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2023年9月

2023年9月30日 (土)

轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(1)

11112_20230930224901  多くのハイデガー解説書は、ハイデガーは現象学の方法論により存在を探求し、主著『存在と時間』を刊行した。しかし、その後、ナチスに関わり、戦後はその責任を問われて隠遁者のようにひきこもり、そこでの神秘的な後期思想は難解、というより他人の理解を求めないようなものとしてあまり触れられない、という言われ方をしている。典型的な解説者に木田元がいる。私の場合、現象学やハイデガーは木田元による岩波新書から入ったので、言ってみれば、木田の呪縛にかかっていた。本書は私のそういう呪縛から抜け出る道を示してくれた。
 著者は、『存在と時間』はハイデガーの主著と言われるが、彼の初期の著作で、しかも中途で核心部が未着手のまま途絶してしまったもので、そこから彼の思索を理解しようとしても核心部がないのだからできっこない。刊行された『存在と時間』を読んで、分かったつもりになったとしても、それは誤解以外にない。ハイデガーは初期から晩年まで一貫して「存在への問い」を考え続けた後期が難解だといっても初期から順を追って追いかけていけばいい。後期が難解だといわれるのは、「存在への問い」が従来のない問い方によるので、既存の言葉で語ってしまうと従来の問い方に絡め取られてしまうからで、ハイデガーは初期から、その試行錯誤を繰り返して、次第にオリジナルな表現になっていったからだという。ちなみに『存在と時間』が完成に至らなかったのは、その試行錯誤のためだという。
 では、ハイデガーはどういうことをしようとしていたのかと、端的に要約すると、西洋哲学の考え方の基礎には、個体(個人)がベースになって、それぞれが実在し、それらによって世界が成っているという発想がある。それぞれのものは神によって創られた被造物というもの。人間でいえば個人はそれぞれに神と繋がっている。それが行き着いたのが近代の主体性とあり、個人主義だが。これに対して、19世紀前半に近代主義への懐疑的な動きが起こった。例えばドイツのワンダーフォーゲル運動で、ハイデガーはそういう動きの中で、フォルク(ドイツの自動車「フォルクスワーゲン」のフォルク)という伝統的なコミュニティ(日本で言えばムラ社会か?)の考え方をベースに人のあり方を考えようとした。それは近代的な個人の主体性批判、その土台には伝統的な西洋哲学の形而上学批判があるというのだが、それがハイデガーの存在論となっていく。そして、近代的な個人の主体批判は、ナチスの西洋近代批判の主張と重なることになるわけで、ハイデガーの後期はナチスとの差別化も考え合せるようになったため、屈折を加えることになり、難解度が増していったという。
 このように考えると、ハイデガーの世界内存在という考え方は、西洋的な個人主体からみれば集団主義的といわれる日本人の考え方に近いとこにあって、かえって日本人に親しみ易いのかもしれない。実際、ハイデガーの日本での人気は世界でも珍しいほどだという。

 

2023年9月29日 (金)

大沼保昭「「歴史認識」とは何か」(6)~第5章 21世紀世界と「歴史認識」

 現代の戦争観に変わったのは第一次世界大戦以後のことで、それ以前は違っていた。戦争は戦時国際法の許容する範囲で国家が自由にできるものだった。つまり、戦争は国家間の決闘であって決闘規律する手続法として戦時国際法があって、それ以上の倫理や正義は求めない。戦争そのものは違法ではなく、戦争が起きることを前提に、非戦闘員を殺してはいけない。捕虜を虐待するな、中立国の船を攻撃してはいけない、というルールを提供するのが国際法の役割だった。また植民地支配にいては、欧米の白人の間で、自分たちの優れた文明をアジアやアフリカの未開、野蛮な民族にもたらす尊い義務がある、という考えが流布していた。文明の使命とか白人の責務ということばが流行し、植民地支配はむしろ倫理的に正しいこと、聖なる責務とされていた。日本が日清戦争に勝利して植民地を持ち始めたのは、このような欧米列強の植民地支配の時代だった。
 第一次世界大戦勃発の時点で、ヨーロッパの指導者たちは、戦争は国家政策のひとつで外交と戦争を組み合わせて国家利益を実現すると考えていた。だから、適当なところで外交交渉から講和となって終わるだろうと考えていた。ところが、科学技術の進歩により兵器の殺傷力が高まり、軍隊だけでなく国民も総動員される総力戦となって、それまでの戦争とは異なる大規模な殺戮戦となってしまった。それをマスコミが煽り立て、全国民規模で対的憎悪が爆発する事態になる。そこで、指導者が適当なところで手を打ってやめようと思っても、民衆がそれを許さなくなった。そこで、戦争は指導者がコントロールできる政策の手段ではなく、支配者がもっとも恐れる革命をもたらしかねないという認識が広まり、ようやく終戦を迎える。このような現実から、戦争を外交と並ぶ国家政策の手段とみなす発想から、とにかく戦争を否定する方向に向かおうとした。その第一が国際連盟であり、第二が戦争の違法化で、不戦条約が結ばれるに至った。
 一方、植民地支配は違法とはされなかった。パリ講和会議で民族自決がウィルソンから提起されたが、それはヨーロッパだけに適用された。しかし、その理念はアジアやアフリカの指導者の頭にしっかり埋め込まれた。そして自分の民族に持ち帰ったのだった。
 この動きを日本は読めなかった。歴史の転換を認識することができなかった。第一次世界大戦までの日本は、文明国として認められるために、懸命に国際法を守ってきた。欧米列強の人種差別は明らかに正義に反するものであって、その撤廃を主張することは欧米諸国も正面から反対できなかったし、非欧米諸国はむろん支持するものだった。このとき、日本自身が自己の主張にかなった行動をとって、当時の人種差別的な国際秩序を変える努力を積み重ねていけば、日本は諸国から尊敬され、中国との泥沼のような戦争に陥ることはなかったかもしれない。と著者は言う。ということは、第一次世界大戦を境にして、欧米が方向転換したのに対して、日本は変われなかったと著者は言うが、むしろ、日本は別の方向に転換したのではないか。それは、ヨーロッパとは違う、独自の道を進もうとしたと言えるのではないかと思える。著者は、そのヨーロッパの道の視点から、以後の第二次世界大戦の至る日本の歩みを批判的に記述する。第一次世界大戦は、その原因はドイツ側と英仏側の両方にあった。それと違って第二次世界大戦は、日本は満州事変から真珠湾攻撃と国際法に反した不正な軍事力の行使であり、ドイツが突然ポーランドを侵略したことで、日本とドイツには、明らかに非があった。それが戦後の国際戦争裁判で平和に対する罪を問うことに至る。そこで第1章にもどるわけだが、戦後の国際秩序づくりを主導したアメリカを中心とする連合国は、戦争の違法化をさらに徹底させて平和を目指したが、その平和を担保する手段という点では絶対平和主義とは異なる思想に立脚する集団安全保障体制の強化という道を選んだ。つまり、違法な戦争に訴えようとする国に対して国際社会のすべての国が制裁を加えるという威嚇を制度化することによって戦争を防ごうという体制で、これが国際連合だ。
 植民地支配に対して、日本は戦後、敗戦国という立場にあり、それなりに日本の戦争と植民地支配を反省し、謝罪をしてきた。それに比べると、かつての欧米諸国は、日本とドイツを批判はしても、自分たちの植民地支配責任や帝国主義政策、他国への侵略行為に関しては、ほとんど反省の意を表していない。典型はアメリカでベトナム戦争で残虐なことをしていながら、ベトナムに対して謝罪していない。フランスにしてもイギリスにしても、植民地支配についての責任意識、帝国主義的外交への反省は、一般国民も知識人もほとんどしていないし、かつての植民地支配への謝罪もほとんどしていない。日本とドイツは明らかに侵略国であり、敗戦国であったために、戦後厳しい反省を迫られ、実際に反省してきた。これに対して、戦勝国は、そうであったがゆえに植民地支配と帝国主義的外交を支えた非欧米諸民族への優越意識を真剣に反省し、植民地支配の悪に正面から向かい合っていない。
 これは植民地の側でも、例えば、アフリカはもともと国家としての一体性や共有する伝統文化を持たずに小規模な民族集団に別れて住んでいた人々が、植民地としてヨーロッパ列強によってつくられた国境内で支配され、そうした人為的につくられた地域の人々がひとつの国家として別々に独立していった。そういう国々は、国民的一体性を基礎づける経済的基盤もなく、旧宗主国の援助なしには国家が成り立たないような状態だった。しかも、異なる民族との間で通じる共通語は宗主国の言葉しかない。このような状態では植民地支配責任を追及する意識はなかなか生じないという事情がある。
 また、同じ敗戦国でもドイツの戦争に対する向き合い方は、国際社会に評価されている。その理由として、ドイツは国家の指導者が分かりやすい形で自己の反省と謝罪を表明してきたことがあげられる。こういう象徴的な言動とその広報と云うんでは明らかに日本に勝っている。つまり、極言すれば、宣伝の巧拙が日本とドイツの評価を分けているという身も蓋もないことを著者は言っている。
 このように歴史認識の問題は、誰が正しいということにはならないし、ややもすると「自分を棚に上げて、俺のことを批判するな」といった感情的な論争になりがちなとこがある。そこで著者の実感としての教訓を最後に述べる。社会というのは、よいこともすれば悪いこともする「俗人」と、ごく一握りの聖人と大悪人から成っている。著者は戦後責任とか、差別はいけないなどと言っているが、所詮俗人であり、実際にできることはほんの少しで、周囲で正義を唱え、正論を吐いている人も、ほとんど似たような人で、聖人はまずいない。だから。歴史認識をはじめとして社会のあり方にかかわる議論は、社会というものが俗人からできているのであって、聖人の行動を求めるべきではない、という認識を頭の片隅に置いてやった方がいい。自分自身を含めた人間の不完全さを意識した姿勢。それが歴史認識といった、とかく意見の違い人を論破しようという衝動が働きがちな問題では特に大切だという。過去には信じられないような不正義があったし、それを知ってしまったら、不正義をただすために行動をとることは大事なことだ。ただ、社会にとっての価値、人間にとっての美徳は正義だけではない。多様な被害者が求めるものも、正義の回復だけではないでしょう。それは、人々の日々生きていく上で正義だけが大切なわけではない、ということを考えれば分かることだ。美味しい食事、優しさ、笑い、情感、好感情、などなどの様々なものが人々の生を豊かなものにしている。歴史認識という問題も、このようなごく当たり前の生活感のなかで、あまり肩ひじ張らずに考え、自分の考えを絶えず疑いながら、その考えに従って行動していけばいい。

2023年9月28日 (木)

大沼保昭「「歴史認識」とは何か」(5)~第4章 慰安婦問題と新たな状況─1990年代から21世紀

 慰安婦問題のきっかけは、1991年に韓国の元慰安婦の女性が名乗り出たことによる。
 当時は、1980年代から有力になってきたフェミニズムが影響力を広めつつあって、女性の人権問題に注目が集まっていた。90年代初頭のユーゴスラビア内戦で、民族浄化と称して異民族を集団的に抹殺することまで行われた。その中で、敵対する民族の女性に対する集団レイプも行なわれた。これが戦時下の女性への人権侵害として大きな問題となった。そういった環境の中で、過去の問題だったはずの慰安婦問題が現在の重大な問題としてクローズアップされるようになった。戦時下の問題はほかにもあったが、メディアは圧倒的に慰安婦問題を際立って取り上げた。
 韓国では、慰安婦問題は「植民地支配を反省しない日本」を象徴するシンボルになっていった。無垢な処女たる韓国の少女たちを性的に虐げた、というイメージが作りだされ、それが日本の朝鮮植民地支配のイメージに重なったというわけ。
 これに対して日本国内では、この問題は左派リベラリスト対右派ナショナリストの対決と化してしまった。この時期から日本ではバブル経済が崩壊して、以後社会が閉塞状況に落ち込んだ。経済では中国に追い上げられ、21世紀には世界第二位の経済大国の地位を奪われる。ソニー、パナソニックはサムスンの後塵を拝し、JPOPはKPOPに敵わない。そういった閉塞感が強まる中で、中国、韓国に歴史問題で謝れと繰り返し言われると、「いいかげんにしろ」という気持ちになってしまう。そういう傾向が強まったのだった。実際、慰安婦問題で日本はアジア女性基金をつくり、多くの人が真剣にこの問題を考え、心からお詫びをしようと努力した。しかし残念なことに、そういう気持ちや努力は韓国ではほとんど評価されなかった。日本国民の間には「100%満足のいくものではないかもしれないが、真摯に謝り、精一杯の誠意を示した。なのにゼロ回答か」という失望感が広がり、さらに「韓国に謝っても何もいいことはない。かえって居丈高な態度をとられるだけではないか」という怒りが出てきた。そうした感情を背景に嫌韓のムードが高まったのだった。
 過去に生じた慰安婦問題に対して現在の日本に法的責任はあるのか、ついて専門家の間でも議論は分かれている。にもかかわらず、韓国の元慰安婦の支援をしてきた人たちは、日本が法的責任を認めなければ問題の解決はないという態度を取り続けた。これが問題の解決を困難にしたと著者は言う。法的責任はサンフランシスコ平和条約と各国の条約や協定でひととおり解決している。なお、第二次世界大戦と植民地支配に関わる諸問題について、日本は法的責任を認めないが、ドイツは認めた、ということを日本の法的責任を求める側で言われる。これについて、著者は、ドイツが認めているのは道義的責任で、これは誤りだという。ただし、2011年に韓国の憲法裁判所が憲法違反の判断をした。この背景には、1980年代以降各国で民主化が進み、人権の重要性が飛躍的に高まったという事情がある。戦前の国際法にはこのような人権の考え方はなく、戦後に国際人権法が非常に重要になった。そのため国際人権法の重要性が低かった時期に行われた講和では人権を侵害された個人の救済がなされていない。それで、問題が解決していないという議論が有力になってきたというわけ。
 このような問題について、著者は、慰安婦問題はもっぱら日韓問題として扱われるようになる。慰安婦には韓国人だけでなく、日本人、中国人、台湾人、インドネシア人、オランダ人、フィリピン人もいた。この問題は、戦時中の日本人が犯した罪を、戦後の日本国民がどのように受け止め、どのような姿勢で向かい合い、次の世代に少しでもましな日本を手渡していけるか、という問題だという。つまり、問題は韓国を満足させるかどうかということよりも、慰安婦制度とその犠牲者に対する日本自身の問題なのだという。具体的には、慰安婦の事実は学問的に実証されているので、それを真っ向から否定することは恥ずべき態度であり、日本の国際的評価を傷付けるもの。そうではなくて、過去にはたしかに悪いことをしたけれど、現在の日本は心から反省している、という日本国民の考え、態度をしっかり示すのが大事だ。実際に、日本の政府と国民はそういう態度を示してきた。総理のお詫びの手紙を手渡したり、アジア女性基金を設立し援助をしたりしている。このようなことは、韓国や諸外国には、ほとんど知られず、伝わっていない。著者は、今後は伝える努力が重要だという。
 これは、当時としては良心的なものだったと思う。しかし、その後の情勢であらわになってきたのは、例えば、韓国では、この問題は事実とか過去の問題というよりは、現在の政治的駆け引き、つまり、日本を批判することで政治家や政党が支持を得るためのものとなっている。また、慰安婦の関係者にとって利権が生まれているといったこと。したがって、著者の言うような、日本の誠意が伝わるということには、誠意には誠意が応えてくれるという前提があるが、その前提が怪しくなっているということで。むしろ、こういった人たちには、誠意よりも、パワーポリティックスで解決することによって現状よりメリットがあるという利益を用意することが、現実的であるということになっていると思う。その意味で、著者は教条的と言えると思う。

