轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(5)~第2章 前期の思索
第2章は『存在と時間』の思想を概観する。最初に著者は、『存在と時間』における「存在への問い」は根源的な神性への問い、つまり「神の本質とは何か」という問いの延長線上にある、という仮説を提示する。著者は『存在と時間』の基本動機を次のように提示する。すなわち、現存在は、もともと、人間を「存在」が生起する場として捉えた概念だった。ハイデガーは『存在と時間』では、あらかじめ「存在」と現存在の関係を、このようなものとして捉えた上で、現存在のあり方を分析し、それが「存在」との関係性を示すことで、読者を「存在」に導こうとした。ところが、実際に、『存在と時間』は「存在」を正面から取り上げる前に中断してしまった。そのため、『存在と時間』の刊行された部分では現存在の分析だけで、それが「存在」との関係性を示しているのだという種明かしがされることがなく、宙に浮いてしまうことになった。そのため、『存在と時間』をもっぱら人間学として捉えるような解釈傾向が一般的になってしまった。
そこで、著者は、そういう一般的傾向に逆らって、『存在と時間』で扱われている現存在の諸契機が、すべて「存在」との関係性にかかわっていることを考慮することで、はじめてその意味が分かることを示すという。
1.『存在と時間』への道
著者は、前章で「存在への問い」は根源的な神性への問いであるという仮説を示した。『存在と時間』では直接、神に触れてはいない。伝記的な事実では、ハイデガーは当初、カトリック教会の資金的な援助により学業を続けることができ、大学生時代はキリスト教神学の研究を行った。その後、しんがくに飽き足らなくなり、哲学に転向したとされている。
しかし、著者は、そもそもハイデガーの思索の出発点には、人間が意のままにならないような何ものか、すなわちそれに対しては人間は主権者ではありえないような絶対者、至高者が存在するという直観があった。これが当初は神学研究の枠内で「神」として問題にされていたが。やがては「存在」として捉えられることになった。このように、ハイデガーの「存在への問い」は神への問いと密接に結びついている。しかも、ハイデガーによる神の本質は、単に「存在への問い」と結びついているだけではなく、もともと「存在への問い」は「神性への問い」に由来するものであると、著者は指摘する。
ハイデガーはドイツ南部の田舎の出身で伝統的なフォルクが残された環境の中で育っている。そこから都市に代表される近代主義の個人主義や世俗化された信仰を失った人々に批判的だった。彼の近代主義批判は、当初の彼の学問の基本的方向性を規定することにもなっている。当時(1916年ごろ)のハイデガーの論考には伝統的なカトリック神学を超えて同時代の宗教心理学にも関心を向けていたことが示されている。宗教心理学は信仰を個人の経験に還元し、宗教的事実としての啓示を否定する傾向にあり、否定的されるべきはず。じっさい、神的なものに本来備わっている超越性を主観的なものへと解消することには反対していた。しかし、彼は、神的なものの超越性を認めつつも、それについての直接的な経験の可能性も否定しない点で、一部、これを受け入れていた。彼が必要としていたのは、主観的経験に定位しながら、同時に神的なものを主観性を超え出た超越的なものとして捉えることを可能にするような哲学的な立場だった。この求めにこたえるものとして、彼が注目したのはフッサールの現象学だった。だから、ハイデガーはフッサールのなかでも心理主義を批判する『論理学研究』を重視し、その後の『イデーン』には関心を持たなかった。このことから、ハイデガーは現象学を神的なものの超越性、独立性をあくまでも尊重しつつ、それが我々にとってどのように経験されるかを記述する方法と捉えていたことに基づいている。このような彼の立場からすると、『イデーン』の超越論的意識による対象の構成を強調する姿勢は、神的なものの超越性を主観的意識に解消してしまう、近代の主観主義への退行に見えたのだろう。だから、ハイデガーとフッサールとは、当初から隔たりがあったと著者は言う。
