渡辺保「吉右衛門─「現代」を生きた歌舞伎役者」
先日亡くなった二代目中村吉右衛門について、個々の舞台の劇評を重ねて、彼の芸風の特徴と魅力を浮かび上がらせた著作。単に名優とか豪快な立ち役といった抽象的なラベル貼りに終わらず、具体的な立ち居振る舞いや仕草が、どのように吉右衛門という歌舞伎役者の芸風をつくったかを具体的に明らかにしている。この人の文章は歌舞伎を見ていない私にも面白い。その理由は、文章が論理的に明快なこと。シンプルで、文章の関係が接続詞ではっきりしている。若い人が論理的な文章を習うのには、お手本になる。そして、劇評が個々の劇の良し悪しを言うだけではなく、そこに評者が歌舞伎の可能性や奥深さを随所に顕にしているところ。単に、あれが良かった、悪かったで終わることなく、この評者は何が良いのか、悪いのか、どうして良いのか、悪いのかを説明しようと努力している。当然、そこには、歌舞伎とは何かの根本的な問いかけが、そのたびに為されている。それが文章に現われている。また、素晴らしい舞台に接したとき、評者が役者の個々の立ち居振舞いに意味を発見しているところが凄い。一つの手振りの意味を解した事で、場面の重要性や登場人物の隠れた信条が、新たに明らかになって来るのは感動的ですらある。とくに、吉右衛門は、そういう細部に演じている人物の人間像が現われることに長けた役者だったことが、よく分かる。それは、歌舞伎というバロック的な形式主義の演劇に内面をもった人物をもちこんで、骨太なドラマを構築したものだった。著者は、そこに古典としての歌舞伎が現代的意味を持ち得たとして、新たな歌舞伎を発見し、そのことに感動する。そのこと自体が読み物として、とても興味深い。
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