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2024年1月

2024年1月31日 (水)

小野塚知二「経済史─いまを知り、未来を生きるために」(7)~第Ⅴ部 現代─欲望の人為的維持

第19章 近代と現代
 近代と現代とは、次の3点で異なる。第一に、社会政策、農業政策、市場政策などの背後に作用し、また、それらの政策に表現された思想が古典的自由主義から介入的自由主義に変化したこと。このような政策思想の変化の裏側には、万人を際限のない欲望の十全な主体であるとはみなせなくなったことが関わっている。第二に、第一次世界大戦以降の1世紀に及ぶ経済・社会はそれ以前のグローバル経済が有していた安定性や循環性を欠き、概して不安定・不均衡であり、世界経済はグローバルな性格よりも、分断された性格を深めた。第三に、それゆえ、現代の経済は意図的な国際協調の取決めや仕組みを必要とせざるをえなかった。
 これに対して、現代と勤怠のあいだには連続している面がある。それは第一に、際限のない欲望が個々の人のレベルで解放されていて、人はおのれの欲望の命ずるところに従って、その欲望を最もよく充足することが社会の当然の格率となっているところ。第二に、市場経済、資本主義、産業社会、近代市民社会という点で現代は近代を継承している。第三に、「豊かさ」と「自由」という二つの究極的な価値を共有している。
 このように現代とは一方では、近代から継承した「自由」と「豊かさ」を尊重する社会であり、他方では、その「自由」と「豊かさ」を人為的に維持・増進するために諸種の介入・保護・誘導・統制が導入された時代でもある。
 キンタ制社会の思想的基盤は古典的自由主義だが、俗説の夜警国家では捉え切れない、より重層的で複雑な原理で社会は成立すると考えられていた。古典的自由主義の社会設計では、誰もが自由で自立した個人であるとは考えられていない。まず、成人男性は強く逞しい人として自助を通じて自立し、市場で自己と家族の幸福を物的に実現する能動的な主体で、それに照応して、成人女性と子どもは、強く逞しい男性の私的な保護・後見の下にあるものと考えられていた。家は封建制や前近代社会の残滓ではなく、近代社会を成立させるための必須の要素だった。この成立条件とし考えられるのは、できる限り多くの成人男性が自立すること、もう一つは成人男性の私的保護・後見の及ばない場所で工場労働に従事し、また寄宿舎で生活する子供や成人女性に対して公的な保護・後見が導入されること。この二つの条件をあとから付加することで、古典的自由主義の社会は最終的に成立したかと言うと、そうではない。それは、第一の条件である自立は人為的に創出することができないからだ。成人男性が自立できるとは限らないし、組合などによる集団による自助の集団的手段の補助の及ばないものや脱落する者も少なくなかったからだ。その結果、社会は自立できない男性と、その保護・後見の下に置くことができない女性や子どもを大量に抱え込まざるを得なかった。このような自立の困難性が発見されたことで、社会保険への強制加入といった強制的な自助への転換が図られる。それはまた、人間観の転換をももたらした。つまり、男性が自立できないことを認識し、成人男性が強く逞しい存在であるはずだという期待や要請が通用せず、むしろ弱く劣った者を標準として全体する政策思想へと転換したのだった。ここで、強制という自由主義にとって最も居心地の悪い要素を導入することにより、古典的自由主義から介入的自由主義への転換が行われることになった。
 介入的自由主義では、所得補償、健康の維持、雇用保険、その他福祉国家など、人生の多くの局面において人々は、定められた幸福に向かって誘導され、ありうべき危険・不幸から遠ざけるように介入・保護・誘導・統制される。人々を誘導するのは国家以外にも組合や企業などで、何が幸福であるかその指導者たちが正しく知っている。このような、人々を、エリートが定めた幸福に向かって誘導する介入的自由主義は、個人の自由な主体性に根源的なところで抵触する可能性があり、強制はもとより、介入・保護・誘導・統制によって自由を実現するという思想は自由主義としては聊かひっかかるところがある。古典的自由主義における成人男性による女性・子どもの私的保護・後見は、介入的自由主義では、成人による未成年者の保護に変化し、成人女性は私的保護・後見の客体から主体へと昇格し、男女同権が実現する。成人男性と成人女性はいずれも、自由な個人として、しかし強く逞しい人ではなく、弱く劣った人という標準形に当てはめられて、幸福へと誘導されることになる。
このような介入的自由主義が人々を幸福へと向かわせるのは、第一に、そうしなければ、人々は弱く劣っているがゆえに、おのれの幸福が分からないからであり、第二に、人々がおのれの幸福を実現できないなら、高い経済成長率を達成できないだけでなく、人々が正しく賢明な方向に成長できないなら、社会は発展せず、国も強くならないと考えられたからだ。何が幸福や成長・発展の方向であるかを判断できる人がいて、彼らの指し示す方向に歩むなら、うまくいくという、ある種の権威的秩序が介入的自由主義を支えている。これは外側から観察すれば、お節介で、息苦しく、人の生き方や感じ方までが既定の路線の上に整序されるシステム化された社会だ。
第20章 第一のグローバル経済と第一次世界大戦─繁栄の中の苦難
 欲望と経済成長は、貿易と資本の輸出入と移民とを刺激し、産業革命以降の世界をますます相互依存的な経済を築くようになり、その頂点が19世紀末から第一次世界大戦までの第一のグローバル経済だと言える。この時期の安定的で循環的なグローバル経済は、多角的決済機構、国際金本位制、実需に結び付く投資機会、それらを支えた海運・国際金融・保険の制度という四つの要素によって成り立っていた。
 第一の多角的決済機構とは、複数の三角貿易の組み合わせによって、世界諸地域が相互に貿易で結び付けられながら、貿易赤字/黒字がいずれかの国に蓄積し、不均衡が拡大するのではなく、赤字/黒字が多角的に相殺されることによって、循環的な貿易が世界全体で継続する通商関係のことだ。機構と言いながら、この通商関係は人為的に設計されたものではなく、各国の産業革命・経済発展に対応した貿易の中で生まれた自生的な通商関係だった。二国間の貿易を取り出すと一方に赤字が、他方に黒字が蓄積する貿易関係にあったのが、三つ以上の国の間では、支払義務が循環的に発生して、赤字/黒字が多角的に相殺される関係だった。
 ドイツやアメリカは産業革命を達成した結果、イギリスからの工業製品輸入国ではなくなり、むしろイギリスへの輸出超過傾向を見せるようになっていったのに、イギリスがアジア、アフリカ、中南米向けには相変わらず工業製品輸出国として競争力を維持していた。その理由は、イギリスが第三世界向けに、多様な注文に応じて諸種の製品を柔軟に供給できる能力を保持していたからだ。イギリスは、世界に隅々まで様々なものを供給する点で競争力を保持していた。また、イギリスは貿易収支以外でも第三世界から支払いを受ける関係を維持していた。それは、世界最大の資本輸出国であったからで、イギリスはこれらの諸地域でプランテーションの大規模農園の生産設備を作り、それら産品を輸出するための鉄道を施設し、港湾を建設し、それらの修理施設を設置するなどのために巨額の資本を輸出し、その投資利益で、貿易赤字をはるかに上回る国際収支の黒字を稼ぎ出していた。さらに国際貿易はポンド決済が通例で、当時の国際決済は基軸通貨ポンドによって媒介され、貿易役務をイギリスが一手に引き受ける。イギリスは19世紀前半には金を本位貨幣とする通貨制度を採用し、イングランド銀行券と金との兌換を行う金本位制を確立した。世界主要国もこれに倣い、国際金本位制では、各国の通貨が金という単一のものに裏づけられるため、各国の通貨が安定的なだけでなく、為替相場も安定した。このようにして、第一のグローバル経済では、各経済主体は、貨幣価値の変化や為替変動の危険をそれほど考慮する必要なく、投資や取引を行うことができた。そのため、資金供給力のある者は、安心して投資することができた。新たな投資が需要を生み出し、その需要が海運・国際金融・保険にも新たな需要を生み出し、投資と産業連関の伝でも循環的に発展していた。
 経済がますますグローバル化するということは、国際分業がますます深化するということで、貿易に参加する国はどこも富み栄える。それはまた、どの国も比較的優位業種に特化し、比較的劣位業種を捨てることを意味する。ここで、国際分業が深化し、かつ、国内のすべての業種・地域が繁栄することはありえず、どの国も比較的劣位業種とそれが立地する地域は衰退せざるを得ないという苦難を経験した。このように、国際分業の深化に伴って、どの国も繁栄の中の苦難を抱え込むことになる。
 しかし、1879年ドイツ関税法により協定的自由貿易ネットワークは関税戦争の様相を呈することになる。しかし、それでもヨーロッパ諸国の貿易を減退させることにはならなかった。各国の通商条約の最恵国待遇条項が、網の目のように張り巡らさせていることにより、関税戦争により特定品目のみ関税率の引き上げがあったもののそれ以外の多くの品目については時差質的に自由貿易につかい状態が保たれたのだった。ただし、保護貿易への転換や゜関税戦争が貿易実態には影響を与えなかったとはいえ、相手国民の心理には大きな影響を与えた可能性はある。各国の関税法の改定や通商条約の改定によって、自国産品への税率をわずかでもあげることは、相手国から見るなら自分たちの製品をその国から締め出そうとする敵対的な意図を感ずることになる。関税戦争は各国の輸入を減退させることかはなかったが、相手国に対して自国の敵意を示してしまうという意図せざる効果が生じたのだった。
 一方、グローバル経済の繁栄の中の苦難に対する解釈として社会主義の側からのもの、そしてナショナリズムからのものがあった。後者はお手軽な内容だったが、自国が当然享受すべき富や利益を損なう敵が外側に存在するという被害者意識と、そうした外的に内通する裏切り者が国内で妄動している猜疑心との複合した心理に裏付けられた言説。ドイツでは、イギリスの金融業や海運業・造船業に対する劣位の意識だけでなく、海軍力でも劣位にあり、それが原因で自分たちの利益が損なわれているという意識が強く醸成され、イギリスではドイツの輸出拡大は経済的な脅威で、自国市場にドイツ製品が氾濫しているというドイツの経済的侵略という認識が広まり、比較的劣位で構造不況に陥った金属加工業や小間物製造、印刷などの業種とその立地地域では、ドイツの不公正貿易によってイギリスが当然享受すべき利益が損なわれているという認識が強まっていった。これらについて、ナショナリズムは苦難の原因は外敵と内通者の悪意にあり、それに対する対処を必要としないので政治家にとっては便利に、安易に使われたのだった。
 民主主義が本当に強靭で賢明な仕組みであったなら、国際分業の深化とともに必然的に深まる繁栄の中の苦難について、ナショナリズムに逃げるのではなく、失業や産業衰退などの苦難を経験する業種・地域には、国際分業の深化によって発生する利益で、失業対策や転業対策などの手当てが十分に可能であることを示して、国内問題として処理することが可能だったかもしれない。しかし、当時の民主主義は、外敵と裏切りを安易に名指しする言説に傾き、一部の政治家たちもそれを利用しようとした。
 一方、このような民主主義の脆弱性とは別に、イギリスは戦争に参加しないことを利益とするはずだった。イギリスはグローバル経済の中心であり、基軸通貨ポンドを世界に提供し、世界の貿易・海運・保険を担うことで、このグローバル経済から多大な利益を得ており、それがイギリスの外交上の優位性の大きな源泉でもあった。当時の自由党政権はそのことを承知していて、参戦には大いに無躊躇逡巡していた。ナショナリズムを先導する一部政治家やメディア、それに煽られた民衆心理をどこまで躱すことができるかを考慮しながら、それができないときに参戦を納得させるかを考えてもいた。第一次世界大戦は、このように経済的な問題や対立が原因で始まったのではなく、民衆心理とメディアの中で始まったと言っていい。敵愾心・猜疑心・不信感が沸き起こり、各国で同時に発生したそのような心理が相手国側の示す敵意に刺激されて、鏡像的に増幅しつつある状況の中で、セルビア事件が起こり、民衆心理と政治・外交の複合状況に火をつけることにより対戦が勃発した。国際分業が深化し、経済が相互依存的であることは、決して平和の絶対条件にはならなかった。
 イギリスは参戦することによって、経済的・外交的に利益を喪失しただけでなく、世界も有力な中立国・停戦仲介者を失って、オーストリアとセルビアの局地戦は短期間のうちら世界大戦となってしまった。イギリスの参戦により停戦や終戦の手がかりを失ったまま漂流し、5年間も続いてしまった。
第21章 第一次世界大戦とその後の経済
 第一次世界大戦は、それまでの戦争とは違って、戦闘状態が何年も続く長期の戦争となったため、主戦場となったヨーロッパの交戦国は、長い戦時の経済と社会を支えるために、それまで国内で部分的に試みられていた諸種の介入的自由主義の手法を全面的に実施して、総力戦体制を樹立した。
 総力戦とは、抗戦中の国が、その国の有する人的・物的・金銭的な諸資源のすべてを戦争目的のために優先的に投入し、動員することによって戦われる戦争のことだ。総力戦体制とは、このような総力戦を可能とするように政治・経済・社会・生活を権力的に組織した状態を意味する。総力戦の特徴は、①介入・統制の側面の強化、②自由・権利の制限、③物的・金銭的資源の集中と計画的配分、④国民を戦争目的のために最大限働かせるための心理・行為両面での人間操作技術の進歩の四点があげられる。
 ドイツとオーストリアは周囲を敵側の諸国に押さえられ、イギリス海軍の海上封鎖を受け、海外からの輸入量は大幅に減退し、国内生産と占領地の資源の徴発とで戦争を戦うことを強いられた。それが長期にわたり1918年以降には困民や兵士の間に厭戦気分が蔓延して、国内で革命が起こることによって、両国は敗戦に至る。これに対して連合国側は、カイロでの物資供給を維持できたので、厭戦気分を抑えることができた。第一次世界大戦は、経済的に緊密な相互依存関係のなかで発生した繁栄の中の苦難への国内的な対処を誤ったことが根本的な原因で起こったが、その結果、破壊されてしまった国際分業関係のあとには、最終的な食べることへの不安・不満から厭戦気分が嵩じて、革命が発生した国が戦争から離脱せざるをえなくなるという仕方で、大戦が終わった。