2023年9月27日 (水)

大沼保昭「「歴史認識」とは何か」(4)~第3章 戦争責任と戦後責任

 ほとんどの日本国民にとって、1945年8月15日というのは、とにかく悲惨な戦争が終わった、という日だった。当時の日本国民にとっては、自分たちはこんなにひどい目に遭ったという被害者意識が圧倒的だった。自分たちは、ごく普通の生活を営んできた庶民であって、何も悪いことをしたわけではない。それなのに、こんな塗炭の苦しみを味わわなければならないのは、なぜか、と。敗戦後から1970年代初めまでの25年間、日本国民は、侵略された側の人々のことを考えることはほとんどできなかった。加害者意識には欠けていた。
 戦争の責任を問う議論は、敗戦後すぐに出で来る。1945~48年が、その最初の盛り上がりで、この時期の戦争責任論は敗戦責任論、なぜ負けたのかで、この時には、他国に対して甚大な被害を与えたことの責任という発想はなかった。
 対外的戦争責任という視点のきっかけのひとつにベトナム反戦運動を著者は指摘する。いわゆるベ平連では、米軍のB52爆撃機は沖縄の基地から飛び立ってベトナムを爆撃しているし、使われたナパーム弾は日本で製造していた。そこから、日本は米軍に加担してベトナムの市民を殺害している、と問いかけたのだった。1970年代には、日本人のアジアでの振舞が問題になる。日本人の観光客による買春ツアーなど傲慢なふるまいが、東南アジアの反日感情を高めることになり、日本製品の排斥運動が展開され、打倒日本帝国主義を掲げるデモが頻繁に起こされた。この後に東南アジアを歴訪した福田首相は福田ドクトリンを発表する。日本が戦前に行ったことを踏まえて、より対等な立場で協力関係をやっていくと宣言し、経済援助を拡大した。
 1982年に教科書問題。つまり、文部省が教科書から侵略を進出に改める指導を行ったことがマスコミで取り上げられた。それが中国・韓国から強く批判された。1985年に中曽根首相が靖国神社を公式参拝し、問題が国際化した。その語、首相の公式参拝がされなくなった。これに対して、1993年に細川首相は侵略戦争を公式に認め、それが国際的に高く評され、その後に、村山談話が示され、その後に引き継がれる。
 戦争責任については、ここまで説明されてきたが、これに対して「戦後責任」は一般的ではなく、1950年代に一部の人が使った言葉だ。戦争責任と正面から向き合うことなく、他国民との関係において日本の戦争や植民地支配がもたらした様々な罪悪や不利益に対して十分な責任を取らず、放置してきた責任という意味だ。とはいっても、戦後の日本が責任を全くはたしていないわけではない。1970年代までの日本は貧しかったので、当時の賠償や経済協力には限界があった。そんなこともあって、日本は責任を十分に果たしたのかと問われれば、自信をもって「はい」と言い切れない。そのような現実を何とかしようという動きは2000年ころまではあった。それに対して日本政府や、関係諸国の政府もある程度対応した。その実例が、元慰安婦への償いであり、韓国の原爆被害者への手当、サハリン残留朝鮮人への永住帰還だった。
 なお、ネトウヨがヘイトスピーチで取り上げる在日韓国人・朝鮮人の「在日特権」について。敗戦時、日本国内には植民地として支配していた朝鮮半島から移住していた人たちが二百万人いたという。戦後、その4分の3が朝鮮半島に戻り、50万人が日本に残った。残った人々は、在日歴が長く、生活の拠点が日本となり、朝鮮半島とのつながりが薄れていた人たちで、当時の朝鮮半島は日本より貧しかったので、帰っても生活のめどが立たない人だった。1952年、サンフランシスコ平和条約が発効し、日本が独立を回復すると同時に、朝鮮人と台湾人はすべて日本国籍を失った。政府はこれを、過去の侵略主義の反省として正当化した。これまで、朝鮮人は日本の侵略主義の結果日本国民とされ、日本の対人主権に服していた。この対人主権を放棄することは戦前の侵略主義の反省に立った政策であるということである。しかし、実際には、朝鮮人の日本国籍を失わせるという措置は、公安警察的な発想に基づくものであった。在日朝鮮人には共産主義者が多いとされ、このまま日本にいさせると共産主義革命をやりかねない危険な存在である。そこで、日本国籍を失わせてしまえば、強制送還で自由に追いだすことができる。また、国籍を失うということは、国民としての権利を失うということで、国からの保護を受けられなくなる。ただし、納税などの義務は変わらないため、義務のみ課されて権利の保護を受けられなくなる。例えば、国民年金や住宅金融公庫の融資を受けられない。公務員になれない。子供が学齢に達しても地方自治体から学校の案内も来ない。民間でも、大手企業には就職できない。そういう差別の中で生きるために通名を名乗ることが必要だった。それが、ヘイトスピーチで批判される「在日特権」だ。これについて、北朝鮮や韓国政府からは、日本国籍がなくなるのは当然のことで、これは日本の支配からの解放であるとして、抗議されることはなかった。しかし、これは解放とは正反対の権利剥奪でしかない。そして、日本の戸籍は血統主義なため、アメリカのように現地で生まれた者は国籍を得るという出生地主義ではないため、二世、三世も外国人のままなのだ。このような法的な差別は1970年以降、徐々に廃止されてきている。
 一般の人々の生活意識のレベルでは、1970年代の日本は、高度経済成長で獲得した豊かさを基礎にして、いわば政府と市民社会の協働で、外国人、女性、身体障害者、戦争・植民地支配・郊外の支配者など、それまで社会で差別的待遇を受けながら沈黙を強いられてきた人々の声を、すくい上げる努力を続けてきた。それが80年代以降になると、一部の進歩派知識人やメディアで過度に倫理主義な主張が、大文字の「正義」と化し、とくに戦争や植民地支配について加害と被害に二分法てきに分ける。そこから、加害者としての日本人は、被害国からの批判に対しては、何を言われても我慢して聞いていなければならないとまでエスカレートしていく。著者は、そんなことは日本人の自分には無理だし、相手に対しても、同等の人間として見ていないで、駄々っ子扱いするという、相手を見下した行為になる。

大沼保昭「「歴史認識」とは何か」(3)~第2章 サンフランシスコ平和条約と日韓・日中の「正常化」─戦争と植民地支配の「後始末」

 1951年のサンフランシスコ平和条約により日本は主権を回復したが、その後に課題を残した。
 敗戦の賠償として日本国民の在外資産は連合国に没収され、満州や朝鮮半島、東南アジア等の在外居留者だった日本人は塗炭の苦しみを味わった。しかし、日本に侵略され、占領された中国やフィリピン等の諸国民から見れば、侵略者の一員だったわけで、侵略された側の人々は何の罪もないのに、全体として日本人より、はるかに大きな被害を受けている。このようなことから、当初はアメリカ政府内でも、日本を徹底的に無力化されるためのかなり苛酷な講和の条件が検討されていた。しかし、そうならなかった。その理由として、第1次世界大戦後のドイツの賠償請求があまりに苛酷で、かえってドイツ国民の反発を招き、結果としてナチスの台頭する余地を作り出してしまったことを教訓としていた。そのほかに戦後の冷戦体制が始まり日本を東アジアにおけるアメリカの同盟国として確保する必要がうまれたことがある。賠償請求を、ほとんど連合国は放棄した。ソ連も中国も放棄している。とくに、当時の日本は、中国がまともに戦争賠償を請求してきたら日本の経済は破綻していた。それほど巨額の賠償を中国は放棄したのだった。中国政府は。日本の対中侵略は一部の軍国主義者の責任であって、日本国民は中国国民と同じ被害者だとした。賠償を請求すれば、同じ被害者である日本の人民に払わせることになるからだという(だから、A級戦犯の祀られた靖国神社に首相が参拝することに神経を尖らせる)。現実には支払い不能な巨額の賠償を請求すれば日本の反感を買うだけで、賠償の放棄で恩を売る(それが、後の日本の巨額の対中援助を引き出した)という現実認識と、日本と台湾を断交させるためのカードとして用いるという配慮のためだったという。
 したがって、敗戦により日本は苛酷な賠償を課されたと批判をする人々は、国際社会ではまったく通用しない。日本に対する賠償請求を役務に限るとした平和条約により、当時の吉田首相は、日本人はとにかく働いて過剰なくらい生産し、それは無償で賠償請求国に提供する形で賠償を払うという賠償ではあるが、日本が経済的に再び繁栄するために必要な投資であり、必要経費のようなものだ、と言った。日本で生産したものを送ることで、それが販路の開拓になる。役務賠償だから最初はお金を受け取れないが、現地に日本製品の修理や整備の工場が作られ、部品の販路や関連会社ができて、ネットワークを相手国につくる。このようにして、その後日本が輸出で稼ぐ貿易のインフラを賠償という形で作り上げることができた。
 一方、賠償を受けた側の事情として、例えばフィリピンは激戦地で日本軍による被害は甚大なものだった。そのため80億ドルという巨額の賠償を要求した。しかし、日本には支払い能力がないということで5.5億ドルまで要求額を下げさせられた。当時の東南アジア諸国は、きわめて貧しく、すぐにもお金が欲しかった。賠償交渉をいつまでも続けるよりも、今、お金を払ってほしかった。ところが、その後、日本は高度経済成長に入り、経済大国になってしまう。1950年代の時点では賠償は払えなかったが、分割払いとすることで、その後に支払を完済した。これと合わせて準賠償と呼ばれる経済協力を通して、東南アジアとの貿易と投資を増大させる。東南アジアが日本への賠償請求で妥協したのは、自虐史観の主張するように旧日本が戦争でアジアを白人の支配から解放した感謝のためではないということだ。事実として進出した国の資源を得たわけで、アジアの解放というのは戦況が悪化する状況でアジア諸国の支持を集めるための宣伝でしかなかった。今日、東南アジアが親日的なのは、戦争でアジアを解放したからではなく、戦後の日本が誤った戦争を深く反省して平和主義を徹底し、戦争の廃墟から懸命に努力して経済的繁栄と平和で安心な社会を作り上げ、さらに東南アジア諸国をはじめとする途上国の人々に対して熱心に経済協力技術協力を行ってきたから。そこを誤解すべきではないと著者は言う。

2023年9月25日 (月)

大沼保昭「「歴史認識」とは何か」(2)~第1章 東京裁判─国際社会の「裁き」と日本の受け止め方

 第2次世界大戦終結後、敗戦国であるドイツはニュルンベルク裁判で、日本は東京裁判で戦争指導部が裁かれた。戦争で負けた側の責任者を国際法で裁く大掛かりな裁判というは史上初めてのことだった。ただし、これは日本やドイツという国家を裁く裁判ではなく、戦争の主要責任者の個人的な刑事責任を裁く裁判だった。日本の敗戦で主に戦い、決定的な役割を果たしたのはアメリカだったので、アメリカの発言権は圧倒的で、4か国の勢力均衡のうえで行われたニュルンベルク裁判とは状況がことなり、そのためソ連が口出しする余地がなかった。これらの裁判は勝者の裁きと、後世では批判される。しかし、それまでは、戦争の勝者が敗者を勝手に裁いたり自決させたりしていたし、戦勝国の国内世論は、それを当然として「ヒロヒトを縛り首に」といった声が圧倒的に大きかった。また、戦争の末期には世界中のほとんどの国が日独に宣戦布告していて有力な中立国はほとんどなかった。そういう当時の状況では、考え得る最大限の公平な裁判だったのではないかと推察される。
 前述のように東京裁判はアメリカの主導で行われたので、英米法の影響が強い。その具体的な現われが「共同謀議」という犯罪類型が採用されたことにある。これは、アメリカでマフィアなどの組織犯罪を取り締まるうえで強力な効果を発揮した犯罪類型で、共同謀議が認定された被告人は途中で明確に仲間から離脱した証明がない限り、仲間の全行動に責任を負うことになる。組織の犯罪行為に直接関わっていなくても、仲間であるということで責任を問うことができるという、マフィアを一網打尽にできる強力な武器だった。これを戦争指導者の裁判に持ち込んだのだった。この共同謀議については強引ではないかという批判はある。そして、裁判の根拠法となったのは極東国際軍事裁判憲章だったが、「平和に対する罪」の根拠とされたのは不戦条約で、日本の軍事行為は不戦条約の違反であることについて、当時の国際法学者をはじめとして広く認識を共有されていた。ただし、違法であることと、犯罪であることは別問題で、日本が国際法に反した戦争をやったからといって、国の指導者の刑事責任を問われることにはならない。これは近代法の原則に反する。
 東京裁判に対して、当時の日本の国民は、自分たちを戦争でひどい目に遭わせたお偉方が裁かれるのは当然という冷ややかな目で見ていた。当時の日本人は、空襲などで痛めつけられており、戦争の加害責任を考える余裕はなかった。しかし、裁判の結果については、おおむね受け入れられていたと言える。
 それが1980年代になり、一部の人が「東京裁判史観」批判をするようになった。でもそれって、現代の視点で後出しじゃんけんのように、あれは不公平とか言っているんだよね。それがよくわかる。
 この批判は、東京裁判の弁護団が言っていたことの焼き直しで、新鮮味がなかった。その根底には、日本の戦争が国際法上違法な侵略戦争であったという判断を認めるべきでないという考えがある。しかし、これは国際社会の認識とはかけ離れたもので独善的だ。著者は、むしろ、日本はたしかにかつての侵略戦争を行って東京裁判で裁かれたけれども、戦後そのことを深く反省し、平和憲法の下で、米ソ英仏中などの連合国側の主要国よりもはかなにましな行動をとってきた。このことを、日本国民は誇っていいという。そういう日本だからこそ、日本を裁いた国の指導者や戦争犯罪人を同じ法で裁かれるべきだ、言えるわけで、そういう形で世界の平和を脅かす行為を批判していくのが、不公正な面をもっていた東京裁判を正し、逆に活用していく道だと主張している。
 著者のこのような主張に、本書の刊行当時は、感心したものだった。しかし、このような一見公正で良識ある主張は、例えば、昨今のウクライナへのロシアの軍事侵攻に対しては、単に戦争という暴力はいけないから現時点で即時停戦すべきとか、喧嘩両成敗のようなことを主張する、あるいは中国の軍事力を背景にした領土侵犯や戦狼外交に対して話せばわかるを繰り返す教条的なリベラルに根拠を与えているところがあり、良くも悪くも優等生的な正論で、メリットもデメリットもあると認識を改めている。

2023年9月24日 (日)

