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2023年11月

2023年11月28日 (火)

コンスタンティン・シチェルバコフによるショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」

11113_20231128234001  ショスタコーヴィチという作曲家については、ソ連が現実に存在していた世代には「ヴォルコフの証言」などが想起されて、専制支配による監視社会で、体制への迎合する作品の創作を強制され、そういった作品の中に本音を潜在させるという屈折を読み取ろうとする傾向がある。15曲ある交響曲などは、今でも、そのような紹介をされ方がいまだにある。しかし、この「24の前奏曲とフーガ」とピアノ曲は、JSバッハのいわゆる「平均律クラヴィーア曲集」と同じタイトルをとっているように、バッハに倣った構成で、本音とタテマエといったような屈折はあまり感じさせられず、むしろ、フーガを複雑に織り上げることに嬉々としているような印象をうける。この作品を聞いていると、複雑にすることにたいする過剰な嗜好、複雑フェチとでも言いたくなるようなとこがある。本音とタテマエの屈折などというのは、作品を複雑にしたいという嗜好の現われのひとつではないかと思えてくるほど。
 ただし、この曲の初演者であるタチアナ・ニコライエーワによる録音は、恣意的に一部を強調的に浮き立たせて、フーガの複雑さを弾ききれていないところがある。このコンスタンティン・シチェルバコフの演奏は、フーガの複雑さをいかに響かせるかという表面的な効果に専心しているように聞こえる。若い頃のポゴレリチがスカルラッティやハイドンで演ったような軽い打鍵で、沢山の音を同じ時間に詰め込む表層的な戯れのような、それでいて軽快なノリのある。ショスタコーヴィチの音楽って、こういう性質のものだったのではないかと思う。

 

2023年11月25日 (土)

渡辺保「吉右衛門─「現代」を生きた歌舞伎役者」

11113_20231125230501  先日亡くなった二代目中村吉右衛門について、個々の舞台の劇評を重ねて、彼の芸風の特徴と魅力を浮かび上がらせた著作。単に名優とか豪快な立ち役といった抽象的なラベル貼りに終わらず、具体的な立ち居振る舞いや仕草が、どのように吉右衛門という歌舞伎役者の芸風をつくったかを具体的に明らかにしている。この人の文章は歌舞伎を見ていない私にも面白い。その理由は、文章が論理的に明快なこと。シンプルで、文章の関係が接続詞ではっきりしている。若い人が論理的な文章を習うのには、お手本になる。そして、劇評が個々の劇の良し悪しを言うだけではなく、そこに評者が歌舞伎の可能性や奥深さを随所に顕にしているところ。単に、あれが良かった、悪かったで終わることなく、この評者は何が良いのか、悪いのか、どうして良いのか、悪いのかを説明しようと努力している。当然、そこには、歌舞伎とは何かの根本的な問いかけが、そのたびに為されている。それが文章に現われている。また、素晴らしい舞台に接したとき、評者が役者の個々の立ち居振舞いに意味を発見しているところが凄い。一つの手振りの意味を解した事で、場面の重要性や登場人物の隠れた信条が、新たに明らかになって来るのは感動的ですらある。とくに、吉右衛門は、そういう細部に演じている人物の人間像が現われることに長けた役者だったことが、よく分かる。それは、歌舞伎というバロック的な形式主義の演劇に内面をもった人物をもちこんで、骨太なドラマを構築したものだった。著者は、そこに古典としての歌舞伎が現代的意味を持ち得たとして、新たな歌舞伎を発見し、そのことに感動する。そのこと自体が読み物として、とても興味深い。

2023年11月24日 (金)

東浩紀「訂正可能性の哲学」(9)~第8章 自然と訂正可能性

 一般意志は社会の外部に絶対的な力の源泉として君臨する。しかし同時に社会の内部から訂正可能なものでもある。これは一見矛盾している。例えば、ゲームのルールはプレイの外部に存在する。。プレイヤーはルールに一方的に従うしかない。しかし、ルールそのものは、プレイヤーの予想外のプレイや新しい提案によって柔軟に変更されるものでもある。ゲームにはむしろそのような訂正可能性によって持続する。一般意志をね静的で計測可能な集合的無意識としてではなく、動的に訂正可能な言語ゲームとして捉えることで、全体主義への傾きを封じこめ、『社会契約論』の日禹層を未来に拓くことができる。このダイナミズムとはどういうことか。
 ルソーの『社会契約論』は、もともと自然が善で文明が悪だといいながら、にもかかわらず社会契約説を引き継ごうとした。その結果、一般意志は人為の産物でありながら、自然の産物だと主張する他なくなってしまった。言い換えれば、一般意志は、自然と文明の二項対立を揺るがすような独特の歪んだ概念にならざるをえなかった。これはまた、ルソーの自然が抱える概念的なねじれとしても捉えることができる。ルソーが自然として称揚しているのは、田舎が本当の自然ではなく、人為的に制作された自然でしかないように、ルソー自身が制作したものなのである。一般意志は超越的でぜたぃ的な存在である。自然も超越的で絶対的な存在である。けれどもそれは同時に訂正可能性に開かれていなければならない。それは、ルソーにおいては、哲学の言葉によって理路整然と語られるのではなく、『新エロイーズ』という小説によって実践的に示される。それは、そういうものでしか語りえないと言えよう。それは小説を丹念に追いかけていくなかで徐々に示される。端的にいえば、真実とうその境界をなくすことで、はじめて自然は訂正される。そして自然が人工的かつ遡行的に発見される。ここには、人間のコミュニケーションへのルソーの深い洞察があるという。ゲームとゲームでないものを区別することは原理的に不可能であるように、人はも自然と自然でないものを区別することはできない。ルソーの言う小さな社会は人工的自然なのだ。人はしばしば、家族成国家なり企業なりの今の姿を、絶対で永遠に続くものだと信じる。でも現実には状況が変わる。家族にしても国家にしても企業にしても、いくらでも姿が変わる。むしろ、その柔軟性こそが共同体を持続させる。我々は、そのことを知っている。だから変化を歓迎する。けれどもやはり、自然が永遠だと信じていたものが訂正され、過去にさかのぼって書き換えられてしまうとき、同時に寂しさも感じざるを得ない。それがルソーの描いた感傷である。
 一般意志は、社会の外部な位置する絶対的なものであり、自然に比較される。しかし同時に社会の内部に位置し、文明によって訂正可能なものでもある。それでは、絶対的なものが同時に訂正可能なものであるとはどういうことなのか。そこで、ルソーの著作に戻り、その答えを『新エロイーズ』という小説に求めた。自然は、自然のまま放置すると、自然以外のものへと堕落してしまう。同じように一般意志は、一般意志のまま放置すると、一般意志以外のものに堕落してしまう。そこでルソーは、自然を自然のまま守り、一般意志を一般意志のまま守り、統治を健全なまま維持するためには、小さな社会という人工的自然を創出する必要があると考えた。『新エロイーズ』はそんな思想を寓話かするために書かれた小説だった。
 一般意志を単純に善だと理解すると、統治はその善さえ実現すればよいという単純な民主主義理解に導かれる。何度も繰り返しているとおり、その理解はいま人工知能民主主義として再来している。そこでは一般意志は、情報技術の支援によってデータとして把握可能な新たな自然=デジタルネイチャーとして捉え直され、それを可視化し、統治の原とすることが正しい民主主義につながるのだと信じられている。たしかにその解釈には一定の妥当性がある。しかしそれは、最先端の技術用語で語られていたとしても、本質的にはじつに古くさいルソー主義の再来である。常識的な哲学史の理解においては、ルソーこそが、自然は善で、文明は悪で、人間は自然に導かれてさえいれば幸せに生きてゆけると主張した。近代最初の思想家だったからである。落合などは自覚のないルソー主義者なのだ。

 

 

2023年11月23日 (木)

東浩紀「訂正可能性の哲学」(8)~第7章 ビッグデータと「私」の問題

 人工知能民主主義は訂正可能性を消してしまうので危険だと著者は言う。
 情報環境の進歩により大量のデータが収集できるようになった。キャシー・オニールによれば、ビッグデータ分析は代理データを利用したものだと批判する。例えば、ある人の資産状況をビッグデータ分析によって明らかにするとは、実は当人の資産そのものを調べることを意味せず、その代わりに、その人がどこに住んでいるか、誰と住んでいるか、どんなものを買っているか、誰と交流しているか等を調べ、類似した生活を送っている人々の資産状況と照合し、数学的なモデルを作って目的の人の資産状況を推測する。そこで利用されているのは、学歴、家族構成、位置情報から推測される住所、商品の購入履歴、ネットの閲覧履歴等のデータである。ここで注意すべきは、そのような代理データの判断は、数学的にいくら洗練されようと、本質は人間社会で古くから行われていた伝統的な推測と変わらないということである。高級車に乗っているから金回りがいいと推測する。オニールは、ビッグデータ分析では、「あなたは過去にどのような行動をとったのか」という問いが「あなたに似た人々は過去にどのようなこうどうをとったのか」という問いに置き換えられると指摘している。それゆえ、ビッグデータ分析は個人を対象とした予測はできず、群れを対象とした予測しか提供することはできない。これは裏を返せば、ビッグデータ分析は、例外を常に群れの一部として取り込み、その例外を消してしまうことを意味している。従って、ビッグデータ分析では、「私」の人生はどうあがいても「私に似た人々」の平均に呑みこまれてしまい、「私」は「私に似た人々」への差別や偏見からけっして自力で脱出できないのである。つまり、個人はビッグデータ分析から導かれるスコアを訂正することはできない。
 その理由は、訂正可能性の論理は固有名と連動していたのに対して、ビッグデータ分析は固有名を取り扱うことができないからだ。したがって、第5章で取り上げた落合が示しているような人工知能による効率的統治をするとすれば、ビッグデータ分析は個人に関わることはなく群れについての予測にとどまるので、個人の主体を問わないままに個人の自由を奪うことになる。そういう危険を著者は指摘する。このように人工知能民主主義には訂正可能性がない。一度定まって一般意志は正しいだけで訂正されない。

2023年11月22日 (水)

