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2023年10月 3日 (火)

轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(4)~第1章 「存在への問い」の概要

 ハイデガーの哲学は、終始、「存在」という一つの同じ事象を問い続けた。と言っても、最初から「存在」という事象に含まれるすべての要素を完全に見通していたわけではなかった。彼は生涯を通じて、「存在」に含まれる様々な契機を徐々に顕わにし、それらに適切な表現を与えてきた。したがって、彼が「存在」という事象によって何を捉えようとしていたのかは、彼の思索のプロセス全体を概観することによってはじめて明らかになる。つまり、部分を見ていても「存在」は見えてこない。
 著者は、ハイデガーを概観する前に、われわれが通常目の前に見出される事物を起点として、それ「がある」とか、それは何々「である」と規定するという仕方で存在を捉えているのは西洋哲学の従来の方法であり、これではハイデガーのいう「存在」は取り逃がされてしまうと指摘する。このような、存在を純粋で抽象的な実体として認識するというのではなくて、ハイデガーは「存在」には様々な異なる種別、例えば生物と道具では存在様式が異なるので、「である」や「がある」という捉え方ではその多様さが捨てられてしまう。そのうえ、様々な種別の「存在」は固有の場によって規定され、特殊化されている、つまり場所と不可分であることを強調する。したがって、このような「存在」を理解するためには、われわれ自身が、この場所におのれを晒し出して、その場所を何らかの仕方で理解していることが前提となる。ハイデガーの「現存在」は、このような場所へと関わり、場所によって規定される存在として人間を捉えようとするものであと言う。
 このようにハイデガーの「存在」の捉え方というのは、そのこと自体が、われわれ人間のあり方の変貌を伴う事態である。つまり、万人に妥当する普遍的真理を捉える理性を備えた人間という従来の人間観を捨て、場所によって規定され、同時にその場所を保護する現存在となることを求められる。言い換えると、普遍的理性を行使する主体から、場所によって規定されたあり方へと変わるということだ。
1.「存在」の意味
 著者は一つの例として、われわれが鳥をどのように認識しているかを考える。我々は、鳥について空を飛んでいるとか、木の枝にとまっているといった様態の鳥を見ている。われわれは、鳥を見るときは、飛んでいるとか木の枝にとまっているといったあり方で、あり方とセットで見ている。逆に、このようなあり方を一切伴わないで鳥を見ることがない。例えば、何もしていない鳥を思い浮かべてみよう。そんなことができるか、できるとしても何もしていないというのも鳥のあり方の一つであり、実際には酢で休んでいるなどということだったりする。ここでいうモノは、ハイデガーの言う「存在するもの/存在者」に当たる。そしてモノのあり方つまり存在様態がハイデガーが「存在」と呼ぶものである。だから、存在者と存在の区別とは、モノとモノのあり方の区別である。ここで注意すべきは、存在者と存在は、区別されながらも切り離すことはできないということだ。
 鳥の例に戻ろう。われわれは鳥を鳥が飛んでいるという様態とともに見ている。この飛んでいるのを捉えている場合、そこにはどこからどこへ(飛んでいる)の理解が含まれている。飛んでいるということには、どこから(すでに飛んでいた─過去)とどこへ(これから飛んでいく─未来)を含んでいる。すなわた、飛んでいることは、どこからどこへという過去と未来への広がりを持ち、目の前の鳥の過去と未来の地平を形作っている。たとえば、今、眼前を飛んでいる鳥は、少し前には巣にいたし、これから水辺に餌を捕りに行く途中だったりするわけだ。また、一方では、どこからどこへは、過去から未来という時間的な意味だけでなく、空間的な意味も示している。このように飛んでいるという現象を構成するどこからとどこへは、時間的な拡がりであるとともに空間的な拡がりでもある。すなわち、飛んでいることという現象は必ず、ある質的に差別化された固有の「時-空間」を伴っている。「時-空間」とは、ある存在者の存在とともに開かれる場である。鳥については、鳥の飛ぶこととともに同時に開かれる場である。すなわちそれは鳥が飛ぶという事態が起こりうる固有の「時-空間」として、鳥の「存在」と不可分である。そのような「時-空間」は鳥の種類によって異なるだろうし、また鳥とは異なる存在者の「存在」が生起する「時-空間」とも異なる。このように鳥が存在するとは、ある固有の「時-空間」が開かれることそのものを意味する。この「時-空間」こそが「世界」と呼ばれるものだ。これが、ハイデガーが「存在への問い」で捉えようとした「存在」である。
