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2023年11月19日 (日)

東浩紀「訂正可能性の哲学」(4)~第3章 家族と観光客

 家族を辞書で引くと、同じ家に住み、生活を共にする配偶者および血縁の人々を意味する言葉だとある。しかし、現実には、この定義は失効している。同居していない家族は数多い。そこで、家族という言葉をアップデートする必要があると、著者は言う。
 我々はみな家族に属している。いま属していない人も、かつては属していたはずだ。しかし、その家族を選ぶことはできない。生まれるにしろ、育てられるにしろ、家族の構成員は一方的に押しつけられる。そしてその選択に必然的な理由はない。逆の見方で、子どもが生まれれば家族のあり方は変わる。家族は、ある視点からみれば閉鎖的で抑圧的な共同体だが、別の視点でみれば開放的で自由な共同体でもある。このような、一見すれば矛盾となるものについて、ウィトゲンシュタインやクリプキの議論を踏まえると、説明が可能になる。すなわち、家族は成員も規制も何もかもが変わっていくにもかかわらず、同じゲームを行い、同じ何かを守り続けていると信じている。我々は、そのような家族のゲームの中で、何の同意もなく新しいプレイヤーとして生れ落ちる。ゲームは既に存在しているのだから、参加は強制的で、いかなる必然性もない。なもかかわらず、規則は常に訂正可能なので、家族というゲームには拡張可能性がある。家族の参加者は同じ家族の体裁を持ったまま、いくらでも内実を変更することができる。それでも、我々はずっと同じ家族である。このような家族の性格は、人間のコミュニケーションの本質から導き出されたものだ。
 ところで、カール・シュミットは、政治とは本質的に友と敵の対立を基礎として敵を殲滅させる行為だと言った。友と敵の対立は、共同体の内と外の対立と言い換えてもよい。要は、共同体の境界を定め外部を排除する行為ということだ。共同体の住民は友でよそものは敵というわけだ。しかし、そのどちらにも当てはまらない中途半端な存在として、著者は観光客を提示する。共同体を通過するだけだから友ではないが、敵でもない。しかし、よく考えてみれば、われわれはすべての問題に中途半端にしか関わることができない。だから中途半端な存在といえるのだ。ところで、このようなシュミットの議論は共同体の境界線がはっきりしていることが前提となる。これまで、本書で見てきたように、家族という共同体は閉じている開かれているという対立ではとらえきれない、閉じていて同時に開かれている。二面性がある。人は友でもなく敵でもないということはありえる。家族は、そういう中途半端な構成員で作られている。
 著者は、その構成原理として誤配という概念を提示する。誤配とは、メッセージが届くべき人に届かない、逆に届くべきでない人に届いてしまうことだ。このようなコミュニケーションの失敗は、じつは公共性や創造性の源泉にもなり得るものなのだ。著者は、これを数学的な理論に関連付けて、次のような議論を展開する。たいていの人は、見知らぬ人間といきなり友人になるよりも、友人同士もまた友人であるような閉鎖的な人間関係を強化することを好む。これを数学のグラフ理論ではクラスター係数が大きいということになる。ところが、現実の人間関係を調査すると、人々の交友は意外なほど広がってもいて、意外な場所で友人の友人に出会うこともある。それはスモールワールド性と呼ばれる。人間は一方では明らかに閉鎖的なコネ社会を好む傾向があるのに、他方では開放的な共同体も作る。なぜそんなことが可能かという問いに、グラフ理論は数学的な回答を与えてくれる。すなわち、グラフ理論では、閉鎖的でありつつも開放的であるという二面性は、「つなぎかえ」という操作を仮定することで実現可能となる。つなぎかえとは、多数の頂点が線分でつながることによって作られるネットワークにおいて、各頂点を始点とする線分の終点を、特定の確率でランダムに選ばれた他の頂点に付け替える操作のことである。人間関係に置き換えれば、ある人が友人として関係する相手を、特定の確率で全然知らない他人に置き換えてしまうような操作のことだと考えればよい。この「つなぎかえ」こそが、誤配の数学的実体である。この誤配=つなぎかえは、訂正可能性の概念とも深く関係している。加算の共同体にクワスに変わる。そこで起きているのは、それまで共同体で伝承されてきた規則や意味のつなぎかえである。共同体はもそれまで共有されてきた規則や意味のネットワークが、ランダムな誤配=つなぎかえによって半ば強制的に訂正されることで持続性を獲得する。
 我々は家族をつくる過程で、思わぬ人と出会い、家族をつくり、新しいメンバーを増やす。あるいは、思わぬ別れや死に直面する。予想通りにはいかない。家族や人生の運命なるものは、遡行的にさまざまな訂正によって、捏造されたものでしかない。誤配と訂正の連鎖こそが、現実の人生の特徴である。家族とは神聖で親密で運命的で、そして訂正不可能な閉ざされた共同体だという発想の方が非現実的だ。家族とは訂正可能性の共同体だ。そこでは、偶然と運命、変化と保守、開かれているものと閉ざされているものは対立しない。それらの対立は、手遡行的な訂正可能性が作り出す幻影にすぎない。

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