小野塚知二「経済史─いまを知り、未来を生きるために」(7)~第Ⅴ部 現代─欲望の人為的維持
第19章 近代と現代
近代と現代とは、次の3点で異なる。第一に、社会政策、農業政策、市場政策などの背後に作用し、また、それらの政策に表現された思想が古典的自由主義から介入的自由主義に変化したこと。このような政策思想の変化の裏側には、万人を際限のない欲望の十全な主体であるとはみなせなくなったことが関わっている。第二に、第一次世界大戦以降の1世紀に及ぶ経済・社会はそれ以前のグローバル経済が有していた安定性や循環性を欠き、概して不安定・不均衡であり、世界経済はグローバルな性格よりも、分断された性格を深めた。第三に、それゆえ、現代の経済は意図的な国際協調の取決めや仕組みを必要とせざるをえなかった。
これに対して、現代と勤怠のあいだには連続している面がある。それは第一に、際限のない欲望が個々の人のレベルで解放されていて、人はおのれの欲望の命ずるところに従って、その欲望を最もよく充足することが社会の当然の格率となっているところ。第二に、市場経済、資本主義、産業社会、近代市民社会という点で現代は近代を継承している。第三に、「豊かさ」と「自由」という二つの究極的な価値を共有している。
このように現代とは一方では、近代から継承した「自由」と「豊かさ」を尊重する社会であり、他方では、その「自由」と「豊かさ」を人為的に維持・増進するために諸種の介入・保護・誘導・統制が導入された時代でもある。
キンタ制社会の思想的基盤は古典的自由主義だが、俗説の夜警国家では捉え切れない、より重層的で複雑な原理で社会は成立すると考えられていた。古典的自由主義の社会設計では、誰もが自由で自立した個人であるとは考えられていない。まず、成人男性は強く逞しい人として自助を通じて自立し、市場で自己と家族の幸福を物的に実現する能動的な主体で、それに照応して、成人女性と子どもは、強く逞しい男性の私的な保護・後見の下にあるものと考えられていた。家は封建制や前近代社会の残滓ではなく、近代社会を成立させるための必須の要素だった。この成立条件とし考えられるのは、できる限り多くの成人男性が自立すること、もう一つは成人男性の私的保護・後見の及ばない場所で工場労働に従事し、また寄宿舎で生活する子供や成人女性に対して公的な保護・後見が導入されること。この二つの条件をあとから付加することで、古典的自由主義の社会は最終的に成立したかと言うと、そうではない。それは、第一の条件である自立は人為的に創出することができないからだ。成人男性が自立できるとは限らないし、組合などによる集団による自助の集団的手段の補助の及ばないものや脱落する者も少なくなかったからだ。その結果、社会は自立できない男性と、その保護・後見の下に置くことができない女性や子どもを大量に抱え込まざるを得なかった。このような自立の困難性が発見されたことで、社会保険への強制加入といった強制的な自助への転換が図られる。それはまた、人間観の転換をももたらした。つまり、男性が自立できないことを認識し、成人男性が強く逞しい存在であるはずだという期待や要請が通用せず、むしろ弱く劣った者を標準として全体する政策思想へと転換したのだった。ここで、強制という自由主義にとって最も居心地の悪い要素を導入することにより、古典的自由主義から介入的自由主義への転換が行われることになった。
介入的自由主義では、所得補償、健康の維持、雇用保険、その他福祉国家など、人生の多くの局面において人々は、定められた幸福に向かって誘導され、ありうべき危険・不幸から遠ざけるように介入・保護・誘導・統制される。人々を誘導するのは国家以外にも組合や企業などで、何が幸福であるかその指導者たちが正しく知っている。このような、人々を、エリートが定めた幸福に向かって誘導する介入的自由主義は、個人の自由な主体性に根源的なところで抵触する可能性があり、強制はもとより、介入・保護・誘導・統制によって自由を実現するという思想は自由主義としては聊かひっかかるところがある。古典的自由主義における成人男性による女性・子どもの私的保護・後見は、介入的自由主義では、成人による未成年者の保護に変化し、成人女性は私的保護・後見の客体から主体へと昇格し、男女同権が実現する。成人男性と成人女性はいずれも、自由な個人として、しかし強く逞しい人ではなく、弱く劣った人という標準形に当てはめられて、幸福へと誘導されることになる。
