしない。そこで、著者は、そのヒントとなりそうなものを本居宣長についての議論から考える。
宣長は抽象的概念・普遍者としての「本質」を「からごころ」として徹底的に排し、物にじかに触れる、そしてじかに触れることによって、一挙にその物の心を、外側からではなく内側からつかむことを説いた。それが「もののあはれ」を知ることであり、それこそが一切の事物の唯一の正しい認識方法だと言う。つまり、「何か」をその「何か」たらしめているものは、抽象的な概念規定ではなく、当のそのものにじかに接することではじめて得られる。井筒は、これを人が原初的邂逅によって見出すままの事物の、濃密な個体的実在の結晶としての「本質」と呼び、人間の意識の分節機能によって普遍化され、概念化された「本質」と対置する。言い換えると、実在界の次元に成立する個体的本質と事実界の次元に成立する普遍的本質という。
 ここで、本質をこの二つに分けて議論するイスラーム哲学に移る。彼は、前者をフゥィーヤ、後者をマーヒーヤと呼ぶ。この区別を踏まえた上で、あるものを真にそのものたらしめているいるのはどちらかが争われることになる。さきのイブン・シーナはあるものを真にそのものたらしめるにはマーヒーヤが決定的に重要だが、それにとどまらず、さらにその手前にそれ自体としてはまだ普遍的でも個体的でもない、いわば前普遍的「本質」、つまり普遍に限定される以前の根源的な「本質」を想定しタビーアと呼んだ。このタビーアことがあるものをあるものたらしめる。では、それはいったい何かについてシーナは説明していない。
 話は俳人の松尾芭蕉にとぶ。松の松たる所以、すなわち松の「本質」を芭蕉は「本情」と呼ぶ。この「本情」は日常の意識には表われてこない。「本情」に達するには、物を私の外に見る意識を離れて、「物に応じ」「物に入る」のでなければならない。そういう俳諧論を個物の実在性を直視する、言い換えればマーヒーヤがフウィーヤへの転換を、イブン・シーナが普遍者でもない個体でもない究極の実在であるタビーアであると井筒は捉えた。しかし、著者は、シーナと芭蕉は違うのではないかという。芭蕉は個物を見ろと言っているのだし、シーナはどっちでもないと言っているのだから。むしろ、ふたつの本質について、著者は、転換というのではなく、両者が重なり合って新たな次元が開かれたのではないかという。それは、井筒自身も、「本質」が「透明」になることと捉えていたはずという。
 しかし、井筒は『意識と本質』において、そのような方向に進まず、マーヒーヤかフウィーヤかの二者択一図式の末で議論を進ませる。
以下の細かな議論はスルーする。

2023年8月29日 (火)

斎藤慶典「『東洋』哲学の根本問題─あるいは井筒俊彦」(6)~第Ⅱ章  b)空と無

 これまでの議論では、端的な「無」は視野に入ってこなかった。しかし、このような無視のままでは、なぜ私たちの現実は絶えず何かが存在するものとして姿を現わしてやむことがないのを思考することはできない。なぜ「存在」であって「無」ではないのかを考えることはできない。そこで、この問題の前で立ちどまった可能性のある9世紀イスラームの神秘家バスターミーの議論を検討しようとする。
 まず、井筒が『意識の形而上学』で『大乗起源論』に依拠して行っている「アラヤ識」の議論を紹介する。『大乗起源論』では、すべての根幹をなす「心」が二つの部分を有しているという。「心」とは、すべてが、全世界がそこにおいて姿を現わす場所のことだった。ここでは、「真如」と呼ばれる存在の窮極相を「心」と同定する。そして、この「心」は「A 心真如」と「B 心生滅」という二つの部分から成っている。前者は、世界の根本を絶対無分節、未現象的なものと認識する意識であり、後者は、世界を瞬時もやまず起滅する有分節的、現象的なものと認識する意識である。分節化されて姿を現わす存在者は、それが「心 真如」の現われであるかぎりで「真」とされる。このことを可能とする場がアラヤ識なのだ。このようにアラヤ識が「心 真如」の次元に位置することで、そのアラヤ識を通じて分節化され・現象したすべてが「心 真如」の現われであるということになる。こうしてAとBという相対峙する存在次元が相互浸透的につながれる。『意識の形而上学』では、こうして分節化されて姿を現わしてくる存在者の実在性(真性)を肯定する。
 次の取り上げられるのが、ユダヤ教のカッバーラーだ。井筒は『旧約聖書』とカッバーラーを比較する。『旧約聖書』では、まず神が在って、そのまわりの何もない虚空に世界という存在が神によって創造される。ここでは存在自体はすでに神の下で確保されており、新しいものが追加されたわけではない。ここには「無」は見られない。神の存在から世界の存在へと移行したというわけ。これに対して、カッバーラーでは、神そのものの内部に「無」を見る。言い換えると、神という存在の底が抜けている。その「無」の中から、神も存在に至る。無は神の内部にあって、その無が有に転換する。それが創造の始まりであり、この神の内部における無から有への転換点がコトバなのである。カッバーラーにおいても、この「無」は、その内に「有」への動向を宿したものと言える。この「無」をカッバーラーは無限定と捉える。ここでも、イスラームの存在一性論と同じ時代が生じている。
 そこで注目するのは、バスターミーの議論である。バスターミーはインド哲学の、個的人間の主体性(アートマン)は、その存在の極処において、全宇宙の究極的根底であるブラフマンと完全に一致する、を受けて、これを「聖なる独一性」と呼ぶ。このような、私と神が一致してしまうこの境地では、人称の区別が攪乱され、何を指しているかが定かでなくなる。「私」は、世界の中に他人と並んで存在している1人の人物としてのバスターミーではないということだけが確かなのだ。絶対的独存性の有は無(バスターミーは欺瞞と呼ぶ)なのだ。これは、端的にして究極の「ある」が現にそのようにして「ある」ということには、いかなる根拠もないからだ。何の根拠もなく、それが「ある」に過ぎないのなら、それはなくてもよかった。つまり「無」だ。なくてもよかったと言うばかりでなく、それは「あった」と思ったらもう失われてしまって、もはや「ない」。なぜか新たな「ある」が現に姿を見せるが、その「ある」についても事情は同じだ。やっぱり、それももはや「ない」。そうであってみれば、本当は何も「ない=無」であって、何かが「ある」というのは錯覚つまり欺瞞にすぎないのではないか、というわけだ。このような考えることができるならば、そのとき思考の面前に姿を現わした「ない=無」は、限定されて何とかして姿を現わした個々の存在するものが、その限定を失うことで「無に帰する」、すなわち無限定なものに還るという「無」とは決定的に異なる。後者は無限定であるとはいえ「ある」への動向を宿した、いわば存在エネルギーと呼ぶものだ。これに対して前者は存在への動向すらないという事態だ。この事態は、もはや思考にとって理解を絶した事態であると言わねばならない。理解とは根拠を捉えることで為される思考の営みだからだ。後者の無となってはじめて理解可能となる。思考は、先へ進むことができないので、そこで折り返すほかない。そこからイスラームの絶対的帰依が始まるというわけだ。もはや、畏れと感謝しかない。これは、インド哲学の伝統からは逸脱している。これを井筒は、バスターミーはインド哲学の枠組みを越えて新たな次元に達したと見る。伝統的な東洋哲学において曖昧なままにとどまっている「空」と「無」の決定的差異が見て取れるかもしれないからである。
 そして、著者は思考の無能力という観点からプロティノスとイブン・アラビーの議論を取り上げる。まず、プロティノスは、思考が最終的に逢着した次元にはもはや理解可能ないかなる名前もないとして、一旦はそれを「かのもの」という指示代名詞で表わした。これは、かつてアリストテレスが「第一の存在者」として万物の原因として者ですらなく、それに先だつものだとされる。それはもはや「存在」ではない。ということは「無」であることに他ならない。しかし、井筒は、それを即座に思惟でありすぎる、その有り余った力の漲溢と捉え直している。こうして「無」は「存在」の側に回収される。このことを可能にしている上からの視点は神秘体験によって得られる。この回収は、思考を有効に機能させる基本法則のひとつといってよい因果法則が適用されることで為されている。しかし、「かのもの」が思考不能なものなら、因果律を適用することは出来ないはずだ。「かのもの」と指示代名詞にして名前をつけないのは、そうしてしまうと、思考は思考し得ないはずの「かのもの」を思考してしまう。そりは、認識困難なはずの「かのもの」が、困難であって不可能ではないから認識可能ということになってしまう。「かのもの」は知ることができないのだから、そこで思考にのこされたものは、「かのもの」について思考することではない。それに「かのもの」という仮でも名をつけ、それについて思考してしまったところにプロティノスの誤りがあったと井筒は指摘する。
 これに対して、イブン・アラビーの場合を見てみる。アラビーもプロティノスと同じようなところから、「非有=無」に関わろうとせず、思考を差し向けない。プロティノスのように強いて思考してしまうと、思考されたものは無ではなくて有になってしまう。だから、それを思考すること、それについて思考することは出来ない。アラビーは、そこで、それを護るのが思考以外にないという。護るとは、例えば、進行あるいは謳うなどがあるが、アラビーは思考固有の仕方で護ることができるという。思考は、思考し得ないものに直面したなら、それにどのように応じたらよいか、それとどのような関係取り結ぶことができるのかについて、なお思考することができる。

2023年8月28日 (月)

斎藤慶典「『東洋』哲学の根本問題─あるいは井筒俊彦」(5)~第Ⅱ章 空/無 a)「空」の徹底

 「空」と「無」のそれぞれがいったいどんな事態なのかを立ち入って検討する。まずは、井筒の「空」論の徹底の過程を追う。
まずは、イブン・アラビーの存在一性論を「空」論として見ていく。華厳では「真空」は絶対的に無限定なものであるかぎり「無」であるが、それが限定されることで存在者が存在を表わすので、それは存在エネルギーと言える。これに対してアラビーは、「ある」=存在の前(奥)に「無」が位置すると考える。この位置はヌズールを表わす三角形の頂点「アハド」に該当するが、それはもはや存在ではない。このように徹底的に無化した神が自らを意識すると、はじめて存在が兆す。このとき神の内部に映し出された神の最初の姿が、「アッラー」という神の名であるという。これは神の自己意識の中の出来事だから、「アッラー」という名は神にしか聞こえない。このように神がおのれを分節したとき存在の最初の一歩が踏み出される。でもね、神の自己意識の内部で神しか分からないことを、どうしてアラビーが説明できるの?これって想像→妄想じゃない?でも、この「アッラー」は華厳の言う「妙有」なのだと井筒は言う。他でも言っているから、そうなんじゃないの?っていわけか。ということで、井筒は、これらを同じだからとまとめてしまって、「絶対的無分節」と言い換える。この場合、無分節であってもすでに存在、つまり分節化以前の存在エネルギーの塊なのか、それですらない絶対的な無なのか、その区別がつかない。それは、アラビーの概念にそういうところがある。さて、最初の神の名「アッラー」は、それが名である以上ひとつの分節であり、それを以って存在者として洗われたわけだが、その内部では何も分節されていない状態だから無分節である「妙有」の第一の階層であるという。このような無分節的理が様々に内部分裂することによって現出する分節的理が、「アッラー」から発出する「妙有」の第2の階層と考えられる。これは、言語アラヤ識の領域である。華厳では曼荼羅として提示する。イスラー神学では無相のコトバからアラビア文字の32のアルファベットが発出し、これらのアルファベットの組み合わせによって有意味な名が出現してくるというが、これがこの階層にあたる。
 このようにして華厳と存在一性論とが、ただ並行して展開する二つの哲学体系として、独立に存在するだけではなく、両者はヴァリアントとして包含するような根源的な東洋思想の構造が存在している。それを示しているのか井筒となる。そうなると彼はコーディネーターなんだね。
そして、究極の地点から存在の途にまい進するプロセスを述べる。『荘子』の「混沌」が存在エネルギーに充ち満ちた状態で、この「混沌」の更に先に位置づけられる『老子』の「無」は、基本的には「無分節者」である。この場合もそうだが、井筒は端的に何もないという無と無分節を同一視する。大乗仏教の「空」、ヴェーダンタの「無相ブラフマン」、イスラームの「絶対的一」などと構造的同一だと断じてしまうのも、それ故だ。無分節と未分化はは決して同じ事態ではないはずだか、前者から後者への移行は間髪を入れないので、もはや重複している。未分化は分化を暗黙の前提としている表現であり、それと重複している無は、そこから分化のよる存在者の現出は当然ということになっている。だから、どうしてという根拠は示されない、ということか。
 井筒が考えようとしているのは存在喚起機能の側面から見たかぎりでの「空」とか「無」ということだ。つまり、存在への動向で充ち溢れた「空」であり、その中に「無」という異次元への突破口が隠れている可能性には気づいていない。井筒の主たる関心は絶対無分節から分節への移行なのだということ。つまり、移行ありきで議論が作られている。端的な「無」は彼の視野に入ってこない。したがって、ここでの「心」とは、そこらおいて「無」から「存在」へと躍入する場所で、「空」と地続きなのだ。栄西は、「心」が広大無辺な世界のすべてをその内に包んでさらに無限に拡がっているさまを高らかに歌い上げている。

