コンスタンティン・シチェルバコフによるショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」
ショスタコーヴィチという作曲家については、ソ連が現実に存在していた世代には「ヴォルコフの証言」などが想起されて、専制支配による監視社会で、体制への迎合する作品の創作を強制され、そういった作品の中に本音を潜在させるという屈折を読み取ろうとする傾向がある。15曲ある交響曲などは、今でも、そのような紹介をされ方がいまだにある。しかし、この「24の前奏曲とフーガ」とピアノ曲は、JSバッハのいわゆる「平均律クラヴィーア曲集」と同じタイトルをとっているように、バッハに倣った構成で、本音とタテマエといったような屈折はあまり感じさせられず、むしろ、フーガを複雑に織り上げることに嬉々としているような印象をうける。この作品を聞いていると、複雑にすることにたいする過剰な嗜好、複雑フェチとでも言いたくなるようなとこがある。本音とタテマエの屈折などというのは、作品を複雑にしたいという嗜好の現われのひとつではないかと思えてくるほど。
ただし、この曲の初演者であるタチアナ・ニコライエーワによる録音は、恣意的に一部を強調的に浮き立たせて、フーガの複雑さを弾ききれていないところがある。このコンスタンティン・シチェルバコフの演奏は、フーガの複雑さをいかに響かせるかという表面的な効果に専心しているように聞こえる。若い頃のポゴレリチがスカルラッティやハイドンで演ったような軽い打鍵で、沢山の音を同じ時間に詰め込む表層的な戯れのような、それでいて軽快なノリのある。ショスタコーヴィチの音楽って、こういう性質のものだったのではないかと思う。
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