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2023年12月

2023年12月31日 (日)

2023年に読んだ本

今年1年間で読んだ本は、以下の55冊。年間100冊は遠くになりにけり。若い頃は、毎月総合雑誌を読みながら、そのほかに年間100冊読んでいたのに。ペースも遅くなったし、読解力も落ちてきたのを痛感している。読んでいて、どこを読んでいるのか忘れてしまうことが何度かあった。今年は、以前読んだ本を再び手に取って読み直したりしたが、それらの本について、以前に読んだはずなのに、内容を覚えていないことが多かった。これで、今年も終わり、来年はどんな本を読むのだろうか。
加藤陽子「戦争の日本近現代史─東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで」
八重樫徹「フッサールにおける価値と実践─善さはいかにして構成されるか」
森本恭正「西洋音楽論─クラシックに狂気を聴け」
源河亨「『美味しい』とは何か─食からひもとく美学入門」
三谷博「維持維新を考える」
リチャード・パワーズ「惑う星」
モリス・バーマン「神経症的な美しさ─アウトサイダーが見た日本」
川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」
小林英夫「日本軍政下のアジア─『大東亜共栄圏』と軍票」
坂口ふみ「〈個〉の誕生─キリスト教教理をつくった人々」
佐藤彰宣「〈趣味〉としての戦争─戦記雑誌『丸』の文化史」
貞包英之「消費社会を問いなおす」
井筒俊彦「ロシア的人間」
高宮利行「西洋書物史への扉」
川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」
加藤陽子「戦争まで─歴史を決めた交渉と日本の失敗」
佐藤優「宗教改革の物語─近代、民族、国家の起源」
御子柴善之「自分で考える勇気─カント哲学入門」
秋元康隆「意志の倫理学─カントに学ぶ善への意志」
渡邊義浩「論語─孔子の言葉はいかにつくられたか」
三谷博「愛国・革命・民主─日本史から世界を考える」
関曠野「民族とは何か」
堀朋平「わが友、シューベルト」
富山豊「フッサール 志向性の哲学」
川北稔「民衆の大英帝国─近世イギリス社会とアメリカ移民」
加藤典洋「もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために」
辻田真佐憲「『戦前』の正体─愛国と神話の日本近現代史」
斎藤慶典「私は自由なのかもしれない─〈責任という自由〉の形而上学」
中畑正志「アリストテレスの哲学」
橋本治「失われた近代を求めて」
若松英輔、山本芳久「キリスト教講義」
小野雅章「教育勅語と御真影─近代天皇制と教育」
川北稔「イギリス近代史講義」
コルナイ・ヤーノシュ「資本主義の本質について─イノベーションと余剰経済」
小坂井敏晶「矛盾と創造─自らの問いを解くための方法論」
小島毅「靖国史観─幕末維新という深遠」
八鍬友広「読み書きの日本史」
斎藤慶典「『東洋』哲学の根本問題─あるいは井筒俊彦」
東島誠「「幕府」とは何か─武家政権の正当性」
神長幹雄編「山は輝いていた─登る表現者たち十三人の断章」
関口安義「「羅生門」を読む」
小坂井敏晶「民族という虚構」
大沼保昭「「歴史認識」とは何か」
轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」
三谷太一郎「日本の近代とはなにであったか─問題史的考察」
今井むつみ、秋田喜美「言語の本質─ことばどううまれ、進化したか」
佐々木俊尚「この国を蝕む「神話」解体」
冨田恭彦「カント入門講義─超越論的観念論のロジック」
稲垣義典「神とは何か─哲学としてのキリスト教」
東浩紀「訂正可能性の哲学」
渡辺保「吉右衛門─「現代」を生きた歌舞伎役者」
今井むつみ「ことばと思考」
古田徹也「謝罪論─謝るとは何をすることなのか」
北澤憲明「境界の美術史─「美術」形成史ノート」
十重田裕一「川端康成─孤独を駆ける」

2023年12月30日 (土)

十重田裕一「川端康成─孤独を駆ける」

11112_20231230224601  個人的な経験では、「伊豆の踊子」は日本文学の入門のようなものだった。ノーベル賞作家として、川端は著名だし、映画やドラマの文芸作品で、川端の作品はよく取り上げられるが、今は、本屋さんの新潮文庫の棚をみても、必ずしも揃っているようではない。名前は知られているけれど、敬して遠ざけられているようなものか。川端自身、若い頃から、映画とかテレビとか最先端のメディアに強い好奇心をもって、積極的にコミットし、例えば、制作に参加したり、原作を提供したり、そのことが作品を広めることになったという。その典型例が「伊豆の踊子」で、発表当初は川端自身も自信作とせず、世評も高くはなかった。それが、映画の原作となり、時のアイドルが主演をつとめたことで評判になり、人気作となったという。それを、この本では、その孤独の精神を源泉に、他者とのつながりをもたらすメディアへの関心を生涯にわたって持ち続けたと説明する。それが、本書のサブタイトル「孤独を駆ける」なのだろうか。でも、それが、作品の内容にどのような反映しているかは一部に限られている。
 著名な川端康成という作家の概要を知るには、よくまとっているし、いいと思う。
 それよりも、川端の世代は、地方の方言で育ったところで尋常小学校で東京の山の手言葉を基調とする標準語を学ばされられた。外国語を学ぶように標準語を学ばされるという日本語との格闘を繰り広げたという。た、この世代は海外文学の翻訳が進み、川端は進学のため上京して多くの外国文学に接したのだったが、それは標準語による翻訳を通してであり、外国語→標準語→方言による生来の言語という二重の翻訳を通して受け入れる。これが、川端に独特の言語感覚を持たせることになった。それが言語感覚の柔軟性で、映画のような映像による語りを柔軟に消化することができたのではないか。そういう議論の方が、私には説得的に映る。
 私の個人的な川端観は、そういう文学の大家というよりは、「片腕」とか「みずうみ」とか「眠れる美女」のような変態的な作品を書いた危ない作家。人間の奥底に潜むドロドロしたもの書いてしまう作家。図書館なんかに堂々と置いてはいけない作家なのだが。端的にいえば、ポルノグラフィ。「伊豆の踊子」にしても、思春期の男の子の多くは岩風呂のシーンを見ることを目的に映画館に行ったものだった、という思い出がある。

 

2023年12月29日 (金)

北澤憲明「境界の美術史─「美術」形成史ノート」(4)~Ⅲ.美術の境界─ジャンルの形成

『「日本画」の形成に関する試論』
 日本画という言葉は江戸時代でも一部で使われたようだが、広く一般化したのは明治時代以後のことだ。これは、日本という国号が7世紀頃から用いられていたが、他にも大和や和もあり、国号を「日本」に一本化し、それを制度化したのは明治時代になってからというのと、パラレルに見ることができる。明治以前には、日本画という言葉は、他にも大和絵、和画、日本絵といった言葉があり、それらが並んでいた。「日本画」は明治以後に国家意識に伴われて使われ始めた言葉であるということができる。
 絵画をめぐる制度といえば、近代以降では展覧会や美術館があげられる。この制度は絵画のあり方にも関わっていた。それは、いわゆる会場藝術の形成と一体であり、会場藝術は絵画を自律的な存在として生活の中から取り出し、隔離することによって自律性を要件とする絵画の近代化を推進した。つまり、部屋の装飾のような実用から美術館という絵画鑑賞専用の空間で芸術としてもっぱら鑑賞されるものとなった。それは新しい絵画との付き合い方でもあった。そのことにより、新しい作者とかんしゅうを形成することになった。日本の場合、内国勧業博覧会が国家の殖産興業の目的で開かれた展覧会であり、そこから造形の近代化にかかわる制度が創始されたのだった。「日本画」いう語が普及するのに、この展覧会が果たした役割は大きい。内国勧業博覧会の展示区分では「書画」の中は技法や材料による区分がなされ、「日本画」も「洋画」という名称も見られない。ただし、この時に関係したお雇い外国人であるワグネルは「日本固有の画」が西洋画に展示会場で席巻されつつあることの危機感を報告している。ここでは、「日本」という概念が外に向かって名乗りを上げるというベクトルだけではなく、外から注がれる視線のベクトルも宿している。具体的には日本を日本として客体化しながら、そこに解釈としてのイメージを織り上げていく働きである。これは、このあとフェロノサに引き継がれていく。彼らの日本画への評価は西洋の価値観に基づいて行なわれたのである。
 フェロノサは明治15年に『美術真説』を出版する。そこで、彼は美術が美術であるのは美術の妙想(イデア)を有するからで、作品は表現形式と主題で構成される独立した統一的な世界である。新機軸を打ち出し、新しいイデアを表現してゆかなければ美術は衰退する。絵画は近代の西洋画のように写すことに主眼を置くものではなく、作るものであるべき。こうしたことから日本の絵画は西洋絵画に優越すると主張した。彼の考え方はイデアを中心に据えて作為性を重視するもので、これは西洋的な考え方で、作為よりも自然を善しとする江戸時代までに形成された絵画観とは明らかに相容れない。フェロノサをはじめとした西洋人には日本の絵画の色彩表現は貧弱に見えたという。このような日本の絵画をフェロノサにとって真っ当なものにするために狩野芳崖の協力を得て色彩表現の実験を展開していった。フェロノサにとって絵画はpainting、すなわち色とりどりの絵の具で塗り分けた平面のことだった。近代の日本絵画の形成にフェロノサの与えた影響は絶大なものだった。フェロノサは西洋派ではなく国粋派のイデオローグとして活動したのであった。彼は自身の西洋的絵画観には無自覚で、それは普遍的なものだと思っていた。彼は、日本社会に伝習的に行われる絵画に潜在しているはずの普遍性を磨きだそうとしていた。それゆえに、彼は広く信奉されたと言える。ということは「日本画」というのは翻訳語であったということだ。このことは、「日本画」の成り立ちが外から、つまり西洋からの視線を契機としていること、言い換えれば西洋人が表象する日本絵画のあり方が「日本画」の成り立ちを大きく左右したことを示している。著者は、フェロノサをはじめとする外国人たちについて、エドワード・サイードのいう「オリエンタリズム」に擬えているが、それは当を得ていると思う。要するに、西洋人が日本絵画という者に関して抱く表象が「日本画」の起源のひとつであり、それはオリエンタリズムの発想に通ずるものであった。例えば、フェロノサは「日本画」から文人画(=南画)を切り捨てている。
 「日本画」は国民的絵画様式だといわれるし、日本的なるもののあらわれだともいわれる。しかし、歴史を超えた不変な「日本」などありえない。それは歴史的にも地理的にも相対的なものに過ぎないし、そこに永遠なものの相を見るとしたら、それは幻影でしかない。
しかも、それは日本絵画がみずから選択した在り方ではなく、西洋からの眼差しと西洋に対して名乗り出るベクトルによって、そうせざるをえなかったのである。これは近代の日本の在り方とパラレルなものではないか。
 明治23年(1890年)の第3回内国勧業博覧会の展示では「絵画」という展示になり、「書画」や細目は消えた。しかも、美術部門の展示は、美術とそうでないものを意識して区別するようになっている。例えば工芸品は美術とは区別され別の展示とされた。そこでは出品者が美術への自覚を促されることになった。ここにおいて、絵画の純化のための社会的な指標が与えられたことになる。ただし、この展覧会では「日本画」として独立した展示はなかった。
 一方、明治15年と17年に農商務省主催で「内国絵画共進会」が開催された。これは国粋主義的な発想のもとに行われ、西洋絵画の出品を受けず、江戸時代までに形成された絵画の流派の絵画のみを展示したもので、江戸時代までの流派ごとに展示したものだった。現在の「日本画」は流派を滅却したところに成り立っているが、ここでの展示は維持以前からの画派と画法を「絵画」の名において統合的に明示したこと、そして、絵画の純化が目指されたことなどから、「日本画」の形成に大きな意味をもったものだった。フェロノサが絵画の形式性を重視したのは、それが絵画のイデアを実現するためである。そういう絵画の在り方のためには、まず工芸と書と絵画が混在する状態を整理して絵画を純化するひつようがある。しかも、それは「日本画」をかいがとしての純粋さをも取る動きと重なっていた。それが、この展示にも現われていると言える。この展覧会では、西洋画とともに工芸的な技法による作物(焼絵、染絵、織絵、蒔絵など)を絵の種類から排除することにより日本絵画を絵画として純化し、さらにオリジナリティを重視することで絵画を作者個人に帰する、つまり、制作から発表までを個人の責任において一貫して行うことが目論まれたのだった。これにより、創意工夫により新機軸を打ち出す個人の創造性が発揮されるべく、絵画を伝習から浄化しようという発想が見られる。そして、出品は額装を義務づけたことで展覧会における絵画の在り方を基本的に規定したのだった。これは、絵画を純化し、家具調度の類から引き離し、規格化することで展覧会という抽象的な空間に連れ出すことになったのだった。つまり、生活の中に組み込まれた在来の絵画を固有のトポスから切り離して、額縁で囲い込むことによって、「美術」という制度的空間に取り込むことが目指されたというわけだ。それは「日本画」の在り方を深く規定することになる。たとえば、額絵はつねに正面から見られることになるので求心的な構図を強く求められるが、これに対してさまざまな角度から眺められる屏風形式の絵は逆に求心性には適さなかった。
 現在の「日本画」は流派を滅却したところに成り立っているが、それは日本絵画の流派を統合するということが為された結果である。それについて、フェロノサは、それを絵画の世界のみにかかわる事柄に限定せず、そこには明治政府が国民国家の建設に向けて本格的に動き始めたということが含意されていた。維新に至るまで、それぞれの共同体に割拠し、また、「藩」という政治単位に分割され、それぞれの身分にあまんじさせられてきた人々を「幻想の共同性」のもとに統合し、「想像の共同体」としての国民を、国境線のなかに創出しようと目論む明治の指導者たちの企てに、フェロノサは国民的な絵画の創出をもって応えようとした。流派の統合は、公卿の土佐、武家の狩野、町民の浮世絵といった絵画上の身分制度を打破するものであり、国民形成推進の重要手段と言えるものだった。他方で、美術とは美術のイデアを有することにより美術たりうると考えていたフェロノサにとって流派は個々の絵画と絵画の理念の関係を曖昧化してしまうものとして否定すべきものであった。絵画の純化と「日本画」の純化は、このように連動していたのだった。
 フェロノサと協力して東京美術学校を設立した岡倉天心は『日本美術史』のなかで、「日本画」は日本人の精神的特徴を備えた絵画の総称として用いている。これは絵画が国民精神をもたらすとするフェロノサと同じ発想だ。しかし、岡倉のこのような発想には、強烈な対西洋の意識からであり、フェロノサのオリエンタリズムとは決定的に違うものだった。岡倉にはまた、「アジアはひとつ」と西洋に対して東洋の理想を強調した人でもあり、対西洋なら東洋を対向させてもよいはずのだが、東京美術学校では「日本画」が単独で「西洋画」と対峙させられていた。そこには絵画の脱亜志向、中華帝国から脱却しようという意志が働いていたと考えられる。ここには西洋という他者の前で尖鋭化し、肥大化した自意識の働きが見出される。この背景には日清戦争の勝利があり、日本は政治の次元でも文化の次元でも古代以来の中国コンプレックスから解き放たれ、そのことが東洋をさしおいて単独で西洋と対峙する意識を持った。いわゆる「脱亜抗欧」というような「日本画」の構えは日本の近代化の方向性に、見事にはまっていた。
 明治40年の文部省美術展覧会(文展)において「日本画」と「西洋画」という区分が制度として公認された。このことは「日本画」が社会に普及する決定的なきっかけとなった。明治20年代に「美術」や「絵画」という土俵や舞台が一応のかたちを成した。これは「日本画」という語が一般化し始めた時期と重なる。てはいえ、土俵ができたとしても、まだまだ完成へ向けてなすべきことが数多く残されていた。それは流派の統合である。東京美術学校は流派滅却の機関として活動を開始した。文展で十把ひとからげに「日本画」と総括されるに至る絵画の枠組みは、20~30年代を通じて、その原型を形成していったのだった。
 このように枠組みが決まると、人々の関心は土俵よりも、その中で行われる取り組み移っていった。これは、人々の意識のベクトルが内向化したことを意味する。明治初期の文明開化、その後の反動としての国粋主義、それが過ぎた後は西洋派が台頭したが、もはや外へと開かれた意識を代表する存在ではなかった。というのも描かれる主題の多くは日本的なもので、「洋画」という名の日本絵画になっていくのだった。このような日本回帰の意識は日露戦争の勝利を経て決定的なものとなっていく。具体的には、甘んじて自己の自然に従うことであり、ローカリズムへの傾斜であり、せんじ詰めれば自己と異質なものを見失うことだ。「日本画」が確立したことは、他方では、「洋画」は西洋でのような普遍的な絵画というのではなく、日本におけるひとつの絵画ジャンルとなった。
 文展において、「日本画」と「西洋画」がジャンルとして確立すると、「日本画」の起源も、「美術」の起源も忘却の淵に沈められ、制度はあたかもそれが自然であるかのように、やがて振る舞い始めるのだった。