 戦後の賠償問題については戦債の処理が関係する。第一次世界大戦において、どちらの陣営も、国家が戦争に必要な資金を調達のために戦時公債を発行した。戦時中は金本位制を停止していたため。中央銀行は際限なく紙幣を発行し、それを戦時公債で政府が吸収すれば、戦争遂行に必要な資金を賄うことができた。このように蓄積されたのが連合国側の戦債だった。主体債権国はアメリカで英仏両国は、その償還に応じなければならなかった。英仏両国は、その返済のためにドイツに対する賠償要求にそれを含めたので、当初想定されていたものより過大な賠償をドイツに求めたのだった。
 戦争が終わっても、ヨーロッパ諸国はも軍人恩給、住宅政策、産業合理化などの様々な課題を抱えていたため、依然として総力戦体制から脱却できず、去生成期簿は膨張したままで、戦前の平時に戻ることはできなかった。そんな中で、アメリカは戦後も繁栄を続けた。アメリカは1920年代に大量生産・大衆消費型の経済を実現し電化製品や自動車などの耐久消費財等の需要が国内で分厚かったので、戦後も繁栄を続けることができた。この時に稼いだドル資金を中南米諸国やドイツ、オーストリアなどの中欧諸国に短期資金の形で流出していた。このおかげで、ドイツは賠償金の支払いが可能となり、英仏のその賠償を受け取り、アメリカへの戦債の償還が可能となった。このようなドルの循環のおかげで、小康状態にあった。
 しかし、アメリカは1920年代後半のハリケーンで不動産市況が下落すると、貨幣が証券市場に流入し、証券バブルを発生させた。
そこで連邦準備銀行は公定歩合の引き上げによりバブルを冷却させようとしたが、かえって国外を循環していたとセル資金が還流することとなり、かえってバブルを過熱させてしまい、ついに1929年のブラックマンデーの株価の大暴落を迎えることになる。これが大恐慌の引き金となった。こうした中で英連邦諸地域を有するイギリスをはじめ、世界中に植民地を持つフランス、中南米と太平洋地域を事実上の自国専用市場としつつあったアメリカなどの持てる国は経済のブロック化を採用することで、恐慌の打撃を最小限にしようとした。これに対して海外領土を失ったドイツやイタリア、日本などの豊かな自国専用市場を持たない国は乱暴な仕方で国外市場の獲得に乗り出して、英仏米などと衝突を繰り返し、それが第二次世界大戦の原因となった。つまり、第二次世界大戦は、大恐慌によって世界経済が分断された状況で、有限の市場を奪い合うことに起因する外交的・軍事的衝突が嵩じて発生した戦争ということになる。第一次世界大戦が民衆心理にその原因の大きな部分があつたために、戦争の終わり方にも各国民衆の厭戦気分の処理の失敗が直接的に反映していたのに対して、第二次世界大戦は経済の失敗に起因する外交的・軍事的衝突が原因であり、戦争の終わり方も、単純に苦戦磁力の強い方が勝つという、非常に分かりやすい戦争だった。
 ドイツが構想した、ドイツを中心とした中東欧の統合構想も、日本か抗争した大東亜共栄圏も、それぞれの国内市場の貧しさがその背景にあり、外側への進出で、市場と原料の獲得を目指したが、そもそも軍事力の裏付けとなる経済力の極端な格差の前には、どちらの構想もはじめから実現の可能性は乏しく、両国とも戦場での戦闘で負けるという、軍事力の差が明瞭に勝敗を決した典型的な戦争となった。国民の消費と生活に根ざした分厚い需要に支えられない経済は、輸出と軍事に依存せざるを得ない脆弱性を強く帯びている。経済的相互依存関係を意識的に維持するという発想が微弱で、貿易を安定的に維持できなかった戦間期には、軍縮破綻後の軍拡と軍事的・暴力的な方法での海外市場獲得へと傾斜する危険性という形で、この脆弱性が発現した。
第22章 第二次世界大戦とその後の経済
 第二次世界大戦期の国際協調はおもに連合国間で進められた。枢軸国側のドイツとイタリアのあいだには若干の軍事上の共同作戦はあったが、日独伊三国同盟は経済的相互依存を積極的に進めるには至らず、若干の技術協力があった程度で、ましてや戦後の国際秩序について協同で構想するということなかった。これに対して、連合国側ではイギリスとアメリカが主導し、他の連合国が加わるという形で、日本が参戦の意思を固める以前に、戦後の国際秩序を構想し始めていた。それが大西洋憲章であり、それが戦後の国連などに結実していくことになる。
 実際の戦後は、必ずしも構想された国際協調の枠組み通りには始まらなかった。第一に、ドイツと日本に対する占領政策は、第一次世界大戦の戦後処理よりもはるかに過酷で、一切の軍備と航空が禁止され、脱産業化が強制され、また連合国による占領統治で、多くの改革がなされたが、民衆の生活の安定や経済復興は当初考慮されていなかったため、戦後はむしろ飢餓や不衛生の問題が激化した。第二に、各国が貿易で受け取る支払手段は金かドルに限られていたから、金もドルも保有しないほとんどすべての国は、支払手段の決定的な不足から貿易が滞り、戦後復興も遅滞してしまった。それゆえ、間接的に金の裏付けを得るという形で、戦後の実際の通貨制度は動き始め、アメリカが世界の必要とするドルをどれだけ供給し続けられるかにかかっていた。こうして、第二次世界大戦後の諸国の復興は遅滞したが、米ソ冷戦が始まると、自由・無差別・多角的の理念から外れてでも、アメリカが傘下の諸国にドルを配布して復興を促さないと、冷戦を戦えないという問題が生じたのだった。そこで、ヨーロッパにはマーシャル・プランによる援助が始まり、占領地には軍による援助が始まった。
 そして、朝鮮戦争を経て、ヨーロッパと日本の経済は高度成長期に入ってゆく。そこでは1920年代にアメリカが達成したのと同様に、電気製品や自動車などの耐久消費財の大量生産体制の確立によって、その需要が下方に拡張し、それらが普通の庶民にとって手の届く欲望の対象となった。この時期の経済成長の特徴は、それら耐久消費財部門を中心とした生産性の大幅な向上、耐久消費財の相対価格の低下、生産性上昇の範囲内での実質賃金獲得額の上昇、耐久消費財や住宅への需要の郭泰、さらなる生産性上昇と大衆消費の実現という好循環が、先進国の国内で形成されたことにある。ここで先進国経済は、人々の生活が賃金上昇と消費を通じて豊かになることを通じて、経済が成長するという生活・消費主導型の成長を実現し、外国市場を争奪する必要性は相対的に低下した。
 一方、アメリカ、イギリス、フランスなどの経済は、耐久消費財生産よりもむしろ、兵器産業や航空・宇宙分野に諸資源を投入して軍産官複合体を形成し、兵器の国内需要と開発資金を安定的に獲得するとともに、余剰の兵器を海外に輸出するというもう一つの先進国経済の型を形成した。
 他方社会主義国側も順調な経済成長を遂げ、それなりに豊かな社会を実現する。つまり、東西冷戦とは、一方では軍事力と低開発諸国を含む同名の力とを誇示した競争で、他方では民衆の豊かさを競い合う関係でもあった。そこで争われたのは、資本主義と社会主義のいずれが豊かさをよりうまく表現できるのか、また、低開発諸国が豊かな社会に転換するためのよりよい針路をどちらが提示できるかということだった。したがって、冷戦は、どちらかが豊かさの実現において他方より劣ることが誰の目にも明らかになった際に、終えんを迎えることが、すでに1960年代の時点で決まっていたと言える。ソ連を中心とした中東欧社会主義国は、貿易関係が社会主義国間という制約があった中で、人々を満腹させ、さらに科学・技術・文化・スポーツ等のさまざまな点で、アメリカを中心とした資本主義諸国よりも優越していることを証明する努力を続けるべく運命づけられていた。
 また、豊かな北側の東西諸国とは別に、植民地支配から脱した南側の諸国は、産業基盤がモノカルチュア化しており、必要な資金は不足し、技術は未熟で、また人材を育てる教育機関も未整備であったため。経済発展に必は大きな困難を経験する。多くの国は外交的な自主性に乏しく、東西どちらかの援助を受けて開発を進めるが、自国内の努力だけでは解決できない低開発国独自の問題が露呈して、先進国と低開発地域との格差を縮めることの困難性が認識されるようになる。南北問題と呼ばれた。
 このような中で世界が単一の経済に結び合わされることはなく、東西は体制の相違で分断され、南北には大きな格差が残されたのだった。
第23章 第二のグローバルの時代
 1970年代以降、福祉国家とケインズ主義的な経済・財政政策への批判が新自由主義として強まった。いわゆるネオ・リベラリズムは強く逞しい個人を前提にしている点では古典的自由主義の再版で、介入的自由主義の色を帯びた現代への批判であるように見える。しかし、政策思想として見た場合、ネオ・リベラリズムは古典的自由主義のきわめて不完全な再版にすぎないといえる。自由で自立した個人と市場という、主体と場の設定は同じだが、古典的自由主義のように成人男性に女性・子どもの私的保護という領域には踏み込まない。古典的自由主義が自らを成立させる時要件として到達した集団的自助については否定的な態度を示している。つまり、古典的自由主義が社会設計を完成される方向に進化しようとしたのに対して、ネオ・リベラリズムは社会設計の完成を拒否した硬直的な政策思想に留まった。それにもかかわらず、ネオ・リベラリズムの主張が可能だったのは、ネオ・リベラリズムが、社会保険や企業福祉や家などのすでに存在している生活保障の要素に補完されたからなのだ。つまり、ネオ・リベラリズムは介入的自由主義の掌の上で古典的自由主義の一部だけを再現して見せようとした思想だった。それゆえ、ネオ・リベラリズムは介入的自由主義の体制に取って代わる方向性を明瞭に示すことはできないでいる。
 そして、ネオ・リベラリズムが古典的自由主義と明瞭に異なるのは市場観である。子女とは所詮、公正な条件の下で幸福を再現するための手段にすぎず、そのためには工場法や救貧法のような人為的な介入もありえたのが古典的自由主義だった。これに対して、ネオ・リベラリズムは支持用の自動調節機能を神聖不可侵の自主的秩序にまで高めたものの、市場がいかにして万能の調節機能を果たすかについては古典派以上に論証・実証したわけではない。
 また、ネオ・リベラリズムは政策思想としては社会を観念的に再構成できないだけでなく、個々の政策領域でも、目的合理性という近代市民社会に不可欠の評価基準を失ってしまっている。政策とは政策の目的を達成するための手段であり、この目的とは、何らかの思想に照らして発見された問題を解決し、あるべき状態に近づけることである。あるべき状態は人間的な価値、例えば幸福とか欲望の充足といったものの基準で測定されるのが普通だ。このような明確に設定されて、多数に共有された目的を実現するために、所与の資源と情報の賦存状況を前提にして最も合理的な手段選択して為される行為が目的合理性のある行為とウェーバーは定義した。近現代の社会では、大方の合意の得られる目的を設定し、その目的に対して合理的な手段・政策が選択され、その結果は定期的に評価されて、手段の選択の正しさを検証するという仕組みで遂行されるのが普通のことだ。ところが、目的が明瞭にされず、手段選択の合理性も検証できない政策が採用された場合、政治家も政策担当者も説明責任を果たすことができない。ネオ・リベラリズムの政策は実現すべき社会観と人間像を明確に主張しない。例えば、ネオ・リベラリズムは市場の競争秩序を強く要請する。彼らは「市場の自然的な本質は競争であり、その自生的秩序を誰も損なってはならない」と主張する。市場が競争的であるかどうかは、競争の敗者の存在によって証明できるので、予算執行に際して例外なく競争入札を求めたり、競争的資金の配分を広く薄くではなく少数者に厚く支給することで、常に敗者が出てくるような政策が採用されるとする。それは競争的市場という価値に従っているが、それで実現しようとする社会や人間の具体的な状態は明示していないので、その政策が目的にとって合理的かを検証できないし、結果から事後的な説明もできない。敗者を出すことにより、どのような結果となるかは問題ではなく、大事なことは敗者の存在により競争の存在を確認できることなのだ。
 それにもかかわらず、ネオ・リベラリズムが20世紀末に勢力を伸張できたのは、介入的自由主義への忌避感からだという。この忌避感は、個人の尊厳、自立(自律)する個、自分生き方は自分で決めたい、自己責任をとれない奴は屑だ、などといった言説に表わされる。このような忌避感は1960年代末の学生叛乱の際に原初的に表われてた。それは介入的自由主義の社会における主体性の形骸化への反発だった。
 第二次世界大戦後も、第一次世界大戦前のグローバル経済と同じような円滑で円満な経済の回復が願望された。大戦中には、戦後の世界経済を緊密に結び合せて、貧困化とブロック化の両方を防止しようとする諸種の取り決めや機関がつくられた。しかし、それらはうまく機能せず、各国の間で諸種の自由貿易協定や経済連携協定のような特定の国々のブロック内での自由を座主動きが後を絶たない。一方、世界各国で金融の規制緩和が為されたことにより、実体経済が必要とする通貨量をはるかに上回る巨大な通貨が。過剰流動性として、安定的な統御装置も欠いたまま、瞬時に世界をめぐり、巨額の利潤と損失を生み出し続けている。このマネーゲームで発生した金融・通貨危機は実体経済にひじ用に大きな混乱と損害をもたらす危険性がある。1990年代の願望のグローバル経済は、第一次世界大戦前のグローバル経済には備わっていた通貨秩序も多角的通商の利点も実体経済と金融との幸福な相互補完関係もない、不完全で不均衡で統御困難な状況に陥っている。このような状況で、ネオ・リベラリズムは社会を設計できないだけでなく、貧困・格差等に対する方向性も出せない。古典的自由主義の社会設計は進化し続けた末に不可能であることが範囲して破綻した。そりに取って代った介入的自由主義が20世紀に生み出し続けた昨日の多くは有効性を低下させ、そのお節介な本質に対する忌避感が広く蔓延している。しかし、古典的自由主義もネオ・リベラリズムにも見込みはないとすれば、当面は介入的自由主義の諸種の手段を続けるほかはない。
 いまは、何重もの意味で行き詰まっているが、出口が見えず、次代の構想を描けない。このような次代の構想を欠いた状況は、人類の歴史のなかではじめてのことかもしれない。