2023年8月27日 (日)

斎藤慶典「『東洋』哲学の根本問題─あるいは井筒俊彦」(4)~第1章 b)深層から表層へ

 この問題について、井筒が持ち出すのが華厳である。アラヤ識はおのれを「空」化することにより最終的な境地に達した。華厳によれば、その「空」の境地には「真空」と「妙有」という二つの側面がある。「真空」は「無」の側面を、「妙有」は「有=存在」の側面を表わす。華厳哲学は、両者を対立的に位置づけ、とくに後者の立場をとる。そして、「有」的原理に転換した「空」を「理」と呼び、この「理」をめぐる存在論的思索が華厳哲学の本領である。一方、「真空」の側面は、「理」における「空」の否定的契機として存在論的無分節という形で保持される。この無分節は存在への動向を内に宿したもの、言い換えるとある種のエネルギーとして「理」的論理で捉えられる。それゆえ、無分節は分節可能性ということになる。「無」を「有」への動向を含んだものとしておのれの内に蔵する「理」は一種の力動的、形而上的創造力と解される。このように「理」的観点から捉えられた「空」は、存在者としておのれを顕現させる一種の力、エネルギーの塊のようなものとしてイメージされる。
 この文章を読んでいると、概念の意味合いが変化していっていることについていけなくなる。例えば、「空」は状態を指しているはずが、それ自体が存在者として動きを内蔵していて、自ら動くように語られる。そうすると、「空」って何?と分からなくなる。イメージできなくなる。それよりも、「空」という言葉が勝手に動き出して抑えが利かなくなって、井筒が翻弄されていて、本人が、それを凄いと勘違いしているように見えてくる。無と有だって、分節があるかないかであって、単に表われ方の違いっていう説明だったじゃない。それが顕現させる力って、分節するのは人でしょ。物に力があるの?なんか議論が整理されていない、行き当たりばったり。それでの印象は、「コイツ、何もわかってないし、それに気づいてない」だ。そういう疑念を提起させているのだ、これは。
 説明は跳んで、イスラームのアラビーの存在を存在エネルギーと言っているのに、重ね合わせる。そのエネルギーが劣り出ていないから「無」なのだ、と。そして、存在に向けて動き始めるとアラヤ識が起動するという。アラヤ識って場でしょ?それが自立的に機動する?
この存在エネルギーが現象する世界を充たしている。この無限定な存在エネルギーが限定されたものが分節なのだという。ここまでくると、whyやhowは無視されて、こうなのだから仕方ないだろう、そのまま分かれと言われているに等しい。信仰と似たり寄ったりだ。
 「ものには自性はないけれど、しかもものとものとの間には区別がある」この視点で、深層から表層に還帰した。これを禅では、分節Ⅰでは世界はたんに「事」(ものとものとの間には区別がある)として見られているが、その実相を凝視する─瞑想(禅では只管打坐)、により「無」であることが感じられ、この地点から世界を見た時、「事」と見えたものの背後が透けてくる。そこに「空」が重なる。このように世界を見ることが分節Ⅱだ。そのときには、各々の事の背後に無分節を見て取ることができる。ここでは、存在者は互いに透明である。道元によれば、分節化されて姿を現わしている「事」は本質によって自在として固定されない。それは、私たちは、それに囚われる必要がない。井筒は、これを自由と呼んだ。
 一方、華厳は、「空」が「事」として姿を現わす、「理」の「事」的顕現を「性起」、「挙体性起」と呼ぶ。事物には自性はないが、事物相互の間には区別がある。この区別はすべてのものが全体的連関においてのみ存在しているという。例えば、AというもののAとしての存立には、BもCもその他あらゆるものが関わっている。このような「挙体性起」が世界の実相であるなら、一つの事物の内には、他のすべてが含まれていなければならないことになる。つまり、すべてのものが、同時に、全体的に現起する。これを華厳では「縁起」と呼ぶ。ということは、性起と縁起はほとんど同じ事態を表わしている。
 さて、このように姿を現わした存在者たちの間にどのような関係を見て取ることができるか。それは、これまで見てきた区別はありながらも、その背後が透けているが故に区別そのものも透けているという意味の関係ではなく、多種多様な存在者たちがすべて横並びなのか、それらの間にある種の階層があるのか、という意味での関係である。井筒はここで、古代ギリシャの新プラトン主義の流れを汲むイスラームの存在一性論に着目する。華厳と同じように表層から深層への方向と深層から表層への方向があり、前者をスウード、後者をヌズールと呼ぶ。そして、ヌズールは拡散の方向で階層を成している。図にすると大きな三角形のなかで底辺に並行な層がつくられているイメージで、頂点に位置するのが絶対的一者(アハド)で、それに続く層が最深奥の領域アハディーヤと呼ばれ、真空から妙有に向かう存在的衝迫(存在エネルギー)が充満している。続く第二層では、アハディーヤでは動向にとどまっていたものが顕在化に至る。これをワーヒドと呼ぶ。これは、空海の「阿」の教説にあてはまる。「阿」は、存在への動向ではち切れんばかりになりながらも未だ無分節の状態にとどまっている「無=真空」が突破され、最初に「存在=妙有」へと立ち出でたものにほかならない。いまだ内に秘められ・閉じ込められていたものが、今や破られて最初の開口部が発する音が「ア」だ。第三層は第二層に続いて、さまざまな個別的存在者(多者)が現実的に姿を現わす領域でガスラと呼ばれる。これが私たちの世界のことだ。これらを全体としてみると、世界が存在に至るまでの過程に明白な階層性を認めて議論が構築されているのだ。この階層性は、基本的に、先立つ階層から次の階層が発出するという関係にある。しかし、それだけ、つまり一方的ではない。井筒は現象学的な言語学を持ち出す。先行する知覚的分節は、その後に言語的分節が成立すると、その知覚の作用そのものの中に言語が範疇的に、あるいは第一分節的に入り込んできて、はじめからその構造を規定されるようになる。例えば、雪国に暮らす人はたくさんの雪に関する語彙を持っていて、その言葉があるだけ、違う雪が見えるのだ。このように階層の後行の階層が先行する階層に介入し、その在り方に変化をもたらしている。
 井筒は、このように、上下、あるいは先行と後行の関係に立つ二つの階層に属する存在者間に、一方的な関係ではなく双方向的な関係を認めるのみならず、その双方向的な関係の内実が異なるという。すなわち、上の階層は下の階層に支えられなくては存立し得ないが、下の階層は上の階層に含まれることでおのれを新たな仕方で維持する。前記の知覚と言語の関係のように、知覚世界という下の階層に支えられて、その上に言語的な分節が為される余地が生ずる。何かが見えてはじめて、それを「雪」として「雨」とも「霧」とも区別することができるのだし、さらにはそれを「粉雪」と「ざらめ雪」と「ぼた雪」…と区別する余地が生ずる。何も見えなくてはそもそも区別ができないし、区別の妥当性を問うこともできない。ところがその知覚はひとたびそれに支えられて言語の階層が成立したときには、いまや最初から言語によって規定されることになる。その知覚の中に言語が入り込んで、はしめから規定している。そこに見えているのは「ざらめ雪」以外ではない。これが、知覚が言語に含まれるということに他ならない。これをメルロ=ポンティによる「基付け」関係と呼ぶ。

2023年8月25日 (金)