2023年12月28日 (木)

北澤憲明「境界の美術史─「美術」形成史ノート」(3)~Ⅰ.国家と美術

『「日本美術史」という枠組み』
 「美術」の語は、1873年のウィーン万博のときには今日の「芸術」の意味であった。その後、「美術」は急速に視覚芸術・造形芸術の意味に絞り込まれてゆく。そのプロセスを詳しく見ていく。
 ウィーン万博の分類表では、「美術」は近代西洋文明の分業体制の分野のひとつとして扱われていた。「美術」は造形上の制作-鑑賞の普遍的なシステムと捉えられ、1878年の内国勧業博覧会では、書画、写真、彫刻、その他を「美術部門」としてカテゴライズされたのだった。これは、西洋派に限らず、国粋派も伝統的な造形を「美術」というシステムで捉えようとした。このことは、当時の国粋派は近代化への反動勢力ではなく、むし漸進主義あるいは折衷主義的な発想の西洋派であったことを示している。その理由は経済的な問題で、当時の美術行政は、欧米のジャポニズムの流行に照準を合わせて輸出を振興させるを大きな目標としていたためで、当時の日本は経済的動機から「美術」というシステムを捉えることを強いられていたのだった。
 このように「美術」は造形の普遍的なシステムであ、その下に特殊な造形した在来の書画、彫刻等が位置づけられた。そのような発想で江戸時代までの造形史は「美術史」として捉え直されていく。その最初の嚆矢は、1890年に岡倉天心が東京美術学校で行った日本美術史の講義だった。なお、日本という国号も、それまで大和とか和など複数の名で呼ばれていたのを、この時期に確定したのだった。そこでは、ヨーロッパに対して日本という新進の国家を「美術」によって表象し、日本美術の優秀性を先進近代国家に認知させることで、独自の固有文化をもの近代国家として認めさせるという政治的意図が込められていたのだった。つり、固有文化を持つということは、主権、領土、国民、軍・警察、国民経済などと並んで、近代国家の要件の一つであり、そのことは明治政府でも早くから認識されていたのだ。したがって、明治政府は、政治的な理由からも「美術」というシステムを受け入れる必要があった。それはヨーロッパ中心主義的なもので、今から見れば「美術」には西洋的な偏りが強い。そこで、「美術」を普遍と言いくるめる国粋主義が必要だったのだ。
 このような経緯で生まれた「日本美術史」は近代で受け入れた造形観を、それ以前の時代にさかのぼって通用させて、歴史を眺めたものなのだ。
『文展の創設』
 1907年、上野の東京勧業博覧会場跡の建物で第1回文部省美術展覧会、いわゆる文展が開催された。それ以前には、内国勧業博覧会において美術館が設けられていたが、それは勧業の立場から企画されたものであり、勧業政策の一環として行われたものであった。これに対して、文展は、伝統美術の保護育成というかたちで国粋主義の時代に始まった国家の美術統制が大規模で徹底的なやり方で美術界全体に及んだということを意味した。その意義は、①小会分立②協議展覧会の開催③審査④買上げ⑤美術館の設立の5つのポイントで考えられる。
『国家という天蓋─「美術」の明治20年代』
 明治の美術は国家によって求められ、国家によって育まれていったのだった。美術をめぐる制度の確立や、何を描くべきかという問題は、国民文化の形成という、新興国家のアイデンティティに深くかかわる事柄だった。例えば、画題である。花鳥の主題は天皇制国家の情緒的根幹に関わるものであるのは言うまでもないが、近代化の中で新たに台頭してきた主題として第一に歴史があげられる。これは、歴史をめぐる諸観念によって国民統合を果たそうとする政治的企てと呼応するものだった。第二に風俗で、西洋に人気の浮世絵である。そして風景は、例えば富士山をナショナルなシンボルとする。
 それだけでなく、美術は、国民経済の樹立という近代国家の基幹をなす事柄とも重要な関係をもっていた。それは、工業化とも密接なかかわりをもちながら、明治の美術は展開していた。「工芸」は明治30年代以前は工業の意味で用いられていた。明治初期には伝統的な「工」の向かうべき方向について二つの企てがあった。一つは機械工業をこそ興すべきという開明派官僚の企てであ、もう一つは美術工芸立国論とでもいうべきものがあった。殖産興業政策で前者が推進されていくのであるが、美術工芸の輸出に期待する後者の支持も広かった。これはウィーン万博で日本伝来の手工業品が好評を博したことに起因している。この根底には日本が西洋に勝てるのは美術のみだという悲愴なナショナリズムが働いてもいた。美術工芸立国論は、機械工業では、西洋に太刀打ちできないという敗北主義と裏腹だった。それが明治30年代に、「美術」を「工」から分離させるあり方が探求され始める。そこでは絵画の精神性が強調されるようになる。それは、視覚的な純粋性を基準とする絵画─彫刻─工芸という視覚芸術の階層的秩序の形成を意味していた。他方で「工」は産業革命の進展によって美術から離れて製造業として発展する。
『美術における「日本」、日本における「美術」─国境とジャンル』
 一つの国家を共有する単一民族というイメージが支配的な現在の日本では、島国という地理的条件のせいもあって、国境は自然に成り立っているように思われがちだ。しかし、大陸をみればひとつの民族が一つの国家を形成するとは限らない。実際に日本でも、アイヌや沖縄という単一民族の枠に収まりきれない人々もいたし、植民地はなおさらだった。その単一民族というのは幻想であり、それが日本「国民」というものの正体に他ならず、近代の日本はこのような「国民」を本体とする「国民国家」としてみずからを虚構していた。国民国家というのは、国境線で区切られた一定の領域から成る、主権を備えた国家で、その中に住む人々が国民的一体性の意識を共有している国家のことを言う。このような「国民国家」が虚構されたという観点からは、そこに「統合」と「分離」という二つの手続を見ることができる。つまり、国民国家を構成するということは、まず、国境内に人々を囲い込んで形式的に分離し、その集団に国民としての内実を与えるべく権力によって統合していくとうことだ。近代日本では、統合は天皇を奉戴する稲作農耕民として思い描くことにより統合が図られた。それは明治維新の政治体制のなかで制度的に進められた。明治初期の「美術」はこのプロセスと深くかかわっていた。
 日本における「美術」の成立について指摘すべきことは、それが社会的な過程を通じて自然に形成されたものではなく、文明開化のなかで人為的に作りだされたということだ。美術ということが外来でなげこまれ、それによって境界に過去れた領域が作られたのだ。例えば、博覧会における「美術」の扱いは、最初は諸芸術の意味だったが、内国勧業博覧会では視覚芸術の意味に絞り込まれてゆく。ここでは、美術部門には筆頭に彫刻術があり、次に書画が置かれていた。当時のヒエラルキーは彫刻の方が高かった。そして、絵画ではなく書画というジャンルだった。絵画と書という在来のジャンルで、しかもここでは花瓶や箪笥も展示されていた。そこに絵や書が施されていれば、今でいう工芸も含まれていた。10年ほど後の内国勧業博覧会が第3回になると、書画は解体され、絵画と書に分けられ、絵画が筆頭に置かれるようになる。同時に「美術工業」という今でいう工芸がジャンルとして新たに設けられた。これにより、画は実用的機能形態から解き放たれることになり、視覚的な表現形態として純化され、今日の「美術」のようになってゆく。
 明治初期から明治10年代にかけて、政府による美術奨励の動機は経済的な次元、つまり、ヨーロッパのジャポニズムの流行に乗って美術工芸品の輸出を伸ばそうという目論見から奨励されたのだった。しかし、明治15年の内国絵画共進会で絵画を頂点とする美術の体制が準備され、そして、美術奨励の動機が経済から政治、あるいは精神へと転換されてゆく。国民経済にかかわる事柄から、国民文化に関する事柄へと美術の社会的機能が転換されてゆく。この展覧会では、西洋画法を拒絶しながら、江戸時代までに流派を形成した種々の絵を束ねて主軸にして展示した。つまり、伝統諸派の統合が図られた。ここでは、国民の統合という目的意識で絵画の流派の統合が目論まれた、そこから形成されたのが「日本画」ということができる。これはいわば、絵画における廃藩置県といえる。
 第3回内国勧業博覧会で、「美術工業」が新設されたことで、美術の純化が進むとともに、花瓶や箪笥といった工芸が分化され、絵画より一段階層の低いものとされることになった。これは日本帝国のイデオロギーとして日本国民に紛れ込んだまがい物(アイヌ、沖縄、植民地)を分化し一段低いものとすることに擬えられる。また、書画から書を分化し、絵画とは別物とされた。
 「美術」の形成と「国民国家」の形成とのあいだには、このように統合と分類の手法において照応するとこがある。