東浩紀「訂正可能性の哲学」(7)~第6章 一般意志という謎

 ここでは、ルソーが『社会契約論』で提起した一般意志について考察する。一般意志とは社会全体の意志のことである。しかし、これには大きな謎がある。
 ルソーはまず、人間は文明以前の自然状態では孤独に生きていたと仮定する。それでは強い外敵に対抗できないので、わたしはあなたに暴力を行使しないから、逆にあなたもわたしに暴力を行使しないでくれという契約を交わし、みなの暴力を一か所に集中させて、大きな強い集団、つまり社会をつくることになる。それが社会契約である。その社会契約が成立したとき、必然的に生まれる集団の意志として定義されている。ここで注意すべきは、一般意志は個人の遺志を集めたものではないということだ。ルソーは一般意志の他にも、特殊意志と全体意志という概念を導入している。特殊意志は個人の遺志を意味し、その特殊意志の集まりが全体意志だという。一般意志と全体意志の差異は公共性と関係している。私的利害を幾ら集めても私的利害でしかなく、特殊意志が集まった全体意志も私的な利害でしかなく、社会全体の公共的な利害を代表することはできない。これに対して一般意志には公共性があるという。著者は、この一般意志と全体意志の違いにこそ、民主主義の本質的問題があるという。
 民主主義あるいは民主制の原語であるデモクラシーは古代ギリシャに遡るが、人民が支配するという統治者の数を意味する言葉でしかなかった。それを劇的に変えたのが『社会契約論』なのである。そのカギとなったのが一般意志という概念の導入だったのである。
 個人の遺志が集まって集団の意志が生まれる。それは当然だが、現実には、そんな集団の意志に従うだけでいい政治ができるわけがない。そんなのは、現代ならポピュリズムと言われるだろう。それは誰もが知っている。それゆえ、ルソーは統治は一般意志に導かれるべきと言うためには、、一般意志の概念を全体意志から区別しておく必要があった。一般意志という名の新しい集合意志の概念を発明し、全体意志と異なり公共性が宿ることにすれば、それに社会が導かれても問題ない。『社会契約論4』には、そんなアクロバティックな概念操作が隠されていたのである。しかし、ルソー自身は一般意志と全体意志の区別については抽象的にしか語っていない。具体的差異は何も分からないのだ。
 著者は、遠回りのようだが、まずはルソーという人物に焦点を当てる。彼の伝記的事実を追いかけると、けっして哲学者になりたくてなった人物ではなかったことが分かる。かれは、哲学とは距離を置き、哲学以外の業績を多数残している。とくに文学での業績が大きい。とくに『新エロイーズ』や『告白』は新しい人間観を提示し、19世紀ヨーロッパを席巻するロマン主義の先駆とされている。ロマン主義とは、人間とはけっして合理的な強い存在なのではなく、むしろ情念に降りまわされ、他人を傷つけ、ときに自分自身すら壊してしまうような弱く不安定な存在なのであり、それ故に尊いのだという人間観である。ロマン主義は理性的な啓蒙主義への反動として位置づけられている。実際のルソーはロマン主義を地でいくような人物、著者は、現代ならコミュ症のメンヘラと形容されるような人物で、そもそも公共について考えるような人物ではなかった。一般意志という概念は、そういう人物の手によって導入された。
 ここで、おさらいとして社会契約はルソーが始めた考えではなかった。社会はなぜ存在するのか、統治する人々と統治される人々の区別がなぜあるのか。神が決めたというのは通用しない近代にヨーロッパで、それに答えたのが社会契約説だった。社会契約説は、王という特別の人物に権力が集中し、多数の人民がその支配に従わねばならないのは、かつて、歴史の起源において、人民の方こそ権力の集中を必要とし、相互に契約を結び王を選んだという理論である。この思想は近代史で決定的な役割を果たした。王の権力は人民が必要としたからこそ存在する。裏返せば、王の権力は、人民が必要としないなら正当化されない。つまり転覆してもよいということになる。革命はこの論理によって正当化される。
 そして、ルソーの社会契約論は、先行したホッブスやロックとは内実に違いがある。彼らは自然状態の人間は不安定で社会を形成してはじめて人間らしい生き方ができる。言い換えると、人間は孤独では生きてゆけない、いつ殺されるかもしれないし、いつ財産を奪われるかもしれない。だからこそ人々は社会契約を必要とする。これに対して、ルソーは、人間は自然状態の方が幸福だったと主張する。人間は孤独でも生きて行ける、むしろ孤独な方がよく生きることができると考えていた。それなら、社会契約など必要ないのではないか。それは、ルソーが一般意志を導入した理由でもある。ホッブスやロックでは個人が私的利害を守るために社会契約をするのだから、社会は特殊意志の集積、つまり全体意志からおのずと立ち上がってくる。だから全体意志だけで十分で一般意志は必要ない。ルソーは、そうではない。個人は自然状態で幸せに生きることができるのだから、社会契約は私的な利害から生まれる理由がない。特殊意志をいくら集めても社会は立ち上がらない。そこで、ルソーは全体意志と区別される一般意志という新しい概念を導入したのだった。これはまた、ルソーという人物のロマン主義的な人間観と深く関係している。コミュ症例のルソーとしては孤独でいる方がよかった、その彼が社会契約論を論じたのだ。では、なぜ彼は社会契約論を論じたのか。そこで視点を変えることを、著者は提案する。社会契約説と言えば、ふつうは、まず自然状態があり、次に社会契約が結ばれ、その結果社会が成立する。そういう順番で理解される。その視点を変えて、まず、社会が存在し、つぎにその起源として社会契約が見出され、結果として一般意志があたかも最初から存在していたものであるかのように仮設されるという遡行的な発見の過程が隠されていると見る。ホッブスやロックは、人は一人では生きられない、だから社会をつくったと考えた。これに対してルソーは、人はひとりでも生きられる、にもかかわらず社会を作ってしまったと考える。著者は、このルソーの発想には訂正可能性と深く関係していると指摘する。ルソーは社会契約は訂正によって遡行的に発見されるものだと考えていた。社会契約なんて、もともとは存在しない。しかし発見された後は存在するのだった。
 次に『社会契約論』には各構成員はすべての権利とともに自分を社会に譲渡するのだから、各個人は身体と能力を共同のものとして一般意志の指揮の下に置くのだと述べられている。つまり、契約は社会に絶対的な贈与をするものに変わっている。そうだとすると、市民は自由の対価を何も期待できないことになるからだ。
 ただし、ルソーは社会契約は贈与だとは述べていない。たしかに、社会契約によって、人は権利と財産をすべて社会に譲り渡す。しかし、彼はすぐそのあとで、それらの権利や財産はすべて社会による保護という形で戻ってくるので、各人は何も失わない。同じものが自分と社会との間を往復しただけなので、各人は何も失わない。にもかかわらず、その往復行為によって、社会が現れる。
 著者は、なぜこのようなアクロバットともいえる理屈をルソーが必要としたのかを考える。ホッブスやロックの場合と違って、ルソーの場合は、人は自然状態でも安全に生きることができる。だから、自由を提供して安全を手にするという交換は成立しない。言い換えれば、社会契約の後も、自然状態と同じ自由を有していなければならない。そうでなければ社会契約を交わすことなどありえない。だから、自然状態から社会契約への移行には必然性がない。にもかかわらず、それは起きてしまった。いちど、その移行か起きてしまえば、遡行的に社会契約を発見するほかはなくなる。ずっと社会契約は機能してきたと認める。このように遡行的に発見された社会契約は抽象的である。従って一般意志も抽象的であることに留まる。社会契約が成立している状態では個人の遺志は一般意志に等しくなる。もし、一致していなことがあったとしたら、それは個人の方が思い違いをしていると考えるべきだ。個人が一般意志に従うとは、そういうことだ。これは、裏を返せば、社会契約をめぐる遡行的な思考が、それを支える訂正可能性が忘れられたとき、政治的に危険なものに変貌することになる。
 一般意志は人間が作るものではなく、人間を超えたものだから、常に正しいという。例えば、自然による制約、それが正しいか否かを判断することはない。はれるときは晴れるし、山も川もそこにある。人は、その環境の中で行動するだけであり、晴れるのが正しくないと叫んでも意味がない。その点では自然は常に正しい。同じように一般意志も常に正しい。このように、一般意志が存在してしまっているのだとすれば、それは遡行的に見出されたものであると考えなければならない。
 このように議論してきたルソーの屈折は、21世紀の人工知能民主主義につながってくる。そして、そこに人工知能民主主義の弱点が現れる。18世紀のルソーが21世紀に結びつくには、二つの再解釈の契機があった。ひとつは無意識の発見であるという。端的に言えば、特赦意志そして全体意志は意識されるが、一般意志は意識されない。いわば意識より深い位置にいる無意識、鹿も無社会全体の集合的無意識のレベルにあるという。二つ目は統計の整備である。現在では統計的手法でデータを整備し、それに基づいて予測をするのは当たり前のことになっている。しかし、ルソーの時代は、統計的手法はおろか、正確なデータがなかった。しかし、一般意志の規定は統計について語ったものであるかのように読めるところがある。一般意志は人間の意志でありながら人間の秩序の外にあり、事物の秩序にちかい強制力を持っている。統計する個別の事象は個人の遺志によるものだとしても、全体の発生件数は正確に予測できてしまう。それはまるで人間の力の及ばない自然の制約のようだ。このような状況で、一般意志に個人は逆らうことができない、そこから訂正可能性を取り去ってしまうと、人工知能民主主義と結びつくという。シンギュラリティという夢想である。著者はそこに問題があるとする。
 ルソーは、人間が、一方では不平等な社会をうけいれつつ、同時にその同じ社会を憎みもする。たいへん都合のいい存在であることがよくわかっていた。社会契約を交わし、みずから自由を譲り渡しておきながら、同時にすべてを壊して自然へ戻りたいと叫ぶような身勝手な存在であることがよく分かっていた。『社会契約論』は人間のそのような二面性を前提に構想されている。だからこそルソーは逆に、一般意志は正しいと、つまり、一般意志はどんなことがあってもつねに遡行的にただしいとされてしまうものだと記さねばならなかった。ルソーの一般意志はつねに正しいという命題は、一般意志はつねに正しいとされてしまうという隠れた副命題とともに理解されなくてはならない。そしてその正しさは、つねに懐疑論者の出現によって訂正され続ける。政治とは、その訂正の場のことだった。一般意志は素朴に実在しない。それは、人間がつねにすでに巻き込まれている訂正可能性のゲームのなかで、遡行的に発見され、正しいものだとされてしまう。そのような逆説的な理念でしかない。そのようにルソーを読むことが、唯一民主主義の未来につながる道だと著者は言う。一般意志の抗争は訂正可能性の思想によって補われなければならない。

東浩紀「訂正可能性の哲学」(6)~第2部 一般意志再考 第5章 人工知能民主主義の誕生

 コロナ・ウィルス感染症は、一瞬で社会が崩壊する類の感染症ではなかったが、世界中で恐怖心を煽る報道が相次ぎ、各国は超法規的な強権発動を繰り返した。科学者や医療従事者の冷静な声も、大衆の恐怖を抑えることはできなかった。これは、この四半世紀もの間、情報技術の進歩と共に拡大し続けてきた過剰な人間信仰に対して、強烈な冷や水を浴びせかける経験だったと著者は言う。そして、現代の民主主義の困難は、この信仰と深く関係していると。
 これに先立つ2010年代は「大きな物語」が復活した時代だったという。大きな物語とは、人類は進歩しており、それについていくのが正しいというものだ。この物語の母体は情報産業論や技術論である。それを担ったのは起業家やエンジニアだ。そこで流行したのが「シンギュラリティ」という言葉だ。特異点と訳される英語で、人工知能(AI)が人類の生物学的なな知能を超える転換点、あるいはその転換によって生活や文明に大きな変化が起きるという思想を意味する。代表的な主唱者はアメリカの未来学者レイ・カーツワイルや、日本では落合陽一がいる。落合の『デジタルネイチャー』では、近い将来、世界のあらゆるところにセンサーが張り巡らされ、人流も物流もすべてがデータ化され、ネットワークを介してアクセスされ分析されるような時代がやってくる。そのとき、デバイスを通じて知覚するデータ環境が新たな自然として認識されることになる。それがデジタルネイチャーだという。そして、これからの政治やビジネスはこれを活用することになる。そこでは、人工知能により理想的に管理された社会が到来する。その時人類は、ひとにぎりの先進的な資本家=エンジニア層と、残り大多数の労働から解放された大衆層に分裂する。これは人類を、ひとにぎりのエリートとそれ以外に分ける社会像で、ある種の全体主義と言える夢想だ。
 しかし、パンデミックは、その確信に冷や水を浴びせかけた。感染抑制に人工知能やビッグデータを活用する試みは成果をあげなかった。その一方で、SNSはフェイクニュースや陰謀論の拡散を担ったのだった。
 これを政治思想において見てみると、2000年ごろから情報技術革命が言われ始め、ネットの出現は誰もが自分の主張を無料で世界中に発信でき、応答ももらえるという環境を生みだした。そこに新たな政治の可能性見出すのは自然なことだ。ネットにより、意識の高い市民が国境を越えて情報交換し、地球規模の民主主義が立ち上がる。しかし、スマホとSNSが生まれ、ネットの性質が大きく変化した。それ以前のネットは接続できる人は比較的少数でアクセス時間も限られていた。それがスマホとSNSにより誰もが常時アクセスするようになった。その結果は、民主主義を強化するどころか、多くの人は、話したい人とだけ話し、見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞くようになってしまった。その結果が陰謀論フェイクニュースであり、分断であった。思えば、落合もカーツワイルもコンピュータの進歩を語ってはいたが、それを利用することで人間ひとりひとりが賢くなるとは主張していなかった。彼らは、人類社会の全体が人工知能の力を借りることで、「群れ」として賢くなる可能性だけを考え、個人(例えば愚行を犯す人)は視野になかった。
 第2部では民主主義について考えていく。それを担う人間の統治能力そのものへの失望について検討する。このように失望を前提とした民主主義の構想を人工知能民主主義と呼ぶ。複雑になった世界では、もはや人間の貧しい自然知能に統治を任せることの方が危険で無責任であり、これからは民主主義を守るためにこそ、むしろ政治から人間を追放し、意志決定を人工知能に任せるべきと提案する政治思想のことだ。そして、この前提となる失望は最近のことではない。虫、近代民主主義の出発点、18世紀のジャン・ジャック・ルソーに遡ることができる。

2023年11月20日 (月)

