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2023年10月 7日 (土)

轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(8)~第6章 ナチズムとの対決

 ハイデガーの「存在への問い」はそれ自身がフォルクの根拠の探求としてなされたものだった。つまり「存在」とは、ハイデガーの思索においては、あるフォルクをそのフォルクたらしめるものと解される。そして、フォルクの基礎付けは政治的含意がある。後期思想の「性起」としての「存在」が、フォルクを基礎づける「時-空間」という性格をもつということに加えて、主体性の形而上学の考察という形で近代国家の本質への批判が行われるのだ。
 ハイデガーの西洋形而上学の完成形態を近代の主体性の形而上学のうちに見て取り、これを近代国家の本質を成すものとみなす。そうすると、「存在の歴史」の思索としてなされる西洋形而上学批判は、近代国家の暴力性、破壊性を視野に入れ、その本質と起源を問うものであった。
1.近代国家としての「主体性」
 ハイデガーは「主体性」を近代の本質を規定するものと捉えている。近代を端的に主体性が支配的となった時代と規定するのである。その本質として次の2点を挙げている。人間が主体として存在者全体の中心におのれを位置づけ確保すること、そして、存在者全体の存在者性が制作可能で説明可能なものが表象されている状態と捉えることの2点だ。この時人間は存在者全体に対する完全な主権を確立する。
 たとえば、われわれは今日、あらゆる物事を役に立つか立たないかの観点から捉えることが習い性になっている。そこではすべての物事に関して、それが今日の経済社会における需給の連関に位置づけられるかどうかだけが問題とされ、その連関の中に位置付けられるものは役に立つものとして存在を認められ、位置づけられないものは役に立たないとして無存在を否認される。このような仕方で物事を捉えているとき、われわれは自分たちにとっての有用性という尺度を存在者に押しつけている。そしてそのことによって、我々は存在者の支配を確立する。つまりは主体となるのである。このような尺度(役に立つ、立たない)の付与について、これは真の尺度ではなく、真の尺度たる「存在」を隠蔽し、破壊するものであるという。このような主体が尺度を与える唯一の存在として支配するのが近代の本質であると、ハイデガーは言う。ここで注意すべきは、主体は、必ずしも個人や「私」だけを指すのではないということ。人間はおのれを、何らかの仕方で自律した人間集団として捉えるときも主体である。主体は、国民、フォルク、人種などとして捉えることもできる。むしろ。個人としてより集団としてこそ、本来的な意味での主体である。というのも、そのとき人間はあらゆるものすべて、作られ、生み出され、耐え抜かれ、勝ち取られるものすべてを自分自身に立脚させ、自分の支配のうちに取り込むという軌道に乗るからである。
2.ハイデガーの「コミュニズム」批判
 「主体性」は際限のない膨張を求める力として特徴づけられる。これは「主体性」が世界の支配と利用をどこまでも追求する存在である。力のもっとも基本的な性格として、それはつねにおのれの強大化を目指し、それ以外にはいかなる目標ももたない。それが、ある目標に到達したからといって、それが停止することは原理上ありえない。また自分以外の「主体」も自身と同じ性格をもつ力である以上、すでに到達した状態を維持するためにも、つねに自身の強大化をはからなければならない。つまり、力はつねに力であり続けなければならないものなのだ。
 ハイデガーはナショナリズムという現象を、「主体性」の帰結と捉える。そして、「主体性」の自己主張のための国民の動員が社会主義として運行されると言う。この場合の社会主義は国民社会主義すなわちナチスを暗に含んでいる。
 「主体性」の本質がおのれ自身の強大化を目指してやまない力にあることから、そのことが「主体性」相互の争いとして戦争が常態化する。すなわち、「主体性」がどこまでもおのれの力の拡張を目指すと、同じ性格をもつ他の主体はおのれの力の拡張を妨げるものとして障害となる。この主体どうしが争い合うことになるわけだ。この場合の戦争は、それ以前の戦争とは様相がことなる。力を確保するための戦争はどこかで停止したり、収束したりするものではない。そのため、つねに戦争状態が続くことになる。一見平和に見えても、戦争状態は続いているのである。
 「主体性」は力の拡張以外の目標を一切認めず、例えば、自由、道徳性、正義といったものが目標として掲げられたとしても、力の拡張に役だつかどうかの観点で選ばれたものでしかない。この力は、おのれの容赦ない拡張のために、いかなる措置も躊躇うことなく遂行できる献身的な人材を必要とする。そのとき力が利用するのは、もっともらしい大義や理念である。これに準じる人々はいかなる暴力行為も辞さない者となる。それが結局は力への無条件の全権委任ということになる。その典型がナチズムでありコミュニズムといった権威主義的国家であるという。
ハイデガーは、また、これに対して議会制国家は分権的であって暴力しようとは無縁であるから道徳的であるというのは皮相な考えだという。政治体制のこうした評価の仕方そのものが勢力拡張において有利な位置を占めるためのプロパティにすぎないという。
 今日、いかなる政治体制をとる国々においても、もっとも中心的な政治目標が経済成長に置かれ、その実現の正当性を保証するものと受け止められている。国家の経済規模が国力の指標である以上、経済成長を目標とするのは結局のところ、おのれの力の増進を目指すことでしかない。したがって、すべての国家が経済成長を至上の目標とすることのうちには、おのれの力の拡張をどこまでも追求する現代国家の同一性が表われている。しかもそこにおいて、単なる経済の絶対的な規模の大きさだけでなく、何よりも経済成長が重視されていることのうちに、ただおのれの伸長むのみを目指すという力の本質が如実に反映されているのである。

 

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