 

2024年1月30日 (火)

小野塚知二「経済史─いまを知り、未来を生きるために」(6)~第Ⅳ部 近代─欲望の充足を求める社会・経済

第13章 産業革命
 人の欲望が何重にも規制されていた前近代の社会・経済から、欲望が解放された近代の社会・経済への変容は、産業革命によって最終的に完了することになる。
 初期の経済史研究では産業革命を次のような経済構造・社会構造上の不可逆的で断絶的な変化と考えられていた。第一は道具から機械への変化、工場制と近代産業の確立などの産業の技術・生産組織・生産力面での次の変化を意味する。すなわち、①労働手段が先史以来の道具から機械へと変化することが、この技術・生産組織・生産力面の変化の起点となる。道具とは人が目や手足などを用いて直接的に操るものであるのに対して、機械はその機械の中に労働対象へ働きかける動作が組み込まれていて人が直接的に操らなくても作業が思考する仕掛けだ。道具から機械にかわることによって労働生産性は飛躍的に上昇した。②従来、人が道具を用いて仕事をしていた作業場やマニュファクチュアから、機械を備えた工場が発生した。③道具と人によって限界づけられて時期を終えて、機械によって生産する近代産業が完成することになった。近代がいかに個人の際限のない欲望を解放しても、その欲望を次々と満たし続ける生産力を伴わなければ、解放は絵に描いた餅になってしまうが、産業の技術。生産組織・生産力の面での変化は、近代の経済社会にとって必須の要因となる。第二は、技術革新によって従来の道具を用いた作業場の自営生産者が駆逐され、一部は工場の所有者に、大半は工場で働く賃労働者へと二極分化した。第三に、生産面だけでなく、運輸・通信や金融業などの工場以外の分野にも、技術・生産組織・生産力面での変化が波及した。これにより、資本主義の経済制度と経済基盤が確立した。例えば蒸気機関による鉄道や海運が輸送システムに変革をもたらしたことなど。第四は農業生産力の上昇が産業革命と同時に進行しなければならなかった。それがないと非農業人口の増加を食料面で養うことと、農村からの人口の供出が必要だったからである。
 これ以降の研究成果を踏まえて、以下で本書での産業革命の意味は次のようになる。第一に、機械の導入、工場制の普及といった、産業の技術・生産組織・生産力面での革命的な変化という意味では、産業革命は、産業による相違と地域による相違が大きいため。一国の全損業・全地域で一斉に進行したわけではない。一部の産業や地域が革命的変化を起こしていたとしても、他の産業や地域では道具を用いた作業場での手工業が問屋制やマニュファクチュアという形態で行われていたり、機械・工場での作業の前後の工程で道具・手作業を主体として工程が新たに生み出されたりしていた。そうすると、産業革命期に、それ以前とは断絶した新たな技術・生産組織・生産力的基盤を獲得した産業と、そうではなく在来の技術・生産組織・生産力的基盤の上に成立した産業とが併存し、補完的な関係にあった。ということは、産業上の変革として見るなら、産業革命には断絶と連続の両側面があったということになる。
 第二に、産業上の変化の点に目を向ければ、次のように機械と工場を起点とする様々な変化の複合であったことが分かる。まず、機械は道具に比べて大型で高価になるので、従来の自営の小規模手工業者は機械を購入できない場合に、機械はより規模の大きい工場に設置されることになる。このようにして、自営小業者が労使の両階級に分解して、資本の原始的蓄積を最終的に完了させることになる。そして、機械が高価なことから、導入した工場経営者は初期投資額を早く回収するために、機械をできるだけ長時間運転しようとする。機械は人と違って休憩を必要としないし、長時間連続して作業ができる。そこで労働者を交代制にして終日機械を稼働させるという新しい働き方を発生した。そして、このことは労働時間の長期化だけでなく、近代社会の特有の時間規律が産業革命によってもたらされることになった。産業革命以前の職人は自分で自由に労働と余暇を定めることができた。それが機械の導入と工場の普及により人々は時計が指示する時刻に束縛されることになった。つまり、以前の自発的・内在的な時間規律が、外在的な時間規律に取って代わられるようになったのだ。そして、労働時間が長くなり、夜間や祝日にも及ぶようになると、家庭の中で全員が食事を共にし、夜は皆で寝るという家庭内の共有時間が減少することになった。つまり、生活を共にするという過程の機能は実質的に崩壊し、近代家族が生み出されることになる。これ以外にもエネルギーが薪や木炭から石炭などの化石燃料に取って代わり、自然的制約を突破して人口が増加し、産業を発展させることを可能にした。産業革命以前の経済は、食料生産という点でも、熱源という点でも、また土建資材という点でも、所与の自然の許す範囲内でしか可能ではなかった。そのような自然的制約を超えないように、来期の富を増やすために今期の余剰を用いるということを規制した規範が堅く前近代の経済を縛っていた。そこでは、経済活動の動因である際限のない欲望も、身分制や共同体といった社会の仕組みや慣習を通じて、厳重に規制されていた。ところが、産業革命によって、食料生産と熱源と土建資材に課されていた自然的制約を突破するを通じて、経済活動は、社会・掟・規範・慣習の束縛から解放され、市場経済が、社会や制度から自立して、独自に展開するようになった。
第14章 資本主義の経済制度
 制度とは容易には無視したり、逆らったりすることはできないルールの体系を意味する。経済活動も必ず何らかの制度のうえでなされている。貨幣や市場のような経済にとって空気のような存在でも、それらは自生的な生成物ではなく、人々の約束事という側面を持っている。市場経済や資本主義経済も特有の制度を前提にして成立してきた。しかも、それらの制度は、社会の前近代ないし近世のあり方に大きく影響・制約されて形成されたものだから、すべての経済制度が経済的に合理的であるわけではない。ここでは、その重要な制度として、信用、金融、株式、保険、倒産を取り上げる。
・信用
 信用という言葉は普通の生活でも、また経済でもよく用いられる。経済制度としての信用は、相手の将来の支払い能力を信用して掛け売りや貸付を行う制度を指す。信用でものを買い、または貨幣を得る者は、その債務(将来の支払義務)を明示するための証文、たとえば手形を発行し、相手に渡す。相手は信用を与え、代金の支払いの前に商品を渡す。信用による売買は、売買の媒介物としての現金貨幣を節約することにより、取引量を増やす効果があり、また、それゆえに、個々の企業から見ると、同一の資本投資でより高い利潤を可能にする効果もある。さらに手形は売り手と買い手の間に限らず第三者に受け取られるというように流通して、現金貨幣と同じような役割を果たすことができる。しかし、手形を受け取ってもらえないとなると、機能しなくなってしまう。その受取を最後まで保証するものとしての最終受け取り手として銀行という機関が登場する。その機能を銀行信用による商業信用の補完と呼ぶ。このように銀行が介在して、現金貨幣がなくても一連の取引が可能になるのであれば、実際に現金貨幣が動き場面も、銀行の発行する手形で代用できることになる。銀行が発行する定額で一覧払の約束手形を銀行券という。つまり、お札である。
・金融
 金融とは資金の足りているところから足りないところへと貨幣を融通することである。融通を効率的に行うには、余っている資金を一手に引き受けて、それを貸し出す金融業者の存在が必要となる。銀行のように、一時的に遊休している資金を預かり、その一部を資金不足の経済主体に貸し出す金融業者が存在することによって、社会的な遊休資金が、期限付きで商品化されることになる。このような銀行にとって、どれほど多くの遊休資金を低利で集めることができるか、業務の出発点となる。それは、ごく普通の経済主体が不意の出費のために手許に用意してある貨幣や、手形決済日までの間、当分手許に余っている貨幣を預けても、必要な場合には必ず、ただちに引き出すことができるという信用があって、はじめて銀行は社会的遊休資金を集めることが可能となる。
 銀行は他方では、融資主体でもあるので、そちらが焦げ付いた場合に、預金者の引き出し要求に対応できないのでは、信用を得ることができない。預金者の信用が低ければ、預金を集めることができない。それゆえ、近代になって、各地に一定の基準を満たす銀行ができる際に、それなりの財産を有する地方名望家が銀行の発起人とならざるを得なかった。このようにして、各地に地方銀行が設立されると、その地域内では、その銀行の発行した銀行券が事実上の貨幣として流通するようになる。また、地域を越えた取引の場合地方銀行ごとに異なる通貨単位では不便が生じてしまう。そこで地方銀行は近代のある時期までには、共通の基準の系列に編成されることになる。
・株式
・保険
・倒産
 不良経営を消滅させる制度を倒産という。どんな経営でも資産と負債があり、それを多くの人々が納得する仕方で清算して、企業を消滅させる。資産をすべて投入しても負債の完済には足りない場合には、債権者の間の優先関係が決まっていないと争いが止まらなくなる。近代の経済・社会が、人の際限のない欲望を満たすためにさまざまな技術と生産力と経済制度を生み出してきても無、不良企業を淘汰できずに放置するのは、望ましいことでない。それを関係者の納得を得ながら終わらせるのが倒産という制度である。
第15章 国家と経済
 近代の市場は社会の他の部分から離床しているが、市場経済のすべてを経済システムのうちで生成できるわけではなく、経済の外側に国家、自然、家を必要としている。しかも、経済は国家、自然、家をゼロから生み出すことはできないので、すでにある国家、自然、家に依存しながら、その機能を利用している。