斎藤慶典「『東洋』哲学の根本問題─あるいは井筒俊彦」(3)~第1章 表層/深層 a)表層から深層へ

 井筒の哲学のキーとなる用語にカタカナ書きの「コトバ」というのがある。これは、世界を有意味な単位に「分節化」する機能のことだ。つまり「コトバ」とは、世界をそれぞれの意味ごとに区切ることによって、そこで区切られたものを明確な輪郭の下に浮かび上がらせる機能のことだ。ここで、あえてカタカナの「コトバ」としているのは、我々が日常使用している日本語とか英語といった言語に限定されないためだ。そこには、言語に結びつかない分節があるということを前提されている。例えば、言語を持たない動物も、世界を敵とそうでないものに分節する。一方で、そもそも「分節する」というのは、言語意味的な行為で、人が実在の世界に対して言語という歴史的、文化的パターンで規定する。このように、分節化と言語の関係を、井筒は明確にしていない。それは、彼が分節化を潜在的で無意識のレベルと顕在的で意識的なレベルの二つの次元にわたって捉えていたからだろうと著者は推測する。この二つのレベルは前述の二つの例のそれぞれに当てはまると思う。一方、生物以外の存在者、例えば路傍の小石や小川の水などの無機物は、ただ「ある」という「物それ自体」で分節されるもの。古代インドのヴェーダンタ哲学で「基体」と呼ばれる。これは、意識が志向的になる対象ということか?これが、仏教の唯識派では分節化はすべて「識」つまり、無意識・下意識を含めた広義の意識に由来する。このように、この著作では、井筒の著作や論文から古今東西の文献の引用を紹介し、彼がさまざまなところかに引用していることを紹介する。これを見ていると、井筒の論というのは、その論が内発的に展開するというのではなくて、仏教ではこう言っているとか、イスラームではこう展開するというように、あちこちから持ってきて、それを追いかけていった結果、こうなったというように見える。だから、結局、井筒の論の展開というか全体像は、絵に描いた餅というか絵空事ではないかという印象を強めることになってゆく。 
 さて、無機物のあり方と比べると、生命というのは、物質交換(新陳代謝)による個体の自己維持と、その維持のための認知によって成立する。つまり、自己維持のために必要なものとそうでないものを見分ける、すなわち認知が生命維持に不可欠なものとして織り込まれている。そうだとすれば、「コトバ」すなわち分節化機能は生命に不可欠なもの。逆に言えば、分節化がないと生命とはいえない。
 では、人間の言語はコトバの一部なのだろうか。世界の分節化は言葉の成立とともに新たな段階を迎える。人間は言語を使用することにより、存在分節とは異質の分節機能を身につけた。それは人間と成ったという言い方があてはまる。ただし、この新たな分節機能は存在分節の組み替え、つまり、存在分節を組み直して取り込んだもので、存在分節との関係を保持している。このような関係を理論化したものとして唯識哲学の阿頼耶識論がある。「コトバ」は阿頼耶識の内にある。井筒は阿頼耶識をアラヤ識と表記しているが、彼は、これを唯識哲学が提示する三層の意識構造モデルのなかの最深層であるという。その三層の意識構造とは次のようなもの
(1)感覚知覚と思惟・想像・感情・意欲などの場所としての表層
(2)一切の経験の実存的中心点としての自我意識からなる中間層
(3)近代心理学が無意識とか下意識とよぶものに該当する深層、これがアラヤ識
 言語アラヤ識は言語化される以前の意味を何らかの仕方で形象化(イマージュ化)したもの(これを唯識では種子という)の溜り場なのだという。
 この深層領域は、個人を超えてひろがる。例えば、日本語の話者は、みな同じ日本語という言語体系を意識の下部に共有していて、その共通の源泉から言語を汲み出してくるから同じ日本語になるというわけ。(ソシュールのラングの概念に近いもの?)そこで活動しているのがイマージュ化して意味としての種子というわけ。その際、イマージュ化した意味に共通する一定の型を不変不動の実在として固定したのが「本質」という概念で、これは井筒のキー概念のひとつだという。井筒は、これを種子という唯識に対応させるだけでなくユングの「原型」にも対応させている。このようにして、アラヤ識このような対応によって、根源的存在分節の場であることが示された一方、アラヤ識において元型によって分節される何ものかがアラヤ識に先だって存在していることが示されたことになる。井筒は唯識やユングの展開に乗っかって、自身の論を展開させているように見える。それは、本書の記述がそのように書かれているからか、井筒の考え方がそうなのか分からないが。
 アラヤ識は無分節なものが最初に分節される場だ。したがって、無分節からの通路がアラヤ識の内に隠されている。私たちはこの通路を抜けてその先へ行こうとする。それは、実際には、この世界の実相を見詰めることによって為されるという。この凝視を東洋哲学では観照とか観想と呼び、古代ギリシャ語ではテオリアで、これはセオリー(理論)の原語だ。だから、理論とは、この世界が本当のところどのような在りようをしているかの理解のことだ。古来、人々はこの理解を心の眼を鍛えることによって獲得しようとしてきた。その前提には、世界の実相は普段見えているそれとは違うものだという可能性、それへの気づきがある。これが哲学の原点といえる。人を思考へと促す驚きとは、現に見えている世界がそうではないかもしれないことに気づいたときに、その人に訪れるものなのだ。東洋哲学では、世界が異なる相貌の下に現われるに出会った状態を、三昧と呼ぶ。
 その三昧について、井筒はつぎのように言う。三昧になると、私たちの日頃見慣れた世界では、物はそれぞれ他の物と区別されて、それ自体で確固として存在しているように見えるのが、物の区別の境界が曖昧になり、すべてが渾然たる一体と化す。さらに、曖昧になった境界は消失し、すべては一と化してしまう。この一の内部を区切る境界はないのだから、見えるものは何もない。「無」だという。何も見えないのだから、意識は意識たり得ない。意識自体が消滅する。これを井筒は共時的構造化として、さまざまな呼称を紹介する。例えば、老荘の「道」、易の「大極」、大乗仏教の「真如」「空」、スーフィズムの「ハック」、イブン・アラビーの「存在」、彼自身は「意識と実在=存在のゼロポイント」と呼ぶ。
 イブン・アラビーは、ここではもはや何ものも存在しないのだから、それは絶対無、だが存在と呼んでいる。それは、絶対無がそこからすべての存在するものが姿を現わすことになる究極の地点だから、「ある=存在」ということの根本がそこに隠れている存在の源泉だから。つまり、絶対無は単に何もないというのではなく、その内にあらゆる存在を生みだす活力を秘めた充実体、そこから存在を生みださずにはいない充溢だという。これは、仏教の「空」にも通ずる。
 これを読んでいると、どうしてそうなっているのかという疑問がわくが、その説明は一切なくて、これが受け入れられないと、この先はついていけなくなる。先人である仏教やイスラム哲学で言っているのだから、とでもいうのかと思ってしまう。これは信仰と同じではないかと思えてくる。
この深層領域は、個人を超えてひろがる。例えば、日本語の話者は、みな同じ日本語という言語体系を意識の下部に共有していて、その共通の源泉から言語を汲み出してくるから同じ日本語になるというわけ。(ソシュールのラングの概念に近いもの?)そこで活動しているのがイマージュ化して意味としての種子というわけ。その際、イマージュ化した意味に共通する一定の型を不変不動の実在として固定したのが「本質」という概念で、これは井筒のキー概念のひとつだという。井筒は、これを種子という唯識に対応させるだけでなくユングの「原型」にも対応させている。このようにして、アラヤ識このような対応によって、根源的存在分節の場であることが示された一方、アラヤ識において元型によって分節される何ものかがアラヤ識に先だって存在していることが示されたことになる。井筒は唯識やユングの展開に乗っかって、自身の論を展開させているように見える。それは、本書の記述がそのように書かれているからか、井筒の考え方がそうなのか分からないが。
アラヤ識は無分節なものが最初に分節される場だ。したがって、無分節からの通路がアラヤ識の内に隠されている。私たちはこの通路を抜けてその先へ行こうとする。それは、実際には、この世界の実相を見詰めることによって為されるという。この凝視を東洋哲学では観照とか観想と呼び、古代ギリシャ語ではテオリアで、これはセオリー(理論)の原語だ。だから、理論とは、この世界が本当のところどのような在りようをしているかの理解のことだ。古来、人々はこの理解を心の眼を鍛えることによって獲得しようとしてきた。その前提には、世界の実相は普段見えているそれとは違うものだという可能性、それへの気づきがある。これが哲学の原点といえる。人を思考へと促す驚きとは、現に見えている世界がそうではないかもしれないことに気づいたときに、その人に訪れるものなのだ。東洋哲学では、世界が異なる相貌の下に現われるに出会った状態を、三昧と呼ぶ。
その三昧について、井筒はつぎのように言う。三昧になると、私たちの日頃見慣れた世界では、物はそれぞれ他の物と区別されて、それ自体で確固として存在しているように見えるのが、物の区別の境界が曖昧になり、すべてが渾然たる一体と化す。さらに、曖昧になった境界は消失し、すべては一と化してしまう。この一の内部を区切る境界はないのだから、見えるものは何もない。「無」だという。何も見えないのだから、意識は意識たり得ない。意識自体が消滅する。これを井筒は共時的構造化として、さまざまな呼称を紹介する。例えば、老荘の「道」、易の「大極」、大乗仏教の「真如」「空」、スーフィズムの「ハック」、イブン・アラビーの「存在」、彼自身は「意識と実在=存在のゼロポイント」と呼ぶ。
 イブン・アラビーは、ここではもはや何ものも存在しないのだから、それは絶対無、だが存在と呼んでいる。それは、絶対無がそこからすべての存在するものが姿を現わすことになる究極の地点だから、「ある=存在」ということの根本がそこに隠れている存在の源泉だから。つまり、絶対無は単に何もないというのではなく、その内にあらゆる存在を生みだす活力を秘めた充実体、そこから存在を生みださずにはいない充溢だという。これは、仏教の「空」にも通ずる。
 これを読んでいると、どうしてそうなっているのかという疑問がわくが、その説明は一切なくて、これが受け入れられないと、この先はついていけなくなる。先人である仏教やイスラム哲学で言っているのだから、とでもいうのかと思ってしまう。これは信仰と同じではないかと思えてくる。
私たちが日常出会っている物や事は、互いに区別されそれ自体で存在している。この物や事を華厳哲学では「事」と呼び、この物や事が持っているそれ自体で存在するという性格を「自性」と呼ぶ。しかし、仏教では、この自性は実在するものでなく、人間の分別意識(仏教では妄念と呼ぶ)の所産にすぎないと考える。つまり、人間が生きて行く必要のためにのみ、物事は私たちの知っているような姿で現われる。他の生物、蟻やアメーバや松の木などが、それぞれの生きて行くのに必要な限りで別の姿で世界が現われる。すなわち、私たちの前に現われているのか、そういうもののワン・オブ・ゼムにすぎないというわけだ。ただ、そこでひとつ確かなことは、それがどんな姿で現われようと、それらの根底に「ある=存在」という事態があるということだ。このようにして、自性の実在性が否定されれば、物や事を区分する境界もないことになる。境界がなければ、事物の区分はなく相互に浸透し合う、つまり溶け合う。これが華厳でいう「事実無碍」である。このような世界に相対する意識は「空」化されている。そういう意識を生みだす場がアラヤ識である。あらゆる存在者の空化とともに意識の空化が起こる。これがアラヤ識の状態で、華厳はそれを「自性清浄心」と呼ぶ。これはイスラーム神秘主義の消滅の消滅であり、井筒は存在の解体と呼ぶ。アラヤ識は自らを空化することにより「無」に接する。その一方で、あらゆる存在はアラヤ識において元型によって分節化されることで姿を現わす。ここで、アラヤ識は「無」と「存在」の狭間に位置している。このようにアラヤ識は、存在と無の中間的ないし矛盾的な性格を持つ。
 このことは仏教の『大乗起源論』でも述べられているが、井筒はその論を利用して次のように論じる。『起源論』は「無」から「存在」への転換、展開、つまり、識が生み出す虚妄にすぎない「存在」から世界の実相である「無」へと還るというだけでなく、「無」から「存在」がアラヤ識を通して姿を現わすという。ここにアラヤ識の矛盾的性格があるというのだ。さらに『起源論』は世界の真実の姿とされる「真如」にも二つの相反する側面を認める。
 問題は、「無」から「存在」へ移行するのはいかにして可能となったのか、その論理である。


 

2023年8月24日 (木)

斎藤慶典「『東洋』哲学の根本問題─あるいは井筒俊彦」(2)~序章 井筒「東洋」哲学

 東洋哲学というと、一般には日本、中国、インドに限定してしまう傾向があった。井筒俊彦はイスラーム学者として著名で、長年イランで研究と教育をしてきた人だ。ということで、彼なら、日本、中国、インドにイスラームを加えるということかというと、実際はそうではない。彼の対象には、ギリシャだった(小)アジアでは広大なロシアにもアジアはある。彼は、現代哲学との交流も少なくなかった。そうしてみると、井筒の東洋哲学研究はその背後にほぼ全世界的かつ全時代的規模の哲学思想を従えているのであり、そこで精錬され取り出された哲学的思惟の構造は背後の思想のひとつの基本形となると言える。それなら、「東洋」と限定する言葉をつける必要はなく、たんに哲学とすればよい。しかし、井筒はあえて「東洋」の語をつけた。それは、従来の哲学が西洋に偏していた偏りを正す意図があった。哲学というと西洋哲学を指し、そうでない場合は、インド哲学とか中国哲学といった限定をするのが一般的だった。このような限定を取り払うために東洋をつけたのだった。それ以上に、井筒には東洋哲学を哲学的思惟の創造的原点とする。つまり、新しい東洋哲学をつくることを目指していた。それは、井筒が語学の天才でもあり、古今東西の膨大な文献を原語で読み解くことができたからこそ、目論むことができたものだった。その際に彼が採った手法が共時的構造化という操作である。それは、「東洋」哲学をその時代的・地域的制約から解放し、その論理的転回の骨格を類型化して一つの構造体として提示することだった。このようにして取り出されたものは、「多極的統一性において構想された一種の東洋的メタ・フィロソフィー」と名づけられた。これを身近な言語である日本語に移す。その結果が、彼の主著である『意識と本質』だったという。
 これって、それらしいことを言っているけれど、西洋に限らずインド、中国、イスラームなど網羅的に有名どころを、時代や地域に根ざした特徴を洗い流して、横並びにして、おいしいところをつまみ食いして、大好きな和風の調味料で仕上げましたということだよね。

2023年8月23日 (水)

斎藤慶典「『東洋』哲学の根本問題─あるいは井筒俊彦」

 5年前に読んだ本の再読。この本については、全く記憶がないので、きっと分からなかったので、読み流してしまったのかもしれない。今回も、分からないと、途中で立ち止まり、結局、分からないまま読み進めたり、少し前に戻って読み直したりした。本人の著作を読んでいて、薄々感じるとこがないでもなかったが、井筒俊彦という人は、物語的にものごとを捉えたり表わしたりする人ではなく、設計図のように見たり表わしたりする人であるということを、この本を読んでいて強く感じた。それは、私には苦手なタイプの人で、英米系の学者にそういう人が少なくなくて、英米系の思想書や哲学書が何となく親しんでいないとこでもあるのだが、井筒もそういうタイプの人で、そういう人に特徴的なところは、ある事柄を説明していて、次の事柄の説明に移るとき、それが唐突に感じられることだ。事柄相互の関係が、よく分からないまま、次の説明に入ってしまうので、そこでついてゆけなくなることが多い。全体としてスタティックと言えるかもしれない。
 また、この本を読んでいると、井筒という人は、たしかに博学で、これだけ多岐にわたるものを渉猟して、それを我が身のとしてしまう尋常でないとこには驚嘆させられるが、結局のところ、彼の著作というのは、その集めたもののいいとこ取りというか、寄せ集めのつまみ食いのようなものに見える。だから、事柄相互の関係がはっきりしないのかもしれない。哲学者というより、哲学学者、もっというと哲学オタクという感じをもった。ただ、そのスケールと量は超人的なんだろうけれど。
 著者は、そういう井筒の、いわばカタログのような思想を、しかもイスラーム無とか仏教とかに仮託されて表わされるものを、西洋哲学のロジックで物語的な筋道をつけようとした。そういうところは、私には分かりそうだったが、かなり無理があったと思う。例えば、華厳とか、それ自体で語られると矛盾ばっかりだから、西洋哲学のロジックで語られると筋道を追いやすくなる。結構、筋道に混乱はあったように見える。たとえば、表層から深層へと考察を深めるのは分かる、しかし、その後、深層から表層に戻ってくるという方向性が唐突で、なぜ?という疑問が湧いてくるのだけれど、その説明は一切なくて、そこでの戸惑いが、その後の説明に疑問ばかりが増えることになる。とかだ。