大沼保昭「「歴史認識」とは何か」

11114_20230924230701  8年前に読んだ本の再読。当時は日本と中国や韓国との関係が険悪で、なかでも歴史認識をめぐる問題はその象徴的なものだった。そんなときに本書を読んで、冷静でありながら、決して傍観者として突き放すことをしない語り口に感心した覚えがある。しかし、8年経った今、読み直してみると、著者の言っていることも時代の制約を受けていること、もっというと、今の視点で見れば、著者のバイアスが見えてくる。読んでいる私自身の視点にも変化はあったと思うが、時代の変化というのはおそろしいところがある。当時は、偏りがなく良心的にみえた著者の主張は、今なら、ソフトではあるが教条的なリベラルとして整理されてしまう可能性があると思う。ただし、著者の姿勢は、根本的に良心的で、時代の制約の中で最大限の努力を怠らないところは尊敬すべきものだと思う。
 また、8年前は江川紹子によるインタビューに答えるという聞き書きの形式、いわば対談のようなものとして、比較的気楽に読んでいたが、今回、気がついたところをメモしながら、ちゃんと読んでいくと、かなり内容の充実したもので、それぞれについて深掘りこそされてはいないが、ハードカバーの分厚い単行本に匹敵するものであることがわかった。これだけでも、いわゆる戦後自虐史観といった歴史修正主義的なものに対して、その主張の根拠のレベルでの十分な反論になりうるものになっていると思う。
 ただ、書名からは「歴史認識」の内容について語られるかと思うが、実際はそうではなくて、歴史認識、とりわけ。日本が第二次世界大戦の戦争を起こし、アジア諸国を植民地として支配したことに対する、戦後の反省と対処が歴史認識に絡む問題として語られる。著者が終始語っているのは、歴史認識として取り上げられた事例に取り組む姿勢についてで、端的に言えば、例えば慰安婦問題などについて、すべての人が満足するような100%の解決はあり得ない。だからと言って解決を諦めるということではなく、日々の生活で直面する様々な課題を100%か0かで対処するのと同じだという。

 

2023年9月23日 (土)

小坂井敏晶「民族という虚構」(7)~第6章 開かれた共同体概念を求めて

 民族をはじめとする集団同一性をモノとしてではなく、社会構成員間で営まれる相互作用の運動として把握することで、集団同一性が変化する過程を、本書は色々な角度から説明してきた。ここでは、同一性の変化という事態を考察する際の認識論上の問題を整理していく。
 かりに、同一性を中心的価値と周辺的価値に分けて考えてみる。中心的部分に属する事項は変更を受けにくいのに対して、周辺的部分では容易に異文化要素を受容できる。したがって、異文化が与える衝撃はまず周辺部で吸収され、緩衝される。そのおかげで、異文化受容による自己の客観的変化にもかかわらず、文化・民族同一性が維持されているという主観的感覚が保たれる。このような構図で集団同一性の変化をモデル化できる。しかし、このモデルでは、中心部はいつまで経っても変化しないことになり、集団同一性を保証する本質的部分の変化が説明できない。同一性を集団自体に内在する性質として把握すると項だけで完結するものとすると、集団自体が変わることが説明できなくなる。同一性の根拠は内在的性質にではなく、同一化という不断に繰り返される運動にある。実体的に捉えるのではなく、構成員の相互作用が生成する虚構の産物として集団同一性は理解される。集団同一性が実体的に存在すると誤認するから、同一性の変化というパラドクスに遭遇してしまうのだ。見方を変えて、実は我々の世界は数限りない断続の群れから成る、しかし他者との相互作用の中で密かに生みだされる虚構の物語のおかげで、世界が連続しているという感覚が捏造される。民族は一瞬たりとも同一性を保ってはいない。民族は常に変化し、構成要素の更新が止まることはない。
 そうすると、議論の初めの中心と周辺の区分は次のように考える。中心と呼ばれるものは、主観的に感知された集団間の差異=境界を生み出す象徴的要素群のことであり、それに対して周辺とは、集団を分離するための基準として機能しない要素を意味する。したがって、中心や周辺は固定した客観的領域として捉えられるのではない。中心や周辺は実体化せず、機能の観点から捉える。どの要素が中心的役割を担わされるかについては歴史・社会的状況によって決定されるのであり、要素の客観的性質自体から、その中心性あるいは周辺性を規定することはできない。民族の同一性が次第に変遷するプロセスは、同一性を支える中心は何ら客観的根拠を持たず、時間が経過するに従い、中心の機能を果たす象徴的要素もゆっくりと、しかし不可避的に他の要素によって取って代わられてゆく。
 我々の日常生活環境は、正否を客観的に確かめられる情報ばかりではない。したがって、社会で日々引き起こされる諸事件の信憑性や芸術作品の評価など多くの分野で、他人の意見・判断と比較して自らの認識の正しさを確認せざるを得ない。例えば、同性愛など社会でタブーになっている事柄に対しては、いくら自分の信念が固くても、周囲の人々による嘲笑や差別などの社会的制裁を招く状況では、それに逆らって自らの信ずる通りに発信し、行動するのは難しい。そこで自己防衛のために同性愛者である事実を隠す。このように、社会規範が誤っていると自分では信じていても、長いものには巻かれろの格言とおり、常識や良識に沿った行動をとるのが普通だ。多数派によって少数派が影響される過程がなければ、社会生活は安定しない。しかし、権力・権威・声望などを有する多数派が影響を行使する際には、その影響効果が表面上の浅薄な追従の形をとることが多く、長く継起し無意識にまで到達する深い影響は与えにくい。影響源である多数派が目の前にいるか、あるいは実際にはいなくても心理的圧力を与える間は、影響源の提示する意見・判断を受け入れるが、その影響源が物理的にまたは心理的に消え去るやいなや、人は多数派の権力・権威・声望などの呪縛から逃れ、自らが持っていた意見・判断・信条を取り戻す。それに比べて、少数派が影響を行使する場合は、すぐにその効果が顕在化することは少ない。それどころか往々にして反発を引き起こす。少数派と同じ立場を公然と表明すると、嘲笑を買ったり、社会的制裁を受けやすい。また軽蔑の対象になりやすい少数派に対しては誰でも心理的同一化を避けるため、少数派の影響は拒絶されがちになる。少数派による影響の可能性は間接的かつ無意識的な形で現れるから見逃しやすいだけだ。少数派と同じ立場を意識的にあるいは公然と採ることは、自分自身が少数派の一員に分類されることを社会的にあるいは心理的に意味する。このとき、本人は知らずに影響を受けているので、時間差を伴って影響効果が現われる場合が多い。後ほど時間が経ってから影響が強くなる。このように、多数派の影響力は表層に留まるのに、少数派は深層に至る実質的に影響効果をもたらす。
 影響とは他者から一方的に被るようなものではない。他者はいわば化学反応における触媒のような役を果たす。この触媒に触発されて人は自らを変革するのだと言ってよい。もちろん化学反応の触媒とは違い、他者は不活性のままに留まらない。相互作用の中で他者も同時に影響されてゆく。双手を打ち合わせて聞こえる音が左手から出るわけでも、また右手から出るわけでもないように、変化の源は情報の送り手もまた受け手にも存在しない。

2023年9月22日 (金)

小坂井敏晶「民族という虚構」(6)~第5章 共同体の絆

 民族とは血縁連続性や文化固有性に支えられた実体ではなく、人間が歴史的に作ってきた虚構の物語であると、これまで述べてきた。そこで、ここでは、民族共同体が虚構の産物であるなら、ユダヤ人虐殺に対するドイツ人の責任を問えないのではないかと問う、このような集団的責任に関心を向けるのは集団の論理構造を分析するのに都合がいいから。
 まず、集団の総意により、例えば国家の名において為される行為に対して、その時点での構成員は責任を負う。日本という国家の名において犯罪行為が今、為されている場合には、その行為を阻止するだけの十分な努力をしなかったり、あるいはその政策を積極的に支持するのなら、日本国民一人一人に責任が発生すると言っていい。しかし、集団責任として問題にしようとしているのは、集団に属する各構成員の個人責任だ。犠牲者が受けた被害に対して、共同体の各構成員が直接または間接にかかわるところで発生する個人責任である。ある集団に属する個人が犯罪行為を行った場合、同じ集団の構成員であっても、犯人以外の他の個人には責任を負わせることはできない。犯罪者が日本人だったからといって、他の日本人にも責任があるとは言えない。同じようなことを空間軸から時間軸に移しても言える。例えば、生まれる前の戦争の責任を日本人だからと負わされることはないということだ。行為に対する責任は、その行為を避けることができたにもかかわらず阻止能力を行使しなかったり、あるいは率先して行為を実行した場合にのみ発生する。そこで、当該世代の犯罪行為を阻止する能力は、それ以前の世代にも、以後の世代にもない。従って、過去の未来も責任を負うことはない。
 しかし、現実には論理的筋道とは反対方向に、前の世代の行為に対しては責任を感じるのが普通だ。この事実は集団責任の感覚が、行為の因果関係とは別の原理に拠っていることを示している。個人のレベルでも、親が殺人を犯した場合、子供には責任がないが、子供当人にとっては、自分の問題ではないと平気でいられるわけではない。ここに表われている責任拡大の感情は、子から親への自己同一化に由来する。
 これは、ある時点において共同体を構成する複数の部分集合間での責任移転を可能にする範疇化とまったく同じ構造の論理的誤謬です。世代間の責任移転、ある時点での共同体・国家(O)、次の時点における共同体・国家(P)、その次の時点における共同体・国家(R)…という世代群を一つの集合に括り、それを例えば「日本」という固有名詞の下に同定することで可能になっているのだ。
 とひろで、共同生活を円滑にするために、人は様々な擬制を生みだしてきた。この擬制は社会契約的観念として不可欠であり、虚構であっても、それを仮想的実体として我々は認めている。人間どうしが人工的に定めた約束としてこのような擬制は機能している。例えば、法律は擬制の連続性という虚構の物語を用いて、社会や国家の同一性を保証している。国家や共同体の連続性は、社会が機能するために必要な条件として疑似的に想定された契約観念である。ということは、もしこのような社会契約を受け入れず、国家あるいは共同体の連続性を否定すれば、集団責任は発生しないはずだ。例えば、「個人として生きているのであって、私は自分のアイデンティティを日本人であることに置いていない」と言うだけでは何にもならない。そのような意識を持っていても、私の存在は日本という名の虚構に否応なしに搦め取られている。意識しようとしまいと、日本と呼ばれる政治共同体に帰される行為群が生み出した歴史的条件に私はどっぷりと浸かっていて、その条件から離脱できなければ、日本という虚構と自分は無関係だと言っても意味がない。
 著者は、近代に生まれた合理的な契約をベースにした個人主義の可能性に論及するが、ルソーの論を突き詰めると、全体主義的なものに至ってしまうと、そこに近代合理主義の陥穽に言及する。この議論は面白いが、本論からすれば、脇道なので、ここでは触れない。
 ここでは、構成員の間で営まれる相互作用の産物として集団現象を見ていく。集団を実体として捉えず、個人間に生ずる相互作用の角度からその理解に努めることは、集団現象を個人心理に還元することを意味しない。それどころか、個人間の相互作用の結果として集団現象を理解することで、社会の運動と個人の心理との間の橋渡しが可能になる。社会は個人の集合にすぎないことを認めながらかつ、構成員の相互関係が生み出す産物が個人の主観から遊離してずれていく。個人現象と集団現象は互いに螺旋を描いて循環的に作用する。このように分離した個人の群れを再び結びつけるためにはどうしたらいいか。
 人間は、他の動物とは比べものならないほど、外界に開かれた認知構造に支えられている。人間は自己完結した存在ではなく、外界からの影響を恒常的に受けながら、他者との関係の中に置かれたはじめて安定した生が営めるように宿命づけられている。情報交換の場の力学に恒常的に身を曝す解放された認知システムとして人間を捉えることができる。人間の自律性は、他者との恒常的な情報交換の中で変遷し続ける動的な均衡状態として捉えられる。このような人間の根本的な不完全性、開かれた性格を前提にすると、人々の間に絆が生まれるという現象が、人間の本性の裏返しにすぎないことが分かる。
 例えば、芝居や音楽における間である。それは、ある音声が出て次の音声が出てくるまでの単なる時間的空隙ではない。間とは、音声と音声とのあいだに積極的に定められる関係のことだ。その関係とは、音声という項が初めにあって、それらの項が結ばれてできる固定的なものではなく、間という関係ができると同時に、各項としての音声もも変化せざるを得ない動的なものとして理解される。同様に社会という現象も、個人がまず存在して、その個人が集まって相互関係を営むと言った構図で把握するようなものではなく、複数の個人が相互関係を結ぶと同時にその相互関係がまた個人を変化させるという絶え間ない循環過程を通して、人間という存在そして社会という関係が捉えられる。間は音声の単なる欠如ではなく、各音声は孤立した本質を持たない。個々の音声を変質させる力として間が作用してはじめて、音楽や芝居という複雑な意味世界が成立する。同じように、各個人が自律的に完結し、外に対して閉じた存在であったならば、個人をいくら集めてみたところで共同体は生まれない。人間が本質的に欠如を内在する関係態だからこそ、言い換えると、人間には本質なるものがそもそも存在しないからこそ、他の生物とは比べものにならない複雑かつ多様な共同体が成立する。欠如や不完全のおかげで、運動が生まれ、変化が可能になる。

2023年9月21日 (木)

