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2023年10月

2023年10月30日 (月)

パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展―美の革命(7)~7.同時主義と オルフィスム─ロベール・ドローネーとソニア・ドローネー

 「6.サロンにおけるキュビスム」はつまらなかったので割愛。だんだんブラックやピカソの尖がりが失われていきます。ドローネーは、キュビスムの新たな展開として「同時主義」「オルフィスム」と呼ばれる色彩を重視した抽象絵画を追求したといいます。ドロネーは、知覚の断片化に焦点を当て、色あせた色合いでのみ絵画を作成するキュビスムから、色の配置により、リズムの感覚が引き起こされ、色付きの平面が明るくカラフルな平面領域を加えたといいます。
Cubistwindow  「窓」という1912年の作品です。色のみが画像の構成を想定し、その色合いの対峙の唯一の効果によってリズムの感覚を引き起こします。色付きの平面が光沢のあるまたは厚い平らな領域に配置され、削り取られることで、このリズミカルな効果が得られます。色彩のコントラストだけで画面が作られているようで、カンディンスキーの抽象絵画と、どこが違うのかと思います。たしかに、並んで展示されているソニア・ドローネーの「バル・ビュリエ」という作品は、カンディンスキーの初期の「クリノリン・スカート」とよく似ています。
 このあたりで、疲れてました。展示作品のせいもあり、テンションが落ちてきました。展示数は多いので、量に疲れたというのもあります。そういう量的ボリュームという点で、この展示は申し分ないです。このあとは、デュシャン、クプカ、シャガール、モディリアーニの作品が展示されていましたが、この人たちはキュビスム?と疑問に思いました。展示されている作品はキュビスム的には思えませんでした。言っちゃ悪いが、数合わせ?と思ったりしました。まあ、この人たちの作品は、キュビスムなど関係なく魅力的ですが。あまり個々の作品を集中して丁寧に見たわけではありませんが、それでも全体を通して2時間ほどかかりました。この年齢では、立ちっ放しで腰が痛くなりそうでした。

 

パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展―美の革命(6)~5.フェルナン・レジェブとファン・グリス

 ここから、キュビスムのフォロワーたちの作品になります。ブラックとピカソに続くキュビスムの代表的画家とされるのが、ピカソと同年生まれのフェルナン・レジェと同じスペイン出身のフアン・グリス。ともにキュビスムを吸収し、レジェは機械社会を反映した幾何学的作風、グリスは明晰な構図と色彩が特徴の画風を確立していったといいます。
Cubistcontrast  フェルナン・レジェの「形態のコントラスト」という1913年の作品です。いわゆるレジェらしい工場の製造装置のような光景の作品は展示されておらず(常設展にはありました)、ここで展示されていたのは抽象性の高い作品です。ブラックが立方体や四角形で画面を構成したのに対して、レジェは円と円柱で画面を構成し、もっと大きな違いは明るい色彩でコントラストが画面を引き立たせていることです。この作品では、鮮やかな赤、黄、緑、青が、形象にボリュームを与える白や、形象を際立たせる黒と激しく対照をなし、ほとんど準備されていない地のままのキャンバスに、対比が際立たせられています。この作品では、何が描かれているということは、ほとんど気にされなくなって、色彩の対比が主で、構成は、それを活かすためのものになっていると言っていいと思います。
Cubistguter  ファン・グリスの「ギター」という1913年の作品です。キュビスムというよりはシュールなイラストという印象で、明るくて洗練されています。ブラックやピカソの静物画よりも厳格に正面から描かれており、淡いブルーとグリーンの冷たい酸味が奏でる色彩の調和など、画面効果をよく考えていると思います。

 

2023年10月28日 (土)

パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展―美の革命(5)~4.ブラックとピカソ─ザイルで結ばれた二人(1909~1914)

 1907年に知り合ったピカソとブラックは、翌年から毎日のように互いを訪ね合い、人物や静物など身近なモチーフによる造形的実験を重ねていったといいます。章名の「ザイルで結ばれた二人」は、ロック・クライミングで命綱を結ぶ一蓮托生の関係にあったということを象徴的に表わしていると思います。
Cubistchair  キュビスムとは、教科書的に言えば、1つの視点からは見えない死角も同時に画面に描きこもうとする。具体的には、まず描く対象を様々な角度から見て、対象のイメージを複数の形に分解し、それを画面に再構成するというものです。ということは、見たままを写すことから、描く対象を幾何学的な細かい断面に分解して、まるでモザイク画のように重ねていくように描く、それが進化すると、色彩や光を抑制し、線と面による画面の構築が強調されていくようになり、見た目は幾何学的に単純化された図形の重なりになりました。それが分析的キュビスムです。
ピカソの「肘掛け椅子に座る女性」という1910年の作品です。前のコーナーの「裸婦」では、身体の各部分、人物の各要素を多面体に緻密に分解し、顔だけでなく、胴体、腕、首も、濃淡の度合いを変えながら、小さな灰色の多面体に切り分けられていました。しかし、描かれているのは人物であることは一応のところひと目で分かります。この作品では、人物を背景の前方に移動させ、ボリュームの錯覚を強調し、あたかも見る者の視線に応えるかのように人物を展開させています。こうして見ていると、ピカソの場合、キュビスムという物体を幾何学的図形である多面体に分解して描くというのは、人間という存在は画面に描かれていて、それは従来の絵画と変わりはなくて、それを表わす際に意匠として使われている。いってみれば、人間の身体は変わらずにあって、それを見て描くというのは変わらないで、衣装という装飾がキュビスムの役割というように見えます。いわば目新しいツールです。だから、もっと使い勝手のいいツールがあれば、容易に取り替えることのできるものです。
 Cubistguterist 「ギター奏者」は、同じ年に描かれた作品ですが、「肘掛け椅子に座る女性」に比べると、ずっと抽象的になって、人物の輪郭が容易に判別できなくなっています。これは、具象から抽象へと基本的な見方や表現が変わったというのではなくて、装飾である多面体図形が出しゃばってきて、それにより構成されるはずの人体を凌駕してしまった。たとえて言えば、平成時代の女の子の化粧の仕方で、ガングロからヤマンバという化粧塗りの過剰が顔本来の目鼻立ちを見えなくしてしまったのと同じような効果なのではないか、と思います。解読するように見ると、ギターと人物の腕に対応する斜辺だけが交差する、この厳格で直交を主とする構図では、円柱の上に置かれた半円で表された彼の頭、体格、丸みを帯びた形、楽器の弦を(困難ながらも)確認することができる。身体の幾何学的な平面は、背景で反響している。
Cubistfactroy  ピカソに対して、ブラックは人物画の展示はなく、もっぱら風景画と静物画でした。「レスタックのリオティントの工場」という1910年の作品です。四角形などの図形の集まりのようですが、風景が描かれているとして見ると、たしかに建物や煙突などが見えてきます。たしかに、ヨーロッパの街並みは樹木がなく、石造りの建物が並んでいると、建物は立方体で、曲線ではなく直線で構成されています。これは町中にも草木が多数みられ、日本家屋は直線的ではなくて、幾何学的に単純化できない日本の風景とは違います。工場はとくにそうですが、ヨーロッパの町は、幾何学的に単純化できるのです。それゆえ、ヨーロッパの町の風景から雑音を取り除いていくと、この作品のようになりえる。この作品を見ていて、そう思います。そうであれば、キュビスムは対象を知的に面と線で再構成するといった教科書的な説明とは違って、風景ならば個々の建物の個性といったような雑音を取り除いて線と面による形態に純粋化したものを描いたと言えるかもしれません。同じ風景でも日本の里山はキュビスムで描くのが大変なのではないか。
Cubiststillife  今度は「静物」という作品。題名そのままの静物画です。水平線と垂直線に、主として右上がりの斜線が組み合わされた構図で、画面左右の中央に垂直方向で形成されている形態はラム酒などの「瓶」、それに重なって右下がりの斜めの線が繰り返されて左上方では歪んだ楕円を形づくっている形態は新聞などの「紙類」で、それらがテーブルの上に置かれているのだろう。右上がりの断続する二本の長い斜線や、左下で三角形の暗い面をつくっている右下がりの斜線はテーブルの縁でしょうか。そんな解読はいいとして、前の「レスタックのリオティントの工場」とあまり見た目が変わらないでしょう。キュビスムの絵画だから、そういうものだ。そう言われても、ピカソの描いた女性とは見た目で違いがはっきりしています。おそらく、ブラックにとっては、風景も静物も同じような対象だったのではないかと思います。つまり、もっと絞ると風景の中の建築物とテーブル上の瓶や食器は線と面で構成された立体という点で同じです。ブラックは質感とか色などは、ほとんど無視するように描いているので、そうすると、彼にとっては、風景画と静物画の違いはなくなってしまう。逆に言えば、そういう対象をとくに選んで描いた。そのために適当なツールがキュビスムという手法だったと言えるかもしれません。
 さて、分析的キュビスムまでいくと、正直なにが描いてあるのか分からなくなります。そのことにキュビスムの画家たちも気がついたため、そこで絵と現実を結びつけるために新聞や紙を切り貼りするパピエ・コレという表現が誕生しました。分析・解体した絵画に、現実世界のものを組み込むことで、絵画と現実をつなげる試みをしたというわけです。それを総合的キュビスムと呼びます。そこで、コラージュやモンタージュという断片の集積によるイメージという新しい表現の可能性が誕生しました。
Cubistdish  ブラックの「果物皿とトランプ」という1913年の作品です。さっきの「静物」とは、大きく変わりました。この作品から総合的キュビスムの展示となり、それまでの分析的キュビスムの作品とは一線を画しています。まず色彩のバリエーションが豊かになった。とっつきやすくなった。木炭で輪郭を描かれたさまざまな面が、透明感と不透明感の交錯の中で重ね合わされている。木のような質感の模倣に新たな焦点が当てられている。トランプの存在、ブドウの形、テーブルクロスのモチーフ、文字の存在は、目と心を惑わす。といつた見た目もそうですが、イメージとして「静物」の方は、テーブルの上に瓶や新聞紙があるのを見て、それを多視点で分解し、再構成するという、あくまでも対象があってそれを認識することを前提にしている。これに対して、「果物皿とトランプ」の方は物語的というべきか。例えば、子どもが絵を描くときは視点を気にせずに、テーブルの上に果物皿とトランプがあるということを考えて、これが果物皿、これがトランプというようにテーブルの上に、それが分かるように描く。配置とか遠近とかパースとかは、はじめから考慮の外で、果物皿とカードをどこから見たかもかんけいなく、それぞれを描く、分かり易ければ、横に一列に並べてもいい。テーブルの上に果物皿とトランプがあるのを写すのではなく、テーブルの上に果物皿とトランプがあることが分かるように描く、その違いです。そうすると、見た人にはどういうことが描かれているのか分かりやすくなる。
Cubistviolin  同じ総合的キュビスムでもピカソではどうなのか。「ヴァイオリン」という1912年の作品です。ブラックの「果物皿とトランプ」のような物語的な分かり易さはありません。あくまでも視覚的、ということは絵画的です。筆遣いの多彩さは、ブラックにはない効果で、画面がいかにサマになっているか、という点で構成されている。それだけ、見た目で見映えがします。絵画として立派です。

 

2023年10月27日 (金)

パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展―美の革命(4)~3.キュビスムの誕生─セザンヌに導かれて

 セザンヌの残された手紙の中に「自然を球体、円筒、円錐として扱うこと」という言葉があるという。彼は、対象の大まかな形を立方体、円筒などでとらえた上で、細かなタッチで色面を貼り合わせるように描いていった。結果、立方体の集積で形態を表していて、形態の存在感が強調されるようになる。セザンヌは、自然を幾何学化することにより、対象の立体感や、存在感、空間を強調することを試みた。ブラックやピカソは、そんなセザンヌの後を追いかけるようにして、遠近感をなくす、モチーフを幾何学的にざっくり描く、モチーフを解剖するという実験をし、それがキュビスムになっていったという。
Cubistlestaque  ブラックの「レスタックの高架橋」という1908年の作品。ちょうど、最初のコーナーで見たセザンヌの「ポントワーズの橋と堰」と比べてみてください。画面中央の橋の形はよく似ています。この作品では、橋の手前の家並みは、立方体と三角形の図形を積み重ねたようになっています。これは、セザンヌの「ポントワーズの橋と堰」の家並みの描き方に倣っていると言えるほど、共通しています。これは、説明されているセザンヌを突き詰めたというより、いただいた、と言った方が当たっているのではないか。ブラックは要領がいい方ではなさそうなので、そういうところが正直に現われている。キュビスムって、尤もらしく、小難しい理屈が捏ねられているが、こうして見ると、セザンヌからちゃっかりいただいたものだったんじゃないの?と思わせる。ブラックは20代という若さゆえの反抗心や野心に煽られて従来のちゃんとした絵画なんて描かないぞ、という気概に溢れているように思えます。例えば筆遣いが粗く、同じ方向に塗っている筆跡が並んでいたりして、まるで下手な塗り絵です。グラデーションも何もない。立体感を表わす影についても単に暗い色を塗って、面の色違いにしているようにしか見えません。これってタッチの否定ですよね。セザンヌのもっている色彩のセンスはないようで、黄土色の系統でモノトーンに近い。これは色彩の否定。そういうのが、結果として目新しいと見られた。そして、それを要領がよく、目端のきくピカソがうまく利用して、現代でいえば差別化のマーケティング戦略のように作品を売り込むことに成功した。そんなストーリーが見えてきます。
Cubistinstrument  同年に制作された「楽器」という作品です。先に見たセザンヌの「ラム酒の瓶のある静物」と比べるといいと思います。ブラックが破壊的であるのが分かります。マンドリン、クラリネット、アコーディオンという3つの楽器を組み合わせ、折りたたんだりひねったり、二次元のキャンバスの長方形に圧縮したりする。マンドリンの楕円形の本体は平らになり、ネックは折れ、クラリネットは切り取られ、アコーディオンは関節が切断されています。静物画のすべての要素が歪んでいて、黄土色と緑に色彩は限定され、在る静物を描くと言うより、画面の表面的な構成が優先されています。ブラックはセザンヌを追いかけていて、その点で、セザンヌとは違う方向に踏み出したのかもしれない。この作品を見ていると、そう思えてきます。まあ、ブックの場合は、デッサンなどの修行をしなくてよくて、破壊が目立つという性格のものだろうけれど。
Cubistnude  一方、ピカソはというと「裸婦」という作品です。到底裸婦には見えません。背景は山のようですが、岩山のゴツゴツした尖峰のようで、黒い色は岩石のように見えます。少なくとも緑豊かな山には見えません。そういう山をバックにして立っている人物像は、まるで巨大ロボット(勇者ライディーン、あるいは有名どころではガンダム)の機械然とした姿に似ています。しかも、人物に使われている色がグレーでメタリックな雰囲気を匂わせているので、ゴツゴツした姿と相まって、ロボットの見えてしまいます。というよりも、人物と背景の山が同じように描かれています。とはいっても、仕上げは粗くないし、ブラックとは違って、ちゃんとデッサンして描いている。何を描いているか、描き分けがしっかりと為されている。つまり、計算されているので、破壊的な感じは強くありません(現代という後付けの視点からですが)。こうすると、後付けで、もっともらしい理屈、すなわちキュビスムの理論を付けやすいですね。ブラックで並べてみると、雰囲気が異質なのが、よく分かります。

 

2023年10月26日 (木)

パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展―美の革命(3)~2.プリミティヴィスム

 植民地支配を進めるヨーロッパには、様々な国の文化の産物がもたらされ、博物館に収められていた。古典的技法を用いた「青の時代」などを経て、新しい表現を求めていたピカソは1907年に訪れたパリの民族誌博物館でアフリカやオセアニアの造形物と出合う。概念的で力強い表現に衝撃を受け、描き上げたのがセザンヌの水浴図にもヒントを得た「アヴィニョンの娘たち」だという。原住民の像のようなものが展示され、それを真似したようなピカソやブラックの作品が展示されていました。
Cubistbust  ピカソの「女性の胸像」という1907年の作品。同時期のブラックの作品も展示されていましたが、原住民の土着的なテイストをそのまま真似してみました、というどストレートな作品で、果たして、絵画としての作品になっているのか、ちょっと疑問に思うほどでした。それに比べると、ピカソという人の巧さ、という要領のよさがよく分かる作品で、ちゃんと見ることのできる絵画になっている。でも、これのどこがプリミティヴィスムなんだろうか。たしかに、描かれている女性は、神話や歴史の人物でも、上流の階層の女性の肖像でもなく、美しい女性には描かれていない。女性の肖像にしては暗く鈍い色のトーンで描かれている。そういうところが従来の女性の肖像にはないものかもしれません。ピカソは巧い、ブラックは拙いの違いはありますが、どちらにしても、従来の絵画へ反抗している、というより否定している。しかし、自分たちのオリジナリティがあって、それが従来の作品とは異質で相容れないから結果として否定することになるというのではなく、否定が先にある。否定して、その後で、その否定を作品で表わすことができるかというと、そんなものはない。そこで飛びついたのが、植民地の原住民の作ったもの。従来の作品と異質であれば、従来の作品を否定することになる。それで、真似してみました。そんな感じがしました。この後のセザンヌの影響、というよりあやかり、もそんな動機が見えてくる気がします。

 

2023年10月25日 (水)

パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展―美の革命(2)~1.キュビスム以前─その源泉

 19世紀後半から20世紀初頭キュビスム以前の表現と、ポール・セザンヌやポール・ゴーガン、アンリ・ルソーなどといったその興りのきっかけとなった画家たちの作品が紹介されています。
Cubistpont  セザンヌの「ポントワーズの橋と堰」という作品。画面中央の奥になっている橋と川岸の家並が立方体と三角形の箱を並べたように描かれているのが、後で見るブラックの風景画に通じている。これは、後でブラックを見て、戻ってくると、「ああ、そうだっんだ」と分かります。この作品は前景に木々が茂っているので、箱を並べたような家屋は目立たないので、この作品だけを見てキュビスムにつながるとは思えないでしょうが。私は、セザンヌの作品を見ることは、あまりないのですが、このようにキュビスムの先駆という意味であれば、そういう視点で見ることはできると思いました。
 Cubisttropical アンリ・ルソーの「熱帯風景、オレンジの森の猿たち」はセザンヌに比べで、ずっと平面的です。ルソーに比べれば、セザンヌはまだ写実的で、この作品では、オレンジが円形で木の直線と前景の直線的な葉っぱとで図形のようにデザイン化されています。この作品では、オレンジ色の円形の配置が画面にリズムを生んでいて、それが作品に動きを作り出していて、それが一種の面白味を感じさせます。このへんは、セザンヌのような理念が先行するというよりは、日本画の平面的でデザイン的なものの影響のように思えます。ちょうど、ジャポニズムの時代だったと思いますが。
この展示会はコーナーの数は多かったのですが、各コーナーの展示作品は数点で、各コーナーの内容を深めるというより、広く浅くのバラエティ重視の反映ではないかと思います。

 

2023年10月24日 (火)

パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展―美の革命(1)

Cubistpos1 Cubistpos2  上野に行くのはコロナ以来はじめてのことだから、3年ぶりくらいになるか。上野駅の公園口が変貌していたのには驚いた。キョロキョロしてしまって、まるでお上りさんだった。この展覧会は先週始まったばかりで、朝から強い雨が降っていて、昼前だから、まして、具象とはいえないキュビスムの展覧会だから、空いている。ゆっくりと見ることができると思っていた。しかし、実際に行ってみると、入場券の売り場には十数人が並んでいて、交通整理の係員が至る所に配置されていて、うるさいほど。建物に入ると、コインロッカーは人でいっぱい。印象派でもルネサンスでもないんですよ。キュビスムですよ。会場にはいると、各作品の前に常時数人が立っている。マイペースでゆっくりと見るなどという余裕はない。最初のうちから、こんなだと会期の終わりごろはいったいどうなってしまうのだろうか。ムズカシケナ20世紀美術がこんなに人気があるとは驚いた。来ている人は、けっこう若い人、しかも女性が多い。また、外人さん(観光客?)の姿も目立つ。私のようなジイさん一人は、あんまりいない。予想とは違う。それから、小さなことだけれど、美術館の入場券がQRコードのついたレジのレシートのようなものに変わってしまった。以前の、デザイン的な入場券は、つくるのに金がかかるので、こえいうのになったのだろうか。先々月訪れた埼玉県立近代美術館では作品リストは置いていなかったが、ここでは入口に置いてあった。
 キュビスムといっても範囲は広いので、その中で、どのような作品が集められているか、主催者のあいさつを引用する。“20世紀初頭、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックという2人の芸術家によって生み出されたキュビスムは、西洋美術の歴史にかつてないほど大きな変革をもたらしました。その名称は、1908年にブラックの風景画が「キューブ(立方体)」と評されたことに由来します。西洋絵画の伝統的な技法であった遠近法や陰影法による空間表現から脱却し、幾何学的な形によって画面を構成する試みは、絵画を現実の再現とみなすルネサンス以来の常識から画家たちを解放しました。また絵画や彫刻の表現を根本から変えることによって、抽象芸術やダダ、シュルレアリスムへといたる道も開きます。慣習的な美に果敢に挑み、視覚表現に新たな可能性を開いたキュビスムは、パリに集う若い芸術家たちに大きな衝撃を与えました。そして、装飾・デザインや建築、舞台美術を含む様々な分野で瞬く間に世界中に広まり、それ以後の芸術の多様な展開に決定的な影響を及ぼしています。本展では、世界屈指の近現代美術コレクションを誇るパリのポンピドゥーセンターの所蔵品から、キュビスムの歴史を語る上で欠くことのできない貴重な作品が多数来日し、そのうち50点以上が日本初出品となります。20世紀美術の真の出発点となったキュビスムの豊かな展開とダイナミズムを、主要作家約40人による絵画を中心に、彫刻、素描、版画、映像、資料など約140点を通して紹介します。日本でキュビスムを正面から取り上げる本格的な展覧会はおよそ50年ぶりです。”
 見る前は、ブラックとピカソを、両者の違いを含めて、その後ピカソはキュビスムより広いところに行くのに対してブラックはキュビスムを突き詰めていくとか、そのへんをじっくりと見せてもらえると思っていたら、二人の後に、レジェをはじめとした様々な作家にキュビスムが広がっていく(シャガールとかモディリアニなんてキュビスムなのか?と思ったりする)が、そういう広がりという方向で展示されていました。いわば、広く浅くというという方向で、その広くが、どこまでをカバーしているかは分かりませんが、キュビスムに対して親しめるという展覧会だと思います。