 

2023年12月27日 (水)

北澤憲明「境界の美術史─「美術」形成史ノート」(2)~序章 「美術」概念の形成とリアリズムの転位

 「美術」という概念は明治の近代化とともに西洋の概念を受容したもので、「美術史」はその「美術」という概念を古代にさかのぼって適用することで成立した。その意味で美術史の源流は近代にある。これって、ヘーゲルの理性の時代である近代にいたるまでのプロセスとして捉えた哲学史みたいなものだというわけか。
 その大元である西洋の「美術」概念、ドイツ語のKunst、英語のArtは、そもそも芸術全般を表わしていた。それがルネサンス以降、芸術のヒエラルキーが変わって、視覚が頂点となり、それが近代科学の成立とも関わるのだが、視覚芸術というジャンルが成立していった。
 日本語の「美術」の記録を辿ってゆくと1873年のウィーン万博に行き着く。この出品プログラムの「美術」という語が初めて登場する。その原語はドイツ語だが、博覧会は工業製品をはじめとして各国の売り込みの場で、美術はそのために用いられる意味合いのものだった。だから、そこに出品したものは、今日の美術というより工芸品に近いものだった。そういう博覧会は、日本国内でも政府主催で開かれた。一方、日本初の美術学校は工部省により設立された工業美術学校だった。工部省は殖産興業政策を担っていたが、この学校はその一環として設立されたもので、工業化社会の進展のなかで美術の意味を事物の生産ともいえる絵画や彫刻に絞り込む。西洋画の透視図法は建築設計にも実務的につながる。あるいは、ウィーン万博で伝統工芸品がジャポネズリ(日本趣味)として好評で輸出工芸品が外貨稼ぎの期待をかけられた。そこでは、伝統工芸の再認識は鹿鳴館に代表される文明開化への反発によるナショナリズムと重なる。
 そういう状況で、文明開化の工業美術学校は廃校になり、替わって国粋主義的な東京美術学校が設立される。そこでは伝統的な画法や工芸が中心となった。考えてみれば、国粋主義の学校が西洋の概念である「美術」を標榜するのは矛盾したところがある。しかし、これによって「美術」という概念が普遍的なものとして日本で定着することになった。すなわち、国粋主義とはいっても、実質はソフィスティケートされた欧化主義だったと言えるからだ。これらは上からの制度としての近代化のひとつであった。
 一方でも内国勧業博や文展という博覧会は民衆で賑わう歓楽街の様相を呈しそれを報じたジャーナリズムは民衆レベルでの近代化を担っていた。そこで、人々は「美術」の何たるかを学びとっていった。このような美術展覧会で、「日本画」「西洋画」「彫刻」というジャンル分けで展示されていたことが人々の間に定着したのだった。しかし、よく考えれば、この3つのジャンル分けはおかしいところがある。「彫刻」と並べるなら「絵画」でいいはずなのだ。それを「日本画」「西洋画」と並べたのは、伝統的な画法を保護しようというナショナリズム的な発想があり、それは政府の方向性とも合致するものだった。
 そもそも「日本画」という概念が一般化したのは、このころで、その契機は東京美術学校の設立に携わったフェロノサの講演にあった。ただし、この講演は英語で行われたもので、したがって「日本画」というのは翻訳概念だった。フェロノサの「日本画」は西洋画法に基づいて伝統絵画を改革することで生み出された概念で、すなわち、江戸時代のアカデミズムである狩野派の絵画を軸に、在来の諸画派を束ね、それらを西洋由来のフォーマリズムの絵画観に従って、「日本画」の名のもとに改良したものだった。具体的には、色彩表現の強化、理想化を経た再現表象の重視、新機軸の奨励、そして自然の描写ではない人為的な風景の創造が進められた。一方で、掛け軸や巻物、等の伝統的な表層は規格外として除外されていく。つまり、日本画というのは西洋化運動だったのだ。しかし。一般の人々は、これを古来からの伝統と信じてしまった。それに資したのが、岡倉天心による日本美術史の講義であった。これは一方では、帝国憲法発布から日清・日露戦争にいたるナショナリズム昂揚のプロセスと重なっていたのだった。
 いっぽう、絵画の内在的な動き、つまり、画家が絵画の自立性をめざす動きが起こってくる。その先陣をきったのが「日本画」の横山大観と菱田春草だったと言える。それは、ナショナリズムの大仰な文学性を払拭して雑木林の秋を静かに表現した春草の『落葉』や、色彩の熱度を絵画的に強度に転じてみせた今村紫紅の「熱国之巻」といった作品に見ることができる。しかし、このような近代化を専ら推進したのは西洋画の方だった。こうして、絵画が工芸から芸術として自立するように画家は工芸の職人から芸術家として表現志向の独立の地位になっていく。それとともに芸術のなかでの絵画の優位性が確立されていった。
 この序章の議論を軸にして、以降の本文では、肉づけや枝葉のような形で議論が加えられるという形をとっている。論文集なので、議論の重複が多少うるさく感じられるところもある。

2023年12月26日 (火)

北澤憲明「境界の美術史─「美術」形成史ノート」

11113_20231226232001  著者がさまざまな媒体に書いたものを集めた論文集で、一貫した議論が展開されているわけではないので、こういう内容と要約できるものではないが、だいたい1990年代に書かれたものが集められているので、書かれているテーマに共通性が感じられる。それは、現在では当たり前のジャンルとされている「美術」というのは、明治時代の文明開化で西洋から受容されたもので、それ以前には「美術」という概念は存在すらしていなかった。例えば、「絵画」というジャンルはなく、描くということで、表具に描くのも、器や漆器に描くのも、もちろん、紙に描くのもあり、また、筆を使うなら書もあり、それらの区分は曖昧だった。他にも、彫刻、工芸といったジャンルの区分は明治時代以降の近代化に伴い、日本の輸出産業として国家戦略と併走するようにして確立されていき、それは他方で国家の人々のあり方の変化とシンクロしてもいた軌跡を丁寧に拾いあげている。
 じつは「日本画」という概念も翻訳由来のものだという。明治以前は「日本画」という、いわば普遍的な概念はなかった。町人が手にするのは浮世絵だし、公家が絵巻物などで手にするのは大和絵というように、それらを一括するような発想はなかった。それは、明治になって欧州から絵画(西洋画)が入ってくると、それに対抗して日本の伝統を守ろうということで「日本画」という対抗概念が生まれた。しかも、それを主導したのはフェロノサをはじとしたお雇い外国人だった。彼らの絵画観はもともと西洋の絵画を普遍的としていたことから、その発想で「日本画」を成立させた。だから、「日本画」というのは西洋人から見た日本の絵画(西洋画的)なのだという。そこにある歪みがある。例えば、西洋画では絵に文章を入れることはないという西洋絵画の常識の無意識の適用により「日本画」から文人画が除外されてしまった。また、近代日本画は色彩豊かな点で特徴があるが、それは絵画をpainting(色塗り)という言葉で表す西洋の考え方が反映しているという。そして、岡倉天心らによって日本美術史がつくられると、そういう「日本画」という視点で歴史をさかのぼって、日本絵画の歴史が編成されていく。それにより、「日本画」は古代から連綿で続く不変の伝統と捉えられるようになった。これって、アレと同じだ・・・と思った。

 

2023年12月23日 (土)

古田徹也「謝罪論─謝るとは何をすることなのか」(5)~第4章 謝罪の全体像に到達する

 花瓶事例や強盗事例では目立たなかったが、謝罪について考えるうえで不可欠とも言える別の諸特徴、すなわち、すべての謝罪に当てはまるような特徴として、当事者性とコミュニケーションの起点について考える。
 新たな事例としてトラック事例が提示される。完璧な安全運転をしていたトラック運転手が、道路脇の茂みから急に飛び出してきた子供を避けることができず、衝突してしまう。彼はすぐに車を止めて救急車を呼んだが、子どもは数時間後に亡くなった。トラックに搭載されたドライブレコーダーや街の防犯カメラの映像から運転手には避けらなかったことが明らかだった。それゆえ、彼は非難されるも、罪に問われることもなかった。しかし、彼は頭では分かっていても、ひどく落ち込み、子どもの葬式に出席し、遺族に「すみせんでした」と頭を下げた。
 運転手の謝罪は道徳的な原則や規範に従ったものではない。その意味では反道徳的と言える。一般に人が過失を犯したと認定されるのは、ある出来事が起こるのを予見でき、かつ、それが起こるのを回避できたのに、回避するのを怠ったという場合に限られる。このような条件の背後にあるのは、人に道徳的な義務として課したり、道徳的な評価の対象としてよいのは、その人にとってコントロール可能な行為でなければならないという原則だ。この原則は、しばしば、「すべき」は「できる」を含意するというかたちで端的に表現される。このトラック運転手の場合、このような予見可能性と回避可能性がなかったのだから、過失とは認定されず、責任を負う必要はないはずだ。にもかかわらず、彼は自責の念に駆られ、子どもの遺族に謝罪している。この謝罪は道徳へのコミットメントには適合しない。
 このトラック運転手がもつ自責は、例えば不注意などの過失で交通事故を起こした人の場合とはことなる。過失の場合は、「自分がもっと注意して運転いれば、事故を防ぐことができたのに」という風で、自分には予見可能性も回避可能性もあったのに事故を起こしてしまったというものだ。これに対して、トラック運転手の場合は、自分では事故を回避できなかった、単に不運なだけだった。だから、「仕方がなかった」と慰めることができる。
 かりに、そこでトラック運転手がさっさと立ち直ったとしたら、我々は彼に不審を抱き始めるのではないだろうか。それは、仕方がないと言われながら、割り切れないで、自らを責めずにいられない彼の心境が分かるからだ。
運転手は、この事故の最も重要な当事者のひとりである。彼の当事者性は、自分が運転したトラックが事故を引き起こしたという点からきているかというと、そうとは限らない。というのも、この事故が彼の過失によって引き起こされたわけではないからだ。しかし、彼がトラックを運転し、そのトラックが子どもと衝突したのは確かだ。そのことが、彼を当事者と認識させる。では、自分の行為と事故の間の因果的な結びつきがどれほど接近すれば、どのような種類の結びつきになれば、当事者として受け取られるのかの区分は不明瞭であり、人や状況により変わりうる。
 一方、彼の行為と事故の間に因果関係は認められないのだから、因果責任はない。また、道徳的・法的な義務として果たすべき役割責任もない。では、彼が子どもの葬儀に出席し、謝罪したのは、あくまでも個人としての思いに基づき、個人の判断として行動したと言える。また、彼の謝罪は、これまでの事例で見てきた<重い事例>か<軽い事例>かは、事故の重みだけではなく、彼や遺族の人物次第でもあるし、彼らがそれぞれ謝罪の後で何をし、何を思い、また、彼らどうしがどう関わり合うか次第でもある。むしろ、ここで注目すべきは、彼の謝罪は彼らのコミュニケーションの起点として機能するということだ。
 このような謝罪の微妙さは、謝罪に対する応答に関しても当てはまる。おそらく、遺族はこのとき、彼の心情、すなわちトラックを運転していた当事者としての苦悩、自分を責める気持ち、子どもを悼む心情、遺族への思い遣りなど、を汲み取って彼と向き合うことができる。謝罪に対して、受け入れるか受け入れないかという二者択一ではない。そのような白黒をつけるには、あまりにも微妙で不明確だ。
 この事例の謝罪は、謝罪を構成する不可欠な要素を満たさない。
 このような非類型的な事例から謝罪のすべてに当てはまる特徴が見えてくる。それは、次の2点である。
ひとつ目は当事者性であり、どんな謝罪でも、それを行う者は謝罪の内容となる出来事と一定の深いかかわりがある当事者だという意識を持っている。この場合の当事者の範囲は相当曖昧だ。ふたつ目は、コミュニケーションの起点ということで、謝罪という行為は、謝罪をする側とされる側のコミュニケーションの起点として機能する。謝罪を通じて加害者も被害者も、その出来事を互いがどう理解して受け止めているか、その認識の内容を知ることができる。