小坂井敏晶「民族という虚構」(5)~第4章 物語としての記憶

 記憶の作用に関する論議を抜きに、民族という現象を論じることはできない。集団的記憶には、権力によって意識的に捏造された虚偽だけでなく、民衆の間に無意識的に発生する作り話が多く混在する。同一性を根本的に規定しているのが記憶の働きであるという事実から、記憶とその忘却・歪曲は不可分な関係にある。原理的に同一性は虚構に支えられている。
 我々が世界と結びつくのは記憶の働きによっている。そのような結びつきが我々の同一性を保証する。我々が自己と呼ぶものは、社会的磁場の力を受けながら生成される。どんなに個人的と思える感情や好みでも、育った文化圏の影響を強く受けている。自己とは、社会的価値の内在化によって生成される客観的契機と、それに対して常に反発する主観的毛糸が織りなす動的なプロセスである。自己は現象として捉えられる。この時、記憶は事実認知の集積ではなく、何らかの構造化がなされている。つまり、記憶とは内在化された社会関係そのものではなく、それを出発点にしてそれぞれの瞬間ごとに新たに構成され続ける、沈殿物であると同時に動的なプロセスでもある。このように、常に新たに構造化され続ける契機として記憶を捉えれば、記憶が忘却や歪曲を必然的に含むのは当然と言える。
 我々は日常生活の中で複雑な情報にさらされていて、それらが相互に矛盾することも珍しくない。それに対して、自我が脅かされる時、その危険から自我を守るために、意識内容が歪曲されたり、忘却されたりする。それだけでなく、人は自由意志により行為すると思われているのは、実は、知らず知らずのうちに外界からの情報に影響されて判断や行動をしている。しかし、その事実が隠蔽され、あたかも自分が主体的に選択した行為だと錯覚してしまう。自由意志などというものはなくて、あるのは自由の虚構なのだ。
 他人の意見に流されず自分の頭で考えて判断・行動し、自らに対して責任を持つといった自律的自我像が近代では理想になっている。しかし心理機構の原理からしてそんな人間はあり得ないので、個人主義的とは、外部情報に依存していても、それに無自覚だという意味にすぎない。したがって、何らかの行為を行った後で、「なぜこのような行動をとったのか」と自問すると、個人主義的な者ほど、自らの心の内部にその原因があったのだと内省し、自らの行動により強い責任を感じる傾向が強い。そのため、行動と意識との間の矛盾を緩和しようとして自らの意見を無意識に変更しやすい。合理的な自己像を保とうとする個人主義者こそ、合理化=正当化の罠に搦め捕られやすく、したがって影響されやすい。強制されている事実に気づかず、自らの意志で行為を選択するという虚構が、かえって、このような影響を可能にする。我々は他者そして外部環境によって常に影響されている。しかし巧妙な合理化機能のおかげで自律の感覚も同時に保たれている。自分自身で意志決定を行い、その結果として行為を選び取ると我々は信じるが、実は原因と結果とが転倒している。人間は合理的動物ではなく、合理化する動物なのである。
また、知覚についても外部の単なる刺激受容ではない。生理的刺激の混沌とした束を、社会的に規定された仕方にしたがって切り取り、範疇にまとめ構造化して意味を与えるという、捨象・付加・歪曲を必然的に伴う合成的現象として知覚を把握しなければならない。我々が日常何気なく行う認知は、緻密な情報収集を通して犯人を合理的に判定する裁判官のような仕方でなされるわけではない。人や物に対して、これは友人だとか、あれは机だとかという判断をする際に我々を支える確信は、解析的方法からは決して生まれない。そこには単なるデータの集積と合理的判断を超えた虚構が必要になる。つまり、我々を取り巻く世界は虚構を通して構成されながら把握される。個人の基礎的な知覚機能でさえも、過去の記憶と照らし合わせて新しい情報は常に加工されながら編入されていく。しかしまた、外部からもたらされる新情報が過去の記憶自身をも変化させ、自己再構成を引き起こす。記憶は、構造化された沈殿物であると同時に、新しい経験を構造化する力動的に過程である。
 個人的記憶にみられる合理化と捏造の仕組みは、集団的記憶が作り出される過程においても同じように機能する。
 イデオロギー・宗教・科学・芸術・言語・価値・道徳規範・常識など、集合的に構成される精神的産物は、多くの人々がしかも時間のズレを媒介に相互作用する中からできあがってくる。そこには必ず情報交換が夥しい頻度で行われている。ところで社会は、世代・性別・社会階層・政治信条・宗教などを異にする人々により構成される。このように様々な人々の相互作用の中での情報伝達は、既存の世界観に新しい要素が並列的に加えられることではあり得ない。そこでは、既存の構造と異物との葛藤から、捨象・付加・歪曲などが無意識的に生まれ、能動的な合成・統合が行われる。言い換えるならば、情報交換・伝達は同一社会内であっても、異文化受容の過程として捉えられる。
 また、過去に生じた出来事に対する想い出の単なる累積物のような静的なイメージで集団的記憶を捉えるのは間違っている。日々の新しい経験が共同体の記憶に付け加えられる都度に、過去の記憶全体が再構成の胎動を受ける。個人的記憶の場合と同じように、既存の記憶という磁場が行使するバイアスを通して新しい経験は咀嚼され、集団的記憶は日々更新されながら維持される。つまり、記憶は、集団の場合も、新たな経験を構造化しながら蓄積してゆく動的なプロセスとして捉えられる。
 このような記憶の歪曲を心理的にみる。ある対象を前にするや否や、我々は自らの持つ世界観に従ってすぐさま対象を解釈し、再構成する。そして主観的に構築された表象をもとに我々は態度決定したり、評価したりする。行為者の世界観に応じて、Aという対象はすぐさまA´という異なった表象に変換される。そして我々が反応するはA´という表象に対してであり、Aという対象そのものに対してではない。ある情報や対象に遭遇するとき、即座に我々は記憶、すなわち過去の経験が構造化した沈殿物と照らし合わせて解釈する。新しい知識の獲得とは、空の箱に何か新しいものを投入するようなことではない。箱はすでに溢れんばかりに詰まっている。そのままでは余分の空間がないから、既存の要素を並べ替えたり、場合によっては一部の知識を放棄したりしなければ、新しい要素は箱に詰め込めない。我々の世界にはいつも意味が充満している。新しい情報の受容は、単に既存の世界観に新しい要素が並列的に加えられることではない。既存の構造と新情報との間の葛藤を通して、能動的な再構成が常に行われている。
 そうなると、事実というものがことそれ自体ではなく、その表象であり、人々によって真実と判断されることと切り離すことはできない。真理とは、正しい人間によって確信されることが、その定義なのである。あるものの存在が証明されたと人間に感知された場合に、存在するという表現が使用されるのであり、そのような条件が満たされることが存在の定義をなす。人間によって存在が認められていない時は、存在するにもかかわらずその事実が発見されていないのではない。そのような状況においては単に存在しないのだ。人間を超越する場所がない以上、本当には存在するが、それがまだ発見されない状況と、本当に存在しない状況とを区別する手段はない。したがって、そのような区別は意味をなさない。つまり、人間によって確信を持たれるかどうかが真理の根拠なのである。
 この確信が生まれるためには、単なるデータの集積と合理的判定を超えた何かが必要になる。そういう意味では、確信は宗教的信仰に似ている。

2023年9月20日 (水)

小坂井敏晶「民族という虚構」(4)~第3章 虚構と現実

 民族は虚構に支えられなければならない現象だが、我々の生活を根底から規定する現実でもある。民族に限らず、個人心理から複雑な社会現象に至るまで、実は虚構と現実は密接なかかわりを持っている。この場合の虚構とは、嘘や空言といった事実の否定ではなく、それどころか虚構の助けなしには、我々を取り巻く現実がそもそも成立しない。社会・心理現象は虚構に支えられており、それなしには社会生活自体がありえない。
 実際の生活の場面で、嫌だと思う人を目の前にすると、人は無意識に否定的態度をとってしまう。それに敏感に反応した相手の態度は当然ながら好ましいものではなくなる。そこで、「やはり、嫌な奴だ」という確認が為され、自らの態度が正当化される。嫌な奴だという現実が出来上がる。このように信念が現実を創出する循環現象を予言の自己成熟と呼ぶ人もいる。これが、大きな社会で起こると、根拠のない偏見が現実を作り出すことになる。
 人間は外界に対して何らかの先入観を通して接する。対象の意味は観察者・行為者から独立して存在することはなく、ある状況の下に、その対象に働きかける観察者・行為者との関係により、その都度きまる。現実は必ず観察者・行為者によって馴致され、構成された表象を通してしか把握されない。したがって、相手が悪意に満ちているという印象を持つとき、それが事実かどうかは別にして、その表象に応じて我々は行動する。そしてはじめは表象と現実の間に齟齬があっても、表象が生み出す行動がついには現実を捻じ曲げて表象を正当化する事態を生みだすようになる。
 虚構を現実の否定だとして現実と分離して理解すると、虚構や嘘で固められた我々の現実とは別のところに本来あるべき真実の社会が存在すると考えてしまいがちだ。しかし、実は、我々が生きている現実は、根本的な意味での恣意性を含んでいて、絶対的根拠なしに成立している。そして、無根拠であるにもかかわらず世界が円滑に機能するためには、人間によって様々な虚構が生み出され、それらが人間によって信じられる必要がある。虚構の物語が自然に生成されと同時に、その虚構性が人間自身に隠蔽されなければならない。例えば、習慣は、世に受け入れられている、ただそれだけの理由で正しさの基準となる。社会制度は、まさにそれが生まれる時期に、作り出した当事者にとっては主観的あるいは契約により生みだされた人工物として捉えられているのに対して、次世代の社会構成員にとっては、既に存在している客観的存在で、彼らの意志とは独立した秩序あるいはシステムとして現われる。我々を縛る現実は論理的根拠があって成立しているわけではない。はじめは舎監的で恣意的な取り決めに過ぎなかったものが、時間を経て客観性を帯びて我々の目に映るようになった社会的沈殿物が、現実という現象の正体なのだ。
 しかし、そういう現実の正体は隠蔽される。社会秩序が様々な虚構のおかげで機能しているという事実そのものが人間の意識に対して隠蔽されなければ、社会秩序が正当なものとして我々の前に現われない。つまり、虚構の成立と同時にその仕組みが隠蔽されることが、社会生活が機能するために不可欠の条件となる。このように虚構と現実の関係は根源的に分離不可能なのだ。
 我々を巻き込んで作用する様々な社会現象は、人間どうしの相互関係から生まれてくる。人間がいなくなれば、当然ながら社会現象も同時に消えてなくなる。実際に思考・行為するのはあくまでも個々の人間だ。人間から遊離して存在する「民族の意志」などという実体があって我々の世界を動かしているわけではない。しかしそのことは、個人が自由にあるいは意識的に社会現象を操れるという意味ではない。社会は人間が行う様々な営為の産物だが、かといって人間が計画的に作るようなものでもない。個々人の相互作用が生み出す結果は、生産者自身の意図をしばしば裏切り驚かせる。社会現象や制度は人間を超越した位相で立ち現われる。人間が生みだした生産物であるにもかかわらず、社会制度は人間から独立して自律運動をする。人間相互の関係が総合されて客観的な外力として人間に迫る。人間の主体性が失われ、人間が作り出した宗教・イデオロギー・生産関係などによって人間自身が逆に縛られるようになる。このようにして主体と客体の位置が逆転する。たとえば、マルクスは、これを疎外と呼んだ。
 ところで、人間は意味の世界に生きていて、他の生物とは比べものにならないほど、外界に開かれた認知構造に支えられている。固定した本能に縛られないおかげで人間は、文化という複雑な意味体系を生みだした。文化は様々な規範・価値を通して我々の思考・行動に制限を加える。その意味において、人間の自由は限定を受けるが、その社会規定性のおかげで、日常生活の様々な場面での行為が可能になる。相手に対して攻撃するつもりがないことを示すために、犬ならば尻尾を振る。これは遺伝子的にほぼ決定されている。これに対して人間はもっと自由であり、好意を示すという同じ目的のために多様な表現か形成されている。そこで、社会制度が人間の思考や行動に規制を加えなければ、相手に好意を示すためにどのような表現をすべきかの決定さえ困難になる。相手も、示された表現がどのような意味をもつのかを判断できない。このように、人間の思考や行動が社会制度によって規制されることは、人間の生を可能にする必要条件となっている。かしいって、人間の作りだす規制の恣意性がそのまま露わでは、他者が行使する強制力として規則が感じられてしまい、社会生活が円滑に営まれない。したがって、社会環境行使する規制に何らかの正当性が付与されなければならない。そのためには、社会秩序が人間全体から超越した相において人々の前に現われる必要がある。社会制度は人間が決めた慣習にすぎないが、その根本的な恣意性が人間自身に対して隠蔽され、さも自然の摂理であるかのように表象されてはじめて正常に機能する。著者は、その典型的な例として支配の正当性をあげている。
 さきの疎外の場合は、この社会秩序がもともと恣意的であることが隠蔽されなくなり始めたことで発生する。つまり、社会秩序が恣意性を免れた根拠あるものとして映らなければ、つまり、虚構が機能しなければ、単なる暴力や不当な強制力として感知されてしまう。

2023年9月19日 (火)

小坂井敏晶「民族という虚構」(3)~第2章 民族同一性のからくり

 前章では、民族を構成する人々の類似性を問い直す観点から同一性を考察してきた。しかし、これは、あるものがそれ自身と同一であるという本来の意味での同一性とは異なっている。民族の同一性を捉えるためには、全体としての集団がどのように連続性を保つのかを明らかにする必要がある。
 民族という言葉が使用されるとき、時間の経過とともに様々な要素が変化するにもかかわらず、その集団は綿々と続く何かが存在しているという了解がある。その根拠として次の3つが考えられる。第1に、個々の人間を超越する何らかの本質、例えば超歴史的な「民族精神」が存在する。第2に、構成員間の血縁連続性によって、血縁を保つ大家族として維持される。第3に、文化的継続があるかぎり民族的同一性は保たれる。
 まず第1の考え方について、個人を超越した存在として民族を、いわば有機体のようにとらえる考え方である。しかし、これはあくまでも認識論的な観点であり、存在論的な観点からではない。つまり、民族を有機体としてとらえても実体として存在しているわけではない、ということだ。集団は人々が参加する彼らの相互の関係が実体だろうが、その関係は複雑すぎて、人々は完全に把握しきれない。そこで、この集団が自足的に同一性を保っているかのように扱う以外の手立てがない。そこで、民族がまるで単一の存在であるかのように、方法上の手続きを余儀なくされている。ことはいえ、このような集団現象は人々の相互作用から生まれるものであり、人間を離れて存在することはできない。民族が自律運動をしているように見えても、主体性を持つ実体として民族を措定することはできない。
 第2の考え方について、同じ祖先から派生しているという感覚がメンバーに共有される条件として、遺伝による身体的類似性というよりは、身体的形質が特定の文化や歴史的文脈の中で解釈されて、血縁関係の証として了解されることで、同じ民族に属するという感覚が発生する。お互いに血縁関係があるという感覚が共有されることから政治的共同体が形成される。そして、その中から共同生活を含む共通の言語や文化が発展する。しかし、逆に、複数の人々が共通の未来を描き、運命共同体としての政治機構を構成する時、はじめは人工的な集合に過ぎなかったのに、数世代にわたって共同生活を営むうちに先祖を同一にしているという神話が後になって出来上がることも多い。単一民族国家といわれる場合は、このケースだ。これらの国は、はじめから単一民族で構成されていたのではなく、内部での政治的統一が可能であったために、一つの民族という表象が後ほど出来上がったのである。従って、血縁関係とは生物学的な与件に限らない。むしろ、共同生活の経験、過去に一緒に育った記憶、あるいは文化内に広まる家族概念・規範などという、社会的あるいはイデオロギー的要素に起因するものだ。したがって、血縁というものは、本来主観的なものであり、社会的に構成される虚構の産物なのだ。第3の考え方について、例えば、日本文化に固有の構造や内容が歴史を貫いて存在するだろうか。オリジナルな日本文化を求めて外来のものを取り払って残ったコアなものがそうだと考えられたが、結局何も残らなかった。その継続についても、生まれたばかりの子供は無垢だが、家族や社会の中で規範や価値を身に着けていく。そこで、文化が継承されることは間違いない。しかし、全く同じ内容が再生産されるわけではない。前の世代からはズレて変遷する。したがって、古代からずっと同じ形で続く文化はあり得ない。民族の魂のように言われる言語も、文化・語彙・表記法等がどんどん変化する。そもそも日本語が国語となったのは明治維新後に人工的に為されたことであるし、そのように、近代化の過程で人工的に作られて、後付けで伝統的とされたものは世界にも多くの事例がある。このように民族や文化を実体的に捉えるという発想を著者は否定する。しかし、それにもかかわらず、民族が同一性を保つという感覚はなくならない。ここで著者はテーセウスの舟の逸話を紹介し、その舟の同一性はどのように確保されるかというと、それは船自身には、同一性の根拠はないという。ではどこにあるかというと、人々、とくに外部の人々が同一であると信じるという点にある。同一性の根拠は、対象の内在的状態にではなく、同一性という運動を生じさせる社会・心理現象に求めなければならない。
 万物は流転する。絶え間なく変化する対象や主体の同一性はモノとしてではなく、コトとして把握しなければならない。集団同一性は、共同体の各成員によってそれぞれの瞬間ごとに構成・再構成される。集団同一性を実体化するから、実体の変化などと表現自体が形容矛盾に陥ったような状況の前で右往左往してしまうのだ。我々は発想を根本的に転換し、世界は同一性や連続性に支えられているのではなく、反対に、断続的な現象群の絶え間ない生成・消滅が世界を満たしていると。虚構の物語を無意識に作成し、断続的現象群を常に同一化する運動がなければ、連続性は我々の前に現われない。民族の記憶や文化と呼ばれる表象群は常に変遷し、一瞬たりとも同一性を保ってはいない。したがって、結局のところ我々が問題にすべきは。集団同一性がそれぞれの瞬間ごとに構成・再構成されるプロセスの解明だ。