東浩紀「訂正可能性の哲学」(5)~第4章 持続する公共性へ

 ここ10年、日本では左翼とかリベラルと呼ばれる勢力の凋落が続いている。概念の本質的意味からは保守とリベラルは対立するものではない。保守とリベラルを対立的に捉えるのはアメリカのものである。共和党は保守で民主党はリベラルだとする二大政党制の対立構造だ。これが成立したのは、社会主義や共産主義と言った左派が力をもつことがなかったためで、日本やヨーロッパのようにリベラリズムが左派に対抗して統一することなく、古典的なリベラリズムの側が保守で、現代的なリベラリズムの側がリベラルという独特の対立が成立した。1990年以降、冷戦の終息により左派の存在感がなくなり、左派とリベラルの対立がなくなり、替わってアメリカの保守とリベラルの対立が政治の場に輸入されてしまった。ただし、実質は変わらず、看板だけが変わったのだった。日本で、かつての左派がリベラルを標榜しているのは、そういうことだ。
 したがって、日本の保守とリベラルの対立は、保守主義やリベラリズムの実質とはあまり関係がない。両者は、いま人々が漫然と感覚している政治や社会へのふたつの異なった感覚への便利なレッテル貼りでしかなくなっている。両者に抽象的な政治目標の対立はなく、もっと感覚的な、例えば、弱者を救えという主張に対して、リベラルは広く普遍的な制度を志向するのに対して、保守は我々の中の弱者をまず救おうとする。この違いは、本書で述べてきた閉鎖性と開放性の対立に重なって見えてくる。保守は閉ざされたムラから出発する。それをリベラルは批判する。しかし、現実はリベラルだって別のムラを作ることしかできなかった。それなら、最初からムラを肯定する保守の方が強くなる。それが、現在のリベラルの退潮なのだ。
 このような前フリのあと、著者はリチャード・ローティを取り上げる。ローティはプラグマティズムから出発した人だ。プラグマティズムとは、真理とか正義といった抽象的な概念が現実のなかで果たす機能に注目する思想的立場のことだ。彼は、リベラル・アイロニズムと呼ばれる政治的立場をとっている。それは、公私の徹底した分裂を受け入れる立場だ。。ローティは自由で民主的な世界において自由は、けっして無制限な自由ではないことに注意を促す。好きな神を信じることができるし、革命の物語を夢見ることもできる。しかし、それはあくまでも個人趣味の範囲にういてである。それを超えようと夢を抱き、本当の社会変革を試みることは許されない。自由民主主義というものは、みながその限界を受け入れることでかろうじて維持されている。それがローティが強調していることである。このような自己矛盾を受け入れているた、アイロニズムと自称している。彼は、思想は私的な完成のため手段でしかなく、人々の連帯の基礎にはなり得ないという。彼が、連帯の基礎づけとして期待したのは共感や想像力だった。彼は言う、これからの連帯を支えるのは、我々が信じたり欲望したりしていることを、あなたも信じたり欲望したりしますかという信念に関わる問いではなく、あなたは苦しんでいますかという単純で身体的な問いであるべきだと。ローティは、思想や価値観の共有ではなく、目の前の他者が感じている苦痛への共感が連帯の基礎として有望だと考えた。これに対しては、普遍的な理念が支える連帯を信じないとして、リベラルの保守化であると大きな批判を受けたのだった。
 ローティは他人の人生の細部に対する想像力による同一化とよぶ、具体的な人生に対する具体的な共感を重視した。彼があげている例は、第2次世界大戦時に、ナチスの圧政に抗い、隣人のユダヤ人を匿ったり逃亡を助けたイタリア人やデンマーク人たちは、隣人が自分と同じミラノ人、ユトランド人であり、同じ職場で働いている、同じ幼い子どもを抱える親であるといった細部への同一化により連帯した、「わたしたち」が広くなったのであって、決して普遍的な人類愛とか正義に基づいて助けたのではない。ただし、ロ-ティはこのような「わたしたち」の範囲は偶然的だとも言う。わたしたちが日本に生まれたのはたまたまであり、日本人であり、日本的にものごとを考えるのは偶然のことで、必然性はない。だから、ローティは言う。われわれは、そういう根拠の不在を逆に利用して、共感の範囲をいくらでも広げることができるという。わたしたちの範囲の根拠は曖昧なのだから、他者への共感を介して、その範囲をいくらでも訂正できるはずだ。このようなローティのいう連帯は、前に提示した家族の構成原理の特徴、すなわち、強制性、偶然性、拡張性という三つの条件をすべて満たしている。ローティの思想は、閉じた社会に居直るものでも、開かれた社会を目指すものでもない、保守でもリベラルでもない、第三の「家族的な」政治思想を考えるうえで重要な参照点となる。
 第1部の最後に、著者は第1章で触れたハンナ・アーレントを取り上げる。主著『人間の条件』は公と私の境界を新たに引き直し、公的に生きることの重要性を訴えた書物だったという。彼女は、公共性に二つの異なった定義をしている。ひとつは「現われ」の定義である。公共の中に現われるということは、自分の行為が他人に見られ、聞かれるのを承認することである。見られ、聞かれたくないものは私的な領域に押し込めるほかない。公共性を開かれていることとする。もうひとつの定義が「共感」「共同」による定義である。人は自分の作ったものに守られて生きている。例えば家であり社会である。それらは個人が死んだあとも共通のものとして残る。だから公共性の基礎になる。彼女は、が多数集まるという複数性を政治的な生の必要条件としている。人は私的な領域では隠れている。これに対して公共においてはじめて現われる。それこそが人間が人間らしく生きるということだ。そこで、現われるとは、必ず他の誰かがいる空間に現われるということである。それゆえ、解放性としての公共性には、多数の人々を受け入れている共通の世界が用意されていなければならない。具体的な例として、古代ギリシャのポリスの広場という空間である。
 また、『人間の条件』では、公共性の定義に加えて、人間が活動的な生をおくるうえでの営為を、労働、制作、活動の三つに分類している。労働は肉体的な賃労働を、制作は職人的なものづくりを、活動は言語的なコミュニケーションを指している。彼女は、この三つの中で活動がもっとも重要だとする。人は活動を通してのみ公共に接続し、ひとりの人格として現われることができる。現代なら政治運動に参加とするとかそういうことだ。なぜ労働や制作は公共性に接続ではないか。彼女は、活動だけが自分が誰であるかを示し、その唯一の人格的なアイデンティティを積極的に明らかにする営為だからであるという。労働では誰を問われない。交換可能な労働力ということだ。制作においても、作品自体の質で評価され、作者が匿名でも質が良ければ売れる。これを「何」と「誰」と問われることが違うと彼女は言う。この「何」と「誰」の区別は、第2章で論じた固有名の問題とも関連している。社会が開かれているとは、すべての人が固有名として尊重されることだ。
 公共性論は、これだけで終わるものではない。公共性の。もうひとつの定義、「共同」「共感」という持続性らよる定義である。人は制作によりものを作る。ものには客観性があり、制作者が死んだあとも持続的に存在する。その持続性こそが共通の世界に公共性を与える。これを人間的営為の三区分との関係で見ると、労働も活動も持続性を与える機能を持たない。ということは、人が人格として触れ合う「現われの空間」が開かれたとしても、それを「共通の世界」として持続させるたには、どうしても制作者たちのものづくりの助けが必要だということだ。実際、活動し言論する人にとって、彼らが語る言説は、本等で残さないと持続しない。だから、公共性は、活動と制作が組み合わされなければなければ実現しない。アーレントは公共性を開放性のみで定義したのではなく、解放性と持続性によって定義した。開放性としての公共性は活動によって可能になり、持続性としての公共性は制作によって可能になる。それゆえ、公共性の質は、活動と開放性だけでなく、制作と持続性の観点から判断されるべきということになる。
 著者は、このようなアーレントの公共性の理解を訂正可能性の概念と関係があるという。活動は制作の助けがなければ残らない。言い換えれば、活動の成果が共通の世界の構成要素になるには、活動を担う人ではなく、制作者という別の人によるということを意味する。人は属性に閉じ込められている。それが、「現われの空間」では固有の人格として現われることができる。リベラルはこのように主張してきた。しかし、現われるだけでは公共性は成立しない。公共性は「現われの空間」に現われた固有の人格なるものを、制作者が記録して「共通の世界」のなかに定着させることではじめて生まれる。そこでは、制作者が活動者の自己理解を訂正してしまうこともありうる。例えば、革命家が正義を人々に訴えても、その自己理解が正しいかどうかを決めるのは後世の歴史家だ。公共性には、そういう残酷な性格がある。それは言語ゲームの性格そのものだ。アーレントは、社会の基礎にある公共性を、訂正可能性に支えられた持続的な共同体、すなわち、家族として構想していた。と著者は考える。
 アーレントは、『革命について』において、フランス革命に低い評価を与え、アメリカの独立を高く評価している。前者は革命の熱狂という記録しか残さなかったのに対して、後者は合衆国憲法と共和政という永続的な制度を残したからである。彼女は革命の熱狂を評価しなかった。その理想が新しい制度に定着しなければ評価しなかった。世界が持続すること、人が生まれ、ものが作られ、歴史がつながって行くこと、そのことを肯定することから始まる彼女の政治思想は、家族の哲学と呼ぶにふさわしい。
 政治が目指すべき公共性は開放性の場としてだけではなく、同時に持続可能な場として、したがって訂正可能性の場としても構想されなければならない。理想の政治は、法、偏見、差別、イデオロギー、友と敵の分割を乗り越えるような普遍性を求める。しかし、当時に、その理想は歴史の蓄積を否定、つまりリセットするのではなく、過去の不条理をある程度許容しつつ、訂正可能性に開いていくような、持続的な運動を経由して実現される以外にない。それが現実的な社会変革の態度だと考える。

2023年11月19日 (日)

東浩紀「訂正可能性の哲学」(4)~第3章 家族と観光客

 家族を辞書で引くと、同じ家に住み、生活を共にする配偶者および血縁の人々を意味する言葉だとある。しかし、現実には、この定義は失効している。同居していない家族は数多い。そこで、家族という言葉をアップデートする必要があると、著者は言う。
 我々はみな家族に属している。いま属していない人も、かつては属していたはずだ。しかし、その家族を選ぶことはできない。生まれるにしろ、育てられるにしろ、家族の構成員は一方的に押しつけられる。そしてその選択に必然的な理由はない。逆の見方で、子どもが生まれれば家族のあり方は変わる。家族は、ある視点からみれば閉鎖的で抑圧的な共同体だが、別の視点でみれば開放的で自由な共同体でもある。このような、一見すれば矛盾となるものについて、ウィトゲンシュタインやクリプキの議論を踏まえると、説明が可能になる。すなわち、家族は成員も規制も何もかもが変わっていくにもかかわらず、同じゲームを行い、同じ何かを守り続けていると信じている。我々は、そのような家族のゲームの中で、何の同意もなく新しいプレイヤーとして生れ落ちる。ゲームは既に存在しているのだから、参加は強制的で、いかなる必然性もない。なもかかわらず、規則は常に訂正可能なので、家族というゲームには拡張可能性がある。家族の参加者は同じ家族の体裁を持ったまま、いくらでも内実を変更することができる。それでも、我々はずっと同じ家族である。このような家族の性格は、人間のコミュニケーションの本質から導き出されたものだ。
 ところで、カール・シュミットは、政治とは本質的に友と敵の対立を基礎として敵を殲滅させる行為だと言った。友と敵の対立は、共同体の内と外の対立と言い換えてもよい。要は、共同体の境界を定め外部を排除する行為ということだ。共同体の住民は友でよそものは敵というわけだ。しかし、そのどちらにも当てはまらない中途半端な存在として、著者は観光客を提示する。共同体を通過するだけだから友ではないが、敵でもない。しかし、よく考えてみれば、われわれはすべての問題に中途半端にしか関わることができない。だから中途半端な存在といえるのだ。ところで、このようなシュミットの議論は共同体の境界線がはっきりしていることが前提となる。これまで、本書で見てきたように、家族という共同体は閉じている開かれているという対立ではとらえきれない、閉じていて同時に開かれている。二面性がある。人は友でもなく敵でもないということはありえる。家族は、そういう中途半端な構成員で作られている。
 著者は、その構成原理として誤配という概念を提示する。誤配とは、メッセージが届くべき人に届かない、逆に届くべきでない人に届いてしまうことだ。このようなコミュニケーションの失敗は、じつは公共性や創造性の源泉にもなり得るものなのだ。著者は、これを数学的な理論に関連付けて、次のような議論を展開する。たいていの人は、見知らぬ人間といきなり友人になるよりも、友人同士もまた友人であるような閉鎖的な人間関係を強化することを好む。これを数学のグラフ理論ではクラスター係数が大きいということになる。ところが、現実の人間関係を調査すると、人々の交友は意外なほど広がってもいて、意外な場所で友人の友人に出会うこともある。それはスモールワールド性と呼ばれる。人間は一方では明らかに閉鎖的なコネ社会を好む傾向があるのに、他方では開放的な共同体も作る。なぜそんなことが可能かという問いに、グラフ理論は数学的な回答を与えてくれる。すなわち、グラフ理論では、閉鎖的でありつつも開放的であるという二面性は、「つなぎかえ」という操作を仮定することで実現可能となる。つなぎかえとは、多数の頂点が線分でつながることによって作られるネットワークにおいて、各頂点を始点とする線分の終点を、特定の確率でランダムに選ばれた他の頂点に付け替える操作のことである。人間関係に置き換えれば、ある人が友人として関係する相手を、特定の確率で全然知らない他人に置き換えてしまうような操作のことだと考えればよい。この「つなぎかえ」こそが、誤配の数学的実体である。この誤配=つなぎかえは、訂正可能性の概念とも深く関係している。加算の共同体にクワスに変わる。そこで起きているのは、それまで共同体で伝承されてきた規則や意味のつなぎかえである。共同体はもそれまで共有されてきた規則や意味のネットワークが、ランダムな誤配=つなぎかえによって半ば強制的に訂正されることで持続性を獲得する。
 我々は家族をつくる過程で、思わぬ人と出会い、家族をつくり、新しいメンバーを増やす。あるいは、思わぬ別れや死に直面する。予想通りにはいかない。家族や人生の運命なるものは、遡行的にさまざまな訂正によって、捏造されたものでしかない。誤配と訂正の連鎖こそが、現実の人生の特徴である。家族とは神聖で親密で運命的で、そして訂正不可能な閉ざされた共同体だという発想の方が非現実的だ。家族とは訂正可能性の共同体だ。そこでは、偶然と運命、変化と保守、開かれているものと閉ざされているものは対立しない。それらの対立は、手遡行的な訂正可能性が作り出す幻影にすぎない。

2023年11月18日 (土)