ハイデガーは1920年代前半に講義でアリストテレスを繰り返し取り上げている。ハイデガーのアリストテレス等によって確立された古代ギリシャの存在論が、もともとは事物についての存在論であったことに注意を促す。彼は、人間の存在を「事実的生」と呼んでいる。彼は、この言葉によって人間ひとりひとりが、それぞれ固有の経験、状況をもち、それこそが人間存在の実質をなすことを強調しようとした。しかし、古代ギリシャの存在論は、人間を目の前に見出される単なる事物として捉える。そしてこの人間固有の存在に神的なものへの関係をもまた含まれているとすると、事実的生を適切に主題化できない存在論は神的なものも人間の経験に即した形では捉えられないことになる。このような性格を持つ古代ギリシャの存在論が、キリスト教神学の基礎となっている。ハイデガーは、キリスト教神学がギリシャの存在論を基盤とするものである以上、事実的生をその本来のあり方を隠蔽したとしてカトリック神学を批判的に見るようになっていった。彼が、1920年代前半にアリストテレスの哲学を繰り返し取り上げたことの背景には、このような古代ギリシャの存在論の限界を指摘し、その適用範囲を限定しようとする意図があった。ハイデガーは事実的生には神との関係が本質的に属しているとみなしていた。したがって事実的生が捉えられないということは、そこに属する神的なものの本質も捉えられない。その意味で、アリストテレスを全否定することはでない。したがって、アリストテレスを取り上げたのは神的なものの存在を的確にとらえる目的から為されたものだった。そのことから、『存在と時間』における「存在への問い」は、「神性の本質への問い」の延長線上に位置づけられる。「神性の本質への問い」を突き詰めた結果、それを的確に捉えることのできる存在論的な基礎を確立する必要性を認識した。つまり、「神性の本質への問い」はまずもって「存在への問い」として遂行されねばならない、というわけだ。
2.現存在の実存論的分析
『存在と時間』では、「存在への問い」は具体的にどのように行われたのだろうか。
そもそも「存在への問い」には、本質上、次の二つの課題が含まれていたはずだと著者は言う。すなわち、第一に、「存在」の根源的な意味を明らかにすること、第二にそのようにして解明された「存在」の根源的な意味を基準として伝統的存在論の存在理解の特徴を明らかにすることである。『存在と時間』の第1部は「現存在の時間性に向けての解釈と、存在への問いの超越論的地平としての時間の解明」と題されている。第1部の目標は「存在への問いの超越論的地平としての時間の解明」、すなわち「存在の意味」を時間として解明することだった。この表題の前半部「現存在の時間性に向けての解釈」は、この「存在の意味」を時間として解明するという目的のための準備として行われる現存在の分析のこと指している。つまりり、『存在と時間』では、まず現存在が時間的な存在であることが示されたうえで、今度はその時間性が、現存在という場で生起する「存在」の時間的性格の反映であること、つまり「存在」の意味が時間であることが明らかにされるという構成になっている。これに対して第2部は「テンポラリテートの問題性を手引きとした存在論の歴史の現象学的破壊の基本的方向性」と題されていた。ここでは、「存在」の根源的な意味が時間であるという観点から、伝統的な存在論で論じられてきた存在の基本的な特徴を明らかにして、その限界を確定する予定であった。しかし、実際には『存在と時間』第2部は存在していないし、第1部の後半部分、すなわち存在への問いの超越論的地平としての時間の解明は行われなかった。行われたのは、第1部の前半部分、現存在の時間性に向けての解釈だけだった。この現存在の存在をハイデガーは実存と呼んでいる。したがって、現存在の実存論的分析とは、現存在をその固有のあり方、すなわち実存に即して解明することを意味している。
このようにハイデガーが現存在の存在だけを先にしたのには方法論的な理由がある。つまり、「存在」がどのようなものかを明らかにすることは、我々が「存在」をどのように経験しているかを手がかりにするほかはない。人間はただ単に事物のように存在しているだけではなく、おのれ自身や他の存在者の「存在」について、の了解をもつという仕方で存在している。このような「存在了解」をもつことが、人間存在の固有性なのだという。人間が存在了解をもつということは、人間には「存在」が与えられているということ、すなわち人間が、「存在」が生起する場であるということだ。ハイデガーは人間のそういう特質に注目して現存在と呼んだ。したがって、現存在が「存在」が生起する場である以上は、現存在を分析すれば「存在」を明らかにできるというのが当初の考えであった。これをハイデガーは存在基礎論と呼んでいる。