 近代社会とは古典的自由主義の社会であり、そこで国家は夜警の役割を果たすのみでよかったという俗説がある。その背後にあるのは、治安さえ保てれば、経済・社会は自然にうまく機能するという考え方である。この考え方の次のことが前提としてある。すなわち、①市場が経済を自動的に調節する機能を有するから、経済への国家介入は無益で、有害ですらあるという判断。②市場に登場するのは、おのれの際限のない欲望を遺憾なく発揮し、また、そのような欲望を十全に充足することのできる主体であること。③そのような主体が市場で失敗したとしても、それを教訓として成長し、自助を通じて完全なる主体へと自らを作りかえるという期待。これらの前提は現実的ではない。近代国家は、資本主義・市場経済が自ら生み出すことのできないものを創出し、維持するという働きがあり、それによって資本主義・市場経済は持続的に機能することができる。前章で見た信用、金融、株式、保険、倒産などの制度は、近世以前からあった類似の制度を近代になって再編利用したもので、それらを安定的に運用するためには、商取引や会社や銀行についての法の中に規定され、そこで発生する紛争を身分制や共同体が解体した後は国家の司法機能で裁定することではじて可能になった。市場経済・資本主義の先発国は、多くの場合、自国の経済・社会が生み出した自生的なルールを体系化し、それらのルールの体系や制度の強制力を法的に担保することが、経済制度との関係では、国家の役割だった。先発国のルールは、自生的なので、類似のルールや重複した規定があちこちに残り、煩雑で、また混乱を招きやすかったので、国家はそういうルールを整理統合して、民放、商法、会社法などを用意したのだった。後発国の場合は、自生的なルールがあったとしても、国際的な取引や係争事項が増えるに応じて、先発国から輸入した制度に接ぎ木をする必要があった。それを強制力をもって実行するのは国家以外にはなかった。
 生産要素の中でも土地や労働は経済が生み出したものではない。まず、土地とは、人によって利用されている自然の一部である。土地はもともと人が生み出したものではない。しかし、人は、際限のない欲望を満たすために土地を含む自然の一部を占有し、また他者との関係では、それを所有し、切り取られて所有された土地を、あたかもモノであるかのように売買したり、短借したりしてきた。近代の土地の私有制度は、それを安定的に担保する規範もルールも近代社会のために初発から用意されていたわけではないので、土地の私的所有と売買・賃貸借に関する特殊なルールを生み出さなければ、生産要素としての土地の効率的な配分も利用もできなかった。近代国家が土地の私的所有に対応して整備しなければならなかったのは、自然の一部を切り取って誰かが排他的に所有していることを証明するための登記の制度であり、売買や賃貸借のための特殊なルールの創出だった。それは土地を商品化するために必要なもので、土地を切り取って所有するという行為を安定的な保障し、また土地の生産力や価値を高める行為に対して公平に報いるという自然にたいして及ぼされた行為を評価するためのルールだった。それらの人為は、自然を対象になされたことなので、対象物である自然から切り離すことはできないが、人為は人為として正当に認めなければ生産力も産業も発展しないからだ。
 他の生産要素として労働については、人々の職業・営業・取引の自由と移動の自由を保障し、また直接的生産者を土地と共同体から切り離して、労働市場でおのれの労働を売るほかない存在に作りかえることが必要だった。これは市場経済・資本主義がその内在的機能として完遂できることではなく、国家の関与が必要だった。労働力とは、土地と共同体から切り離されて、創出されれば、そのあとは、自由に売買と利用ができるという便利な商品ではない。使用者が労働力を購入すると、その労働力にはもれなく、元の所有者、すなわち労働者が付いてくる。普通の商品の売買・消費と労働力の大きな相違はここにある。普通の商品は売買と引き渡しが済めば、元の所有者から切り離されるが、労働力はそもそも、人が生きて活動する能力だから、その人から切り離して引き渡すということはできない。したがって、売買された後の労働力を使おうとすると、元の所有者である労働者は、労働力が消費される場に必ずいて、その使い方についてあれこれ不平や意見を言うかもしれない。このように、商品を買って、それが使用者の思い通りに使うことができないのであれば、そもそも産業資本の運動など成り立たない。そこで、国家が乗り出して、労働力を買った者は、公序良俗に反しない限り、おのれの意思に従って労働力を用いてよい、つまり労働力に対して指揮・命令権があることと、労働者がその指揮・命令に従わない場合は懲戒する権利もあることを使用者に保証している。
第17章 家と経済
 通俗的には、企業は人々が働いて、財・サービスを生産する場であり、家庭は生活して、財・サービスを消費する場と考えられている。しかし、企業による財・サービスの生産とは、同時に労働力の消費過程でもある。労働力とは人が生きて活動する能力だから、生活、生存といった生きているということに、その起点がある。その場が家庭であり、家とは単に消費や生活の場であるだけでなく、労働力の生産の場でもある。労働者の労働力は家での生活のなかで再生産される。また、次の世代の労働者を育てる場でもある。
 前近代の家とは生の最小限の単位であり、生の場であった。また、多くの前近代社会において経済活動の最小の単位でもあった。つまり、生産と消費の最小の単位であり、同時に近現代と同じように労働力を再生産する場でもあった。前近代の家は共同体の成員であり、共同体に媒介された個人的所有の主体であり、それゆえ、他の経済主体との交換の主体でもあった。このような意味で、前近代社会における個人とは家だった。家は共同体のなかで、消滅することのない永続的事業体でもあった。このような長く続いた家の性格は、産業革命期に大きく変動する。家長や相続予定の子は従来と同様に家の正業に従事するが、それ以外の子は、従来なら家の副業をしたり、季節的に他家で賃仕事をしていたのが、女性と子供は安価な労働力として家の外で恒常的に賃労働に携わるようになる。それが工場労働となると、家族は単に同じところに居住するだけとなり、家族生活が解体していく。そのうえ、近代的な機械・工場との競争に胚胎していく場合、家長の稼ぎは低下し、相対的に女性や子供の稼ぎが増えていく。しかも、家の外で長時間働くようになると、家から自立する傾向を示すようになる。その結果、家が市場に労働力を供給しているということから、自らがおのれの労働力を売っているという性格に変わっていく。このように、前近代以来の古い家父長制が危機に瀕して、家族成員は家長の統括の下から自立し始め、家が個人であるよりも、むしろ、個々の人が個人として際限のない欲望の主体となっていく。
 ところが、家は解体しなかった。イギリスでは、19世紀中ごろ産業革命の完了とともに、の工場法により女性と子供の労働力を保護の必要な二流の労働力とした。また、共同体解体後の社会的意思決定への参加権が、選挙法の改正により、参政権が労働者をふくむ成人男性に拡大される。ここに、家を回復させようとする合意が作用していたと言える。このとき、女性の参政権は後回しにされ、近代は、法のうえで男女があからさまに不平等に扱われていた。こうして、産業革命期に露呈した家父長制の危機は19世紀後半には終熄に向かう。その結果、外で働き、所得面で家を支える強くたくましい夫・父、夫を助ける良き妻と子を慈しみ育む賢い母、父母の愛を受けて健やかに育つ子という絵に描いたような「近代家族」の規範が成立する。
 近代の経済・社会は、市場経済と資本主義が自動的に運航することで、自己完結的に成立したわけではない。国家と自然と家を不可欠の要素として、近代の市場社会・資本主義経済は成立した。
第18章 資本主義の世界体制
 近代の市場経済と資本主義は、さまざまな特徴と機能を備えて形成されたが、それは、地理的な広がりという点では、一国一地域ごとに独立に形成されたのではなく、各国・各地域の市場経済・資本主義が相互に関係し合いながら、資本主義の世界体制として確立した。この世界体制は、均質な世界ではなく、階層化・序列化されて支配=従属関係を含みこんで形成された。
 資本主義の世界体制の形成と変容には、いくつかの段階を画することができる。まず、前史としては、中世ヨーロッパにおける商業の復活や東アジア、東南アジア、インド、西アジアにいたる海上貿易で香辛料・薬種・貴金属・宝石などの奢侈品で、民衆の生活には浸透していないという、収奪された剰余の範囲内の遠隔地商業だった。
 近世には、ヨーロッパの商業が動揺しながらも拡大し、直接アジアに及ぶようになったこと、新大陸航路が新たに開発されたこと、そして、徐々に人々の生活必需品の領域に遠隔地貿易が浸透するようになったことが、この時期の特徴。この時期、キャラコ、茶、コーヒー、香辛料の相対価格が低下し、需要が拡張した。キャラコについてはヨーロッパでの綿業の発生を招くことになった。
 資本主義の世界体制が確立したのは、イギリスにおける産業革命から始まる。第一に、産業革命は、ますます多くの外国産品を輸入するという外国産品への需要を動員として始まった。外国産品を輸入するためには、その対価としてヨーロッパの製品を輸出するということが産業革命の一つの動因だった。綿業をはじめとする繊維産業はイギリス国内の需要だけで発展したのではない。第二に、産業革命を最初に切り拓いた綿業は、その主原料である綿花がヨーロッパ内では供給しきれないため海外の綿花プランテーションから輸入しなければならなかった。それゆえ、産業革命は世界に広がらざるを得ない性格を有していた。第三に、技術・生産方法、生産組織上の革新の結果、飛躍的に生産性が向上した分野では、その製品を売りさばく販路として外国市場が重視された。このように三重の意味で産業革命は資本主義の世界体制を生み出す実体的な効果があったと言える。他方では、産業革命によって、より多くのものを、よりたやすく獲得して、際限のない欲望を満たし続けることができるという憧憬によって、世界に急速に波及ないし伝染する効果をもち、イギリスで始まった産業革命は、ヨーロッパ各地、そしてアメリカへと伝染していった。そして、19世紀前半に資本主義の世界体制が確立していった。
 資本主義の世界体制は1870年代に、地理的な拡張は一段落して、次に内的に深化する傾向を見せ始める。まず、イギリスが自由貿易への方向を歩み始める。1860年の英仏通商条約により、二国間条約に基づく双方向的自由貿易関係が始まり、その後、ヨーロッパ内でのほとんどの諸国の間に関税引き下げと最恵国待遇条項を含む通商条約が締結された。これにより、ヨーロッパは自由貿易的な通商網を築いた。これにより、ヨーロッパ内の貿易・資本移動・移民が活発になり、相互に結びつくようになり、着実な経済成長を続けることができた。この時期のグローバル経済は1990年代以降のグローバル経済に比べて、はるかに安定的で、総じて円滑かつ円満だった。