東浩紀「訂正可能性の哲学」(3)~第2章 訂正可能性の共同体

 家族的なものと家族的でないものの区別はそれほど明確なものではない。その曖昧さは、論理的な不備ではなく、人間の思考そのものの限界を示している可能性がある。社会はたしかに家族より広大だ。それにもかかわらず、我々はそれについて、結局のところ特定の家族形態に頼ることなく想像したり議論したりすることができないでいる。それで、著者は、家族について、開放的で公共的な領域と対置された閉鎖的で私的な領域として語るのではなく、閉ざされたものと開かれたもの、私的なものと公共的なものといった対立を横断して規定するような、柔軟な関係概念として捉え直そうとする。
 そこで著者が取り上げるのはウィトゲンシュタインだ。彼の後期思想の主著とされている『哲学探究』に、「家族的類似性」という表現が出てくる。それは、例えば、父がいて、母がいて、息子がいて、娘がいたとして、父と息子は背格好が似ている。父と娘は目元が似ている。母と息子は口もとが似ている。母と娘は話し方が似ている。彼らは、それぞれ似ていて、明らかに同じ家族だと分かる。しかし全員に共通の特徴を取り出すことはできない。そういうのが家族亭類似性である。ウィトゲンシュタインは『哲学探究』で有名な「言語ゲーム」という概念を提示する。例えば、目の前に石板があるとして、横には言葉の通じない人がいる。そのとき相手が、石板を指して何かの言葉を発したとする。それを聞いて、どのように受け取るか。相手が発したのは耳慣れない音声。それを、たとえば、相手は石板を表わす言葉を教えてくれているのかもしれない。あるいは「それを持ってこい」という命令かもしれない。あるいはまた、単純な怒りや喜びの発露かもしれない。どれが正しいかは、いくら分析しても分からない。それが分かるのは、その音声を聞いた、こちらの行動に対して、相手が新たな返答をしてきてからだ。発話の意味は、発話そのものをいくら分析しても明らかにならず、発話外の状況によってしか決まらない。人は辞書や文法書で言語を学ぶのではなく、チェスやサッカーといったゲームをプレイしながら学ぶように、実際の発話のやり取りをしながら、試行錯誤でルールを身につけていくものなのである。人はゲームをするように言語を使い学んでいる。ただし、チェスやサッカーのプレイヤーは自分が、そのゲームをしている自覚があるのに対して、言語ゲームのプレイヤーは自分が何のゲームをしているかを理解することができない状態で、プレイだけを続けている。それが言語の本質だとウィトゲンシュタインは主張した。そして、このような主張に反論するのは原理的に不可能なのだという。人は皆、言語ゲームをプレイしている。そこでは複数のゲームが重なり合っている。そのため、あるゲームをプレイしていたつもりが、いつの間にか別のゲームのなかに入り込んでしまうことがある。これらの複数のゲームの関係を、ウィトゲンシュタインは探求することはなかった。彼は、むしろ言語ゲームにはそもそも共通の本質のようなものはなく、その本質の欠如こそが重要なのだと説いた。家族的類似性という概念は、ここで用いられる。ゲームには様々な種類があるが、そこに共通の本質を取り出すことはできない。特定の二つを取り出せば、そこには共通の特徴を指摘することはできる。これは、先ほどの家族の共通性と似通っている。
 ここで、ウィトゲンシュタインの家族的類似性で想定されている家族のイメージは、これまで取り上げてきたプラトンやポパーとは異なるものだ。ゲームには本質がないので、発話者はあるゲームから他のゲームへいつのまにか移動してしまう。それが言語ゲームの地用核の主張だったが、ウィトゲンシュタインはそこで、その移動の不可避性を根拠づけるために、家族的類似性という概念を用いた。この家族の比喩は、共同体が閉じているさまではなく、むしろ閉じることができないさまを意味するものとして使われている。
 このウィトゲンシュタインの議論を批判した人にソール・クリプキがいる。彼の『ウィトゲンシュタインのパラドクス』は、ウィトゲンシュタインの直感的な洞察を論理学的に緻密な理論に変えた。例えば、68+57という数式には、今までに出会ったことのない数式だとする。従来の計算は有限のはずだから、この数式は必ず存在する。それに置き換えれば、この数式の答えは見つかる。この数式は従来の加算の数式とそっくりなので、それで計算すれば125という答えを出すことができる。ところが、数式の出題者は5が答えだという。この式では+は加算を意味するのではなく、タウスという演算を表わしている。クワスは加算した結果が125以上の場合5となる。いままで、+を加算だと思っていたのは、答えが125未満では加算でもクワスでも同じ答えだったからで、じつは、+はクワスの記号として使っていた。こんなことは馬鹿げていると直観するだろう。しかし、クリプキの検証によれば、この主張に反論することは原理的に不可能で、反論するためには、+という記号がクワスではなく加算を意味していたことを証明しなければならないが、それはできないからだ。我々は、原理的に、自分がいま加算を行っているということを証明することはできない。このことは、ウィトゲンシュタインの「自分が何のゲームをしているか分からないまま、ただプレイだけを続けている」が自然言語の曖昧さだけでなく、数学や論理学を含む科学的な知の全般の条件であることを示すことになった。その結果、規則とか意味などというものは本当は実在せず、現在の行為を支えているはずの規則や意味は、未来の行為に照らしていくらでも論理的に遡行的に書きかえることができるということになる。いままで、同じ規則に従って発話しているという主張は、実質的な意味を持たなくなる。それは未来の行為と調和するように解釈することができるものなのだ。とはいえ、現実には規則も意味のしっかり実在している。それゆえに、クリプキはパラドクスと読んだのだった。
 規則や意味というものは、特定の行為が成功したのか失敗したのか、その成否を判定する他社がいなければ成立するものではない。例えば、加算について、我々は原理に頼ることができない。現実に人が行っているのは、こいつは加算を理解している、あいつは理解していないという個々の具体的な成否判断でしかない。あらゆる規則や意味の一貫性は、それが生み出した行為に対して、未来の他者の判断によって遡行的に産出されるものでしかない。言い換えれば、規則や意味の一貫性というのは、人が誰かを仲間だと思い、誰を仲間だと思わないか、それぞれの共同体の境界を決める判断と不可分に結びついいるということだ。現実に、パラドクスを回避するために、人々はこのようにしている。
 我々はみなゲームに参加している。しかし、何のゲームに参加しているのかは分からない。どんな規則に従っているのかもわからない。ただプレイし続けている。自分が何のゲームに参加し、どのような規則に従っているのかわかるのだ、個別のプレイをめぐって、それは正しいと第三者によって判定された後のことだ。だから、あらゆるゲームには無必ずプレイの成否を判定するプレイヤーや観客の共同体を必要とする。この規則とプレイと共同体の関係について、クリプキは+を加算ではなくクワスを意味する記号として使用しているプレイヤーは、ゲームの共同体からはいったん排除されるが、+を加算の記号で68+57の答えを5から125に訂正するのであれば、プレイヤーは共同体に受け入れられる可能性がある。ここで「訂正」と呼ばれるものは、共同体の内部と外部の境界を揺るがし、その成員を拡大する景気のことだ。いかなる共同体も、内部の正しさに閉じこもり、外部からの傘下を排除したままでは滅びることになる。先に規則があり、それを理解するプレイヤーが共同体をつくるのではなく、さきに共同体があり、それがプレイヤーを選別することで規則が確定する。このような動的に訂正され更新される共同体は、ウィトゲンシュタインのいう家族に当てはまる。つまり、この場合の家族は、成員も規則も何もかもが変わっていくにもかかわらず、参加者たちはみな同じゲームを行い、同じ何かを続けていると信じている。そのような共同体だ。この変わっていくという動きが訂正なのだ。このすべてが訂正されるにもかかわらず、そこになお同じものが残り続けるというのも、いかにも矛盾しているが、そこで鍵となるのが固有名という概念だ。
 固有名に対して一般名は三角形のように定義がはっきりしている、つまり、特定の名詞に頼らなくても、定義をきちんと並べれば同じ対象を過不足なく指示できる。三角形というかわりに同一直線上にない三点と、それらを結ぶ三つの線分に囲まれた図形としても、同じ対象を指す。一方、固有名は定義の束に還元することができない。これは前述のクワスをめぐる議論に共通する。これは記号の訂正可能性に関わる。我々は、日常的に、何かを意味していると信じている言葉や記号を用いている。しかしその意味はひとりでは確定できない。自分ではある言葉であることを意味したと確信していても、あとから相手に実は同じ言葉で別のことを意味していたと言われたら、原理的に反論できないのだ。
固有名は、その定義を遡行的に訂正することができる。例えば、ソクラテスはじつは女性だったといっても、ソクラテスが否定されるわけではない。この固有名の開かれているでも閉じているでもない性格は、家族の構成原理と同じだ。固有名の定義が訂正可能な理由について、クリプキは、固有名の指示対象は、そもそも定義ではなく言語外的な連鎖によって決まるので、定義はいくらでも訂正できるという。我々が固有名を使うとき、無意識にであっても、そのような連鎖を前提としている・そのような連鎖を辿ることで、あらゆる固有名について。起源にある名指しに遡ることができる。たとえば、ソクラテスという固有名を使うときは、2500年近く前、誰かがその名によって、特定の人物を指す行為図あったはずであり、言葉の定義があやしくなったときは、そこに戻ることができる。そういう想定があるので、定義の遡行的な訂正が可能なのだという。

2023年11月17日 (金)

東浩紀「訂正可能性の哲学」(2)~第1部 家族と訂正可能性 第1章 家族的なものとその敵

 著者は、2020年のコロナ・ウィルスのパンデミックが家族を取り巻く環境を劇的に変えたという。コロナ禍以前は、家族や「家」といった言葉は、リベラルの知識人にとってあまり肯定的に語られるものではなかった。彼らは、教育にしろ介護にしろ家庭から公共へとできるだけ責任を移行すべきだと主張していた。例えば、社会学者、上野千鶴子の「おひとりさま」肯定論。彼女の主張はフェミニズムの文脈で受け取られがちだが、家族は個人の自由を奪い、社会の改善も阻む厄介な存在であり、家族という小さな単位への執着は、大きな公共の実現にとっては障害になるという。これは、プラトンにまで遡る、西洋のリベラルから社会主義の革命思想にいたる西洋の家族否定の思想の伝統の流れであるという。それが、コロナ禍が始まると、突然「家」が肯定的に語られるようになった。皆でできるだけ自宅に閉じこもり、教育も介護も自力で行い、仕事はテレワークで済ませ、接触は同居家族との間に限るべきと大っぴらに主張されたのだった。これに対して、リベラルからの批判は起こらず、「ステイホーム」などという新語がしきりに語られたのだった。
 著者は、ハンナ・アーレントの『人間の条件』を取り上げる。彼女はそこで、私的な欲望を満たし、私的に行動するだけでは人間は人間であることができないと主張する。人間は公的な領域に関わるからこそ人間でいられる。私的な領域に閉じ込められていたのでは動物と変わらない、と彼女は考えていた。このような家族を公共と対立させる思想では、家族は閉鎖的で排他的な人間関係でしかない。著者はそれに対して原理的な考え直しを試みる。これは後で詳しく触れている。
 ここで著者は閉鎖性と開放性を考えるために、カール・ポパーの『開かれた社会とその敵』に寄り道する。彼はプラトンの『国家』を批判する。ポパーのプラトン批判は閉ざされた社会と開かれた社会の対立の上に組み立てられている。閉ざされた社会とは個人が社会の一部でしかなく全体がまとまりをもった有機体として捉えられている。それに対して開かれた社会とは、いわば、自由主義的で個人主義的な社会といえる。プラトンはポリスの民主政を否定し全体主義的な国家を構築しようとしたという。プラトンは開かれた社会を拒み、閉ざされた社会に戻ろうとした反動の哲学者というわけだ。ポパーはプラトンの理想国家を部族国家と批判している。しかし、プラトンは家族的な組織原理を否定していた。では、ポパーの批判は矛盾しているのか。ここで、著者は、そもそも開放性と閉鎖性ははっきり区別できるものではないのではないかという。むしろ、開かれた社会と閉ざされた社会、市民社会と家族、公的領域と私的領域といったような単純な対立で捉えることに疑問を差し挟む。ポパーは閉ざされた社会を批判しようとしたが、その論理で、閉ざされた社会の外に出ようとしたはずのプラトンも、閉ざされた思想として批判してしまった。これは、プラトンは家族の外に出ようとした、にもかかわらず、結果として構想された社会は、ポパーには家族にして見えなかった。家族の外にも家族があった。と言い換えることができる。

 

2023年11月16日 (木)

東浩紀「訂正可能性の哲学」

11112_20231116232001  哲学とは、過去の哲学を「訂正」する営みの連続であり、ぼくたちはそのようにしてしか「正義」や「真理」や「愛」といった超越的な概念を生きることができない。と最後に述べられている。私的な曲解かもしれないが、哲学という営み→概念を生きるということになるのでは。概念を理解する、知るということではない。知るとか理解するというと、スタティックで動きを止めて固定化してしまう。その場合、公私の二元論のように図式化する方に流れやすい。理解しやすくなるからだ。でも、実際に生きていると、その間、あるいはその両方があったりする、それは動いているからで、その動きを「訂正」と表わしているのではないか。公私の二元論も、たしかに一時的には成り立つこともあるかもしれない、しかし、それはその一時であって、訂正という動きがあればそうでなくなる。「正義」や「真理」や「愛」といった超越的な概念もそんなもので、それがいつでも、どこでも成立すると固定的に考えるのは幻想ということなのだ、ということになると思う。要は、姿勢の問題なのだ、ということなのではないか。
 そこで、「訂正」ということに対しても、それがあてはまるのではないか。つまり、「訂正」ということ自体も動いている。だから「訂正」も訂正されうるのだということがあるのではないかと思う。だから、本書を読んで、単に理解するというのは、本書の趣旨に合っているのだろうか…と思う。

 

稲垣義典「神とは何か─哲学としてのキリスト教」(6)~第4章 自己と神

 本章から「神とは何か」を問い始める。われわれが「神とは何か」と問う知的探求を進めるということは、経験と理性を超える何らかの知的源泉を真理と認めた上で、それに導かれつつ探求を進めることになる。
 「神とは何か」という神の本性・本質を問う探求を、神は「一」であることの考察から始める。
 その前に、「在る」ということをわれわれが学ぶことの不思議さについて、私が「ここで・今」何かを見て、触れて、「このものは在る」と言明するのは、私が自力でつかみ取り支配するかのような「在る」の捉え方である。これに対して、私は明るい陽射しの下、美しく咲く草花を見て、これらすべてが「在る」のは善い、と心からそれらさまざまな現われをするものの「存在」を肯定する気分になる。このような存在を善しとして肯定することは、そのものを愛することである。そこで、われわれの「存在」認識は、存在の肯定すなわち愛を含んでいる。「存在」はその根元的な意味において「善、真、美」などすべての価値を含むものなのである。このような存在の肯定は、日常生活の利害や労苦から解放されて、あるがままに物事を見ることができた時に、はじめて可能になる。このような存在の肯定は、在るものの第一根源である神の認識を含意している。人間は「善」を追求する、つまり善に向くというのが自然で必然的なのは、人間の自然本性からそのように秩序付けられている。つまり、人間の究極目的は善そのもの、つまり神というわけだ。
 神の「一」なるとは、「一、二、三」と物体的なものを数える時の「一」ではない。それは他のすべてのものと異なる、ただ一つだけのもの。神は「何であらぬか」という否定を徹底させることによって、また「在るもの」と置き換えうる真、善、美などの完全性のすべてを最高の仕方で帰属させることによって到達される「神」理解において、人間理性はついに「知らざるもの」であるがままにとどまる神に「結ばれる」のであり、神が「一」であるとはそのことを言い表わすものだ。言い換えると、われわれは神は「一」であるという認識において、神は「無限、永遠、全能…」である、という仕方で進められた神の探求の実りとして、「何であるか」はついに知られざるままの神に結ばれ、神の実体に触れているのであり、「一」はそのこと、つまり「神は神である」という「神」のアイデンティティを言い表わす「一」なのである。言い換えると、神は「一」であることの原名は、人間理性が神の本質を把握することはてせきないが、神そのものに触れて、神を「実在」として語ることは可能であることを言い表わすものである。そのことを認識するのが形而上学的認識であると著者は言う。
 キリスト教会の信条では、われわれが信じる「一」なる神は「天と地、見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主」であると宣言されており、神の「一性」はすべての在るものを無から創造する神の全能と等置されている。神が「一」なるものであることは、全能である神のみが為しうる無からの天地創造という業によって説明できる。この無からの創造というのが神の「一性」を明瞭に顕示する。
 このあたり、著者は向う側へ行っちゃっているという感じで、この後、ずっとそのテンションが続く、ここでもうついていけなくなっている私は、こっち側の人なので、未だ半分なのだけれど、一応、読むことは読んだが、追いかける気力を失ってしまった。

2023年11月14日 (火)