現存在の実存論的分析では、まず、現存在の存在が「世界-内-存在」と想定される。その、その上で内の「世界」が分析される。「世界」とは、存在者の「存在」とともに生起する「時-空間」を指している。つまり、存在者の「存在」を捉えるということは、ある意味では、その存在者が見出される「時-空間」としての「世界」そのものを捉えるということになる。『存在と時間』では、これを道具を例にして説明する。ハンマーは釘を打つための道具であり、釘を打つのは何かを固定するためであり、何かを固定するのは風雨を防ぐためであり、風雨を防ぐのは人間が宿るためである、という指示連関がそこでは成り立っている。ハンマーはこのような指示連関のなかに、おのれの所在を持っている。そこで、手許にあるハンマーをハンマーとして捉えている現存在は、このような指示連関についての了解を持っている。この了解とは、現存在の宿るという目的のために固定することが必要で、固定するためには釘を打つことが必要で、その打つためにはハンマーが必要であるという連関を了解することである。現存在がハンマーを道具として捉えているときに了解し、そのうちにおのれを見出している場としての、この目的から手元のハンマーまで至る連関を、「世界」と呼んでいる。
次に「世界」の構造を分析する。ある存在者が存在するということは、固有の「世界」が生起することだ。したがって現存在は「存在」と不可分な「世界」のうちにおのれを見出す。このように、現存在は世界「のうちに」存在する。ハイデガーは現存在と「世界」との関係を「世界-内-存在」と呼ぶ。現存在が「世界」の内に存在するとして、この「うちに-あること」が、現存在のどのようなあり方で、何によって可能となっているのかを捉えようとする。世界のうちにあるとは、空間的な位置ではなく、世界を感受することに等しい。『存在と時間』では、この「世界」への現存在の関りを、「情態」、「了解」、「語り」という三つの観点から論じている。まず、「情態」は、「気分」、「気分づけられていること」、「感情」などとも言い換えられる。「情態」は「世界」に対する関わり方で、存在者が存在することにおいて形づくられる「世界」は、現存在が意のままにできるものではなく、有無を言わさず現存在に襲いかかってくるものだ。それは重荷であると感じられたり、逆に喜びとして感じられたりすることもある。このような気分のうちに「世界」の開示を見て取るというものである。「情態」とは、「世界」が今ここで開かれていることを意味する。そして現存在が「世界」のうちにおのれを見出す限りにおいて、「世界」の開示としての「情態」はおのれ自身の開示という意味をもつ。一般的には「情態」や「気分」を主観的なもの、意識の内的状態と捉えるが、ハイデガーは「世界」そのもののありようを示すものと位置付け、「世界」の実相を捉えるものとされる。つまり、「情態」とは「存在」の開示様態なのである。そのもっとも純粋で特徴的な情態が「不安」なのである。
次に「了解」は「情態」とセットで考えられている。つまり、「了解」は「情態」と同様に、「存在」ひいては「存在」が形作る「世界」に対する現存在の関わりを示す。一般に、了解しているとか分かっているという場合、その事柄に適切に対処できるということを含んで意味している。つまり、ある存在者の「存在」の可能性を分節化する、すなわちされを「了解」するということは、その存在者に対して適切に対処できるということを意味している。言い換えると、現存在は「了解」するという仕方で、ある存在者の「存在」に立ち合い、それを担うという、おのれ固有の「存在」をまっとうする。ということは、「了解」は目の前に現れ出ている存在者を超えた可能性の次元に関わっている。このような「了解」の創造的な性格を念頭において、「了解」は「企投」という特徴を持つとする。「企投」の原義はスケッチとか下図で、「了解」が存在者を超えた「世界」の下図を描き抗争するという性格をもつことを示している。この「企投」はわれわれの意志によって起こるのではない。むしろ意志なるものに先だって、おのずとすでにそのように「企投」してしまっているという性格をもっている。言い換えると、現存在は「世界」をそのように「企投」することへと投げ入れられてしまっている。「了解」は「情態」が「世界」が現出しているという事態を指すように、「了解」も、同じ事態を別の角度から捉えたものなのだ。「情態」が「世界」が現出しているということの有無を言わさない圧倒性を捉えたものだとすれば、「了解」は「世界」が一定の分節秩序をもつものとして与えられているという側面を表わしている。