2023年9月18日 (月)

小坂井敏晶「民族という虚構」(2)~第1章 民族の虚構性

 一般に、民族は、身体的形質によってではなく、言語・宗教・生業形態などの文化的要素を基に区分される範疇で、これに対して人種は、先天的な生物学的形態基準に区分される範疇として使用される。しかし、実際には、民族と人種を明確に区分できるわけではない。例えば同属意識という表現に見られるように、文化的特徴だけで民族が区分されるわけではなく、同じ先祖から始まる血統の続く集団だという含意がある。
まずは、最初に民族と対比的に取り上げられた人種という概念を見ていく。結論から先に言うと、人種は客観的に規定できず、歴史的文脈の中で生み出された主観的な範疇にすぎない。生物学では「種」は分類のカテゴリーの段階では「門」「網」「目」「科」「属」「種」と続く中の下位のカテゴリーである。人種は英語でhuman raceと言うが、raceは「種」のもっと下のカテゴリーであり、「亜種」とか「品種」と訳されている。日本語で人種というが「種」ではないのである。「種」というカテゴリーは個体間の生殖可能性により定義される。すなわち、異なる種との交配ができないのである。しかし、ひとはどの人口集団の間でも交配可能であり、異なる人種間でも交配可能である。人類はヒトとして単一の「種」をなす。それが生物学的な結論である。人種とは客観的な根拠によって分けられる自然集団ではなく、人工的に区分された統計的範疇にすぎない。人工的とは、身体的特徴は身長・体形・髪・血液型・皮膚色・眼色・頭形・鼻形・唇形・体毛その他様々なものがあるが、そのどれに注目するかによって分類の結果は異なってくる。どれを重視すべきという客観的理由はない。従って、どの特徴よって分類するかは、恣意的な結果をもたらす。分類というのは、対象の客観的性質のみに依拠して行われるのではなく、分類する人の主観的決定がなければ、分類は根本的に不可能なのだ。言い換えるなら、人間の認知様式から自由な観点に立つと、すべての対象の類似度は同じになる。対象は様々な客観的性質(大きさ、色、重さ、形など)によって規定されるが、各性質に同じ価値があるとするかぎり、分類は成立しない。類似性の概念が意味を持つためには、それらの性質の間に重要度の差を見出す、つまり、ある基準よりも他の基準の方が重要だと人間が決定する必要がある。この決定は主観的判断の表明に他ならない。
 例えば、肌の色による分類(白人、黒人、黄色人種)は18~19世紀に作り出され、普及した背景には、当時の西欧植民地主義イデオロギーを抜きには、考えられない。アフリカ・アジア・中東・オセアニアといった地域にヨーロッパが植民地を角田精して行く際に、現実を後追いする形で人種理論が形成され、また理論に都合のいいように特定の身体的形質が人種の特徴として採用されていった。当時の学者は皮膚の色や髪の形状に注目する傍らで、身長・眼色・髪色等の他の形質を無視した。それは、ヨーロッパ人が他の地域の人々を征服し、発展しつつあった植民地帝国に非ヨーロッパ人を二流紙民として統合するプロセスで、ヨーロッパ人とそれ以外の人々を区別する手段として身長・眼色・髪色は不適当だったからだ。言い換えると、ヨーロッパ以外の地域の人々を支配するプロセスで、出会った他者を根本的に異質な存在として把握し、ヨーロッパ人との共通点ではなく、際に注目するという作業を通じて系統的な分類が行われたために、都合のいい皮膚の色や髪の形状が重視されたのだった。
 そんな客観的根拠が希薄な人種が、今日でも多くの人々の常識として残っているのはどうしてか。このような偏見が消えにくい理由として、第一に、人間は外界を把握する際に、必ず何らかの範疇化を通して情報を単純化しながら生きている。しかし、分類によって、単純化する一方で、ほとんど不可避的に認知的錯覚が生じ、できあがった範疇が実体視されやすい。第二に、自分の慣れた考えに合致する情報は取り込んでも、それに反する情報は無視する傾向が人間の心理にある。人種の偏見を持ってしまった者は、その偏見に合致する事実に対しては、その信念の正しさを確認するが、それに反する情報はスルーする。初めの考えに根拠がなくても、それを支持する情報が受け入れられるので、偏見が維持されやすい。第三に、はじめは誤った信念であっても、そのような偏見が現実を捻じ曲げて、偏見に対応する状況を往々にして作り出してしまう。それにより偏見が正しいということを追認してしまう状況を作り出し、ひるがえってはじめの偏見が正当化されてしまう。
 このように人種にまつわる誤謬を指摘しながら、集団同一性が範疇化と密接に慣例していることを説いてきた。ところで、人種と民族という二つの概念は、違うように見えても論理形式に注目すると、実は同型の考え方に支えられている。そこで、今度は民族について見ていく。
 民族は、宗教・慣習などの文化要素や経済的自立性、政治的組織形態、地理的隣接性あるいは宗教など、様々な分類のために要因が考えられてきた。しかし実際にこれらの基準で分類を試みると、各規準によるそれぞれ分類を体系にすると矛盾が起こる。例えば、母語を基準にして分類すると、宗教や経済形態、政治組織などによる分類とズレてしまう。このことからも、民族の客観的分類は不可能といえる。そこで、集団に固有の文化内容にではなく、集団の間の境界に注目するという考えがある。対象が先験的に存在するのではなく、差異の体系が対象を作り出すソシュールの言語学説の応用だ。そう考えると、言語や宗教でも、必ずしも民族同一性を根拠づけるわけではない。代わりに民族同一性のシンボルということになる。ただし、ある要素がシンボルとして選択されるのは客観的に重要だからというわけではない。民族どうしを隔てる原因として表象される要素は、外部からみればとるに足らない場合も少なくない。そこではシンボルの客観的特徴より、新保に付された意味や機能を見るべきなのだ。つまり、民族と呼ばれ集団は、言語や宗教などの文化的要素を他の集団からしばしば受け容れる。しかし、文化内容が変質しても、影響を行使した集団には吸収されず、たいてい自らの集団同一性を維持する。それは、メンバーの関心が他の集団との差異、すなわち各集団のシンボルのみに向けられ、両集団に共通する他の多くの点が見すごされるからだ。このように、民族同一性を支える根拠は、その集団の内在的特性にではなく、他の集団との差異を生みだす運動の中にある。例えば、内輪もめに明け暮れていた国が他国と戦争を始めると一致団結してしまう。この場合、国境は複数の民族がいるために境界ができるというのではなく、対立の運動が境界を成立させ、その境界内に閉じこもった人々がひとつの民族として表象される。さらに、国境を挟んでの民族対立や民族紛争は、よく見られることだが、それはその民族間に相容れない利害関係や信仰の相違、文化内容の差異などにより平和共存が難しくなる、というのではない。各集団の価値が独立に問題になるのではなく、その関係というより差異の方が根本的な要因なのだ。
 だから、民族対立の場合、宗教や生活習慣等が異なることが、その根本的な原因なのではない。例えば、第2次世界大戦のとき、ナチスはユダヤ人を迫害したが、当時の西欧諸国ではユダヤ人の同化が進み、非ユダヤ人と区別できないほど溶け込んでいた。ナチスはユダヤ人に黄色い星を身につけるように強制したが、それは汚名の刻印をつけるためではなく、そうしないとユダヤ人と分からないからだ。そして、同化の最も進んだドイツでこそ、反ユダヤ主義は最も激しいものとなった。これは、境界が曖昧になればなるほど、境界を保つための差異化のベクトルがより強く働く。人種差別は異質性の問題ではなく、同質性の問題なのである。差異という与件を原因とするのではなく、同質を差異化する運動のことなのである。客観的な距離が問題なのではなく、対人関係、対集団関係における距離感というもの、社会心理的なプロセスで見出される現象なのである。

2023年9月17日 (日)

小坂井敏晶「民族という虚構」

11113_20230917213001  5年前に読んだ本の再読
 本書は、民族は虚構の物語であり、民族同一性は虚構に支えられた現象である主張を展開していく。前半は、その実例というか、虚構の実態は、こういうものだということを暴露していく。そして後半、とくに書籍化にともなう書下ろしの部分で、内容は一変し(その急展開に戸惑って、ついていけなくなるおそれもある)、そのメカニズム、つまり、民族同一性という虚構がどのようにして成立してくるか。それには、そういうものを作ってしまう人間というものの特殊性を、つまり、人とは何か、そこで、個人の同一性と民族などの集団の同一性との関係を議論していく。そして、虚構と現実の関係、つまり虚構のおかげで現実が生成されるという虚構と現実の相補性を明らかにする。本書の核心はこの後半にあるが、本書のタイトルにとらわれて、また、議論の急展開についていけず、以前に読んだときは、前半の議論しか読めなかった気がする。それだけでも十分面白いが、白眉は後半にあることは、再読してわかったし、後半の方がより7面白い。
 また、本文の内容とは別に、説明の中で紹介されている豊富な事例は、それだけ読んでいても面白く、そこに警句的な意味合いも読み取ることができ、著者が多少脱線気味に言を重ねているのは、読んでいても楽しい。

 

2023年9月16日 (土)

横尾龍彦─瞑想の彼方(6)~第5章 水が描く、風が描く、土が描く

Tatsuhikobiue  ヨーロッパの美術館でのパフォーマンスのビデオをノンストップで流していました。アクションペインティングですね。そのようにして描かれた(大量生産された)作品が、いくつも展示されていました。私には、どれも同じに見えてしまいました。割合にサイズの大きい作品が広い展示室の四方の壁に掛けられていて、中央のベンチに座っていると囲まれたようになるのですが、不思議と圧迫感はなくて、例えば、ロスコの作品に囲まれていると、吸い込まれそうな感じになるのですが、この人のは訴えかけるところはないというか、控えめというか、そういう点では洗練されているとか、センスがいいと言えると思います。疲れないんですね。それは、反面、退屈でもあるわけで。この部屋は人が少ない。第2章あたりの展示コーナーでは、立ち止まって作品について、あれこれ話す人の姿が目に付いたのですが、ここではあまり立ち止まることなく、通り過ぎてしまう人が多かったように思います。

横尾龍彦─瞑想の彼方(5)~第4章 東と西のはざまで

 ここでまた、横尾は作風を一変させます。抽象というか前衛書道みたいになります。書を思わせる筆の動きや絵の具の飛沫を前面に押し出して描いた結果が抽象的な画面になる。もともと、リアリズムの明確な形は描いていなし、何を描くかということより、描いているという身体を動かすことを楽しむといった作品だったので、描いた結果が抽象だろうと、あまり気にすることはないと思いますが、それにしても、黙示録から禅にワープしたんですか、と聞きたくなります。節操というものがあるんですかね。
Tatsuhikodragon  「臥龍」という1988年の作品です。晩年のターナーみたいなモヤモヤばっかりで、臥龍という題名をつけると、いかにも東洋的な、宗教的なものに見えてきます。洗面器に水をいれて、そこに水彩絵の具を流して、水面に紙を置いて、流動する絵の具を定着させたような画面です。よく言えば即興的で、それまでの即興的で偶然にまかせる要素があったのを、全面的なものにした。端的に言えば、いきあたりばったりでしょうか。わたしとしては、このあたりの作品から、書くことが少なくなります。正直に言えば、面白くなくなってくる。あっ、誤解の内容に付言すると、偶然に任せたアクションペインティングのような作品は、ジャクソン・ポロックとか白髪一雄とか好きです。でも、この人のは違っていて、例えば、色の重ね方とか、表現が単純で細部がないというか、飽きてしまうんです。これては物語的な想像力を喚起させるところもなくなってしまったし。
Tatsuhikoone  「一路涅槃門」という1995年の作品です。まるで白髪一雄の後期のアクションペインティング作品をシンプルにしたような作品です。この作品をみて、白髪だと思ってしまいました。白髪一雄のように縄にぶら下がって足で描くというわけではないので、手で筆を持って描くのでしょうから、すべてを偶然にまかせるというのではないでしょう。だいたいのところを想定して、あとは筆の赴くのに従った結果、こういう作品になった。出来上がったら、禅画っぽくなったというのではないかと思います。しかも、キャンバスの地に白と黒の二色という色使いが落ち着いた雰囲気をもたらし、静謐な印象を与える。そして、二色が混ざったり、混ざらなかったりするところに動きが感じられて、その微妙な感じがいわく言い難い、というか、描かれた形が禅画に似ているところがある。そういうところから瞑想的とか、受け取られていくようになるのでしょうか。

 

2023年9月14日 (木)

横尾龍彦─瞑想の彼方(4)~第3章 内なる青を見つめて

Tatsuhikotics  このコーナーでは、前と一変して、キャンバスに油彩、しかも大きなキャンバスの大作ばかりになります。抽象性の強い、青を基調(これまではグリーンとしても印象的でした)とした作品を、下地の絵具を手で直接かき回して画面を作り、聖書の「黙示録」や広大な風景をテーマに制作したといいます。こんなにガラッと変われるものでしょうか。この次のコーナーでも、ガラッと変わります。移行期のようなものがない(そういう移行的な橋渡しとなるような作品は全くありませんでした)このように変われてしまうのが、横尾という人の特徴なのかもしれません。もっとも、前のコーナーで最後に取り上げた「岸辺の沈黙」1985年の作品で、このコーナーの展示作品は1970年代後半なので、二つの傾向の作品を並行して描いていたと言えます。そうだとすると、この人は器用だったのかも。だから、展覧会の説明で精神的傾向とかいわれても、何かピンとこないわけです。
 「滴る天の雫」という1980年の作品です。前のコーナーでは、紙に絵の具を滲ませて、滲みやぼかしでもやもやしたような幻想的な雰囲気の背景をつくっていましたが、ここでは油絵でもそういう雰囲気を作り出しています。この人は、よくよく、明確な形より曖昧な方が好きなんだと思います。それで、たしかに青がとても目に鮮やかなのだけれど、その青が強いというのと、形の曖昧さ、そしてそれが青の濃淡とあいまって、波のような感じがして、青空とも海中ともいえる不思議な画面になっています。これも、どこという空間の明確さをさけているように見えます。これって、日本画の書きたいものだけ書いて、あとは余白にしてしまって、その他の情報を曖昧にしてしまうのと同じようなものかもしれないと思います。何か、日本画の見せ方で西洋画を描いている。そのギャップが幻想的な画面を生んでいる、そんな感じがしました。上方の空というかもやもやした部分は、水墨画の朦朧としたのに西洋画の色をつけたような感じで、それに対して左下の部分は西洋画のきっちり描くようになっている。その二つの描き方が一つの画面に並立している。その両者の関係が曖昧で、対立的な緊張関係ではなく、どちらかが主で他方が従というのでもない。画面に放置してあるといったほうがいい。そういう曖昧さがあって、それが画面にリラックスした印象を与えていると思います。だから、そういうこともあって、この人の作品は対峙するように向き合って鑑賞するといったものではなく、部屋に飾ってインテリアとして部屋の雰囲気づくりのひとつとなるようなもののように思えてきました。何か、作者である、横尾も描くという動作を楽しんでいて、それが第一のように、私には見えます。何を描いているか、といったことよりもです。
Tatsuhikovision  「VisionⅡ」という祭壇画のように3枚で一組になっている作品ですが、おそらく黙示録をテーマとしているのでしょう。しかし、この鮮やかな青は、黙示録の空というより、クリスチャン・ラッセンの海の絵の青を彷彿とさせるのです。私の印象は、黙示録よりもカリフォルニアのサーファーです。