 

2023年10月23日 (月)

今井むつみ、秋田喜美「言語の本質─ことばどううまれ、進化したか」(8)~第7章 ヒト子動物を分かつもの─推論と思考バイアス

 すべての対象には名前があるという気づきは、言語という記号体系を自分で構築していくための重大な洞察であるが、この洞察には、その下にもう一つ大事な洞察が埋め込まれている。名前というのは、形式と対象の間の双方向の関係が成り立っているという洞察である。子どもは黄色い果物の名前が「バナナ」と呼ばれることを覚え、その果物を大人が指さしたら「バナナ」と答えることができるようになったとする。そして、その子供は、バナナ、リンゴ、パイナップルが入っている籠から、バナナを取ってきてと言われて、バナナをとってくることができる。これは、人間だからできることでチンパンジーにはできないという。京大で訓練されていたチンパンジーのアイは、黄色の積み木なら△、黒の積み木なら◯を選ぶことができるが、△を見せたら黄色い積み木を選んでくるということができませない。
 しかし、ただし、「XならばA」と「AならばX」は論理的には、同じではない。「ペンギンならば鳥」であっても「鳥ならばペンギン」とは言えない。「外を見たら道路が濡れていた。雨が降ったに違いない」というのは推論としては間違っている。「XならばA」を「AならばX」に過剰に一般化することは、人間の日常生活では頻繁にみられる。「外を見たら道路が濡れていた。雨が降ったに違いない」というのは、普通、間違いとは思わない。しかし、論理学では推論としては誤りなのだ。「後件肯定の誤謬」と言われるもので、道路が濡れた原因としては雨以外も考えられるからだ。このような推論を対称性推論という。
 ところが、こうした推論が人類の知識を増やして生きたとも言えるのだ。とりあえず仮説を立ててみて行動することが人間の特徴というわけ。一方、ベルベットモンキーは天敵である蛇が砂地の上に跡を残して這うのを見ることがあっても、蛇の通った跡から蛇の存在を予測できない。このサルたちは蛇の跡は蛇が近くにいることを意味すると予測するような学習はしない動物はアブダクション推論ができないということだ。これに対して、ヒトは自分に直接関係のない自然現象などについて、因果関係を認識する。このような非論理的で経験則に基づく対象性推論を行うのである。ヒトには対称性推論をするバイアスがあると著者は言う。このことが言語を持つことの鍵となっているという。
 帰納推論アプダクション推論は、既存の限られた情報から新しい知識を生み出すことができる。しかも、より少ない法則や手順で多くの問題を解くという節約の原理にかなっており、不確かな状況、能力的な制約の下で、限られた情報でも、完全でないにしろそれなりに妥当な問題提起や予測を可能にしている。また、事例をまとめるルールを作ることで、外界の情報を整理・圧縮することが可能になり、情報処理上の負荷を減らすことができる。現象からその原因を遡及的に推理し、原因を知ることで、新しい事態にも備えることができるというわけだ。

今井むつみ、秋田喜美「言語の本質─ことばどううまれ、進化したか」(7)~第6章 子どもの言語習得2─アプダクション推論篇

 第4章では、子どもの言語習得にとってオノマトペが重要な足場の役割を果たしていることを示した。しかし、それは子どもの言語習得の最初の入り口にすぎない。子どもたちは多くのことばを覚えていかなければならい。ほとんどのことばは、音と意味の間にすぐに分かるつながりはない。しかも、一つの単語が多くの意味を持つ、つまり多義にもなる。何より、一つひとつの単語が、子どもの環境で話される個別の言語に特有の語彙体系に組み込まれている。その意味で、基本的にすべてのことばは抽象的である。例えば「整数」「分数」のような言葉は極度に抽象的で、その意味は外界を見ただけでは直感的に分かるというものではない。子どもはこのようなことばの意味を理解するのに苦労する。
 ことばの意味が分かるということは非常に豊かで複雑な知識を含む。われわれはことばを、単にことばの音と観念の対応関係として理解しているわけではない。それぞれのことばは一つの対象とのみ結びついているわけではなく、広がりがある。つまり、ことばの意味は点ではなく面である。面とは、つまり、同じ概念領域に属する他の単語との関係性によってことばの意味が決まるのである。
 動詞は動作や行為を指定するが、そこには動作主体、動作の背景、動作の対象などの動作以外の複数の要素が入り込む。そのうちのどの要素が動詞の意味のコアなのか、3歳くらいの幼児には切り分けが難しい。ここでは、子どもの足元に転がっていったボールを「ポイして」と言った所、子どもがゴミ箱に捨ててしまったという話が紹介されている。親は「ポイして」を「投げて」という意味で使ったのが、子どもは「捨てる」という意味にとっていたという。ティッシュを指でつまみ、ゴミ箱まで移動し、投げ入れるという一連の動作のどの部分に「捨てる」ということばを対応付ければいいだろうか。小さい子どもは、知らない単語をモノの名前だと考える傾向がある。動詞が動作に対応することも分からないかもしれない。言語は音韻、文法、語彙のすべてにおいて複雑な構造をもっている巨大な記号の体系である。子どもが、そのひとつひとつを分析し、解明しないと自分で自由に使えるようにならない。大人にとっても、言語の構造を分析し、理解するのは至難の業だが、幼い子どもは言語を習得するためには、これができなければならない。
 著者が子どもが言語を習得する過程として考えるのが「ブートストラッピング・サイクル」だ。これは最初に経験に接地した知識から推論によって必ずしも実際に経験したことのない知識も獲得していくというもので、これによって子どもは語彙を獲得するとともに「学習の仕方」も洗練させていくものだ。すなわち、単語に意味があることに気がついた子どもは、ことばを少しずつ覚えていく。ことばを対象に対応づけていくだけではない。ことばが指す対象を探しながら、同時に対応づけを一般化する手がかりを探索している。こどもが知らない言葉を聞いたら、目の前にモノの名前だと考える。さらにそのことばを一般化するときには、モノの形を基準にして、同じ形のモノをカテゴリー化し、形の違うモノと区別する。このように語彙を増やしていくと、一般化するのに大事なのは形だけなく、卵から生まれるなどいう内的な性質だと気づくようになる。このような知識が新たな知識を生み、語彙の成長を加速させ、さらにことばの学習の仕方を洗練させていく。こどもはこのように、ある手がかりがあれば、そこから学習を始め、知識をつくっていく。その時子どもがしているのは、教えてもらったことの暗記とはまったく異なる、今持っている資源を駆使して、知識を蓄える。同時に学習した知識を分析し、さらなる学習に役立つ手がかりを探して学習を加速させ、さらに知識を拡大していく。そういうサイクルを回している。このように子どもは自律的に学習を進める。
 この場合、知識は経験の丸暗記により獲得されたものではなく、推論というステップを経て獲得された。推論には、演繹推論、帰納推論、アプダクション推論(仮説形成推論)がある。演繹推論は、ある命題が正しいと仮定し、またその事例が正しいときに、正しい結果を導く。帰納推論は、同じ事象の観察が積み重なった時、その観察を一般規則として導出する推論である。アプダクション推論は同じ事象の観察が積み重なった時、観察データを説明するための仮説を形成する推論である。これらのうち、常に正しい答えを導くのは演繹推論であるが、新しい知識を生むのは帰納推論とアプダクション推論である。帰納推論とアプダクション推論の違いは、観察により、物体は支えがないと落ちるという結論は帰納推論で導かれるが、アプダクション推論は重力の作用により物体は落下すると説明する。帰納推論とアプダクション推論の違いは、観察により、物体は支えがないと落ちるという結論は帰納推論で導かれるが、アプダクション推論は重力の作用により物体は落下すると説明する。子どもの言語習得過程におけるブートストセッピング・・サイクルが、帰納推論とアプダクション推論の混合によるものなのである。赤ちゃんが音と一緒に現われる対象の間に必然的なつながりがあると帰納推論し、そこから人の発する音声の塊は対象の名前であるという洞察はアプダクション推論によるものだ。子どもはさまざまな間違いをしながら言語を習得する。「ピッチャー」「キャッチャー」という言葉を知った子どもがバッターを「バッチャー」と言った例などが紹介されているが、これは間違いではあるものの子どもが推論しながら言葉を使っていることを示している。

2023年10月22日 (日)

今井むつみ、秋田喜美「言語の本質─ことばどううまれ、進化したか」(6)~第5章 言語の進化

 ここでは、言語は進化の過程でオノマトペ性が薄まり、語彙の大部分は恣意的な記号の体系となっていったことを考える。
 従来の言語学では、言葉に身体とのつながりはなく、その必要もないという考え方が主流だった。これは初期の人工知能研究でもそうで、人間の知識の実装をする際の単位は単純な概念を表わす記号であり、その記号を組み合わせればどんなに複雑な概念も作り出すことができると想定されていた。
 しかし、ひとたび言語を意味を運ぶ媒体と考え、意味がどのように始まるのかという問題を考えると、人間が話す言語が身体から分離された抽象的な記号から始まっているという考えは直感的に受け入れにくい。人間がコミュニケーションの道具としてそれぞれの意志や感情を他者に伝え、コミュニティの合意を形成するために大切な言語に用いられる記号の体系は、身体を経て得られる感覚、知覚、運動、感情などの情報に由来する意味を持っている。この問題は記号接地問題に直結する。
 実際、意味を知っている言葉を一つも持たない子どもは、まったく意味のない記号を使って新たに記号を獲得することはできない。言語と感覚とのつながりをまったく知らない子どもが、辞書を用いて言語を学習することはできない。一方で、成人はおよそ感覚に接地しているとは思えない概念をも、あたかもそれが感覚と接地しているかのように言語的に表現することができる。言語には目に見えない物理的な実体を持たない抽象概念を表わす語が多く含まれている。
 では身体性とはどういうことか。人工知能で身体性が注目されたのは記号主義への反論としてだった。人工知能がどうしても解決できないのが感情で、それが身体表現と直接つながっているのだが、たとえば「ひらひら」と「はらはら」を使い分けることができない。人間は感情として身体感覚とは独立して好感度をもっていて、触覚を表現する言葉の意味を理解するうえで欠かせない情報なのだ。それは、センサのような感覚器官だけでは追いつかない、言葉を身体に接地できない。そのとき、身体に直接つながっている言葉としてオノマトペがある。そして、現在ではオノマトペではないとされて普通の言葉でもオノマトペを起源とする言葉が少なくない。例えば「たたく」「ふく」「すう」といった動詞で、これらは「タッタッ」「フー」「スー」という擬音語に由来する。しかし、これらの語は、オノマトペに留まらず、結果的にオノマトペから離れてしまった。著者はニカラグア手話を題材に考える。
 ニカラグアには日本手話のような汎用的な手話がなく、聾の子どもを教育するシステムもなく、家庭内で「ホームサイン」で家族とコミュニケーションを取っている状況だった。ところが、1970年代以降になると教育が始まり、耳が聞こえない子どもたちが学校へと集められた。そこで生まれたのはニカラグア手話。まずは第1世代の子どもたちの間で自然発生的に生まれ、それが新しく入った子どもに教えられていった。このときに起こった変化を一言でいうと「アナログからデジタル」への変化だと言う。すなわち、現象をそのまま写し取るではなく、記号の組み合わせによって意味を表すようになっていった。例えば、「投げる」といっても様々な投げ方がある、第1世代は投げるをジャスチャーのようにその場でそれぞれに模倣した。つまりアナログである。それが、「投げる」を表わすひとつのパターンができていく、つまりデジタル化だ。そしてさらに、「転がり落ちる」は、第1世代では転がりながら落ちていくようすをそのまま再現していたのが、第2世代では「転がる」+「落ちる」で表現されるようになっていった。表現したい事象を分割可能な最小の概念に分割し、それを組み合わせることで、効率的に表現したいことを何でも表現できるようになる。しかし、その一方で実際の事象を要素に分割して系列的に提示することは、実際の事象のありようから離れていくことになる。
 このように言語を要素に分割し、結合して新しい言葉を生成していく過程は、人間の分析能力が作り出すものだ。このような分析的思考への志向性がオノマトペのアナログ性を薄め、デジタル化された抽象的な意味に変化されて言った。意味の抽象化はアイコン性を薄める。しかしこれだけではない。もうひとつの要因は言葉の多義性である。表現したいすべての概念の区別を別の単語をたてて区別しようとすると膨大な語彙が必要になる。だから一つの単語に異なる意味を担わせる。それだけでなく、想像によって意味を派生させようとする志向性である。人間は隠喩や換喩によって言葉の意味を派生させようとする。このような意味の派生によって、オノマトペのもとの意味が分からないほどになってしまう場合もある。
 どうしてこのような変化が起こったのか、必要だったのか。ことばを使うとき、脳は、ピンポイントで想起したい単語を一つだけ想起するわけではない。同じ概念領域に所属する似た単語や似た音を持つ言葉が一斉に活性化され、活性化された単語たちの間で競争が起こり、生き残ったことばが最終的に意識に上がって想起される。想起される候補を無意識の情報処理の過程で選択しているとき、似た意味で似た音を持つライバルの単語が多数あったら、情報処理の負荷は非常に重くなってしまう。子どもの言語習得では、ことばの学習が始まったばかりの語彙数が少ない時は、アイコン性が高いオノマトペが学習を促進する。しかし、語彙数が増えてくると、アイコン性が高いことばはかりでは、負荷が増して、かえって学習効果が阻害されることになってしまう。語彙の密度が高くなると意味と音の関係に恣意性が増すというパターンが生まれるのは、必然的に流れと言える。言語の進化の過程と、子どもの言語習得の両方で同じようなパターンが見られることは、言語の性質を考察するうえで非常に重要である。言語の進化は概念の進化、さらには文明の発展と呼応している。当初は自分が直接観察できる感覚・知覚の模倣から始まった言語も、進化に伴って、しかも非常に早いうちに直接観察できない抽象的な概念を作りだし、名づけがなされる。抽象概念は音による感覚の模倣ができないので、必然的に概念とは直接関係を持たない恣意的な音が当てはめられることが多いる抽象概念が語彙に占める割合が高くなると、語彙のアイコン性は薄まる方向に進んでいくのである。

2023年10月20日 (金)

今井むつみ、秋田喜美「言語の本質─ことばどううまれ、進化したか」(5)~第4章 子どもの言語習得─オノマトペ篇

 子どもが抽象的な記号の体系である言語を習得するとはどういうことなのか、その過程でオノマトペがどのような役割を果たすのかを見る。
母子など、大人と子どもの会話において、大人は同じ大人と話す時よりも、オノマトペを頻繁に使う。しかも、子どもが小さいほどオノマトペの使用頻度が高い。また、オノマトペの使い方には間投詞的な使い方と副詞的な使いの二通りがあるが、子どもに対しては間投詞的な使い方が多い。間投詞というのは、文の中で文法的な役割を担うのではなく、「あーっ」「どっこいしょ」などのように感情や態度が思わず声として出てしまう感じで発話される言葉である。オノマトペも、「くしゃくしゃー」のように完全にその言葉単体で使われるような使い方である。これに対して、副詞的な使い方は「くしゃくしゃに丸めます」のように動詞を修飾する使い方で、大人との会話では、こちらの方が多かった。これは、物事を描写するオノマトペが術部に入って活用される(副詞的な使い方)と、アイコン性、つまり音と意味の類似性が薄まり、音と意味のつながりを感じにくくなる。これに対して、術部の外にある(間投詞的な使い方)と、高いアイコン性を保ちやすい。これを踏まえると、親が子どもに話しかける時、アイコン性高める形でオノマトペを使うと言える。この理由を考えると子供が言語を習得するとはどういうことか、という問いにいたることになる。
 赤ん坊が、ある対象といっしょに言葉の音声を聞いたとき、それをどのように認識しているのだろうか。赤ん坊は知っている言葉がわずかしかなく、情報処理の能力も限られている。その言葉を聞いたことがあっても、正しい対象をすぐに見つけることは難しい。実際に「ボールを見て」と言われてボールを見るためには、次のような情報処理作業が必要になる。①「ボールを見て」という文章を単語に切り分けて、その中から「ボール」という言葉を取り出す。②自分の記憶の中の「ボール」という音の列と照合する。③さらに、その音と結びついたもののイメージにアクセスして、今見ているモノが自分の記憶にあるイメージと同じかどうかを判断する。④その判断に基づいて、「ボール」と判断した対象を見る。このような一連の情報処理は赤ちゃんには荷が重い。しかし、最近の実験により11ケ月の赤ちゃんは人が発する音声が何かを指し記すものであことを薄っすらと知っている、と著者は主張する。言葉の音と対象の対応付けが自然にわかると、「単語には」意味があるという洞察を赤ちゃんが得ることを表わす。ものにはそれに対応する言葉があるということはものには名前があるということだ。人間が持っている視覚や触覚と音の間に類似性を見つけ、自然に対応付ける音象徴能力は、ものに名前があるという気づきをもたらす。その気づきが、身の回りのモノや行為すべての名前を憶えようとする急速な語彙の成長につながる。音と意味が自然につながっていて、それを赤ちゃんでも感じられることが、単語に意味があるという認識を引き起こすキッカケになる。それで、大人は赤ちゃんにオノマトペを多用するのだ。そしてさらに、言葉を使うことができるためには、最初に結びつけられた指示対象だけではなく、他のどの対象にもその言葉が使え、どの対象には使えないのかを見極めることができなくてはならない。このことは、とくに動詞について難しい。というのも、動詞はおもに動作や行為を指すものであるが、動作や行為には必ず動作主、動作対象、道具などのモノや背景といった動き以外の情報が多く含まれるからだ。例えば、青竹を踏むとカンを踏み潰すは、動作の外形だけを見ていると同じだが、言葉が違ってくる。しかも、カンをつぶすという場合は、足でなくて手でつぶしてもいい。このように動作に注目するのか、動作の対象に注目するのかのより、動詞が違ってくる。そういう曖昧性のなかで、オノマトペの音は子どもに、どの要素に注目すべきかを自然に教えている。というのも、オノマトペには音と動作の対応があるので、一般化の基準となる意味のコアをつかむ手助けとなる。
 このように子供が言語を学ぶということは、単に単語の音とその単語が表わす対象の対応づけを覚えるということではない。言語を成り立たせている様々な仕組みを自分で発見し、発見したことを使って自分で意味を作っていく方法を覚えることである。子供が最初に発見しなければならないことは、自分がこれから覚えて使っていく言語には意味があること、言語の意味の基本単位は単語であること、単語は音の組み合わせから成り立っていること、組み合わせには規則があり、組み合わせを変えると違う意味を作ることができるなどである。子どもはこんなにたくさんのことを、ひとつひとつ、自分の力で学んでいかなくてはならない。そこでオノマトペに親しむことで子どもは言語のさまざまな性質を学ぶことができるのである。このように、言語習得におけるオノマトペの役割は、子どもに言語の大局観を与えることと言うことができる。何の知識もない状態から始めなければならない子どもと、抽象的な記号の膨大かつ複雑な体系である言語の姿。そこで、音とそれ以外の感覚の対応付けを助けるオノマトペのアイコン性が、言語という膨大で抽象的な記号の体系に踏み出す赤ちゃんの背中を押し、足場をかけるという大事な役割を果たしている。

2023年10月19日 (木)

今井むつみ、秋田喜美「言語の本質─ことばどううまれ、進化したか」(4)~第3章 オノマトペは言語か

 オノマトペについては、子供じみた音真似であって言語ではないという意見もある。このような意見に対しては、オノマトペは特殊な点あるが、あくまでも言語であると主張する。オノマトペ以外の普通の言葉との違いより、共通性の方が多い。ここでは、オノマトペが言語である、普通の言葉との共通性を考える。この考察は「言語とは何か」という考察を伴う。
 ここでは、人間の言語を言語たらしめている特徴に着目し、オノマトペがいかに言語的なのかを考えていく。その特徴とは次のようか言語の十大原則である。コミュニケーション機能、意味性、超越性、継承性、習得可能性、生産性、経済性、離散性、恣意性、二重性で、オノマトペは、そのすべてにあてはまるというのが結論である。
 これらのうち、とくに最後の3つの特徴が争点となった。例えば、言語の恣意性についてはソシュール以来の言語学のスタンダードだが、近年、それに反対する考えが表明されるようになってきている。そういう言語は身体とつながっているという考えにとって、言語的な特徴を多く持ちながら、言語でない要素も併せて持つオノマトペの性質はうまく合致する。身体性をもつとしても、言語はあくまでも極度に抽象的な記号の体系である。そこで、身体と抽象的な記号の体系の間を埋める必要がある。この問題を考えるうえで、言語の特徴を持ちながら身体につながり、恣意的でありながらもアイコン性を持ち、離散的な性質を持ちながらも連続性を保つというオノマトペの特徴は、両者の間を埋める有望なピースとなる。言語の進化、あるいは子供の言語の習得の場合も、オノマトペは言語が身体から発しながら身体から離れた抽象的な記号の体系への進化・成長するつなぎの役割を果たしている。

2023年10月18日 (水)