 

2023年8月21日 (月)

八鍬友広「読み書きの日本史」(6)~第5章 近代学校と読み書き

 近世における読み書きの多様な展開は、幕藩体制下における文書による行政統治を基盤としながらも、民間社会の自発的な活動に支えられていた。公権力は、民衆の読み書きについては禁止も促進もしなかった。いわば、関心がなかった。明治期になると、民衆の教育水準は国家的な関心の対象となる。
 日本における近代学校の設立は1872年の学制によって始まる。この学生発布の前後10年の時期に、空前の規模で学びのキャンペーンが展開された。後に、それは強制を伴う学校への動員となっていく。学問を人々が身を立てるための元手であると言い切り、それゆえ人たるものは誰でも皆、学ばなければならないと説く。また、人が路頭に迷うのは学ばないことによって過ちを起こすからだという。当時のベストセラー『学問のすすめ』と重複する内容で、学問とは、このようなものであることが理解されておらず、武士以上の者がするものと誤解し、農工商および婦女子は学問を度外視していた。一方、学問は国家のためと誤解し、各人が自身の身を立てるために学問をするということが理解されていない。これからは、このような誤解を改め、村に学ばない家が一戸もないようにすることを目指す。それがキャンペーンの内容だった。
 明治政府が、このようなキャンペーンで導入しようとしたのは、近代学校制度だった。その最大の特徴は、身分や職業、性別などと関係なく、あらゆる人が少なくとも初等学校に就学することを前提としているところにある。しかし、それは当時の人々にとって、突如このような制度ができて、子供を学校にいれなくてはならなくなるのは、驚天動地の出来事だったはずだ。多くの子供たちは家の重要な働き手でもあった。その子供が学校に行かなくてはならなくなると、その分の労働力が不足することになる。極めて深刻な事態だった。近代学校制度は歴史上稀に見る労働力の移動でもあったので゛ある。また、近代学校制度は、すべての子供を就学させることにより、世襲的な家業に子供たちを自動的に組み込む過程から、ひとまず子供たちを遠ざける制度でもあった。身分や家業にもかかわらず、すべての子供が学校で共通の教育を受け、そのなかでそれぞれの将来を自己決定していくシステム、それこそが近代学校制度が作り出そうとした社会であった。そして、子どもの成長過程のこの変容は、人類史的といっていいほどの人間形成過程の変容でもあった。子供が自動的に家業に従事していく過程は、「正統的周辺参加」の過程でもあった。これは何らかのミッションを共有している仕事集団にはじめは初心者として参加し周辺的な仕事に従事しつつ、次第に熟達者へと移行していく過程を学習となす考え方だ。いわゆる徒弟制だ。これに対して近代学校制度は、子どもを学校という特殊な空間に閉じ込めて、そこで労働や生活から切り離された時間を過ごす。それまで成長過程の基本となっていた正統的周辺参加の過程はブロックされ、学校教育という全く新しい過程の中で、子供は成長していくことになった。

2023年8月20日 (日)

八鍬友広「読み書きの日本史」(5)~第4章 寺子屋と読み書き能力の広がり

 前章では読み書き学習の教材である往来物についてだったが、このような教材を用いた教育の実践の社会的な広がりについて述べられている。一般に江戸時代の初等教育というと寺子屋が知られているが、当時は、様々な呼び名があり、寺子屋は必ずしも一般的ではなかった。寺子屋による教育は、幕府や藩などの命令によってではなく、民衆自身の自発性に基づいて行われていた。このような自発性を支えていたのは、人々の生活の中で次第に高まっていった読み書きの必要性である。例えば、商売には帳簿をつけたり、手形や契約書など文書を取り交わすことが日常的に行われていた。また、村請制も一定の識字力を必要とした。村請制とは江戸時代の地方行政で、藩による直接統治というのはあまりなくて、ほとんどは村役人のもとで村自身で管理するという間接統治の形を取っていた。そのためには、各村に読み書き計算能力のある人がいなければならかった。寺子屋では、読み書きや簡単な計算などを教えたが、それにとどまり、差令嬢のこと、たとえば、村請制度の公的な文書の書式などは実践の場で、いわばラオン・ザ・ジョブ・トレーニングによって身につけていった。それが、現在の学校と寺子屋の違いと言える。 
 我々は、ともすると現代の学校教育のイメージに縛られがちで、小学校を卒業すれば基本的な読み書きができると、当然思っている。しかし、これは毎日登校して学習を重ねた結果であり、あらゆる文章が言文一致体で書かれている状況が前提となっている。文字自体も楷書体で書かれ、常用漢字表などにより使用されるべき漢字も制限されている。このような読み書きをめぐる全体的な環境が現在の我々の読み書きの実践を支えている。これに対して、近世では、寺子屋に入門しさえすれば、基本的な読み書きができるようかというと、そう簡単ではなかった。江戸時代では、文章は口語体とは著しく異なる候文体で書かれ、もちろん常用漢字表のようなものはなく、文字は草書体や行書体で書かれており、流儀や個人によって崩し方が大きく異なっていた。これらの文書を作成し、また読解することは相当な熟練を必要とした。寺子屋で学ばれる読み書きは、それ自体として完結したものと言うより、むしろ実生活における読み書きの実践や、あるいは学問の世界などと接続していくことにより、はじて完結するものだった。江戸時代の読み書きが、より実践的な習熟の過程とセットになって完結するという在り方は、例えば、商人の場合は読み書き計算は必須の職業能力であった。したがって、職業能力訓練の一環として、それぞれの耳店において読み書きの教育がなされていた。商家に奉公する年少者は、夜仕舞の後や朝などに手習いと算盤の稽古が課されていた。また、店の若い者が、その面倒を見ていた。商店における労働能力軽軽の一環として、読み書き算盤の教育が位置づけられていた。これを著者は、「正統的周辺参加」の過程に読み書きが位置づけられていたという。正統的周辺参加とは、徒弟が労働過程に参加するなかで様々な知識や技量を習得していくように、学習とは、特定の実践共同体に実際に参加していく過程で実現するというものだ。この対極にあるのが学校教育だ。学校においては、具体的な状況から切り離された知識が、網羅的に教えられる。江戸時代の読み書きの実践は、労働や学習など種々の実践共同体に参画する過程の中で、はじめて十全なものになっていくというものだった。じつは、往来物とよばれる教材は、そのような読み書きのあり方に適合的なものだった。

2023年8月18日 (金)

八鍬友広「読み書きの日本史」(4)~第3章 往来物の隆盛と終焉

 近世から明治初期が往来物も最盛期だった。夥しい数の教材が往来物として出版され、前近代における文字習得の基盤であり続けた。その多様な往来物はいくつかに分類できる。例えば、①古往来、②教訓科、③社会科、④語彙科、⑤消息科、⑥地理科、⑦歴史科、⑧産業科、⑨理数科、⑩女子用という10種類。
 手紙の往来に始まった往来物が多様な発展を遂げ、ついには夥しい種類の往来物が制作されたのだった。もともと手紙が典型的だが、文書というのは移動することによって用をなすものであった。つまり、文書がコミュニケーションや通信の機能を担っているのだ。このように文書の重要な側面として移動する、動くという属性があることを考えると、読み書きの教材が「往来物」と呼ばれるのは、相応しいものと言えるかもしれない。ただし、現代の学校で読み書きを習う我々には異質なものであることも間違いない。
 その理由として、次のようなことが考えられる。ひとつは、近代以前の日本の公私の文書が口語体と異なる書記言語で作成されるものだったということ。近世の人々は文字そのものの読み書きを覚えるだけでは文書を作成することができなかった。実際の文書で使用される文体そのものに習熟することが必要だった。また、文体だけでなく、文書の種類に応じて多くの約束事があった。このような約束事に習熟する必要があった。そのため、文書の読み書きを行おうとすれば、様々なタイプの文書そのものについての学習が不可欠となっていた。そのため、手紙文の範例としての往来物を読み書きの基礎段階として都合がよかった。もうひとつの背景として、近世の日本には、読んでその内容を深く理解すべきと位置づけられる共通のテクストが不在だった。読み書きの学習は、もっぱら日常生活の必要性に基づいて民衆が自発的に行っていたので、日常の必要性に基づいた教材が、読み書きの基礎段階でも用いられた。
 これが、近代の明治期になると、読ませる権力が本格的に確立することになる。明治維新を通じて形成される国家権力である。この権力は学校制度を整備し、人々が読むべきテクストを指定する。読み書き能力形成の初期段階は、もはや文書作成のためではなく、自然及び人間の世界を理解し、それを通じて人々を国家へと参画させるための、つまりは国民を育成するための基礎として位置付け直されることになる。もはや読み書きの意味の転換が起こる。そこから往来物による読み書きの学習が、学校に替わっていくことなった。

2023年8月16日 (水)

八鍬友広「読み書きの日本史」(3)~第2章 読み書きのための学び

 言葉を話すというのは人が家族や社会の中で自然と身につけてきたのに対して、読み書きは学習の結果として獲得したものだ。古代の日本では、中国から漢字を借用して、主に公的な機関や寺院などで使用された。律令制の確立と共に官僚養成機関としての学校も整備されていく。官人たちにとって文書の作成は不可欠な能力であり、学校の学習だけでなく、役所において日常的に文書を作成するのに必要な文字を繰り返し学習していた痕跡が、古代の遺跡で発掘された木簡に残されている。それが、平安時代の半ばを過ぎると漢文主体の文書作成を必須とする律令国家体制の解体が進み、官職の世襲化が進行し、高度な文章作成能力は有力な特定な家で継承されるものとなっていった。これと並行して漢文の和文化等による日本語に近接した書記法は社会的に広がっていった。この広がりの中核を担ったのが候文体である。この和文化された文体の普及、つまり人々が候文体を学習するためのテキスト(教科書)として「往来物」というものがある。往来とは、往来する手紙のことを指す。もともと、往来物とは手紙文例集だった。今でも、拝啓はとか前略とか、あるいは時候のあいさつとなどの定型的な決まり文句とか、手紙にはいろいろと作法がある。その手本として教科書的な役割を担ったのが往来物で、その文例は実用的な文章で、手習いを兼ねた手本として教科書的な役割を担ったのだった。この「往来」という語は、その後、手紙の文例という範疇を超えて使われるようになる。近世になると、無数の初学者用書籍が編纂されていくが、それらは「往来」と総称されている。そこには手紙文例とは異なる多様な書籍が含まれていた。例えば『商売往来』には初学者が平生において取り扱う文字、とりわけ商売に必要な語彙を列挙したものだった。いわば商売のための単語帳といってもいい教材だったが、手紙文例はなかった。
 こうして、往来物が、日本における読み書き教材の基本的な形式となっていったが、近世には、往来物は様々に変容しながら、さらなる隆盛をみることになる。

2023年8月14日 (月)