 本書は、子どもに「謝る」ということを教えるのは難しい。謝罪とは何かという謝罪の意味を考えてみようというのを目的としてきた。
しかし、すべての謝罪に共通する本質的な要素を取り出して十全な定義を行おうとしても、いずれかの要素を満たさない謝罪のケースを見出すことができてしまうか、あるいは、定義として役だたない内容の乏しいものになってしまう、という結論に至ってしまった。そこで、著者は完全な定義を目指すのではなく、多くの謝罪に見出せる重要な要素をひとつひとつ見ていくことにする。ある種類の謝罪には当てはまり、別の種類の謝罪には当てはまらない数々の要素が緩やかに重なり合う全体として謝罪の概念を見渡そうとする。そういう捉え方として家族的類似性というウィトゲンシュタインによる展望の仕方を利用する。彼は。ゲームを例にすると色々なゲームを見ていくと、それにすべてに共通するものを見出すことはできないのに、個々のゲームを知り、それらの間で部分的に重なり合う類似性を辿り、その緩やかな連関の全体を見渡して、ゲームとして括ってまとまりとして捉えている。これは、家族において成り立っている類似性のあり方に重なる。
 謝罪という、我々の生活や社会に深く根を下ろし、それゆえ非常に多様な場面でも多様な仕方で用いられるものを概念化しようとすると、その本質的要素ではなく、種々の事例の家族的類似性によって緩やかに重なり合い、輪郭づけられる。
最初の、子どもに謝罪を教えるというのは、端的な概念化ができないからといって、これらのことを一挙に教えることはできない。実際の生活の場面で、その都度の状況ごとに謝罪という概念の多様な側面のひとつひとつを実践しながらじっくり学んでいく以外にない。

2023年12月20日 (水)

古田徹也「謝罪論─謝るとは何をすることなのか」(4)~第3章 謝罪の諸側面に分け入る

第1節 謝罪を定義する試みと、その限界
 第3章では、花瓶事例や強盗事例、あるいは電車事例などの類型に適合する色々な特徴を見てみると、それらある種類の謝罪には当てはまるものの、別の種類の謝罪には当てはまらない。
 ます、謝罪とは何かを包括的に説明しようとする。例えば、アーヴィン・ゴフマンは、謝罪を社会のルールに対する違反を何らかの仕方で受容可能なものに変える矯正作用の一環であるという。謝罪に似たものとして、弁解や要請があるが、これらは自分が社会のルールを破ったことの正当化を図る行為であるのに対して、謝罪は自分してことは正当化されないと認める。謝罪は、そこで、社会のルールを破ったときの自分を謝罪している今の自分から切り離す。例えば、あなたの財布を盗んだ時の自分は未熟だった。私は(今は成長して、その悪いことが分かり)そのことを悔やんで申し訳なく思っている。という具合だ。あるいは、成長したとは別に、あの時の自分はどうかしてたとか、ほんの出来心だったという本来の自分ではない状態だったとして切り離す場合もある。ただし、すべての謝罪に当てはまるわけでもない。例えば、大きなリスクを覚悟の上で起業した人が運悪く失敗し、負債を抱えて債権者たちに謝罪するとき、リスクをとって失敗した責任は自分にあるとしながらも、自分のやったことは後悔していないし、今後もやり方を変えるつもりはないと宣言する、ということはありえる。
 著者は、ゴフマンの定義では、例外が出て来ることから、それに代わる定義を紹介する。LFコートによる定義や川崎惣一による定義など。しかし、それらを吟味していくと、その提起が当てはまらない場合が出てくる。それゆえ、すべての謝罪に共通する本質的な要素を取り出して十全な定義を行おうとしても、いずれかの要素を満たさない謝罪のケースを見出すことができてしまうか、あるいは、定義として役だたない内容の乏しいものになってしまう、という結論に至ってしまった。そこで、著者は完全な定義を目指すのではなく、多くの謝罪に見出せる重要な要素をひとつひとつ見ていくことにする。ある種類の謝罪には当てはまり、別の種類の謝罪には当てはまらない数々の要素が緩やかに重なり合う全体として謝罪の概念を見渡そうとする。そういう捉え方として家族的類似性というウィトゲンシュタインによる展望の仕方を利用する。彼は。ゲームを例にすると色々なゲームを見ていくと、それにすべてに共通するものを見出すことはできないのに、個々のゲームを知り、それらの間で部分的に重なり合う類似性を辿り、その緩やかな連関の全体を見渡して、ゲームとして括ってまとまりとして捉えている。これは、家族において成り立っている類似性のあり方に重なる。
 謝罪という、我々の生活や社会に深く根を下ろし、それゆえ非常に多様な場面でも多様な仕方で用いられるものを概念化しようとすると、その本質的要素ではなく、種々の事例の家族的類似性によって緩やかに重なり合い、輪郭づけられる。
第2節 謝罪の「非本質的」かつ重要な諸特徴
 謝罪の本質的な定義が困難なことから、非本質的かつ重要な要素を具体的に辿っていく。
我々は、特に<重い謝罪>を行う際に、多くの場合、何ごとかの約束をしている。たとえば、加害者が被害者に対して「もう二度としません」などと言うことは、加害者の誠意を示すだけでなく、被害者が安心を得るための材料にもなる。しかし、一方、約束することは一種のリスクを引き受けることにもなる。約束を守らなかったら、相手のさらなる不信を招くことになるからだ。例えば、小学校で廊下を走るなと教師が1年生の生徒を注意し、生徒は「廊下を走りません」といったそばから、教師の見ている前で、再び走ったとしたら、その謝罪はなんだったのかと、再び叱られることになるだろう。そもそも、約束が約束として成立するためには、相手と間に相応の信頼関係が前提となる。約束を破ってばかりいる人間が「二度としません」などと言っても、その言葉は空虚に響き、相手は約束として受け取らないだろう。約束の成立も、約策を含んだ謝罪の成立も、タイミングや実績、人間関係、後日の言動など、種々の文脈に依存している。謝罪の時点でどんな言葉を用いるか、どんな態度をするか、償いや約束の内容としてどんなものを提示するか、といったことだけが、謝罪の成立や赦しの可能性を決めるわけではない。
次に見るのは、謝罪には道徳的価値や道徳的規範といったものへのコミットメント、つまり道徳的規範や道徳的価値を認めて肩入れしていることやその価値の追求や規範の遵守に本気であること、が含まれるという点である。謝罪のこの特徴については、様々な人が指摘している。とはいえ、明らかに道徳的でない内容で謝罪するケースも様々に存在するため、謝罪の必要条件や定義のなかに含めるのは適当ではない。ただし、日常の場面では、たしかに謝罪は道徳的に価値や規範へのコミットメントを示すものになっている。一般的には、道徳的に謝罪すべきことで、悪かったと謝罪するということは、当たり前のことだ。
 また、謝罪の重要な特徴として人間関係の修復という点がある。謝罪は、加害者と被害者および両者を取り巻く人々の間によりよい人間関係を再構築することを目指した行為という側面がある。とはいえ、この特徴についても、人間関係の修復を目的としない謝罪も存在する。この特徴もまた、多くの場面で謝罪の主要な機能として、ふつうは当たり前のように思われている。
 謝罪にはその主要な機能として人間関係の修復が含まれうるし、和解や赦しの可能性を開く重要な契機ともなりうる。さらに、謝罪は多くの場合、相手に赦されることを目指す行為として特徴づけることができる。「お赦しください」という常套句は、そのことを端的に表わしている。この特徴も、今までに上げた特徴と同じように、すべての謝罪に当てはまるものではない。赦しを期待せずに、ひたすら償いたいというケースもある。しかし、謝罪とは常に誰かに向けて行うものである以上、その誰かに何かしらの応答を求める行為としての性格をもっている。その応答のひとつとして赦しが含まれるのは確かだ。そこでは、相手の側では、何かしらの応答を求められているように感じるだろう。それゆえ、その謝罪が真摯なものとして受け取られないと、応答する動機が起こらないだろう。謝罪の真摯さを担保するものとして自発性、自主性を特徴としてあげることができる。
第3節 謝罪の要請と、謝罪をめぐる懐疑論
 前節で謝罪の重要な特徴を見てきたが、染ま中で浮上してきたポイントが、謝罪の誠実さ、真摯さだ。謝罪は多くの場合、加害者の罪悪感や反省の念といった思いを被害者に伝えるものとなるし、また、それだけに思いが伝わるかどうかが、謝罪の成立や赦しの可能性にとってのネックにもなりうる。たとえば、重大な損害を被った被害者やその家族等が、加害者に謝罪を要求するときには、上辺だけの空虚な定型句を求めているわけではない。彼らは加害者に対して、たんに刑罰に服するとか賠償するというかたちで責任を負うだけではなく、責任を感じてほしいと願う。自分が何をしてしまったのかを身に染みてほしいと願う。つまり、彼らは、容易には変化しない内面のそうした変化が加害者にもたらされることを求める。そして多くの場合、その変化を認めることが赦すことの重要な条件となる。
 反面、このような謝罪の性格を逆用して、加害者が自己利益を追求する戦略として謝罪が実行されるケースも少なくない。自分自身は悪いとは思っていなくても、罰や賠償を最小限に抑えるために謝っておく、といったケースだ。この場合、当の目的を被害者に知られると逆効果になるリスクを抱えている。このことから言えるのは、普通は、人が謝罪をするのは自己利益の追求のためではないと考えられている。言いかえれば、人は、普通は、自分が本当に悪いと思い、それを相手に伝えたいと思うから、自発的に謝罪を行うのだと期待されている。しかし、自己利益のための表面的な謝罪と真正の謝罪はしばしば見分けがたい。実際の謝罪には両者の要素が含まれており、両要素が様々なグラデーションを作り出している。つまり、白黒をつけるのは原理的に難しい。これは、謝罪する本人だけでなく、相手方や周囲の受け取り方にも言えることだ。そこで顔を出すのが懐疑論だ。それは、謝罪の誠実さに対する人々の関心の深さの裏返しでもある。
 これまで見てきた謝罪の諸特徴は、すべての謝罪に共通する本質的なものとは言えなかった。そこで、個々の謝罪を知り、それらの間で部分的に重なり合う類似性を辿り、その緩やかな連関の全体を見渡して、括ってまとまりとして捉える家族的類似性により謝罪をとらえる。そこで実践的に重要なのは、自分がいま行おうとしている謝罪の特徴を正しく把握するということだ。すなわち、その謝罪が種々の特徴のうちのどれとどれを含み、さらにどの特徴が焦点となっているかを明確に理解することは、適切な謝罪をするための大事な足掛かりとなる。