今井むつみ、秋田喜美「言語の本質─ことばどううまれ、進化したか」(3)~第2章 アイコン性─形式と意味の類似性

 オノマトペのアイコン性ということでいうと、まずはオノマトペに特徴的な語形があります。
 オノマトペには「ドキドキ」「グングン」といった重複形が多いです。そして「ドキドキ」は心臓の鼓動が繰り返し打つさまを表しているす。一方、「ドキッ」は驚きなどを表すので1回限りというわけ。このような重複形と単一形のアイコン性はわかりやすい。語形で時間の輪郭を写し取っている。また、アイコン性はオノマトペを構成する音にも見られる。日本語のオノマトペは音象徴の体系を持っている。たとえば清濁の音象徴。「コロコロ」よりも「ゴロゴロ」の方が大きくて重い物体が転がる様子を示す。gやzやdのような濁音の子音は程度が大きいことを表わし、マイナスのニュアンスを伴う傾向がある。清濁以外でも、音象徴はあらゆる子音・母音にある。「あ」は大きいイメージ、「い」は小さいイメージと結びつきやすい。例えば、「大きい」という言葉は「お」は「あ」のように口を大きく開く母音で使われる。英語の「large」もそうだ。これに対して「小さい」という語では「い」という口をあまり開けない母音が含まれている。このように発音の仕方がアイコン的なのである。
 音は発音だけで物事を写し取るだけではない。その音の響き、あるいは人にどう聞こえるかという点もある。たとえば、「ぬるぬる」「ねばねば」のn音が滑らかな手触りと結びつく。子音は大きく分けて阻害音と共鳴音がある。阻害音は角張っていて硬い響きの、b、d、g、kなどのような音、共鳴音は丸っこい柔らかな響きのm、y、rなどのような音。われわれは両者の違いを耳や口で感じ取り、それを視角や触覚のイメージに結び付けている。
 絵や絵文字は必ずしもシンプルでなくてもよい。点や線を描き足したり色を工夫したりすることで描写を精密にすることが可能である。一方、言語であるオノマトペの単語は、ある程度シンプルでなくてはならない。複雑すぎる単語は覚えられないし、長ったらしい表現は円滑なコミュニケーションの妨げになる。それゆえにオノマトペがアイコン的に写し取れるのは、音や動きなど物事の一部分であった。その一方で、オノマトぺの発音を工夫することで、その部分的な描写をいくらか写実的にすることは可能だ。
 脳活動から見てみると、単語の音や意味の処理は脳の左半球が担う。音の処理は側頭葉の上側頭溝小片が大事な役割を担い、言語の音の処理は左半球側、環境の音は右半球側の上側頭溝という役割分担がある。オノマトペは言語音と環境音の処理が並行して行われるので、両方の側が活動する。まり、脳はオノマトペについては、環境音と言語音として二重処理する。この二重性は、脳がオノマトペを言語機能として認識すると同時に、ジェスチャーのような言語記号ではないアイコン的要素としても認識している。オノマトペは環境音というアナログな非言語の音の処理とデジタルな言語の音処理をつなぐことばであるとも言える。

2023年10月17日 (火)

今井むつみ、秋田喜美「言語の本質─ことばどううまれ、進化したか」(2)~第1章 オノマトペとは何か

 オノマトペはもともとギリシア語起源のフランス語で、「名前、ことば」+「つくる」といった意味のものからつくられており、フランス語や英語では基本的にヒトや動物の声を模した擬音語を指す。しかし、日本語では、大多数のオノマトペは様子や手触りなどを表わす擬態語が多い。さらに、現在では「わくわく」のような擬情語のオノマトペが使われる。オノマトペの定義として、オランダの言語学者マークディンゲマンセによる「感覚イメージを写し取る、特徴的な形式を持ち、新たに作り出せる語」というのが、広く受け入れられている。
 まず、オノマトペは感覚イメージと結びついている。「ニャー」「パリーン」のように聴覚、「ザラザラ」のように触覚、「ウネウネ」のように視覚、あるいは「ドキドキ」のようにその他の身体感覚と結びつくものが多い。一方、「正義」や「愛」などを表すオノマトペは日本語でも外国語でもめったにありません。しかし、感覚イメージを写し取るといっても、視覚イメージを絵画のようにそのまま写し取るわけではなく、言語の音感で直観的に共有できるものに置き換えられる、いわば具象ではない抽象画に近いという。絵画というより、アイコンに近い。著者はオノマトペの特徴としてアイコン性を指摘する。表わすもの(音形)と表わされるもの(感覚イメージ)に類似性がある。例えば、「ニャー」というオノマトペは猫の鳴き声に似ていると感じられる。このように音形が感覚にアイコン的につながっているという点で、オノマトペし身体的である、と著者は言う。ただし、アイコンは視覚的であるので、対象の全体像を写し、しかも一度に複数要素を写し取ることができるのに対して、オノマトペは聴覚的要素であるため、対象となる事物の一部しか写せず、残りの部分は連想で補う。この連想は、換喩である。言語を音にする声というのは、一度に一つの音しか発することができない。したがって、複雑な形式には適していない。この点では手話も似ている。

2023年10月16日 (月)

今井むつみ、秋田喜美「言語の本質─ことばどううまれ、進化したか」(1)

11112_20231016230701  最初に認知科学の「記号接地問題」を提示する。これが本書の言語の本質を追求していく手がかりとして通奏低音のように扱われる。記号設置問題とは言語のような記号と現実がいかにつながっているかという問い。われわれは、普通、言葉が指す内容を知っている。この知っているというのは、単に定義ができるというのではない。例えば、メロンという言葉では、メロン全体の色や模様、匂い、果肉の色や触感、味、舌触りなどさまざまな特徴を思い浮かべることができる。しかし、メロンの実物を見たことも食べたこともなんったら・・・。記号接地問題は、もともとはAIの問題として考えられたものだった。AIはメロンを見たことも食べたこともなく、メロン全体の色や模様、匂い、果肉の色や触感、味、舌触りなどさまざまな特徴を記号情報と結びつけ、知ったとするからだ。メロンという言葉について、別の言葉で表現するだけでは、いつまでもメロン自体について知ることはできない。何か、カントの「物自体」の議論を見ているようだ。例えば、生来、盲目の人は「青」という色を目にしたことはない。しかし、言葉の使い方は知っていて、「海は青い」と慣用的に言えてしまう。あるいは、慣用的に「空は青い」と、それを自然に聞いている他人は、その人は「青」を知っていると思ってしまうだろう。AIの場合だって同じだ。それで、本当に「青」を知っていると言えるのか、それが記号接地問題の背景だ。
 子どもが言語を習得していく際にも、同じことが言えると著者は指摘する。記号接地問題は、言語と身体の関わりを問う。それを本書のテーマとして、その際、手がかりとなるのがオノマトペである。
 前半のオノマトペの役割や、世界のオノマトペとその共通点といった話題でも十分に1冊の新書として十分な内容だが、さらにそこから子どもがいかにして言語を学ぶのかという問題、そして言語の本質へと肉薄していく。本書は、言語哲学をかじった人にも面白い内容だと思うし、AIに興味がある人にも、さらには子どもを育てたことのある人など、さまざまな人にとって興味深く、面白い内容になっていると思う。

 

2023年10月15日 (日)

三谷太一郎「日本の近代とはなにであったか─問題史的考察」(6)~第4章 日本の近代にとって天皇制とは何であったか

 日本の近代は明確な意図と計画を持って行われた前例のない歴史形成の結果だった。前近代の日本には、これと対比できるほどの顕著な歴史形成の目的意識を見出すことはできない。しかし、このことは必ずしも日本の近代の独創性を意味するものではない。日本の近代はヨーロッパで確立されていた国民的生産力の発展の度合いを基準とする価値観、世界資本主義を受け入れることを前提として形成されたものだったからだ。つまり、目標とすべきモデルがあった。とはいえ、目標は自明だったが、それに到達する過程はや方法は不明であり、未知だった。ヨーロッパというモデルはあったが、ヨーロッパ化のモデルはなかったからだ。ヨーロッパ自体は反復不可能な一回限りの歴史的実体である。日本はそれをそのまま形成することはできなない。そこで、日本はヨーロッパの歴史的実体をできるだけ捨象した操作可能なモデルとしてのヨーロッパのイメージを作った。日本のヨーロッパ化の先導者たちは、歴史的実体としてのヨーロッパを導入可能な諸機能の体系とみなした。そして制度や技術や機械その他の商品を通して、19世紀後半のヨーロッパ先進国が備えていた個々の機能を導入し、それを日本で作動させることによってヨーロッパ化を図ろうとした。一方、このような機能的ヨーロッパ化を図る谷は、当の日本自身が機能の体系として再組織されなければならなかった。その前提として、機能行きヨーロッパ化ょ推進する国民的主体に対して機能的思考様式の確立が要請された。例えば、福沢諭吉や田口卯吉といったジャーナリストがその役割を担った。
 日本近代化の推進力としての機能主義的思考様式は、最も機能化することが困難なヨーロッパ文明の基礎をなす宗教をも基本的な社会機能ないし国家機能としてとらえ、キリスト教がヨーロッパにおいて果たしている。このような機能を日本に導入しようとした。日本を近代化し、ヨーロッパ的な機能の大尉として形成し続けるには、さまざまな諸機能を統合する機能を担うべきものを必要とする。例えば、伊藤博文は、ヨーロッパにおいてこの機能を担っているものこそ宗教、キリスト教に見出した。伊藤はヨーロッパでのキリスト教に当たるものを日本で探し求めた。当時の日本には宗教の力が微弱で国家の基軸にはとうていなれなかった。伊藤がそれに代わるものとして見出したのが天皇だった。神の不在が天皇の神格化をもたらしたのだ。ヨーロッパ近代は宗教改革を媒介として、中世からの「神」を継承したが、日本近代は廃仏毀釈に象徴されるように前近代からの「神」を継承しなかった。そのような歴史的条件の下で日本がヨーロッパ的近代国家を作ろうとすれば、ヨーロッパ的近代国家が前提としたものを他に求めざるを得ない。それが神格化された天皇だった。その意味で、日本の近代国家はヨーロッパ的近代国家を忠実になぞったものだったと言える。こうして、ヨーロッパにおけるキリスト教の機能的等価物としての天皇制は、ヨーロッパの君主制が教会から分離されていた以上の過重な負担を負わされることになった。
 ヨーロッパの立憲君主は憲法によって身分を保障されるものだったが、天皇の場合は超越していた。例えば、天皇は申請にして侵すべからず、というのは法的にとどまらず形而上学的絶対不可侵とされた。例えば、天皇の神聖不可侵は政治上法律上の責任を問われない無問質を意味するのみならず、天皇の神聖不可侵性に触れることは言論の自由の範囲に含まれないとされた。これは単に消極的防御的のみならず積極的な倫理的道徳的なものでもあった。それが国家の基軸の意味であった。そして、後者の側面を体現したのが教育勅語であった。
 教育勅語の起草者である井上毅は、起草に際して、まず道徳の宗教的哲学的基礎づけを排した。これは宗教的な議論などの雑音を起こさせないためで、道徳の原作者は天皇の祖先である皇祖皇宗に求められた。そこで、道徳の本質は「神」や「天」といった絶対的超越者ではなく、皇祖皇宗、すなわち現実の君主の祖先であるという意味では相対的な、しかし非地上的存在という意味では超越的な、いわば相対的超越者となった。ここに伊藤博文が国家の基軸を天皇に求めたことの意味があった。このように道徳の本質は皇祖皇宗の遺訓として位置付けられる。そして現実の天皇は先王の道の祖述者としての孔子のような位置づけを与えられることになる。教育勅語の道徳命題の普遍妥当性が宗教的および哲学的根拠づけが排除された結果、それが専ら歴史を通じて妥当してきたという事実、そして現に妥当しているという事実に求められることになる。その意味で道徳命題の実証的根拠づけに依拠せざるをえなかった。したがって教育勅語が示す徳目は日用化した儒教的徳目に負う他なかった。そして、教育勅語は政治的状況に巻き込まれるのを防ぐため天皇自身の意思の表明という形をとった。それは勅語の文体や叙述に繁栄し、「…すべし」という積極的表現が用いられ「…すべからず」という表現は避けられた。これは立憲君主としての天皇が勅語によって教育の基本方針を示す、いわば道徳の体現者として現われるという性格に沿うものだった。
 このことは憲法と教育勅語のとの矛盾、すなわち立憲君主としての天皇と道徳の立法者としての天皇の立場の矛盾を生んだ。一般国民に対して圧倒的影響力を持ったのは憲法ではなく教育勅語であり、道徳の立法者としての天皇だった。教育勅語は一般国民の公共的価値体系を表現している市民宗教の要約にもなっていたからだ。これに対して憲法は大学教育で、はじめて教えられるものでエリートに限定されていた。教育勅語と憲法を、仏教でいう顕教と密教に喩えられるが、これは国体と政体と著者は言い換えている。そして、戦前の専制体制は両者の矛盾がバランスを失い、国体が支配的となったと形容する。

2023年10月14日 (土)

三谷太一郎「日本の近代とはなにであったか─問題史的考察」(5)~第3章 日本はなぜ、いかにして植民地帝国となったのか

 日本はアジアで歴史上最初の、最後で唯一の植民地を有する国家となった。植民地とは、特定の国家主権に服属しながら、本国とは差別され、本国に行われている憲法その他の法津が行われていない領土のことだ。日本の植民地に対しては、現地に呑み適用される特殊な立法が、帝国議会以外の立法機関であった枢密院や朝鮮総督府などのような出先機関によって行われていた。要するに、本国の法の支配から疎外された領土を含む国家が植民地帝国で、法の支配の対象外だったからこそ軍事的支配が可能になった。
 幕末以来、日本は不平等条約を押しつけられた。これは、政治的経済的優位を背景とした欧米諸国の日本に対する自由貿易の強制だった。イギリスは、これを率先したが、後世では、この方法は自由貿易帝国主義と呼んでいる。それは植民地泣き植民地帝国を構築する方法で、植民地の獲得や経営のためのコストをかけない非公式帝国の拡大を目的とするものだった。日本の自立的資本主義はこれの対抗策でもあった。日本は自立的資本主義の段階を脱し、国際的資本主義に転化したが、自由貿易資本主義を目指さないで現実の植民地所有を優先した。それには二つの理由があった。ひとつは、当時の日本が先進の植民地帝国に伍する実質的意味での植民地帝国のメンバーではなかったこと。当時の日本は欧米諸国との間で大使の交換を認められておらず、一等国と認められていなかった。日本に大使の交換が認められたのは1934年のことで、自由貿易帝国主義は一等国にのみ許された植民地帝国の拡大戦略だった。もうひとつの理由は、日本の植民地帝国構想が経済的利益関心よりも軍事的安全保障関心から発したもので、日本本国の国境線の安全確保への関心と不可分であったためだった。ヨーロッパの植民地が本国とは隣接しない遠隔地に作られたのに対して、日本の膨張は、本国の国境線に直接する地域への空間的拡大として行われた。言い換えれば、日本の場合はナショナリズムの発展が帝国主義と結びつき、しかもそのことが欧米諸国とは異なる日本の植民地帝国の特性をもたらした。
 1890年の帝国議会の演説は山縣有朋は国家の防衛の枠組みとして国境線の他に国境線の安全に密接に関係する区域として利益線を確保することの必要性を説いた。当時の利益線として想定されていたのは朝鮮半島だった。この頃は仮想上のものだったが、現実化したのは日露戦争で、このころ朝鮮半島の植民地化が始動する。
 日本の植民地統治の基本的な法的枠組みには、帝国議会が関与することはなかった。もっぱら政府や軍部のイニシアチブで作られたが、植民地立法に関与したのは枢密院だった。日露戦争の後、当時の枢密院議長の伊藤博文が朝鮮の統監として、韓国の内政の監督及び外交の管理にあたる権限だけでなく朝鮮半島に駐屯する軍隊の統率権も有していた。しかし、これは統帥権の独立に抵触する危険を孕んでいた。その対策として朝鮮都督府が提案される。軍隊統率権を持たせるために文官の任用を排除する。これには枢密院の反対もあったが、押し切られ、植民地は陸軍が主導権を確立していく。このような植民地の専制的な体制に対して、法的には、例えば、美濃部達吉の『憲法講話』では、立憲政治の適用される範囲は日本の内地のみに限られ、海外植民地には適用されない。植民地は国家統治区域の一部でありながら、内地と国法を異にし、憲法を異にする。とした。そして、第1次世界大戦後の民族自決意識の高まりの中で起こった朝鮮における3.1運動を機に朝鮮総督の権限が増大し、天皇に直隷する位置づけとなり内閣総大臣の監督から外れることになる。ここに台湾総督と朝鮮総督に地位の格差が生じ、この後、台湾総督には後藤新平などの文官の任用の道が開けたが、朝鮮総督は陸軍の軍人が続くことになる。そこで勧められたのが「同化政策」で、教育の機会均等に注力したが、現地のナショナリズムを鎮静化させることはできなかった。同化政策は、第1次世界大戦後の脱帝国主義の時代の影響が、日本の植民地政策にも及んだものだったと著者は指摘する。帝国主義の遺産を脱帝国主義の時代にふさわしい形で守るという問題意識がそこにはあった、という。
 1920年代の日本は基本方針として普遍主義的国際主義、つまり、欧米先進国によって主導されるグローバリズムの立場を取っていた。当時のグローバル・スタンダードは政治的には軍縮条約であり、経済的には金本位制だった。しかし、1931年の満州事変によって一変する。従来、日本では傍流にすぎなかった地域主義が本流に転ずることになった。それは第一に国際連盟によってそしてとして体現されたグローバリズムの否定を意味した。第二に、地域主義は民族主義の対立概念として提示され、民族主義を超える新しい国際秩序の原理と見なされた。普遍主義的国際法では説明できない満州国の出現は、統一的主権国家の確立を目指す中国民族主義とは明らかに抵触するものであり、中国民族主義に対抗して日満間の特殊な関係を正当化するためには民族主義ではなく民族主義を超える地域主義の原理を対置する必要があった。しかも、第三に、国際連盟脱退後の国際的孤立化をおそれていた当時の日本は、国際連盟に代わる何らかの国際機関を必要としていた。グローバルな国際組織に代わる地域的国際組織の中に日本の生きる道を見出そうというのが地域主義の動機だった。そもそも、この地域主義の考え方は、現在のEUの考え方とも、アメリカのモンロー主義とも共通しているところがある。日本の地域主義は東亜新秩序として位置付けられていくことになる。こうして、地域主義は世界的一般的な秩序原理と見なされるようになっていく。地球上は、自然と文化との有機的統合を図るなら、均衡がとれた数個の地域に分かれていくであろうという見通しの下に、地域主義によって地域的共同体を根幹とする世界新秩序が構想された。ヨーロッパでは独伊両国を中心とする欧州新秩序、東アジアでは日本を中心とした東亜新秩序は、いずれも地域主義に基づく世界新秩序を構成する一環として位置付けられた。当時の地域主義論者にとって対抗者は中国の民族主義と、これを利用しようとした欧米の帝国主義と考えられた。これらは、第2次世界大戦の敗戦で瓦解してしまう。しかし、戦後の冷戦の展開はアメリカの地域主義的な世界戦略の中に日本が位置づけられていった。

2023年10月13日 (金)