 

2023年9月13日 (水)

横尾龍彦─瞑想の彼方(3)~第2章 悪魔とエロスの幻想

 このコーナーの展示作品はキャンバスに油彩の作品が極端に少なく、ほとんどの作品が紙にガッシュで描かれたものになっています。それは、おそらく、この時期、日本画で墨や絵の具の滲みを巧みに利用するたらしこみ等により偶然的につくられた下地を背景にして人や動物、ヌードなどを緻密に描き込むという描き方をしていたためだと思います。
Tatsuhikovally  「幽谷」という1971年の作品です。これは油彩の作品ですが、それだけに比較的きっちりと絵の具が置かれていて輪郭が明瞭な作品です。題名は幽谷ですが深い谷という空間は感じられません。奥まった感じがないのです。谷という空間の奥行がなくて平面的で、たしかに描かれている人などは立体的ではあるのですが、全体としてぺったんこなのです。もやもやに囲まれた真ん中に何人かの人がいる。そう見えます。前のコーナーで、この人は画面を設計するのをあまりしていないと感じましたが、空間の感覚というのが、あまりないのも、その原因のひとつかもしれません。それゆえ、絵画というよりイラストに近い感覚です。しかし、それゆえに表面的であり、それだからこそ容易に幻想と感じやすく、親しみやすくなっているところがあると思います。展覧会のサブタイトルが瞑想で思想とか精神とかいうコメントがでてきますが、そういうのを構えずに手軽に感じる(?)ことができるのも、そうところからかもしれません。そして、ここで絵がれている人のヌードについて、きちんと描かれて、それなりのポーズですが、そこにエロチシズムを感じる、卑俗な言葉言えば、そそられるところはまったくありません。横尾という人は、人間の肉体の生々しさといったものには興味がなく、現実の人というのは描く対象ではなかった。ただ、人間やそのパーツの形は絵画の部分のための素材として取り扱っていた。これは、おタクに近い感性のように思えてきます。「秘儀」という作品もそうです。この展示コーナーのタイトルが悪魔とエロスの幻想ですが、歯かして、この人はエロスに興味があったのか。あまり、そうは思えないのですが。
Tatsuhikosuper  「超人」という1970年の作品で、これは紙にガッシュで描かれた作品です。「幽谷」と似たような構成で、画面中央に老人(この人が超人なのでしょうか)と円が描かれていて、「幽谷」には中央に数人の人が描かれていましたが、明確に描かれていたのはそこだけで、その他は不定形あるいは抽象のような感じで、この作品では、たらしこみによって絵の具の滲みによって偶然できたものとなっています。横尾は、その偶然の結果を利用して、そこに即興的に描き足していって、結果として幻想的な画面となっているという印象です。横尾という人は学生時代に日本画を学んだといいますが、日本画の平面性に通じるところがあるのではないか。この作品の背景の部分は、日本画では何も描かれない空白、あるいは間というようなところで、西洋絵画であるため空白というのはないため、その代わりにたらしこみによる偶然的で不定形なものをあてがった。その効果によって、画面全体が幻想画の印象を与えるようになった。そんな感じがします。どうしても、横尾という画家は幻想のイメージを堅く持っていて。それを執拗に作品に定着させようとしているようには見えないのです。むしろ、そういうイメージは即興的に思いついた程度の軽い感じなのです。
Tatsuhikowonder  「不思議の国」という1975年の作品、これも油彩です。たくさんの人が折り重なるようにして集まって、高く積み上げられていくという場面は、エル・グレコを彷彿とさせますが、横尾はこのような場面が好きなのか、前に取り上げた「水と霊」もそうだったし、この後のコーナーの「大地の歌」もそういうところがあります。あるいは前のコーナーの「引き出されたカオス」は少し異質ですが、無関係な様々な物体が集まってできた外形が総体で何かに見えるという場面を割合に好んでいたのかもしれません。これも、全体としての構成というよりは、部分(細部)をそれぞれ好きなように描いていて、それらが集まって結果として、こんなものになったという偶然性という即興的な感じがします。そういう作品では、リアリズムとは相性がよくない、幻想画とは何とでも言えるので、こういう描き方には都合がよかったのではないか、そう思えてきます。この人のイメージというのは、絵画的もしくは映像的というような視覚的なものというよりは、物語的なのではないかとおもえるのです。だから、作品の画面が視覚イメージでもって明確にデザインされているのではなくて、こういう物語、あるいはこういう経緯でこうなっているという視覚的には漠然として描き始め、あとは偶然によって結果が導かれる。もともと漠然とした視覚イメージだから、当初の物語から外れていなければ、それでいい。そして、作品の題名が物語イメージで付与される。それで見る者は、そういうものだとして作品をみると、聖書の場面とか幻想画として見る。だから、作品は親しみ易いし、作品を見た印象を語りやすい。この展覧会場では、家族連れの割合が高かったかもしれませんが、作品の印象を小声で語り合う光景があちこちで見られました。通常。このような場では、黙って見ている人が多いのですが、そこここで語り合う、しかも世間話といった関係のないおしゃべりではなく、作品の印象を語り合う人がけっこういて、静かなざわめきというような雰囲気は珍しかったです。それは、決して悪い雰囲気ではありません。
Tatsuhikoriver  「岸辺の沈黙」という1985年の作品です。中央の人物を見ていると、横尾という画家のデッサン力というか、ちゃんと描けば描ける人なのだということが分かります。まるで古代ギリシャの女神の彫刻のような姿で、とくに顔はそのものです。しかし、この顔には表情がない。他の作品もそうですが、全身にしても、部分だけを描いたにしても、横尾の描く人間には、表情がなく、感情が見えてきません。おそらく、そういうものには興味がなかったのかもしれないと思います。横尾の関心は、物語のストーリーで、人はそこで動くコマのようなもので、描くとしても画面の中の人としての外形だけでよかった。だから、この作品の人物も、きれいに描かれていますが、存在感は感じられない。透明という、浮遊しているというか、そんな感じです。しかし、幻想画ということになれば、そっちの方が好都合ではないでしょうか。その物語にしても、聖書などを題材にしていますが、横尾は自由に取り扱っている。だから、借り物ていどの意識だったのではないでしょうか。展覧会のキャプションなどでは、横尾は聖書とか宗教性、精神性にのめり込んでいたように説明されていますが、描かれた作品の印象では、そのように思えないのです。横尾の内心のことですから、断定的なことは言えず、私個人の印象にすぎませんが。ところで、そういう借り物だから、このように自由に作品を制作することができたわけで、キリスト教の真っ只中にいて、どっぷりと浸かっている西洋の人には、それなりの嗜みというか規制があるだろうから、ここまで描くには、かなりの葛藤を克服しなければならないでしょう。そうすると、作品は重くなる。これに対して、横尾の作品には、そういうものがなく、どちらかというと軽い。だからこそ、グロテスクといってもいい異形のものを描いても、グロテスクな気持ち悪い感じがしないのです。

 

2023年9月12日 (火)

横尾龍彦─瞑想の彼方(2)~第1章 北九州からヨーロッパ、東京へ

 展示はほぼ年代順で、年代ごとに拠点が移り、それに伴って画風が変わるようです。回顧展では、展示の章立てがやりやすいのではないでしょうか。藝大を卒業後、中学の美術教師の傍らで、制作をしていた時期、いわゆる習作期と言えるかもしれません。もともと、この人は画風に強いオリジナリティがあるという人ではなく、誰風と言いたくなるようなところがあり、とくにこの時期の作品には、そういう傾向があからさまで、引き出しを増やしていたかもしれません。
Tatsuhikootoko  「男の顔」という1950年の作品。既視感ありありの、どこかで見たことのあるような、こういう顔を左右に二分して、左右で異なる顔を描いて何らかの意味があるように見せるスタイル。例えば、キュビズムの作品、ジャン・フォートリエの一連の「人質」、あるいはパウロ・クレーにもこういうように顔を描いたのがあったような。ただ、キュビズムはどのように対象を見るかという視点からこういう描き方が出てくるのであって、フォートリエもクレーも彼らなりにこのような描き方に意味があるのでしょうが、横尾の場合は、単に写実的な形を崩すパターンのひとつとして描いているように見えます。それは、この後で彼の作品を見た印象もあるのですが、この作品では、とても要領がいいというか、見る者にひっかかってくるところがない。習作だからしょうがないのかもしれませんが、たとえば、ふたつに分かれているのは顔だけで、画面の他の部分は、そんなことはない。全体の設計は、あまり考えられていない。だから、全体として違和感が最小に抑えられている。むしろ、色づかいのセンスがいいとか、そっちの方からのイメージが大きい。この人は澁澤龍彦に好まれたという説明がありましたが、澁澤はまさに思想についてマイナーな知られていない思想を見つけてきて俺だけが知っていると自慢するカタログのような人でした。その澁澤のいきかたと相通ずるところがあったと思う、というのは中傷することになるでしょうか。しかし、そういう表面性に徹したからこそ、後にでてくるよう作品を描くことができたのではないかと、思いました。
Tatsuhikochurch  「教会」という1965年の作品です。人物のデフォルメは、僧をからかうような意図のものでしょうが、漫画っぽくて、あまり西洋絵画では、こういう題材はブリューゲルやボッシュあたりが描きそうですが、こういう描き方はしないでしょう。日本では、池田龍雄とか浜田知明、あるいは鴨居玲は色合いが少し異なるかもしれませんが、通じるところがある。また、この作品あたりから表われてくるのですが、色調が暗めで、グリーンやブルーを基調にしながら、おそらく絵の具を塗って乾かないうちに別の色の絵の具を重ねていくと、色が混ざってグレーに近づいていく、そういう昏さです。その色具合が鴨居の作品に近いところがあます。西洋の絵画で、こういう色調は少ないのではないか。鴨居もそうですが、暗い色調なんですが、塗り自体は薄いし、画面は不思議と重くならない。それが、この後の幻想的な作品もそうですが、重苦しくはならない。それが、この人の大きな特徴ではないかと思います。こういう皮肉と滑稽っぽい題材でも、こういう画面になる。つまり、この人はテーマを重視して、その表現として画面を作っていくという人ではないと思われます。
Tatsuhikowater  「水と霊」という1966年の作品です。ここから幻想的な作品が出てきます。幻想画といっても、この人の作品は具体的なものが描かれていなくて、何だかわからないような物体が画面にあって、それが抽象画というわけではなく、幻想的な光景として捉えられる。この作品で、具体的なイメージが形となっているのは、右側中頃の女性の身体くらいで、あとは、不定形なものが異世界の光景のように見える。見る者が想像して下さいというものでしょう。同じ幻想絵画でも、シュルレアリスムベルギー幻想派といった、具象そのもので、現実とは離れた風景を描くのと違います。この後の作品からもそうなのですが、横尾という人は具象へのこだわりというのはないのかもしれません。人や物の形をしっかりと描くとか、その存在を画面にしっかりと表わすことへの意識は見られません。クノップフなどのようなベルギー幻想派の画家たちが幻想的な風景を画面の上にしっかり表わすために、画面の構成を設計して、その設計に基づいて画面の上に幻想的な空間を作り出す。横尾はそういうことはしていません。画面上で空間をつくるというパースは感じられませんし、空間をデザインすることは為されていないように見えます。この作品で描かれているのは、まるでロールシャッハテストの図形のように見る人によって様々に見えるものです。だから、この作品は幻想画として描かれたものというより、見る人が幻想的と見えるという作品であると思います。そう見える理由の一つとして、この作品の構成が左右の側で物体が縦に伸びているとなっているのが、ルーベンスやエル・グレコの聖母昇天の構図によく似ている(というかパクっている)ところにあると思います。
Tatsuhikokaos  「引き出されたカオス」という1968年の作品は、無関係な様々な物体が集まってできた外形が総体で何かに見えるという、まるでアンチンボルド(例えば「四季」で農作物を集めて人の顔に見せてしまう)を思わせる。また「不死鳥」という作品は長谷川四郎の版画の鳥を思わせます。「水と霊」もそうですが、既存の作品のデザインをベースあるいは骨格として、その上に、不定形な物体を挿入していく。そうすると、物語の場面とか風景のような構成で、しかし、このパーツがリアルな形をしていないので現実的でない、そういうことで幻想的と見ることのできるような画面が出来上がる。ここで、見ている私に言えるのは、これらの作品では、横尾という人は、こういうのを描こうという確固としたイメージとか理念があって、それを表わすというのではなく、自らゼロからスタートして創造するのではなくて、ある程度のところは既存のものを流用して、それを自分流に表わして、結果として作品ができる、という人ではないかということです。それは、まるで、ポピュラー音楽で新人バンドなどが、コピーとして他人のヒット曲を演奏して、そこにオリジナルの演奏とは同じ演奏にならないとこで、そのオリジナルとの差異がバンドの個性として表われてくるのと同じようなことです。しかし、ポピュラー音楽の新人バンドは、その後、自分たちのオリジナル曲をつくり始めるのが普通ですが、横尾の場合は、このやり方を自身の方法論として、以後の制作でも、ずっと続けていくことになる。
Tatsuhikosmoke  「香煙」という1960年代後半ころの作品です。香煙とは線香の煙のことです。そうすると、画面中央の靄のようなのは煙ということでしょうか。このように、横尾という人は作品タイトルを、いわば惹句のように見る者を幻想画の方向に想像させる仕掛けとして活用している。青を基調とした画面でその下部には、人の身体の部分が欠片のように集められている。その中には、尻や腰あるいは胸部といった部分の裸像がありますが、それらはデフォルメこそされていますが、きちんと描かれた正確な姿です。色彩は紫が入っていたりして非現実的ですが、ちゃんと陰影がつけられて立体的だし、肉体の柔らかい感じもする。しかし、生き生きとした感じはしない。そういう生身の現実には興味がないのかもしれません。

 

2023年9月11日 (月)

横尾龍彦─瞑想の彼方(1)