最後に「語り」については、「情態的な了解」はつねに「語り」としてある。「情態的な了解」はそこに「世界」が立ち現われているという事態そのものを指していた。「語り」は、このような「世界」の生起に何らかの仕方で関わっていることを意味する。つまり、「世界」は「情態的な了解」において開示される。それが「語り」であり、その際には、不可避的に音声や書字などの物理的形態を身にまとう。これをハイデガーは「言語」と呼ぶ。言い換えると、「語り」の受肉したものが「言語」であるということだ。例えば、「カワセミが魚を捕っている」という発話があったとする。カワセミが魚を捕ることは、ある固有の「世界」が「そこ」で生起していることそのものを意味する。この発話で、このような「世界」が表明されているのである。しかし、この「世界」は「ヒヨドリが柿の実をつついている」という発話で表明されている「世界」とは別物だ。「カワセミが魚を捕っている」と「ヒヨドリが柿の実をつついている」という二つの異なる発話は、それぞれに違った「世界」がおのれを語り出している。ちなみに、このような立場から、ハイデガーは従来の言語論を「世界の語りを蔵する」という「言語」の本質的働きを取り逃がしていることを問題視する。伝統的な西洋哲学では「言明」あるいは「判断」が「言語」の基本形式とされてきた。この「言明」あるいは「判断」は、ある主語について術語的な規定をするものとして「SはPである」という仕方で表わされる。この「言明」では主語となる存在者はただ単に眼前にあるものにすぎないとされ、「世界」との関係性は無視される。例えばカワセミはある固有の「世界」において、ある固有のあり方をもつ生き物である。カワセミの「存在」はもともと「世界」との関係においてのみ無捉えることができる。カワセミが存在するということは、ある固有の「世界」が生起していることそのものである。しかし、この「言明」では、カワセミは単に目の前に現れている事物にすぎず、そこで生起している「世界」はまったく考慮に入れられていない。われわれは、このようにカワセミ固有の「存在」を知らなくても、事物として目の前に現われているカワセミについて、任意の観点から「それは何々である」というような術語的な規定を行うことができる。西洋哲学においては、言語表現は「世界」という特殊なコンテクストに依存することなく、誰もが理解できるものとして考えられてきた。それに対して、ハイデガーは、このような「言明」は派生的、二次的な言語の様式にすぎないと言う。彼にとって、「言語」は何よりも「世界」の「語り」を保存するものとして、「世界」に根ざしたものなのだった。
まとめると、ある存在者の「存在」とともに生起する「世界」のうちに現存在がおのれ自身を見出しているという事態が「情態」であり、そうした「世界」は同時に、現存在にとってある限定された可能性を課するものでもあって、このような可能性に対する関係性が「了解」として捉えられている。そして、この「情態」と「了解」において開示されている「世界」は、何らかの仕方でおのれを示さずにはおかない。この「世界」の自己表明が「語り」である。
ハイデガーは、このような現存在の本質を「気遣い」であると規定する。現存在の「現」とは「存在」が生起する「場」でもある。そのためには、ある存在者の「存在」の生起を邪魔することなく、「存在」にその固有性を自由に発揮させることが必要となる。「存在」を気遣うとは、このように、「存在」にその固有性を発揮させることである。ハイデガーは「気遣い」の構造を「(うち世界的存在者)のもとでの-存在として、おのれに-先立って-すでに-(世界)-のうちに-存在すること」と分節化する。具体的に言うと、「存在」を気遣うとは、おのれ自身を差し置いて、ある存在者の「存在」がその固有性において生起することを優先することを意味している。つまり、その存在者がもつ可能性の発揮を妨げることなく、むしろそうした可能性によっておのれが制約を受けることを許容するということだ。これが「おのれに-先立って」という規定に表われている。このように、「存在」を気遣うことのうちには、存在者の「存在」が自分では、存在者の「存在」が自分ではいかんともしがたいものとしてすでに自分を支配していることを認めるという側面が含まれている。これはすなわち、「存在」の生起そのものとしての「世界」のうちにおのれが投げ入れられていることを意味している。