 

2024年1月29日 (月)

小野塚知二「経済史─いまを知り、未来を生きるために」(5)~第Ⅲ部 近世─変容する社会と経済

第7章 総説─前近代から近代への移行
 経済現象は過去からの蓄積で決まる。生産力を構成する労働も道具や機械も急に増やすことはできないし、生産関係も急には変わらないので、経済現象は過去からの慣性を強く帯びている。革命のような政治的な変化や文化的な流行のような劇的な変化はない。しかも、前近代のさまざまな社会と、近現代の社会とのあいだには、いろいろな点で根本的な相違がある。その移行過程には、前近代的な要素と近代的な要素の混在や共存と、交替、ときには近代的な要素から前近代的な性格への後退をも含む、さまざまな特徴を発見することができる。そして、近世を見るに大切なことは、市場経済と資本主義的な経済活動の生成にはいくつかの異なる経路があったのに、実際に完成し確立した市場経済・資本主義は西洋に由来するものであり、また、欧米諸国で確立した制度に、経済的のみならず政治的にも軍事的にも、包摂され、また征服、侵略される形で、非西洋における市場経済・資本主義への移行が完了したということだ。つまり、近世とは前近代から近代への大きな転換であるにとどまらず、さまざまにありえた転換の可能性が独立に展開して多様多彩な市場経済・資本主義社会を生みだしたのではなく、西洋を中心にして19世紀中ごろまでに成立した単一の世界資本主義の中に組み込まれるという仕方で転換が進行した時代だった。
 これまでの歴史研究や経済史研究が議論してきた前近代から近代への移行の意味は、次の3点があげられる。第一は、身分制と共同体に特徴づけられて伝統的な社会から、自由な個人の契約によって共同性のあり方が決定される市民社会への変化、つまり、人間関係を構成する原理の変化であり、第二は、前市場社会から市場社会への変化であり、これは、従来の個々の財・サービスに対する実物的な欲望充実を目指す仕方から、いったんは誰もがより多くの貨幣を獲得する欲望充足へと変化することを通じて、分業の編成原理が、貨幣が媒介する仕方へと変わることを意味する。そして、第三は封建制から資本制への変化で、生産様式の変化を意味している。
 人間関係を構成する原理の変化については、人と他者の関係を決定する原理は前近代社会では、掟・定・分・矩などとして予め定まっていた。とくに日常的に関係を取り結ぶことが予定されている相手との人間関係の型は、身分制と共同体に体現されて、その安定性が担保されていた。人間関係の決定において、自由な選択に委ねられる余地は極小にとどめられていた。これに対して、近代における他者との関係は、身分制や共同体などの掟・定・分・矩から自由な諸個人の存在を前提として、彼らの自由に契約関係によって、他者との関係は決まり、また変更される。ここで契約主体として想定されている個人は身分制や共同体から自由であるが、その反面、その保護を受けられない。したがって、自由な諸個人は、おのれの際限のない欲望を、おのれの有する手段・資源を最も効果的に用いて、充足しようとして、他者との関係に入り、また、それを変更する。
 生産様式の変化について、前近代社会の生産様式では、直接的生産者から剰余が不等価交換で収奪される。例えば、貢納制における生産者は共同体であり、そこに発生した剰余を上位の支配的な共同体が貢納として収奪し、奴隷制では奴隷主が奴隷の全生活を支配して、必要部分を給付することで剰余を獲得する。また封建制における生産者は農奴で、封建領主が封建地代を収受することで剰余の処分が為されていた。このように前近代社会の生産様式では、剰余の移転が誰の目にも明らかにそれているので、生産者の側に剰余を殖やす誘因は働かない。それは、経済を成長させ、際限のない欲望を満たすには不適切なシステムだった。しかも、身分制においては、発生した滋養世は支配者の権威を表示するために消費され、将来の富を殖やすために用いられることはなかった。このように近代への移行の第三の意味は、成長に適合的でない前近代の生産様式から、剰余を生産的に用い、目に見える形で経済成長を実現する資本主義へと生産様式が転換するという点にあった。
前近代から近代への移行が始まることによって、三種類の社会モデルが生まれた。それが有機体モデル、原子論モデル、協同性モデルである。
・有機体モデル
 この社会は、予め定まった共同性を特徴とし、その共同性は変更できないし、出入りの自由はなく、人は定められた身分と共同体で生きるほかはない。そこでは社会全体がひとつの生命体であり、身分別、地域別の共同体は生物の各器官の類推で捉えることができる。人の個体は生物の細胞で、そこから出て他の生物の細胞になることはできない。予め存在しているのは生命体としての社会全体であり、共同体も個人も、その臓器や細胞としてはじて存在が可能となる。共同体は社会のなかでの位置と役割は自ずと決まり、それを変更することも、役割を放棄することもできない。細胞にはおのれの欲望を充足する自由などない。これは身分制的で共同体的な前近代社会に適合的な考え方と言える。このモデルは、近世以降も、絶対王制など諸種の君主制的な社会のモデルとして、現代でも企業や軍隊などの指揮命令関係と規律を重視する団体では生き残っている。
・原子論モデル
 協同性モデルとともに近世になって新たに登場した社会観であり、両者は双子のような関係にある。有機体モデルでは予め存在しているのは生命体としての社会全体であり、共同体も個人も、その臓器や細胞としてはじて存在が可能となる。これに対して原子論モデルと協同性モデルでは、共同性に先立って予め存在しているのは個人であり、個人はおのれの欲望を充足するために他者と契約関係に入る。原子論モデルでは、その契約の結果、二種類の共同性が形成される。市場社会(市場経済)と政治社会である。市場社会は、単に相手の所有物が欲しいので、それを獲得するために、自分の所有物と交換するという個々の交換関係を基礎として、それらの集計を意味する。人々は、自分の所有物が相手に渡ったあとどのように用いられるかなどには関心がなく、相手がどのような人であるかにも関心がない。市場社会では人が、ただひとつ相手について知りたいのは、相手が約束を正しく履行する人かどうかだけだ。共同性はあくまでも交換の結果として発生しただけで、人々は共同性を形成するために、他者と契約関係に入り、降下するのではなく、契約や交換の目的はおのれの欲望を充足することだけである。
・協同性モデル
 原子論モデルでは市場社会における契約関係は単におのれの欲望を充足させるための手段にすぎず、それゆえ、そこで発生する共同性も結果としてのものだが、協同性モデルでは独りではできないことを達成するために他者と協同することが意識的に追求される。その結果、結社・団体が形成され、そこに参加する人は、団体の成員となり、団体の変更や脱退などを自覚的に行う。そこには、はじめから定まっている有機体的な共同体とも、非目的的・非人格的な結果にすぎない原子論的な市場社会とも異なる、第三の性格がそこに在る。際限のない欲望の充足は独りではできないが、協同性は、欲望充足の効率性という点で、優れているだけでなく、同じ目的を共有する他者と仲間になるということ自体も目的となる。このモデルは現代にも受け継がれている。例えば株式会社であり、協同組合であり、労働組合などがそうだ。
 近世は、前近代から近代への移行期として、4世紀にもわたる長い時代だ。近世は、前近代と近代の両様の原理や規範が混在し、対立し、ときには妥協しながら、作用していた。
 例えば日本では、戦国時代から江戸時代までの期間だ。この前の時代、平安末期から室町時代まで続いた荘園公領制における複雑な職の体系では不可能だった在地の経済発展が戦国時代になると可能になる。荘園公領制では、荘園を収奪する権利が複雑に絡み合っていただけでなく、たとえ領主層の誰かが特定の荘園の農法を改良しようとしても、それは地理的な分散性によって阻害されたし、名主や作人も複数荘園の土地を耕作していたので、彼らにも特定の荘園を改良する誘因に乏しかった。職の体系では、特定の地域を経済的に発展させる誘因は働からなかった。彼らは、農業改良や地域経済の発展よりも年貢・公事などをめぐる問題に関心は集中していた。そのような職の体系が弛緩し、戦国大名による領国一円の支配が始まると、支配者側に領地経営によって富国強兵をはかるという誘因が働いただけでなく、新興の地主や商工業者が開墾や新しい経済活動を始めることによって、経済を成長させ、貨幣経済を促進する誘因が下の身分の者にも発生するようになった。その後、江戸時代になると、人身売買や土地売買を規制して、農民経営の安定性を担保することが可能となった。つまり、農民経営と貨幣経済の両方を安定的に担保する社会システムが形成された。
 ヨーロッパでは、この頃はルネサンスに始まる。ルネサンスを古典古代文化の復興としての捉えられるだけではない。ここには、人間が際限のない欲望をもつ生き物であることは、宗教的規範や道徳に照らして恥ずべことではなく、人を欲望そのものとして正面から承認しようとする、欲望への新しい規範の萌芽がある。人文主義は欲望肯定のことでもあった。これは宗教改革にもそういう面がある。それは、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と近代資本主義の精神』で詳細に分析されている。
 こうして、近世は、際限のない欲望の充足が社会のさまざまな規制・慣行・倫理の中に埋没した状態から、経済が社会や既成道徳から自立・離床する過程だったと言える。経済活動が社会的・道徳的・宗教的規制から解放されて、はじめて、科学的に探究することが可能な対象となり、経済現象の法則性を解明する経済学的思考も、近世になってようやく本格化した。
第8章 市場経済と資本主義
 市場があるからといって、市場経済が成立しているとは限らない。本書では、非市場的な要素が存在するにもかかわらず、大多数の人々が、際限のない欲望をよりよく満たすことをさまざまな経済活動を行う。したがって、市場経済とは、身分制的・共同体的な定や掟によらず、市場での自由な商品交換を行うことを通じて、社会的分業が成立する経済・社会であるとしている。
 生産様式としての資本主義という概念は、しばしば、市場経済と重ね合せて用いられ、理解されてきた。『広辞苑』では資本主義を、封建制下に現われ、産業革命によって確立した生産様式。商品生産が支配的な生産形態となっており、生産手段を所有する資本家階級が、自己の労働力以外に売るものをもたない労働者階級から労働力を商品として買い、それを使用して生産した剰余価値を利潤として手に入れる経済体制としている。資本の運動の出発点を貨幣とするなら、それは、まず、生産手段と労働力に姿を変える。最初の貨幣と生産手段・労働力との交換は等価交換だとなる。労働者は労働手段を用いて労働対象に働きかけ、新たな財・サービスを生産する。その過程が生産過程だ。そこで産み出された財・サービスはそれぞれの商品市場で販売され、等価交換で貨幣形態に戻る。この最後の貨幣額と最初の貨幣額の差額が剰余価値=利潤だ。生産手段は単なるものだから、それ自体は時間が経っても価値を増すということはない。そこで差額の付加価値を生み出したのは、生産過程で消費された労働力ということになる。そこに規模の経済性や資本装備率の違いによる生産性の格差があるということになる。
 前近代の人々が生活必需品のほとんどを家内ないし共同体内で非商品的に自家生産・自家消費していたのと比べて、近現代人々の生活は資本が提供したものによって成り立っている。つまり、資本主義社会では資本は人々の生活必需品の生産・販売を掌握することによって、前近代社会の資本に課されていた販路の狭隘性を超えて、広い需要を確保して、利潤の確実性を獲得した。しかも、市場で等価交換されながらも、最初の貨幣と最後の貨幣との間に差額が発生し、それか必ず資本家の手許に残るという仕方で利潤の確実性を獲得した。このような利潤の二重の確実性に支えられて、資本は社会・世界の隅々までその生産物を行き渡らせ、社会・世界の隅々からの需要によって、前近代の資本とは比較にならない大きな儲けの機会を保証された。このように、生活費と需品の多くは資本の運動を通じて供給されることが資本主義が成立したということの一つの意味なので、資本主義は市場経済の存在を論理的な前提としている。前近代の前市場社会では、資本が存在することはできるが、市場は万人がより多くの貨幣を獲得するための手段にはなっていない死、それ故、万人が市場で生活必需品を購入することもなかったので、資本主義が成立することはなかった。
 前近代から近代への移行の一つの側面は、人間関係を構成する原理が身分制・共同体から自由な個人の契約関係に基づく市民社会に転換したことであり、身分制・共同体の諸規制と保護機能が中世末期に弛緩し始めてから、職業の自由や移動の自由が゜実質的に発生するようになる。このように蒸して、経済活動は定められた分ではなく職業、つまり、際限のない欲望を充足させるための手段として営まれるようになる。身分制・共同体による個別的な欲望を規制する体系が意識し、万人が個別的な物欲の主体として解放される過程が近世だと言える。この過程で、市場経済は、資本と労働の双方が自由に移動・運動することにより、社会的分業が編成されるように形成される。つまり、市場経済は、資本主義的な市場経済として成立した。
第9章 近世の市場と経済活動
 ヨーロッパでは15~16世紀に商業上の大きな変化が発生した。その一つは域外貿易の拡大であり、他方は価格革命であり、これらを総合してヨーロッパ近世の商業革命と呼ぶ。
 西ローマ帝国崩壊後のヨーロッパは、局地的な経済活動を繋ぐようにして商業ルートが成立していた。域外貿易のルートは地中海経由か中東欧経由しかなく、いずれも何重にも中継ぎ商人が介在し、貿易量には制約があり、介在手数料が嵩むため、香辛料、絹、金、宝石などの高価な東洋産品のみが扱われ、王侯貴族や一部の富商などの顕示的消費の対象にしかならず、一般の人々には縁遠いものだった。それが15世紀を過ぎると海路の開拓により、直接、東洋や新大陸との交易が可能となった。その結果、東洋産の奢侈品の貿易量が増大し、それらの価格は低下し、香辛料、絹、金、宝石などへの需要が社会の下方に拡張した。さらに、とくに新大陸から、それまで知られていなかった新種の商品が一挙に、大量に流入した。例えばジャガイモの流入はヨーロッパの人口増加を支える重要な食料となるとともに、人々の食生活を大きく変えてしまった。そして、これらの外国産品の対価としてヨーロッパが支払ったのは銀であり、また中世から近世にかけてのヨーロッパの基軸商品ともいうべき毛織物だった。