Tatsuhikopos 2023年8月 埼玉県立近代美術館
 母親が怪我で入院してしまって、手持無沙汰になったのと、身軽にもなれたわけで、休日の朝、突然思いついて、ネットで面白そうな展覧会はないかと探したら、それっぽいのがあった。自宅から、美術館まで1時間半長かった。そして暑かった。11時半ごろに着いて、ちょうど、お昼の時間に美術館で作品を見てまわったが、見終わった後も、暑さのせいか、お腹が減らなかった。美術館は、フリーデーといって、常設展が無料になるということで、結構賑わっている。しかし、企画展は無料にならないので、こちらは数組がいる程度。夏休みということもあって、親子連れがけっこう目立つ。しかも、展示されている作品は、語りたくなるような作品であるのか、小声でお喋りするのが聞こえてくるような雰囲気。また、展示作品が撮影可というのもあって、しーんとしたという雰囲気とは違っていた。
 横尾龍彦という画家については、知らない人なんだけれど、名前が横尾忠則と澁澤龍彥を合体させたようなので、ホントにそんな印象だった。どういう人かは、チラシにあった紹介を引用します。“横尾龍彦(1928~2015)は、日本とドイツを往来しながら活動し、独自の画境を深めた画家です。1950年に東京美術学校日本画科を卒業した横尾は、北九州市で美術教師を務めながら制作活動を開始しました。1965年に初めて渡欧すると、スイスで初の個展を開催します。帰国後はキリスト教や神話を題材にした幻想画によって、澁澤龍彥や種村季弘ら当時の知識人に高く評価されました。1980年以降には、禅やルドルフ・シュタイナーの霊学に影響を受けて東西思想の融合を志向し、力強い筆勢と飛沫が特徴的な抽象画を描くようになります。やがて、制作前に瞑想し無心の状態になることで、無作為に描くスタイルを確立。自意識を超えた世界の美を追求し続けました。本展は、日本の美術館で初めての回顧展です。埼玉県秩父市のアトリエに遺された作品約 90点を中心に、初期から晩年までの作品・資料をご紹介し、横尾の生涯を辿ります。”
具体的なことは、展示の章立てに乗って、個々の作品を取り上げていきたいと思います。

 

2023年9月10日 (日)

関口安義「「羅生門」を読む」

11112_20230910230401  ある日の暮れ方、主人から暇を出されて途方にくれる下人が、荒廃した羅生門の下で雨宿りしていた。彼が門の楼上に登ると、女の死体の髪を抜く老婆がいた。憎悪を抱き、力で老婆を押さえつけた下人だったが、老婆から生きる為の悪事を正当化する言葉を聞く。下人の心に悪を肯定する勇気が湧き「自分もそうしなければ餓死する体なのだ」といい、老婆の衣服を剥ぎ取って夜の中に駆け去ってしまう。
 この羅生門は朱雀大路の南端に位置し、平安京への正面入り口にあたる。つまり、羅生門は京の都と外の世界との境界にある出入り口にあたる。それは京都という日常的な定住者の生活世界、あるいは秩序に対して、外の世界は盗人、乞食といった非日常の無秩序な世界との境界にある。この物語では、失業した下人がもはや盗人になるしかないかと迷い悩んで門にきて、最後に老婆の衣服を剥ぎ取り悪への一歩を踏み出す。そういう境界の物語。この物語には、二項対立があり、その境界がたくさんある。下人は羅生門の梯子を2階に行くわけだが、そこで老婆と遭う。1階と2階の対立と教会としての梯子。2階は死体が積み上げられた異界、あるいは1階の地にたいして2階は天。老婆と下人は老若の対立もある。この境界という位置で、下人は、盗人になるか、このまま飢えるかという対立は、「生きるべきか死ぬべきか」というハムレット的な問いを迫られ、最後に決然と、境界を越えるというドラマであるという。
 私には、芥川龍之介という作家は、そんなに手の込んだ物語を作る人には思えない。それよりも、語りにおける意味の過剰が大きな特徴ではないかと思う。羅生門においても、羅生門の荒廃した情景の描写は、主人公である下人の絶望や不安、あるいは作者の気分、その他が重ねられて、その文章の主語が何だか分からなくなってしまう、そういう濃密さに読者が溺れてしまうところにある。それは、例えば、下人が羅生門の梯子をのぼる描写の文章を取り出してみれば分かる。

 

2023年9月 9日 (土)

神長幹雄編「山は輝いていた─登る表現者たち十三人の断章」

11114_20230909223001  1980年代の日本は、今とは社会の雰囲気が違っていたが、登山をめぐる状況も違っていた(今のような登山ブームではなかった。山に登る人は、そこそこの数はいたが)。その頃を中心に前後10年の山の文章を集めたアンソロジー。私が大学に入ったのが1979年で、その大学のサークルが山に行くようになったきっかけだったから、私は山としいっても片隅の端っこ、この本に収められている文章の作者たちとは同じとはいえないが、少なくとも同時代のものとして、その空気感のようなものは共有できていたと思う。例えば、最後の一瞬だったとはいえ「アルプ」を知ることができたし、「山の絵本」をFMで聴いたことがある。田中澄江、串田孫一、山口輝久、近藤等といった人々は文庫本で、あるいは小西政継、長谷川恒男などは雑誌で、当時、山の文章は文庫本や単行本で割合に本屋で見ることができた(ギド・レイの「アルピニズム・アクロベチコ」なんかが講談社文庫で出ていたのだから)。結構、山の泊地でノートに文章を書く人の姿を見たものだった。収録されているのは、とくに力が入ったものというより、当時の普通というか、こういう文章をよく見た、というたぐいのもの。それだけに、当時の空気感が、覚えている人には、そうだったと、伝わるものだ。いまだったら、スマホの写真を撮って、インスタに投稿しておしまい、という感じなのかしら。それでは、味気ない、物足りない、と思う人には、この本は、ほっとすると思う。

2023年9月 8日 (金)

東島誠「「幕府」とは何か─武家政権の正当性」(6)~第5章 江戸幕府は完成形なのか─生存の近世化

 この本では都市王権論を中心に幕府の正当性を描き出す。古代末期に都市京都の生死を規定するに至った都市王権となることが、中世という時代に幕府という統治機構が生まれた最大の契機だったのなら、中世の終焉は、そのまま都市王権の終焉ということになる。前の時代が完全になしえなかったことが容易に可能になった、そういう完成形の誕生が一つの時代の終焉ということになる。
 室町後期、相次ぐ飢饉や応仁の乱で諸国の生産が滞っても、畿内・西日本・東アジア全体の物流活性化を背景に、15世紀後半の京には、人に施すことのできるだけの食料備蓄があり、また土木事業の敢行により雇用が創出されたため、寛正の飢饉の時には諸国から難民が押し寄せた。足利政権が年貢などの伝統的税収のみに固執せず、市場経済への課税重視にシフトしたので、京が流通に強い飢えない都市へと変貌した。これに対して、列島の諸国に割拠する戦国大名は、荘園制以来の伝統的税収である年貢を重視した。その重い税負担により、多くの下級農民が村の過酷な環境から「欠落」して、新天地を目指す事態が発生する。その結果、地主のような有力農民の経営基盤が弱体化し、農村経営の平準化が進んだ。この平準化は社会的にひろがった。例えば、戦国時代はいくさで、地域の支配者が替わるので、そのたびにシステムが変わる。それが近世初頭の統一政権が国家的土地台帳を作成する等統治の平準化を進めた。それが、幕府が中央集権を志向しながらも、大名が諸国を治めることを可能にした。
 徳川家康は覇者となると、京の治安を回復させ、風紀の乱れていた公家社会の秩序の再建をすすめた。家康の没後、2代秀忠は家康の神格化を試みる。3代家光は、日光東照社を勅許により宮とし、大規模に改造した。そこから、神格化された家康の血統という権力の正当性を正統性に求めるようになっていく。その例が、4代家綱について、権現様の夢告げで世継ぎ家綱が誕生したとして神話が囁かれた。幕府は、将軍(家綱)が将軍たりうるのは神格たる祖宗家康の血統を継承するためである。そして、その論理を補強するために、天皇が天皇たりうるのは皇祖神であるアマテラスの血統を継承するためである、という論理を並行して強調し、これを複製した。
 1860年、家綱が没し、5代綱吉が将軍となると太平の世が到来する。もはや、将軍の絶対性を示すような権力編成の方式が時代にそぐわなくなってくる。17世紀を通じて戦争状態が終結していく過程は、武士の行動規範にも大きな影響を与えた。例えば、病死した主君に追腹をする殉死が流行するが、それは戦国の世に主君の用に立つとまで言われた戦死する機会が失われ、主君への忠誠を表明する方法がなくなったからである。ここで見えてくるのは、武士の本質である主従制、情の共有による人格的支配の揺らぎである。かつての情とは質的に異なる、あたかも情を共有するかのように形式的・表面的にふるまう義理の関係が新時代の主従制を支える新しい行動規範として登場した。
 一方、国内の安定により農業技術が進歩し、近世の出版文化の急速な発展と相俟って、全国に農業の新技術が普及した。また、災害に際しての都市を越えた情報ネットワークが誕生した。それにより、地域をこえた救済ネットワークをつくることが可能となる。
 江戸幕府は飢饉時にあっても都市住人の食糧を確保できる都市王権としてひとつの完成形を示した。そこでね都市王権たりうるかどうかが、権力をわが物とするうえでの正当性の根拠となる時代の終焉を示す。

2023年9月 6日 (水)

東島誠「「幕府」とは何か─武家政権の正当性」(5)~第4章 織豊政権─近世の始動と中世の終焉

 一般に知られている日本史では江戸時代を近世とし、鎌倉、室町を中世とする。そして、織田信長が中世を終わらせて近世を始めようとしたとして、安土桃山時代を移行期としている。しかし、著者は、そんなに明確に区分できるわけがないと言い、移行期は衣替えのようなものと言う。徳川家康が将軍になろうが、織田信長が本能寺で死のうと、ただちに社会が変わるわけでもない。そろそろ冬物の上着やコートをクリーニングに出そうかと考え始めて、いや待てよ、まだ寒いかな、いやそろそろだ、と全員が冬服から春服を経て夏服に切り替わるには、長い時間を要する。長袖の人と七分袖、半そでの人が混在するのが移行期なのだという。それが織豊政権の時代だという。
 近世視界の風景として著者が提示するのは1582年の武田氏滅亡により、駿東地域を徳川家康が領有することになった後の文書である。家康は、この間隙の地をブロック化し3人の城主を置いて、それぞれ同じ支配マニュアルで画一的に支配させた。本書で掲載されている写真は、商人矢部が取得する権利を有した吉原湊舟破損修理料の勧進を認めたもので、3人の城主、それぞれの知行分で許認可を得る必要が生じたことを示している。しかも、3人の城主による認可の文書が同じ書式で作られている。これが、以前の戦国時代であれば、1通の文書を持っていれば、駿東地域らどこからでも渡舟の修理料を勧進できた・矢部氏はたとえるならば、道路保守を名目に自在に通行料徴収できた。ところが、いまや、この地域を治める3人の城主の担当ブロックごとにマニュアル通りに書かれた。ほとんど全く同文の許認可を得なければいけない、というまことに面倒な時代が到来した。これは、官僚行政、タテ割り行政の開始地点で、これが近世の風景なのだ。
 織田信長の権力の志向は、権威あるものを否定せずに膝下に集め、それを上から眺めることにある。信長は中世的なものを何一つ否定していない。神仏も天皇も、中世的権威と名のつくものをすべてコレクションした上で、ただそれを上から眺める。つまり、既存の価値観の統合者であって、変革者ではない。信長自身が政権の形成途上で仆れたこともあり、正当性を意識するまでは言っていない。
 信長に対して、豊臣秀吉の権力の志向は、人を意のままに移動させたり、別の道に誘導するというものだ。つまり、信長政権から秀吉政権への移行とは、集める権力から移動させる権力への転換であると著者は言う。人を意のままに移動させるために、秀吉は群集心理に応えるポピュリストとして振る舞った。

2023年9月 4日 (月)

東島誠「「幕府」とは何か─武家政権の正当性」(4)~第3章 足利将軍家の時代─二つの変動期と正当性の変容

 14世紀、すなわち鎌倉末期から南北朝時代を指して民族的転換とする考え方がある。1320~30年代をピークにして急激な温暖化が進み、ここに生産条件の一定の回復が見られた。この時代に先行する13世紀後半は寒冷化の時代であり、生産力低下による米の相場の地域間格差がうまれ、その差を荘官や流通業者たちが自らの利益拡大に利用して、1280年代には、米の商品化による流通構造の変動がもたらされた。こうした条件を背景に、温暖化の進んだ14世紀に、農業分野では二毛作が発展し、商業分野では遠隔地交易が発展して、割符による決済など信用経済が本格化する。前代の苦難の時代には、平等性と自由の探求、社会的弱者の救済など、14世紀の転換を支える思潮が展開していた。
 変動の端緒となった後醍醐天皇による建武政権は1330年の元徳の飢饉への救済策を通じて、旧来の都市王権であることに依拠して正当性を示そうとした。しかし、現実に飢饉対策は十分に機能せず、混乱を招いてしまい、足利政権に取って代られることになってしまった。
 足利政権開創期の正当性は、鎌倉の執権政治の徳政路線をブラッシュアップした直義による建武式目の制定に求めることができる。これは鎌倉幕府の場合とは違って最初から成熟していて、飢餓対策をベースにした政権の正当性を主張する必要がなかった。
 足利将軍家の支配を語るうえで避けて通れないのが「主従制的支配」と「統治権的支配」という理念型であると著者は言う。室町幕府の開創期に、足利尊氏が主従制的支配を掌握し、弟の直義が統治権的支配を掌握したというもの。ただし、この学説は1960年という時代に統治権的支配と見えるものが決して主従制的支配から自由でない、そこから属人的でない、法に基づく支配が日本の社会にあっていかに困難かという同時代的な問いが織り込まれていたという。統治権的支配というのは、直接的(=人格的)関係にない第三者的立場から、訴訟などの紛争解決を担うことが、その肝要だ。一方、主従制的支配が個人と個人との人格的支配服従関係で成り立つ私的な支配。つまり、非人格的支配と人格的支配で、人格的支配が公的に機能してしまうことを、この説の論者にはアクチュアルな問題意識を含んでいた。
 14世紀の社会変動の背後にあるのは、東アジアという国際情勢の変動であり、建武政権の正当性と足利政権の直義による合法的支配という正当性は、宋学受容の二つの型に、それぞれ対応するものであった。また、14世紀は、南宋遺民がもたらした離散がもたらした「江湖」の思想が、禅僧などの先端的知識人に受容され、将軍のブレーンでありつつ、同時に将軍権力からの自由、相対化が可能となり、「公論」世界のような近代的契機が、限られた磁力の範囲で誕生した時代でもあった。このような社会の流動性と多中心的世界の拡大に対して、足利政権は、尊氏や直義から、次の義詮・基氏兄弟による、北京大樹と東関柳営という源氏将軍─北条得宗に擬えた羽翼両輪体制で、将軍が公家化し北朝天皇と一体化していくことで正当化を得ようと図った。そのご、三代目義満になると、日本列島は緩やかな国境意識の基に東西に分割され、東方は鎌倉公方が担うことになった。これは、かつて源頼朝が構想した列島のブロック化、道州制的支配は、この時代に結果として実現することとなった。
 4代将軍の義持頃になると、の全国支配のような幻想を半ば放棄し、足利将軍が統治可能なエリアをより狭く設定し直したことによって、民事訴訟の受理などの紛争解決への積極性や、意見制の導入など、合法的支配への関心が見られる。この時期、従来型の大規模な難題が浮上した。応永の外寇という国際的緊張と、その直後に京を襲った飢餓・疫病である。
 15世紀の前半の京を取り巻く情勢は、生産地は右肩上がりとなっていたが、京は前章でも説明したような流通の状態で、関所の乱立、関銭過多により物資が容易に入ってこず、京の食料事情は米商人のコントロール下になっていた。6代将軍時代には米商人たちが結託して意図的に飢餓状態を作り出すまでになっていた。一方、生産地では良好な生産条件のみとで自治組織である惣村が誕生する。そして荘園公領制から村請制に収取システムが変化した。年貢が定額納入ことになった。それが、京の物資の不足を助長することになる。
 応永の外寇とは、1419年、朝鮮王朝の大宗は対馬島を攻撃した。同時期に京では飢饉が起こる。これは、幕府の財政構造が都市依存型財政へと変化、つまり生産現地に課税するよりも流通に課税することで確実な財源としたのだった。そこで、流通が滞ったのが飢饉の理由。政権は施行つまり食糧の施与による救済を行った。これは、民衆に京なら施しにより救済されるという情報が広まり、外部からの流入民が増えて、彼らが主たる被災者となった。
 15世紀後半の寛正の飢饉では応永の飢饉とは全く違った様相を呈する。都市住民によるボランティア活動が起こったのだった。15世紀後半以降の京は生産に根差さず物流に依存していた分、物流が活性化し生産地以上に強いという逆転現象が起こっていた。つまり、基金のさなかでも京に食糧はあったのである。足利義政は流通に強い権力であるがゆえに、地方の飢餓状況に関わらず、京に食糧を維持でき、大規模な炊き出しを支援することができた。その一方で、大規模土木事業を興し、雇用を創出した。そのため、京の外の窮民を数多く流入させることとなった。「京へ行けば食える」となれば、難民流入はエスカレートしたのだった。そのため飢餓の主体となる被災者は京に流入する難民であった。そこに、都市王権による正当性の最後の姿を見ることができる。そして、12代義晴のときの天文の飢饉においては対策は将軍がリーダーシップをとることはできず、幕臣や寺社の政争の道具となって、都市王権による正当性の時代が終焉したことを象徴する出来事となった。
 この頃、国内は戦国の世となり、足利政権の統治権的支配という合法性による正当性は、戦国大名の分国法に分化される傾向になる。