このような介入的自由主義が人々を幸福へと向かわせるのは、第一に、そうしなければ、人々は弱く劣っているがゆえに、おのれの幸福が分からないからであり、第二に、人々がおのれの幸福を実現できないなら、高い経済成長率を達成できないだけでなく、人々が正しく賢明な方向に成長できないなら、社会は発展せず、国も強くならないと考えられたからだ。何が幸福や成長・発展の方向であるかを判断できる人がいて、彼らの指し示す方向に歩むなら、うまくいくという、ある種の権威的秩序が介入的自由主義を支えている。これは外側から観察すれば、お節介で、息苦しく、人の生き方や感じ方までが既定の路線の上に整序されるシステム化された社会だ。
第20章 第一のグローバル経済と第一次世界大戦─繁栄の中の苦難
欲望と経済成長は、貿易と資本の輸出入と移民とを刺激し、産業革命以降の世界をますます相互依存的な経済を築くようになり、その頂点が19世紀末から第一次世界大戦までの第一のグローバル経済だと言える。この時期の安定的で循環的なグローバル経済は、多角的決済機構、国際金本位制、実需に結び付く投資機会、それらを支えた海運・国際金融・保険の制度という四つの要素によって成り立っていた。
第一の多角的決済機構とは、複数の三角貿易の組み合わせによって、世界諸地域が相互に貿易で結び付けられながら、貿易赤字/黒字がいずれかの国に蓄積し、不均衡が拡大するのではなく、赤字/黒字が多角的に相殺されることによって、循環的な貿易が世界全体で継続する通商関係のことだ。機構と言いながら、この通商関係は人為的に設計されたものではなく、各国の産業革命・経済発展に対応した貿易の中で生まれた自生的な通商関係だった。二国間の貿易を取り出すと一方に赤字が、他方に黒字が蓄積する貿易関係にあったのが、三つ以上の国の間では、支払義務が循環的に発生して、赤字/黒字が多角的に相殺される関係だった。
ドイツやアメリカは産業革命を達成した結果、イギリスからの工業製品輸入国ではなくなり、むしろイギリスへの輸出超過傾向を見せるようになっていったのに、イギリスがアジア、アフリカ、中南米向けには相変わらず工業製品輸出国として競争力を維持していた。その理由は、イギリスが第三世界向けに、多様な注文に応じて諸種の製品を柔軟に供給できる能力を保持していたからだ。イギリスは、世界に隅々まで様々なものを供給する点で競争力を保持していた。また、イギリスは貿易収支以外でも第三世界から支払いを受ける関係を維持していた。それは、世界最大の資本輸出国であったからで、イギリスはこれらの諸地域でプランテーションの大規模農園の生産設備を作り、それら産品を輸出するための鉄道を施設し、港湾を建設し、それらの修理施設を設置するなどのために巨額の資本を輸出し、その投資利益で、貿易赤字をはるかに上回る国際収支の黒字を稼ぎ出していた。さらに国際貿易はポンド決済が通例で、当時の国際決済は基軸通貨ポンドによって媒介され、貿易役務をイギリスが一手に引き受ける。イギリスは19世紀前半には金を本位貨幣とする通貨制度を採用し、イングランド銀行券と金との兌換を行う金本位制を確立した。世界主要国もこれに倣い、国際金本位制では、各国の通貨が金という単一のものに裏づけられるため、各国の通貨が安定的なだけでなく、為替相場も安定した。このようにして、第一のグローバル経済では、各経済主体は、貨幣価値の変化や為替変動の危険をそれほど考慮する必要なく、投資や取引を行うことができた。そのため、資金供給力のある者は、安心して投資することができた。新たな投資が需要を生み出し、その需要が海運・国際金融・保険にも新たな需要を生み出し、投資と産業連関の伝でも循環的に発展していた。