稲垣義典「神とは何か─哲学としてのキリスト教」(6)~第4章 自己と神

 「神とは何か」という問いは、「人間とは何か」を根元的に徹底した仕方で問う者にとっては、避けられない問いであるという。人間が自らの中へ立ち帰り、自己を真実に認識しうるかぎり、人間が究極の目的、完全な善への到達を目指して生きる者であることを確実に認識するはずであり、「神とは何か」という問いは、この認識と共にあるという。「神とは何か」という問いは、われわれの現実生活から遠くかけ離れた事柄についての問いではなく、われわれ人間自身の「生」そのものに関わる身近な問いであるという。
 ところで、感覚的知覚を通じての事物との直接的接触という意味での「経験」は近代・現代哲学では中心的で決定的な重要性がある。その古典とも言われるイギリス経験主義の一面性を批判したのはプラグマティズムの根元的経験主義で、「経験」という言葉は普通、感覚的経験という外部からの印刻づけに限られて経験する主体は受動的である。これに対して根元的経験主義では経験する主体の能動的働きかけによって形成される。これにより経験は人間的な認識の発端ないしは認識が真正であるか否かを判定する批判的機能のみに限られていたのが、人間的認識の全領域を統一的に理解し、説明することを可能にするものとなった。さらに著者は経験は自らを限りなく超越することによって完成されるという。そうすると、経験はすべての存在を超越するとともに、すべてのそんざいするもののうちに最も親密に内在する第一の根拠である神を要請するものとなる、という。私には、どういうことかよく分からず、言葉遊びに思えた。
 著者は取って返してデカルトの二元論を俎上に乗せる。観念の道とは。人間による認識の直接的対象は実在するものではなく、ものから刺戟されて心ないし自己意識のうちに形成された「観念」であるという考え方である。この「観念の道」に従う限り、人間の認識の全体は人間の心、観念のうちに閉じ込められることになり、それはカントの言うように「われわれの外にある事物の現存在をたんに信仰に基づいて想定しなければならないこと、また誰かがその現存在を疑おうとする場合は、彼に対してなんら満足のいく証明を提出できないとすることは、やはり哲学や人間理性一般にとって常にスキャンダルであり続ける」。この時、神が「経験」の名によって人間の認識の対象から除去されたことも、「観念の道」の論理的帰結と見ることができる。
 パスカルは、デカルトが「私は在る」という自己意識をあらゆる確実性の究極の源泉・根拠と見なしたということは、この自己意識をあらゆる実在意識の根拠と見なすことによって人間をいわば創造主の地位に高めたと考えた。パスカルはデカルトに根元的な人間中心主義を見て、これを批判した。デカルトの物心二元論は、物と心という異なった存在の完全性の段階を適切に区別しつつ、統一的に把握する「存在」理解の欠如に由来することが判明する。デカルトは彼の物心二元論という誤った世界観のゆえに生じた難問に対応するために、自らの哲学体系の中に神の概念を導入した、つまり自らの哲学体系が必要とする限りで神の存在を肯定し、役割を付与した。パスカルはこのようなデカルトを批判している。このようなデカルトの神は貧弱な代用品でしかない。このようなデカルトの物心二元論に強く影響を与えたのがウィリアム・オッカムによる個体主義であると著者は指摘する。彼は、「精神の外なるかなる事物も、それ自体において個別的である」のだから、個体化の原理などというものを措定するのは意味がないとし、「個体化については何らの原因も探求すべきでない」と言った。そこで、実在するものはすべて個体であるという原則を確立した。
 著者は、デカルトの「我思う、ゆえに、我在り」は、「我思う」によって確証される「我在り」は、思考する「我」に対して当の思考する「我」が現存するという特定の経験をもたらすだけであって、思考する「我」(自己)の認識を与えてくれるのではない。「我在り」は思考する「我」の現存経験ではあっても、「我」が何であるかの認識ではなく、「我」が「在るもの」、すなわち形而上学の対象として認識されるものではない。したがって自己認識としては不十分な段階にとどまると批判する。著者によれば、知的認識は感覚的認識とは違って、認識する知性は認識する働き、そしてさらに能力を振り返るのみならず、認識する主体(人間精神)それ自身までへも完全に還帰するのであって、その意味では人間精神は何らかの事物についてその「何であるか」つまり普遍的本性・本質を認識するごとに「自己意識」を行っているのである。それは「自己」の認識というよりは自己の現存経験と言う方が当たっている。われわれは知的認識を行うたびに徹底した自己還帰という仕方で、自己の現存を経験するという意味での漠然とした自己認識を行っているし、精神的存在としての私・自己が一種の関係ないし交わりと呼ぶべき存在であることも認識していると言える。しかし、ここから出発して、精妙で熱心な探求を重ねることによってはじめて到達しうる形而上学的認識に辿り着くのは、きわめて困難である。このような人間精神の自己認識が形而上学の出発点である、と著者は言う。このとき、「在るもの」は、われわれが「在る」という言葉を使い始めるときに、漠然と認識されるかもしれないが、形而上学的対象としては精妙で熱心な探求を重ねることによってのみ認識可能となる。したがって、自己認識というものは、人間精神が自らの認識する働き、さらに認識する能力だけでなく、自らの本性・本質まで完全に立ち帰ることによって達成されるという。この完全な自己還帰という自己認識の在り方が、そのまま、人間精神という実在は自分自身において在るというあり方をする存在であることを示す。
 まとめると、形而上学の出発点である自己認識において捉えられる自己とは、感覚的に知覚され、観察される人間ではなく、知的な認識能力を有する人間精神が自分自身の本質まで立ち帰ることによって認識する精神的存在である。そして精神的存在は、物体が空間・時間的に限定された場において、「ここに・今」在るという仕方で知覚される。つまりそうした知覚に還元されるような存在ではなく、自分自身において在るという仕方で存在する。そして自己認識がこのようなものである限り、自己認識は自存する存在としての自己の根拠を求めて「神」の探求へと向かうことになる。その理由は、第一に、自己が自分自身において在るということは、維新的存在としての自己がある意味存在するものすべててあることを意味する。それは、人間精神が無限・永遠なるものに開かれているということを意味するからである。それは「神」への探求へと向かうべきことを示している。第二に、存在の側面から見た場合、人間精神は諸々の精神的存在の中で最下位となるもので、それは知的な認識能力によって事物の本性・本質を「ここで・今」という場所的・時間的な限定なしに超時間的・普遍的に認識できる。しかし、その知的認識を遂行するためには知的直観と言う仕方で一挙にではなく、何らかの準備段階に続く判断、さらには推理といったプロセスを踏まねばならず、その上、何よりも感覚的認識によって認識の素材を確保することが必要不可欠である。そのため、人間精神は身体と複合せざるを得ない。つまりは純粋な精神的・知的実体ではありえない。そのことから、最も完全な精神的・知的存在である神の探求へと向かうべきということになる。
何か、このあたり、すごく難しそうで高尚な言葉が並んでいるが、すごく空疎に見えてくる。本書をよんで、文章にまとめているところで、じゃあ、実際に、具体的にどうするのかがまったくイメージできない。著者にあなたは実際にどうやったのか問い質したくなった。

2023年11月13日 (月)

稲垣義典「神とは何か─哲学としてのキリスト教」(5)~第3章 知識と知恵

 われわれの現実の生活ではどうしても確実で役に立つ「知識」に関心が集中し、「知恵」の本当の意味やその大切さを見落としがちになる。われわれにとって知識と知恵を区別する時、俊樹に対して知恵が優越しているとは思えないのは、知る働きかすべて実践へと秩序付けられていて、そうではない知る働きである知恵は空虚なものであると考えられがちだからだ。理論と実践という場合、最終的に実践的な成果に至らない理論は、知識として何かが足りないと見なされる。結局は人間の知る働きは実戦に秩序付けられているからである。これに対して、いわゆる知的な環境では、知る働きそれ自体が目的であって実践や効用といった実践的目的に結びつけられていない。それが知恵であって、このような知恵に固有の知る働きは「観想」といい、知識に優る卓越性が認められている。たぶん、これはキリスト教の修道院や学問の環境を想定しているのだろう。著者はアウグスティヌスの喩えを紹介している。人間の地上の生を旅路と見て、知識はこの旅において人間がさまざまのものをいかに有効かつ適切に使用して、旅を安全かつ快適に続けることができるかを教えてくれるものであるのにたいして、知恵は辿り着くべき目的地を明確に示し、道に迷うことなく旅を終えて、目的地に到着して悦びをもって憩うことができるものだという。
 この二つの環境の違いはどこからくるのだろうか。この違いは人間を中心に置いて万事を考えるか、あるいは人間は人間であるが、同時にまた人間であるべきであり、人間であることを学び、より完全に実現すべき存在であって、その意味では人間は自らを超えて進まなければならないと考えるか、その違いだろう。前者の人間を中心に置いて万事を考えるということは、感覚でもって認識する外の世界に専ら目を向ける考え方である。その場合、人間は外界の物体的事物や現象を知覚し、認識する主観からすべてを見る「点」となる。その意味では世界・万物の中心であるが、それ自身は存在ではなく、「点」にすぎない。つまりわたしは認識の外に置かれることになる。これに対して、人間は自己を超えて進むべき存在であるという見通しに立って、自己の中に入り、自己へと立ち帰る立場に立った場合には、自己をそこにおいて認識すべき場を発見することであり、それによって自己は万物の中心という幻想は消滅し、「点」ではなく全体となる。
 「神とは何か」という問いは知恵の探求における中心的な問いなのである。アリストテレスは『形而上学』において、知恵は第一の原因や原理を対象とすると述べている。この「第一の」というのは、すべての原因がもっている唯一で最高の原因であることを意味する。つまり究極の原因である。それこそが「神」というわけだ。
 著者は、現代において知恵の優越性が失われたことを批判する。

稲垣義典「神とは何か─哲学としてのキリスト教」(4)~第2章 無神論とどう向き合うか

 「神とは何か」という問いは信仰や信心の領域として、真理や条理が重んじられる知的関心から切り離される、というのが現代の常識となっている。著者は、「知る」ことは真なることを知ることであり、信じるとは真であると信じることで、真であると信じないで承認を与えることは正確な意味で「信じる」ことではない。それゆえ、知ることと信じることは切り離すのは誤りだという。前述の承認を与え、信じる働きは知性に属するのであって、意志や感情が信じるのではないという。感情や意志は人間理性・知性が信じるように働きかけるのにとどまる。
 真理という言葉の本来の意味は、われわれの知的な探求を照らし導く「光」なのであり、「知る」という働きは、この光によって成立する。われわれは通常、「知る」という働きによって真理を発見するので、真理は知る働きの結果であるかのように考えられている。しかし、「知る」という働きにおいて知る者と知られるものが「一」になるという神秘の根拠が真理なのであって、その意味では知ることが真理の結果として生ずるのだ。私には、この部分が意味不明で、牽強付会に映るのだが…
 そこで、無神論だが、これは神は存在しないという立場だが、存在しないと否定するためには漠然とした神の存在を前提にして、それを否定するもので、前提そのものを否定するものではない。これに対して、日本人が無神論者と言われるのは、ヨーロッパのキリスト者の場合は神は生きた実在であるのに対して、多くの日本人にとっては神は観念的で抽象的なつくりものでしかなく、神というのを勘違いで済ますことができてしまうのだという。それに対して、著者は生きた実在に直面していないからだという。…ああ、この上から目線…と読んでいて煙たいと思ってしまった。
 近代の科学的な思考は、端的には「神という仮説を必要としなくなった力学的世界観」ということになるが、それなら仮設でなくなったわけではないだろうという。その根本的前提には宇宙の自己完結性・自己充足性に根拠禹があるわけではない。むしろ宇宙の自己関係性は物理学的方法によって認識される事物の世界の実が実在であるという世界観を根拠づける考え方を前提するものである。それは循環論である。
著者は、無神論について考えてきたが、それらは「神は存在しない」と主張するが、その存在を否定している神の「何であるか」については関心がなく、もっぱら、世界や宇宙と「神」との関係に関心が集中している、という。人の認識は感覚から始まるもので、理性による本質についての認識も感覚によって導かれうる範囲に限られる。それゆえ、われわれがこの世界の事物を直接に経験し、理性によって認識しえたことから、その根拠として必然的に要求されるものが神の認識であったとしても、それは世界の認識を根拠づけるために必要不可欠なものとなる。そこで、無神論と言っても、世界についての認識から導き出された結果であるならば、その認識の根拠である神を否定することは、自身を否定することになる。

2023年11月11日 (土)

稲垣義典「神とは何か─哲学としてのキリスト教」(3)~第1章 なぜ形而上学か

 著者は、「神とは何か」という問いと「自己とは何か」という問いの親近性、類似性を指摘する。「自己とは何か」という問いには、自己が、そのことを問う自己自身である自己について「何か」と問うことの不思議さ、奇妙さを感じるものである。問うている自己とまったく同一の存在であるはずの問われている自己が、あたかもどこかに密かに隠れているかのように「何か」と問い、探索することの可笑しさ、不思議さは、じつは人間を人間たらしめる「知る」という働きの本質から見るときわめて自然で条理にかなったと、著者は言う。それは、現代の科学的な確実で論証可能な知を超えた実在する神秘を探求する知恵へと至るものだという。この点で、「神とは何か」「自己とは何か」という問いの重要性が見えてくる。
 アリストテレスは『形而上学』の冒頭で「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」と述べている。知るということは、人間として存在することと同じだということを言っている。このように「知る」という働きを人間の本性や存在そのものと同一視することは、現代の「知る」ことはよくよく快適に生きるために有効な機能、道具と考えるものとは異質だ。それゆえ、前者の「知る」は現代の機能、道具としての「知る」で得られる知識を得るだけで満たされるものではない。著者は、後者で得られるものを知識、前者で求めるものは知恵である、両者を区別する。そして、知恵を探求するのが形而上学であるとする。
 例えば、「今、何時」と確かめたり、どれだけ経過したのか測る時間といったように時間はわれわれに親しみ、熟知しているはずなのに、あらためて「時間とは何か」と問い、その正体を捉まえ本質に迫ろうと試みると、うまくいかない。時間というテーマは哲学者たちが探求してもなお捉え切れていない。「知るとはどういうことか」、それは誰でも知っている。しかし「知る」ということを、本質を正確かつ適切に説明しようと試みる者は、誰もがその計り知れないほどの困難さに直面し困惑するに違いない。これは、知識では十分に説明ではないのではないか。「知る」はたしかに日常の平凡な事実であり、そして「知る」ことにおいて「知る者」は「知られるもの」と何らかの仕方で一つにかる。それはわかりきったことで、われわれは、このわかりきったことに大いに驚き、それはどのようなものであるかを探求し始めると、それは実は計り知れない神秘であることに気づく。「知る者」は何ら通常の意味での変化を蒙ることなしにいかに「知られるもの」とひとつになりうるか。このように神秘に接近する方法が形而上学的探求であると著者は言う。
 しかし、このような探求は、現代では知的探求として評価されない。それが現代の常識だ。そこで、あえて現代の常識に異を唱えて形而上学的探求の必要性を主張するのかと言えば、形而上学探求のみが「自己」認識を可能にする知的探求だからだ。形而上学的な「自己」認識によって欄減が精神的存在としての自己を実在として捉えるのでなければ、われわれは人間とは何であるかを確実かつ適切に認識することができないからである。従って、人間として善く生きる道を見出すことはできないからである。
 われわれの日常生活における関心事は、「いま何時か」であり「わたしはこのこと、あのことを知りたいであって、「時間とは何か」「知ることはどのようなことか」ではない。言い換えると、われわれは日常生活を、さまざまな必要を充たし、もろもろの願望を充足させる、つまり効用と快適さという価値を実現してゆくという側面で理解するかぎり、「時間とは何か」などといった形而上学的探求の必要はない。それに対して筆者は、われわれが人間として善く生きるためには「人間とは何か」を知ることが不可欠であり、そのための自己認識は形而上学的探求を通じてのみ可能となるからだ、という。そして、われわれが日常で認識・思考などをしている場は形而上的なのだから、形而上学は日常生活から遊離しているわけではない。そういう知的活動を行っている私自身・自己へと立ち帰り。自己の本質を認識することから始める、いわば原点を考察するのが形而上学で、それは「自分自身の中に帰る」ということに他ならない。
 これって、色々なことを言っているようだが、結局のところ、科学と形而上学を対立的に並びたてて、どっちがいいのか、という議論をしているように見える。著者は形而上学の立場にたって、こっちがいいよといっている。しかもその論拠は、あくまでも形而上学の側からのものに限られる。例えば、日常生活で、「いま何時か」であり「わたしはこのこと、あのことを知りたいだけですませて何がいけないのか?と正面から問われれば、著者の説明は形而上学の方がいいからだということしか言っていない。つまり、好き嫌いをもっともらしい言葉で述べているだけに見える。