2023年9月 3日 (日)

東島誠「「幕府」とは何か─武家政権の正当性」(3)~第2章 鎌倉幕府、正しくは東関幕府─正統性なき北条氏の正当性

 鎌倉幕府の誕生をいつの時点とするかには諸説ある。その違いは、頼朝政権確立過程の様々な画期のうち、何を重視するか、少し踏み込むと、鎌倉幕府をどのようなものと性格規定するかの違いなのだ。それで、著者は本書の趣旨から1186年をとる。
 仮に、鎌倉幕府の本質を頼朝と御家人の主従関係に求めるならば、侍所が設置され、主従制を原理とする武士たちの権力が確立したのが1180年。しかし、著者は、主従というのは武士の世界の本質ではあっても武家政権の本質ではないと言う。政権のシステムが抜けているからである。一方、このころ西日本では治承・養和・寿永の飢饉が進行していて、京に食糧をもたらすために武力が強く要請されて、1183年に頼朝に宣旨が出され、東海道・東山道・北陸道の授権を宣言した。ところが北陸道を実効支配していた源義仲のクレームにより北陸道が外された。この時の京の食料不足の原因は都落ちした平家が四国にいて兵糧を徴発し、畿内への流通がストップしていたのと、木曽軍が進駐し北陸の兵糧を独占していたからだ。だから、頼朝による東国からの流通だけが頼みだった。宣旨は、その頼朝による流通維持をオーソライズするものだった。そして、1186年、頼朝は鎌倉幕府の自立宣言とも言える奏状を院に送る。そこから読み取れるのは朝廷の相対化である。実質的に現地の紛争解決は武士に依存するしかない。紛争解決を公家がするか武士に委ねるかという中世におけるおおやけの多元化の端緒がここに見られる。
 一方、武士を束ねるには、相手より大きい存在であることが必要だった。頼朝や義仲が武士たちによって推戴されうるのは、いわゆる貴種だったからである。武士たちは圧倒的に大きな主君と主従関係を結ぶことを喜び、御家人となった。この時の主従の関係は1対1で、そこに情実的な結びつきで、そこにかけがえのない意味があった。このような人格的な関係は武士を束ねるには有効だが、それだけでは権力たりえない。頼朝が大江広元をはじめ京下りの官人を必要とし、文書で人を支配する技術を習得する必要があったのはそのためだ。そこでの主従の関係は1対多という頼朝を頂点としてその下に多数の御家人がつながるという関係になる。
 しかし、貴種である頼朝の血統は子で途絶えてしまう。その代わりに幕府を実質的に運営したのは北条氏だった。彼らには貴種としての正統性を欠いていた。しかし、武士の政権であるからには正統性は欠かせない。それゆえに、源氏の血統が絶えた後も、摂家将軍、皇族将軍を京から招聘した。北条氏を中心とする幕府政治は、執権政治と呼ばれ、源氏将軍の外戚として権力を得ることを通じ、また他氏排斥の権力闘争を経て確立した。だが、武家の世界が貴種である鎌倉殿とパーソナルな主従関係を結ぶことに強く規定されていたため、それだけでは権力の正当性を欠いていた。そのた、北条氏は、正当性の根拠として法や合議制を必要とした。さらに、承久の変の勝利したことで、東国だけでなく西国をも管下に収める全国的権力となったことで、新たに正当性の説明責任が生じた。そこで、北条泰時は、評定衆という合議機関を設置した。そして、1230年の寛喜の飢饉への対策から御成敗式目をはじめとする幕府法の整備を行った。飢饉という社会の極限状況に直面し、社会の安定を法の整備によって実現しようとする、新しい政治原理の契機となったのである。
 鎌倉幕府の時代を振り返るならば、その黎明期の正当性は、平家政権と同じ都市王権、すぐに飢える都市、京の流通回復を可能にする武力要請に基づくものだった。ただし、誰が権力の正当性を了解、認知するのか、と言えば、頼朝待望論は既存の権力、朝廷や荘園領主の意向であって、必ずしも民意ではない。支配層にとって、飢餓とは、年貢などの貢納物が京に上がってこない、という以上のものではない。成立期に武力をかわれて権力を確立した武家の政権にとって、いったん安定してしまえば、正当性を示し続けなければならないとは限らない。平常時の支配の正当性を支えているのは、正統性のような伝統的支配である。ただし北条氏の時代に限っては、自らは将軍ではない、という点で正統性根拠を欠いていたため、権力を伝統化することは難しく、常に正当性を示し続けなければならないという意識に縛られ続けた。とりわけ飢餓・災害や外圧・内乱のような非常時には、その能力を問われることになる。寛喜の飢饉における泰時の徳政、民意への関心や御成敗式目による法に基づく支配、危機を克服した専制君主時頼の合議へのこだわり、元寇に際しての安達泰盛の弘安徳政等々。

2023年9月 2日 (土)

東島誠「「幕府」とは何か─武家政権の正当性」(2)~第1章 平家政権と<いくつもの幕府>

 最近の歴史学界ではさまざまな幕府論が論じられているという。まず、手始めに幕府についての一般的な常識を否定する。それは、①幕府の長たるには征夷大将軍になる必要がある。②源頼朝以降、征夷大将軍は源氏でなければなれない。③幕府とは後世の用語であり、同時代の資料には見られない
 乱立気味の幕府論のなかで、平家の六波羅政権を幕府とする論もある。その論拠は鎌倉幕府の本質を大番役勤仕に求め、それゆえに平家政権を幕府と呼びうるというもの。これは、鎌倉幕府をどう捉えるかという中世政治史をめぐる権門体制論と東国国家論という二大学説のうちの権門体制論に連なっている。権門体制論は、源頼朝の築いた東国の政権は、天皇を頂点とする国家の一部門にすぎない。それゆえ、鎌倉幕府が御家人たちに課した京都大番役は天皇への奉仕を示す重要な指標なのだという。これに対する東国国家論は、鎌倉幕府を朝廷を中心とする王朝国家とは別の国家と見るもので、いわば二つの王権論だ。この論によれば、平家政権は六波羅から福原に拠点に移したことで幕府とみなすという福原幕府論が生まれる。
 この二大学説の対立に対して著者は、読み換えを提出する。権門体制論はひとつの国家というのではなく、単一の構造を前提にしているという。武家も公家も寺社も、荘園制を経済基盤とする相似の支配構造を持っていて、支配される側から見れば、どれも基本的に同じ構造なのだった。ただ、この構造を束ねるものとして責任の所在は天皇にある。これは戦後の民主化を課題としたアクチュアルな問題意識で、その批判者である東国国家論にしても、天皇を相対化しうるものとして、同じ土俵の上に立っていたと言う。
 そういう著者の視点では、平家政権を権門体制論で語るのは、権門体制論の矮小化になるという。結局、頼朝は天皇に頭を下げてのだから、平家もということになってしまう。鎌倉幕府が内裏大番役を創設したのは、既存の王権を倒すことなく、そのコピーもとくは同等品を作ること、既得権益を否定せず、温泉旅館の本館と新館のように、継ぎ足しで同じような新しいものを作ったということだ。
 本質的な問題として、平家政権の勃興の理由を考えてみよう。その背景には、気温、降水量といった自然環境の変動を背景に平安京と日本列島全体の関係性が12世紀に大きく変動したことがある。1140年代から50年代にかけて気候は冷涼であったものの、その前後は比較的温暖で、とりわけ1150年代から60年代頃までは温暖で生産条件は良好だった。これにより稲作の耕作地域は北上し、日本列島は大開墾の時代に入る。院政期には荘園公領制が確立し、諸権門の経済的基盤となる。この荘園公領制の確立は、中世的イエの誕生とワンセットだ。院政期に家父長権の強化(外戚の弱化)と相俟って、経営体としてのイエの財産は集積される傾向をもつ。その結果、大荘園領主の集住する京都周辺では、財産保全のための武力が必要になってくる。それが京武者である。財産の保全を実現できる者がトップの権力者に上り詰めることも可能なのだった。財産の保全とは、京都にある財産だけではなく、全国の荘園の収穫を京に無事に納入することも意味する。この時期、京の飢餓は、生産地の豊凶にかかわりなく消費都市である京への流通如何によって起こるのだった。実際、京はすぐに食糧不足が発生してしまう脆弱な都市だった。その結果、都を統御する権力構造も簡単に飢える消費都市である京への流通確保を優先課題とするようになる。この都市化に即応した王権を著者は「都市王権」と呼ぶ。このように10世紀に誕生した都市王権と呼ぶ権力構造が、その後の中世を貫通する。続く、11世紀から12世紀にかけての院政期に荘園制が確立すると、都市王権によって流通のコントロールが前面に表われることになった。
 この11世紀から12世紀にかけて、瀬戸内海の海賊をはじめとした盗賊が横行した。さらに、地方の戦線で武士たちが行う兵糧米の差押えも、京への物資の流通をストップさせてしまった。ここに、検非違使またはそれ以上の強制執行力を有する武力が要請される根拠が生じる。流通問題は国家の正当性を揺るがす大問題となっていたのである。
 平家政権の正当性は、このような国家の正当性を維持するための武力要請に応えることを通じて成立したのだった。実際に、海賊の討伐で平家の興隆を進めたのは平忠盛で、その子清盛は1181年の飢饉の際に「富を割き、貧に与う」政策、つまり富の再分配による救貧を行おうとした。

 

2023年9月 1日 (金)

東島誠「「幕府」とは何か─武家政権の正当性」

11112_20230901224401  本書のはじめ、本論に入る前に著者がこの本で何を論じようとしているかを説明している。
 それは、為政者はなぜ善き政治を行うのか、という問いが土台にある。その問いに対して、善き政治を行わなければ政権を維持することかままならないから、という答えがある。それには反論が多々あるだろう。例えば、圧倒的な武力や強制力をもって周囲を黙らせる、いわゆる恐怖政治が実例としてある。しかし、その強さは永遠に続きものではない。そのことを知る者は、自己の支配の正当性に敏感になる。実際に、専制君主のほうが、合議機関を創ることに熱心だったという歴史的事実がある。そう考えるなら、武力を生業とする武士の政権は、ただ圧倒的な武力だけを以って権力を維持できたというわけではない、ということに気づくはずだ。もちん、ひとたび権力を得た者にしてみれば、混乱が落ち着き、正当性が制度化されれば、あとはこれを伝統として、権力を維持することもできる。しかし、大きな混乱や危機が生じたら、為政者をして善き政治を行う必要へと駆り立てる。そこで、「幕府」とはなにかというタイトルの本書は、武家政権はどのように支配の正当性を確保しようとしたかを論じるということになる。
 では、その正当性とはどこからくるのか。この本では都市王権論を中心に幕府の正当性を描き出す。その背景は、気温、降水量といった自然環境の変動を背景に平安京と日本列島全体の関係性が12世紀に大きく変動したことがある。1140年代から50年代にかけて気候は冷涼であったものの、その前後は比較的温暖で、とりわけ1150年代から60年代頃までは温暖で生産条件は良好だった。これにより稲作の耕作地域は北上し、日本列島は大開墾の時代に入る。院政期には荘園公領制が確立し、諸権門の経済的基盤となる。この荘園公領制の確立は、中世的イエの誕生とワンセットだ。院政期に家父長権の強化(外戚の弱化)と相俟って、経営体としてのイエの財産は集積される傾向をもつ。その結果、大荘園領主の集住する京都周辺では、財産保全のための武力が必要になってくる。それが武者である。財産の保全を実現できる者がトップの権力者に上り詰めることも可能なのだった。財産の保全とは、京都にある財産だけではなく、全国の荘園の収穫を京に無事に納入することも意味する。この時期、京の飢餓は、生産地の豊凶にかかわりなく消費都市である京への流通如何によって起こるのだった。実際、京はすぐに食糧不足が発生してしまう脆弱な都市だった。その結果、都を統御する権力構造も簡単に飢える消費都市である京への流通確保を優先課題とするようになる。この都市化に即応した王権を著者は「都市王権」と呼ぶ。このように10世紀に誕生した都市王権と呼ぶ権力構造が、その後の中世を貫通する。続く、11世紀から12世紀にかけての院政期に荘園制が確立すると、都市王権によって流通のコントロールが前面に表われることになった。ということで、鎌倉幕府は地方豪族の土地所有を基盤とした体制で京都の朝廷に対抗したという従来の一般的見解と大きく異なることになる。そうすると、例えば、後醍醐天皇による建武政権は、単に武士から政権を朝廷が奪回したとは言えなくなるといった、中世~近世の見方が変わってくる。いわゆる歴史小説の前提が覆るかもしれないが、だって、現代に通じるような住民福祉により正当性を得ようとしていたのだから。これは説得力があると思うし、そういう小説より面白い。

 

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