経済がますますグローバル化するということは、国際分業がますます深化するということで、貿易に参加する国はどこも富み栄える。それはまた、どの国も比較的優位業種に特化し、比較的劣位業種を捨てることを意味する。ここで、国際分業が深化し、かつ、国内のすべての業種・地域が繁栄することはありえず、どの国も比較的劣位業種とそれが立地する地域は衰退せざるを得ないという苦難を経験した。このように、国際分業の深化に伴って、どの国も繁栄の中の苦難を抱え込むことになる。
しかし、1879年ドイツ関税法により協定的自由貿易ネットワークは関税戦争の様相を呈することになる。しかし、それでもヨーロッパ諸国の貿易を減退させることにはならなかった。各国の通商条約の最恵国待遇条項が、網の目のように張り巡らさせていることにより、関税戦争により特定品目のみ関税率の引き上げがあったもののそれ以外の多くの品目については時差質的に自由貿易につかい状態が保たれたのだった。ただし、保護貿易への転換や゜関税戦争が貿易実態には影響を与えなかったとはいえ、相手国民の心理には大きな影響を与えた可能性はある。各国の関税法の改定や通商条約の改定によって、自国産品への税率をわずかでもあげることは、相手国から見るなら自分たちの製品をその国から締め出そうとする敵対的な意図を感ずることになる。関税戦争は各国の輸入を減退させることかはなかったが、相手国に対して自国の敵意を示してしまうという意図せざる効果が生じたのだった。
一方、グローバル経済の繁栄の中の苦難に対する解釈として社会主義の側からのもの、そしてナショナリズムからのものがあった。後者はお手軽な内容だったが、自国が当然享受すべき富や利益を損なう敵が外側に存在するという被害者意識と、そうした外的に内通する裏切り者が国内で妄動している猜疑心との複合した心理に裏付けられた言説。ドイツでは、イギリスの金融業や海運業・造船業に対する劣位の意識だけでなく、海軍力でも劣位にあり、それが原因で自分たちの利益が損なわれているという意識が強く醸成され、イギリスではドイツの輸出拡大は経済的な脅威で、自国市場にドイツ製品が氾濫しているというドイツの経済的侵略という認識が広まり、比較的劣位で構造不況に陥った金属加工業や小間物製造、印刷などの業種とその立地地域では、ドイツの不公正貿易によってイギリスが当然享受すべき利益が損なわれているという認識が強まっていった。これらについて、ナショナリズムは苦難の原因は外敵と内通者の悪意にあり、それに対する対処を必要としないので政治家にとっては便利に、安易に使われたのだった。
民主主義が本当に強靭で賢明な仕組みであったなら、国際分業の深化とともに必然的に深まる繁栄の中の苦難について、ナショナリズムに逃げるのではなく、失業や産業衰退などの苦難を経験する業種・地域には、国際分業の深化によって発生する利益で、失業対策や転業対策などの手当てが十分に可能であることを示して、国内問題として処理することが可能だったかもしれない。しかし、当時の民主主義は、外敵と裏切りを安易に名指しする言説に傾き、一部の政治家たちもそれを利用しようとした。
一方、このような民主主義の脆弱性とは別に、イギリスは戦争に参加しないことを利益とするはずだった。イギリスはグローバル経済の中心であり、基軸通貨ポンドを世界に提供し、世界の貿易・海運・保険を担うことで、このグローバル経済から多大な利益を得ており、それがイギリスの外交上の優位性の大きな源泉でもあった。当時の自由党政権はそのことを承知していて、参戦には大いに無躊躇逡巡していた。ナショナリズムを先導する一部政治家やメディア、それに煽られた民衆心理をどこまで躱すことができるかを考慮しながら、それができないときに参戦を納得させるかを考えてもいた。第一次世界大戦は、このように経済的な問題や対立が原因で始まったのではなく、民衆心理とメディアの中で始まったと言っていい。敵愾心・猜疑心・不信感が沸き起こり、各国で同時に発生したそのような心理が相手国側の示す敵意に刺激されて、鏡像的に増幅しつつある状況の中で、セルビア事件が起こり、民衆心理と政治・外交の複合状況に火をつけることにより対戦が勃発した。国際分業が深化し、経済が相互依存的であることは、決して平和の絶対条件にはならなかった。