2023年11月10日 (金)

稲垣義典「神とは何か─哲学としてのキリスト教」(2)~序論 「神とは何か」という問いをめぐって

 「神とは何か」と問うことなしに「人間とは何か」という問いに適切にこたえることはできずもしたがって人間として善く生きるのは難しくなると、著者は言う。ただし、神は、われわれが把握できないだけでなく、近づくことすらできないほど限りなく遠く、高く超越的であると同時に、われわれ自身よりもわれわれに身近で、われわれの内奥に現存する。そういう神観は、近代の科学的・論理的思考からは明白な矛盾あるいは循環論と捉えられてしまう。
 「神とは何か」という問いは、普通の「…とは何か」という問いとは異質なのである。通常「…とは何か」という問いは自分が見たり、触れたりして、存在することが確認されたものに向けられる。では、われわれは神に出会った上で「神とは何か」問うのかというとそうではない。もし現実に神と出会ったのであれば、そんな問いを発することはないだろう。しかし、まったく神に出会っていない、神という存在を認知していないのであれば、その問いは出てこないだろう。「神とは何か」という問いは、「いま・ここに在る」と明確に突きとめられるような仕方で出会っているのではないが、きわめて身近で、自分の奥深くでその現存を感じているとしか言いようのない存在に向けられた問いである。これは、われわれ自身の自己へ向けられた問いに似ている。自己とは、われわれが「自己とは何か」と問うとき、問うているのはわれわれ自身なのだから、これ以上身近で、親しく私自身に現存しているものはありえない。しかしそれは私が見て、触れるものの「存在」のように明確にその存在が確認されるものではないし、どこにあるのかと捜し求めるべきものでもない。そもそも、自己とは感覚によって捉えられる存在とは次元を異にしている。
このような自己、そして神は、例えば、ウィトゲンシュタイン「語りえぬもの」のような「神秘」であり、それを探求するのが本来の意味での形而上学であると著者は言う。近代の科学的な学問では、このような問いを探求することはできないと著者は言う。この問いは、自らの存在の本質にまで立ち帰るような在り方をする精神的存在のみがなしうる問いであり、自らの存在の本質にまで立ち帰りうる精神的存在は、自らがどこから来てもどこへ行くのかと自らの存在の第一根源を究極目標と問いうるし、また問わざるを得ない。つまり、自己認識のあるところ、必然的に「神とは何か」という問いが生まれる。と著者は言う。

2023年11月 9日 (木)

稲垣義典「神とは何か─哲学としてのキリスト教」

11112_20231109230501  「神とは何か」という問いは、われわれの日常生活のなかで好奇心から生まれる問い、あるいは科学者が自らの特定の研究領域のなかで固有の方法を駆使して探求する問いとは異質な問いである。それは「何か」と問うことが無意味に感じられるほどわれわれ自身に身近で、自分自身の奥深く現存するかと思えば、われわれの想像力はおろか認識・思考能力のすべてを無限に超えるとしかいいようのない何ものかに向けられた問いである。この問い普通の意味での考えがない。その意味で特異な問いである。そう著者は最初にいう。
 このような問いは科学的知識の領域外である。この問いと類似した問いに「自己とは何か」という問いがある。われわれが「自己とは何か」と問うときに、問うているのはわれわれ自身なのだから、これ以上に身近に問いはない。じかし、自己は私が見て、触れる存在のように感覚で直接に捉えることのできないものであるから、それを明確に知的に認識するには精密かつ熱心な探求と洞察が必要となる。著者は、両者は似ているだけでなく、「神とは何か」という問いは、「自己とは何か」という探求の深まりが必然的に呼び起こす問いであるという。
 一方、著者は近代哲学は人間の知るという働きをもっぱら確実で検証可能な科学的知識という側面に限定し、その帰結として「神とは何か」「自己とは何か」といった問いは知識の領域ではないとしたことを批判する。これは、人間の知を確実な答えが原則的に発見できる問題に関わる知識のみに限定してしまったのではないか。それゆえに古代から中世へと受け継がれてきた形而上学的な探求の道を閉ざしてしまったのではないかという。著者は、その閉ざされてしまったものこと、今、学ぶべき、そして学ぶことで人間として善く生きる道の発見が可能となると言う。その概要はつぎのようなことだ。
 「自己」を知る、すなわち「自己」という精神的存在を知的に理解するために第一に必要なのは、自己を「どこに」見出すかである。それは目に見える物体のように、「ここ・あそこ」に在るのではなく、「時」のうちに在るものとしてまず見出される。時のうちに在るということは自己という存在には始まりがあって、終わりに向かって進んでいることを意味する、古今東西を問わず、昔から自己を振り返ることを学んだ者が第一に問うのは「私はどこから来て、どこへ行くのか」であるのがその証である。このように見てくると、「神とは何か」と題する本書の内容は自己発見の知的な旅ということになる。つまり、人間とは旅する者であり、われわれが人生と呼んでいるのは揺り籠から墓場までを移動する単なる過程ではなく、はっきりと目的地を目指して歩む旅路だということである。知恵の探求ということも、人間が旅をする者でなければ意味がないのであり、それというのも知恵は人生という旅路の目的地に関わるからである。その旅の目指していた目標・終着点こそが、じつは「神とは何か」という問いなのだという。
 私見だが、ここで著者が語っている言葉、そしてそれで紡がれる考えは、著者本人や直接著者の薫陶を受けた世代には真摯なものなのだろうが、私にはどこかリアリティを欠いた絵空事に近いと感じられるのだ。それは、精神とか善き生といった発想がどこから生まれてくるかを現代思想が構造とか政治とかいった側面で分析し、そういうものを相対化したところに否応なしに立っているとすると、著者の語っていることは、ベーコンの言うバイアスで、著者には、その自覚がなく、ハイアスを共有できる人に向けて語られている。そういう印象を拭いきれないでいる。この本で、精神とか内面とか自己とか、著者はナイーブに語っているように、私には見えて、そのたびに、「それは何?」「どこからくるの?」という問いが湧いてくるが、著者は、そういう問いが出てくるという発想すらないことに、少し戸惑いを感じ、読み進めるうちに、その戸惑いが大きくなってしまうのだった。

 

2023年11月 8日 (水)

もうひとつの19世紀―ブーグロー、ミレイとアカデミーの画家たち

Anotherpos  企画展の「キュビスム展」を見て、そのチケットで常設展も見ることができるということなので、時間もあったし、会場に入ったら、奥の方で行われていた。常設展には、以前に企画展で見たことのある作品もいくつかあったが、大家の作品があとからあとから、その質と量に圧倒されるほど。ついでに寄るといった内容ではない。ここでは、その一部でやっていた「もうひとつの19世紀―ブーグロー、ミレイとアカデミーの画家たち」が、予期していなかったが、とてもよかったので、あらためて感想をまとめてみた。
 展示の概要については主催者あいさつを引用します。“19世紀後半のフランスおよびイギリス美術と聞いて、みなさんが思い描くのは一体どんな絵画でしょうか。フランスにおけるレアリスムや印象派、あるいはイギリスのラファエル前派や唯美主義による作品が浮かんだ方も少なくないでしょう。しかし、今日エポックメーカーとして俎上にあがる芸術運動と画家たちの背後には、常にアカデミー画家たちがおり、彼らこそが当時の画壇の主流を占め、美術における規範を体現していました。かれらは、それぞれの国において最も権威ある美術教育の殿堂であったアカデミー――1648年、フランスで創立された王立絵画彫刻アカデミーと1768年にイギリスで誕生したロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ――に属し、古典主義的な芸術様式を遵守した画家たちです。しかしアカデミーの権威と伝統は、社会の急速な近代化によって揺らぎ、19世紀後半になるとアカデミスムは衰退の危機をむかえます。そんななか、アカデミーで地歩を固めた画家たちは時代の変容や新たな画派の登場に決して無関心ではありませんでした。むしろ変化に富んだ時代において、需要に応じて主題や様式、媒体を変容し制作を行いながら、アカデミーの支柱としてその伝統と歴史を後世に継承しようと努めたのです。本小企画展では、ウィリアム・アドルフ・ブーグロー(1825~1905)やジョン・エヴァレット・ミレイ(1829~1896)をはじめとする両国のアカデミー画家たちのキャリアを辿り、多様化した主題やモティーフ、モデルに焦点をあてることで、その柔軟かつ戦略的な姿勢と彼らが率いた「もうひとつの19世紀」を浮き彫りにします。”
Anotherportrait 会場に入って、すぐに目に入ったのが、ブーグローの「ガブリエル・コットの肖像」です。肖像画と言うのは、この時代の画家たちの主要な収入源で、イギリスの貴族の館を見学すると、廊下や客間に歴代の当主や夫人の肖像が所狭しと陳列されているものですが、新興の富裕なブルジョワもそうだったのでしょう。アカデミーの画家ともなれば、肖像画の依頼は多かったのではないかと思います。しかし、この作品は依頼品ではなく、知人の娘である彼女をモデルに当初、別の絵画の習作として始められたのが、ブーグローはガブリエル・コットの魅力と美しさに魅了され、彼女の肖像画を描くことにしたという。黒い背景でスポットライトを浴びたように浮かび上がる、振り向きざまの表情をとらえた肖像画は、こちらに向 けられた優しいまなざしと柔らかな笑みが印象的。塗りが丁寧というか、何よりも肌のみずみずしく柔らかな質感がとても印象的。振り向いた顔に光が差し浮かび上がる様子は、成瀬巳喜男の監督した映画でヒロインが別れて遠ざかって、暗い中に消えていく途中で振り向いた顔に光があたり、姿が消えていく中で顔が浮かび上がり、その表情が印象深いのとよく似ている。この作品でも、こころもち画面右上から照明をあてるような光が淡くさして、顔が浮かび上がるようになっています。まるで、別れを惜しむ一瞬のようなはかない微笑のように映ります。その光の下で、彼女の肌は、ほとんど乳白色に近い色調で見事に混ざり合い、血管のように見えるように水色が加えられ、部分的に柔らかなピンクが加えられて、肉体を模した形と温かみを感じさせます。後でブーグローの技法をネットで調べてみたら、半透明に見えるように薄く塗られた不透明で軽い絵具が、乾燥した暗い下絵具の影響を最終的な効果に与えるという複雑な光学的感覚ということで、その結果として、色温度の冷たさ、質感の柔らかさ、透明感が増し、光に恵まれた女性の若々しい肌のような質感になるということです。ブーグローは、明るい光とハイライトを十分に濃く塗ることで、肉色の真の不透明度に近づけ、暗い中間調の部分や影の部分には、ある種の透け感が見られるようになるというもので。そこから、描かれた女性の肌は、ルネサンスの聖母像の大理石のようなツルツルの輝くようなのとは違う、血の通った生きた人間のもちもちしたような感じ。振り返った首筋が皺になっている、その柔らかさ。その肌の質感が魅力的。この作品を見て、冷やかしの気持ちはなくなり、襟を正しました。
Anotherqpido Anotherqpido2  続いて、伝統的な歴史画です。ブーグローの「クピドの懲罰」「武器の返却を懇願するクピド」の一対のような作品にはさまれて「音楽」という作品が、まるで三福一対のように展示されていました。これらの作品に共通しているのは背景が描かれていないで、白または空色の一色が塗られているだけとなっていることです。このスタティックでパターン化されたところと、淡い色彩の使い方で、刺激が少なく、見る者に緊張を強いることがないところなどは、19世紀フランス象徴主義のシャヴァンヌを想わせるところがあります。そうなると、アカデミスムとは言えなくなりますが。私は、西洋絵画をちゃんと勉強したわけではないので、アカデミスムの伝統がどういうものか分からないため、そういうこだわりはないのですが。穏やかさ、静けさというのは、ブーグローの作品に共通した特徴ですね。「武器の返却を懇願するクピド」などは激しく描こうとすれば、いくらでも激しい作品になるのに、この作品は穏やかです。公共的な場所に派手に展示して人々の注目を集めるというより、貴族や裕福なブルジョワの邸宅に飾るような作品だったのではないか思います。ネットで調べてみたら、銀行家の邸宅の客間の装飾として手掛けられたそうです。そのせいか、刺激は少ないが、見ていて疲れない。パッと見で惹かれるというよりは、見ていて飽きがこないというタイプの作品ではないかと思います。それだけに、見る人によっては退屈と見られてしまうかもしれません。これらのうち、「音楽」は天井に描かれていたということで、天空に浮かぶ白い雲の上でそれぞれ楽器を奏でる4人の女性と歌う3人の女性が描かれている。このうちタンバリンと笛を担当する前景の女性たちは半裸で、女神も思わせるところがあり、やや硬く静謐な古代の壁画の雰囲気です。その部屋にいたら、天井を見上げると、こんなのが見える、って部屋も豪華なんでしょうね。こうして見ると、ブーグローはアカデミーの伝統主義者というよりも、フレデリック・レイトンたちのような唯美主義に近いような気がします。
Anothergirl  一方、当時のイギリスでは、ジョン・エバレット・ミレイの作品(ここでも「あひるの子」が展示されています)などの子どもを題材にしたファンシー・ピクチャーが人気を集めていたと言います。ブーグローも少女を題材にした小品を数多く制作したと言います。例えば「少女」という作品です。小さな手を胸もとであわせて祈りのポーズをとる幼い少女の半身像を描いたこの作品は、ファンシー・ピクチャーのひとつと考えられます。ミレイの作品に比べて。少女の肌の柔らかで滑らかな触感が、丁寧に描かれていて、自然な表現が見られ、現実のモデルの存在を感じることができそうです。ブーグローの歴史画が唯美主義的なら、このようなファンシー・ピクチャーはラファエル前派のジョン・エバレット・ミレイと並ぶことになります。そうすると、アカデミーと反アカデミーとの区分は曖昧なんでしょうか。どちらにしても、ブーグローという画家は、技術の高い、丁寧な仕事をする人ですね。
Anothermusic  次のラファエル・コランの「楽」という作品です。森の中で木々を通した薄い光がさし、霧がかかったような薄明で、ものの輪郭がぼんやりとした空間に、半裸で、体の一部を覆う薄いヴェールをまとった女性が独り立っている。人物の扱いと背景の扱いにほとんど違いはなく、構図全体が同じ光の絵画層で覆われている。女性は写実的というより、ある種の叙情性を漂わせる存在となっている。親密で、しかし深く響く静謐さに包まれています。象徴主義的な雰囲気の強い作品です。淡い色彩で平面的な作風はピュヴィス・ド・シャヴァンヌあるいは、淡い色彩で空間に溶け込むように女性を描いたアルバート・ジョセフ・ムーアを想わせるような作品です。アカデミーの伝統というより幻想的で、この画家は象徴主義の詩人ピエール・ルイスの挿絵をよく描いていて、それも展示されていましたが、同じ雰囲気です。「楽」という抽象的な作品タイトルも、絵画全体の雰囲気を表していると思います。唯美主義といってもいいと思います。並んで展示されている「詩」も同じような雰囲気の作品です。
 いずれにしても、ここで展示されている作品は、総じて仕上げが丁寧で、企画展の会場で見たキュビスムの作品の中にあるようなキャンバスの地がでていたり、荒々しい筆触が残されていたりといった粗雑なところは一切ありませんでした。そこに商品としての品質を気を配るといった配慮が為されている、プロフェッショナリズムを見ることができました。
 小さな展覧会でしたが、ウィリアム・アドルフ・ブーグローという未知の画家に出会うことができて、とてもよかったと思います。