このように「気遣い」とは基本的に「存在」を気遣うことだが、その「存在」とはまさにある存在者の「存在」である。したがって、「気遣い」には必然的に存在者との関わりも含まれている。しかし、むしろ「気遣い」のうちで、最初にわれわれの目に入ってくるのは、この存在者との関わりという側面の方で、我々は「気遣い」を存在者に関わることでしかないと短絡的に捉え、そこに潜む「存在」との関係を見落としてしまう。このような場合を「頽落」、「非本来性」と呼んでいる。
この「気遣い」についての議論は、「おそれ」や「不安」と同様にキリスト教神学を下敷きにしていると著者は言う。キリスト教において人間は神への気遣いのうちで生きることが推奨される。しかし他方、そうした気遣いが富や名誉といった世俗的なものへと向けられてしまう危険性もつねに指摘されてきた。現実には、人間の気遣いは後者に向けられてしまうので、それゆえにこそ、気遣いを神に向けることが推奨された。ハイデガーは、『存在と時間』において、もともとキリスト教神学の気遣いを、その文脈から切り離し、現存在一般の構造として解釈し直したのだという。ここで、神への気遣いが存在へ気遣いに捉え直され、そこで同時に、神の超越性が存在の超越性として読み替えられた。
ここまでの『存在と時間』の前半部で、現存在の固有性は、ある程度示されていたと言える。
3.「本来性」と「非本来性」
現存在とは、人間の本質を、存在者の「存在」が生起する場に立ち会うことを想定する概念であり、その在り方を「気遣い」と捉えられている。このことから分かるように、現存在とは「存在」に対する人間の本質的な関係を捉えた概念であり、そこでは、「存在」がどのような事象であるかがすでに前提とされている。ところが、『存在と時間』では、「存在」の意味が解明される前に現存在という概念が導入されてしまっている。つまり、前提が明かされる前に、現存在が提示されているというわけだ。そのため、現存在の本来の意味が捉えにくくなっている。
これは、「本来性」と「非本来性」という二項対立の議論にも言えることだ。「本来性」とは現存在が、おのれ固有のあり方を実現している状態を意味する。対して、「非本来性」はそうでない状態を意味する。現存在は「存在」の生起に立ち合い、それを気遣うことが本来的なあり方である。このような固有性を実現できていない状態が「非本来性」というわけだが、我々は、日常では現存在の固有のあり方から逃避している。この「本来性」と「非本来性」という区別は、『存在と時間』の現存在分析の根幹をなす区別である、と著者は言う。しかし、『存在と時間』の既刊部分では、「存在」について表立って論じていないため、この二つの概念の本来の意義も見えにくくなっている。その結果、「非本来性」はよくあるタイプの文明批判、つまり大衆社会に埋没して自分らしさを失ったあり方への批判というレベルで理解されることになる。また、「本来性」も、死と向き合いながら一瞬一瞬を大切に生きるあり方、世間には迎合せず自分らしさを取り戻した荒れ方というような、人生論として受け取られてしまう。
『存在と時間』第1部第1篇では、現存在の平均的日常性が、我々の身近なあり方が分析の出発点で、そこでは現存在の本質が覆い隠されている。そうだとすれば、平均的日常性の意義を捉えるためにも、まずは現存在の本質を押さえておく必要がある。したがって、「本来性」を前提にする必要がある。我々は、平均的日常性のうちにあり、それを自明のものとしているので、それ以外のあり方についてはイメージしにくい。そこで『存在と時間』第1部第2篇で、あらためて現存在の本来的なあり方を示そうとした。
このような問題意識のもとで、現存在が平均的日常性から脱して、本来的なあり方をとることを可能にするものとしてハイデガーが注目するのが「良心」である。ハイデガーは「良心」を「気遣いの呼び声」と規定する。「気遣い」とは現存在の本質そのものである。これは、現存在は常に「気遣い」というおのれの本質を成就することを「気遣い」によって求められているということだ。このような「気遣い」の要請こそが、「良心」の本質である。つまり、「気遣い」が、根本において「存在」を気遣うことそのものであるとすれば、「良心」とは結局のところ「存在」そのものによる、存在を気遣うように、という呼びかけと考えることができる。ハイデガーは「良心の呼び声」の構造を、「存在」に晒され「存在」に不安を抱く現存在が、「存在」によって「存在」へと呼び出されるという。