八鍬友広「読み書きの日本史」(2)~第1章 日本における書き言葉の成立

 漢字が入ってくる以前、日本に文字はなかった。だからといって、言葉がなかったわけではない。さまざまに変容しながら現在まで継承されている。日本語と呼ばれる言語が、漢字移入以前から人々によって話されてきた。それが話し言葉だ。これに対して書き言葉は、漢字という他の地域で先行的に確立している文字を借りて形成された。これは、世界的に珍しい事ではなく、かえって、このような借用こそが、文字の普及の基本的な在り方だった。とはいえ、外国語に由来する文字の体系を、異質な言語に移植するには、当然、様々な困難があった。とくに、ヨーロッパ地域のような同じ系統のインドヨーロッパ語に属していたのと違い、中国語と日本語は大きく異なるものだった。例えば、中国語は、一つの音節が一つの意味を表わす単音言語であり、語形変化がなく、おもに語順によって意味を表わすのに対し、日本語は複音言語であり、「てにをは」などの助辞を使って文を構成する。また日本語では目的語を同市の前に置くのが普通だが、中国語は動詞の後に目的語を置くなど語順が異なっている。このように、日本語と中国語では言語の構造が大きく異なっている。しかし、日本はこの構造の異なる中国語から漢字を借用して、書き言葉のシステムを構築した。その後、漢字を基にして創出された表音文字であるかな文字などとともに、現在、我々は違和感なく日本語を漢字かな混じり文として使用している。
 しかし、移入された漢字は漢文の文章の形で移入されたわけであり、当初は外国語そのものであった。現代の日本での英語は外国語であり、日本語とはべつもので翻訳という媒介を要する。しかし、移入された漢文はそれだけで終わらなかった。漢文訓読という方法で読まれるようなっていったのである。しかし、漢文訓読が普及しても、元となっている漢文は中国語であるから、日本語の話者にとっては読みにくいのは言うまでもない。そこで、より日本語に近接した文体へと変容していくことになる。ひとつは、漢字の表意性をそのまま使いながら日本語に応じて変えていく漢文の和化の方向だ。語順を日本語風に変え、中国語にない助辞や活用語尾を加えた変体漢文とよばれるものだ。もうひとつは、漢字の表意性を捨てた万葉仮名という方法だ。万葉仮名は和歌などの歌謡の世界から普及したものと考えられている。音律とか響きを重視する歌謡では表意より表音が重視されたからである。それが、のちに漢文を使いこなせない人々に散文用としても広がっていった痕跡が木簡などに残されている。万葉仮名が平仮名や片仮名になり、これらを使用することで和文化が進展した。漢字片仮名混じり文や平仮名文という、より日本語に近接した文章を表記するようになる。これらによって、平安時代の頃までには、これらの表記法が用途によって使い分けられるようになる。漢字文が事柄を正式に記録するための書記様式となり、片仮名文は日常的な事柄を非公式に叙述し、平仮名文は和歌をはじめ美的な内容を叙述するものとされた。平仮名文が、平安時代の多くの著名な文学作品を生んでいったのに対して、実用的な文書の書記様式として漢字片仮名交じり文は主要な位置を占めていった。平仮名文では表意文字の平仮名が連続するため(当時は、句読点などなかった)意味の切れ目を見出しにくかった。また抽象的な概念を表わす漢語を取り入れにくく、論理的な叙述には不向きだった。これに対して漢字片仮名交じり文は、概念を表わす語には漢字をあて、送り仮名や活用語尾、助詞、助動詞などに片仮名を用いる。漢文訓読体の構文を継承しつつ、漢字文をより読み易く書きやすい文体としたもので、漢字文と並んで、日常的な事柄を叙述する書記様式となっていった。しかし、これらは、前近代の日本で公私の文書の主流とはならなかった。結局、主流となったのは変体漢文の末裔といえる候文体と呼ばれるものだ。よく時代劇で武士が手紙を書く時に出てくる文体だ。候文体は「有之」「無御座」「如件」「依之」「雖有」「奉存」などいった慣用表現を使用することで日本語の語順に従ったままで漢文性を保つことができた。その反面、候文体は、様々な表記法の中で話し言葉との乖離の度合いがもっとも強いもののひとつであった。候文体はもっぱら文書に用いられる文体であり、口頭言語の性格からかけ離れたものだった。そのため、候文体は和文に近いものだったとはいえ、文書を読解したり作文したりするには、一定の困難さを伴うものであった。それが却って書き言葉としての通用性を増すことにもなっていた。それは、話し言葉が方言に代表される地域性の制約を受けていたのに対して、そこから離れた書き言葉は全国的な共通性を持てたからだった。話し言葉が通じなくても文章なら分かるという状況だった。
 近代以前の日本では、文字の読み書きの普及は、書記言語を口頭言語に近接させることよりも、漢文的な要素を有する標準的な文体を確立して、それへの習熟によって成し遂げられた。

2023年8月13日 (日)

八鍬友広「読み書きの日本史」

11112_20230813231101  江戸時代にやってきた外国人、例えばゴローヴニン事件で捕らえられたゴローヴニンや、漂流民を装って日本にやってきて森山栄之助に英語を教えることになったラナルド・マクドナルド、あるいはイギリスの初代駐日公使のオールコックは、日本人の読み書きの能力に驚いたという。ただし、ここでいう「読み書き能力」とは一体どのようなものなの?
 現代に生きる我々は、一定の訓練を受ければ提示された文章をどんどん読めるし、自分の思ったことを書けるようになると考えがち。ところが、近世までの日本において、話し言葉と書き言葉は分離しており、ひらがなを覚えたからといって自分の思ったことが「書ける」ようになるわけではなかった。それは、文語体というのが中国の言語の表記である漢字を文字として移入し、その漢字によって作られた文章が起源だからである。外国語である漢文を訓読という方法で語順を換えることにより翻訳することなく日本語の文にした以降、候文体という漢語を中心に助辞や活用語尾をカタカナを加える和漢の折衷的な文体を作り出した。しかし、それは話し言葉とはかけ離れたものだった。また、文字は草書体や行書体で書かれており、流儀や個人によって崩し方が大きく異なっていた。これらの文書を作成し、また読解することは相当な熟練を必要とした。だから、単にひらがなを知っているだけでは、文章の読み書きはできなかったのだった。そこで、仕事集団にはじめは初心者として参加し周辺的な仕事に従事しつつ、次第に熟達者へと移行していく過程を学習をした。いわゆる徒弟制だ。例えば、商店では年少者は読み書きや算盤の学習を課されたし、武家では家業として文書の作成能力を代々継承した。とは言っても、ひらがなを知っていれば、正式な文書でない、例えば、読み本や瓦版のような市井の文書を読めたので、文化は広範に広がった。それが、外国人には日本人の読み書き能力が驚きの対象となった。
 これが、近代、つまり明治維新により、大転換を遂げる。学校教育だ。近代学校制度は、すべての子供を就学させることにより、世襲的な家業に子供たちを自動的に組み込む過程から、ひとまず子供たちを遠ざける制度でもあった。身分や家業にもかかわらず、すべての子供が学校で共通の教育を受け、そのなかでそれぞれの将来を自己決定していくシステム、それこそが近代学校制度が作り出そうとした社会であった。子どもを学校という特殊な空間に閉じ込めて、そこで労働や生活から切り離された時間を過ごす。それまで成長過程の基本となっていた正統的周辺参加の過程はブロックされ、学校教育という全く新しい過程の中で、子供は成長していくことになった。それが、例えば、身分からの解放や職業選択の自由と結びつくわけだ。でも、徒弟制はなくならならず、むしろ、学校教育を受けた後、凝縮されて残り、企業の終身雇用制と親和的だったと思う。

 

2023年8月12日 (土)

小島毅「靖国史観─幕末維新という深遠」(4)~第3章 維新

 「維新」という言葉は漢語である。『詩経』の大雅文王篇に「周雖旧邦、其命維新」とある。周は古い国だけれども、天命を新たに受けたという意味。殷の末期、夏・殷を通じての諸侯であった周の文王は殷に替わって王朝の天命を受けた。維新は改革などとは違って、単に新しいことを始めるのではなく、古くからの由緒を持つ君主が天命を受けて天下を治めるようになったことを寿ぐ意味なのだ。この語は朱子学の重要な経書である『大学』に転用され、朱子学重視の江戸時代の儒学者に伝わった。これに対して「革命」は古い支配体制が崩れ、別の家が新しい王朝を開くという政治の変革を指す。
 明治維新が「革命」とは言わないのは、王朝が交替していないからだ。幕末の志士たちにとって自分たちのしようとているのは政府転覆であり、その自覚はあったが、彼らの主観的意図は尊皇攘夷だった。日本の国体は古来不変で、万世一系の天皇がずっと君主として君臨してきた。だから革命とは言わず、復古と言った。
 だが、万世一系といっても、それは王朝交替がないというだけのこと。王朝の内部では熾烈な闘争が展開していた。その最もあからさまものが13~14世紀の持明院統と大覚寺統の抗争である。その結果生じたのが、後醍醐天皇による建武の中興だった。彼は大覚寺統の傍流にいて中継ぎとして即位した。しかし、自分の息子に皇位を伝えたいと目論む。邪魔だった鎌倉幕府を潰した。しかし、足利尊氏が持明院統をかついで独自政権を樹立したことで南北朝時代が始まる。これって、イギリスだったらテューダー朝が終わってスチュアート朝となるよね。でも万世一系とはいわない。それが万世一系の不思議なところなんだけれど、他にも、古代、武烈天皇で仁徳天皇の系統が途絶えて、別の系統から継体天皇が即位する。イギリスやフランスだったら王朝交替だよね。そこで、王朝が続いたと言いたいために、足利尊氏の室町幕府は朝敵つまり賊軍にされてしまう。これが、後に鎌倉幕府以降の武家政権は国体に反するものとみなす皇国史観へとつながっていった。
 武家政権は基本的に封建制で、分国的な傾向になる。それが極端にまでいったのが戦国時代だ。その後天下統一があっても、傾向は変わらない。江戸時代でも国といえば、それは藩であり郷里を指していて、日本という意識はなかった。まして、官学である儒教は世界中どこでも通用する普遍的真理であったから、国境にとらわれない傾向にあった。そこに、18世紀なかばに現われたのが本居宣長である。宣長は漢文の“からごころ”に対して“やまとごころ”を主張することで日本としての意識を形にした。中国に対して日本は、決して中央と辺境、普遍と特殊の関係ではない。対等な、特殊な者どうしの関係として存立している。日本人であれば日本人の心“やまとごころ”を尊重するのは当たり前だ。これはナショナルな意識の成立といえる。会沢正志齏の『新論』で日本の国防を主眼としている、その日本の典拠のひとつがここにある。宣長の系譜に連なる人々は尊皇攘夷運動に寄って、そこから神武創業の昔が復古目標として登場することになる。だが、ここで日本とは空間的な領土というよりは、天皇家のことなのだ。この天皇家という王家が日本の君主であることによって、天皇家の歴史が国家の歴史となっている。水戸学は日本の歴史を天皇中心に描くことによって、ナショナルな意識の中心として活用した。それを基に生まれたのが皇国史観である。そして、靖国神社はという装置もまた、天皇家のために設けられながら日本を表看板としている。天皇のために戦った人々が、日本という国の尊い犠牲であるとすり替えられ、その行為を顕彰するものなのだ。

2023年8月11日 (金)

小島毅「靖国史観─幕末維新という深遠」(3)~第2章 英霊

 靖国神社は一般の神社と比べて本質的に異なる点は祭神がないことだ。靖国神社でまつられているのは、国家によって認定された人たち全体であり、その人々がそれぞれに祀られているのではなく全体が集合神格で、その集合は「英霊」と呼ばれている。英霊という言葉の使用は日露戦争後に始まるとされ、この語の典拠は藤田東湖の漢詩にあるという。それは、東湖が中国宋代の文天祥の詩に感ずるところがあって詠じたものだという。つまり英霊とは中国起源なのである。それが、はたして日本古来の大和魂を顕彰するものとなるのか。
 では英霊になれるのはどういう人か。日本という国のために戦って亡くなった人ではなく、天皇の名のもとに戦った陣没者や天皇のために政治的に犠牲になった人たちだ。言うまでもなく、天皇の名のもとに第二次世界大戦で戦没した人は国のために戦ったのかもしれないが、天皇の名のもとに戦ったのだから英霊となったというわけだ。反対に国を憂いて西南戦争を戦った西郷隆盛は天皇に刃向かった賊軍だから英霊には入らない。反対に、東条英機は天皇のために政治的に犠牲になった天皇のために政治的に犠牲になったという点で英霊になる。
 そもそも靖国神社の起源は幕末の動乱の中で、1862年に勤皇の志士たちが同志追悼の招魂祭を開いたのが幕府抵抗のシンボルとなった。この時は幕府が権力者であり、志士といっても反体制テロリストといってよかった。それが、1868年の官軍のより江戸開城により江戸城内大広間で招魂祭を開いたところから意味の転換が起こってくる。新政府の樹立に向けて犠牲となった者は天皇の忠臣として祀り、敗死した幕府側は賊軍として捨て置かれた。招魂祭は栄光に包まれた死者を顕彰することで、現世の権力側の価値観を称揚する場となってゆく。そして西南戦争の大量の官軍戦死者の顕彰をきっかけに招魂祭は靖国神社へと発展していった。官軍と賊軍の区別が靖国神社の原点と言える。これはその後の対外戦争にも当てはめられていく。例えば、日清戦争は朝鮮を清国の支配から解放する正義の戦争と位置づけられた。天皇が間違いを犯すはずがないので、皇軍は正義を体現している、相手が間違っている。それは官軍と賊軍に置き換えることができる。その後の日露戦争、第1次世界大戦でも通用した。勝ったからだ。「勝てば官軍」なのだ。英霊は官軍だからこそ英霊なのであった。しかし、第2次世界大戦では負けた。
 ここでも英霊という言葉の由来に戻る。まずは文天祥について、彼は宋の宰相であった。彼の役目は強敵モンゴルとの和平交渉だったが、彼は無条件降伏を頑として受け容れず、ゲリラ戦に身を投じ、捕えられ刑死した。モンゴルの皇帝クビライは彼の才を惜しんで仕える説得を試みたが聞かなかった。彼が獄中で己が信条を正気歌に詠んだ。「大義のために死ぬことは人間の正道」というこの歌は幕末の志士たちを鼓舞激励した。これに和したのが藤田東湖の漢詩だった。そこに英霊の語が出てくる。つまり、英霊という言葉、中国とりわけ儒教の枠組みの中でのものだったのだ。靖国の英霊とは天皇のために戦死した人たちの「気」なのだ。古今東西、君主や種族のために戦死した者を顕彰・慰撫する祭祀や施設は数多い。一般論で言えば靖国神社だってそうだ。だが、靖国神社は、それだけでなく水戸学的な死生観・倫理観によって誕生した施設だということができる。日本古来の自然発生的に生まれ育ってきた信仰形態ではない。