 

2023年12月19日 (火)

古田徹也「謝罪論─謝るとは何をすることなのか」(3)~第2章 <重い謝罪>の典型的な役割を分析する

第1節 責任、償い、人間関係の修復─「花瓶事例」をめぐって
 まず、<重い謝罪>の事例として「花瓶事例」を提示する。会社員のA氏は、休日に上司のB氏の自宅に招かれて、リビングで席を立とうとしたとき、テーブル上の花瓶に肘を当ててしまった、花瓶が倒れて、テーブルから落ちて粉々に壊れてしまった。花瓶には花が活けてあったので、床は水浸しになった。A氏は慌てて「すみません!」と言い、片づけを申し出たが、B氏は構わないから座っていなさいと制止し、自分で片づけを始めた。その後、A氏は恐縮し続け、弁償すると申し出るが、B氏は微笑みながら、弁償するには及ばないと返答した。という事例だ。これは、「電車事例」のような「すみません」で済むような事例ではない。この場合の「すみません」には責任を取る意志を表示することが含まれている。具体的には、「すみません」と言った後に、片づけを手伝おうとしたり、弁償を申し出たりしている。
 ところで、「責任」とは何か。一般には、自分が引き受けて行わなければならない義務や、義務とまでは言えない任務などの役割責任。あるいは自分がかかわった事柄や行為が特に悪い結果をもたらした時に負う義務や償いといった因果責任を指す。この事例の場合は因果責任にあたる。では、役割責任は無関係ということになるかというと、A氏は花瓶を割ってしまう前も後も一貫して、上司の自宅に招かれた客としての最低限の役割責任を果たしている。そして花瓶を割ってしまったことで、役割責任を果たせなくなった。それについては、すぐに謝罪したことで、相手からの信頼を回復することができた。このように、役割責任と因果責任は、しばしば深く関連し合うものであることが分かる。
 また、責任に関連して償いについても考えてみる。花瓶を割ってしまったA氏は、片づけにより床を原状復帰させること、弁償することを意志している。これらは自分がもたらした損害を償うこと、すなわち打合わせることを意志しているといえる。しかし、埋め合わせが完全に可能である場合は少ない。ここでは、壊した花瓶そのものを復帰させることはできない。その花瓶が思い出の品だったら、同じ製品で代替にはならない。ここにはパラドクスがある。つまり、謝罪という行為の目的が、自分がもたらした損害を埋め合わせることに尽きるなら、その目的ははじから失敗を運命づけられている。なぜなら、すでに行われたことを元に戻すことはできないからだ。覆水盆に返らず。これは、謝罪することと埋め合わせすることを同一視することから生まれる。謝罪に伴う償いは、不完全な修復を意味せざるを得ないのだ。
 また、償いはあくまでも謝罪の一環であり、そこにはおわびの印としての性格を必ず備えている。花瓶事例でA氏が弁償知ればいいんでしょ、という態度であったらB氏は、どう思うであろうか。この場合、償いは謝罪の目的であり、手段でもある。すなわち、謝罪が真摯なものであることを示すための手段でもある。花瓶を割られて、「すみません」と言われても、B氏はA氏が誠意をもっているかは分からない。だからこそ、人はしばしば償いの意志を相手に示すことを通じて誠意の証とする。このような誠意の証は「電車事例」のような<軽い謝罪>では必要とされない。<重い謝罪>では必要ということになるのだが、その理由として、被害者が気持ちの部分で害され、傷つくのだが、それが加害者の態度によって癒されることもあれば、より悪化することもあるからである。加害者の謝罪により、被害者の気持ちが収まるのは、加害者のうなだれた様子に処罰感情が満たされる、あるいは加害者が事態を重く受け止めているのを確認できたことで自分の怒りや苛立ちを正当化、肯定できたなどの理由があげられる。ともかく、誠意ある真摯な謝罪により、被害者は精神的な損害を修復させることが可能となる。ということは、被害者の精神的な損害の修復には誠実な謝罪が重要な位置をしめるということだ。
 まとめると、謝罪が謝罪として成立するための必要条件として自分が違反したルールの正当性を認めること、その違反の原因が自分にあり、自分に責任があると認めること。自分が損害を与えたことについて真正の後悔と自責の念を表現すること。
第2節 被害者の精神的な損害の修復─「強盗事例」をめぐって①
 前節の「花瓶事例」は会社の上司という長期間にわる密接な関係にあり、謝罪がはたす人間関係の修復の機能はとても重要だった。これに対して、この節では「強盗事例」という既存の人間関係の修復が不要なケースで謝罪を考える。まずは、「強盗事例」だが、C氏は全く面識のないD氏の自宅に押し入り、バールのようなものでD氏を殴り、傷を負わせてロープで縛り、金品を奪って逃走した。数日後、C氏は警察に逮捕された。1年後の裁判でC氏は公訴事実を認め、「申し訳ありませんでした」と頭を下げた。この事例の謝罪は、どのような機能を担っているのだろうか。
 まず考えられるのは、被害者が抱く、再び同様の目に遭うのではないかという不安や恐怖が、加害者からの謝罪により和らぐことがありうる。この場合、「もう二度とこんなことはしません」という加害者の約束を信用できるかが肝心だ。
 また、C氏はD氏に対してネガティブ態度を向けている。それはD氏の財産を奪い、身体を傷付けてやろうという悪意とも受け取れるし、D氏を軽視したり無関心だったとも受け取れる。このようなネガティブな態度への反応としてD氏はC氏に怒りや憤りを覚えることになる。被害者の精神的な損害には、強盗の被害に遭ったことそれ自体のショックや、加害者への恐怖や不安といった感情の他に、このような怒りや憤りの感情を抱えざるを得ないことも含まれる。加害者からの謝罪は、このような怒りや憤りを静めるか、少なくとも和らげる効果もありうる。加えて、そのように謝罪することは、ごあー討とうという形で被害者に向けた悪意、軽視、無関心などのネガティブな態度を改めることを意味する。それができるのは加害者だけである。ただし、謝罪がそのような効果をもちうるには、被害者が謝罪を受けることに自発的に同意していることが前提だ。
 謝罪が被害者に果たしうる機能は、それだけではない。突然の災難に遭った当事者は、往々にして、なぜ自分はこんな目に遭わなければならないのかと問う。このような問いには、理不尽で惨めな目に遭ったことに傷つき、憤り、恐怖や不安を感じている心の状態が現われ出ている。それで、被害者はことの真相を知りたいと思う。このとき加害者は、謝罪を行うなかでこの思いに応えることのできる特権的な立場にいる。そこで、加害者が被害者に対して真摯な謝罪を行おうとするのであれば、被害者の求めに応じて真相を開示する努力が含まれることになる。
 ここまで謝罪の果たす機能について見てきたが、赦しとの関係をあわせて見ていく必要がある。謝罪の言葉には、相手に対して赦しを乞う意図が込められている。事件や事故が起こる以前の人間関係に戻ること、あるいは事件以前の無関係に戻ろうとするには、加害者をそれ以上咎めずに済ませると赦しを考えると、謝罪は赦しの重要なきっかけになると考えられる。他方で、加害者が被害者に謝罪しようとしても、<重い謝罪>の場合は相手との面会すら叶わない場合もある。その場合は謝罪すらできない。その場合、謝罪する前に、謝罪すること自体が赦される必要がある。
 他方で、赦しは加害者にとってだけではなく、被害者にとっても重要な意義を持ちうる。加害者と向き合い、その謝罪を受け入れ、相手を赦すことは、被害者が心の区切りをつけ、新しい人生を歩みだすための重要なきっかけとなりうる。
第3節 社会の修復、加害者の修復─「強盗事例」をめぐって②
 謝罪は事件や事故に関してけじめをつける制裁や処罰として機能する。そこでは、被害者が加害者に対して個人的に抱く恨みが晴らされる、仕返しがされるという復讐の側面や、不正が正されるという側面が認められる。これはまた、社会の機能や秩序の維持・修復につながる効果も考えられる。
 強盗事例において、C氏が裁判で公訴事実を認め、「申し訳ありませんでした」とか「深くおわび申し上げます」などと発言することは、相応の刑罰を甘受する意志を含意している。刑罰には応報刑論と目的刑論というふたつの考え方がある。応報刑論しは、端的に言えば「目には目を、歯には歯を」に代表される悪事には相応の罰を受けるという立場だ。この場合は、謝罪のあるなしは刑罰に関係がない。目的刑論は犯罪を予防するという目的のために国家が刑罰を科すという立場で、犯罪者による謝罪は量刑の判断に影響する。しかし、実際には両者の折衷的な立場で、応報刑論を基本にしつつ犯罪予防の目的を考慮する相対的応報刑論がとられている。その場合、犯罪者の謝罪は犯罪予防に関わるだけではなく、それ以前に、自身の犯罪行為に対する非難を受け入れ、応報的な処罰に服する意志を示すものとして捉えられる。とはいえ、刑罰それ自体に関して、謝罪は不可欠な本質的要素ではない。謝罪の有無やその内容にかかわらず、刑罰を科すことは可能だからだ。さらに、刑事司法のあり方をめぐって修復的司法という考え方が広まってきている。それは、被害者のための回復と癒し、そして被害者と加害者の関係を癒すことを目標とする。理想的には被害者と加害者の間に和解が成立し、それが社会の維持や修復に繋がることが期待される。このためには、当事者が自発的に参加することが条件となる。そこに強制が入ったら成立しない。この場合、謝罪は応報的司法の場合とは異なり本質的な役割を果たす。加害者と被害者との間に和解が成立するためには、その前提条件として、加害者の真摯な謝罪があり、相手に受け入れられることが不可欠だからだ。しかし、それは重い謝罪の場合は、相手が受け入れるのは難しい。加害者が改心することは容易に認めにくいからである。それには一定の時間は最低限必要だ。それだけでなく、継続的努力、成長といった要素がさらに必要になる。その根底には、人は簡単に変われるものではないという事実がある。これを軽視した謝罪はまやかしと見なされる。

 

2023年12月18日 (月)

