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2023年9月30日 (土)

轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(1)

11112_20230930224901  多くのハイデガー解説書は、ハイデガーは現象学の方法論により存在を探求し、主著『存在と時間』を刊行した。しかし、その後、ナチスに関わり、戦後はその責任を問われて隠遁者のようにひきこもり、そこでの神秘的な後期思想は難解、というより他人の理解を求めないようなものとしてあまり触れられない、という言われ方をしている。典型的な解説者に木田元がいる。私の場合、現象学やハイデガーは木田元による岩波新書から入ったので、言ってみれば、木田の呪縛にかかっていた。本書は私のそういう呪縛から抜け出る道を示してくれた。
 著者は、『存在と時間』はハイデガーの主著と言われるが、彼の初期の著作で、しかも中途で核心部が未着手のまま途絶してしまったもので、そこから彼の思索を理解しようとしても核心部がないのだからできっこない。刊行された『存在と時間』を読んで、分かったつもりになったとしても、それは誤解以外にない。ハイデガーは初期から晩年まで一貫して「存在への問い」を考え続けた後期が難解だといっても初期から順を追って追いかけていけばいい。後期が難解だといわれるのは、「存在への問い」が従来のない問い方によるので、既存の言葉で語ってしまうと従来の問い方に絡め取られてしまうからで、ハイデガーは初期から、その試行錯誤を繰り返して、次第にオリジナルな表現になっていったからだという。ちなみに『存在と時間』が完成に至らなかったのは、その試行錯誤のためだという。
 では、ハイデガーはどういうことをしようとしていたのかと、端的に要約すると、西洋哲学の考え方の基礎には、個体(個人)がベースになって、それぞれが実在し、それらによって世界が成っているという発想がある。それぞれのものは神によって創られた被造物というもの。人間でいえば個人はそれぞれに神と繋がっている。それが行き着いたのが近代の主体性とあり、個人主義だが。これに対して、19世紀前半に近代主義への懐疑的な動きが起こった。例えばドイツのワンダーフォーゲル運動で、ハイデガーはそういう動きの中で、フォルク(ドイツの自動車「フォルクスワーゲン」のフォルク)という伝統的なコミュニティ(日本で言えばムラ社会か?)の考え方をベースに人のあり方を考えようとした。それは近代的な個人の主体性批判、その土台には伝統的な西洋哲学の形而上学批判があるというのだが、それがハイデガーの存在論となっていく。そして、近代的な個人の主体批判は、ナチスの西洋近代批判の主張と重なることになるわけで、ハイデガーの後期はナチスとの差別化も考え合せるようになったため、屈折を加えることになり、難解度が増していったという。
 このように考えると、ハイデガーの世界内存在という考え方は、西洋的な個人主体からみれば集団主義的といわれる日本人の考え方に近いとこにあって、かえって日本人に親しみ易いのかもしれない。実際、ハイデガーの日本での人気は世界でも珍しいほどだという。

 

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