2023年8月10日 (木)

小島毅「靖国史観─幕末維新という深遠」(2)~第1章 国体

 第2次世界大戦の敗戦に向けて、日本の政府や軍部がポツダム宣言受諾の際に、もっとも重視したのが国体の護持だった。そして、靖国神社は国体を人々に鼓吹する機関として機能していた。では、「国体」とは、もともと昔から日本にあったものなのか、というとそうではない。漢文だから中国に起源があるかというと、この言葉はあっっても意味は違う。というか、国体の出所がはっきりしない。著者は、その出典は幕末の水戸学の会沢正志齏の『新論』にあるという。つまり、明治維新のすぐ前につくられた概念を明治の新政府がちゃっかり利用して、さも昔からそうであるように誤魔化したものだという。とはいっても、会沢が突然思いついたものでもなく、それなりの前史はあるのだが。著者は江戸中期の寛政の改革に遡る。1789年(世界史ならフランス革命の年)、それ以前の田沼政治による爛熟と頽廃を綱紀引締めで是正しようとしたものだ。その主な内容が思想統制と教育改革だ。松平定信は大義名分を重視した。それで、それではあまり考えられていなかった幕府の正統性を大っぴらにした。そのとき、日本は天皇の国であり、将軍は統治を天皇から委託されているという大義を表明したのだった(これは、後の15代慶喜が委託されているんだから大政奉還するという発想につながる)。これはまた、大日本史の編纂を面々と続けてきた水戸藩の思想を鼓舞することになる。その時に鼓舞された当人が会沢だったのだ。その会沢が著したのが『新論』だ。
 もともと、『新論』は日本を外敵から守ることを主眼として書かれた。この「日本を守る」というが、実は画期的で日本を国家として一体視し、それを守るべき単位であると意識したのだ。これが画期的というのは、それまで、そういう考えはなかったからだ。つまり、当時、国といえばイコール藩だったからだ。それまでは、国を守るとは藩を守ることだった。具体的には、幕府によるお取り潰しをいかに避けるかだ。それに対して、会沢は日本という全体を考えた。日本とはどういう国柄なのか、その本来の理想的姿を考えた。いや、考えざるを得なかった。守ると言っても、何を守るかはっきりしなければならないからだ。その時に会沢が打ち出したのが「国体」、つまり日本のあるべき姿だった。その国体の中心には天皇がいた。天皇の祖は天照大神で天祖と表わされた。神武天皇は彼女の孫、それで天孫と表わされた。天祖は『日本書紀』にもあるが、『日本書紀』では中国の神話に擬えている。今でも古式とされて行われている籍田(→大嘗祭)と先蚕という祭祀は、儒教の祭祀で、もともとの古代日本にはなかったものだった。だって、養蚕なんて律令期に帰化人により伝えられたものだったのだから。つまり、会沢は儒教的な枠組みから日本の創生期を説明しようとした。そして、当時盛んになろうとした大嘗祭を古式ゆかしいとするのを、天祖を日本古来とすることによって可能にしたのだった。したがって会沢の時代に行われたのは江戸時代に新たに創出された大嘗祭であって、古代の王朝儀礼ではなかった(だいたい祭礼など応仁の乱ですべて廃塵に帰し廃絶されてしまった)。『新論』はこの新しい創出を神武創業の古にさかのぼるとして、その国の形を「国体」としたのだ。そして、そのことが数十年後に政治的な文脈で作用することになる。
 さて、外敵から日本を守るには、軍事力が必要だ。それを担うのが武士だ。会沢は天祖であるアマテラスがニニギに与えた神勅は、天皇の威光と彼に属する領土がたえず四方に広がることをめざせというもので、国防を外征の論理で語られていたと指摘する。したがって、国体を世界に輝かすために、その事業を文字通り尖兵として担うのが武士だったのだ。ところが、日本の軍事制度は三回変化した。その第一は天神の命令を受けての出陣ではなくなった。第二に幕府による武家政権ができた。第三に武士が土着ではなくなったことだ。
 第三の変化については、会沢は徳川家康の深謀遠慮であったという。兵農分離を完成させ、武士を特別な階級に仕上げたことで幕藩体制の長期安定化をもたらした。しかし、その反面、武士は文弱となってしまった。ただし、会沢が家康の深謀遠慮といったのは、これが第二の変化の武家政権の弊害をカバーするものであったからだ。会沢は鎌倉・室町の幕府を否定的に見ている。江戸幕府は兵権を江戸に集中して社会的混乱を終息させた。それと同時に、外敵を撃退する国防政策を構築することが可能となる。これに対して、鎌倉・室町では土地ごとら別れてしまい国防どころではなかった。それで、幕府は軍事権を束ねる国家機関として位置付けることが可能となった。かし、それによって武家政権の存立基盤をホ崩すことになったという。そこで第一の変化である。天神の命令を受けての出陣ではなくなったというのは、軍事がもっぱら人事となったことだ。古代の戦闘行為は天皇が天祖の意を報じて行う聖戦であった。これに対して、武装した集団同士が行う合戦は、領土や名誉を目的とする私闘にすぎない。戦争は神の意思ではなく、人間社会で完結したことがとなったということだ。この武装集団こそが武士で、第一の変化は第二の変化の前提となっているのである。会沢は、神を奉じて戦うことが疎かになったからこそ、各自が私利私欲を追求するいくさが頻発することになった。これは国体からの逸脱なのだという。彼の言う国体とは、天祖の神勅を奉じる天皇を君主として仰ぐ体制で、何よりも神の命を受けていることが大事なのだ。このような神の意を奉じる天皇の軍は官軍ということになり、まつろわぬ敵を賊と決めつけて懲罰を加えると読み替えられていく。そして国内を統一するための戦争が天皇の名で行われ、幕府き賊軍となった、西洋勢力を東洋から駆逐するという名目の戦争が天皇の名と行われることになる。つまり、日本の近代ナショナリズムの成立過程と膨張逸脱として語られるこれらの事件は、国体を至上価値とする心性が正当化した聖戦であったのだ。

2023年8月 9日 (水)

小島毅「靖国史観─幕末維新という深遠」

11113_20230809225201  13年前に読んだ本の再読。最近、「戦前の正体」を読んで、ネタがベタになったという視点を面白いと思い、戦前の歴史や社会を扱った本を読み直している。この本が執筆されたのは、小泉政権や第1次安倍政権のころで、中国や韓国との関係が悪化し、靖国神社への首相参拝が歴史認識問題を大きくしていた。この本も、その影響を免れていないが、保守にもリベラルにも距離を置く(リベラルには批判的だが、リベラル寄り)という著者の立ち位置は、ネタがベタになったという視点に、親和性がある。とくに、本書の冒頭に結論として提示された靖国神社の思想的根拠は神道ではなく儒教にあるというのは、その視点に重ねることができると思う。また、現実として、実際のところ、靖国神社は日本という国のために心ならずも戦場で散った人たちを追悼する施設ではない。あくまでも天皇のために自ら死んでいった戦士を顕彰する施設だということ、だから、幕末の吉田松陰なども祀られている。つまり、幕末に倒幕運動をした、当時なら、今の言葉いうテロリストが祀られている。これが英霊。これは、靖国神社の経緯を知ることで明らかになるが、これこそ、国体というネタがベタになった事例とそっくりで(密接に関連しているのだが)、そのものと言えるのではないかと思う。でも、こういう視点って、初期のマルクスが「ドイツ・イデオロギー」などでやっていたイデオロギー暴露という手法と同じような気がする。

2023年8月 8日 (火)

小坂井敏晶「矛盾と創造─自らの問いを解くための方法論」

11114_20230808215101  人間の社会を深い洞察で解き明かしてきた著者が学生に説いてきた知のあり方、方法論と、帯カバーの惹句。著者自身、はじめに著作の趣旨を次の3点に要約する。①矛盾を妥協的に解消せず、背後に隠れる根本的な問題と対峙しなければならない。その際、思考の型が役立つ。分野を横断して共通する型を学ぼう。②対象を見る側が変わらなければ、問いも答えも視野に入らない。それは頭だけでできる作業でなく、心と身体を懸ける闘いである。③創造、創造と巷がやかましい。どうしたら独創的な仕事ができるかという問いは出発点からしてすでに的外れだ。独創的、誰も思いつかないというのは、他人と比べることであり、そもそも独創的でない。独創の呪縛から解放されよう。
 これだけを読むと、なるほどと思う。しかし、本文を読むと、これらの方法論を突き詰めて論じられていくという期待は肩透かしをくらう。この著作の大半の内容は、著者のこれまでの著作についての自身による解説。このようにして書いたという。そこで、記されているエピソードは、時に鋭い視点もあって、気の利いたネタが次々に現われるので、そういう面白さはある。

 

2023年8月 7日 (月)

コルナイ・ヤーノシュ「資本主義の本質について─イノベーションと余剰経済」(3)~第2部 不足経済と余剰経済

 著者は社会主義システムを不足経済、資本主義システムを余剰経済と呼ぶ。主流派経済学では、資本主義経済では、たしかに商店や工場の倉庫には大量の在庫があり、予備の生産能力があることを認めているが、それは必要とされるかぎり、つまり、生産者は商品を十分かつ不足しないために在庫を抱える。これは市場均衡のために必要だからと説明する。著者は、彼らと同じものを見ながら、違った解釈をする。それぞれの生産者や商人は、確保しておくべき正確な在庫や予備の生産能力を計算しているが、倉庫内の販売できる商品や予備の生産能力により販売可能となる商品の合計は、買い手が購入可能な量を上回る。したがって、余剰は超過供給と一致する。言い換えると、供給が需要を上回っているということだ。したがって、余剰経済は超過供給の経済であるのに対して、不足経済は超過需要の経済と言い換えることができる。
 最初に市場の機能を見る。著者はまず、市場の均衡(均衡価格や最適生産量など)を否定する。これは企業の意思決定の静的かつ瞬間的な描写かすぎず、市場はつねに動いていることを考慮していないからだ。市場では財(商品)やサービス構成に絶え間ない変化が生じているので、余剰も継続的に生まれる。それは、買い手全体によって購入されなかった生産物の量あるいは消費者全体によって使用されなかった生産能力のことである。購入されなかったストックや遊休生産能力の編成もダイナミックなプロセスである。著者はこの供給過剰が広範に起こる原動力として、次の点をあげている。独占的競争、需要の不確実性、イノベーションと創造的破壊、規模の経済。これらに共通するのは、余剰経済すなわち慢性的な超過供給という現象の再生産への貢献である。
 需要の編成もダイナミックなプロセスであり、買い手の嗜好、所得、財産だけでなく、特定時期での供給という要因に影響を受けている。たとえば、新製品が登場すると新しい需要が呼び起こされ、古い製品は流行遅れとなる。需要と供給のプロセスは相互に影響し合っている。この二つのプロセスは同じ比率で成長しながら、おおむね並行して進行する場合にも、この相互作用は起こる。つまり、余剰経済の下で需要は供給より低下する。供給のプロセスを駆動するものについては前述のとおりだが、需要のプロセスを停滞させ、その急騰を妨げる主な要因として、雇用主と従業員の利害対立をあげている。
 また、新古典派の経済学では、価格は供給と需要の不均衡を調整する働きをする。著者は、これを否定する。実際には、資本主義市場において価格は変動しない。その背景には、現実には供給と需要との関係の変化を感知するのが遅くなることが理由として挙げられる。独占競争下にある市場価格は売り手によって設定される。買い手は受け入れるか、他の売り手を捜すしかない。このように価格の硬直性は非対称、つまり、下方への硬直性がより強い。価格は超過供給という一般的な状態を取り除くことはなく、むしろ、それを再生産する。
 一方、労働市場を見てみる。余剰経済では労働者は供給過剰となり失業者は必ず存在する。これに対して不足経済では失業は発生しない、慢性的な労働者不足となる。社会主義の企業は国営企業である。この経営者たちを動機づけているのは拡張ドライブと投資への欲望である。また、社会主義システムは価格と賃金に対する厳しい国家の統制がある。そこでは価格と賃金は抑えられるし、仮に上昇したとしても、国営企業はコストに同感である。そこで、企業は労働力の増大を不断に求める。つまり、労働の需要は増大し続ける。これに対して、資本主義システムでの企業は利潤追求を第一とするため、コスト削減と生産性向上につとめて(たとえば資本集約的な機械装置が労働者に取って代わる)、あるいは市場の競争はは退出企業を不断に生みだす。それらにより失業者が生まれ、労働者の再編がつねに起こっている。それが資本主義システムのダイナミズムを生んでいる。これにより、賃金の上昇を抑制し(効率賃金)、他方で余剰労働力の存在は柔軟な調整を可能らする。つまり、必要とされる労働力移動を容易にする。
 その結果、不足経済の不幸な買い手は、買いたいときに、買いたい場所で、本来買いたかったものを買えない。最終的に、様々な調整の結果、何とか見つけたものを買う。これ以上買い物に労力を費やしても状況はさらに悪くなるという苦い事実を受け入れなければならない。これは、ある意味安定した状態、均衡状態と言える。これに対して、余剰経済では、第一に、生産者は生産能力をよりよく使おうとし、売り手は集めた在庫処分したがり、新製品や新サービスで競争相手から買い手を勝ち取ろうとするので、生産者同士の競争は余剰を生み、余剰のないところでは売り手の競争はなた。第二に、余剰の存在は消費者が選択し、好まないものを拒否することを可能にする。この選択の幅は、単に狭い商業的な現象ではなく、本質的には自由という人間の権利の拡大に至る。生産者やサービス提供者は、余剰があれば消費者の要望に適応することができる。第三に、システム内に摩擦はあるにもかかわらず(例えば、部品が不足して生産が遅れる)、調整がスムーズ(不足した部品は他の業者から調達できる)で早く柔軟である。