古田徹也「謝罪論─謝るとは何をすることなのか」(2)~第1章 謝罪の分担の足場をつくる

第1節 <軽い謝罪>と<重い謝罪>─J・オースティンの議論をめぐって
 オースティンによる発話行為の分析によれば、言葉を発するという行為には事実確認的な発話と行為遂行的な発話の二種類に大別できるという。前者は事実を正しく記述するというものだが、後者は「○○を約束する」というように言葉を発することにより、その言葉の行為を遂行することになる。つまり、発話することが、何らかの行為を遂行することになるものだ。「おわびする」という発話は後者の典型的なものだといえる。それはこういうことだ、「おわびします」「すみません」「ごんなさい」といった言葉を適切な状況において適切な仕方で発したとき、私が謝罪しているということが事実になる。これは、私が謝罪している事実を作り出す行為であるということだ。著者は、ここで大事なのは「言葉を適切な状況において適切な仕方で発したとき、私が謝罪しているということが事実になる」の適切さの具体的内容だという。「適切な状況」とは、謝罪すべき、つまり謝罪するのが適切な状況を意味する。例えば、レストランで店員を呼ぶ時に「すみません」と言っても謝罪にはならない。しかし、適切な状況であっても、適切な仕方で、あるいは適切な行動と結びつく形で言葉が発せられ寝必要がある。例えば、不貞腐れた表情で「すみません」と言っても謝ったことことにならにならない。ちゃんとあやまっていない、不誠実だとみなされる。つまり、その発話がどのようなタイミングで、どのような言い方でなされるのか。さらに、その発話前後の行動がどのようなものか、相手がその発話をどう受け止めるのか、とった要素が「すみません」という発話が謝罪と認められるかを決めることになる。ということは、謝罪は謝る者の意志や行動のみによって成立する一方的な行為ではなく、相手の働きかけや相手からの応答なども絡み合う相互的な行為なのだ。そうして、著者はオースティンの分析の不十分さを補っている。
 著者はここで「電車事例」を提示する。すなわち、混み合う電車の中で、電車が揺れてたため、立っていた私は、隣に立っていた人の足を軽く踏んでしまう。私は、さっと頭を下げて「すみません」と言い、相手もすぐに会釈を返す。これは、今までの議論からいえば、謝罪に該当するだろう。しかし、この事例には、こういうとき普通はこう振る舞うものだという儀礼的な所作、社会的慣習に従った形式的な振る舞いの性格が色濃いという。このときの「すいません」はレストランで店員を呼ぶときの「すいません」と接近しているという。両者には、相手に多かれ少なかれ負担や迷惑などをかけることを恐縮し、気遣うという意味合いが含まれている点で似ているからである。そして、相手に与えた損害や迷惑の種類や程度により儀礼的な「すみません」ではすまなくなる重い謝罪まで、謝罪にはグラデーションがある。
第2節 マナーから<軽い謝罪>、そして<重い謝罪>へ─和辻哲郎の議論をめぐって
 和辻哲郎は『倫理学』のなかで、「電車事例」を取り上げている。和辻は、行為は必ずしも意志の決定によって意識的に為されるものとは限らないという。過失という現象を考えてみればいい。電車が揺れて隣の人の足を踏んでしまうのは、自分の意志でしたことではないが、私の行為なのである。それなら、なぜ「すいません」と謝るのか。それは、多くの人が吊革につかまるなどして、電車の揺れに注意していたのに、私だけが注意を怠り、バランスを崩して相手の足を踏んでしまった。この不注意が謝罪をすることの理由だ、と和辻は言う。この注意について、和辻は人間関係における一定の「持ち場」という観点で、電車に乗るときには、乗客という持ち場に立つ。この持ち場に立つということは、乗り合わせた他の乗客からの期待や信頼に応えるということが含まれる。それはマナーと言い換えてもいい。そこで、私が注意を怠り、相手の足を踏んでしまったことは、そのような期待や信頼に応えらなかった。それゆえに、私は反省し、謝罪すべきなのである。
 このように謝罪することは、相手からの信頼の回復に直結する。つまり、「すいません」と謝罪することによって、私は普段は電車が少しくらい揺れたからと言って、他人の足を踏んづけるような人間ではなく、本来は乗客としての持ち場を保てる人間であると分かってもらえる、というわけだ。
 さらに和辻によれば、「済みません」という言葉は負債という概念に関係しているという。つまり、すべきことをしてくれるだろうという相手の信頼を裏切って、すべきことをしていないという未済の感覚、つまり負債の感覚が、当人に「済まない」という意識をもたらす。たとえ、他人に足を踏んでしまったのが完全な不可抗力であり、不注意でも故意でもないことが明白であったとしても、私が「すいません」と声をかけることによって、踏まれた相手は、私が一定の常識をわきまえた市民であることを確認できる。特にこの場合には、電車という閉鎖空間において、私がこの先の道中も隣り合わせでいられる乗客だという信頼を維持できる。そして私の方も、相手が軽く会釈しや目配せを返すといった応答をしてくれることによって、同様の信頼を維持できるのである。
 これに対して、私が足を踏んでしまったことで、相手が足を怪我をしてしまった場合には、「すいません」では済まなくなる。これまでの「すいません」で相手が応答すればおわるというのは軽い謝罪の場合で、こちらの場合の「すいません」は。事態を深刻に捉えた場合の「すいません」であり、重い謝罪となる。この場合は相手に付き添って病院にいったり、治療代や慰謝料の弁済といったことが加わる。この場合、言葉だけでは、不誠実だと、謝罪と認められないことがある。
第3節 謝罪にまつわる言葉の文化間比較
 儀礼的な「すみません」ではすまなくなる重い謝罪まで、謝罪にはグラデーションがあることは第1節で述べられたが、そのグラデーションには文化間の言葉によって違いがある。例えば、英語圏の人間からは日本人は何でもすぐ謝ると言われる。「すいません」には謝罪だけでなく、感謝や呼びかけの意味もある。それを謝罪と一義的に決めつけると、そういう見解になる。「済みません」という言葉は、元来、相手に何かしらの負担(損害、迷惑など)をかけた場合や、相手に借りや恩義ができた場合など、自分の気持ちが済まない、収まらない、ということを表わす。そこから派生して、人に多少なりとも負担などをかけることの認識を含み、相手に対して恐縮する思いや、相手を気遣う思いを示す言葉として、呼びかけや感謝の場面で使用されるようになった。このような「すみません」に一対一対応する言葉は英語にはない。Excuse meもThank youもI apologizeも含まれることになる。
 反対に、英語のI’m sorryには残念に思う自分の気持ちを表わす場合と、謝罪をする場合の二つの意味がある。一般に謝罪をすることは、自分の責任を認めることを含み、それは償いをすることに結びつく。他方、残念に思うことは、それだけでは責任を負うことを含むわけではない。そのため、英語でI’m sorryという場合は責任を負うかどうかは曖昧な言い方なのだ。謝罪することは相手に保障することを含むか否かの違いで、日本語の謝罪の言葉は相手に対して責任を取る(保障する)こととは別なのだ。
このように、謝罪の言葉文化によって異なっている。これは、謝罪という概念が、責任や償い、約束、誠意、後悔、赦し等々の諸概念との複雑な関係によって輪郭づけられているからで、その関係は文化によって異なるからだ。

 

2023年12月17日 (日)

古田徹也「謝罪論─謝るとは何をすることなのか」

11112_20231217234101  子どもに「謝る」ということを教えるのは難しい。悪さをしたときに「ごめんなさい」と言いなさい、という教え方が一般的なのではないか。子どもは、繰り返すことで、それを身に着ける。しかし、ときには、場を取り繕うために「ごめんなさい」を繰り返したり、あるいは、「ごめんなさい」を言ったからもういいんだと開き直ったりすることがある。それは、形ばかりで謝罪ということの意味を教えられていないからだ。では、謝罪の意味を説明することができるかと考え始めると、そこでフリーズしてしまう。そこで、謝罪とは何かを考えてみようというのか本書の目的。
 著者は最初に見通しを述べている。「謝罪」とは、互いに関連し合う多種多様な行為の総体である。その種々の行為の具体的な中身を解きほぐし、全体を見渡すことによってはじめて何か分かるのだという。
 しかし、すべての謝罪に共通する本質的な要素を取り出して十全な定義を行おうとしても、いずれかの要素を満たさない謝罪のケースを見出すことができてしまうか、あるいは、定義として役だたない内容の乏しいものになってしまう、という結論に至ってしまった。そこで、著者は完全な定義を目指すのではなく、多くの謝罪に見出せる重要な要素をひとつひとつ見ていくことにする。ある種類の謝罪には当てはまり、別の種類の謝罪には当てはまらない数々の要素が緩やかに重なり合う全体として謝罪の概念を見渡そうとする。そういう捉え方として家族的類似性というウィトゲンシュタインによる展望の仕方を利用する。彼は。ゲームを例にすると色々なゲームを見ていくと、それにすべてに共通するものを見出すことはできないのに、個々のゲームを知り、それらの間で部分的に重なり合う類似性を辿り、その緩やかな連関の全体を見渡して、ゲームとして括ってまとまりとして捉えている。これは、家族において成り立っている類似性のあり方に重なる。
 謝罪という、我々の生活や社会に深く根を下ろし、それゆえ非常に多様な場面でも多様な仕方で用いられるものを概念化しようとすると、その本質的要素ではなく、種々の事例の家族的類似性によって緩やかに重なり合い、輪郭づけられる。
 最初の、子どもに謝罪を教えるというのは、端的な概念化ができないからといって、これらのことを一挙に教えることはできない。実際の生活の場面で、その都度の状況ごとに謝罪という概念の多様な側面のひとつひとつを実践しながらじっくり学んでいく以外にない。
哲学書としては、抽象的な議論に陥ることが少なく、具体的な事例の考察がほとんどで、物語を読むように、楽しく読めた。ややもすると、その楽しさに本論の議論の筋道を外れて道草を食うように、あれこれの考えにとらわれてしまって、時に筋道を見失いそうになることも。それも本書を読む楽しさなんだろうけれど、私は、各章の末にあるまとめを読んで、やっと筋道に戻れた、というより、本書はこういうことを言っていたのか、とそこで分かったというのがほんとうのところ。議論の筋を追いたい人は、そのまとめから先に読むことを勧める。

 

2023年12月13日 (水)

今井むつみ「ことばと思考」(8)~第6章 言語と思考─その関わり方の解明へ

 これまで述べられてきたように、世界の言語は様々な基準で世界を切り分け、乳児は自分の母語での世界の切り分け方を学習していく。しかし、ある言語が区別する概念を乳児がすべて同じように容易に学習することができるかというと、そういうわけではない。概念によって、学習しやすいものとそうでないものがある。それは、その概念が知覚的かつ直感的にどれだけわかりやすいか、ということと関係がある。それは、もともと人には、ヒトという種として共通の知覚の仕組みを持ち、共通の認知基準を持っている。この知覚の仕組みの共通性によって、異なる言語の間で普遍的な好みが見られる。乳児が言語の違いを超えて好む、つまり容易に学習される概念はそれだ。つまり、言語は私たちを取り巻く世界に内在する構造を反映しているし、かなりの多様性があるとしても、世界に内在する非常の目立つ類似性だ。ことばによる世界の切り分け方が、それぞれの言語によって大きく異なる場合にも、言語のカテゴリーが、そのまま認識される類似性といつも一致するわけでもない。このような観点から考えると違う言語の話者が理解不能なほど違う認識を持つとは考えにくい。
 異なる言語の間に、普遍的な傾向はたしかにあり、これは人間の認識や知性の普遍性を映し出すものとして非常に重要だ。しかし、言語の多様性は非常に大きいことは紛れもない事実で、人の認識の性質を理解するうえで、漢化することはできない。しかも、モノや出来事を無意識に見るという行為でさえ、言語の存在が脳の計算プロセスの一部になっている。このように考えると、人は言語のフィルターを通して、少々歪められた世界を見ているのである。私たちが見ている世界は言語のフィルターを通した世界であることを理解し、言語がどのように関わっているかを明らかにすることは非常に重要なことだ。言語と思考との関係を考える場合に、単純に、異なる言語の話者の間の認識が違うか、同じかという問題意識は、不十分であると言ってよい。

2023年12月12日 (火)