三谷太一郎「日本の近代とはなにであったか─問題史的考察」(4)~第2章 なぜ日本に資本主義が形成されたのか

 国民国家の形成を目指して始まった日本の近代化は、自立的資本主義の形成を不可欠の手段と捉えた。国民国家の形成と自立的資本主義の形成が不可分一体だったのが、日本の資本主義の特徴と言えた。19世紀イギリスのハーバート・スペンサーは軍事的社会から産業型社会へという社会の発展段階の図式を示している。ちょうと、これが幕藩体制社会を離脱し、将来の社会に向かって進化しようとする明治日本の歴史発展にそのまま通用すると考えられた。スペンサーは勃興期のアメリカ資本主義でも流行した点で、はじめに指摘があった非ヨーロッパの国としてヨーロッパ的近代化の先行事例となっていたことを示している。しかし、日本の場合はアメリカとは違い、スペンサーの自由主義的側面より国家主義的な側面が重視された。実際に、内務省を推進機関とする国家主導の資本主義形成が行われた。政治リーダーが同時に経済リーダーとなったのだ。最初の例が大久保利通であり、引き継いだのが松方正義であった。このような薩摩系の国家資本主義路線の完成者が高橋是清。
 日本はヨーロッパ的国民国家を形成するためには、その戦略的手段として、ヨーロッパ的資本主義を自主的に形成しなければならなかった。それは外資導入に不利な条件を強いる不平等条約の下では、外資に依存しない自力による資本主義にならざるをえなかった。それは、不平等条約の改正による対外的独立を求めるナショナリズムにともなう偉材的ナショナリズムでもあった。これを可能にする条件が、日清戦争前の日本にはあった。それは次の4つの条件であった。
①官営事業に象徴される国家による先進産業技術の導入
 明治初年のいわゆる岩倉遣欧使節でリーダーたちは国際社会における日本の位置を客観的に認識し、将来への具体的ビジョンとして、殖産興業政策をふくむ富国強兵を志向する近代化を志向するようになった。彼らの心理的な促進要因として、欧米先進国の文明の理想化されたイメージとして生じる、当時の日本の文明への恥の意識だったという。大久保は内務省をつかって、政府主導により世界市場に適応しうる資本主義的生産様式を作り出そうとした。
②地租をはじめとする安定度の高い歳入を保障する租税制度
 政府主導の資本主義化を推進するための財政的基盤、国家資本を明治政府は徹底して租税に求め、外資導入には消極的だった。これは、大久保、松方による初期資本主義化の大きな特徴である。その理由は、不平等条約に由来する対外信用の低さのゆえに、外国債が不利な条件を強いられ、事実上その募集の道を閉ざされたことにある。そして同時に、明治政府が外国債の固定化による外国の経済支配を強く警戒し、それが政治支配にまで及ぶ可能性を排除しようとしたことによる。幕末に幕府はフランスからの外債により強化を図った。それに反対する外債反対論は反幕府勢力の結集を促す要因となった。それは形を変えた尊皇攘夷とも言えた。それを引き継いだのが、かつての倒幕派による明治政府だったわけで、外債反対論を貫くのは当然のことだった。外国資本に依存しない資本主義を確立しようとすれば、自国資本、とくに民間資本が十分でない状態では租税収入に頼らざるを得なかった。それで実行されたのが地租改正であった。したがって、地租改正は不平等条約改正のための必要的前提でもあった。
③質の高い労働力を生み出す公教育制度の確立
 比較的質も高い若年労働者の供給に寄与したのが、教育制度、とくに義務教育制度の確立だった。明治5年に学制が発布された。中でも義務教育が重視され、全国に小学校が設置されていった。学制は、その理念において身分主義を否定し、国家主義と個人主義とを結合することによって一方で教権の強化と集中(官僚化)を図るとともに、他方で国民各個人の主体的能動性の開発(自由化)を進めようとした。それが均質的で質の高い労働力の供給を保証することになった。
④資本蓄積を妨げる資本の非生産的消費としての対外戦争の回避
 自立的資本主義を志向する明治日本の経済的ナショナリズムと平和とが不可分であることは、明治天皇の確信であった。天皇に影響を与えたのはアメリカのグラント大統領によるアドバイスだった。彼は天皇に外債への非依存を忠告した。グラントの外債への不信感は、彼が北軍を指揮した南北戦争の体験に由来している。イギリスが南軍を支持したので、北軍は戦費を外債によって調達することができず、内国債に頼らざるを得なかった。このことから、彼は外債を、その引受発行国による内政干渉と不可分のものと考えていたのだった。グラントは、あえて日清間の戦争を想定し、そのような事態が両国の戦費調達のための外債発行を通じてヨーロッパ諸国の両国に対する内政干渉を誘発する危険を強調した。
 以上のような大久保による自立的資本主義推進を財政の上で実質化したのが、大久保を引き継いだ松方正義だった。松方は前任の財政担当であった大隈重信の基本路線を転換した。すなわち、不換紙幣増発の形で行われた西南戦争の戦費調達や殖産興業のための外債発行から、いわゆる松方財政とよぎれる超緊縮財政による支出抑制によって生じた余剰資金により不換紙幣や外債の償却などの財政健全化をおこなった。これに伴って日本銀行を設立し、信用体系の整備をすすめ、紙幣を日本銀行券に一本化し、財政と金融の分離を進めた。その一方で、大久保の自立的資本主義推進の殖産興業政策は、内務省から農商務省に引き継がれたが、政府主導の産業推進策は松方による緊縮財政政策のために安定した資金供給を欠き、潰えてしまった。
 経済的ナショナリズムの体現ともいうべき日清戦争前の非外債政策を基本前提とする自立的資本主義は、日清戦争後日本が非外債政策を放棄することによって一変する。それを可能にしたのは、条約改正による関税収入の増大と戦争の償金による金本位制の確立によって外資導入を有利にする条件が整えられたからだ。ということは、不平等条約からの部分的離脱と日清戦争の戦勝とが日本の経済的な対外信用をもたらした。このような状況の変化に対応して、日本の外資依存度が増大した。ここに日本の資本主義の第二の類型として国際資本主義が登場することになる。そして、日露戦争で戦費調達のため外債は6倍以上に増大する。日本は外債依存を固定化し、戦争によって獲得した南満州権益等の維持のために外債依存の必要性をますます強めることになった。そのことは日本が国際金融網やそれと密着した国際政治網に包摂されることになった。そこで、高橋是清や井上準之助のような国際金融家を登場させることになった。高橋は薩摩系の人で自立的資本主義の伝統を受け継いでいたが、井上は日清戦争後の国際的資本主義からスタートした人で英米系のモルガン商会と強く結びついていた。井上の業績としては1920年の中国に対する英米仏日四国借款団を媒介として英米の国際資本との提携を強化したことがある。この時期、英米の国際金融資本は中国の不安定化から中国市場への関心を失ったかわりに、その資金を日本に投資するようになる。それを誘引したのが井上だった。井上は、国際金融を通じてワシントン体制の枠組みに沿う日本の経済外交を事実上主宰した。井上が最終的に目指したのが金解禁だった。
 しかし、金解禁は世界恐慌と時期が重なり、国内に経済不況を招くことになった。さらに満州事変の勃発により、金本位制を支える緊縮財政が揺るがされ、失敗終わった。これはまた、他方では、世界的な自由貿易の収縮と関税障壁の強化、さらには各国の国家資本および経済ナショナリズムの台頭として現われる。そこで、日本は新しい装いの自立的資本主義の道を選ぶことになり、そこに登場したのが高橋是清だったが、226事件により、戦争体制に従属する資本主義へと変質していった。
 バジェットはイギリスの近代の開幕を画した「議論による統治」の推進力のひとつとして「貿易」を上げていた。彼は、貿易を自由なコミュニケーションの拡大として捉えた。しかし、19世紀後半イギリスのいう自由貿易は、貿易相手国にとっては自由ではなかった。これに対抗して日本は自立的資本主義を打ち立てようとした。バジェットのいう自由な貿易の論理に忠実であったのは井上準之助であった。彼の挫折は、日本の「議論による統治」の崩壊への道を開くことになった。

2023年10月12日 (木)

三谷太一郎「日本の近代とはなにであったか─問題史的考察」(3)~第1章 なぜ日本に政党政治が成立したのか

 日本における議論による統治としての議会制とその下での政党政治なぜ、どのように成立したかを見る。そこでは、幕藩体制下での慣習の支配の崩壊に胚胎した公議輿論の要請に対応し、出現した議会制と明治憲法下の厳格な権力分立制の中から、なぜ、いかにして東アジアでは例外的な複数政党制が成立したのかを考える。
 複数政党制の成立と発展は世界的に見ても一般的とは言えない。とくに反政党内閣的であるといわれた明治憲法下の日本で、現実に政党内閣が成立したのか。これは日本に立憲主義が導入された経緯とも関連している。立憲主義とは近代憲法の実質を成す議会制、人権の保障、権力分立制のような政治権力の恣意的行使を抑止しうる制度的保障に基づく政治制度で、明治憲法にも、その内容を備えている。著者は、日本における立憲主義を考える際に、権力分立制をグル問題と議会制をめぐる問題という二つの側面に分けて考える必要があるという。
 まず、立憲主義導入の経緯についてか、それを可能にした日本特有の歴史的条件があると言う。具体的に言えば、旧体制である幕藩体制の中に、それなりに立憲主義を受け入れる条件が準備されていたと考えられる。幕藩体制の政治的な特質として一種の権力の相互的抑制均衡のメカニズムが備わっていたことがある。幕府の政策決定は合議制がとられていた。老中は4~5人、若年寄は3~5人、大目付は4人…というようにそれぞれの役職を数人が共同して担当していた。これは、将軍を補佐する特定の人格、特定の機関やそれを拠点とする特定勢力への権力の集中を抑えるためだったと考えられる。合議制は月番制と重なっていた。この合議制は専門化していく行政に対して将軍のリーダーシップを確保することを目的とする、権力の合理化と見ることができる。また、幕藩体制では権力の分散が図られていた。それは、身分とか地位と言った名目的な権力と実質的な権力が制度的に分離されていたところにある。老中などの政策決定の中枢には小藩の藩主が就き、力のある大藩は幕政に参加できなかった。そして、以上のような合議制と権力分散のメカニズムに伴って精密な相互的監視機能が働いていた。すべての役職が二重になっていて、両者が互いに見張り役となっていた。
 これに対して明治国家の権力分立制と議会制の萌芽は、幕末の危機的な政治的状況に対応する政治的戦略の一環として生まれてきた。18世紀末の寛政の改革以降、幕府の官学昌平黌が幕臣のみならず諸藩の陪臣や庶民にも開放されるとともに、全国の藩に採用された昌平黌出身者を中心として横断的な知識人層が形成された。そこには、彼ら相互の儒教のみならず、文学、医学といった広い意味の学芸に広がった自由なコミュニケーションのネットワークが成立した。それは「社中」と呼ばれ、さまざまな地域的な知的共同体を結合させ、それら相互のコミュニケーションを発展させた。いわば、ハーバーマスのいう「公共圏」のようなものが形成された。それが幕末の政治的コミュニケーションを促進する媒体の役割を果たした。
 幕府は黒船来航の危機に、根本法である鎖国を放棄し、体制の正当性の根拠を新たに問われる緊急事態に遭遇する。新しい体制原理を見出す必要に幕府は迫られた。そこで幕府が考えたのは「勅許」である。朝廷という権威による権力の補強であり、権威と権力を一体化させることだ。もうひとつが「衆議」、つまり、従来幕府の政策決定から疎外されていた大諸侯をはじめとする諸大名の意見を集めるという伝統的合議制を拡充させる方策であった。これによって、幕府権力それ自体を意味する「公儀」の正当性の自明性が失われ、にわかにもう一つの「公議」が体制の安定のために必要となってくる。「公儀」から「公議」への支配の正当性の移行がこの幕末に急速に起こってくる。これが議会制を受け入れる状況の変化であった。そして、実際に幕府系勢力と外様雄藩の代表者たちの合議体を基礎とする幕藩連合体制が発足する。参与会議である。これが内部対立により崩壊すると、幕府と薩長の対立が深まる。どちらも、権力取得後の政治体制について議会制を取るということで、共通のコンセンサスができていた。どちらの側も「公議」を正当性の根拠とせざるを得なかった。
 明治維新の理念は王政復古である。王政復古の政治的な意味は天皇を代行する覇者を排斥すること、幕府のような存在を排除することを意味した。そのたに最も有効なものとして考えられたのが議会制と権力分立制だった。権力分立制こそが天皇主権と表裏一体であった。明治憲法が想定した権力分立制というのは、幕府のような存在の出現を防止することを目的とし、そのための制度的装置として王政復古の理念に適合すると考えられた。権力分立制の下では、単独で天皇を代行することはできない。このメカニズムは議会だけでなく他の国家機関にも適用された。軍部もその例外ではなかった。このように、一見集権的で一元的とされた天皇主権の背後には、実際には分権的で多元的な国家のさまざまな機関の相互的抑制均衡のメカニズムが粗動していた。これら国家のさまざまな機関の地元的均衡を求める政治力学が明治憲法体制の現実を形成していた。したがって、明治憲法に規定されていた比較的厳格な権力分立制は、立法と行政との両機能を連結する政党内閣を本来排除する志向を持っていた。つまり、明治憲法の反政党内閣的に性格というのは権力分立制と不可分であった。
 明治憲法は表見的な集権主義的構成にもかかわらず、その特質はむしろ分権主義的だった。しかし、その意味するところは深刻で、というのも、明治憲法は最終的に権力を統合する制度的な主体を欠いていた。例えば、天皇は常時権力を統合する政治的役割を担う存在ではなかった。内閣総理大臣もまた極めて脆弱な地位だった。軍部大臣をはじめとする閣僚は制度上は独立して天皇に直結してので、総理大臣による統制力は弱く、内閣全体の連帯責任は制度上、保障されていなかった。つまり、日本の政治は遠心的で、求心性が弱かった。天皇統治というのは一種の体制の神話でしかなく、現実は権力分散だった。このとき、分権的な体制を統合する非制度的な主体の役割を担ったのが藩閥だった。藩閥の代表的なリーダーたちは事実上天皇を代行する元老を形成した。ところが、藩閥は衆議院を掌握できないという弱点があった。これに対して衆議院を支配する政党の方は、衆議院の多数をとっても権力の獲得を保障するものではなかった。藩閥、政党にはそれぞれ限界があった。
 日清戦争後、双方からそれぞれの限界を打破するために相互接近が試みられる。このプロセスで、まず藩閥の組織の希薄化が進んだ。藩閥の母体は旧藩なので、時の経過と共に消滅し、政党化せざるをえなくなる。政友会への反対勢力も政党を作ることになる。それが明治憲法下の複数政党制が出現することになる。

2023年10月11日 (水)

三谷太一郎「日本の近代とはなにであったか─問題史的考察」(2)~序章 日本がモデルとしたヨーロッパ近代とはなんであったか

 日本の近代は、日本が国民国家の建設に着手した19世紀後半の最先進国であったヨーロッパの列強をモデルとして形成された。当時の一般的見解は、後進国にとってヨーロッパ化は正負両面において不可避と考えられていた。欧米といっても、当時のアメリカは、ペリーによる黒船来航という開国圧力の端緒となったが、ヨーロッパ諸国とは必ずしも一体ではなく、むしろヨーロッパからは区別される後進国に属し、その意味では日本と同じ側に位置していた。しかし、アメリカは日本に先駆けてイギリスからの独立を勝ち取り、さらにヨーロッパ諸国と同等に日本に対して不平等条約をもたらす特権を享受していた。幕末の日本で世界情勢に通じていた一部の知識人からは、アメリカは攘夷の成功事例と見られていた。非ヨーロッパの国としてヨーロッパ的近代化の先行事例となっていた。
 同じ頃、ヨーロッパでは自身の歴史的経験歴史的経験としての「近代」についての理論的な省察が始まっていた。「近代とは何であったか」という問題意識だ。本書では、その典型的な事例としてウォルター・バジェットの考察を検討し、それをものさしとして日本の近代化を見ていくものである。
 まず、彼は時代の現実を交通通信手段の革命的変化がもたらした「新世界」として認識し、同時に新しい思想が人々に影響を及ぼし、政治学と経済学を変えつつあると洞察した。彼が新しい政治学のモデルとしたのは自然科学だった。彼はイギリスの国家構造を実際に機能させる実践的部分の中軸としての政党内閣の出現による議論による統治に近代の歴史的意味を見出した。彼は、近代とは前近代を否定し、それを断絶することによって成立し、前近代のある要素を蘇らせることによって出現すると説明する。彼が否定する前近代の要素とは固有の慣習の支配であり、蘇られた要素とは古代ギリシャのポリスなどの議論による統治で、自由国家として一部で受け継がれてきたものだった。イギリスの国家構造は自由国家の特徴を有していた。それを体現していたのが議会の伝統だった。イギリスでは前近代以来の議会で国家構造を巡る自由な議論の積み重ねとなり議会による統治を強化してきた。そこには、一日にして機論による統治を生みだすことはできないということが含意されている。政治を動かすだけの質の高い議論は、それに対するさまざまな疑念にさらされ、検証されることによってはじて形成される。断絶は時間的なだけでなく空間的にもあった。それは西と東の断絶で、東は慣習的文明でインドが代表し、西はイギリスが代表し、インドはイギリスの植民地統治の下にあった。そこで、イギリスによる統治がインドに利益を与える。それは旧の東の慣習的文明から新しい西の変動的文明、すなわち前近代から近代への移行が植民地化を通して行われるということを意味していた。
 著者は、このようなバジェットの図式について偏見はあるものの、議論による統治の伝統の有無により東西を分けることに、それなりの歴史的根拠を認める。歴史家ジョージ・・サンソムによる日本とイギリスの比較を利用する。サンソムによれば、日英の17世紀以降の政治的発展に分岐を生じさせた要因は議会による統治の伝統の有無だという。彼は、それによってイギリスは封建制度から中央集権的王政、議会政治への変遷が起こったが、日本には見られなかった。とはいえ、当時の日本人に政治能力や政治思想が欠けていたからではない。むしろ徳川政権の卓越性は評価されている。それゆえに議会の必要がなかった。これに対して、イギリスの国王権力は国内のさまざまな有力な対抗勢力との緊張関係の中にあり、それらに対する財政上の依存度も大きく、権力を維持するためには、それらの対抗勢力に自由、場合によっては個人の自由を付与を代償として、それらとの取引と妥協を可能にする議会政治を回避することができなかった。要するに、イギリスの宗教勢力のような有力な対抗勢力をもたなかった日本の中央集権的支配と、有力な対抗勢力からの不断の挑戦に晒されたイギリスの中央集権的支配との強度の差が、それぞれの前近代から近代への政治的発展に質的な差異をもたらした。
 バジェットによれば、前近代に較べて近代は、目的-手段の連鎖が複雑化した。そういう社会で正しく行動するためには、時間かけてよく考えることが大切となる。それは政治でも、イギリス史でいえばクロムウェルのような絶対的リーダーの即断による迅速な行動ではなく、結論を導き出すための時間をかけた議論が重要になる。このことは、前近代を特徴づける衝動的な行動至上主義を克服したものと言える。それによって、近代では政治の形態が変容し、行動よりも思考(熟慮)が重要となった。一方、近代の人々について、慣習の支配の下で固定化された身分構造が打破され、家族を基本要素とする身分から解放された個人の自由とそれに基づく選択の拡大(例えば、職業選択、移動の自由)が起こる。身分の時代から選択の時代への変化だ。このような社会の変化に適した秩序が課題となるが、その要請に応じて議論による統治が進んだ。議論による統治の下での自由な議論は政治的自由にとどまらず自由の拡大をもたらし、それを担う人々の資質が活性化された穏健性へと変わった。彼によれば、イギリス人が前進する豊富なエネルギーをもっているが、どこで止まるべきかを知っている資質であるのは、そのたで、それがイギリスの成功の要因でもある。このようにイギリスの近代化の主要な推進力は議論による統治とそれを担った国民性にあるとバジェットは説明する。
 本書では、日本近代において国民国家を成り立たせる政治的求心力の形成が誰によって、なぜ、そしていかに行われたかに注目する。その際、バジェットの近代概念に照らして日本の近代の特質を明らかにする。バジェットの近代概念は、議会による統治を中心概念として、貿易および植民地化を系概念とするもので、これを通して、東アジアで最初に独自の資本主義を構築し、さらに植民地帝国を出現させた日本の近代の意味を問う。

2023年10月10日 (火)

三谷太一郎「日本の近代とはなにであったか─問題史的考察」(1)

11112_20231010230801  6年前に読んだ本の再読。
 日本の近代は明確な意図と計画を持って行われた前例のない歴史形成の結果だった。前近代の日本には、これと対比できるほどの顕著な歴史形成の目的意識を見出すことはできない。しかし、このことは必ずしも日本の近代の独創性を意味するものではない。日本の近代はヨーロッパで確立されていた国民的生産力の発展の度合いを基準とする価値観、世界資本主義を受け入れることを前提として形成されたものだったからだ。つまり、目標とすべきモデルがあった。とはいえ、目標は自明だったが、それに到達する過程はや方法は不明であり、未知だった。ヨーロッパというモデルはあったが、ヨーロッパ化のモデルはなかったからだ。当時のヨーロッパでは自身の歴史的経験歴史的経験としての「近代」についての理論的な省察が始まっていた。「近代とは何であったか」という問題意識だ。本書では、その典型的な事例としてウォルター・バジェットの考察を検討し、それをものさしとして日本の近代化を見ていくものである。バジェットがヨーロッパ近代の最大の標識とした「議論による統治」をキー・・コンセプトとし、併せてその系概念として「貿易」および「植民地」という概念を抽出した。「議論による統治」は「貿易」による自由なコミュニケーションの拡大と、「植民地」による異質な文化とのコミュニケーションの拡大とによって促進されると考えられたからだ。この指標で日本の近代化を見ていくプロセスは歴史の再認識として歴史小説(例えば司馬遼太郎)などよりも面白い。ただし、今から見返すと、といういわゆる後出しじゃんけんの視点は、歴史的視点とは異なるので、注意は必要だと思う。その点を忘れると、歴史の誤解を招く危険もあると思う(司馬遼太郎などは、そういう危険に無頓着だった)。
 そして、日本近代に挫折をもたらしたのは第2次世界大戦の敗戦だった。それは幕末以来の「富国強兵」路線の挫折であった。敗戦後の日本は、日清戦争前の明治日本、すなわち植民地帝国として「富国強兵」の実を備えた日本が出現する前の小国日本への回帰を想定することによって、「富国強兵」路線の修正を図った。それが、平和憲法の導入による「強兵」路線の放棄で、他方、「文明開化」は新しい意匠を施され、維持された。戦後日本は国民主権を前提とする「強兵」なき「富国」路線を追求することによって、新しい日本近代を形成した。このように著者は、江戸末期から現代までの連続性を指摘する。つまりは、黒船来航から現代まで、途中で修正をしながら一貫して「富国(強兵)」と「文明開化」を進めてきたというわけ。そうであれば、本書刊行後の現在、その路線の修正、あるいは、その路線が通用するかの見直しを迫られるようになってきているということになっているのではないかと思う。

 

2023年10月 9日 (月)

轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(9)~第7章 戦後の思索

 第2次世界大戦後、ハイデガーはナチス崩壊とともに悪が消滅し、健全な秩序が取り戻されたとする前後社会の公式な見解に与しなかった。彼は、「主体性」に内在する破壊性のうちに現代の悪の本質を見て取っていた。その観点からは、戦後も、以前と同様に悪の支配は依然として続いている。彼は過ちを悔い改めるという仕方で戦後社会に恭順の意を示すことを拒否したのだった。こうした始まったハイデガーの戦後社会との対決は、1950年代になると技術への問いという形でなされるようになっていった。
1.ハイデガーの「非ナチ化」
2.「悪」についての省察
 ハイデガーはナチス崩壊後の戦後社会において、彼がナチスの本質とみなしていた「主体性の形而上学」はそのまま損ザクしていると考えていた。そうである以上、西洋形而上学に対する批判という自身のスタイルを変える必要を全く感じていなかった。ハイデガーは戦争が終わる直前から悪の本質とは何なのかという考察を始めていた。
 彼は1945年の文章で、「大地の『荒廃化』とそれに伴う人間本質の破壊は何らかの意味で悪そのものだ」と述べている。ここで語られている「荒廃化」とは、作為性によってもたらされた「存在の立ち去り」そのものを意味する。「作為性」が支配するところでは、存在者がおのれ固有の「存在」に即して存在することが徹底的に阻害され、何ものも自然に生い育つことがない。荒廃とは、このような事態を指している。それは「主体性」による支配ともいえる。「主体性」はあらゆる存在者を、おのれの力を増進するために利用しようとする。このように存在者をもっぱら利用の対象とすることによる「存在」の隠蔽、破壊こそがハイデガーによれば悪の本質なのだ。この立場からすれば、戦争の終結を新たな出発点として祝福するという態度自体が、以前と変わることなくこの世界を規定している「荒廃化」という本質的事態を隠蔽し、そのことによってむしろ「荒廃化」を助長するとみなされることになる。
3.「技術への問い」
 「主体性の形而上学」への批判という形で為されたナチズムとの対決は、そのまま戦後体制との対決へと引き継がれた。ただし、戦後の体制は、技術の進歩による生活水準の絶えざる向上を約束することにより、「主体性」の暴力性を巧妙に覆い隠し、その支配を伸長させるという特徴をもっていた。このような戦後社会との対決を「技術への問い」として遂行したのだった。
 「技術」とは、存在者を「作為可能性」、「計算可能性」において捉えることだという。1945年の『技術への問い』において、ハイデガーは「技術」という概念を開示することの一つの様式であるという。その開示のあり方を三つの観点から述べている。
①無理強いとしての技術的開示
 近代技術のうちで支配的な開示は自然に向かって、採掘して貯蔵できるようなエネルギーを提供せよと要求する無理強いであるという。エネルギーを出せと自然に挑みかかり無理強いするという意味合いだ。この無理強いは、自然のうちに隠されているエネルギーが開発され、開発されたものが変形され、変形されたものが蓄積され、蓄積されたものが再び分配され、分配されたものが新たに転換されるという仕方で起こる。この全体として生起するのか技術的開示というわけだ。このような開示は放っておいても自然に経過するものではなく、常に制御されていなければならない。そして、この制御は保全されていなければならない。
②技術的対象としての「資材」
 技術的開示という無理強いして立てることによって成り立っている事物は、その場で持ち場に立つことを求められている。このように持ち場に立つことは、何か注文があったときに、その注文に応じられるようにするためである。この場合、存在者は技術的開示に対して、つねに何かの役に立つものとして現われる。このような仕方で現れている事物を「資材」と呼ぶ。例えば、ライン川の水力発電について水力発電のための水を供給するライン川は発電のための水力を提供しろとの注文を受け、つまり水力を供給できるかぎりおいて意味あるものと認められる。ライン川は水力を供給できなければ、もはや何ものでもない。
③技術の本質としての「駆り立て-組織」
 これまで見てきたのは、技術的開示がエネルギーを提供するようにと自然に無理強いするという性格を持つこと、さらにこの無理強いすることに対して、存在者はその注文に常に対応可能な資材という仕方で現れているということだった。こうした開示において人間は、一見、技術的開示を意のままにコントロールしているように見えるがそうではない。人間は事物の技術的な開示を担うように無理強いされ、そうするように注文されているのである。技術的開示は人間を招集する。無理強いとしての技術的開示は注文することへと人間を招集する。そしてこの無理強いという招集するものは人間を現実的なものを資材として注文することへと没頭させる。この招集する、無理強いする要請を「駆り立て-組織」と呼んでいる。例えば、電力供給システムは人間を必要とし、人間がいなければシステムが成り立たない。
 そこで駆り立てられる人間は、そもそも電気というものが存在すること、それがどのような性格を持つのかを知らなければならない。様々な教育機関が電気について熟知した人材を育成し、電力業界へと供給する。人々はそこで電気の開示を学ぶ。これは自然がエネルギーを供給するために開発されるのと同様、開発を担えるように開発されているのだ。
 ハイデガーは人間が「駆り立て-組織」という意味での技術の主人ではないことを強調する。そこでは、人間はただひたすらおのれの強大化を目指す力の奴隷でしかないと言う。このような点から、技術論は「主体性」についての批判的考察を継承するものである。そこでは近代技術は「主体性」、「作為性」に基づくものとされ、「主体性」は。それが個人を超えた集団的なものであり、こじんはそれによって動員され、画一化されていくしかない。その上、「駆り立て-組織」となると、技術が多角的な開示からなる組織的構造であることを明確にしている。つまり、「駆り立て-組織」は、人間を含むあらゆる存在者を取り集めながら、それ固有の論理によって作動する。技術の非人称的な性格、すなわち人間個々人の意図を超えた技術の超越性をはっきり示している。
 ハイデガーは1960年代、情報化という展開に注目する。例えばサイバネテッィクスは動物と機械における制御とコミュニケーションを扱う。そこでは、すべてのものをあらかじめ計算可能なものとする「世界企投」として特徴づけられる。つまり、あらゆるものが計算可能なものと前提することで、世界は人間にとって制御可能なものとなる。すべてを計算可能とすることは、そのことによってすべてのものに利用可能なものというあり方を押しつけ、それ以外のあり方を認めない。この当然の帰結として人間にも適用される。
4.「放下」の思索
 ハイデガーは技術の本質を「駆り立て-組織」と規定した。そこで、われわれ人間は「駆り立て-組織」の要求になすすべもなく従うしかないのだろうか。彼は、1955年の『放下』という講演で、技術時代において単に「技術」に追随するのではない、「技術」に対するしかるべき態度を「放下」として主題化している。そこでは、まず、今日の状態は、技術的な装置や機械がわれわれにとって不可欠となっているので、ただやみくもに否定したり拒否することは愚かなことだという。そこで、技術の否定でも、全面的な追従でもない第三の可能性を提示する。それは、技術的世界に対して同時に肯定も否定もするという、中途半端に態度をとることだが、それを「放下」と呼ぶ。そのためには、ある事物について技術的な開示とは異なるより根源的な開示の可能性を知ることで、技術的な関わり以外の道があるということで相対的な距離を置くことができる。「駆り立て-組織」による無理強いの避けがたさを冷静に見極め、必要な時には無理強いを拒むという自由を得ることができる。それが技術的世界に対して同時に肯定も否定もできるということだ。
 「駆り立て-組織」は人間に対して事物を資材として開示することを無理強いする。これに対して「放下」は、この「駆り立て-組織」の求める技術的開示が単に事物の開示のひとつでしかないこと、かもその開示は事物の真の「存在」を覆い隠すものであると認識し、技術的開示の絶対視を避ける態度のことである。「放下」において、事物を資材として開示することの絶対視から脱却すると、資材とは全く異なるものの真の姿が開かれる。そこで現れる真の姿について、「四方界」の四社との関係においてはじてものとして意味を獲得する。以前の言い方では「世界」、つまり、ものは「世界」との関係においてものである、ということ。

 

2023年10月 7日 (土)

轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(8)~第6章 ナチズムとの対決

 ハイデガーの「存在への問い」はそれ自身がフォルクの根拠の探求としてなされたものだった。つまり「存在」とは、ハイデガーの思索においては、あるフォルクをそのフォルクたらしめるものと解される。そして、フォルクの基礎付けは政治的含意がある。後期思想の「性起」としての「存在」が、フォルクを基礎づける「時-空間」という性格をもつということに加えて、主体性の形而上学の考察という形で近代国家の本質への批判が行われるのだ。
 ハイデガーの西洋形而上学の完成形態を近代の主体性の形而上学のうちに見て取り、これを近代国家の本質を成すものとみなす。そうすると、「存在の歴史」の思索としてなされる西洋形而上学批判は、近代国家の暴力性、破壊性を視野に入れ、その本質と起源を問うものであった。
1.近代国家としての「主体性」
 ハイデガーは「主体性」を近代の本質を規定するものと捉えている。近代を端的に主体性が支配的となった時代と規定するのである。その本質として次の2点を挙げている。人間が主体として存在者全体の中心におのれを位置づけ確保すること、そして、存在者全体の存在者性が制作可能で説明可能なものが表象されている状態と捉えることの2点だ。この時人間は存在者全体に対する完全な主権を確立する。
 たとえば、われわれは今日、あらゆる物事を役に立つか立たないかの観点から捉えることが習い性になっている。そこではすべての物事に関して、それが今日の経済社会における需給の連関に位置づけられるかどうかだけが問題とされ、その連関の中に位置付けられるものは役に立つものとして存在を認められ、位置づけられないものは役に立たないとして無存在を否認される。このような仕方で物事を捉えているとき、われわれは自分たちにとっての有用性という尺度を存在者に押しつけている。そしてそのことによって、我々は存在者の支配を確立する。つまりは主体となるのである。このような尺度(役に立つ、立たない)の付与について、これは真の尺度ではなく、真の尺度たる「存在」を隠蔽し、破壊するものであるという。このような主体が尺度を与える唯一の存在として支配するのが近代の本質であると、ハイデガーは言う。ここで注意すべきは、主体は、必ずしも個人や「私」だけを指すのではないということ。人間はおのれを、何らかの仕方で自律した人間集団として捉えるときも主体である。主体は、国民、フォルク、人種などとして捉えることもできる。むしろ。個人としてより集団としてこそ、本来的な意味での主体である。というのも、そのとき人間はあらゆるものすべて、作られ、生み出され、耐え抜かれ、勝ち取られるものすべてを自分自身に立脚させ、自分の支配のうちに取り込むという軌道に乗るからである。
2.ハイデガーの「コミュニズム」批判
 「主体性」は際限のない膨張を求める力として特徴づけられる。これは「主体性」が世界の支配と利用をどこまでも追求する存在である。力のもっとも基本的な性格として、それはつねにおのれの強大化を目指し、それ以外にはいかなる目標ももたない。それが、ある目標に到達したからといって、それが停止することは原理上ありえない。また自分以外の「主体」も自身と同じ性格をもつ力である以上、すでに到達した状態を維持するためにも、つねに自身の強大化をはからなければならない。つまり、力はつねに力であり続けなければならないものなのだ。
 ハイデガーはナショナリズムという現象を、「主体性」の帰結と捉える。そして、「主体性」の自己主張のための国民の動員が社会主義として運行されると言う。この場合の社会主義は国民社会主義すなわちナチスを暗に含んでいる。
 「主体性」の本質がおのれ自身の強大化を目指してやまない力にあることから、そのことが「主体性」相互の争いとして戦争が常態化する。すなわち、「主体性」がどこまでもおのれの力の拡張を目指すと、同じ性格をもつ他の主体はおのれの力の拡張を妨げるものとして障害となる。この主体どうしが争い合うことになるわけだ。この場合の戦争は、それ以前の戦争とは様相がことなる。力を確保するための戦争はどこかで停止したり、収束したりするものではない。そのため、つねに戦争状態が続くことになる。一見平和に見えても、戦争状態は続いているのである。
 「主体性」は力の拡張以外の目標を一切認めず、例えば、自由、道徳性、正義といったものが目標として掲げられたとしても、力の拡張に役だつかどうかの観点で選ばれたものでしかない。この力は、おのれの容赦ない拡張のために、いかなる措置も躊躇うことなく遂行できる献身的な人材を必要とする。そのとき力が利用するのは、もっともらしい大義や理念である。これに準じる人々はいかなる暴力行為も辞さない者となる。それが結局は力への無条件の全権委任ということになる。その典型がナチズムでありコミュニズムといった権威主義的国家であるという。
ハイデガーは、また、これに対して議会制国家は分権的であって暴力しようとは無縁であるから道徳的であるというのは皮相な考えだという。政治体制のこうした評価の仕方そのものが勢力拡張において有利な位置を占めるためのプロパティにすぎないという。
 今日、いかなる政治体制をとる国々においても、もっとも中心的な政治目標が経済成長に置かれ、その実現の正当性を保証するものと受け止められている。国家の経済規模が国力の指標である以上、経済成長を目標とするのは結局のところ、おのれの力の増進を目指すことでしかない。したがって、すべての国家が経済成長を至上の目標とすることのうちには、おのれの力の拡張をどこまでも追求する現代国家の同一性が表われている。しかもそこにおいて、単なる経済の絶対的な規模の大きさだけでなく、何よりも経済成長が重視されていることのうちに、ただおのれの伸長むのみを目指すという力の本質が如実に反映されているのである。

 

2023年10月 6日 (金)

轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(7)~第5章 後期の思索

 ハイデガーは『存在と時間』刊行後、「存在」を「存在者全体」の生起と捉え直し、この「存在者全体」についての知を「形而上学」と呼んだ。そしてこの「存在者全体」は、実質的にフォルクの共同体を意味していた。その後、1936年になると、ハイデガーは自分の思索の表現を大きく変化させる。「存在の真理」とか「性起」といった後期の思索を特徴づける用語が現われ始めるのである。一般に極度に難解とされる後期思想は、この時期以降のものだ。
 ここではまず、「性起」に代表されるハイデガーの後期思想に特徴的な言い回しに注目し、そのような述語を導入することの意義を明らかにする。それらの語彙は基本的には、それまで「存在」や「存在者全体」と呼ばれてきた事象に含まれていながらも、それらの言葉によっては的確に表現できていなかった諸契機を明示する。このことは、このような言葉を用いるようになった後期において、「存在」に含まれる諸契機がより明確に自覚されるようになったことを示している。
 後期の思索では、「存在」の意味が余すところなく明らかにされると同時に、それまで「存在忘却」として特徴づけられてきた西洋の伝統的哲学の思考様式が、存在の歴史として一定の時代区分に沿って、より具体的かつ明確に捉えられるようになる。
1.「性起」の思索
 後期の思索において、ハイデガーは自身の立場を形而上学と呼ぶことはなくなる。形而上学は、古代ギリシャ哲学以来の「存在忘却」を本質とする西洋の知の伝統に対する呼称として、克服すべきものと位置づけられるようになったからである。また、中期で多用された「存在者全体」という語も用いられなくなり、その代わりに「存在の真理」が基本となっていく。「存在者全体」というと、我々はどうしても存在者の集まりをイメージしてしまい、存在の生起に含まれる出来事性や運動性が噴け落ちてしまう。しかも、存在者の集まりというイメージの集まりは人間とは切り離され、人間の前に立てられた対象として捉えられている。ハイデガーはこのような捉え方を避けるため、「存在者全体」は人間を圧倒し巻き込むものであり、さらには人間自身の営みが「存在者全体」に包含されていることを強調したのだった。そうしないと人間を含まない静止したものと捉えられてしまう危険を拭えなかった。「存在者全体」という言い方には、そのような問題点があったのだった。
 『存在と時間』刊行後、ハイデガーはそこで論じられなかった「存在の意味」を論じようとしたが、その際に、主観の前に立てられた対象というようなものではない「存在」をいかにして表現するかに悩んだ。そもそも西洋の伝統的な学問は、基本的に対象について何かを語るというものだ。したがって、「存在」を語るには、そういった伝統的な学問の姿勢を放棄するところから始めることになる。「存在」を「存在者全体」の生起として捉えることが、「存在」が対象的なものではなく、我々を取り巻く「世界」そのものであることを明示するという意図を持っていた。しかし、ほとんどの読者は「存在者全体」がそれまで「存在」と呼んでいた事象を言い表わすものであることみ把握できない。そのため、「存在者全体」も対象化して捉えられてしまうことになってしまった。そこで、ハイデガーは「存在」の語り口を改める。1936年の『哲学への寄与論稿』で、端的に「存在は性起として生起する」という言い方をしている。「性起」という語には何ものかがおのれ固有のものへと立ち返る出来事、おのれ自身になる出来事というニュアンスが込められている。ハイデガーが「性起」という語を用いた理由を著者は、次のように考える。
①「存在」は将来、現在、過去へのひろがりとして生起する。ハイデガーは「存在」がこのような時間のひろがりとして生起する事態を「性起」と呼んでいる。「存在」は時間として生起することにおいて「存在」である。また、「時間」は「存在」を形作ることにおいて「時間」である。両者はこのような仕方で相互に帰属し合っていて、このように相互に帰属し合うことによって、まさにそれぞれの「固有なもの」を実現する。「存在」と時間が共属しあいながら、一つの事象を形作っていること、このような事態を「性起」として捉える。
②「存在」の生起とは、ある固有の「時-空間」、すなわち「世界」が生起することだった。例えば鳥が飛んでいることは、とりがそのように飛ぶことが起こり得る「世界」の生起を伴っている。したがって、鳥が飛ぶという事態に立ち会っている現存在も、同時にそのようなことが起こりうる「世界」の内にいることになる。『存在と時間』で述べられていた「世界-内-存在」として、現存在が生起してということだ。このように「性起」には、「存在」の生起によって現存在が現存在として生起すること、そのようにして現存在がおのれ固有のものを獲得するという事態も含まれている。そこで、ハイデガーは、「存在」を「性起」と呼ぶことによって、「存在」と現存在との一体的な性器を表現しようとした。
③「性起」という語には、そこにおいてそれぞれがおのれ固有のものを獲得するというニュアンスが込められている。ハイデガーは「性起」によって性起させられるもの、言い換えると、「性起」によってまさにそれ自身となるものとして、神、人間、世界、大地の四つをあげている。「性起」とは、これらの四つのものがそれぞれおのれ固有のものを獲得し、それ自身として現出するという出来事を意味している。「性起」によって性起させられる神、人間、世界、大地の四つの契機は本質的な連関を形作りながら「存在」の生起を構成する。
このように「存在」を「性起」と呼ぶことによって、これまではうまく言い表わせなかった「存在」に含まれる諸々の契機を明示化することができた。「性起」という語の使用は、「存在」という事象を語るにふさわしい言葉を見出そうとする『存在と時間』以来の一貫した努力の延長線上に位置づけられる。
2.「存在の歴史」
 ハイデガーは『存在と時間』刊行後、そこで果たされなかった「存在の意味」の解明に着手した。この「存在の意味」は中期になると「存在者全体」として主題化され、後期には「性起」として捉えられるに到った。しかし、『存在と時間』で果たせなかったのはそれだけではなかった。ハイデガーの「存在への問い」には、「存在」という事象を直接、解明するという側面と共に、「存在」を隠蔽し、その生起を妨げている伝統的な思考様式の特質を明らかにするという目的があった。彼によると伝統的な存在論の基本的方向性は古代ギリシャのプラトン、アリストテレスによって定められた。そこでは、根源的な存在としての「ピュシス」が隠蔽され、以後、西洋哲学の存在論では真の「存在」は問題とされなくなった。それがハイデガーの描く存在論の歴史である。1936年以降、彼は古代ギリシャ以来の西洋哲学の存在忘却的な知を「形而上学」呼ぶようになる。形而上学の位置づけは中期とは180度の転換ということになる。
 このような批判の対象である形而上学で問題とされてきた存在を「存在者性」と呼んで、ハイデガーの言う「存在」とは区別する。この「存在者性」は二重の仕方で表象されてきた。まず「存在者性」は存在者を存在者たらしめている一般的なもの、共通的なものと理解されてきた。それがエッセンティアすなわち本質と呼ばれる。これとは別に何かが現に存在するエクステンティアが形而上学の「存在者性」という二重性だ。形而上学はこのエクステンティアの本質の根拠を探求し、最高原因として「神的なもの」に辿り着く。形而上学は、二重の「存在者性」つまり存在論と神学におけるが相互に依存しながら形成裂けた統一と言える。神学が、ある存在者の現実存在の根拠を探求するとき、その存在論の本質は存在論で捉えられたものが前提とされている。逆に存在論において考察された存在者の本質は、それが現実に存在するかどうかについては、究極的に神学が表象する最高原因に依拠している。形而上学がこのように存在論と神学の相互連関により形成されているのは、存在者をエッセンティアとエクステンティアという二つの観点から捉えてきたからだ。この議論の本質について、ハイデガーは、この世界のすべてのものを、神を頂点とした因果連関の網目によって捉えることができるという、西洋的学問を根元で支えている合理性の基本構造を示すものだという。
 このように古代ギリシャ哲学の勃興以来、「存在の真理」はそれとして適切に基礎づけられることなく、存在はつねに「存在者性」として解されてきたと、ハイデガーは言う。ハイデガーはこのような形而上学全般を「存在」の不在として捉え直し、「存在の立ち去り」と呼ぶ。これは「存在忘却」と同じものと考えていい。この「存在の立ち去り」は形而上学において「存在者性」が存在者の根拠とみなされることと表裏一体と考えられる。「存在者性」が存在者の根拠であるということは、「存在者性」を把握すれば、存在者を掌握し支配できるということだ。「存在の立ち去り」により、存在者は人間による計画的な計算と操作的な支配に委ねられることになるからだ。このように、ハイデガーは「存在の立ち去り」による存在の歴史を作為性の支配と特徴づける。そして、近代の技術や文化は作為性の支配に基づいている。作為性とは作ることであり、それはたしかに人間の振舞ではある。しかし、この作ることが存在者を操作可能と解釈することに注意が必要で、あるものを操作可能と見なすことがなければ、それを作るという発想は生まれてこない。このように存在者が操作可能ということになれば、古代ギリシャの「ピュシス(自然)」の解釈も変質し、自分で自分を作ることと解釈され、そこに制作というニュアンスが入り込む。そこにユダヤ-キリスト教的な創造説の神以外のあらゆる存在者が神の被造物という考え方が入ってくると、すべてのものが作られたものだという信念が強化される。そこで、創造者がもっとも確実なものであり、あらゆる存在者は被造物として、確実な神を原因とした結果であると解されるようになる。こうして、存在者が存在するという尋常でない事柄が平凡で分かりやすいものへと押し込められてしまった。
3.後期の神論
 著者は、ハイデガーの初期から中期に至る思索を根源的な「神性」の探求と特徴づけていた。その探究の根底には、人間の意のままにならず、むしろ圧倒的なものとして人間がそれに従うほかないようなものが人間の生にとっては本質的であり、そのようなものこそが生にその本質的な意味を与えることができるという彼の直観が潜んでいた。後期の思想になると「存在」の生起の構造が詳細に分析されるようになり、そこで「存在」と「神性」の本質的な連関から、「神性」に深く立ち入ることになった。神、人間、存在という三者の関係について、あらかじめ神と人間という存在者があって、その間で存在が生起するということではなく、存在が生起することにより、神が神として、人間が人間として、はじめて生起すると言っている。
 ハイデガーは神々は存在を必要としていると言う。神々が存在する、ではなく、存在を必要とすると言っているのは、神々を対象的なものと捉えることを避けるためで、神々は直接的に人間に現われてくるようななにかではなく、あくまでも存在の圧倒性が神々として経験される。このようにそもそも存在の生起なくしては神々の経験あり得ないということから、神々は存在を必要としていると言い方になる。一方、人間については、人間は存在に属していると述べる。これは、人間が存在によって襲いかかられ、あるいはそれに委ねられており、そのことによって人間ははじめて人間となることを指している。
 たとえば、河川の存在を考えてみよう。河川は天から与えられた水を集め、流れている。河川はときには大雨で氾濫を起こし、またときには旱魃で細々とした流れになる。河川は人々がそこで作物を育てる田畑を潤している。河川はそこで魚を養い、その魚を人々や鳥獣が捕獲する。その流れる河川を人々は船を使って往来する。このように河川が示すさまざまな「存在」の様態、さらにはそれと密接に結び付いた風土、そのうちで「人間」はある固有の生活様式を築いてきた。人間に恵や災厄をもたらす河川の「存在」の威力が「神」として感謝され、また畏怖されてきた。
 このように「人間」と「神」は「存在」の生起において、それぞれの固有性を獲得する。これは、「存在」という出来事を介して「神々」と「人間」の区別と対話が成立し、そのことによって「神」と「人間」が、はじめてそれ自身となることを表わしている。このように「存在」、すなわち「性起」を媒介とした「神々」と「人間」との関係について、「生起」は「神」を「人間」に与える。というのも、「生起」の威力こそ、「神」の本質をなすものだからだ。これは、言い換えれば、「神」に対して、それを崇敬する「人間」が与えられるということである。このような関係において、「人間」はおのれの存続を確保するために、「生起」の圧倒する力としての「神」に逆らうことはできない。これは「人間」が「神」に唯々諾々と従うことを意味するのではなく、むしろ「神」から自分の望むものを獲得しようとする駆け引きという様相である。このような関係性をハイデガーは「応酬」と表現する。
 これに対して既存の宗教は、存在者から出発して、その存在者をすべてのものの原因である最高の存在者に結びつけるというもので、宗教それ自身が形而上学と同様の構造をもっていることになる。それで、ハイデガーは宗教を形而上学的なものとみなす。そのため、根源的な「神性」は覆い隠されてしまっている。ハイデガーは、「神」について真に思惟するためには、まず形而上学的な対象化的な思惟から脱却し、「存在」の生起をそれとして思惟することが必要だと説く。