イギリスは参戦することによって、経済的・外交的に利益を喪失しただけでなく、世界も有力な中立国・停戦仲介者を失って、オーストリアとセルビアの局地戦は短期間のうちら世界大戦となってしまった。イギリスの参戦により停戦や終戦の手がかりを失ったまま漂流し、5年間も続いてしまった。
第21章 第一次世界大戦とその後の経済
第一次世界大戦は、それまでの戦争とは違って、戦闘状態が何年も続く長期の戦争となったため、主戦場となったヨーロッパの交戦国は、長い戦時の経済と社会を支えるために、それまで国内で部分的に試みられていた諸種の介入的自由主義の手法を全面的に実施して、総力戦体制を樹立した。
総力戦とは、抗戦中の国が、その国の有する人的・物的・金銭的な諸資源のすべてを戦争目的のために優先的に投入し、動員することによって戦われる戦争のことだ。総力戦体制とは、このような総力戦を可能とするように政治・経済・社会・生活を権力的に組織した状態を意味する。総力戦の特徴は、①介入・統制の側面の強化、②自由・権利の制限、③物的・金銭的資源の集中と計画的配分、④国民を戦争目的のために最大限働かせるための心理・行為両面での人間操作技術の進歩の四点があげられる。
ドイツとオーストリアは周囲を敵側の諸国に押さえられ、イギリス海軍の海上封鎖を受け、海外からの輸入量は大幅に減退し、国内生産と占領地の資源の徴発とで戦争を戦うことを強いられた。それが長期にわたり1918年以降には困民や兵士の間に厭戦気分が蔓延して、国内で革命が起こることによって、両国は敗戦に至る。これに対して連合国側は、カイロでの物資供給を維持できたので、厭戦気分を抑えることができた。第一次世界大戦は、経済的に緊密な相互依存関係のなかで発生した繁栄の中の苦難への国内的な対処を誤ったことが根本的な原因で起こったが、その結果、破壊されてしまった国際分業関係のあとには、最終的な食べることへの不安・不満から厭戦気分が嵩じて、革命が発生した国が戦争から離脱せざるをえなくなるという仕方で、大戦が終わった。
戦後の賠償問題については戦債の処理が関係する。第一次世界大戦において、どちらの陣営も、国家が戦争に必要な資金を調達のために戦時公債を発行した。戦時中は金本位制を停止していたため。中央銀行は際限なく紙幣を発行し、それを戦時公債で政府が吸収すれば、戦争遂行に必要な資金を賄うことができた。このように蓄積されたのが連合国側の戦債だった。主体債権国はアメリカで英仏両国は、その償還に応じなければならなかった。英仏両国は、その返済のためにドイツに対する賠償要求にそれを含めたので、当初想定されていたものより過大な賠償をドイツに求めたのだった。
戦争が終わっても、ヨーロッパ諸国はも軍人恩給、住宅政策、産業合理化などの様々な課題を抱えていたため、依然として総力戦体制から脱却できず、去生成期簿は膨張したままで、戦前の平時に戻ることはできなかった。そんな中で、アメリカは戦後も繁栄を続けた。アメリカは1920年代に大量生産・大衆消費型の経済を実現し電化製品や自動車などの耐久消費財等の需要が国内で分厚かったので、戦後も繁栄を続けることができた。この時に稼いだドル資金を中南米諸国やドイツ、オーストリアなどの中欧諸国に短期資金の形で流出していた。このおかげで、ドイツは賠償金の支払いが可能となり、英仏のその賠償を受け取り、アメリカへの戦債の償還が可能となった。このようなドルの循環のおかげで、小康状態にあった。
しかし、アメリカは1920年代後半のハリケーンで不動産市況が下落すると、貨幣が証券市場に流入し、証券バブルを発生させた。