 こうして、15~16世紀に域外貿易が拡張するその時期に、ヨーロッパは物価の持続的騰貴を経験した。これを近世の価格革命と呼ぶ。これは、中世まで局地的公開市場と広域的遠隔市場とは、商品種類と参入する者の両面で別々の市場であって、それゆえに中世ヨーロッパ各地の物価動向に同期性が見られなかったのに対して、近世から近代へ転換する18世紀末になると、各地の物価は相互に関連し、影響し合いながら推移するようになった。この価格の高騰の原因は、従来は新大陸から銀の大量流入により貨幣価値が低下したためと説明されてきた。しかし、本書では人口の増加、とくに非農業人口の増加により食料品を買う量が増えたためだという。それにより、非農業人口が穀物などの食料品を買い、工業製品を買い、また、労働者を雇う新しい型の農業・商工業経営が行われるようになった。それは、王侯貴族や富商だけでなく一般民衆の間で活発な経済活動が営まれ、生活必需品を含めて商品生産を行うようになりつつあることを示している。ここで民富の形成が始まっている。そのことは、民衆が市場で自由闊達な経済活動を展開することのできる社会状態や人間関係が形成されてきたことを意味する。
 このような非農業人口の増大、民富の蓄積、域外産品への需要拡大というという事態の根底で信仰していたのは農村商工業の展開で、それをプロト産業化と呼んでいる。ヨーロッパの域外交易への支払い手段としての銀は16世紀に枯渇し、新大陸からの大量流入のため、かわって重要性が増したのが毛織物だった。しかし、中世都市の毛織物関係は、職種ごとにギルドを形成し、生産量・原料調達・価格・品質などについて厳しい制約を課していたので、増大する毛織物需要に対応する能力がなかった。これに対して、農村にはギルドの規制が及ばなかったので、農村に毛織物、麻織物、それらに関連する原料供給や運輸業が発達する。それがヨーロッパ近世の農村商工業と呼ばれる。この農村商工業が展開するためには次のよう条件が必要だった。第一に、ヨーロッパ的な結婚・就労・家族形態が形成されていたこと。相続した1人の子のみが家と農地を所有し、他の子は他家に養子にでたり奉公に入ったりする。ここでは血縁は家族構成の第一原理ではなく、財産の相続・管理と共同体構成員であることが家を構成する第一の原理だった。相続人以外の子がよそで奉公するということは、経済的に見れば、労働市場への自由な賃労働の供給が始まっていることを意味する。このように非婚の男女が農業や商工業の奉公人として働くというヨーロッパ的な結婚・就労・家族の型が形成されていることが、農村商工業展開の第一の条件となった。
 他方で、このような農村商工業の展開は封建制の経済秩序の外側で発生した現象と言え、封建領主層は、ここから剰余を収奪することができなかった。封建制とは、封建領主層が直接的生産者である農奴の全剰余を収奪する生産様式だが、その収奪手段では封建地代では、支配関係と土地所有関係の外側に展開する商工業の生み出す剰余を収奪できず、農奴の手許に残る剰余が発生するということは、封建制が剰余処理の社会的メカニズムとして機能不全に陥りつつあることを意味した。すなわち、封建制の危機を意味した。
 もともと、ヨーロッパの中世の基軸産業は毛織物産業だった。近世までの域外貿易の相手は対価として受け取ってくれるのは毛織物くらいしかなかった。フランドルやフィレンツェがその中心地で、原料である羊毛や麻はイングランドやスペインで、羊毛輸出組合を介してフランドルの毛織物産業に送られていた。それが14世紀後半ごろからイングランドでは農村商工業が発達し、羊毛輸出に代わって自ら毛織物を製造し輸出するようになる。それによりフランドルの毛織物産業は衰退し、イングランドの輸出の大陸の窓口としてオランダが発展し始める。このように、近世初期の毛織物を基軸としたヨーロッパ内の国際分業に大規模な構造変化をもたらした起動力は、イングランドが農村商工業の展開により、原料輸出国から製品輸出国へと変化したことだった。近世初期に強大な勢力を誇ったスペインが毛織物を輸出できず、新大陸で獲得した銀も他国に流出するだけで衰退し、代わってイングランドが徐々に経済力を背景にして繁栄するようになる勢力交替の背景に、この農村商工業の有無が作用していた。
第10章 近世の経済と国家
 封建制は危機に対抗しようとした。それが絶対王制で、これは封建秩序の外側に展開する資本主義的経済活動に対応する封建制の最終的な統治形態・政策体系と言える。これは、封建領主層の危機に対応する権力集中で、その結果として絶対君主が生まれたというわけだ。この成立条件として、次のようなことがあげられる。①絶対王制は、農奴制が弛緩して、領主特権、とくに農奴への人身的支配権が縮小し、封建地代の金納化や物価騰貴により地代水準が低下したことに対応して発生する。②領主特権が縮小し、地代水準が低下する状況では、例外なく、農村商工業が展開して、農村居住者の多くが封建制の社会的分業とは別のところで商工業を営み、そこに民富が蓄積するようになる。絶対王制は、このような封建制の経済秩序の弛緩に対応して発生する。③領主特権の縮小、地代水準の低下、物価騰貴、農村商工業の展開は、ヨーロッパ域内および域外貿易の拡張と時期的に重なり、その貿易の際に金銀の流出入が国富の増減になると考えられていた。そこで、金銀の流入を促進し、流出を抑止するため、輸出増進と輸入制限的な通商政策をとる経済思想も絶対王制の成立条件である。④スペインを絶対王制の最先進国とすると、それ以外の諸国は、先に絶対王制となった外国からの外圧への対応として否応なく絶対主義化を余儀なくされた。外圧に対抗して、絶対君主に権力を集中させて、一国の資源を効果的に配分しようとした。
 そして、絶対王制の課題として三つのことがあげられている。第一は産業規制で、農村商工業の展開にいかに対抗するかで、農村には農業を強制し、農村商工業をギルドに再編しようとした。しかし、外圧への対抗のため、一方で君主自らが企業を設立・誘致して、新産業を育成し、先端技術を導入し、軍隊を強化するための兵器産業という殖産興業の課題という産業政策の二重性にとらわれていた。第二の課題は、貿易規制であり、貿易に伴う金銀の流出入が国富を増減するのだ、絶対王制は、輸出を奨励し輸入を抑制するために保護関税、産業育成、輸入国産代替化等の政策を採用した。そして第三の課題は中央集権的統治機構の整備だった。従来の各領主の分権的な統治機構では危機に対処できず、君主に権力を集中することが必要だった。君主の下で全国を一円的に統一的に統治するための行政機構、課税・徴税機構、そして君主直属の常備軍を整備する。
 このような絶対王制によって、生じた効果を次の三つに類型化している。第一の類型は寄生で、絶対王制は農村商工業を禁止、抑制するが、農村商工業の勢力が強く、かえって農村商工業の資本主義的活動に寄生的な関係をとるようになった。つまり、その新しい経済活動を絶対王制の秩序の中に包摂しようとし、初期の独占を発生される。第二の類型は抑圧・阻害で、農村商工業の勢力に対する規制も強かったので、これを再編成することができた。フランスでは絶対王制が諸種の独占特許を濫発し、特権的な団体に再編成した。第三は権力的推進で、周囲の外圧に対して、絶対王制による新たな資本主義的な経済活動の推進、殖産興業がとられた。
 ここで絶対王制が行ったのが重商主義政策で、資本主義を育成し、その基礎を整備する政策体系のことだ。それには三つの側面がある。第1が基盤整備で、職業の自由と移動の自由の確保、そして貨幣・信用・金融制度の整備で、資本主義自身では生成できないものを国家権力が整備するということだ。第二が資本主義の育成策で、資本主義が自生的に展開しうる過程を補助して加速させるもので、産業保護、殖産興業政策、海外市場の獲得だ。第三が、賃労働の創出と維持で、賃労働を創出するためには、封建制の下にいる直接的生産者を生産手段と保護から分離しなければならないが、そこで行ったのが土地の囲い込みと上級所有権の償却だ。これにより農民から土地を奪い、自由な労働者とすることができた。
 このように述べてきた前近代から近代への移行を、古典的な経済史の通説は、封建制の危機→絶対王制→市民革命→重商主義→産業革命→資本制への移行、と理解してきた。この移行プロセスの最大の難点は市民革命なのだという。実際に資本制を確立させた社会の実践を見ると、明瞭な市民革命を欠く場合が多い。本書では、市民革命を封建制から資本制への移行の画期としての理念型くらいの意味しかないという。それに比べると、絶対王制は、外圧の作用もあって、実質的に営業・職業の自由を確保する変革を行なって、なし崩しに重商主義に遷移するという移行過程を担ったことは否定できない。
第11章 近世の経済規範
 近世は前近代から近代への長い移行期を指すが、そこでは前近代的な要素と近代的な要素とが併存していた。経済活動に関する規範も同様で、古い規範と新しい規範とが。何らかの矛盾や齟齬を見せながらも同居・共存して、人々と社会を揺り動かしていた。経済・社会が近代に移行したとはいえ、人々の心の中には、いまだに古い規範が残っていた。
 近世の人々の生活は、前近代に比べれば、多くを四条に依存するようになっている。生きていく上で必要な財・サービスを市場から購入するようになったおがけで、ものを購入するのに必要な貨幣を得るためにも、多くの労働を労働市場に販売するようになった。人々の生活に、商品・貨幣・市場が浸透するようになりつつあった時代が近世だ。遠隔地取引だけでなく、日用品の売買でも必要な貨幣を節約するために、さまざまな信用の仕組みが整えられた。他方で、領主・農奴関係、身分制、共同体は弛緩し、それらが有していた保護機能も形骸化した。人々は前近代社会の制度や慣行から自由になっていた。
 この時代の人々は、前近代社会において厳重に規制されていた個人的欲望を半ば肯定する規範の中に生きていた。ここで注意すべきは、欲望の解放された個人とは、前近代では個人とは家のことてあって、家が個人として、貨幣を獲得し、財・サービスを購入し、労働力を販売する事実上の主体であった。しかし、ヒトが個体である局面も生じていた。市場での貨幣獲得機会をめぐって家とその成員であるヒト個体との間に齟齬や軋轢が生まれたのは近世からである。近世の人々は、一方では市場を受容し、際限のない欲望を充足しようとするが、他方では、市場に起因する変動に対して古い秩序の回復を求める規範の中に生きていた。伝統が再生不能に陥った場合に、それを回復しようとする規範は近世に生まれたものだ。
 例えば近世末期に民衆がおこなった食料暴動だ。18世紀のインクランドで、戦争や不作の際に発生した食料暴動には次のような作法が貫かれていた。①食糧が不足し、価格が高騰し、承認んが利益確保のために買占め、売り惜しみする状況で、②民衆は従来通りの貨幣支出では十分な食料を確保できず、生の危機に直面する。③危機を感じた民衆は、地域社会の司法を担う治安判事に、買占め売り惜しみされている食料は公正な価格で販売されるべきだから、買占め商人に販売するように命令することを求める。④治安判事は求めに従い命令し、商人が従えは暴動は起きない。しかし、商人が売り惜しみするのは市場では当然の機会主義的な行動だから、治安判事は命令を出すことに躊躇する。商人も命令されたとしても従わない。⑤そこで、民衆は治安判事に自分たちの要求を伝えた上で、治安判事を帯同して商店に押しかける。治安判事の臨席のもとに公正な価格での販売の要求を商人に伝える。⑥商人が応じない場合は、民衆は実力で焦点をこじ開けて食料を各自入手する。ただし、彼らは入手した食料の公正な価格分の貨幣を商店において退出する。つまり、彼らは略奪ではなく、あるべき秩序における正しい売買行為であるという。つまり、食料暴動は、実力行使を伴う、あるべき秩序を回復しようとする、合目的的で倫理的な行動だった。それは一方では、市場で莫大な利益をあげる機会があるなら、それを活かすのは経済人として当然のことであるとする経済学の教義に対抗して、買占めと売り惜しみで将来の暴利を貪ろうとする悪徳商人に掣肘を加え、公正価格での販売とあるべき秩序の回復という道徳的な命令に従った行動だった。このような経済学の理屈や市場経済の利益の追求に、抵抗する民衆の道徳的な倫理がここにあったという。本書では、これをモラル・エコノミーと呼んでいる。
第12章 経済発展の型
 古代から中世初期までの千年の間、世界全体のGDPは14%しか増加せず、ほぼ停滞していた。その後の中世盛期から近世初期にかけての500年でGDPは倍増する。16世紀の100年間の成長率は33%で近世が明らかに経済成長の時代に入ったことが分かる。
 その簡単な内訳として、世界を成長する経済を移行させたという点で、中世から近世にかけて一貫して古代帝国の周辺・周辺部が重要な役割を果たしていた。近世末期になると、周辺・辺境が成長を主導するという型が崩れる。では、前近代の経済から近代の爆発的な成長を常態とする経済への移行はいかにして発生したのか。ここで考えなければならないのは、イギリスをはじめとした欧米諸国が、近世以降の持続的な成長の中心的な役割を果たしたのかという問いに収斂する。
 その問いは、マックス・ウェーバーが西欧において前近代から近代への移行や、封建制から資本主義への転換が可能だったのはなぜか、その歴史的な個別性と普遍性はどこにあるのかという問い。彼は、利潤を獲得し続けることをよしとする行為類型はどのようにしてヨーロッパ近世の社会に生成し、定着して、資本主義の精神的な基盤を成したのかということ。彼は勤勉に着目する。その源にプロテスタンティズムの職業倫理があり、勤勉の目的は、家業の繁栄でも、欲望の充足でも、消費の拡大でも、生産量増大でもなくという。
 また、ヨーロッパが近世以来の成長の型を発展させて19世紀の資本主義の確立まで到達させたのはなぜか。
 そこで本書は前近代から近代への移行過程が進行する条件をあげている。第一は市場経済が展開する条件であり、前近代社会が許容する生のあり方に多様性が少ないことがそうであり、前近代において多様性が認められていたら封建制の経済秩序の外側にわざわざ出て、農民的商品経済を発生させる必要がなかったからだ。市場経済は前近代社会との間に何らかの緊張関係のなかで発生したもので(そうでないと封建領主に癒着して寄生的なものになっていただろう)、封建制や身分制や共同体に邪魔されない自由な経済主体による自由な商品交換が拡大することによってはじめて成立した。次に市場経済が展開するためには。市場が信頼できる欲望充足の場であり、市場で獲得したものの私的所有権が安定的であるということ。市場が信頼できる場であるために、契約履行・市場秩序維持・紛争解決の機能を備えなければならないわけで、その機能は前近代社会では領主権力やギルドのような独占的同業組合の力によって提供されていた。第二には、資本主義発展の条件として、営業・職業の自由と移動の自由、賃労働の存在、日用品購入と奢侈品需要の下方拡張が宋だ。第三は、市場経済・資本主義が自然的な制約から解放されるために必要な資源賦存の条件で、具体的には、食料や綿花などの原料の他地域からの輸入による確保、化石燃料・原料の利用がそうた。これらは地域での森林資源の枯渇と、他地域では森林資源が残されていることと関係している。資源賦存の条件は確立した資本主義を持続するために必要だった。このためにコークス精錬法(燃料として木材のかわりに石炭の使用が可能となった)や産業革命の諸発明が寄与した