 

轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(6)~第3章 中期の思索

 ハイデガーは『存在と時間』を刊行して間もなく、現存在の分析を介して「存在」にアプローチするというやり方では、「存在」が主観による公正の産物、ないしは意識内部の出来事であるかのように誤解されることを懸念するようになった。それで、このやり方を放棄して、「存在」の生起を直接語ることを試みるようになっていく。このような「存在」そのものを直接的に示すための試行錯誤を経て、ハイデガーが主観性の哲学の影響から脱却し、「存在」という事象にふさわしい語り口を見出したという核心に到達したのは1936年になってからだとハイデガーは言う。これを画期として、それ以後を後期、そして『存在と時間』刊行後からそれまでを中期とわけるのが一般的になっている。著者も、その区分に従っている。
 この時期、ハイデガーは「存在」と呼んでいた事象を「存在者全体」として捉え直す。それによって、「存在」の生起が単なる意識の表象ではなく、むしろ現存在を取り巻く「世界」そのものの生起であることを強調して示そうとした。
一方、ハイデガーにとって「存在」という事象が明確になればなるほど、それについての語りが既存の学問知による語りとは異質の性格のものとなっていく。
1.「形而上学」の時代
 ハイデガーは『存在と時間』刊行後、そこでは正面から論じられなかった「存在」を「存在者全体」として主題化するようになる。
例えば、そこに「鳥がいる」というとき、それは鳥が「飛んでいる」とか「木にとまっている」という存在様態を伴って現われていることを意味している。しかもこのような存在様態は「餌を捕る」とか「巣で休む」といった、その鳥の存在様態と一定の規則性をもって連関している。またこのような様々な存在様態のうちには、「木」や「餌」や「巣」などといった他の無数の存在者との関係も同じように含まれている。すなわち鳥の「飛んでいること」という「存在」の生起のうちには、このような「飛んでいること」以外の鳥のさまざまな存在様態と結びついた存在者すべてとの関係性が孕まれている。この「存在者すべて」は任意のものではなく、ある種類の鳥が存在することと本質的に結びついている。すなわち、その鳥の「存在」が生起する「場」を形作っている。
 ハイデガーが「存在者全体」として捉えようとするのは、この例のように存在者が存在することの背景をなし、このような「存在」を可能にしている「場」そのものである。これは、「存在」の生起と共に開ける「時-空間」を指している。ということは、「存在者全体」は『存在と時間』と問い求められた「存在の意味」を明瞭に示したものと言える。「存在の意味」という言い方では、「存在」は意識の表象と同一視されてしまう。ハイデガーは「存在者全体」という言い方にすることによって、「存在」が意識内部の現象ではなく、またわれわれの側に立てられた対象でもなく、我々を取り巻く「世界」そのものの生起であることを示そうとした。
 著者は、『存在と時間』の後、ハイデガーが「存在者全体」の考察を展開したものとして、1928年夏学期講義『論理学の形而上学的な始元根拠─ライプニッツから市出発して』をあげる。ハイデガーは、ここで「存在者全体」を捉える知を「メタ存在論」と呼んでいる。このメタ存在論は『存在と時間』の基礎存在論を徹底するところから出発する。『存在と時間』で取り上げられた現存在の存在様態やそこに含まれる構造的契機はすべて「存在」との関係性を示すものであった。つまり、現存在の本質を捉えることは、「存在」そのものを捉えることになる。したがって、基礎存在論としての現存在の実存的分析は、それを徹底すると、たしかに「存在者全体」を主題とすることに行き着く。また、ハイデガーは「存在者全体」の考察を形而上学と呼んでいる。形而上学と呼ぶことにより、近代の主観性の哲学から明確に距離を置いて、「存在への問い」が石工的主題の内容を記述するものではなく、人間を取り巻く「世界」を主題としているのだということを鮮明にしたのだった。
 そして、次の1928年冬学期講義『哲学入門』で、「存在者全体」を主題とする学の説明が行われる。さまざまな種別をもつ「存在」をその統一性において捉える。「存在了解はある領域から別の領域へと外に越え出ていくのではなく、たとえば自然と歴史の了解において、いわば直接的に行ったり来たり振幅している」と言う。自然と歴史はそれぞれ別の領域として切り離されているのではなく、両者はある統一を形作っているという。ハイデガーは、「存在者全体」という概念によって、領域に区分される以前の自然と歴史の統一的全体、すなわち歴史の生起における自然の存在を捉えようとした。実際、気候などの自然現象を了解することは、そのもとで必要となるおのれの行動を了解することそのものなのだし、天災地異なども人間の運命と切り離すことはできない。形而上学という呼称が古代ギリシャ哲学に由来することから、そこへの還帰というモチーフが打出されていて、「存在者全体」についての考察を、古代ギリシャの「ピュシス」についての知を取り戻すことと位置付けている。ピュシスは自然と訳されるギリシャ語だが、ハイデガーは我々が普通に自然と理解しているものでは汲み尽くせない内実を読み取って、「存在者全体」とほぼ等しい意味を読み取っている。その具体的内容については、翌年冬学期の『形而上学の根本概念』講義で説明される。すなわち、「ヒュシス」はもともと生長を意味していた。ハイデガーは、この生長とは、「単に切り離された出来事としての植物や動物の生長、すなわち植物や動物の発生と消滅というだけでなく、季節の変化のただ中での、また季節の変化によって支配された、昼と夜の転換のただ中での、星辰の運行のただ中での、嵐、天候、諸元素の猛威のただ中での発生や消滅の生起としての生長である」と説明している。我々は自然というと存在者の集合体と捉えがちだが、ハイデガーは生長という動的側面で捉える。上記引用では、生長が周囲の存在者と連関していることに注意が促されている。鳥の「飛んでいること」の例で、「存在」が「存在者全体」のうちで生起するということを示している。「存在者全体」は存在者の動的な「存在」を、それと本質的に連関している周囲の存在者すべてとともに捉えたものであった。つまり、「存在者全体」とは、存在者の「存在」とともにおのずと形づくられるものなのだ。なお、「ピュシス」は自然と言っても、そこに人間やその活動も含まれる。例えば、気候や天候も自然災害は、人間の運命を左右する。また、そうした気候や天候が何であるかは、常に人間の営みにどのような影響を与えるかという観点から理解されている。このことから明らかなように、「自然」はたしかにそれだけで切り離して捉えられているのではなく、人間の運命と密接に絡み合って了解されている。一方、人間は単に「存在者全体」に支配され翻弄されているだけの存在ではない。人間は「存在者全体」によって支配されながらも、その「存在者全体」を開示し、またそれを語るという独特な仕方で存在する。すなわち、「ピュシス」は人間自身がそれによって徹底的に支配され、かつ人間が支配できないような全体的支配を意味するが、これによって支配された人間は、その全体的支配について常に語っている。
 以上で見たように、ハイデガーは1920年代の終わりになると、「存在への問い」を「存在者全体」についての考察として定式化するようになった。同時に、このような考察は、古代ギリシャの「ピュシス」への還帰という意味ももつものでもあった。このような古代ギリシャの「ピュシス」という異教的なものへの還帰が唱えられるということは、ハイデガーにおいてキリスト教の哲学的基礎付けというモチーフが放棄されたことを意味する。ハイデガーは「神的なもの」の本質がキリスト教の神とは根本的に相容れないことを自覚するに至ったのだった。
2.中期の神論
 ハイデガーの「存在への問い」は、元来、「神的なもの」をその超越性を損なうことなく捉えることができる存在概念の格率を目指すものだった。しかし、『存在と時間』では存在の解明が為される前に中断されてしまい、そのことに触れられなかった。そこで、1929年の「根拠の本質について」の脚注で『存在と時間』の現存在の分析は「神」を主観的に論じていないだけで、現存在の「神」との関係について何らかの決定をしているわけではないと説明している。現存在がその本質において「存在」の生起する場であり、現存在にとっては本質的なこの「存在」への関係性を、ハイデガーは、現存在が「存在」を超え出ていくことと捉えてそれを「超越」と呼んでいる。そして、「超越」の超え出ていく先としての「存在」が圧倒的なもの、神聖性であることが示唆されている。この超越の解明は、実質的に「存在」そのものの解明ということになる。つまり、事実上、「神」が「存在」という問題に属するのだった。この「超越」という神学的背景をもつ術語が用いられているのも、「神」との関係が視野に入っているからだ。したがって、この時期、「存在者全体」を考察する「形而上学」は、それ自身「神」についての考察なのである。もともと、伝統的な形而上学は、超越的な存在を探求する神学を意味するものであった。それを踏まえて、この時期のハイデガーは、おのれの思索を形而上学と呼んだのだった。
 超越の先の「存在」が圧倒的であるとはどういうことか。『論理学の形而上学的な始元根拠─ライプニッツから市出発して』の中で、ハイデガーは「存在と超越の本質からのみ、そしてただ超越の本質に属したまったき分散において、またそのような分散に基づいてのみ、こうした圧倒する力という存在概念は理解できる」と言っている。これは、超越の本質に属した「分散」が、現存在によって「圧倒する力」として経験されるということ。この「分散」は「被投性」に基づくと言われている。つまり、存在者の「存在」が生起することにおいて、現存在は「時-空間」のひろがりへと否応なしに晒されており、またその際、現存在はおのれが選んだわけではない身体へと委ねられている。このような事態が「存在」の圧倒性として経験される、ということだ。言い換えれば、「分散」とは現存在が「存在者全体」の生起に巻き込まれ、それによって支配されている状態のことで、現存在はそのときおのれを「存在者全体」に圧倒された非力な存在として経験する。ここでは、現存在が「存在」を経験することが、現存在が「存在者全体」によって圧倒されることと捉え直されている。
 また、現存在は「存在」の生起の場であることをおのれの本質とする存在者である。このことは、現存在が「存在」なしにはそれ自身でありえないことを意味している。逆に言えば、「存在」も現存在なしには「存在」として生起することはない。これまで見てきたように「存在」がある意味において「神的なもの」と捉えられるのだとすれば、「存在」と現存在の関係は、「神的なもの」と現存在との関係にも当てはまることになろう。つまり、現存在は「神的なもの」の生起の場であることになる。その一方、「神的なもの」は現存在なしには生起しえないことになる。このような神と人間の相互依存的な関係に言及する一方で、ハイデガーにとって、真の「神」はキリスト教の神ではないことが自覚されるようになっていく。『存在と時間』刊行後、上述のような「圧倒する力」のうちに神性の本質を見るようになると、ハイデガーはこのような神性がキリスト教の神性とは異なることを明瞭に意識するようになる。そのことは、「ピュシス」という古代ギリシャの故郷的なものに対する積極的な評価に象徴的に示されている。1935年夏学期の『形而上学入門』講義において、キリスト教があらゆる存在者を神名よって造られたもの、すなわと「被造物」と捉えることによって「存在」の本質を根本的に覆い隠しているという。それはこういうことだ。たとえばある人がキリスト教の聖書を神の啓示と真理として受け止める場合、その人は「なぜそもそも存在者が存在し、むしろ無があるのではないか」という問いをどのように問うたとしても、あらかじめある答えを前提としている。その答えとは「存在者はそれが神自身でない限り、神によって創造されている」というものだ。そしてここでは、「神自身は創造されない創造者として「ある」と捉えられている。」しかしハイデガーによると、このような信仰を持つ者は、信仰者としておのれ自身を放棄しないかぎり、「存在への問い」を真に問うことはできない。「存在」とは元来、おのずと立ち現われ、現存在を圧倒する力、すなわち「ピュシス」として現存在を支配するものだった。しかし存在者が神による作り物とされると、このような「ピュシス」は完全に視野の外に置かれ、無化される。キリスト教では、神もそれ以外のものも単なる存在者として捉えられたうえで、その関係性が創造として語られている。ここではハイデガー的な意味での「存在」はまったく視野に入ってこない。
3.ハイデガーの芸術論
 ハイデガーは、中期以降、芸術への関心を明らかにする。例えば、1930年代半ばの「芸術作品の根源」や一連のヘルダーリンの詩作品の解釈である。ハイデガーは、存在者の「存在」をあらわにする点において芸術に優れた点があるという。これは、彼の拳固の本質についての考え方に基づいている。ハイデガーは言語の本質を「世界」の表明としての「語り」を蔵することのうちに見て取った。そのような言語の本質が、詩的言語のうちにもっとも純粋に体現されているとみなした。我々は、普通、言語を単なる意思疎通の手段にすぎないとみなしている。しかし、ハイデガーは詩作品は根源的な形態の言い表わすことの規範であり、「世界」の根源的な開示である。日常的言語はそこからの派生、あるいは頽落でしかない。これは、詩作品だけに限らず芸術全般も基本的には言語に基づくので言えることである。例えば。神殿という建築作品は、おのれの周囲に、人間の生を形作る軌道と連関の統一を取り集める。この軌道と連関のうちで「誕生と死、災厄と繁栄、勝利と恥辱、持ちこたえと没落が、人間にとって自分の運命の形となる」このような連関の支配的なひろがりを「歴史的フォルクの世界」と呼んでいる。この「世界」とは、人間の生にとって避けることのできない諸可能性の連関を示している。神殿における神への奉献や祈り、祭典などは、生の諸連関における神の加護を求めるものであるかぎり、神殿の存立は、そのような生の諸連関の支配を前提とする。ハイデガーは「芸術作品の根源」で、このような生にとっての根本的な出来事の連関を「世界」と呼んでいる。ところで、「存在者全体」には人間の歴史、運命が含まれている、ここでの「世界」は、「存在者全体」を構成する。ハイデガーは、神殿を取り巻き、神殿と本質的に連関しているさまざまな存在者を次のように列挙する。神殿は岩の上に建つことにより、岩の支える力を岩から汲み取る。神殿は嵐に対して持ち堪えることによって、嵐をその暴力においてあらわにする。石材のきらめきが日の光、天空のひろがり、夜の暗さをそれとして際立たせる。神殿が聳え立つことによって、大気の見えない空間が見えるものとなる。建築作品の安定が海の荒れ狂いを際立たせる。神殿の周りで、樹木と草、鷲と雄牛、蛇とコオロギがはじめてそのくっきりとした姿を獲得し、それがそれであるものとして現われてくる。ハイデガーは、このように神殿と共に立ち現われる事物についた語り、そのうえで、「ピュシス」と呼ばれるこのような諸事物の立ち現われの全体は、人間がそこに住まうところであることを指摘する。これが「大地」である。神殿は、それが屹立することによって、これらの諸事物が立ち現われ、この場所を「大地」として際立たせる。これは、神殿がそこに建っているという事態を、人間や動物、植物や事物があらかじめ対象として存在しているところに、事後的に神殿が置かれたというのではない。むしろ神殿がそこに建つことによって、事物にはじめてその姿が与えられ。また人間にも自分自身が何者であるかについての見通しが与えられるのだと言う。人間の運命は「大地」によってその内実が具体的に規定される。一方、「大地」もまた、人間の運命を規定する仕方において、はじめておのれの何たるかを示す。「世界」と「大地」は、そのような相互の緊張関係においてはじめてそれ自身でありうる。このような相互関係を「抗争」と呼んでいる。
 このように芸術作品は目の前にすでに見出された世界の模写ではない。もちろん、作品には制作者だけでなく、それを受容するものも存在する。芸術作品が、大地と世界の抗争の開示であるということに応じて、受容者による作品の保護は、作品においてあらわになった大地と世界の抗争のうちに立つという意味を持つ。このことを「知」と呼んでいる。「知」とは大地と世界の抗争におのれ自身を晒し出して、それを持ちこたえる意志とか覚悟というものである。
 このことは、芸術作品を媒介として、創造者と受容者あるいは受容者相互のあいだにある固有の「大地」と「世界」が共有されるのを示している。つまり、芸術作品はこのような仕方で人間の共同性を根拠づける働きをもつのである。ひいては「フォルク共同体」を基礎づけるものでもある。

 

2023年10月 4日 (水)

轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(5)~第2章 前期の思索

 第2章は『存在と時間』の思想を概観する。最初に著者は、『存在と時間』における「存在への問い」は根源的な神性への問い、つまり「神の本質とは何か」という問いの延長線上にある、という仮説を提示する。著者は『存在と時間』の基本動機を次のように提示する。すなわち、現存在は、もともと、人間を「存在」が生起する場として捉えた概念だった。ハイデガーは『存在と時間』では、あらかじめ「存在」と現存在の関係を、このようなものとして捉えた上で、現存在のあり方を分析し、それが「存在」との関係性を示すことで、読者を「存在」に導こうとした。ところが、実際に、『存在と時間』は「存在」を正面から取り上げる前に中断してしまった。そのため、『存在と時間』の刊行された部分では現存在の分析だけで、それが「存在」との関係性を示しているのだという種明かしがされることがなく、宙に浮いてしまうことになった。そのため、『存在と時間』をもっぱら人間学として捉えるような解釈傾向が一般的になってしまった。
 そこで、著者は、そういう一般的傾向に逆らって、『存在と時間』で扱われている現存在の諸契機が、すべて「存在」との関係性にかかわっていることを考慮することで、はじめてその意味が分かることを示すという。
1.『存在と時間』への道
 著者は、前章で「存在への問い」は根源的な神性への問いであるという仮説を示した。『存在と時間』では直接、神に触れてはいない。伝記的な事実では、ハイデガーは当初、カトリック教会の資金的な援助により学業を続けることができ、大学生時代はキリスト教神学の研究を行った。その後、しんがくに飽き足らなくなり、哲学に転向したとされている。
 しかし、著者は、そもそもハイデガーの思索の出発点には、人間が意のままにならないような何ものか、すなわちそれに対しては人間は主権者ではありえないような絶対者、至高者が存在するという直観があった。これが当初は神学研究の枠内で「神」として問題にされていたが。やがては「存在」として捉えられることになった。このように、ハイデガーの「存在への問い」は神への問いと密接に結びついている。しかも、ハイデガーによる神の本質は、単に「存在への問い」と結びついているだけではなく、もともと「存在への問い」は「神性への問い」に由来するものであると、著者は指摘する。
 ハイデガーはドイツ南部の田舎の出身で伝統的なフォルクが残された環境の中で育っている。そこから都市に代表される近代主義の個人主義や世俗化された信仰を失った人々に批判的だった。彼の近代主義批判は、当初の彼の学問の基本的方向性を規定することにもなっている。当時(1916年ごろ)のハイデガーの論考には伝統的なカトリック神学を超えて同時代の宗教心理学にも関心を向けていたことが示されている。宗教心理学は信仰を個人の経験に還元し、宗教的事実としての啓示を否定する傾向にあり、否定的されるべきはず。じっさい、神的なものに本来備わっている超越性を主観的なものへと解消することには反対していた。しかし、彼は、神的なものの超越性を認めつつも、それについての直接的な経験の可能性も否定しない点で、一部、これを受け入れていた。彼が必要としていたのは、主観的経験に定位しながら、同時に神的なものを主観性を超え出た超越的なものとして捉えることを可能にするような哲学的な立場だった。この求めにこたえるものとして、彼が注目したのはフッサールの現象学だった。だから、ハイデガーはフッサールのなかでも心理主義を批判する『論理学研究』を重視し、その後の『イデーン』には関心を持たなかった。このことから、ハイデガーは現象学を神的なものの超越性、独立性をあくまでも尊重しつつ、それが我々にとってどのように経験されるかを記述する方法と捉えていたことに基づいている。このような彼の立場からすると、『イデーン』の超越論的意識による対象の構成を強調する姿勢は、神的なものの超越性を主観的意識に解消してしまう、近代の主観主義への退行に見えたのだろう。だから、ハイデガーとフッサールとは、当初から隔たりがあったと著者は言う。
 ハイデガーは1920年代前半に講義でアリストテレスを繰り返し取り上げている。ハイデガーのアリストテレス等によって確立された古代ギリシャの存在論が、もともとは事物についての存在論であったことに注意を促す。彼は、人間の存在を「事実的生」と呼んでいる。彼は、この言葉によって人間ひとりひとりが、それぞれ固有の経験、状況をもち、それこそが人間存在の実質をなすことを強調しようとした。しかし、古代ギリシャの存在論は、人間を目の前に見出される単なる事物として捉える。そしてこの人間固有の存在に神的なものへの関係をもまた含まれているとすると、事実的生を適切に主題化できない存在論は神的なものも人間の経験に即した形では捉えられないことになる。このような性格を持つ古代ギリシャの存在論が、キリスト教神学の基礎となっている。ハイデガーは、キリスト教神学がギリシャの存在論を基盤とするものである以上、事実的生をその本来のあり方を隠蔽したとしてカトリック神学を批判的に見るようになっていった。彼が、1920年代前半にアリストテレスの哲学を繰り返し取り上げたことの背景には、このような古代ギリシャの存在論の限界を指摘し、その適用範囲を限定しようとする意図があった。ハイデガーは事実的生には神との関係が本質的に属しているとみなしていた。したがって事実的生が捉えられないということは、そこに属する神的なものの本質も捉えられない。その意味で、アリストテレスを全否定することはでない。したがって、アリストテレスを取り上げたのは神的なものの存在を的確にとらえる目的から為されたものだった。そのことから、『存在と時間』における「存在への問い」は、「神性の本質への問い」の延長線上に位置づけられる。「神性の本質への問い」を突き詰めた結果、それを的確に捉えることのできる存在論的な基礎を確立する必要性を認識した。つまり、「神性の本質への問い」はまずもって「存在への問い」として遂行されねばならない、というわけだ。
2.現存在の実存論的分析
 『存在と時間』では、「存在への問い」は具体的にどのように行われたのだろうか。
 そもそも「存在への問い」には、本質上、次の二つの課題が含まれていたはずだと著者は言う。すなわち、第一に、「存在」の根源的な意味を明らかにすること、第二にそのようにして解明された「存在」の根源的な意味を基準として伝統的存在論の存在理解の特徴を明らかにすることである。『存在と時間』の第1部は「現存在の時間性に向けての解釈と、存在への問いの超越論的地平としての時間の解明」と題されている。第1部の目標は「存在への問いの超越論的地平としての時間の解明」、すなわち「存在の意味」を時間として解明することだった。この表題の前半部「現存在の時間性に向けての解釈」は、この「存在の意味」を時間として解明するという目的のための準備として行われる現存在の分析のこと指している。つまりり、『存在と時間』では、まず現存在が時間的な存在であることが示されたうえで、今度はその時間性が、現存在という場で生起する「存在」の時間的性格の反映であること、つまり「存在」の意味が時間であることが明らかにされるという構成になっている。これに対して第2部は「テンポラリテートの問題性を手引きとした存在論の歴史の現象学的破壊の基本的方向性」と題されていた。ここでは、「存在」の根源的な意味が時間であるという観点から、伝統的な存在論で論じられてきた存在の基本的な特徴を明らかにして、その限界を確定する予定であった。しかし、実際には『存在と時間』第2部は存在していないし、第1部の後半部分、すなわち存在への問いの超越論的地平としての時間の解明は行われなかった。行われたのは、第1部の前半部分、現存在の時間性に向けての解釈だけだった。この現存在の存在をハイデガーは実存と呼んでいる。したがって、現存在の実存論的分析とは、現存在をその固有のあり方、すなわち実存に即して解明することを意味している。
 このようにハイデガーが現存在の存在だけを先にしたのには方法論的な理由がある。つまり、「存在」がどのようなものかを明らかにすることは、我々が「存在」をどのように経験しているかを手がかりにするほかはない。人間はただ単に事物のように存在しているだけではなく、おのれ自身や他の存在者の「存在」について、の了解をもつという仕方で存在している。このような「存在了解」をもつことが、人間存在の固有性なのだという。人間が存在了解をもつということは、人間には「存在」が与えられているということ、すなわち人間が、「存在」が生起する場であるということだ。ハイデガーは人間のそういう特質に注目して現存在と呼んだ。したがって、現存在が「存在」が生起する場である以上は、現存在を分析すれば「存在」を明らかにできるというのが当初の考えであった。これをハイデガーは存在基礎論と呼んでいる。
 現存在の実存論的分析では、まず、現存在の存在が「世界-内-存在」と想定される。その、その上で内の「世界」が分析される。「世界」とは、存在者の「存在」とともに生起する「時-空間」を指している。つまり、存在者の「存在」を捉えるということは、ある意味では、その存在者が見出される「時-空間」としての「世界」そのものを捉えるということになる。『存在と時間』では、これを道具を例にして説明する。ハンマーは釘を打つための道具であり、釘を打つのは何かを固定するためであり、何かを固定するのは風雨を防ぐためであり、風雨を防ぐのは人間が宿るためである、という指示連関がそこでは成り立っている。ハンマーはこのような指示連関のなかに、おのれの所在を持っている。そこで、手許にあるハンマーをハンマーとして捉えている現存在は、このような指示連関についての了解を持っている。この了解とは、現存在の宿るという目的のために固定することが必要で、固定するためには釘を打つことが必要で、その打つためにはハンマーが必要であるという連関を了解することである。現存在がハンマーを道具として捉えているときに了解し、そのうちにおのれを見出している場としての、この目的から手元のハンマーまで至る連関を、「世界」と呼んでいる。
 次に「世界」の構造を分析する。ある存在者が存在するということは、固有の「世界」が生起することだ。したがって現存在は「存在」と不可分な「世界」のうちにおのれを見出す。このように、現存在は世界「のうちに」存在する。ハイデガーは現存在と「世界」との関係を「世界-内-存在」と呼ぶ。現存在が「世界」の内に存在するとして、この「うちに-あること」が、現存在のどのようなあり方で、何によって可能となっているのかを捉えようとする。世界のうちにあるとは、空間的な位置ではなく、世界を感受することに等しい。『存在と時間』では、この「世界」への現存在の関りを、「情態」、「了解」、「語り」という三つの観点から論じている。まず、「情態」は、「気分」、「気分づけられていること」、「感情」などとも言い換えられる。「情態」は「世界」に対する関わり方で、存在者が存在することにおいて形づくられる「世界」は、現存在が意のままにできるものではなく、有無を言わさず現存在に襲いかかってくるものだ。それは重荷であると感じられたり、逆に喜びとして感じられたりすることもある。このような気分のうちに「世界」の開示を見て取るというものである。「情態」とは、「世界」が今ここで開かれていることを意味する。そして現存在が「世界」のうちにおのれを見出す限りにおいて、「世界」の開示としての「情態」はおのれ自身の開示という意味をもつ。一般的には「情態」や「気分」を主観的なもの、意識の内的状態と捉えるが、ハイデガーは「世界」そのもののありようを示すものと位置付け、「世界」の実相を捉えるものとされる。つまり、「情態」とは「存在」の開示様態なのである。そのもっとも純粋で特徴的な情態が「不安」なのである。
 次に「了解」は「情態」とセットで考えられている。つまり、「了解」は「情態」と同様に、「存在」ひいては「存在」が形作る「世界」に対する現存在の関わりを示す。一般に、了解しているとか分かっているという場合、その事柄に適切に対処できるということを含んで意味している。つまり、ある存在者の「存在」の可能性を分節化する、すなわちされを「了解」するということは、その存在者に対して適切に対処できるということを意味している。言い換えると、現存在は「了解」するという仕方で、ある存在者の「存在」に立ち合い、それを担うという、おのれ固有の「存在」をまっとうする。ということは、「了解」は目の前に現れ出ている存在者を超えた可能性の次元に関わっている。このような「了解」の創造的な性格を念頭において、「了解」は「企投」という特徴を持つとする。「企投」の原義はスケッチとか下図で、「了解」が存在者を超えた「世界」の下図を描き抗争するという性格をもつことを示している。この「企投」はわれわれの意志によって起こるのではない。むしろ意志なるものに先だって、おのずとすでにそのように「企投」してしまっているという性格をもっている。言い換えると、現存在は「世界」をそのように「企投」することへと投げ入れられてしまっている。「了解」は「情態」が「世界」が現出しているという事態を指すように、「了解」も、同じ事態を別の角度から捉えたものなのだ。「情態」が「世界」が現出しているということの有無を言わさない圧倒性を捉えたものだとすれば、「了解」は「世界」が一定の分節秩序をもつものとして与えられているという側面を表わしている。
 最後に「語り」については、「情態的な了解」はつねに「語り」としてある。「情態的な了解」はそこに「世界」が立ち現われているという事態そのものを指していた。「語り」は、このような「世界」の生起に何らかの仕方で関わっていることを意味する。つまり、「世界」は「情態的な了解」において開示される。それが「語り」であり、その際には、不可避的に音声や書字などの物理的形態を身にまとう。これをハイデガーは「言語」と呼ぶ。言い換えると、「語り」の受肉したものが「言語」であるということだ。例えば、「カワセミが魚を捕っている」という発話があったとする。カワセミが魚を捕ることは、ある固有の「世界」が「そこ」で生起していることそのものを意味する。この発話で、このような「世界」が表明されているのである。しかし、この「世界」は「ヒヨドリが柿の実をつついている」という発話で表明されている「世界」とは別物だ。「カワセミが魚を捕っている」と「ヒヨドリが柿の実をつついている」という二つの異なる発話は、それぞれに違った「世界」がおのれを語り出している。ちなみに、このような立場から、ハイデガーは従来の言語論を「世界の語りを蔵する」という「言語」の本質的働きを取り逃がしていることを問題視する。伝統的な西洋哲学では「言明」あるいは「判断」が「言語」の基本形式とされてきた。この「言明」あるいは「判断」は、ある主語について術語的な規定をするものとして「SはPである」という仕方で表わされる。この「言明」では主語となる存在者はただ単に眼前にあるものにすぎないとされ、「世界」との関係性は無視される。例えばカワセミはある固有の「世界」において、ある固有のあり方をもつ生き物である。カワセミの「存在」はもともと「世界」との関係においてのみ無捉えることができる。カワセミが存在するということは、ある固有の「世界」が生起していることそのものである。しかし、この「言明」では、カワセミは単に目の前に現れている事物にすぎず、そこで生起している「世界」はまったく考慮に入れられていない。われわれは、このようにカワセミ固有の「存在」を知らなくても、事物として目の前に現われているカワセミについて、任意の観点から「それは何々である」というような術語的な規定を行うことができる。西洋哲学においては、言語表現は「世界」という特殊なコンテクストに依存することなく、誰もが理解できるものとして考えられてきた。それに対して、ハイデガーは、このような「言明」は派生的、二次的な言語の様式にすぎないと言う。彼にとって、「言語」は何よりも「世界」の「語り」を保存するものとして、「世界」に根ざしたものなのだった。
 まとめると、ある存在者の「存在」とともに生起する「世界」のうちに現存在がおのれ自身を見出しているという事態が「情態」であり、そうした「世界」は同時に、現存在にとってある限定された可能性を課するものでもあって、このような可能性に対する関係性が「了解」として捉えられている。そして、この「情態」と「了解」において開示されている「世界」は、何らかの仕方でおのれを示さずにはおかない。この「世界」の自己表明が「語り」である。
 ハイデガーは、このような現存在の本質を「気遣い」であると規定する。現存在の「現」とは「存在」が生起する「場」でもある。そのためには、ある存在者の「存在」の生起を邪魔することなく、「存在」にその固有性を自由に発揮させることが必要となる。「存在」を気遣うとは、このように、「存在」にその固有性を発揮させることである。ハイデガーは「気遣い」の構造を「(うち世界的存在者)のもとでの-存在として、おのれに-先立って-すでに-(世界)-のうちに-存在すること」と分節化する。具体的に言うと、「存在」を気遣うとは、おのれ自身を差し置いて、ある存在者の「存在」がその固有性において生起することを優先することを意味している。つまり、その存在者がもつ可能性の発揮を妨げることなく、むしろそうした可能性によっておのれが制約を受けることを許容するということだ。これが「おのれに-先立って」という規定に表われている。このように、「存在」を気遣うことのうちには、存在者の「存在」が自分では、存在者の「存在」が自分ではいかんともしがたいものとしてすでに自分を支配していることを認めるという側面が含まれている。これはすなわち、「存在」の生起そのものとしての「世界」のうちにおのれが投げ入れられていることを意味している。
 このように「気遣い」とは基本的に「存在」を気遣うことだが、その「存在」とはまさにある存在者の「存在」である。したがって、「気遣い」には必然的に存在者との関わりも含まれている。しかし、むしろ「気遣い」のうちで、最初にわれわれの目に入ってくるのは、この存在者との関わりという側面の方で、我々は「気遣い」を存在者に関わることでしかないと短絡的に捉え、そこに潜む「存在」との関係を見落としてしまう。このような場合を「頽落」、「非本来性」と呼んでいる。
 この「気遣い」についての議論は、「おそれ」や「不安」と同様にキリスト教神学を下敷きにしていると著者は言う。キリスト教において人間は神への気遣いのうちで生きることが推奨される。しかし他方、そうした気遣いが富や名誉といった世俗的なものへと向けられてしまう危険性もつねに指摘されてきた。現実には、人間の気遣いは後者に向けられてしまうので、それゆえにこそ、気遣いを神に向けることが推奨された。ハイデガーは、『存在と時間』において、もともとキリスト教神学の気遣いを、その文脈から切り離し、現存在一般の構造として解釈し直したのだという。ここで、神への気遣いが存在へ気遣いに捉え直され、そこで同時に、神の超越性が存在の超越性として読み替えられた。
 ここまでの『存在と時間』の前半部で、現存在の固有性は、ある程度示されていたと言える。
3.「本来性」と「非本来性」
 現存在とは、人間の本質を、存在者の「存在」が生起する場に立ち会うことを想定する概念であり、その在り方を「気遣い」と捉えられている。このことから分かるように、現存在とは「存在」に対する人間の本質的な関係を捉えた概念であり、そこでは、「存在」がどのような事象であるかがすでに前提とされている。ところが、『存在と時間』では、「存在」の意味が解明される前に現存在という概念が導入されてしまっている。つまり、前提が明かされる前に、現存在が提示されているというわけだ。そのため、現存在の本来の意味が捉えにくくなっている。
これは、「本来性」と「非本来性」という二項対立の議論にも言えることだ。「本来性」とは現存在が、おのれ固有のあり方を実現している状態を意味する。対して、「非本来性」はそうでない状態を意味する。現存在は「存在」の生起に立ち合い、それを気遣うことが本来的なあり方である。このような固有性を実現できていない状態が「非本来性」というわけだが、我々は、日常では現存在の固有のあり方から逃避している。この「本来性」と「非本来性」という区別は、『存在と時間』の現存在分析の根幹をなす区別である、と著者は言う。しかし、『存在と時間』の既刊部分では、「存在」について表立って論じていないため、この二つの概念の本来の意義も見えにくくなっている。その結果、「非本来性」はよくあるタイプの文明批判、つまり大衆社会に埋没して自分らしさを失ったあり方への批判というレベルで理解されることになる。また、「本来性」も、死と向き合いながら一瞬一瞬を大切に生きるあり方、世間には迎合せず自分らしさを取り戻した荒れ方というような、人生論として受け取られてしまう。
 『存在と時間』第1部第1篇では、現存在の平均的日常性が、我々の身近なあり方が分析の出発点で、そこでは現存在の本質が覆い隠されている。そうだとすれば、平均的日常性の意義を捉えるためにも、まずは現存在の本質を押さえておく必要がある。したがって、「本来性」を前提にする必要がある。我々は、平均的日常性のうちにあり、それを自明のものとしているので、それ以外のあり方についてはイメージしにくい。そこで『存在と時間』第1部第2篇で、あらためて現存在の本来的なあり方を示そうとした。
 このような問題意識のもとで、現存在が平均的日常性から脱して、本来的なあり方をとることを可能にするものとしてハイデガーが注目するのが「良心」である。ハイデガーは「良心」を「気遣いの呼び声」と規定する。「気遣い」とは現存在の本質そのものである。これは、現存在は常に「気遣い」というおのれの本質を成就することを「気遣い」によって求められているということだ。このような「気遣い」の要請こそが、「良心」の本質である。つまり、「気遣い」が、根本において「存在」を気遣うことそのものであるとすれば、「良心」とは結局のところ「存在」そのものによる、存在を気遣うように、という呼びかけと考えることができる。ハイデガーは「良心の呼び声」の構造を、「存在」に晒され「存在」に不安を抱く現存在が、「存在」によって「存在」へと呼び出されるという。現存在は、おのれが好き好んで選んだのではないようなあり方を課されていて、ほんらいはそれを引き受けなければならないのに、そこから逃避してしまう、そういう負い目を「気遣い」が含んでいて、「良心の呼び声」はその負い目を現存在に告知する。現存在が、この呼び声を了解するということは、負い目があるというおのれの本質を受け入れることで、このとき現存在は「良心を-もつこと」を選び取る。このように現存在は、つねに「良心の呼び声」が生起していて、そこから逃れることはできない。現存在にできるのは、この「良心の呼び声」を聞き届けるかどうかの選択だけで、この「良心の呼び声」つまり、負い目の告知に向き合うことが「良心を-もつこと」なのである。現存在は、根本的には「存在」を負わされているもので、そのことを自覚することが負い目を感じることになる。こうして、「良心を-もつことを-欲すること」、すなわち「覚悟」は、「存在」に対して開かれること、つまり「存在」を「気遣うこと」を意味する。著者は、この「良心」は、負い目のあるという性格から、キリスト教神学において人類が背負うとされる「原罪」が捉え直されたものであるという。
 『存在と時間』の本来性をめぐる議論で、「良心」とならんで重要なものが「死へと関わる存在」である。多くの場合、この「死」をめぐる議論はむ、自分がいつでも死にうることを意識して、一瞬一瞬を大切に生きることが重要だといった通俗的人生訓を読み取って満足してしまう。それなら何も『存在と時間』をわざわざ読む必要はない。むしろ。それでは「存在への問い」の中で「死」がどのような役割を果たしているかが見えなくなる。『存在と時間』では、「死」は存在の意味の解明との関係において、はじめて捉えられるものなのである。
 まず、厳然たる事実として人間はいずれは死ぬ存在であるということ。また、医療技術の進化等により、死は先送りできる、つまり、死をコントロールできるかのようにみなしている。ハイデガーは、このような死の本質の歪曲が、日常性を日常性たらしめていると言う。このような死を操作可能なものとして表象するということは、避けることのできない死の可能性に対する不安を覆い隠すものとして、そのこと自身が死への不安に基づいている。それは、われわれが死への可能性をつねに何らかの形で意識していることの現われ、つまりわれわれが「死と関わる存在」であることを示している。よく考えると、この「死へと関わる存在」の「死」は、現実にわたしのこととして出来する出来事ではない。自分が死んでしまっては「死」に関わることができないからだ。すなわち、ここで問題になっている「死」とは死の可能性のことだ。しかし、可能性と言っても。われわれはそれに対して、常に不安を感じ、何とかして払しょくしたいとするリアリティを認めている。ハイデガーは、このような可能性から身を背けることなく、直視することを「可能性への先駆」と呼ぶ。この「可能性への先駆」において「死」の可能性を引受けるということは、実際に死ぬこととは違う。「可能性への先駆」とは、あくまでも生き方の問題なのだ。日常においてわれわれは「死」の可能性から目を背けている。このような現存在の態度は、おのれの生の存続、自己保存を至上の価値とするからだ。だから、「可能性への先駆」において「死」の可能性を引受けるということは、自己保存の欲求から脱却すること、つまり自己放棄することを意味する。その結果、自己保存に固執しているかぎり入ってこない可能性が開かれる。それが、「おのれ固有の存在能力」と呼ばれ可能性である。これは、存在者の「存在」の生起に立ち合い、それを気遣うことである。このおのれでない存在者の「存在」を気遣うとは、その「存在」をある意味で優先する、つまり自己放棄という契機を含むものである。「死」とは、このような「自己放棄」の究極の様態である。したがって、「おのれ固有の存在能力」につねに開かれたままであるためには「死」の可能性を引受けなければならない。前述のように、「おのれ固有の存在能力」に開かれたあり方を「良心の呼び声に従うこと」、すなわち、「良心を-もつことを-欲すること」と規定していた。そうすると、「良心を-もつことを-欲すること」すなわち「覚悟」は事実上、「可能性への先駆」によって初めて可能になると言える。それはこういうことだ。われわれは「死」という究極の自己放棄の可能性を受け入れることができれば、それ以外の自己放棄の可能性とどんなものでも担うことができるだろう。逆に、われわれかさしあたりたいてい、「良心の呼び声」に従うことができないのは、それが自己保存の本能に反するからであり、「死」への恐れからである。
 このように、ハイデガーが『存在と時間』で「死」を取り上げるのは、結局のところ、「死」に対する態度が「存在」に対する態度と表裏一体とみなされているからだ。ハイデガーは、われわれの生の一瞬一瞬が、「死」という自己放棄の究極の可能性に対する態度によって規定されていることに注意を促す。つまり、「死」は生の質そのものを決定するもの、その意味において、「生」の核心をなすものと考えられている。
以上が「本来性」についての議論だが、他方で、「非本来性」についてはどうだろう。『存在と時間』において、「本来性」をめぐる議論と並んで読者に強い印象を与えるのが、「世人」や「頽落」といった現存在の「非本来性」に関する議論だろう。
 「存在」が生起する場としての現存在の開示は「情態」、「了解」、「語り」の三つから構成されていた。「本来性」が現存在の一つのあり方、すなわち現存在の開示性である。これと同じように、「非本来性」も現存在の開示性の一様態とみなすことができる。
 ハイデガーは「非本来性」における現存在の開示性を、「おしゃべり」、「好奇心」、「曖昧背」の三つで特徴づけている。実の三つが一体となって「存在」に対してある独特の関係性を形作っている。まず、「おしゃべり」については、ハイデガーは「語り」の日常的形態と規定する。一般に「語り」は伝達という性格を持つ。伝達とは、端的に言えば、ある存在者の開示を他者と共有することである。この伝達が「おしゃべり」においてはある独特の様態をとる。それはこういうことだ。語り出された言葉に含まれている平均的な了解に従って伝達された「語り」はおおむね理解することができる。ただしそこで聞き手は、「語り」の主題となっているものを根源的に了解するというあり方までは入り込んでいない。人は語られている存在者を了解することなく、語られた内容だけに耳を傾けている。つまり、表面的に言葉尻をとらえている。これをハイデガーは「語られた内容そのものは了解されているが、語りの主題はただおよそ、適当に理解されているに過ぎない」。このような場合、非値は同じようなことを考えている。それは、人は言われたことを同様の平均性において理解しているからだ。このように「おしゃべり」は、語られた存在者への一次的な理解を喪失立あり方と特徴づけられる。ここでは、ある存在者に関わりながら、その存在者の真の「存在」に関心をもたないあり方と言える。このあり方が日常性では、むしろ真っ当で充実したあり方と捉えられている。同じようなことは「好奇心」や「曖昧性」にも当てはまる。「好奇心」とは、ただ見ることだけを「気遣う」あり方のことで、「好奇心」にとって見られたもの真に「了解」することは問題ではない。そして、「好奇心」は自分が何を見るべきかの示唆を「おしゃべり」から得る。そして、「おしゃべり」と「好奇心」が支配する日常性において、物事はあたかも真に了解されているように見えて、実はそうではない。このような事態が「曖昧性」である。人は、自身が携わっている事柄に真剣に興味を持っているように見えて、いざその事柄に立ち入って「了解」することが問題になると、そこからひそかに逃げてしまう。
 このように「おしゃべり」、「好奇心」、「曖昧性」によって構成された、現存在の日常的な現存在の開示性を、ハイデガーは「公開性」と呼ぶ。「公開性」において、存在者が誰にも近づくことができるものというあり方で提示されている。しかし、それにもかかわらず、その存在者の「存在」はそこでは完全に閉ざされている。この「公開性」こそが、「非本来性」における現存在の開示性を示している。
 「存在」は、ある固有の「時-空間」として生起する。「公開性」とは、「存在」が覆い隠されてしまい、根源的な「時-空間」が生起していない、ある意味で空虚な現存在の様態を捉えたものと言える。ここでの「時-空間」は差別化されていない、あらゆる存在者を無差別に収容するような「時-空間」である。現存在はこのような「公開性」において自己を失い、誰でもない者になる。それは、「公開性」において、現存在を真にその現存在として特定化する「存在」の生起が欠落しているからで、この日常的現存在がそうであるような誰でもない者を、ハイデガーは「世人」と呼ぶ。そして、このような現存在のありさまを「頽落」と呼ぶ。ハイデガーは「頽落」を「現存在が本来的に自己でありうることとしてのおのれ自身から離れ落ちること」であるという。つまり、「頽落」は「存在への問い」において、「存在」から脱落し存在者に没入した状態を指し、これは「本来性」がキリスト教での神への真正な関わりを「存在」への関わりとして捉え直したものであるように、「頽落」もキリスト教での人間の近ペン的な罪性、すなわち「堕罪」を現存在の本質構造に根ざした現象として捉え直したものと言える。
4.『存在と時間』の挫折
 『存在と時間』における現存在の分析は、最終的に現存在を時間性という観点から捉えることを目指していた。これまで見てきた議論は、そのための準備作業だった。ハイデガーは「時間性」を気遣いの存在論的意味と規定する。現存在の「存在」は「気遣い」として捉えられた。ここではさらに、この「気遣い」が「時間性」として捉え直されることが可能だという。現存在がおのれの可能性をおのれに到来せしめることを「将来」と呼ぶ。
 一方、現存在の「先駆的覚悟」とは、おのれの「負い目」を引受けることだ。この「負い目ある存在」を引受けることは、おのれがある固有の世界へ投げ入れられること、「被投性」を引受けることだ。これは、ある「世界」をすでにそうであったものとして受け入れることだ。「先駆的覚悟」には、「将来」における可能性を到来させることともに、「既往」も受容する。現存在は、おのれ固有の可能性をおのれへと到来させる「将来」において、おのれのもっとも固有な「既往」へと立ち帰る。つまり、このようにしかありえないというおのれの可能性を「将来」において引き受けるということは、そのような可能性を必然とする、おのれの「既往」の引受けであるということだ。まとめると、ハイデガーは「気遣い」から「時間性」の3つの契機、すにわち「将来、「既往性」」、「現在」を7取り出したうえで。「先駆的覚悟」における3者の関係をつぎのように説明する。「先駆的覚悟」は将来のおのれへと還帰して、現前化しつつあるおのれを状況のうちに連れ出す。このとき既往性は将来から発し、しかも既往する将来が現在をおのれ自身から解き放つ。そして、この既往し現前化する将来という現象が「時間性」といわれる。
 『存在と時間』における「時間性」の分析では、「将来」、「既往性」、「現在」が、それ自身において「おのれの-外へ」という構造を持つこと、すなわち、おのれを超え出るという構造をもつ。これにより、「時間性」の3つの契機「脱自態」と名づけられる。脱自態と言うからには脱する行く先をもっているはずだ。それを「地平的図式」と呼ぶ。この地平的図式は統一を形作っていて、これまで「世界」として論じられてきたものも、地平的図式の統一である。世界は、時間性の地平の統一として位置づけられているわけである。『存在と時間』では、この地平的図式の統一が「存在の意味」として最終的に結論されるはずだった。しかし、実際には、『存在と時間』は未完に終わってしまった。『存在と時間』では、人間を起点として「存在」への接近を図るという方法を採用した。しかし、この手順には大きな欠陥があった。人間の様々な無存在態様が根本において「存在」との関係性を示すものと解釈されるとすれば、そうした人間の存在態様の意味はあらかじめ「存在」が何を意味するかが明らかにならないかぎり、理解できない。つまり、『存在と時間』においてなされた現存在の分析は、探求によって解明しようとしているもの、すなわち「存在」が、探求の当初から前提とされているという循環論法に陥っていた。
 ただし、そもそも「存在」とは、われわれがすでに何らかの仕方で知っているものであり、「存在への問い」はそれを単に表立たせようするものであるので、循環論法は避けられないものであった。しかし、だからといって、そういう『存在と時間』の分析を我々が理解できるかと別のことだ。実際も多くの人は現存在の分析を単なる人間学として受け取られている。『存在と時間』における減損嗄声の実存論的分析の問題は、「存在の意味」が解明された時点で冗長になるという方法論的欠陥にとどまるだけでなく、そうした考察の手順そのものが。ハイデガーが「存在」として捉えようとした事象の本質を見誤らせてしまうというものだった。
 ハイデガーは『存在と時間』刊行後、減損嗄声の分析を経由して「存在」を明らかにするという問題点を明確に意識するようになった。そして、その後は、現存在の実存論的分析を介さずに、「存在」という事象を直接的に示すことを試みるようになる。