そこで連邦準備銀行は公定歩合の引き上げによりバブルを冷却させようとしたが、かえって国外を循環していたとセル資金が還流することとなり、かえってバブルを過熱させてしまい、ついに1929年のブラックマンデーの株価の大暴落を迎えることになる。これが大恐慌の引き金となった。こうした中で英連邦諸地域を有するイギリスをはじめ、世界中に植民地を持つフランス、中南米と太平洋地域を事実上の自国専用市場としつつあったアメリカなどの持てる国は経済のブロック化を採用することで、恐慌の打撃を最小限にしようとした。これに対して海外領土を失ったドイツやイタリア、日本などの豊かな自国専用市場を持たない国は乱暴な仕方で国外市場の獲得に乗り出して、英仏米などと衝突を繰り返し、それが第二次世界大戦の原因となった。つまり、第二次世界大戦は、大恐慌によって世界経済が分断された状況で、有限の市場を奪い合うことに起因する外交的・軍事的衝突が嵩じて発生した戦争ということになる。第一次世界大戦が民衆心理にその原因の大きな部分があつたために、戦争の終わり方にも各国民衆の厭戦気分の処理の失敗が直接的に反映していたのに対して、第二次世界大戦は経済の失敗に起因する外交的・軍事的衝突が原因であり、戦争の終わり方も、単純に苦戦磁力の強い方が勝つという、非常に分かりやすい戦争だった。
ドイツが構想した、ドイツを中心とした中東欧の統合構想も、日本か抗争した大東亜共栄圏も、それぞれの国内市場の貧しさがその背景にあり、外側への進出で、市場と原料の獲得を目指したが、そもそも軍事力の裏付けとなる経済力の極端な格差の前には、どちらの構想もはじめから実現の可能性は乏しく、両国とも戦場での戦闘で負けるという、軍事力の差が明瞭に勝敗を決した典型的な戦争となった。国民の消費と生活に根ざした分厚い需要に支えられない経済は、輸出と軍事に依存せざるを得ない脆弱性を強く帯びている。経済的相互依存関係を意識的に維持するという発想が微弱で、貿易を安定的に維持できなかった戦間期には、軍縮破綻後の軍拡と軍事的・暴力的な方法での海外市場獲得へと傾斜する危険性という形で、この脆弱性が発現した。
第22章 第二次世界大戦とその後の経済
第二次世界大戦期の国際協調はおもに連合国間で進められた。枢軸国側のドイツとイタリアのあいだには若干の軍事上の共同作戦はあったが、日独伊三国同盟は経済的相互依存を積極的に進めるには至らず、若干の技術協力があった程度で、ましてや戦後の国際秩序について協同で構想するということなかった。これに対して、連合国側ではイギリスとアメリカが主導し、他の連合国が加わるという形で、日本が参戦の意思を固める以前に、戦後の国際秩序を構想し始めていた。それが大西洋憲章であり、それが戦後の国連などに結実していくことになる。
実際の戦後は、必ずしも構想された国際協調の枠組み通りには始まらなかった。第一に、ドイツと日本に対する占領政策は、第一次世界大戦の戦後処理よりもはるかに過酷で、一切の軍備と航空が禁止され、脱産業化が強制され、また連合国による占領統治で、多くの改革がなされたが、民衆の生活の安定や経済復興は当初考慮されていなかったため、戦後はむしろ飢餓や不衛生の問題が激化した。第二に、各国が貿易で受け取る支払手段は金かドルに限られていたから、金もドルも保有しないほとんどすべての国は、支払手段の決定的な不足から貿易が滞り、戦後復興も遅滞してしまった。それゆえ、間接的に金の裏付けを得るという形で、戦後の実際の通貨制度は動き始め、アメリカが世界の必要とするドルをどれだけ供給し続けられるかにかかっていた。こうして、第二次世界大戦後の諸国の復興は遅滞したが、米ソ冷戦が始まると、自由・無差別・多角的の理念から外れてでも、アメリカが傘下の諸国にドルを配布して復興を促さないと、冷戦を戦えないという問題が生じたのだった。そこで、ヨーロッパにはマーシャル・プランによる援助が始まり、占領地には軍による援助が始まった。
そして、朝鮮戦争を経て、ヨーロッパと日本の経済は高度成長期に入ってゆく。そこでは1920年代にアメリカが達成したのと同様に、電気製品や自動車などの耐久消費財の大量生産体制の確立によって、その需要が下方に拡張し、それらが普通の庶民にとって手の届く欲望の対象となった。この時期の経済成長の特徴は、それら耐久消費財部門を中心とした生産性の大幅な向上、耐久消費財の相対価格の低下、生産性上昇の範囲内での実質賃金獲得額の上昇、耐久消費財や住宅への需要の郭泰、さらなる生産性上昇と大衆消費の実現という好循環が、先進国の国内で形成されたことにある。ここで先進国経済は、人々の生活が賃金上昇と消費を通じて豊かになることを通じて、経済が成長するという生活・消費主導型の成長を実現し、外国市場を争奪する必要性は相対的に低下した。