 

2024年1月28日 (日)

小野塚知二「経済史─いまを知り、未来を生きるために」(4)~第Ⅱ部 前近代─欲望を統御する社会

第3章 総説─前近代と近現代
 経済を表わす語は前近代に語源がある。これは現代とは意味が異なる。前近代では、予め設計され、人為的に統御される統治・福祉・経営などを意味していた。市場社会が成立する以前の前近代の人々が、経済をよい統治と人民の福祉や家政・家産管理という意味と捉えていたのは、それが人の際限のない欲望を充足する過程に深く関係するからだった。もともと、統治や福祉や経営を意味していた経済(economy)が、近代になると元の意味が失われ、市場・金銭・売買にかかわる事柄を意味するように置き換わっていった。
 前近代社会では共同性こそが際限のない欲望を充足するための最大の条件だった。前近代の経済は人の個別的な欲望をすべて充足させるほどの生産力水準には達していなかったから、人の生存条件としての共同性を維持するために、個人の欲望は厳重に規制する仕組みが社会に組み込まれていた。前近代社会では個人が社会を構成するのではなく、家が社会の成員であった。この個人欲望を規制する仕組みとは、そういう規範が社会では疑われなかったということで、そういう規範で社会が構成されていた。それは、掟・定・分・しきたりとして認識されていた。近現代の人が掟に対して不満を抱くことがあったとしても、前近代の人々には是非を超えた掟であって、疑われざるものだった。それは、ヒトが人として存続するために共同性を維持しなければならなかったので、共。同性そのものが保護の対象で、そのために、さまざまな統制・介入・規制・誘導の規範が体系化されていた。この規範の体系の意味するものは伝統である。伝統とは、昨日と同じ今日を同じように過ごすという姿勢のことだ。問題のない限り、過去から継承した昨日・今日を将来にわたって維持することによって、無用な危険に曝されることなく、人間社会を存続させようとする。そこでは、過去に何度も証明され。経験済みの無難な方法を今日も、明日も、正しく実践する自体が価値だった。身分制もその一環と考えられる。これらは、人の際限のない欲望を充足する方法と、欲望を充足しながらヒトが人であるために必要な協働性、欲望充足の共同性の効率性とを、保存し、外的・内的な波乱要因から守って、欲望充足と共同性と効率性を担保する仕組みであった。
第4章 共同体と生産様式
 前近代の身分制を特徴づけるのが身分制だとするなら、前近代の社会組織を特徴づけるのは共同体と言える。
 共同体とは、前近代社会における人の共同性の最も基礎的な形態と言える。それは身分内部の地域的・業種的な゜共同体を担保する人間関係で、分業的なものを含んでいる。共同体の形態としては、他に市場経済と協同性があげられるが、この協同性とは対比的と言える。前近代の共同体では、共同体内で通用する道徳と、共同体外に適用される道徳が異なる。これを内外道徳の二重性と呼ぶ。共同体内では成員は平等で、困窮した場合は保護を受けるが、外部の人に対しては排外的になる。共同体は土地などの不動産を有して、共同体全体として意思決定をしてと僕建築等の作業を行う。この意思決定に着目し、四つの共同体類型(原始共同体、アジア的共同体、古典市民的共同体、ゲルマン的共同体)と五つの生産様式(原始共産制、貢納制、奴隷制、封建制、資本制)とを以下で対比させている。
・原始共同体
 原始共同体は個人的に所有されるものはほとんどなく、身の回りの動産以外のすべてのものは共同体が所有し、社会の運営に必要な意思決定もすべて共同体が担っていた。個人はほとんど共同体に埋没し、依存していた。原始共同体は生産力水準が低く、剰余がほとんど発生しないため、階級区分もなかった。こけが原始共産制である。ここで剰余とは、自分と家族の生活に必要なものを消費し、また備蓄や種籾を取り置いても残される富を指す。
・アジア的共同体
 アジア的共同体では身の回りの動産の他にヘレディウムと呼ばれ一群の不動産(家族の言えと宅地およびその周辺の庭畑など)も個人の所有となる。日々の農耕牧畜作業は家を単位として行われ、そのためは土地は共同体から割り当てられた。土地の割当ては世帯人数の増減に伴って増減した。つまり、共同体の耕地は共同体にとって最適の状態で利用されなければならず、そのために土地の定期的割替という機能が組み込まれていた。日本の律令制による公地公民がその大規模な例だ。このため、家は子をたくさん産み、育てるという戦略を採った。人数が多ければ家に割り当てられる土地が多くなるからだ。これに対応する生産様式が貢納制で、優位の共同体が劣位の共同体を支配下におさめ、劣位共同体から剰余の富が貢納として優位共同体に収奪される生産様式である。アジア的共同体自体が社会の再生産の最小の単位なので、支配=従属関係は共同体を分割する形では発生せず、共同体がまるごと支配されるという関係が発生する。このことは、近代の準備として農村から都市に人口が流れるというわけにはいかないわけで、実際に19世紀ロシアでの経済成長の障害となったのだった。
・古典古代的共同体
 古典古代的共同体では、身の回りの動産とヘレディウムの他に一部の耕地も個人的所有の対象となっていた。古代ローマや平安時代以後の荘園がこれに当たる。鉄製農具などの普及によって個人的な開墾が持続的に可能になり、そうして開墾した土地が個人の所有となったのだった。個々では再生産の単位は共同体から、共同体を構成する荘園や名主経営に分解していった。拡張した土地は家だけでは手が足りなくなるので、非血縁の労働力を追加的に組み込むことになった。それが奴隷であり、古典古代的共同体に対応する生産様式が奴隷制である。荘園や名主経営は、奴隷を重要な労働力として使役し、個人的に所有された土地を耕作し、その収穫を我がものとする家父長的な経営体であった。剰余も家ごとに処分されるようになった。家の中に取り込まれた奴隷の生活に必要なものは奴隷主が日々給付し、奴隷の労働によって生み出された剰余の富は家長=奴隷主の所有となった。ある意味、アジア的共同体やゲルマン的共同体よりも資本主義社会の企業に近いものだったとも言える。
・ゲルマン的共同体
 ゲルマン的共同体では、動産とヘレディウムのほかに、耕地・牧地のすべてが個人的所有となる。共有地は共同体の所有となるが、限りなく個人的所有に分解された前近代社会と言える。小農経営が基本となり、多数の家によって一つの共同体が構成されるようになる。耕地・牧地のすべてが個人的に所有されるわけだから、各家の規模に応じて土地が再配分することはできない。いったん存在した家は当初の所有権を代々維持することになる。そこではアジア的共同体のような多産で子が家に留まり続けるという戦略は成り立たなくなる。家は代々同じ規模で、子のうちの一人に相続され、それ以外の子は相続から排除される。家の規模は標準化、固定化し、また、共同体内の家の数の固定化する。子の数は制限されることになり、そのために結婚年齢は上昇し、相続できなかった子は他家へ養子に出たり、村を出て都市に流入することになる。それが都市の維持につながってゆく。このようなゲルマン的共同体に対応する生産様式は封建制である。封建領主が農奴のすべての譲与を収奪するシステム。この収奪した剰余は封建地代と呼ばれる。農奴は1週間の内の決まった日数は領主直営地働き、それ以外の日は自分の保有地で働いた。しかし、領主直営地と農奴保有地での生産性に大きな差が出るために、すべての農地を農奴に分割保有させるようし、生産物地代を取るようになった。
 前近代社会の掟、定、矩の規範体系や身分制秩序が弛緩していくとともに、共同体も成員保護とよそ者の排除という機能が形骸化し、最終的には解体する過程に、資本主義的生産様式が生まれてくる。それが近世という時代だ。一方では個人が身分制や共同体から解放されて、際限のない欲望の主体となる。また、身分制や共同体に基づく保護機能からも自由になるので、家の財産を相続できない者や家の経営に失敗したものは共同体により救済されることはなく、市場で何かを売って生活する以外になくなる。そのためには市場が成立していなければならない。この過程で社会と法と政治に埋もれていた経済が、そこから離床して、独自の領域、独自の現象として立ち現われてくる。そこで、経済の意味が統治・福祉・経営といった内容から商品・金銭・市場という内容に変化していった。
第5章 前近代社会の持続可能性と停滞
 近現代の人には前近代社会は停滞の暗い時代と見える。しかし、前近代社会は長期にわたる持続して社会でもある。
前近代社会の規範の体系を、近現代の経済規範と比べてみると、その最大の特徴は、利殖・致富・成長を非道徳的なこととする教義と格率に求めることができる。前近代社会の富に関する規範は次のように二重に構成されていた。第一に富の増進のために富を蓄積しないという規範。明日の富を今日より増進させるということは、明日は今日とは違うことになり伝統という規範から逸脱することになる。前近代社会では拡大再生産は否定させるべきものとなる。第二に、仮に富が蓄積されてしまったら、それは非生産的な思想・宗教・知恵・技芸のために使ってしまうということ。例えば、王侯貴族のやたら豪華な宮殿や寺院などの建築や芸術のパトロン、民衆レベルでは祭礼などでの蕩尽。
 また、人口増加は経済成長に対して両義的な関係にある。人口増加は需要を増やすことで、生産力発展の契機となる。しかし、生産力の発展を伴わない場合は、増大した需要に応えることができないため社会全体は窮乏し、戦争や内乱の原因となる。人口増加が経済成長に帰結するためには、増加した史専攻が飢えずに食べていけるだけの食料生産力上昇を伴うこと、そして、増価した人口を労働力として有効に利用できることが基本的条件として必要になる。しかし、前近代社会の農耕牧畜の生産力は増加する人口を支え続けるほどの水準にはなかった。そこで、人口増加に対して非常に抑制的な機能が組み込まれていた。その一つが婚姻や相続・分家に関する規制だった。婚姻関係にあっても通常は別居していて、夫が妻の家を訪れる、初婚年齢を遅くすると、平均寿命が40歳前後であったので出生数の抑制に効果的だった。また、一子が相続するし、それ以外の子は家庭をもつことができなかったことも人口抑制に効果があった。これ以外にも人口を増やさない仕組みが社会に組み込まれていた。
 前近代社会は、疑われざる規範と身分制と共同体とによって、社会の存続が可能であると同時に、共同性を崩壊させる危険性のある個人の欲望は厳重に規制する体系を成していた。それは、、一方では、進歩や発展に心を動かされない伝統の規範、つまり保守主義の文化であり、他方では、蓄積された剰余の富を、来期の富の増大のためには用いず、宮殿・工芸・服飾や祭礼・ポトラッチで非生産的に用いる経済であった。そこには、現代の常識的な感覚からすれば、当時の生産力にしては驚くほど豪壮な建築や工芸・服飾と、驚くほど高い民衆文化を生み出す秘密が隠されていた。このような富の非生産的な利用により、高い身分の者たちの権威が外形的に表示され、権威的秩序の安定性に寄与するとともに、個別的な欲望を規制する規範の体系を支える役割も果たしていた。
第6章 前近代の市場・貨幣・資本
 市場とは商品交換の場の有する機能や、商品を交換する人間関係も含まれる。商品の交換とは、特定の使用価値・効用を有する商品が元の所有者の手を離れて、新しい所有者のもとに移転し、その対価をもつ他の商品・貨幣が逆の方向に移転することをいう。
 貨幣とは、均衡的互酬性に等価性を成立させ、それを商品交換とする装置である。そのために、貨幣には次の二つの性格が備わっている。ひとつは価値表示機能で、二つの異なるものを等価であるというからには、それぞれのものの個別的な使用価値・効用では等価性は計れないので、人の際限のない欲望の対象となるすべてのものは、価値という単一の物差しで計られることになる。その価値は、貨幣によって表示されると価格となる。価格とは貨幣で計った価値である。もうひとつは、誰にでも受け取ってもらえるということで、すべての商品交換の等価性を成立させる装置として機能する。ここにさらに時間という要素を入れると、支払手段と蓄積手段という機能が発生する。
 資本とは、簡単に言うと、自己増殖する貨幣だ。資本とは利潤を求めて運動する貨幣。その運動の出発点に当たる元手のことだ。したがって、資本は、際限のない欲望が、貨幣経済においてとる最も典型的な現象形態だが、個々のものに対する生の具体的な欲望は消え去っていて、ただの抽象的な際限のない欲望だけが表われている。この欲望の個別性・具体性を消し去ることによって、将来の大きな欲望の充足のために計算し、投資することができるようになる。この意味で、投資は、人の欲望の際限のなさを表わしている。その反面、生の具体的な欲望は抑圧されているので、そこに作用している人の際限のない欲望は見えにくく、貨幣が人に向かって「我を殖やせ」と命じているかのように見える。そのありさまを、マルクスは疎外と呼んだ。
 さて、前近代社会に実際にあった市場に次の三つに類型化できる。
・局地的公開市場
 各地の市場町や村での市場で、参加者の限定性、定期性、継続性、公開性という特徴がある。地域の農家や漁師や手仕事等の人々が三々五々、朝、家を発って、歩いて市場に着いて、自分の持ってきたものを売り、必要とするものを買い、知り合いと挨拶しながら情報交換や噂話をする。市場は10日に一回とか、毎週何曜日とかいうように定期的に開かれる。このような場では詐欺は発生しにくい。悪質な参加者は皆が見ているので、参加できなくなる。このような局地的な公開市場に参加する者は、誰かに騙されて損をするという危険性はほとんどない。このような市場に作用しているのは生存の原理で、誰かが一方的に損をし、別の誰かが得をするという事態を予定していない。ここでは慣習的な公正価格ともいうべき観念が成立し、そこから大きく外れた取引は許されない。誰かが他より効率的な生産方法を編み出して価格を引き下げることに成功しても、それにわり他よりも廉価で販売し、他の生産者を市場から駆逐するようなことは許されない。そもそも従来と異なる方法で生産された物自体が公正な商品とは見なされず、市場に持ち込めない。この市場では、詐欺瞞着を発生されないが、効率化や技術革新を進める動機も阻害している。
・広域的遠隔市場
 隊商が集まるバザールや商船が入る港町などのような古くからある市場のあり方。ここに参加するのは広い範囲から長距離を移動してくる専門的な商人たち。このような広域的な市場では、情報の対称性よりも、情報の差・偏在やや不完全性が常態で、その背後には売り手と買い手の側の価値体系・価格体系の差が作用していて、その差が儲けの機会となる。そこでは詐欺瞞着は常態となっていて、打てと買い手の双方は欺されないために、相互にあの手この手の述策を弄することになる。そこには利潤の可能性もあるが損失の可能性もある。また、この市場は、主に贅沢品を扱うので、貧者の生活必需品を提供する場ではないので、社会の全体を掴むには至らず、社会の需要のごく一部、富者、権力者の奢侈的な需要を掴むことに限られる。
・私的取引
 公開された市場とは異なる、いわば闇取引。営まれる地理的な華僑では局地的な公開市場と同じだか、売り手の一人が従来より効率化された生産方法を編み出して、従来の慣用的な公正価格よりもはるかに安い値段で、同質の物を提起要することができる点が違う。この売り手の製品は製造原価が従来の物よりも低いので、公正価格より低い値段で売っても、利潤をあげることができ、詐欺瞞着や情報の差に基づくものではなく、生産方法の効率化・生産性上昇による利潤なので、、常に儲かる必然性があるし、また、近隣の人々の生活必需品を売るわけだから、製品への需要は常に広く存在する。売り手買い手の双方が納得する価格で売買することで、従来は不可能だった利潤をあげ、しかも双方とも損をしない、新しい商売は、このような私的取引で開かれたということができる。
 これまでの経済史研究は局地的公開市場か広域的遠隔地市場のどちらかに、資本主義の育てられる揺籠を見出してきた。局地的公開市場の地域的な拡大と機能的な進化を経て、遠隔地市場も再編する形で、社会の物的再生産を資本が掌握するようになったという説が一方にあり、広域的な遠隔地市場が地域内部に浸透し、局地的市場を包摂することで資本主義社会が形成されたという説が他方にあった。しかし、局地的公開市場は生存の原理に基づくので、誰かが利潤をあげる可能性はほとんどなく、他方、広域的遠隔地市場は利潤の可能性はあるものの、それは賭けのようなもので、限定的で社会の再生産には至らない。それゆえ、本書では私的取引が徐々に局地的公開市場で旧来の規制に縛られた生産者を駆逐するとともに、優勝劣敗の原理を市場に導入し、そこで達成された高い生産性が遠隔地市場でも発揮されることによって、世界の経済が資本主義的になっていったと説いている。