 

2023年10月 3日 (火)

轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(4)~第1章 「存在への問い」の概要

 ハイデガーの哲学は、終始、「存在」という一つの同じ事象を問い続けた。と言っても、最初から「存在」という事象に含まれるすべての要素を完全に見通していたわけではなかった。彼は生涯を通じて、「存在」に含まれる様々な契機を徐々に顕わにし、それらに適切な表現を与えてきた。したがって、彼が「存在」という事象によって何を捉えようとしていたのかは、彼の思索のプロセス全体を概観することによってはじめて明らかになる。つまり、部分を見ていても「存在」は見えてこない。
 著者は、ハイデガーを概観する前に、われわれが通常目の前に見出される事物を起点として、それ「がある」とか、それは何々「である」と規定するという仕方で存在を捉えているのは西洋哲学の従来の方法であり、これではハイデガーのいう「存在」は取り逃がされてしまうと指摘する。このような、存在を純粋で抽象的な実体として認識するというのではなくて、ハイデガーは「存在」には様々な異なる種別、例えば生物と道具では存在様式が異なるので、「である」や「がある」という捉え方ではその多様さが捨てられてしまう。そのうえ、様々な種別の「存在」は固有の場によって規定され、特殊化されている、つまり場所と不可分であることを強調する。したがって、このような「存在」を理解するためには、われわれ自身が、この場所におのれを晒し出して、その場所を何らかの仕方で理解していることが前提となる。ハイデガーの「現存在」は、このような場所へと関わり、場所によって規定される存在として人間を捉えようとするものであと言う。
 このようにハイデガーの「存在」の捉え方というのは、そのこと自体が、われわれ人間のあり方の変貌を伴う事態である。つまり、万人に妥当する普遍的真理を捉える理性を備えた人間という従来の人間観を捨て、場所によって規定され、同時にその場所を保護する現存在となることを求められる。言い換えると、普遍的理性を行使する主体から、場所によって規定されたあり方へと変わるということだ。
1.「存在」の意味
 著者は一つの例として、われわれが鳥をどのように認識しているかを考える。我々は、鳥について空を飛んでいるとか、木の枝にとまっているといった様態の鳥を見ている。われわれは、鳥を見るときは、飛んでいるとか木の枝にとまっているといったあり方で、あり方とセットで見ている。逆に、このようなあり方を一切伴わないで鳥を見ることがない。例えば、何もしていない鳥を思い浮かべてみよう。そんなことができるか、できるとしても何もしていないというのも鳥のあり方の一つであり、実際には酢で休んでいるなどということだったりする。ここでいうモノは、ハイデガーの言う「存在するもの/存在者」に当たる。そしてモノのあり方つまり存在様態がハイデガーが「存在」と呼ぶものである。だから、存在者と存在の区別とは、モノとモノのあり方の区別である。ここで注意すべきは、存在者と存在は、区別されながらも切り離すことはできないということだ。
 鳥の例に戻ろう。われわれは鳥を鳥が飛んでいるという様態とともに見ている。この飛んでいるのを捉えている場合、そこにはどこからどこへ(飛んでいる)の理解が含まれている。飛んでいるということには、どこから(すでに飛んでいた─過去)とどこへ(これから飛んでいく─未来)を含んでいる。すなわた、飛んでいることは、どこからどこへという過去と未来への広がりを持ち、目の前の鳥の過去と未来の地平を形作っている。たとえば、今、眼前を飛んでいる鳥は、少し前には巣にいたし、これから水辺に餌を捕りに行く途中だったりするわけだ。また、一方では、どこからどこへは、過去から未来という時間的な意味だけでなく、空間的な意味も示している。このように飛んでいるという現象を構成するどこからとどこへは、時間的な拡がりであるとともに空間的な拡がりでもある。すなわち、飛んでいることという現象は必ず、ある質的に差別化された固有の「時-空間」を伴っている。「時-空間」とは、ある存在者の存在とともに開かれる場である。鳥については、鳥の飛ぶこととともに同時に開かれる場である。すなわちそれは鳥が飛ぶという事態が起こりうる固有の「時-空間」として、鳥の「存在」と不可分である。そのような「時-空間」は鳥の種類によって異なるだろうし、また鳥とは異なる存在者の「存在」が生起する「時-空間」とも異なる。このように鳥が存在するとは、ある固有の「時-空間」が開かれることそのものを意味する。この「時-空間」こそが「世界」と呼ばれるものだ。これが、ハイデガーが「存在への問い」で捉えようとした「存在」である。
 以上のような意味での「存在」は従来の哲学では全く問題にされなかったと言う。つまり、ハイデガーの「存在への問い」は過去に問われたことはなかった。では、それまでの哲学は、「存在」をどのように捉えてきたのか。伝統的な哲学は、前述のように、目の前に見出される存在者から出発して、それ「がある」とか「である」と規定する場面で捉えるというものだった。つまり、存在者が現在、眼前に出来しているという眼前性が存在の意味だとしてきた。ここでは鳥と石は眼前に出来する存在者である限りでは、その存在という点では変わりないことになる。ここでは鳥とか石という固有の存在は最初から視野から抜け落ちて、鳥が存在することが単に鳥というモノが目の前にあるということに切り詰められてしまうのだ。これに対して、ハイデガーは存在者と同時に存在者の種別に応じたあり方を存在として問題にしている。存在を固有の「時-空間」の生起そのものとして捉えようとしているのだ。鳥の存在は、ある特定の「世界」つまり「時-空間」に即した、ある特定の様態をとっているということだ。鳥は飛んでいるというあり方とともに捉えられる。飛んでいるのはどこからどこへという「時-空間」を生じさせ。そのどこへは「餌を捕る」ことになり、その餌を捕ることは鳥の種類に応じて、虫を捕ることであったり木の実をつつくことであったりする。このように餌を捕ることは、その都度特定の「世界」と結びついている。つまり、特定の世界と不可分なのである。ハイデガーにとって、「存在」とは誰にとっても共通なものではなく、「場所」に規定されたものだ。ハイデガーの土着性や故郷やフォルクをめぐる言説はこのような「存在への問い」と深く関係している。これに対して、存在とは共通なもの、普遍的なものという捉え方が伝統的な西洋哲学の存在理解のあり方である。今日の我々が前提としている西洋的な知の普遍性というのも、実はこうした知によって開示された存在が普遍的であるという想定に基づいている。ハイデガーの考え方はそうした知の普遍性のあり方に異を唱えるもので、そうしたスタンスこそが政治性を備えることに繋がっていると著者は言う。
2.ハイデガーの真理論
 伝統的な哲学では、真理はものと知性との合致であるとされてきた。ここでいうものは、伝統的な哲学の眼前に出来した存在者のことである。知性とはものについての表象、すなわち言明である。言明がもののあり方に合致していることが真理とされている。言明が知性の産物であることから、真理は知性に拠っている。これに対して、ハイデガーは存在者が立ち現われていることそのものを真理だとする。そしてこれを非隠蔽性と表現した。彼は、この真理概念を古代ギリシャのアレーティアという真理概念を継承するものだという。アレーティアとは隠蔽を除去することを意味する。真理とは何かが隠れなくあらわになっている事態を指す。
 ある存在者が立ち現われているとき、同時に「存在」が生起してくる。しかも、このような「存在」の生起は「時-空間」の拡がりそのものでもあった。存在者が立ち現われているという非隠蔽性には、このような意味での存在の立ち現われがある。このように、ハイデガーが真理について語る場合、そこに二重側面かある、と著者は注意を促す。彼は真理を存在者の立ち現われという場面で押さえる。しかし他方で、この存在者が立ち現われの根底に「存在」の開示が生起していることに注意を促し、こちらも同じように「存在」の非隠蔽性という意味で真理と呼ぶ。前者は存在者の非隠蔽性としての真理とし、後者を存在の非隠蔽性としての真理とし、とくに後者を真理の本質と呼んでいる。ここで注意すべきは、存在者の非隠蔽性が生起しているとき存在の非隠蔽性は、たいていの場合、見落とされてしまっている。隠れているのだ。これを著者は「地」と「図」の関係に擬える。「地」は「図」に対して目立たないが「図」を際立たせる。存在は、「地」のように隠れていて、現われている。
 我々は、普通、真理というと、学問的考察によって獲得される知のようなものを想定する。しかし、このような真理観は、伝統的哲学による正当性としての真理という捉え方に準拠したものにすぎない。ハイデガー的な真理観はこれとは異なる。存在者がおのずと立ち現われてきて、有無を言わない仕方で人間を圧倒し規定する出来事そのもののことを指している。このような存在者の立ち現われにおいてある固有の「時-空間」が生起し、それが人間を捉えるという事態、それをハイデガーは真理との根源的意味と見なすのである。
3.人間の本質の捉え直し
 これまでに述べてきた「存在」や「真理」の捉え方の変化は人間のあり方自体の変化をもたらすということが想定されている。「存在への問い」において人間は、「存在」が生起する「場」と規定される。そしてこの「存在」の生起の「場」であるということに応じて人間は「存在」を「気遣い」、「見守ること」をその本質としてもつとされている。
 「現存在」という名称も、人間を「存在」生起の場として捉えることに基づいている。現存在の原語Daseinというドイツ語は“何かがそこにある”という動詞で、ハイデガーが人間を「そこにある」ものとして、この場合の「そこ」は「存在」が生起する場を指している。人間は、この場のうちにおのれを見出す存在者であることを現存在という用語によって表現されているのである。ただし、この「場」というのは、単に「そこ」と指差すことができるような空間に位置を占めることを意味するわけではない。「場」とは、そこにおいて存在者の「存在」が生起し、我々に、それに対して何らかの形で応答することを迫ってくるような場所である。言い換えれば、我々がそれぞれに直面する現場とか状況と言ってもいい。したがって、現存在には「そこ」に投げ出されているというだけでなく、「そこ」に立ち会い、「そこ」を覚悟して担うという能動的な面もある。このように、現存在は人間を「存在」の生起する「場」として捉えるものだ。人間というのは、おのれとは異なる存在者が「存在」によって規定されている。つまり、人間が人間であることの根拠は、人間それ自身のうちにはなく、自分にとって他なるもの、すなわち「存在」の生起のうちに見て取るということになる。
 このような人間の捉え方は、人間を理性を備えた動物と捉える西洋哲学の伝統的人間観に意識的に対置されるものだ。

 

2023年10月 2日 (月)

轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(3)~序論

 ハイデガーは『存在と時間』で自身の思想的立場を表現するに当たって現象学や解釈学など既存の哲学的方法に依拠した。またそこで扱われた思想的モチーフには、過去や同時代の哲学者から引き継がれたものが多かった。この本には、他の哲学者から受けた影響が分かりやすい形で示されている。それゆえ、何を言っているかがまったく意味不明な好機の著作と比べると、『存在と時間』は相対的に理解しやすいように感じられる。この一見分かりやすいことから、『存在と時間』はハイデガーの著作の中でも唯一無二の人気を誇っている。一方、『存在と時間』は頽落とか世人という人間の非本来的なあり方、またそれとは対極的な死への先駆、覚悟という本来的なあり方について語られているので、人々は思い思いの仕方で現代文明批判や人生論をそこから読み取ろうした。このような特色から、『存在と時間』の読者は「存在の意味の解明」という本来の意図には触れることなく、好みの主題を引き出して論じることができる。ところが、『存在と時間』刊行後のハイデガーは「存在への問い」を独自のコトバで語るようになる。そうなると、『存在と時間』の表現に慣れ親しんだ読者は、彼が何だか訳の分からないことを語り出したように感じてしまう。そして、後期のハイデガーは秘教的とか神秘主義的などと評するのだ。著者は、『存在と時間』の人気は、「存在への問い」、ひいてはその固有性を前面に押し出した後期ハイデガーへの無関心と表裏一体のものだという。
これって木田元のハイデガー解釈の批判と言ってもいい?

2023年10月 1日 (日)

轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(2)~はじめに

 著者は、現代のハイデガーの受け入られ方が第2次世界大戦時のナチスに加担したとしてタブーのようになっていて、日本だけが例外的にハイデガーへの興味が高いという。著者もハイデガーとナチスの関係を否定しない。むしろ、彼のナチスへの関与は、彼の哲学全面的に基づいたものだった。ハイデガーの試作の根本課題は「存在への問い」であり、この「存在」は、彼にとってはフォルク共同体を基礎づける意味を持っていた。フォルクはドイツの国民車フォルクスワーゲンのフォルクであり、民族とか国民とか民衆などと訳されるが、正確ではない、ドイツの伝統的共同体の意味合いがあるので、フォルクという表記をあえて使っている。ドイツは第1次世界大戦に敗戦し、その復興においてフォルクの再生が叫ばれた。ハイデガーの哲学も、このような時代背景の下で、知の刷新によりフォルクを新たに基礎づけようとする試みであった。つまり、彼は「存在への問い」においてフォルク共同体の真の根拠となるものを追求していた。彼が、当時の学生たちの間で絶大な人気を誇ったのは、そのためである。この彼を支持した学生たちは、一方で、ナチスがフォルクの再生を唱える政治勢力として台頭してきたのに対して、支持するようになっていった。つまり、フォルクの再生という点で、ハイデガーの思想とナチスには共通性があった。ナチズムには哲学的に確定したものではなく、自らの力でその内実を変えることができると、ハイデガーは考えた。彼は、自身のフォルク概念に依拠して、ナチズムの人種主義イデオロギーを解体しようとしたのだった。しかし、彼の試みはすぐに行き詰った。それゆえ、ハイデガーのナチス加担を理由として、彼の思想的業績をすべて否定してしまうと、そのことによってナチズムの弱点を根本から剔抉する思想的立場を手放すことになってしまう。しかも、ハイデガーによると、ナチズムはドイツにおける一時期の得意な事象などではなく、むしろ近代的主体性、西洋の合理主義の究極的な帰結とみなされるべきものなのだ。この見方に従えば、ナチズム的なものはわれわれの社会を今なお暗黙のうちに規定していることになる。彼の思索を否定するということは、現代社会に潜むナチズム的なものを見過ごし、さらには助長してしまう危険に晒されたままになることを意味する。
 このようなハイデガーの思想の核心は、前述のとおり「存在への問い」にある。彼は、この「存在への問い」はこれまで問われることのない、今までの哲学では語られたことがなかったという。それゆえ、「存在」を適切に語る言葉を、ハイデガーは一から創り上げていくことを余儀なくされた。たしかに、以前にも存在についての考察はあった。しかしそれは、目の前に対象として見いだされた対象物について、その属性を捉えようとするものでしかなかった。これに対して、ハイデガーは事物の存在とは固有の場所や環境と切り離すことはできないという。この意味で、存在を事物のみに注目する従来の哲学の根本姿勢とは違って、場所と不可分に事物の存在を思索するという姿勢の変更(彼は転回と呼んでいる)を促すものであった。このようにして、ハイデガーの思索は、従来にない新たな姿勢で、存在を的確に表わす言葉を探し求めるという試行錯誤を繰り返しながら、その表現をつねに変えていくという性格を持つようになる。そのことが、彼の、特に、後期の著作を難解なものとされ、前期の『存在と時間』が従来の言葉遣いが見られるので、それを彼の主著として、彼の思索を捉えられるという誤解を広めてしまった。と著者は言う。

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