一方、アメリカ、イギリス、フランスなどの経済は、耐久消費財生産よりもむしろ、兵器産業や航空・宇宙分野に諸資源を投入して軍産官複合体を形成し、兵器の国内需要と開発資金を安定的に獲得するとともに、余剰の兵器を海外に輸出するというもう一つの先進国経済の型を形成した。
他方社会主義国側も順調な経済成長を遂げ、それなりに豊かな社会を実現する。つまり、東西冷戦とは、一方では軍事力と低開発諸国を含む同名の力とを誇示した競争で、他方では民衆の豊かさを競い合う関係でもあった。そこで争われたのは、資本主義と社会主義のいずれが豊かさをよりうまく表現できるのか、また、低開発諸国が豊かな社会に転換するためのよりよい針路をどちらが提示できるかということだった。したがって、冷戦は、どちらかが豊かさの実現において他方より劣ることが誰の目にも明らかになった際に、終えんを迎えることが、すでに1960年代の時点で決まっていたと言える。ソ連を中心とした中東欧社会主義国は、貿易関係が社会主義国間という制約があった中で、人々を満腹させ、さらに科学・技術・文化・スポーツ等のさまざまな点で、アメリカを中心とした資本主義諸国よりも優越していることを証明する努力を続けるべく運命づけられていた。
また、豊かな北側の東西諸国とは別に、植民地支配から脱した南側の諸国は、産業基盤がモノカルチュア化しており、必要な資金は不足し、技術は未熟で、また人材を育てる教育機関も未整備であったため。経済発展に必は大きな困難を経験する。多くの国は外交的な自主性に乏しく、東西どちらかの援助を受けて開発を進めるが、自国内の努力だけでは解決できない低開発国独自の問題が露呈して、先進国と低開発地域との格差を縮めることの困難性が認識されるようになる。南北問題と呼ばれた。
このような中で世界が単一の経済に結び合わされることはなく、東西は体制の相違で分断され、南北には大きな格差が残されたのだった。
第23章 第二のグローバルの時代
1970年代以降、福祉国家とケインズ主義的な経済・財政政策への批判が新自由主義として強まった。いわゆるネオ・リベラリズムは強く逞しい個人を前提にしている点では古典的自由主義の再版で、介入的自由主義の色を帯びた現代への批判であるように見える。しかし、政策思想として見た場合、ネオ・リベラリズムは古典的自由主義のきわめて不完全な再版にすぎないといえる。自由で自立した個人と市場という、主体と場の設定は同じだが、古典的自由主義のように成人男性に女性・子どもの私的保護という領域には踏み込まない。古典的自由主義が自らを成立させる時要件として到達した集団的自助については否定的な態度を示している。つまり、古典的自由主義が社会設計を完成される方向に進化しようとしたのに対して、ネオ・リベラリズムは社会設計の完成を拒否した硬直的な政策思想に留まった。それにもかかわらず、ネオ・リベラリズムの主張が可能だったのは、ネオ・リベラリズムが、社会保険や企業福祉や家などのすでに存在している生活保障の要素に補完されたからなのだ。つまり、ネオ・リベラリズムは介入的自由主義の掌の上で古典的自由主義の一部だけを再現して見せようとした思想だった。それゆえ、ネオ・リベラリズムは介入的自由主義の体制に取って代わる方向性を明瞭に示すことはできないでいる。
そして、ネオ・リベラリズムが古典的自由主義と明瞭に異なるのは市場観である。子女とは所詮、公正な条件の下で幸福を再現するための手段にすぎず、そのためには工場法や救貧法のような人為的な介入もありえたのが古典的自由主義だった。これに対して、ネオ・リベラリズムは支持用の自動調節機能を神聖不可侵の自主的秩序にまで高めたものの、市場がいかにして万能の調節機能を果たすかについては古典派以上に論証・実証したわけではない。
