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2023年11月22日 (水)

東浩紀「訂正可能性の哲学」(7)~第6章 一般意志という謎

 ここでは、ルソーが『社会契約論』で提起した一般意志について考察する。一般意志とは社会全体の意志のことである。しかし、これには大きな謎がある。
 ルソーはまず、人間は文明以前の自然状態では孤独に生きていたと仮定する。それでは強い外敵に対抗できないので、わたしはあなたに暴力を行使しないから、逆にあなたもわたしに暴力を行使しないでくれという契約を交わし、みなの暴力を一か所に集中させて、大きな強い集団、つまり社会をつくることになる。それが社会契約である。その社会契約が成立したとき、必然的に生まれる集団の意志として定義されている。ここで注意すべきは、一般意志は個人の遺志を集めたものではないということだ。ルソーは一般意志の他にも、特殊意志と全体意志という概念を導入している。特殊意志は個人の遺志を意味し、その特殊意志の集まりが全体意志だという。一般意志と全体意志の差異は公共性と関係している。私的利害を幾ら集めても私的利害でしかなく、特殊意志が集まった全体意志も私的な利害でしかなく、社会全体の公共的な利害を代表することはできない。これに対して一般意志には公共性があるという。著者は、この一般意志と全体意志の違いにこそ、民主主義の本質的問題があるという。
 民主主義あるいは民主制の原語であるデモクラシーは古代ギリシャに遡るが、人民が支配するという統治者の数を意味する言葉でしかなかった。それを劇的に変えたのが『社会契約論』なのである。そのカギとなったのが一般意志という概念の導入だったのである。
 個人の遺志が集まって集団の意志が生まれる。それは当然だが、現実には、そんな集団の意志に従うだけでいい政治ができるわけがない。そんなのは、現代ならポピュリズムと言われるだろう。それは誰もが知っている。それゆえ、ルソーは統治は一般意志に導かれるべきと言うためには、、一般意志の概念を全体意志から区別しておく必要があった。一般意志という名の新しい集合意志の概念を発明し、全体意志と異なり公共性が宿ることにすれば、それに社会が導かれても問題ない。『社会契約論4』には、そんなアクロバティックな概念操作が隠されていたのである。しかし、ルソー自身は一般意志と全体意志の区別については抽象的にしか語っていない。具体的差異は何も分からないのだ。
 著者は、遠回りのようだが、まずはルソーという人物に焦点を当てる。彼の伝記的事実を追いかけると、けっして哲学者になりたくてなった人物ではなかったことが分かる。かれは、哲学とは距離を置き、哲学以外の業績を多数残している。とくに文学での業績が大きい。とくに『新エロイーズ』や『告白』は新しい人間観を提示し、19世紀ヨーロッパを席巻するロマン主義の先駆とされている。ロマン主義とは、人間とはけっして合理的な強い存在なのではなく、むしろ情念に降りまわされ、他人を傷つけ、ときに自分自身すら壊してしまうような弱く不安定な存在なのであり、それ故に尊いのだという人間観である。ロマン主義は理性的な啓蒙主義への反動として位置づけられている。実際のルソーはロマン主義を地でいくような人物、著者は、現代ならコミュ症のメンヘラと形容されるような人物で、そもそも公共について考えるような人物ではなかった。一般意志という概念は、そういう人物の手によって導入された。
 ここで、おさらいとして社会契約はルソーが始めた考えではなかった。社会はなぜ存在するのか、統治する人々と統治される人々の区別がなぜあるのか。神が決めたというのは通用しない近代にヨーロッパで、それに答えたのが社会契約説だった。社会契約説は、王という特別の人物に権力が集中し、多数の人民がその支配に従わねばならないのは、かつて、歴史の起源において、人民の方こそ権力の集中を必要とし、相互に契約を結び王を選んだという理論である。この思想は近代史で決定的な役割を果たした。王の権力は人民が必要としたからこそ存在する。裏返せば、王の権力は、人民が必要としないなら正当化されない。つまり転覆してもよいということになる。革命はこの論理によって正当化される。
 そして、ルソーの社会契約論は、先行したホッブスやロックとは内実に違いがある。彼らは自然状態の人間は不安定で社会を形成してはじめて人間らしい生き方ができる。言い換えると、人間は孤独では生きてゆけない、いつ殺されるかもしれないし、いつ財産を奪われるかもしれない。だからこそ人々は社会契約を必要とする。これに対して、ルソーは、人間は自然状態の方が幸福だったと主張する。人間は孤独でも生きて行ける、むしろ孤独な方がよく生きることができると考えていた。それなら、社会契約など必要ないのではないか。それは、ルソーが一般意志を導入した理由でもある。ホッブスやロックでは個人が私的利害を守るために社会契約をするのだから、社会は特殊意志の集積、つまり全体意志からおのずと立ち上がってくる。だから全体意志だけで十分で一般意志は必要ない。ルソーは、そうではない。個人は自然状態で幸せに生きることができるのだから、社会契約は私的な利害から生まれる理由がない。特殊意志をいくら集めても社会は立ち上がらない。そこで、ルソーは全体意志と区別される一般意志という新しい概念を導入したのだった。これはまた、ルソーという人物のロマン主義的な人間観と深く関係している。コミュ症例のルソーとしては孤独でいる方がよかった、その彼が社会契約論を論じたのだ。では、なぜ彼は社会契約論を論じたのか。そこで視点を変えることを、著者は提案する。社会契約説と言えば、ふつうは、まず自然状態があり、次に社会契約が結ばれ、その結果社会が成立する。そういう順番で理解される。その視点を変えて、まず、社会が存在し、つぎにその起源として社会契約が見出され、結果として一般意志があたかも最初から存在していたものであるかのように仮設されるという遡行的な発見の過程が隠されていると見る。ホッブスやロックは、人は一人では生きられない、だから社会をつくったと考えた。これに対してルソーは、人はひとりでも生きられる、にもかかわらず社会を作ってしまったと考える。著者は、このルソーの発想には訂正可能性と深く関係していると指摘する。ルソーは社会契約は訂正によって遡行的に発見されるものだと考えていた。社会契約なんて、もともとは存在しない。しかし発見された後は存在するのだった。