現存在は、おのれが好き好んで選んだのではないようなあり方を課されていて、ほんらいはそれを引き受けなければならないのに、そこから逃避してしまう、そういう負い目を「気遣い」が含んでいて、「良心の呼び声」はその負い目を現存在に告知する。現存在が、この呼び声を了解するということは、負い目があるというおのれの本質を受け入れることで、このとき現存在は「良心を-もつこと」を選び取る。このように現存在は、つねに「良心の呼び声」が生起していて、そこから逃れることはできない。現存在にできるのは、この「良心の呼び声」を聞き届けるかどうかの選択だけで、この「良心の呼び声」つまり、負い目の告知に向き合うことが「良心を-もつこと」なのである。現存在は、根本的には「存在」を負わされているもので、そのことを自覚することが負い目を感じることになる。こうして、「良心を-もつことを-欲すること」、すなわち「覚悟」は、「存在」に対して開かれること、つまり「存在」を「気遣うこと」を意味する。著者は、この「良心」は、負い目のあるという性格から、キリスト教神学において人類が背負うとされる「原罪」が捉え直されたものであるという。
『存在と時間』の本来性をめぐる議論で、「良心」とならんで重要なものが「死へと関わる存在」である。多くの場合、この「死」をめぐる議論はむ、自分がいつでも死にうることを意識して、一瞬一瞬を大切に生きることが重要だといった通俗的人生訓を読み取って満足してしまう。それなら何も『存在と時間』をわざわざ読む必要はない。むしろ。それでは「存在への問い」の中で「死」がどのような役割を果たしているかが見えなくなる。『存在と時間』では、「死」は存在の意味の解明との関係において、はじめて捉えられるものなのである。
まず、厳然たる事実として人間はいずれは死ぬ存在であるということ。また、医療技術の進化等により、死は先送りできる、つまり、死をコントロールできるかのようにみなしている。ハイデガーは、このような死の本質の歪曲が、日常性を日常性たらしめていると言う。このような死を操作可能なものとして表象するということは、避けることのできない死の可能性に対する不安を覆い隠すものとして、そのこと自身が死への不安に基づいている。それは、われわれが死への可能性をつねに何らかの形で意識していることの現われ、つまりわれわれが「死と関わる存在」であることを示している。よく考えると、この「死へと関わる存在」の「死」は、現実にわたしのこととして出来する出来事ではない。自分が死んでしまっては「死」に関わることができないからだ。すなわち、ここで問題になっている「死」とは死の可能性のことだ。しかし、可能性と言っても。われわれはそれに対して、常に不安を感じ、何とかして払しょくしたいとするリアリティを認めている。ハイデガーは、このような可能性から身を背けることなく、直視することを「可能性への先駆」と呼ぶ。この「可能性への先駆」において「死」の可能性を引受けるということは、実際に死ぬこととは違う。「可能性への先駆」とは、あくまでも生き方の問題なのだ。日常においてわれわれは「死」の可能性から目を背けている。このような現存在の態度は、おのれの生の存続、自己保存を至上の価値とするからだ。だから、「可能性への先駆」において「死」の可能性を引受けるということは、自己保存の欲求から脱却すること、つまり自己放棄することを意味する。その結果、自己保存に固執しているかぎり入ってこない可能性が開かれる。それが、「おのれ固有の存在能力」と呼ばれ可能性である。これは、存在者の「存在」の生起に立ち合い、それを気遣うことである。このおのれでない存在者の「存在」を気遣うとは、その「存在」をある意味で優先する、つまり自己放棄という契機を含むものである。「死」とは、このような「自己放棄」の究極の様態である。したがって、「おのれ固有の存在能力」につねに開かれたままであるためには「死」の可能性を引受けなければならない。前述のように、「おのれ固有の存在能力」に開かれたあり方を「良心の呼び声に従うこと」、すなわち、「良心を-もつことを-欲すること」と規定していた。そうすると、「良心を-もつことを-欲すること」すなわち「覚悟」は事実上、「可能性への先駆」によって初めて可能になると言える。それはこういうことだ。われわれは「死」という究極の自己放棄の可能性を受け入れることができれば、それ以外の自己放棄の可能性とどんなものでも担うことができるだろう。逆に、われわれかさしあたりたいてい、「良心の呼び声」に従うことができないのは、それが自己保存の本能に反するからであり、「死」への恐れからである。