2023年8月 6日 (日)

コルナイ・ヤーノシュ「資本主義の本質について─イノベーションと余剰経済」(2)~第1部 イノベーションとは何か

 イノベーションという急速な革新やダイナミズムは、資本主義というシステム特有の性質に深く根差したものである。反対に社会主義システムにはそれがなかった、というのが二つのシステムの大きな違いである。
著者は、まず、1917年(ロシア革命→社会主義政権誕生の年)以降の革新的な新製品をリストアップする。そのほとんどが資本主義国で生まれたものである。
 発明はイノベーションに先行する。発明家が最初の一歩をしるす。しかし、アイディアに独創性があればいいというものではなく、その次のステップが大事だ。そこで、発明がイノベーションに変わるからだ。それが実際の導入、つまり、生産が組織され、新製品の伝播、新しい組織形態の適用などだ。この変化を実際にもたらすことでは資本主義国の独壇場だ。
 また、先駆者には追随者が伴う。最初の革新者以外に少し遅れて、他の多様な組織がマイナーな質の改善、小さいが無視できない発明の履行がさらに伝播する。これらが国外にも広まっていく。
 このプロセスで社会主義システムは資本主義システムに後れを取った。資本主義と社会主義ではスピードが違った。
第1部 イノベーションとは何か
 イノベーションという急速な革新やダイナミズムは、資本主義というシステム特有の性質に深く根差したものである。反対に社会主義システムにはそれがなかった、というのが二つのシステムの大きな違いである。
 著者は、まず、1917年(ロシア革命→社会主義政権誕生の年)以降の革新的な新製品をリストアップする。そのほとんどが資本主義国で生まれたものである。
 発明はイノベーションに先行する。発明家が最初の一歩をしるす。しかし、アイディアに独創性があればいいというものではなく、その次のステップが大事だ。そこで、発明がイノベーションに変わるからだ。それが実際の導入、つまり、生産が組織され、新製品の伝播、新しい組織形態の適用などだ。この変化を実際にもたらすことでは資本主義国の独壇場だ。
 また、先駆者には追随者が伴う。最初の革新者以外に少し遅れて、他の多様な組織がマイナーな質の改善、小さいが無視できない発明の履行がさらに伝播する。これらが国外にも広まっていく。
このプロセスで社会主義システムは資本主義システムに後れを取った。資本主義は突破口となるイノベーションのほぼすべてをつくり出し、技術進歩の側面でもきわめてスピードが速かった。
 資本主義システムでは企業家が優れて役割を果たしている。企業家とはイノベーションが必要とする金融・人的条件、言い換えれば活動に不可欠な人的資源、物理的資源、金融資源を結び合わせる者だ。企業家こそが実践の場所を見出し、直接変化を引き起こす。これを可能にし、誘発し、不断に発展させ、推進する資本主義経済の特徴として、次の点をあげている。分権的創意性、巨額の報酬、競争、広範囲の実験、等価を待つ資本準備と融資の柔軟性。これらは私的所有と市場による調整の結果と言える。
 一方、これに対する社会主義システムの場合はどうか。先行段階である発明においては、創造的精神は息づき、重大な発明や発見は起こっていた。しかし、その次のステップで資本主義との競争に負けてしまった。企業家の力をもった人間はいたが、その力を発揮されないままだった。その理由として、社会主義システムの特徴をあげている。すなわち、集権化・官僚的命令と許可、報酬の欠如あるいはわずかな報酬、生産者と売り手に競争がない、実験の厳格な制限、利用を持つ資本はなく投資割当ては厳格。これらは公的所有と官僚による調整の結果と言える。
次に、上記のようなシステム特有でない、その他の要因を見ていく。企業家精神、イノベーション、ダイナミズムは人間の行動を通じて生みだされる以上、人間が作り出した社会的、政治的、法的環境が、企業家精神などの傾向が活動的になる度合いや速度に影響を与える。

2023年8月 5日 (土)

コルナイ・ヤーノシュ「資本主義の本質について─イノベーションと余剰経済」

11112_20230805223701  著者は、社会主義国だったハンガリーで体制派の経済ジャーナリストとして出発したが、ハンガリーはイムレ・ナジ(1950年代のハンガリー動乱)が出たりと自由化の動きが見られた中で、社会主義経済の非効率性を論じて物議をかもし、西側に出て、ハーバード大学で経済学を教えたという人。社会主義システムとの対比で資本主義システムの特性を論じている。著者の手法は単なる制度比較ではなく、経済システムを有機的な総体として捉え、二つのシステムは動機づけ、行動、ダイナミズムにおいて非対称であり、経済主体の動機づけや推進力といったミクロレベルの行動がシステムの特性を規定するという。内容は2部に分かれ、第1部では資本主義の長所であるイノベーションが資本主義システムに根ざした現象であり、社会主義システムでは起こりにくいと述べる。第2部では資本主義システムを余剰経済とし、超過供給が正常な状態であるし、余剰つまり、未利用資源の存在こそがシステムを活性化させるが、逆に社会主義システムは不足経済と呼び、不足を基盤にしていると述べている。資本主義システムは余剰が生まれるから消費者が商品を選択できる。これに対して社会主義の計画経済では商品が不足し、資本主義の商店の棚に商品が溢れるということはなく、棚は空っぽで人々はモノを購入するために店頭に行列した。これでは提供側に競争は生まれない。それでイノベーションの動機づけは生じない。一方、消費者は商品を選択できない。それは実質的な自由がないということになる。これは、シュムペータのイノベーション論をミクロ経済学からシステム・パラダイムの視点に置き換えたと著者は言いたいということだと思う。しかしまた、このような余剰経済という資本主義システムの見方は、主流経済学の市場均衡は現実には起こらないという問題提起に至るという。
 著者の文章は、いかにも学者の論文という書きぶりで、この本はエッセイということになっているが、主張することには禁欲的というか、奥ゆかしいというか、データや事例の記述に隠れていて、漫然と読んでいると気がつかない。こういう文章をビジネスで報告書として出されたら、何を言いたいのか、何をやりたいのかはっきりしないと、やり直させるだろうな、と思った。

 

2023年8月 4日 (金)

川北稔「イギリス近代史講義」(5)~第4章 世界で最初の工業化─なぜイギリスが最初だったのか

 著者は産業革命を消費や需要の面から見ようとする。産業革命の発明というと綿織物の紡績機や織機などから始まるとして、生産という面でも綿はどこから来た、原料の綿花はどこから来たというところまでカバーしないと議論は完結しない。そこまで行くと、コットンのライフサイクルのようなものが掛けてしまい、地球規模の話になる。イギリスのマンチャスターなどの工業都市だけの話では済まされなくなる。一方、需要の面では、綿織物はなぜ好まれたのか、ということになると生活文化の問題になる。生活文化に大きな変化がなければ産業革命は起きなかったと言えるからだ。
 元々は、イギリスをはじめとしてヨーロッパ全体は毛織物の世界だった。それにもかかわらず、産業革命は綿工業からスタートした。伝統的な毛織物は、基本的にイギリス国内で、原料の羊毛を確保していた。他のヨーロッパ諸国とは競争しているので、そこからの調達はできなかった。そうなると、羊毛の増産は、食料の生産その他と競合することになって、劇的に増産するには限度があった。それに対して、綿織物は、海外で世界システムを通じて原料を手に入れることができた。カリブ海、インド、アメリカ南部などから綿花を手に入れることができたので、劇的な増産の可能性があった。綿織物は東インド会社が輸入して売っていた。じつは東インド会社は、香辛料の取扱いを目論んでいたが、オランダとの競争に負けて、インドの綿織物と中国の茶に頼るようになる。綿織物は毛織物に比べて、安くて、鮮やかな色の柄を付けることができ、洗濯ができる。それを、まず王室に売り込んだ。それを貴族がまね、ジェントルマンたちも追随し、という形で、全国にひろがり、消費が拡大する。当初は綿織物をインドから輸入していたものを、イギリスで作る、輸入品の国産化が行われる。後進国の工業化の特徴とされる輸入代替は、この最初の工業化でも当てはまる。イギリスの産業革命は人々の生活のアジアかが前提になっていた。輸入品を国産のものに置き換えていくプロセスとして産業革命を見ると、綿製品を大いに使うという生活のパターンができて、そうすると消費需要が起こる、つまり生活様式の変化が先行して、この変化に乗っかって生産の革命が成立するというわけだ。
 一方資本という観点、つまり、産業革命をはじめた資本はどこから来たのかということについては、かつては、毛織物工業で資本が蓄積されたとか、奴隷貿易の利潤をつぎ込んだとされていたが、これらの利潤はそれほどなかったのが実態だという。じつは、産業革命の初期、綿工業の場合は、それほど資金を必要としなかったという。工場などの設備投資は、現代のような大規模で立派な工場を作ったわけではないので、膨大な資金が必要だったわけではなく、機械を発明した人と、他の仕事で少し資金をためたひとが集まって事業を始めることが可能だった。

2023年8月 3日 (木)