今井むつみ「ことばと思考」(7)~第5章 ことばは認識にどう影響するか

 日常生活の中で、ことばは、どのような場面でどのように認識に影響を与えているかを考えていく。
 人間はビデオやカメラと違って、目で見た情報を画像としてそのまま記録するのではなく、意識的な注意にしろ、無意識的なものにしろ、注意を向けた情報しか記憶しない。ことばが、その注意に影響を与え、記憶にも影響を与える。すでに記憶された出来事を思い出すときに、ことばは記憶を変えることがある。ことばは、いま目の前で起こっている出来事の、どこに注意を向け、どの部分を記憶にとどめるかということに、大きく影響する。
 また、私たちはむ世界にあるモノや色、運動などを、単に見ているわけではない。見るときに、脳では言葉も一緒に想起してしまうのだ。たとえそれが、一瞬のことで、意識的には気づかず、記憶に留まることがなくてもだ。何かを見るとき、言語を聞こうと聞くまいと、私たちの認識に侵入してくるのだ。
 このことは新たに問題に発展していく、それは人間にとって言語を介さない認識はあり得るのかということだ。それについては、言語がないと人間の認知はまったく機能を止めてしまう、というわけではない。言語を持たないヒト以外の動物が、知性を持たないというわけでもなく、ある種のカテゴリーを作ることもできるし、モノや出来事を記憶することもできる。とはいっても、言語がない認識は、言語が使える状況での認識とは性質が違う。言語は私たちにとってなくてはならないもので、言語をわざわざ使えなくするような人工的な状況でなければ、脳は自動的に何らかの形で言語を使ってしまう。したがって、言語を介さない思考というのは、言語を習得した人間にはあり得ない。といえなくもない。その意味で、言語が解消して認識や思考を引きずってしまう場合だってありうる。その意味で、カテゴリー知覚というのも、無意識に引き起こされる認識の歪みと考えてもよい。何にしろ、境界のない連続的に変化していく世界を、ある地点でスパッと線引きをし、線の内側と外側で物理的には等距離の違いが、一方は同じで、他方は違うと認識されるのだから。結局、言語は人の思考の様々なところに入り込み、色々な形で影響を与える。世界に対する見方を変えたり、記憶を歪めたり、判断や意思決定に良くも悪くも影響する。このように考えると、ここでもウォーフの仮説は正しい言ってもいい。異なる言語の話者に共通した認識の普遍性や認知の隔たりは存在する。
 

2023年12月11日 (月)

今井むつみ「ことばと思考」(6)~第4章 子どもの思考はどう発達するか─ことばを学ぶなかで

 ここからは、子どもの概念や思考が言語の学習とどのような関わりがあるかを考えてゆく。
 日本人はrとlの発音の区別ができない。rとlのような音は、二つの音の間にははっきりとした物理的なギャップの境界線が引かれているわけではなく、連続的なものだ。しかし、これらの子音を区別する言語の母音話者は、実際にない境界を知覚するのだ。英語でrとlと発音される音の境界あたりの音を人工的に作り、少しずつ変化させていく。そのとき、英語話者はそれらの音をrとlの混じった音とか中間の音のようには認識しない。ある地点までははっきりとrと認識し、次の地点からはlと認識する。つまり、rとlははきりと別のカテゴリーとして区別して認識され、実際にない境界が話者によって作りだされる。英語では、rとl の区別ができないと、riceとliceの区別ができない。日本人には、この二つの語は同じように聞こえてしまうが、乳児には違いがはっきりと聞き取れる。しかし、日本語環境では、この聞き分け能力は1歳の誕生日ころまでに失われてしまう。乳児は、最初はそれぞれの言語で作るカテゴリーというものを明確には持たないが、生まれてから自分の母語にさらされ、そればかりを聞くうちに、母語のカテゴリーを学習し、音に対しての母語特有のカテゴリー知覚を作り上げるのである。日本語を母語とする乳児はrとlを同じ音のカテゴリーとして扱うようになり、その違いには注意を向けなくなるのである。このようなことは、モノの名前の付け方のカテゴリーや動きや空間の把握のしかたなどにも同じようなことが言える。
 子どもがことばを覚えることでコミュニケーションが可能になる。それだけではない。私たちは世界を様々にくくり、分類していくことができる。概念を階層的に整理して分類することができるが、赤いモノとか丸いモノのようにある特長によって分類することもできる。あるいは牛とミルクのように因果関係、猿とバナナのような連想関係でモノ同士を待まとめていくこともできる。子どもはことばを覚えることでモノを名前によってラベルづけされる分類の仕方を、つまり概念カテゴリーによる分類を学習することができるのである。そこから、ことばを用いて帰納推論を学んでいく。知識の蓄積が少ない子どもには同じ種類のモノを集めることは容易ではない。同じというのは曖昧で、いろいろ基準で、様々な同じが可能だからだ。しかし、ラベルを持つのは概念カテゴリーで赤いモノとか丸いモノのようなカテゴリーは単語のラベルを持たない。従て、ラベルを共有しているモノ同士は同じ属性を持つと考えればモノについての知識が足りなくても、あのモノに赤いという属性があると知れば、それと同じラベルを持つ他のモノに、赤いという属性を帰納できる。このようにして、子どもは直接経験していないモノにどのような属性があるかを帰納推論によって学習し、概念を構築していく。つまり、ことばは子供が自分で概念を学習し、大人の持つ概念構造を自らつくりあげていく。そのことで、子どもは早いスピードで効率よく概念体系を作り上げることができるのだ。同じようなことは空間におけるモノ同士の関係の認識の学習にも言える。
 一般に、子どもが成長するということは、知識が増え、それまでできなかたことができるようになることだと考えられている。知識に関してはその通りだろう。しかし、知識情報の処理というのは一度にできることが限られている。すべての情報を同時に処理しようとすれば、情報の処理が破綻してしまう。ところで、様々な分野で熟達する過程にも同じことが言える。熟達者は、知覚情報の処理をするときに、その時々の環境に存在するすべての情報を一度に取り込み、そのすべてを処理しているわけではない。むしろ、初心者よりも情報を絞り込んで取り込み、必要な情報だけを処理している。そのとき、どの情報が必要で、どの情報が必要でないかを瞬時に見極め、必要な情報だけに目を向けている。これは、子どもが成長する場合にも同じことが言える。つまり、情報をスムーズに処理し、知識を効率よく得ていくためには、不必要なことに注意を向けないということがとても重要なのだ。子どもは自分の母語を学習することで、その言語を使いこなすために、見るとか聞くといった基本的な知覚の情報処理がすばやく正確にできるように、不必要な情報に目を向けないようにすることを学んでいる。
 見た目の類似性は、私たちの認識にとって非常に強いインパクトを与える。しかし、言語を使うためには見た目の似ているを超えて、関係に注目し関係に同一性に注目する必要性がある。見た目も性質も全く違ったモノ同士を何らかの関係に基づいて同じものとみなすことができるのは、比喩とか類推といった人間の知性の特徴のひとつだ。関係の同一性に基づいて同じであることを認識するのは乳児にとっては易しいことではない。しかし、子どもは言葉に導かれ、見た目は異なるモノ同士の関係が、同じ関係を表わすことばで表わされることを経験することによって、感覚的には直接経験できない、モノ同士の抽象的な関係における同一性を学んでいくようになる。
 私たち人間が持つ様々な認知能力の基礎的なものは、人間以外の動物も持っている。モノを知覚し、そこからモノの性質や運動を予測し、因果関係を推論する能力は、人間以外の動物にもあるし、その能力が人間より優れている場合もある。しかし、人間は言語を持つことによって、動物が持たない認識を持つ。モノを知覚的な類似性や、食べられる、食べられないといったような限られた機能性だけに基づいて分類するのではなく、複数の観点から分類し、網の目のような巨大な概念ネットワークをつくり上げることができる。そして、文脈、用途に応じて異なる視点から同じモノを取り出して、様々な様相、階層のカテゴリーを作ることもできる。そして、それらのカテゴリーに名前がつけられると、人はそれを同じモノとして認識し、モノ同士の見た目が異なっていても、名前の共有を手がかりにして、見たことがないモノの性質や行動について予測をすることができる。つまり、言語によって、人間は、モノ同士の分類を超えて、モノを変数にした抽象的な関係のカテゴリーを自由自在につくることを可能にし、比喩や類推によって、実際には存在しない関係の類似性に気づきにまで発展させた。これは、言語は、人間が環境を見た目だけでなく多様な見方で眺め、認識のナー基本的なパーツ、つまり、知覚能力、カテゴリー形成能力、推論能力など、基本的な認知能力のそれぞれを用途に応じて組み合わせることを可能にしているのである。子どもは成長の過程で、何かをひとつひとつ覚えていくと、そこから規則性を抽出して、その規則性を使って学習を加速させて、どんどん知識を深めていく。このような規則性の抽出にことばが存在すること自体が大きな役割を果たしている。
 また、世界を異なった視点からまとめ、眺めるというのは、ことばに限ったことではない。文を作るとき、同じことを伝えるのに、同じ事柄でも、何を強調したいかによって、主語と目的語を入れ替えたり、受け身の言い方をしたり、様々な構文を使って、違った言い方ができる。子どもは、自分に対しての話し方だけからではなく、大人同士が話すのを聞いて、それを知る。つまり、言語は、子どもに、自分以外の視点から世界を眺めることを教え、世界を様々に異なる視点からまとめ得ることに気づかせ、様々な切り口、様々な語り方で自分の経験を語ることを可能にし、さらに、経験を複数の様々な視点、観点から反駁することを可能にする。そのことに対する気づきが子どもを柔軟な思考へと導くのである。
 このように言語は、私たちの知性にとって重要なあらゆる分野で、認知革命とねいえる認識の大きな変容をもたらす。ことばと認識の関係というと、違う言語の話者の認識が違うか否か、という点に興味が集まりがちだ。異なる言語が話者にどのような認識の違いをもたらすかを知ることは、たしかにとても大事なことだ。しかし、相対的にいって、言語を獲得した後の、異なる言語の話者の間の認識の違いより、言語を学習することによっておこる、子どもから大人への、革命といっていいほどの大きな認識と思考の変容こそが、この章の冒頭で紹介したアォーフ仮説の真意であると著者は言う。
 これって、議論のすり替えのような印象を受けた。結論から逃げている、と。

2023年12月10日 (日)

今井むつみ「ことばと思考」(5)~第3章 言語の普遍性を探る

 人の思考に言語に関わりなく共通の基盤があるのなら、言語自体にも、その背後に何がしかの規則性、共通性があるのか、この章では考えます。
 著者は、様々な言語の間に潜む共通性を見つけ出すのは、違いを見つけ出すよりもはるかに難しいという。どんな言語でも、文は名詞と動詞を含み、動詞には他動詞と自動詞がある。文はその中にさらに文を埋め込むことができる循環多岐な構造を持つといった共通点がある。これを指摘したのが生成文法である。そのなかで語のレベルについて、まずはモノの名前の付け方を見ていく。基礎語のカテゴリーのつくり方は言語の間でかなり普遍性があるという。基礎語は、全体的に見ると全く異なる言語グループに属し、文化も非常に大きく異なる言語同士でも非常に一致度が高いし、科学的な分類の一般カテゴリーにつけられる場合がほとんどである。例えば、木の名前は○○木というような木を語幹にした複合語ではなくブナとかマツなどのように基礎語で表わす点で共通している。しかし、一般的な種のレベルより大きな括りのカテゴリーとなると、まとめ方は文化によりかなり多様になる。例えば、ペットとか家畜とか雑草とかだ。一方多くの言語では、基礎語のレベルのカテゴリーをより細かく分割したカテゴリーにつく名前は「○○犬」とか「○○マツ」のような基礎語を修飾するような複合語となる場合が多い。このようにモノの名前では基礎語のレベルでは普遍性がある。この基礎語というのは、乳児がことばを覚える際に、最初に覚えることばである。言語文化の経験のない乳児でも見分けられるカテゴリーでもあるといえる。つまり、このカテゴリーは文化の影響が少ないのである。た、第1章で色の見分けにも普遍性があることは指摘されていた。
 名詞についてはこのようならば、動詞はどうだろうか。著者は「あるく」と「はしる」を例にとる。日本語では走るだが英語ではrunだが、jog、sprint、dashと三段階に分ける。この細かな分類は言語によって多様だ。しかし、「あるく」と「はしる」は違っていて区分しているのは共通している。
 一般的にモノの名前は、言語の間で普遍性が高い。あるモノのカテゴリーと、それに隣接する別のカテゴリーの間の境界が、知覚的明確だからであると考えられる。しかし、モノとモノの間の関係については、どこにも明確な境界線はない。私たちが存在する三次元の空間上に、空間関係をカテゴリー化するための線など引かれていないのだから。しかし、それぞれの言語は、ある基準に沿って、関係のカテゴリーをつくり、それに名前をつける。実際には世界に存在しない境界線を、言語が引くのである。私たちが知覚する外界に、誰にでも知覚可能な明確な区切りが存在する場合には、様々な言語の間に共通の普遍的傾向が強くなる。しかし、知覚的な類似性が直接訴えてくるモノの基礎レベルのカテゴリー分け以外の領域では、すぐにわかるような直接的な言語普遍性は薄まり、共通性は抽象的なところでのみ、見られるようになる。つまり、異なるすべての言語の間で、同じ基準で分けられ、同じ境界を持つようなカテゴリーがつくられるということはほぼなくなり、いくつかの限られた選択肢の中からの選択になる。大枠は制限された中で、多様性が生まれる。それぞれの言語の特徴に目を向けると、多様性の方が目立つし、違いの方が共通性よりも見つけやすい。しかし、人の思考の性質、言語の性質を共に理解するためには多様性ののみならず、共通性の理解は非常に重要である。