このように、ハイデガーが『存在と時間』で「死」を取り上げるのは、結局のところ、「死」に対する態度が「存在」に対する態度と表裏一体とみなされているからだ。ハイデガーは、われわれの生の一瞬一瞬が、「死」という自己放棄の究極の可能性に対する態度によって規定されていることに注意を促す。つまり、「死」は生の質そのものを決定するもの、その意味において、「生」の核心をなすものと考えられている。
以上が「本来性」についての議論だが、他方で、「非本来性」についてはどうだろう。『存在と時間』において、「本来性」をめぐる議論と並んで読者に強い印象を与えるのが、「世人」や「頽落」といった現存在の「非本来性」に関する議論だろう。
「存在」が生起する場としての現存在の開示は「情態」、「了解」、「語り」の三つから構成されていた。「本来性」が現存在の一つのあり方、すなわち現存在の開示性である。これと同じように、「非本来性」も現存在の開示性の一様態とみなすことができる。
ハイデガーは「非本来性」における現存在の開示性を、「おしゃべり」、「好奇心」、「曖昧背」の三つで特徴づけている。実の三つが一体となって「存在」に対してある独特の関係性を形作っている。まず、「おしゃべり」については、ハイデガーは「語り」の日常的形態と規定する。一般に「語り」は伝達という性格を持つ。伝達とは、端的に言えば、ある存在者の開示を他者と共有することである。この伝達が「おしゃべり」においてはある独特の様態をとる。それはこういうことだ。語り出された言葉に含まれている平均的な了解に従って伝達された「語り」はおおむね理解することができる。ただしそこで聞き手は、「語り」の主題となっているものを根源的に了解するというあり方までは入り込んでいない。人は語られている存在者を了解することなく、語られた内容だけに耳を傾けている。つまり、表面的に言葉尻をとらえている。これをハイデガーは「語られた内容そのものは了解されているが、語りの主題はただおよそ、適当に理解されているに過ぎない」。このような場合、非値は同じようなことを考えている。それは、人は言われたことを同様の平均性において理解しているからだ。このように「おしゃべり」は、語られた存在者への一次的な理解を喪失立あり方と特徴づけられる。ここでは、ある存在者に関わりながら、その存在者の真の「存在」に関心をもたないあり方と言える。このあり方が日常性では、むしろ真っ当で充実したあり方と捉えられている。同じようなことは「好奇心」や「曖昧性」にも当てはまる。「好奇心」とは、ただ見ることだけを「気遣う」あり方のことで、「好奇心」にとって見られたもの真に「了解」することは問題ではない。そして、「好奇心」は自分が何を見るべきかの示唆を「おしゃべり」から得る。そして、「おしゃべり」と「好奇心」が支配する日常性において、物事はあたかも真に了解されているように見えて、実はそうではない。このような事態が「曖昧性」である。人は、自身が携わっている事柄に真剣に興味を持っているように見えて、いざその事柄に立ち入って「了解」することが問題になると、そこからひそかに逃げてしまう。
このように「おしゃべり」、「好奇心」、「曖昧性」によって構成された、現存在の日常的な現存在の開示性を、ハイデガーは「公開性」と呼ぶ。「公開性」において、存在者が誰にも近づくことができるものというあり方で提示されている。しかし、それにもかかわらず、その存在者の「存在」はそこでは完全に閉ざされている。この「公開性」こそが、「非本来性」における現存在の開示性を示している。
「存在」は、ある固有の「時-空間」として生起する。「公開性」とは、「存在」が覆い隠されてしまい、根源的な「時-空間」が生起していない、ある意味で空虚な現存在の様態を捉えたものと言える。ここでの「時-空間」は差別化されていない、あらゆる存在者を無差別に収容するような「時-空間」である。現存在はこのような「公開性」において自己を失い、誰でもない者になる。それは、「公開性」において、現存在を真にその現存在として特定化する「存在」の生起が欠落しているからで、この日常的現存在がそうであるような誰でもない者を、ハイデガーは「世人」と呼ぶ。そして、このような現存在のありさまを「頽落」と呼ぶ。ハイデガーは「頽落」を「現存在が本来的に自己でありうることとしてのおのれ自身から離れ落ちること」であるという。つまり、「頽落」は「存在への問い」において、「存在」から脱落し存在者に没入した状態を指し、これは「本来性」がキリスト教での神への真正な関わりを「存在」への関わりとして捉え直したものであるように、「頽落」もキリスト教での人間の近ペン的な罪性、すなわち「堕罪」を現存在の本質構造に根ざした現象として捉え直したものと言える。