川北稔「イギリス近代史講義」(4)~第3章 ヨーロッパの世界システムの拡大とイギリス

 成長信仰は近代世界システムの基本的なイデオロギーという立場を本書はとっている。つまり、中世と近代を分けるのは成長信仰だということになる。この転換と同時に変化する概念がいくつかある。例えば、時間と空間の概念、例えば領土の概念だ。時間の概念では、「神の時間」から「商人の時間」への転換がある。時間は神が人間に試練の時間として与えたものであるので、これを利用して利子をとってはならないとされていたものが、反対に時は金なりに逆転した。時間は神ではなく人間のもので、それを利用して儲けてもいいというわけ。領土の問題について、キリスト教の基本的な考え方は、土地は神がアダムとイブに与えたものでアダムの遺産として教会が管理するとされていた。15世紀にトルデンシャス条約でスペインとポルトガルが境界を変更したときに教会が関与しなかったことから、その後国同士の権力の力関係で決まっていくようになる。それが、次の時代の新大陸の領有をめぐって具体を派遣して支配する実力主義になっていく。しかし、その際に新大陸の現地人のことはまったく考慮されていなかった。成長信仰は、ここでヨーロッパ各国は領土拡大の競争を促した。
 同時代の中国では鄭和の大遠征があったが、明は海禁政策をとり、引っ込んでしまった。これは中華圏では中国が圧倒的な存在になっていて、中国の皇帝は世界の支配者、自分たちが世界と思っている範囲の支配者として、武力を独占し、内部の競争を抑える。その結果、帝国内は平和となる。これに対してヨーロッパは主権国家が並立していて、それを政治的に抑える権力はなかった。それで、主権国家間で競争が常態化する。競争の手段は重商主義で、その経済力を用いて、最終的には軍事的な競争をする。そこから、軍事技術が発展した。
 こうして成立した世界システムは中核と周辺の格差、質的な違いを強化していく傾向にあった。異質なものがひとつのシステムに組み込まれた場合、全く対等に組み込まれるということはなく、支配-従属の関係になる。いったんとうした関係が生じると、有利なものはますます有利に、不利なものはますます不利になっていく。それと同時に、質的にますます差異がはっきりしていく。例えば、このシステムにおいてモノが流通し交換が行われると、周辺で生産されて中核のマーケットに送られるという運営がなされる。生産地である周辺は、さらに周辺化されていく。つまり、富は中核に吸いあげられ、周辺は貧しくなっていくというように差異は拡大される。しかも、生産されるモノによって、周辺と周辺の間に格差が生まれる。例えば砂糖を生産したカリブ諸島と煙草を生産したアメリカとの違い。砂糖はイギリスで膨大な需要を生みだした、プランターに巨富をもたらした。彼らの多くは現地を他人まかせにしてイギリスに帰国する不在地主となった。彼らはジェントルマンとなり、ロンドンでの社交に明け暮れ、議会にも進出した。その後、カリブ海の砂糖は国際競争力を失って行くのだが、議会で勢力を握ったプランターたちは外国の砂糖の関税を引きあげさせ、イギリス市場はカリブ海産の砂糖の保護市場となった。そのため、カリブ海の砂糖のプランテーションはイギリス市場を離れると生き延びることができなくなり、イギリスから独立することができなくなった。反対にアメリカのタバコのプランターは不在化しなかった。そのため、議会への発言力はなかったが、国際競争力を維持し、イギリスから独立しても生き残ることが可能だった。むしろ、イギリスを経由しないで、各国に輸出した方が経済的に有利だった。それゆえ、アメリカの独立に参加していったのだった。
 イギリスは近代世界のシステムのなかで中核的な位置を占めたが、帝国のような政治的支配は行わなかった。イギリスにとって植民地は富の流入以外にも社会的な意味を持っていた。それは、社会的上昇の野心を満たせない人やイギリス本国では食べていけない人、つまりイギリスの社会システムからはみ出す人間の問題を、植民地に押し出すことで解決させていたということ。そしてまた、野心的な若者や没落を食い止めたい上流階級にとって、植民地が有利なステップを用意した。ジェントルマンはフランス貴族と違って、財産をなくせば、転落してしまう。その危機の時、意味を持ったのが豊かな貿易商との縁組と植民地だった。植民地では、官僚や専門職の需要が高かったので、そういう人々の受け入れ先として機能した。

2023年8月 2日 (水)

川北稔「イギリス近代史講義」(3)~第2章 「成長パラノイア」の起源

 都会の生活文化になじむということは、消費生活が豊かになるということで、そのためには、当然のこととして収入を増やすことが求められる。そこで、生産活動や労働ということが問題となってくる。近代化のプロセスは欲しいものがたくさんあり、それを消費しているとステイタスが上がり、労働意欲が高まるという筋道をたどる。ぶっちゃけた話、いい格好をして女の子にモテたい、そのために金を稼がなくてはならない、ということ。それを個人ではなく集団に拡大すれば、みんなが、よりよい生活をしたい、そのためにはみんなが豊かにならなければならない。経済が成長しなければならない。このような経済成長こそが目的であると見方を、著者は「成長パラノイア」と呼ぶ。これは近代システムの基本理念であり、他の世界システムと比べて、近代世界システムは拡大や成長という概念を強く持ってきたのは、こうしたものの現われだという。
 前近代には反転労働供給曲線があてはまっていた。それはどういうことかというと、ある日、日当が2倍になったとしたら、近代以降であれば、報酬が増えれば、より多くの報酬求めて、労働に励む。給料がそれだけ上がるのだから、働きますというわけ。しかし、近代以前においては、日当が突然2倍になったら、次の日は働きに来ない。翌日の分ももらっちゃったから、働かなくてもいい。生活を維持できるのであれば、それ以上は働かない。これが反転労働供給曲線。近代社会では、これは向上心がないとか怠け者などと否定的に見られる。(前より成長しなければならないとなると、世代でも前の世代より上にいかなげればならないとして、前近代なら豊かな経験をもつ先達として尊敬された老人は、介護を要する厄介な負担となってしまう)。前近代の経営者には、成長や経済の発展のためには低賃金が望ましいという考え方があったが、これは反転労働供給曲線と共通している。労働者は痛めつけて食べられないようにしておけば、必死に働きに来るが、食べられるくらいの給料を与えてしまえば、働きに来なくなるという発想。
 これが転換するのは、イギリスでは18世紀中ごろで、それは当時の言説の変化から見て取ることができる。ここに見えるのは、賃金の上昇分を消費の拡大に向け始めた労働者の姿だ。それをぜいたくとして非難するのではなく、需要の拡大として評価する経済理論の誕生だ。このような転換の原因のひとつとして、前章で紹介した消費するものが豊富になった。そしていいものを身につけると、上流に見られるという転換だ。
 国民経済レベルでの成長を考えてみる。宗教改革をひとつの契機として、イギリスとかフランスといった主権国家の考え方が成立してくる。それに伴い、主権国家の経済が発生し、主権国家間での経済の競争が生まれる。これが近代世界システムでヨーロッパが中核になっていく大きな要素となると著者は言う。これは、同時代の中華やシステムの帝国システムとの決定的な違いだという。中華やイスラムには基本的に帝国型のシステムで、工程というひとつの権力が世界全体を支配する。皇帝は武力を独占し、他の者には持たせない。各地の有力者が武器を持って皇帝に対抗することを原則的に許さない。そのため、帝国内はおおむね平和で、武器は発達しないことが望ましいとされる。これに対して、ヨーロッパには皇帝はいなくて、国王がいた。国王は世界ではなく、その一部の国を支配している。皇帝は唯一なのに対して、国王は他に何人もいる。世界は統制がとれていないので、国同士の生存競争が存在する。そのためには武器の開発競争をする。それだけではなく、武力を高めるためには経済を成長させなければならない。それが経済競争になり、経済成長のために重商主義政策をとり、外に市場を拡大する発想が生まれる。

2023年8月 1日 (火)

川北稔「イギリス近代史講義」(2)~第1章 都市の生活文化はいかにして成立したか─歴史の見方

 18世紀から現在に至る工業化の時代全体を通してはっきりしていることは、人々の生活環境が一貫して都市化の過程だということを指摘する。西洋史で都市という中世の都市、特権として自由を領主から認められたものとは別に、近代の都市は都会と言い換えてもいい。歴史学では明確な定義はないというが、著者は中世都市とは異なる特徴として匿名性をあげる。都市の規模が大きくなって人口が10万人を超えると、そこに住む人々同士が顔見知りとなることのできる限界を越えてしまう。そこで、都市は互いに知らない人々の集まりになる。
 ではどうして、このような都市が生まれたのか。それは、他の地域から人々が都会に移ってきたから。それには、人々が移動できるということが前提になる。ということは、イギリスの社会が人々の移動を可能にしていたからだ。それを著者は16世紀の終わりから17世紀のイギリスの家族形態に見る。このころからイギリスは単婚核家族、つまり何世代も同居する大家族ではなくなっていたということ。そして晩婚化していた。それはライフサイクル・サーヴァントという慣行と関係する。だいたい14歳前後から、7~10年の期間、よその家に奉公に行くというもの。例えば徒弟、お手伝いさん、そして一番多かったのは農家の手伝い。これを済ませると一人前の大人として認められ、結婚できる。そして、この期間、実家から離れて生活し、それが終わっても実家に戻るケースは少なかった。彼らは結婚して独立し、新しい家族を始めた。このような人々が都会に流れ込んだわけだ。一方、実家の年老いた両親は子供は戻らず、よそからサーヴァントを雇う。その後は高齢者の世話をする家族はいない。そのため、早くから救貧(社会福祉)が深刻な問題となる。
 近世以降のイギリス社会の支配階層はジェントルマンと呼ばれた。彼らは、もともと大地主で爵位を持つ貴族と平民のジェントリに分かれていた。彼らは肉体的な意味での労働や人に雇われるような勤務はしないことが条件で、自らの資産からの所得によりサーヴァントを雇う有閑階級だった。かりに、親方や経営者あるいはそれに雇われる労働者のようなみずから労働をして報酬を得ると、ジェントルマンではなくなるとされていた。また、ジェントルマンの家督を継げない次男以下は弁護士や医師あるいは将校軍人などのジェントルマン的職業についたり、帝国の拡大により貿易商や投資家なども擬似的なジェントルマンとされた。イギリスはジェントルマンが民衆を支配する国として、展開してきたのだった。
 一方、都会は人々が顔見知りでない匿名性の社会であったことにより、外見がものをいうようになる。互いを見知っていないので、隣人がどういう人かは、まず身なりや化粧、アクセサリーなどの外見で判断するしかなくなる。いい恰好をしている人が上流階級と見られる。つまり、都会の生活文化は外見に非常に気を使うものとなる。そういうことがイギリスでは早い時期から成立していた。これにより、衣服への注目が高くなる。そうなると、新しいものを取り入れて、他の人と差をつけようという差異化の欲望が生まれる。そのことは流行及びファッションの世界が生まれることに結びつく。さらに美容が商売として成長する。前近代では、どのような格好をしていても、上流は上流、農民は農民だったのが、見かけが優先されるような社会に、イギリスでは16世紀の後半になっていった。
 このことは、経済史的には、イギリスに、全国民を巻き込んだ国民的マーケットが成立したことを意味する。同時期のフランスでは、ヴェルサイユの貴族たちが華やかな暮らしをしていても貴族だけの話で、それはマーケットが非常に狭かったためで、イギリスでは王室が流行を取り入れると、早いスピードで国民全体に広がっていくようになったということ。そうして流行したのが綿織物のキャラコであり紅茶である。王室が紅茶を飲むと、周りがそれを真似して、貴族から市民、庶民へと広がっていった。こけがフランスならヴェルサイユの貴族が嗜好しても農民は関係なく生活をしていた。経済史の基本的な考え方ならマルクス主義のような生産主義では語られない、生産がなぜされたか、その需要の面から見ると、大都会としてのロンドンが成立すると、そこには匿名性の高い社会が生まれ、それに伴い社会構造上の変化が起こる。ロンドンが大きくなるということは、ロンドンの人々の経済的な力が強くなり、都市住民の社会的地位が上がる。元々、イギリスは農業社会だったので農村を基準にした土地持ちか否かで社会階層ができていた。これに対して都市では階層の明確な基準はなかった。当時の都市の一番上の階層は大貿易商で、彼らは現場に出るような仕事はしないし、教養ある有閑階級だった。それに次いで弁護士や医師といった専門職。この人々による社交の場がさかんに作られる。そこでは、都会の見た目の文化が盛んになる。田舎のジェントルマンにはないが、都会の上流階級は社会の場で流行のファッションに身を包み、見せびらかす。そうなると、都会の社交の規模は大きくなり、田舎のジェントルマンも都会に集まるようになる。それにつれて田舎の富が都会に集まるようになる。田舎の富を都会で消費するという形で。彼らは、社交シーズンが終われば田舎に帰るが、その際に都会の流行を田舎に持ち帰る。これにより、都会の流行が全国に広まっていくことになる。このように都会に一時的に出てくる人が増えれば、宿泊施設、ホテルの需要がふえる。サービス業が展開される。そこでは、女性の仕事が増えていく。女性でも都会は1人でも食べていけるというと、女性、とくに寡婦が都会に集まるようになる。
 まとめると、都市的な生活環境は、人々の生活が自給から購入へと転換することを意味する。このプロセスは万物の商品化ということもできる。農村では家族や地域コミュニティがもっていたものやサービスの自給機能は、すべて商品として購入するものになる。そして、このような変化に伴って、商品化されたモノやサービスは、経済統計上の生産となる。家庭や地域で自給されていたものは生産には数えられない。時給は経済統計に入らない。しかし、それが商品化されれば経済統計に入り、経済成長に寄与することになる。こうして、都市化のプロセスは、人々の生活を経済成長に結びつける結果となった。

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