 

2023年11月 7日 (火)

冨田恭彦「カント入門講義─超越論的観念論のロジック」(7)~第7章 アプリオリな総合判断はいかにして可能か

 最後に、著者が『純粋理性批判』の重要なテーマとする、アプリオリな総合判断はいかにして可能か、を考えていく。
これに答えるためにカントが準備したのは、感性と知性に、それぞれ経験によらずアプリオリに備わっている仕掛けがあることを明らかにした。この仕掛けはコペルニクス的転回である。
 カントはアプリオリな総合判断には2種類あるという。一つは純粋哲学(形而上学)で概念からの認識によるものであり、もう一つは数学で概念の構成からの認識によるものである。
 カントは数学については経験の助けなしに自力で拡張する、つまりアプリオリな総合認識という。概念を構成するとは、その概念に対応する直観をアプリオリに描き出すことである。したがって、概念の構成には経験的でない直観が必要である。数学は概念の構成に基づくので、その場合の構成は概念に対応する直観をアプリオリに描き出すことで、その直観をアプリオリに描き出すとは、想像によって心の中に描き出すか、その想像に従って紙の上に描くかだ。カントは、想像の場としての心の中に、感性が直観の純粋形式として持っている空間という枠組みが機能しているとみなし、その純粋な空間の中に作図することによって、概念に対応する直観のアプリオリな描き出しができるという。例えば、幾何学のアプリオリな総合判断はどのようにして可能となるか。例えば三角形の概念は三つの直線からなる平面図形といった内容を持つ。この概念をいくら分析しても、分析判断はできても、総合判断は引き出せない。そこで、何らかの手段が必要となるが、アプリオリなものでなければならない。そこで、概念の構成で、想像によって心の中に概念に対応する図を描く。この作業は純粋直観としての空間の中で進められ、その結果描かれる図形も、カントは純粋直観とみなす。それに従って紙に作図すれば、それは経験的直観ではあるにしても、アプリオリなものだという。紙に描かれた図形は特定の大きさの辺や角を持っているが、それをもとにした考察にでは辺や角の特定の大きさを考慮しないことによって図が普遍的な幾何学的認識得るうえで不可欠の役割を担う、と考える。そこには想像力によって想像力によって図が描かれ、それをもとに総合判断が道引き出される。つまり、幾何学の判断は、感性と知性にもともと備わっているものだけを純粋直観から引き出される総合判断だからアプリオリな総合判断だというわけだ。
 次に形而上学の場合、概念に基づく。このタイプのアプリオリな総合判断は純粋知性概念だけから導出されるのではなく、純粋知性概念が可能的経験に対して持つ関係から導出される。例えば、「すべての変化は原因と結果の結合の法則に従って生起する」という原則は、次のように証明できる。我々は時間の流れの中で対象のある状態と別の状態が続いて現われることを、さまざまな仕方で知覚する。しかし、我々が知覚する多様な状態の継起は、ものごとの客観的先後関係を示すとは限らない。それは、我々があらゆるものを時間の経過の中で捉えているが、その場合、実際我々自身がどのような順序でそれを捉えたかが問題ではない場合と、大いに問題になる場合がある。後者の場合には、事象の方に変化があり、そこには我々の知覚の順序と緊密に関わる異なる状態の客観的関係がある。この関係が定まったものとして認識されるためには、ものごとが変化する場合の、その変化について、どちらが先でどちらが後であるかに関して、客観的な順序、客観的な先後関係があり、変化の経験において、客観的先後関係を必然的なものと考えなければならないとする。この必然的ということは経験ではあり得ず、知性があらかじめ持っている純粋知性概念による場合だけである。したがって変化は純粋知性概念を通して捉えるしかない。それゆえ、すべての変化における先後関係は必然的なものに従わなければならない。つまり、あらゆる変化は原因と結果の結合の法則に従って生起する。この証明では、純粋知性概念のほかに、それが適用されるべき経験的事象が取り上げられている。この証明では概念が可能的経験に対して持つ関係が不可欠の観点となっている。
 カントはこのようにして、アプリオリな総合判断について、一方では数学を取り上げ、概念の構成から導かれるとし、他方では形而上学もしくは哲学を概念が可能的経験に対して持つ関係を考慮しつつ概念から導かれるとしている。カントは幾何学の公理や定理が経験の対象であるに自然適用されることを当然としていたが、それと同様に、判断の区分から導かれたカテゴリーをもとに概念から導かれる諸種の原則が、経験に適用され、経験を成り立たしめるとしていた。それで、数学の総合判断だけでなく、自然法則をも、経験を可能にするアプリオリな総合判断と見るところに、カント哲学の大きな特徴がある。

2023年11月 6日 (月)

冨田恭彦「カント入門講義─超越論的観念論のロジック」(6)~第6章 主観的演繹と図式論

 直観において、もろもろの表象からなる多様なものが与えられる。そして、この直観には空間と時間というアプリオリな形式があるが、これは主観(心)が物自体から触発されるときの触発のされ方で、つまり、主観が物自体によって触発されると、その結果、感性が働いて、表象からなる多様なるものが空間・時間中に現われる。ここで、多様なるものは、我々に与えられるときは、その要素をとなる一つ一つの表象はばらばらで、そこには結合はない。それを知性が結合する。一つにする。つまり、ばらばらの表象を感性が与え、それを知性が結合する。この働きを総合という。
 このとき、直観も概念も意識することのできるもの。私は私に現われる表象をについて意識していると常に思っているわけではない。しかし、それが私にとっての表象であれば、いつでもその気になれば意識していると考えられるのではなければならない。そうでなければ、私が意識していないものを意識するということになりかねない。そこでカントは私は考える(意識する)は、すべての私の表象に伴うことができなければならない。この私は考えるを知性の自発性の働きと見る。彼は、この私は考えるという意識の働きを純粋統覚と呼ぶ。統覚とは自己意識である。意識の対象にならないものは意識されない。だから意識というものは根源的なものということになる、それゆえ、純粋統覚を根源的統覚とも呼んだ。
 まとめると、多様なものはばらばらに与えられる。だから結合とか総合という知性の自発性、つまり能動的な働きが、ばらばらなものをつなぎ合せる。これにより表象がまとまり、認識が成立する。ばらばらな多様なものと、それを総合する一つの知性、この組み合わせが認識で捉えられる。このばらばらだとされる一つ一つの表象の一つに注意を向けると、私が意識しているという一つの意識が成立する。別の表象に注意を向けると別の意識が成立する。このとは意識はばらば゛らだが、ばらばらな表象が結合される一つになると、それについての意識も一つになる。つまり、多様なものの総合は意識が一つになることでもある。これが統覚の同一性。ということは、私が自身の心の能動的な働きによって、ばらばらの表象をとまと一つにするということは、私が自身であるたに必要なことなのだ。
 認識は、与えられたもろもろの表象が、一つの客観に対して一定の関係に立つことだ。例えば、金という客観について、ある色、重さ、延性、属性等の性質が現われる。つまり、直観において色が与えられたり、重さが与えられたりする。これらの与えられたもろもろの表象は、ばらばらにまま放置されるわけではない。一つの客観つまり一つの対象゛ある金に対して一定の関係に立つという仕方で総合される。つまり、金という概念に、色や重さや延性や属性等の表象を帰属させるということだ。その結果、金はある色をしているとか金は延性をもつといった認識が成立する。金の表象とさまざまな性質の表象を、心(統覚)の中で結合している。それが成り立つためには、金の表象も、それと結合されるさまざまな性質の表象も、自己意識つまり統覚に属するものでなければならない。要は、さまざまな表象を私という一つの自己意識の中で結び付け一つにすることが、認識が成立するための必須条件なのである。
 このとき、さまざまな表象がただ集められて一つになるというのではなくて、統覚がそう結合しなければならないような仕方で結合されるようでなければならないとカントは考える。ここで、知性はカテゴリーにしたがって多様なものを結合させる。純粋知性概念(カテゴリー)は知性が思考するときに従わなければならない基本パターンで、しかも知性がアプリオリに含む総合の概念だから、直観において与えられ た多様なものは、必然的にカテゴリーに従って総合されることになる。
 ところで、カテゴリーは経験的概念とは違って、それに対する直観がないので、直観に正当に適用できことが示されて(前述で示された)も、どのようにそれが直観に適用されるのかを示す必要があるとカントは考えた。それが、いわゆる図式論である。カントは純粋知性概念(カテゴリー)が直観に通用するためには、両者をつなぐものとして超越論的時間規定が担う。純粋知性概念は概念であるから普遍的で、超越論的時間規定もアプリオリな規定として考えられているので、純粋かつ普遍的で、カテゴリーと同じ特徴を持つ。また、時間は直観ないし現象の基本的枠組みで、超越論的時間規定は時間に関する規定だから、時間をその形式とする現象とも同種的である。このようにして、超越論的時間規定が媒介となって、純粋知性概念が直観に通用する。これを超越論的図式と呼んでいる。

2023年11月 5日 (日)

冨田恭彦「カント入門講義─超越論的観念論のロジック」(5)~第5章 「独断のまどろみ」から醒めて

 ここで、もう一つのハードルがあめという。対象を与える感性とそれについて判断する知性とを、心の二つの異なる能力と見る。知性がアプリオリに持っている純粋知性概念は、あくまで知性のもので、それが感性に適用できるのはどうしてか、という問題である。
 カントはもともと原因と結果の関係は必然的なものであると信じていた。ところが、ヒュームは『人間本性論』において原因と結果の関係を構成するものとして近接と継起の関係を見出し、必然的結合の基となるべき印象派経験には見出せないと主張した。ヒュームは必然的結合は習慣によるとした。つまり、因果関係に必然的結合が自然の中に見つからない。これにより、当初、カントは当たり前と思っていたことが覆された。カントにとって因果関係の概念は経験に基づくものではなく、アプリオリでなくてはならなかった。なぜなら、カントにとって経験的ということは偶然的だったからで、必然ではなかったからだ。そこで、カントはこれを知性が経験と関わりなく持っているカテゴリーのひとつとして扱うことにしたのだった。
 そして、カントは感覚感性と知性を、一方が直観の能力で他方が概念を用いる能力であるというように峻別していた。そこで、知性がアプリオリに備わった純粋知性概念が、感性が与える直観に正当に通用できる保証があるのかという問題を提起した。
 法律に従って人に権利があることを明らかにしようとする場合、二つの問題に明確な回答をしなければならない。ひとつは、事実がどのようになっているのかという事実問題である。もうひとつは法律に照らして、それはどのような権利を持っていると言えるのかを明らかにしなければならない。これは、事実はこうだと言うだけではたらず、法律のこれからこうすればこういうことになるということを明らかにしなければならない。これは権利問題と言われる。訴訟でこれら二つの問題を証明し、権利があることを明らかにすることを演繹という。カントは、これを借用し純粋知性概念の演繹という標題のもとで知性が感性の与える直観に純粋知性概念を適用する権利を持つことを明らかにしようとした。そこで、カントは演繹を2種類に分類する。ひとつはある概念がどのようにして経験から獲得されたかを示す経験的演繹だ。経験的概念は経験的演繹で十分に示すことができる。ところが純粋知性概念は、そのルーツが経験的概念とは全く違う。それは経験から得られたものではなく、知性にアプリオリに備わっているものだ。だから経験的演繹は無理なのだ。そこで、純粋知性概念には超越論的演繹が必要であるという。感性の働きによって現象として与えられる対象は、知性がそれをどのように考えるかとは。無関係に与えられる。そうすると、知性に組み込まれている思考パターンとしてのカテゴリーは感性によって与えられた対象に対等に適用できるか明らかでない。さこで、知性は直観においてアトランダムに与えられた対象に政党ら適応できることを示す必要がある。これは法律の例で言う事実問題では不十分で権利問題ということだ。ここで、カントが行おうとしている演繹は、二つの面がある。それは純粋知性概念がどうして直観ないし対象に正当に適用できるかを考察する面と純粋知性の働きを解明しようとする面だ。前者は『純粋理性批判』のテーマと言えるアプリオリな総合判断はどのようにして得ることが可能なのかという問題、客観的演繹。後者は、心の中での認識能力の働きを確認しようとするもの、主観的認識。さて、ここで知性は直観においてアトランダムに与えられた対象に政党ら適応できることを示すたには、客観的演繹を明らかにすればいい。それについて、カントは感性によって与えられた対象について考えるには知性によるしかないけれど、知性が対象について考えるためには、知性がアプリオリに持っているカテゴリーを用いるほかはないので、これらのカテゴリーが直観に適用されるしかない。つまり、直感は知性のカテゴリーの枠組みで行われるというわけだ。アプリオリな概念がなければ経験の対象とはならないので、そういう認識が求められる限り、アプリオリな概念が直観に正当に適用されると考えるしかない。
 次に主観的演繹について見る。まず、多様なものと総合に関する彼の考えから見ていく。感性は物自体から触発されて感性的表象を得る。つまり、様々な感覚を与えられる。このような仕方で知性が取り扱うべき対象が与えられる。この感覚は多様である。実際に空間には多様なものが見える。このような感覚としての多用はアポステリオリだが、カントはアプリオリな多様性も認める。すなわち、具体的な感覚抜きの空間や時間においても。それは心の中で想像力によってアプリオリな純粋体験を生み出しているが、その想像力が多様なのだと言う。ここで、カントはこの多様なものにいて、多様なのはそれ自体としては複数の異なるものが相互の関わりなくばらばらに与えられているという想定している。そうすると、バラバラである多様なものの総合がどうやって行われるかが問題となる。ばらばらの多様なものと、それを結合する心の働き。これによって、我々が経験している花や猫や山といった経験の対象が成立し、さらにそれら経験の対象が、例えば物体とか動物とかとか分離可能なものといった概念にまとめられ、このような概念を結合することによって経験の対象に関する認識が成立するとカントは考える。そのような経験的認識の形成においてアプリオリに働いているものだけから、アプリオリな総合判断が成立するとカントは考える。