 以上のような意味での「存在」は従来の哲学では全く問題にされなかったと言う。つまり、ハイデガーの「存在への問い」は過去に問われたことはなかった。では、それまでの哲学は、「存在」をどのように捉えてきたのか。伝統的な哲学は、前述のように、目の前に見出される存在者から出発して、それ「がある」とか「である」と規定する場面で捉えるというものだった。つまり、存在者が現在、眼前に出来しているという眼前性が存在の意味だとしてきた。ここでは鳥と石は眼前に出来する存在者である限りでは、その存在という点では変わりないことになる。ここでは鳥とか石という固有の存在は最初から視野から抜け落ちて、鳥が存在することが単に鳥というモノが目の前にあるということに切り詰められてしまうのだ。これに対して、ハイデガーは存在者と同時に存在者の種別に応じたあり方を存在として問題にしている。存在を固有の「時-空間」の生起そのものとして捉えようとしているのだ。鳥の存在は、ある特定の「世界」つまり「時-空間」に即した、ある特定の様態をとっているということだ。鳥は飛んでいるというあり方とともに捉えられる。飛んでいるのはどこからどこへという「時-空間」を生じさせ。そのどこへは「餌を捕る」ことになり、その餌を捕ることは鳥の種類に応じて、虫を捕ることであったり木の実をつつくことであったりする。このように餌を捕ることは、その都度特定の「世界」と結びついている。つまり、特定の世界と不可分なのである。ハイデガーにとって、「存在」とは誰にとっても共通なものではなく、「場所」に規定されたものだ。ハイデガーの土着性や故郷やフォルクをめぐる言説はこのような「存在への問い」と深く関係している。これに対して、存在とは共通なもの、普遍的なものという捉え方が伝統的な西洋哲学の存在理解のあり方である。今日の我々が前提としている西洋的な知の普遍性というのも、実はこうした知によって開示された存在が普遍的であるという想定に基づいている。ハイデガーの考え方はそうした知の普遍性のあり方に異を唱えるもので、そうしたスタンスこそが政治性を備えることに繋がっていると著者は言う。
2.ハイデガーの真理論
 伝統的な哲学では、真理はものと知性との合致であるとされてきた。ここでいうものは、伝統的な哲学の眼前に出来した存在者のことである。知性とはものについての表象、すなわち言明である。言明がもののあり方に合致していることが真理とされている。言明が知性の産物であることから、真理は知性に拠っている。これに対して、ハイデガーは存在者が立ち現われていることそのものを真理だとする。そしてこれを非隠蔽性と表現した。彼は、この真理概念を古代ギリシャのアレーティアという真理概念を継承するものだという。アレーティアとは隠蔽を除去することを意味する。真理とは何かが隠れなくあらわになっている事態を指す。
 ある存在者が立ち現われているとき、同時に「存在」が生起してくる。しかも、このような「存在」の生起は「時-空間」の拡がりそのものでもあった。存在者が立ち現われているという非隠蔽性には、このような意味での存在の立ち現われがある。このように、ハイデガーが真理について語る場合、そこに二重側面かある、と著者は注意を促す。彼は真理を存在者の立ち現われという場面で押さえる。しかし他方で、この存在者が立ち現われの根底に「存在」の開示が生起していることに注意を促し、こちらも同じように「存在」の非隠蔽性という意味で真理と呼ぶ。前者は存在者の非隠蔽性としての真理とし、後者を存在の非隠蔽性としての真理とし、とくに後者を真理の本質と呼んでいる。ここで注意すべきは、存在者の非隠蔽性が生起しているとき存在の非隠蔽性は、たいていの場合、見落とされてしまっている。隠れているのだ。これを著者は「地」と「図」の関係に擬える。「地」は「図」に対して目立たないが「図」を際立たせる。存在は、「地」のように隠れていて、現われている。
 我々は、普通、真理というと、学問的考察によって獲得される知のようなものを想定する。しかし、このような真理観は、伝統的哲学による正当性としての真理という捉え方に準拠したものにすぎない。ハイデガー的な真理観はこれとは異なる。存在者がおのずと立ち現われてきて、有無を言わない仕方で人間を圧倒し規定する出来事そのもののことを指している。このような存在者の立ち現われにおいてある固有の「時-空間」が生起し、それが人間を捉えるという事態、それをハイデガーは真理との根源的意味と見なすのである。
3.人間の本質の捉え直し
 これまでに述べてきた「存在」や「真理」の捉え方の変化は人間のあり方自体の変化をもたらすということが想定されている。「存在への問い」において人間は、「存在」が生起する「場」と規定される。そしてこの「存在」の生起の「場」であるということに応じて人間は「存在」を「気遣い」、「見守ること」をその本質としてもつとされている。
 「現存在」という名称も、人間を「存在」生起の場として捉えることに基づいている。現存在の原語Daseinというドイツ語は“何かがそこにある”という動詞で、ハイデガーが人間を「そこにある」ものとして、この場合の「そこ」は「存在」が生起する場を指している。人間は、この場のうちにおのれを見出す存在者であることを現存在という用語によって表現されているのである。ただし、この「場」というのは、単に「そこ」と指差すことができるような空間に位置を占めることを意味するわけではない。「場」とは、そこにおいて存在者の「存在」が生起し、我々に、それに対して何らかの形で応答することを迫ってくるような場所である。言い換えれば、我々がそれぞれに直面する現場とか状況と言ってもいい。したがって、現存在には「そこ」に投げ出されているというだけでなく、「そこ」に立ち会い、「そこ」を覚悟して担うという能動的な面もある。このように、現存在は人間を「存在」の生起する「場」として捉えるものだ。人間というのは、おのれとは異なる存在者が「存在」によって規定されている。つまり、人間が人間であることの根拠は、人間それ自身のうちにはなく、自分にとって他なるもの、すなわち「存在」の生起のうちに見て取るということになる。
 このような人間の捉え方は、人間を理性を備えた動物と捉える西洋哲学の伝統的人間観に意識的に対置されるものだ。

 

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