今井むつみ「ことばと思考」(1)
共著だったけれど「言語の本質」がとても興味深かったので、その著者の一人の別の著作を手に取ってみた。この本を読むと、著者は「言語の本質」では人がどのように言語を取得するかといった言語能力とかそれが人のあり方のなかでどういう位置にあるのかといった部分を分担していたのがよく分かる。この著作は、著者のテリトリーである部分を正面から論じたもので、「言語の本質」とあわせて読むと、両方ともに理解が深まると、興味も増すと思う。
私たちが見ている世界は、ことばが切り分ける世界そのものなのだろうか。そうだとすると、世界にはたくさんの言語があり、世界をどのように切り分けていくかは、言語によって異なってくる。私たちが見ている世界が、ことばが切り分けている世界であるのなら、異なる言語を話す人たちは、世界の見方や思考のあり方が異なるはずだ。このような問題意識で、日常的に私たちが行っている活動─つまり、見る、聞く、理解する、記憶する、そこにない情報を推論で補うこと─に焦点を当て、言語が私たち人間の日常的な思考にどのような動きをし、知性の形成にどのように関わっているのか、という独自の視点を持ち込み、それを通して、思考と言語の関係という問題を考える。
結論は、異なる言語の間に、普遍的な傾向はたしかにあり、これは人間の認識や知性の普遍性を映し出すものとして非常に重要だ。しかし、言語の多様性は非常に大きいことは紛れもない事実で、人の認識の性質を理解するうえで、漢化することはできない。しかも、モノや出来事を無意識に見るという行為でさえ、言語の存在が脳の計算プロセスの一部になっている。このように考えると、人は言語のフィルターを通して、少々歪められた世界を見ているのである。私たちが見ている世界は言語のフィルターを通した世界であることを理解し、言語がどのように関わっているかを明らかにすることは非常に重要なことだ。言語と思考との関係を考える場合に、単純に、異なる言語の話者の間の認識が違うか、同じかという問題意識は、不十分である。シロでもクロでもない、はっきりした答えを出してくれないで、どっちとも言えるというもの。
しかも、論理の筋が威嚇で、結論を明確に提示するというよりは、読んでいて、あっちへいったり、こっちへいったりと筋はどうなったのか途中で分からなくなったりする。しかし、その反面、豊富な事例の紹介やあえて筋がぼけてしまうことも恐れずに細部の多様さの紹介を辞さないところは、著者が読者に対して、とにかく知ってほしい、伝えたいという意欲が強く現われていて、好感が持てる。とくに前半では様々な実験の記述があり、それらのひとつひとつが面白い。あまりの面白さに、何を論じようとしているのかを失念してしまいそうになるほど。
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