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2023年11月22日 (水)

東浩紀「訂正可能性の哲学」(6)~第2部 一般意志再考 第5章 人工知能民主主義の誕生

 コロナ・ウィルス感染症は、一瞬で社会が崩壊する類の感染症ではなかったが、世界中で恐怖心を煽る報道が相次ぎ、各国は超法規的な強権発動を繰り返した。科学者や医療従事者の冷静な声も、大衆の恐怖を抑えることはできなかった。これは、この四半世紀もの間、情報技術の進歩と共に拡大し続けてきた過剰な人間信仰に対して、強烈な冷や水を浴びせかける経験だったと著者は言う。そして、現代の民主主義の困難は、この信仰と深く関係していると。
 これに先立つ2010年代は「大きな物語」が復活した時代だったという。大きな物語とは、人類は進歩しており、それについていくのが正しいというものだ。この物語の母体は情報産業論や技術論である。それを担ったのは起業家やエンジニアだ。そこで流行したのが「シンギュラリティ」という言葉だ。特異点と訳される英語で、人工知能(AI)が人類の生物学的なな知能を超える転換点、あるいはその転換によって生活や文明に大きな変化が起きるという思想を意味する。代表的な主唱者はアメリカの未来学者レイ・カーツワイルや、日本では落合陽一がいる。落合の『デジタルネイチャー』では、近い将来、世界のあらゆるところにセンサーが張り巡らされ、人流も物流もすべてがデータ化され、ネットワークを介してアクセスされ分析されるような時代がやってくる。そのとき、デバイスを通じて知覚するデータ環境が新たな自然として認識されることになる。それがデジタルネイチャーだという。そして、これからの政治やビジネスはこれを活用することになる。そこでは、人工知能により理想的に管理された社会が到来する。その時人類は、ひとにぎりの先進的な資本家=エンジニア層と、残り大多数の労働から解放された大衆層に分裂する。これは人類を、ひとにぎりのエリートとそれ以外に分ける社会像で、ある種の全体主義と言える夢想だ。
 しかし、パンデミックは、その確信に冷や水を浴びせかけた。感染抑制に人工知能やビッグデータを活用する試みは成果をあげなかった。その一方で、SNSはフェイクニュースや陰謀論の拡散を担ったのだった。
 これを政治思想において見てみると、2000年ごろから情報技術革命が言われ始め、ネットの出現は誰もが自分の主張を無料で世界中に発信でき、応答ももらえるという環境を生みだした。そこに新たな政治の可能性見出すのは自然なことだ。ネットにより、意識の高い市民が国境を越えて情報交換し、地球規模の民主主義が立ち上がる。しかし、スマホとSNSが生まれ、ネットの性質が大きく変化した。それ以前のネットは接続できる人は比較的少数でアクセス時間も限られていた。それがスマホとSNSにより誰もが常時アクセスするようになった。その結果は、民主主義を強化するどころか、多くの人は、話したい人とだけ話し、見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞くようになってしまった。その結果が陰謀論フェイクニュースであり、分断であった。思えば、落合もカーツワイルもコンピュータの進歩を語ってはいたが、それを利用することで人間ひとりひとりが賢くなるとは主張していなかった。彼らは、人類社会の全体が人工知能の力を借りることで、「群れ」として賢くなる可能性だけを考え、個人(例えば愚行を犯す人)は視野になかった。
 第2部では民主主義について考えていく。それを担う人間の統治能力そのものへの失望について検討する。このように失望を前提とした民主主義の構想を人工知能民主主義と呼ぶ。複雑になった世界では、もはや人間の貧しい自然知能に統治を任せることの方が危険で無責任であり、これからは民主主義を守るためにこそ、むしろ政治から人間を追放し、意志決定を人工知能に任せるべきと提案する政治思想のことだ。そして、この前提となる失望は最近のことではない。虫、近代民主主義の出発点、18世紀のジャン・ジャック・ルソーに遡ることができる。

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