2023年12月 8日 (金)

今井むつみ「ことばと思考」(4)~第2章 言語が異なれば、認識も異なるか

 言語における世界の分割の仕方の違いはまず、言語と思考の関係について、ウォーフ仮説が紹介される。人の思考は言語と切り離すことができないものであり、母語における言語のカテゴリーが思考のカテゴリーと一致する、というものだ。これについて、著者は、言語の影響が認知プロセスや脳の情報処理のどの時点でどのような形であらわれるのかという観点からことばと認識について考えようという。
 前章で色の名前の言語による多様性が紹介されたが、例えば、基礎名として青や緑という名を持たない言語を話す人々は青や緑の色を見て区別できないかというとそうではない。したがって、ことばを持たないと、実在するモノの実態を知覚できなくなるのではなく、ことばがあると、モノの認識をことばのカテゴリーの方に引っ張る、あるいは歪ませてしまっているというのだ。
 英語には可算名詞と不可算名詞を文法的に区別する。コップはガラスでも陶器でも1個のコップと考える。どちらも同じコップと考えるからで、コップの取っ手だけを取り出してもコップとは考えない。それは1個に満たない。これが可算名詞。これに対してバターは一部を切り取ってもバターで、部分とか全体というものが存在しない。バターというモノのある量の塊でしかなく、その一部もバター。これが付可算名詞。両者は同じということの内容が異なる。両者は根本的に存在の性質の異なる存在といえる。では、名詞に可算・不可算の区別のない日本語の話者はこのような区別はないのか実験してみたところ。そんなことはなかった。ただし、英語話者も日本語話者も同じで変わらないというわけではなかった。というのも、日本語では「これは○○です」といえばいいことを、英語ではその○○が可算名詞(This is a ○○)なのか付可算名詞(This is ○○)で言い方が違う。可算か不可算か分からないというのはあり得ない。それゆえ、初めて見るものについては、形に注目の重心を置くバイアスがかかりやすい。これに対して、日本語の話者は形でも材質でも見ることができる。一方、日本語では数える時には数助詞を用いる。1個とか1匹とかで、それは純粋な数だけではなく、数えられるモノの性質が含まれる。英語のoneのような純粋で抽象的な数とは異なる。
 この他にも、フランス語やドイツ語の女性名詞、男性名詞の区別とか、左右といった言葉の有無による空間上でのモノとモノの位置関係の認識とか、似たようなもので時間の認識とかいったことの多様性が事例として紹介されている。
 これまで見てきたように、言語はたしかに人が世界を見る見方(知覚)、分類、記憶などの思考の様々な側面に影響を及ぼしますが、言語のカテゴリーが、必ずしも思考のカテゴリーと完全に一致するわけではなく、言語による区別があってもなくても、人に普遍的に知覚メカニズムや概念理解が存在しているのです。

2023年12月 7日 (木)

今井むつみ「ことばと思考」(3)~第1章 言語は世界を切り分ける─その多様性

 この章では、言語と思考の関係を述べる前段階として、言語による世界の切り分けの多様さを見ていく。そこで、多様な事例が紹介される。例えば色の名前について、そこで基礎名という概念が登場する。例えば黄緑のような複合語ではなく、それ以上分割できないで、単体で存在する名前。また、水色のようなモノの名前から借りたものではなく、それとは無関係に存在する名前のことだ。英語では、黒、白、灰、赤、黄、緑、青、ピンク、紫、オレンジ、茶が基礎名だという。しかし、色というのは、現実には、少しずつ変化していく連続的な帯のようなもので、私たちは、それをことばでカテゴリーに区切っているだけである。実際、黄とオレンジの間で明確に区分の境界が引かれているわけではない。その境は限りなく曖昧なのである。そしてまた、基礎名は言語によって異なる。例えば、緑と青の区別のない言語も少なくない。さらに、二つの言語の間で一見対応するように見える色の名前も、その言葉の指す範囲が同じとは限らない。例えば、日本では信号の進めは青だが、英語ではグリーンという。
 色の基礎名は、モノの名前では「基礎語」として単一形態素で表わされ、その言語の話者が「これは何か?」ときかれて自然に出てくる語、種類を表わす語をいう。例えば、馬、雪、瓶といったものだ。基礎語は言語によって区分がことなる。例えば、イヌイットの言葉では雪について、20以上の基礎語があるし、瓶などの容器について中国語と英語では区分の仕方が異なっている。さらに、文法的には名詞を性別で分けた、可算と不可算に分けたりする。一方、名詞ではない動詞にも多様さがあるし、空間の把握についてもそうなのだ。例えば、左右という総体的な空間を指すことばがない言語がある。このことばを使用する人々は空間を相対的に捉えることはできず、絶対的な方向、東西南北で把握し、表わしている。
 このような多様性の事例を、後から後から紹介され、前章で、様々な言語がいかに多様に切り分けているかが示されたわけだ。なお、この章は、その事例を「へえー!」と驚いているだけで楽しい。

2023年12月 6日 (水)

今井むつみ「ことばと思考」(2)~序章 ことばから見る世界─言語と思考

 ことばは世界への窓である。私たちは日々の生活の中で、特に意識することなく、ことばを通して世界を見たり、ものごとを考えたりしている。そこで、あらためて、ことばが私たちの日常にどのような役割を果たしているか、もしことばがなかった世界はどうなっているかなどと考えることはない。しかし、ここでは、そういうこと、ことばは私たちの世界の見方、認識の仕方と、いったいどのようなかかわりをかたを持っているかを考えてみる。たとえば、私たちは「水」がどのようなものかを知っている。しかし、「水」ということばを未だ知らない赤ん坊は、それを「水」ということばを知っている大人と同じように理解していないのだろうか。「水」ではなく「water」として知っている場合、同じように理解しているのだろうか。
 言語学によると、ことばというのは世界をカテゴリーに分けるという。ここでは、カテゴリーを同じ種類のモノの集まりとしておく。モノを同じ種類に集めることができるためには、モノを種類としてとらえることが前提となる。つまり、私たち目の前の「ミケ」を猫として捉えることができから、他の「タマ」を猫として同じ種類として捉えることができる。そこには、「ミケ」とか「タマ」をそれそれぞれ個体の名前だけでなく、猫というカテゴリーのことばを持っているということでもある。そして、このように同じということで括っていくことにより、世界を整理している。ことばが指し示すカテゴリーはモノに限らない。さまざまな動作を動詞ということばによる基準をもとにカテゴリー化している。あるいは空間の位置関係、例えば左右とか前後とか、もカテゴリー化している。
 私たちが見ている世界は、ことばが切り分ける世界そのものなのだろうか。そうだとすると、世界にはたくさんの言語があり、世界をどのように切り分けていくかは、言語によって異なってくる。私たちが見ている世界が、ことばが切り分けている世界であるのなら、異なる言語を話す人たちは、世界の見方や思考のあり方が異なるはずだ。ところで、この「思考」というのは、これからのキーワードなので、それについて説明が続く。一般に、思考というと、じっくり思案、熟慮すると思われている。心理学では、「思考」は人が心の中(脳)で行う認知活動すべてを指す。したがって、ことばを未収得の乳児も動物も思考するのである。これに対して「認識」というのは、人が無意識に日常生活の中でしていること─目で見て、耳で聞いて、手で触れて、それを記憶し、それを思い出すという一連のプロセス、端的に言えば「○○と分かる」─を指す。この「○○と分かる」という場合の○○は、ことばで表わされるものであることが普通だ。ここで最初の問いに戻った。私たちはことばを使うことなく、網膜に視覚情報として入ってきたという意味で見た何かを分かるのだろうか。また、ことばを持たない乳児や動物の分かり方と、私たちの分かり方は同じなのだろうか。
 この本では、日常的に私たちが行っている活動─つまり、見る、聞く、理解する、記憶する、そこにない情報を推論で補うこと─に焦点を当て、言語が私たち人間の日常的な思考にどのような動きをし、知性の形成にどのように関わっているのか、という独自の視点を持ち込み、それを通して、思考と言語の関係という問題に、新たな枠組み、新た考え方を提示することを目指している。

2023年12月 5日 (火)

今井むつみ「ことばと思考」(1)

11112_20231205231701  共著だったけれど「言語の本質」がとても興味深かったので、その著者の一人の別の著作を手に取ってみた。この本を読むと、著者は「言語の本質」では人がどのように言語を取得するかといった言語能力とかそれが人のあり方のなかでどういう位置にあるのかといった部分を分担していたのがよく分かる。この著作は、著者のテリトリーである部分を正面から論じたもので、「言語の本質」とあわせて読むと、両方ともに理解が深まると、興味も増すと思う。
 私たちが見ている世界は、ことばが切り分ける世界そのものなのだろうか。そうだとすると、世界にはたくさんの言語があり、世界をどのように切り分けていくかは、言語によって異なってくる。私たちが見ている世界が、ことばが切り分けている世界であるのなら、異なる言語を話す人たちは、世界の見方や思考のあり方が異なるはずだ。このような問題意識で、日常的に私たちが行っている活動─つまり、見る、聞く、理解する、記憶する、そこにない情報を推論で補うこと─に焦点を当て、言語が私たち人間の日常的な思考にどのような動きをし、知性の形成にどのように関わっているのか、という独自の視点を持ち込み、それを通して、思考と言語の関係という問題を考える。
 結論は、異なる言語の間に、普遍的な傾向はたしかにあり、これは人間の認識や知性の普遍性を映し出すものとして非常に重要だ。しかし、言語の多様性は非常に大きいことは紛れもない事実で、人の認識の性質を理解するうえで、漢化することはできない。しかも、モノや出来事を無意識に見るという行為でさえ、言語の存在が脳の計算プロセスの一部になっている。このように考えると、人は言語のフィルターを通して、少々歪められた世界を見ているのである。私たちが見ている世界は言語のフィルターを通した世界であることを理解し、言語がどのように関わっているかを明らかにすることは非常に重要なことだ。言語と思考との関係を考える場合に、単純に、異なる言語の話者の間の認識が違うか、同じかという問題意識は、不十分である。シロでもクロでもない、はっきりした答えを出してくれないで、どっちとも言えるというもの。
 しかも、論理の筋が威嚇で、結論を明確に提示するというよりは、読んでいて、あっちへいったり、こっちへいったりと筋はどうなったのか途中で分からなくなったりする。しかし、その反面、豊富な事例の紹介やあえて筋がぼけてしまうことも恐れずに細部の多様さの紹介を辞さないところは、著者が読者に対して、とにかく知ってほしい、伝えたいという意欲が強く現われていて、好感が持てる。とくに前半では様々な実験の記述があり、それらのひとつひとつが面白い。あまりの面白さに、何を論じようとしているのかを失念してしまいそうになるほど。

 

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