 次に『社会契約論』には各構成員はすべての権利とともに自分を社会に譲渡するのだから、各個人は身体と能力を共同のものとして一般意志の指揮の下に置くのだと述べられている。つまり、契約は社会に絶対的な贈与をするものに変わっている。そうだとすると、市民は自由の対価を何も期待できないことになるからだ。
 ただし、ルソーは社会契約は贈与だとは述べていない。たしかに、社会契約によって、人は権利と財産をすべて社会に譲り渡す。しかし、彼はすぐそのあとで、それらの権利や財産はすべて社会による保護という形で戻ってくるので、各人は何も失わない。同じものが自分と社会との間を往復しただけなので、各人は何も失わない。にもかかわらず、その往復行為によって、社会が現れる。
 著者は、なぜこのようなアクロバットともいえる理屈をルソーが必要としたのかを考える。ホッブスやロックの場合と違って、ルソーの場合は、人は自然状態でも安全に生きることができる。だから、自由を提供して安全を手にするという交換は成立しない。言い換えれば、社会契約の後も、自然状態と同じ自由を有していなければならない。そうでなければ社会契約を交わすことなどありえない。だから、自然状態から社会契約への移行には必然性がない。にもかかわらず、それは起きてしまった。いちど、その移行か起きてしまえば、遡行的に社会契約を発見するほかはなくなる。ずっと社会契約は機能してきたと認める。このように遡行的に発見された社会契約は抽象的である。従って一般意志も抽象的であることに留まる。社会契約が成立している状態では個人の遺志は一般意志に等しくなる。もし、一致していなことがあったとしたら、それは個人の方が思い違いをしていると考えるべきだ。個人が一般意志に従うとは、そういうことだ。これは、裏を返せば、社会契約をめぐる遡行的な思考が、それを支える訂正可能性が忘れられたとき、政治的に危険なものに変貌することになる。
 一般意志は人間が作るものではなく、人間を超えたものだから、常に正しいという。例えば、自然による制約、それが正しいか否かを判断することはない。はれるときは晴れるし、山も川もそこにある。人は、その環境の中で行動するだけであり、晴れるのが正しくないと叫んでも意味がない。その点では自然は常に正しい。同じように一般意志も常に正しい。このように、一般意志が存在してしまっているのだとすれば、それは遡行的に見出されたものであると考えなければならない。
 このように議論してきたルソーの屈折は、21世紀の人工知能民主主義につながってくる。そして、そこに人工知能民主主義の弱点が現れる。18世紀のルソーが21世紀に結びつくには、二つの再解釈の契機があった。ひとつは無意識の発見であるという。端的に言えば、特赦意志そして全体意志は意識されるが、一般意志は意識されない。いわば意識より深い位置にいる無意識、鹿も無社会全体の集合的無意識のレベルにあるという。二つ目は統計の整備である。現在では統計的手法でデータを整備し、それに基づいて予測をするのは当たり前のことになっている。しかし、ルソーの時代は、統計的手法はおろか、正確なデータがなかった。しかし、一般意志の規定は統計について語ったものであるかのように読めるところがある。一般意志は人間の意志でありながら人間の秩序の外にあり、事物の秩序にちかい強制力を持っている。統計する個別の事象は個人の遺志によるものだとしても、全体の発生件数は正確に予測できてしまう。それはまるで人間の力の及ばない自然の制約のようだ。このような状況で、一般意志に個人は逆らうことができない、そこから訂正可能性を取り去ってしまうと、人工知能民主主義と結びつくという。シンギュラリティという夢想である。著者はそこに問題があるとする。
 ルソーは、人間が、一方では不平等な社会をうけいれつつ、同時にその同じ社会を憎みもする。たいへん都合のいい存在であることがよくわかっていた。社会契約を交わし、みずから自由を譲り渡しておきながら、同時にすべてを壊して自然へ戻りたいと叫ぶような身勝手な存在であることがよく分かっていた。『社会契約論』は人間のそのような二面性を前提に構想されている。だからこそルソーは逆に、一般意志は正しいと、つまり、一般意志はどんなことがあってもつねに遡行的にただしいとされてしまうものだと記さねばならなかった。ルソーの一般意志はつねに正しいという命題は、一般意志はつねに正しいとされてしまうという隠れた副命題とともに理解されなくてはならない。そしてその正しさは、つねに懐疑論者の出現によって訂正され続ける。政治とは、その訂正の場のことだった。一般意志は素朴に実在しない。それは、人間がつねにすでに巻き込まれている訂正可能性のゲームのなかで、遡行的に発見され、正しいものだとされてしまう。そのような逆説的な理念でしかない。そのようにルソーを読むことが、唯一民主主義の未来につながる道だと著者は言う。一般意志の抗争は訂正可能性の思想によって補われなければならない。

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