2023年11月 4日 (土)

冨田恭彦「カント入門講義─超越論的観念論のロジック」(4)~第4章 コペルニクス的転回

 カントは、アプリオリな総合判断はいかにして可能か、という問いに答えるために、第一に、超越論的感性論を説いた。それは空間と時間はわれわれの感覚能力にもともと備わっているものの見方のであるということだった。すなわち、カントは、この世界を心の中の表象からなる世界だと考えた、「物自体」と「触発」というのを考えるとそうなる、と言う。
 感性という働きによって、さまざまな対象が直観で得られる。直観で与えられる様々な対象をひとつひとつ消していったとしても、空間は消されずに残る。つまり、空間というのは我々が経験によって、そういうものだと分かるような存在ではなく、そもそもわれわれが感性の働きによってこの世界を見る時、つまり直観を得る時、その直感がその中で得られる基本的な枠組みになっている。空間は、そのようなものがそこに実在しているからそのようなものとして直観されているのではなく、我々が物自体から触発を受け心の中でさまざまな表象を得る時、対象が空間の中に現われるように我々の感性ができているということだ。カントによれば、現象としての対象が我々に直接現れる場合、空間の中に現われるしかないような仕掛けになっている。それゆえ、空間の中に現われるしかない。つまり、我々にとっては、対象が直観で与えられる場合にそれに不可避に関わるもので、このことを条件とか制約とか呼んでいる。そしてさらに、カントは空間だけでなく、時間も感覚能力に(感性)に組み込まれた基本的な枠組みであるという。目に見えている様々な対象は空間の中に現われる。それは、我々の感性に空間が形式として組み込まれていて、外的対象を直観する時、それらかすべて空間の中に現われることになっているからそうなる。そうした外的な対象は、また、時間の中にも現われる。時間は空間と同じようなあり方をしている。空間の場合、現われるのは外的対象であるのたいして、日常的に我々が自分の心の中にあるとすでに感じているもの、例えば感情とか心の作用とかいったものは外的対象と同じ仕方で空間に現われるのではない。一切が時間の中に現われる。
 しかし、カントは感覚が働いて対象が現れただけでは認識を得たことにはならないという。このように感性的に与えられる対象に対して知性(著者は知性といっているが、従来の翻訳では悟性という語が用いられていた)がそれについて考え、判断しなければならないという。思考能力ある判断能力として知性には12個の「ものの見方」「ものごとの捉え方」が組み込まれている。例えば、我々はさまざまな現象を因果関係の観点から捉えようとする。その因果関係という捉え方も、もともと知性に組み込まれているものごとの捉え方なのだ。これが働くため、我々はさまざまな事象を原因・結果の観点から捉えようとする。カントは知性がアプリオリに持っているこのような思考パターンを純粋知性概念、別名カテゴリーと呼んだ。そして、カテゴリーを4つの組に分け、それぞれの組は3つの項からなる。それで12個だ。それは以下のものだ。
1.量のカテゴリー:単一性、数多性、総体性
2.質のカテゴリー:実在性、否定、制限
3.関係のカテゴリー:内属性と自存性、原因性と依存性、相互性
4.様相のカテゴリー:可能性-不可能性、現実存在-非在、必然性-偶然性
 カントによれば、知性は直観に与えられた対象を、これらのカテゴリーを通して、理解し、考え、判断する。
 まとめると、カントは我々がものごとを知るには、対象が「感性」によって我々に与えられなければならず、また「知性」がその与えられた対象について考え、判断しなければならない。「感性」と「知性」のどちらも働かないと、認識は得られない。
 それなら、感性が働いて表象としての対象が与えられ、それについて判断がなされるというのは、経験的認識が与えられるということであり、それで、経験によらないアプリオリな総合判断が可能なのか説明できていない。ところが、カントは感性についても知性についても、それぞれが特定の「ものの見方」「ものごとの捉え方」を持っていると考える。感性については空間と時間という巡回直観形式が感覚農感性に組み込まれていて、知性については12個の基本的な思考パターンが組み込まれている。つまり、総じて、この世界がそのようになっているから我々はそのように見て判断するというのではなく、我々がそのように見、判断するようになっているから、そのように見られ判断されるのだという。これをコペルニク的転回という。

2023年11月 3日 (金)

冨田恭彦「カント入門講義─超越論的観念論のロジック」(3)~第3章 解かなければならない問題

 カントには学問に対して解明すべき大きな問題がふたつあった。ひとつは、純粋数学のような経験によらない学問を構成している特殊な認識がどうして得られるのかという問題。もうひとつは類似した似非学問と区別するにはどうしたらいいかという問題だ。それを解くためには、その準備として分析判断と総合判断の区別から考えていく。
 ここで「すべての日本人は人間である」という文を考えてみる。これは判断を表わしている。この判断の主語は「日本人」であり、術語に「人間」という言葉が使われている。これら二つの言葉はそれぞれ日本人という概念、人間という概念を表わしている。それによって判断が形成されている。ここで概念をもつとは、それがどういうものであるかについて何らかの考えを持つということだ。日本人の概念を持つということは、日本人とはこういうものだという何らかの考えを持っているということだ。それを考えているかぎり、それは意識の対象となる。ということは、概念も表象として扱われる。さて、最初の文に戻る。「日本人」という主語概念を分析すると、その構成要素として「人間」というのか含まれている。「日本人」というのは、ある条件を充たす「人間」のことだ。そして、「すべての日本人は人間である」という判断では、すでに主語概念に含まれている「人間」を重ねて術語概念で提示している。これが真であるのは当たり前だ。しかし、それを言われたからと言って何か新たな知識が得られるわけではない。このように主語概念を分析するとその中に術語概念が含まれているタイプの判断のことを分節判断と呼ぶ。これに対して、主語概念を分析しても、その中に術語概念が含まれていないような判断を総合判断と呼ぶ。そうごうというのは、ここでは、主語概念が術語概念に含まれるというような関係はなく、内容的には別々のものとなる。その別々の概念を判断の中で一つにつなぎ合わせる。つまり、異なるものを合わせて一つにする。それが総合というわけだ。
 準備として必要なものが他にもある。アプリオリとアポステリオリの区別だ。我々がじかに経験し実験し観察することはある意味わかりやすいことだ。このやり方をとるのがアポステリオリという。原理が先にあり、観察や実験はそこから可能になると見る見方からすれば、観察や実験つまり経験は、原理のあとになるもの(アポステリオリ)だ。これに対して、原理的なことが分かっているなら、それから物事を理解するというのも、別の意味では分かりやすい。コリ場合、原理が先行すると考えて、アプリオリ(より先なるものから)という。カントは、経験に基づくものをアポステリオリ、経験に基づかないものをアプリオリという。
 以上のことから、認識ないし判断について、カントは少なくとも二つの観点から区別することができる。分析的か総合的か、そしてアプリオリかアポステリオリかの二つだ。これを組み合わせると4つの可能性が出てくる。分析判断は、それが真かどうか経験とは関係ない。したがって、分析判断はアプリオリなものでしかなく、アポステリオリな分析判断はない。また、創造判断は二つの独立の異なる判断を総合するものだから、二つの概念をつないでいいかとヴかは概念の内容を分析しても分からない。経験に頼るしかないと、普通は考えられている。それで、総合判断といえばアポステリオリということになる。しかし、これに対してカントはアプリオリな総合判断があると主張する。著者は、これこそが『純粋理性批判』の隠れたテーマであると言っている。以降の本書の分析も、アプリオリな総合判断を考察していくのだ。

2023年11月 2日 (木)

冨田恭彦「カント入門講義─超越論的観念論のロジック」(2)~第2章 なぜ「物自体」vs「表象」なのか

 まず物自体と表象の違いから始める。物自体が我々の感覚能力に刺激を与えて、何かが見えたり聞こえたりする。したがって、物自体は今見えている物ではない。今見えている物は色や形からなっているが、それは物自体が我々の感覚能力刺戟した結果見えているので、刺戟という過程を経た結果である。物自体は感覚能力を刺激するが、感覚の対象とはならない。さと、ここでの「刺戟」という言葉はドイツ語の原語に忠実になれば触発すると言った方がより正しい。つまり、物自体が感覚能力を触発して、その結果、対象が見える。そうであるとすると、我々が感覚によって知覚している色や形などといった性質を持っている物はどこにあるのだろうか。それは外にあり、従って性質も外にある。それが触発の結果知覚される。そして物自体は外にある。そうなると、外には物自体と物が二重にあるということになる。でもそれはおかしい。そこで、近代ヨーロッパでは、触発の結果知覚されるものは「我々の内にある」ということになった。カントは、心の内にあって意識の対象となるもの、つまり触発の結果知覚されるものを「表象」と呼んだ。「物自体」が外にあり、それが我々の感覚能力を触発して、その結果、表象が心の中に現われる。我々が直接感覚しているものはみな、触発の結果心の中に現われている表象である。これは、物があり、それが我々の感覚器官を刺激し、その結果、物が見えたり聞こえたりするという我々の常識とは違う。カントが、そういう捉え方をした経緯を著者は追いかける。カントの生きた時代より1世紀前に古代ギリシャの原子論が復活した。様々な現象をうまく説明するためには、感覚で捉えている色や匂いや生熱さ・冷たさなどのような性質は持たず形や大きさ、運動といった性質だけを持つ小さな原子が、空虚(真空な空間)の中を運動してくっついたり離れたりしていると仮設的に考えるものだ。この原子はあまりに小さくて我々の感覚では捉えられないとさける。これは17世紀価額の粒子仮設と呼ばれる。粒子仮設によって原子の世界が新たな外の世界として想定されると、日常の我々が仕方死んでいる色つきの世界を外部というわけにいかなくなる。そこで17世紀の科学者たちはこれを心の中に位置付けた。そして、デカルトが、心の中世界を「観念」と呼び始めた。そこで、心の中に現われ、意識の対象となるものを「観念」と呼ぶようになる。一方、ジョン・ロックは粒子仮設で外にあると想定される物を「物そのもの」と呼んだ。そうすると、物そのもの─触発─観念という構図が出来上がる。それは、カントの物自体─触発─表象に置き換えることができる。
 我々は日常さまざまなものを直接知覚していると思っている。しかし、我々が知覚しているものがそのまま物のあり方を示しているとは言えない。例えば、コップの水に浸したストローは曲がって見えるといった錯覚の事例だ。それは、物のあり方と感覚でとかくするものが乖離している可能性を示している。そこから、我々が日常的に知覚している物の向こうに、本当の物の世界があるのではないかと仮設的に想定することが行われてきた。原子論はその典型だ。そこでは、我々が日常慣れ親しんだ世界は、そうした新しい世界で存在するとされるものから我々が何らかの影響を受けた結果知覚されるものとして、読み直されたものとなる。つまり、我々が慣れ親しんだ世界は、我々の心の中の観念からなるものとして捉え直される。つまり、「物そのもの」─「触発」─「観念」という枠組みは、我々と「物そのもの」との間にむりやり「観念」を割り込ませて「物そのもの」が知覚できないようにしたというのではなく、諸種の理由から新たな「物そのもの」を考えざるを得なくなり、その結果日常親しんでいる世界をも外にある物の世界から心の中にある「観念」の世界へと読み直してできたものなのだ。カントが物自体を認識不可能と考えたのは、このことと関係している。
 我々が日常で世界だと思っているものを、カントは自然と呼ぶ。これが表象からなる世界ということは、自然は心の中にあることになる。カントはこのような自分の立場を超越論的観念論と呼んでいる。つまりも物自体の存在を前提として認識の可能性を考える立場だ。

2023年11月 1日 (水)

冨田恭彦「カント入門講義─超越論的観念論のロジック」

11112_20231101224901  カント入門となっているが、『純粋理性批判』に的を絞り、さらにそのテーマは「アプリオリな総合判断はいかにして可能か」であるとして、最終的にその目的に向けて、丁寧に同書を読み解いていく。それにしても、カントというひとは面倒な手順を踏んで考える人だなあというのが実感。この解説で追いかけるだけでもたいへんな苦労だった。それを、自分でゼロから考えるなんて、その根気というか、執念に近いかもしれないが、には頭が下がる。
 『純粋理性批判』はとくにそうなんだけど、カントって、読んでいて、ブッ飛んでいるような内容とか論理の飛躍といったような歯が立たないといったことはなくて、根気よく筋を追いかけて、読んだことを忘れないで、それを土台に新たに読んだところを理解していく作業を倦まず続ければ理解できるものだと思う。

佐々木俊尚「この国を蝕む「神話」解体」

11113_20231101002601  現代の日本社会には古くさい「神話」のようなものがはびこっていて、政治や社会や経済の邪魔をしている。それは、テレビや新聞などのマスコミが20世紀後半につくり上げてきたステレオタイプなモノの見方である。それらの神話は20世紀には有効だったかもしれないが、21世紀の現在ではまったく無意味になっている。それなのにたくさんの古くさい神話が、依然としてマスコミの影響力と共に頑として日本社会のあちこちにはびこっている。そこで取り上げられる様々な事例は、“あるある”として、その指摘だけでもたしかにそうだと納得できるものばかり。なかには、言われてみればそうだったねと気づくものもあり、知識、情報として得るものも多い。
 思うに、人々の生活とか社会とかは立体的だし、常に動いている。それをある時期、例えば、今を切り取ってその時点でどうなっているかを分析したり理解しようとするとき、その動きを止めた静止画のようにして平面の図式にすると理解しやすい。その図式のやり方として手軽なのは二項対立、例えば公私の二元論だ。しかし、社会は動くとその図式が変化するはずが、いったん出来上がった図式とは社会はずれていってしまう。また、空間を平面で描けば隠れた目面が生じてしまう。二項対立の対立図式はずれてしまう。それがトレードオフだ。ある面では対立かもしれないが、別の面では相互依存だったりする。その弊害が神話として生じてしまうということではないか。そうだとすれば、単にそれは神話で、ひとつひとつ見つけて解体しましょうで解決するのだろうか。当面は、そうすべきなのかもしれないが。本書は、今、こういう状況ですという報告にとどまっているようだが…。

 

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