また、ネオ・リベラリズムは政策思想としては社会を観念的に再構成できないだけでなく、個々の政策領域でも、目的合理性という近代市民社会に不可欠の評価基準を失ってしまっている。政策とは政策の目的を達成するための手段であり、この目的とは、何らかの思想に照らして発見された問題を解決し、あるべき状態に近づけることである。あるべき状態は人間的な価値、例えば幸福とか欲望の充足といったものの基準で測定されるのが普通だ。このような明確に設定されて、多数に共有された目的を実現するために、所与の資源と情報の賦存状況を前提にして最も合理的な手段選択して為される行為が目的合理性のある行為とウェーバーは定義した。近現代の社会では、大方の合意の得られる目的を設定し、その目的に対して合理的な手段・政策が選択され、その結果は定期的に評価されて、手段の選択の正しさを検証するという仕組みで遂行されるのが普通のことだ。ところが、目的が明瞭にされず、手段選択の合理性も検証できない政策が採用された場合、政治家も政策担当者も説明責任を果たすことができない。ネオ・リベラリズムの政策は実現すべき社会観と人間像を明確に主張しない。例えば、ネオ・リベラリズムは市場の競争秩序を強く要請する。彼らは「市場の自然的な本質は競争であり、その自生的秩序を誰も損なってはならない」と主張する。市場が競争的であるかどうかは、競争の敗者の存在によって証明できるので、予算執行に際して例外なく競争入札を求めたり、競争的資金の配分を広く薄くではなく少数者に厚く支給することで、常に敗者が出てくるような政策が採用されるとする。それは競争的市場という価値に従っているが、それで実現しようとする社会や人間の具体的な状態は明示していないので、その政策が目的にとって合理的かを検証できないし、結果から事後的な説明もできない。敗者を出すことにより、どのような結果となるかは問題ではなく、大事なことは敗者の存在により競争の存在を確認できることなのだ。
それにもかかわらず、ネオ・リベラリズムが20世紀末に勢力を伸張できたのは、介入的自由主義への忌避感からだという。この忌避感は、個人の尊厳、自立(自律)する個、自分生き方は自分で決めたい、自己責任をとれない奴は屑だ、などといった言説に表わされる。このような忌避感は1960年代末の学生叛乱の際に原初的に表われてた。それは介入的自由主義の社会における主体性の形骸化への反発だった。
第二次世界大戦後も、第一次世界大戦前のグローバル経済と同じような円滑で円満な経済の回復が願望された。大戦中には、戦後の世界経済を緊密に結び合せて、貧困化とブロック化の両方を防止しようとする諸種の取り決めや機関がつくられた。しかし、それらはうまく機能せず、各国の間で諸種の自由貿易協定や経済連携協定のような特定の国々のブロック内での自由を座主動きが後を絶たない。一方、世界各国で金融の規制緩和が為されたことにより、実体経済が必要とする通貨量をはるかに上回る巨大な通貨が。過剰流動性として、安定的な統御装置も欠いたまま、瞬時に世界をめぐり、巨額の利潤と損失を生み出し続けている。このマネーゲームで発生した金融・通貨危機は実体経済にひじ用に大きな混乱と損害をもたらす危険性がある。1990年代の願望のグローバル経済は、第一次世界大戦前のグローバル経済には備わっていた通貨秩序も多角的通商の利点も実体経済と金融との幸福な相互補完関係もない、不完全で不均衡で統御困難な状況に陥っている。このような状況で、ネオ・リベラリズムは社会を設計できないだけでなく、貧困・格差等に対する方向性も出せない。古典的自由主義の社会設計は進化し続けた末に不可能であることが範囲して破綻した。そりに取って代った介入的自由主義が20世紀に生み出し続けた昨日の多くは有効性を低下させ、そのお節介な本質に対する忌避感が広く蔓延している。しかし、古典的自由主義もネオ・リベラリズムにも見込みはないとすれば、当面は介入的自由主義の諸種の手段を続けるほかはない。
いまは、何重もの意味で行き詰まっているが、出口が見えず、次代の構想を描けない。このような次代の構想を欠いた状況は、人類の歴史のなかではじめてのことかもしれない。
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