4.『存在と時間』の挫折
『存在と時間』における現存在の分析は、最終的に現存在を時間性という観点から捉えることを目指していた。これまで見てきた議論は、そのための準備作業だった。ハイデガーは「時間性」を気遣いの存在論的意味と規定する。現存在の「存在」は「気遣い」として捉えられた。ここではさらに、この「気遣い」が「時間性」として捉え直されることが可能だという。現存在がおのれの可能性をおのれに到来せしめることを「将来」と呼ぶ。
一方、現存在の「先駆的覚悟」とは、おのれの「負い目」を引受けることだ。この「負い目ある存在」を引受けることは、おのれがある固有の世界へ投げ入れられること、「被投性」を引受けることだ。これは、ある「世界」をすでにそうであったものとして受け入れることだ。「先駆的覚悟」には、「将来」における可能性を到来させることともに、「既往」も受容する。現存在は、おのれ固有の可能性をおのれへと到来させる「将来」において、おのれのもっとも固有な「既往」へと立ち帰る。つまり、このようにしかありえないというおのれの可能性を「将来」において引き受けるということは、そのような可能性を必然とする、おのれの「既往」の引受けであるということだ。まとめると、ハイデガーは「気遣い」から「時間性」の3つの契機、すにわち「将来、「既往性」」、「現在」を7取り出したうえで。「先駆的覚悟」における3者の関係をつぎのように説明する。「先駆的覚悟」は将来のおのれへと還帰して、現前化しつつあるおのれを状況のうちに連れ出す。このとき既往性は将来から発し、しかも既往する将来が現在をおのれ自身から解き放つ。そして、この既往し現前化する将来という現象が「時間性」といわれる。
『存在と時間』における「時間性」の分析では、「将来」、「既往性」、「現在」が、それ自身において「おのれの-外へ」という構造を持つこと、すなわち、おのれを超え出るという構造をもつ。これにより、「時間性」の3つの契機「脱自態」と名づけられる。脱自態と言うからには脱する行く先をもっているはずだ。それを「地平的図式」と呼ぶ。この地平的図式は統一を形作っていて、これまで「世界」として論じられてきたものも、地平的図式の統一である。世界は、時間性の地平の統一として位置づけられているわけである。『存在と時間』では、この地平的図式の統一が「存在の意味」として最終的に結論されるはずだった。しかし、実際には、『存在と時間』は未完に終わってしまった。『存在と時間』では、人間を起点として「存在」への接近を図るという方法を採用した。しかし、この手順には大きな欠陥があった。人間の様々な無存在態様が根本において「存在」との関係性を示すものと解釈されるとすれば、そうした人間の存在態様の意味はあらかじめ「存在」が何を意味するかが明らかにならないかぎり、理解できない。つまり、『存在と時間』においてなされた現存在の分析は、探求によって解明しようとしているもの、すなわち「存在」が、探求の当初から前提とされているという循環論法に陥っていた。
ただし、そもそも「存在」とは、われわれがすでに何らかの仕方で知っているものであり、「存在への問い」はそれを単に表立たせようするものであるので、循環論法は避けられないものであった。しかし、だからといって、そういう『存在と時間』の分析を我々が理解できるかと別のことだ。実際も多くの人は現存在の分析を単なる人間学として受け取られている。『存在と時間』における減損嗄声の実存論的分析の問題は、「存在の意味」が解明された時点で冗長になるという方法論的欠陥にとどまるだけでなく、そうした考察の手順そのものが。ハイデガーが「存在」として捉えようとした事象の本質を見誤らせてしまうというものだった。
ハイデガーは『存在と時間』刊行後、減損嗄声の分析を経由して「存在」を明らかにするという問題点を明確に意識するようになった。そして、その後は、現存在の実存論的分析を介さずに、「存在」という事象を直接的に示すことを試みるようになる。
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