 

2024年1月27日 (土)

小野塚知二「経済史─いまを知り、未来を生きるために」(3)~第Ⅰ部 導入─経済、社会、人間

第1章 経済成長と際限のない欲望
 経済の特徴は成長するということで、政治、法、社会、文化については成長するとは言わない(これらは変化するものと考えられている)が、経済は成長するものと考えられている。経済の成長は、量的な拡大を意味している。このような経済を量的に拡張させてきた動因として、ヒトは際限のない欲望を備わっている特殊な動物なのだという仮説(というより本書を貫く基本的前提)を提示する。例えば、ライオンは食事を終えて満腹してしまうと、食べ残しの肉が目の前にあっても見向きもせず、ハイエナやハゲタカがたかっていても気にもしない。しかし、ヒトは満腹であっても、その後獲物が得られないかもしれないと、食いだめをしたり、食物を何とか保存しようとする。生理的な欲求が満たされても、他の動物と違って欲望は止まらない。将来の飢えの備える以外にも欲望のあり方はある。例えば、他人への羨望、嫉妬などに起因するものだ。他人が持っているものを同じように持ちたいという、人間が社会的動物であるがゆえに起こる欲望だ。ヒトか生理的・動物的な欲求を超えて、より多くを欲する、そういう欲望のあり方が際限のない欲望で、生理的・動物的欲求ん゛満たされても、満たされない欲望をヒトは持っている。そして、この際限のない欲望がヒトの経済活動の根本的な動因となる。他の動物は経済活動をしないのに、ヒトだけが経済活動をするのは、ヒトのみが際限のない欲望をもっているからだ、とこれが本書を貫く根本的な考え方である。
第2章 欲望充足の効率性と両義性─支配と自由
 では、人はどのようにして、際限のない欲望を充足しているのか。ここでは、人の欲望充足の仕方を抽象的(→領有、蓄積、生産、消費)、社会的(→支配と法)、現実的(→効率性と分業)という三つのレベルに分けて整理している。それを踏まえると、経済とは、人の際限のない欲望を充足するために必要なものを領有、蓄積、生産、分配、消費、所有、交換する人間=社会の全過程、簡単に言うと欲望充足の全過程という言える。
 現実に欲望を充足しようとする時に、効率性は不可欠で、その手段として分業があげられる。分業は一人で行っていた作業を複数の人間で分担できるように作業を分割することである。分業がうまくいくためには分割された作業が単一の意思で管理されなければならない。管理とは共同作業についての指揮命令権と、実行機能の相互補完的な関係である。この時、指揮命令する役割は固定しておくと、専門誠意が発揮され、主語一貫性が生まれる指揮命令=服従の関係が生まれる。このような関係は社会にも企業の中にも埋め込まれている。この関係を担保するのは権力や権威である。際限のない欲望を人は社会を成して充たそうとする。効率的に欲望を充足しようとするなら、そこに分業が発生する。分業の結果、分業がなかったよりも人々の欲望はより効率的に充足され、人は欠乏より自由になることができる。他方で、分業は支配=服従関係をもたらすから、人々は不自由になる。前近代社会は、際限のない欲望を社会が厳格にチェックしてきたので、効率的な欲望充足は完全な形では発現しなかった。つまり、欲望充足の両義性は前近代社会では潜在し、隠蔽されていた。それが近現代では欲望の規制が外れた。この両義性を近現代の社会は無限の生産力上昇で克服しようとしてきた。そこに欲望と生産力上昇とのいたちごっこが始まることになった。
このような視点で、この後、各時代を見ていく。

 

2024年1月26日 (金)

小野塚知二「経済史─いまを知り、未来を生きるために」(2)~序章 経済史とは何か

 経済現象や経済活動は過去からの蓄積で決まる部分が大きいので、劇的な変化は少なく、政治的・文化的な革命に見られるような演劇的な要素は乏しい。経済とは総じて地味に、しかし着実に変化を積み重ねていくという特徴がある。協議の経済史は近現代の経済と社会を特徴づける市場経済・資本主義の起源と特質・特異性を叙述する。
 一方、経済学では経済理論が市場経済や資本主義の純粋な姿を前提としてその法則性を解明することを目的としていて、時間的な変化を捨象している。それを補完して、特定の時と場所に規定された具体的な経済状態や経済活動のあり方一つの個性的な現象としてとして描くことや、経済活動の時間的な変化のありさまを叙述する役割を経済史が果たしている。
 なお、経済史という以上は歴史学の一分野でもある。そうなると、歴史とは何かという基本的な問いが問われることになるが、本書では次のように捉えている。歴史とは過去そのものではなく、過去の事実の総体や集積物でもなく、過去の事実に基づいて、後の世の人が過去を物語るという本質にその本質がある。歴史は現在(後の世)の人々が、現在知りうる過去の事実から取捨選択して、現在の人々が関心をもち、現在の人の役に立つ物語を叙述するものである。
 ここには、歴史への相対的な視点はなくて、それは、現在の市場経済や資本主義を前提にしているから無理もないし、この後の叙述から本書が一貫した視点で語られているのは、そのせいでもあると思うが、その点では、経済史と歴史学の差が現われていると思う。

2024年1月25日 (木)

小野塚知二「経済史─いまを知り、未来を生きるために」

11111_20240125234601  8年前に読んだ本の再読
 歴史のジャンルとしての経済史は政治史とは違って歴史的ヒーローや劇的な事件が起こるわけではない。経済現象や経済活動は過去からの蓄積で決まる部分が大きいので、劇的な変化は少なく、総じて地味に、しかし着実に変化を積み重ねていくという特徴がある。本書は前近代、近世、近代、現代という4つの時期にわけて、それぞれの時期の経済という状態とその持続的変化を語ってゆくが、政治史のように画期されるのではなく、近代のなかにも前近代の性格は残りそれぞれが持続的、併行的にだらだらと、時には歴史的な逆行が起こったり、そしてだんだんと変わってゆく。そういうところが、よくわかるように記述されていて、とても興味深い。私には歴史小説や大河ドラマより、ずっとスリリングで興味深かった。
 経済史はいまを理解するための、それゆえ未来を展望し、構想するための有力な方法のひとつだという。その思索を進めるための問題意識として次の3点を設定する。すなわち、経済はなぜ成長するのか、人類はいかにして生存してきたか、そして、経済は実際いかにして成長してきたか、だ。そのための方法論として、現在の制度、慣行、市場などがいかにして形成され変容してきたかを知ること、そして現在とは異なる経済や社会と比較して現在の経済や社会を相対化すること、だという。このことから考えて、歴史を現在からの視点で遡る、つまり、現在をゴールにして歴史はそれまでのプロセスという視点が前提されているということ。経済史といいながらも、この場合の経済は暗黙のうちに資本主義経済をゴールと想定しているのは、よんでいるうちに分かってくる。いまを知るとはそういうことで、未来の展望というのも資本主義経済の未来ということになる。そういう限界を踏まえたうえで読むと、大学の講義の教科書のために書かれたという目的以上の、たいへん啓発されるところの多い本だと思う。

 

2024年1月24日 (水)

吉川孝「ブルーフィルムの哲学─「見てはいけない映画」を見る」(5)~第4章 ブルーフィルムを前にして何をすべきか

 ポルノを鑑賞する者が何にどのように魅了されるのかは、当人が自己を性的に理解するための一つのきっかけになりうる。ポルノを鑑賞することにおいて、我々は、我々を魅了する対象に出会っており、実際にそれに興奮することがある。何らかの性行為が描かれた作品を鑑賞して、それに魅了されて、ときにマスターベーションなどの振る舞いをすることになる。しかも、そのような内容の作品に魅了されるのかはそれぞれの鑑賞者によって異なっている。鑑賞者自身がどのようなタイプの人や行為や状況の表現にひかれるのか、そうでないのは、さまざまでありうる。ポルノに興奮するのかしないのか、どのようなポルノに興奮するのかは、自己がどのようなものであるかを示しており、そのような性的欲望が表現されているポルノを鑑賞することは、もともと不分明な自己についての理解を明らかにすることにつながる。このように、ポルノの鑑賞が、自分とは何者であり、誰とともにいかに生きるのかを際立たせることもありうる。
 このような営みは孤独な一人語りに終始する必要はなく、場合によっては性行為の相手とともに吟味したり、親しい人と意見を交わしたりすることもある。ポルノについてもそのような語りが可能である。たいていの場合には、個人の性についての語り合いに参加できる者は限られており、完全に開かれた公共的な討議になることはない。鑑賞者の実践的な可能性や不可能性にかかわる性表現は、理論的な主張のように万人に開かれた形で検討されるものではなく、範囲はそれなりに限定されるのが望ましい。
 ブルーフィルムを上映することは違反行為であり道徳に反する行為とされていることから、一般的な映画あれば、作品が不道徳な内容であっても、鑑賞者は、その内容にコミットしないことができる。その鑑賞者は作品が不道徳であることとは距離をおいて、自身は道徳的であり続けることができる。これに対して、ブルーフィルムは、それを鑑賞する自体が、そのまま違法なものとなる。ブルーフィルムの鑑賞者は見てはならないものをあえて見るのであり、不道徳をする者という非難を免れ得ない。ブルーフィルムにかかわる者は、法によって禁じられた猥褻なものを求めることで、社会で悪とされていることに加担する。その営みでは、まず自分から泥をかぶって、そのうえで美しいもの、自由なものを手にすることになる。しかも、ブルーフィルムにおいて欲望が表現される仕方は、あらかじめ正しいことが決まっていて、それに即して描かれるというよりも、鑑賞者たちの欲望によって方向づけられている。何らかの性行為をしたい人や見たい人がいて、その欲望が映像になっている。

2024年1月23日 (火)

吉川孝「ブルーフィルムの哲学─「見てはいけない映画」を見る」(4)~第3章 ブルーフィルムは何ゆえに美しいのか

 例えば、音楽でグルーヴを感じるというのは、耳で音楽の性質を受けとめるだけでなく。身体全体が関与して、身体自身が動き出すことであり、そのような体感の次元を無視できない。グルーヴを掴むことは、身体の適切な動かし方を知っていて、実際にそうすることができるという実践知であり、私たちは、自分の身体をリズミカルに動かすことを意識しつつそれを把握している。私たちがポルノをポルノとして受け止めるときには、性的に興奮して身体的な反応が生じている。興奮するだけで終わることもあるが、場合によっては、鑑賞しながら性描写に合わせる形でマスターベーションをしたり、実際の性行為を始めたりして、自分の欲望を解放することもある。作品がどのようなものであるかの理解は、作品を前にして自分がどのように振舞うのかという自己の理解とも結びついている。ある作品を見て共感するのか反感を覚えるのかは、作品ばかりか自己についての理解の相違を示唆している。これと同じように、私たちは何らかの性行為などが描かれたポルノの作品を鑑賞して、それに応じて自分がどのように振舞うか、自分が何者であるかを理解することがある。この時の理解は知性の水準で生じるわけではないが、私たちの生きていることそのことに浸透しており、そこから切り離すことはできない。ダンス音楽において何らかの仕方で自分が踊りながらグルーヴを受けとめるのも音楽の鑑賞であり、そこでは踊ることで自己理解が表明される。ポルノを見ながらマスターベーションをすることも、芸術の美しさを鑑賞することの一つの様式と考えることもできる。
 欧米のハードコアポルノ映画は「なるべく多くのものを見せるようにする」という原理によって成立している。「マネーショット」や「カムショット」と呼ばれる射精シーンや「ミートショット」と呼ばれる性器の挿入シーンから成り、通常は見えないものを最大限見せることで、特別な知識の源泉になっている。古典的な映画では、俳優個人の容姿が特別な意味を持っていて、その身体はつねに注目されるが、基本的には衣服で覆われて、素肌は隠されている。この衣服が脱ぎ捨てられる可能性があることが大きな意味をもつが、ほとんどの場面で裸体が映ることはない。これに対してハードコアのポルノ映画は、通常の映画では隠される身体そのものを露呈してしまう。スクリーンに映し出される性器が自らを語り出すマネーショットをクライマックスとしており、男性器から精液が射出されることをアップで映し出して、本物の性行為が行われ、実際の欲望の充足が為されることを証明する。日本のブルーフィルムはマネーショットをクライマックスとしてはおらず、ミートショットを中心とした性的欲望の充足が表現される。
 このような映像を鑑賞する経験において、どのようなことが生じるのだろうか。本書ではホラー映画の鑑賞体験を手がかりに考察を進めていく。ホラー映画において、鑑賞者は怖がることを経験する。ある種のモンスターが登場するが、このモンスターは「危険」であり、さらには「不浄」であると認知されている。「危険」は「恐れ」という感情を、「不浄」は「嫌悪感」という感情をそれぞれ引き起こすが、ホラー映画では、その両方が合わさって「怖がる」という感情を引き起こす。このような「怖がる」という感情は顕在的感情状態であり、生理的な動きの感覚や興奮をかんじるなどの身体の状態と結びついている。ホラー映画を鑑賞することで、鑑賞者には筋肉の収縮、緊張、身のすくみなどの身体的興奮が引き起こされる。鑑賞者に生じる「怖がる」感情は、作品内で主人公がモンスターに遭遇するときに感情であり、鑑賞者はモンスターに襲われる登場人物を介してホラーの感情を経験している。ポルノ映画のような猥褻な作品で、ポイントとなるのは道徳的信念と感情的反応との相反する関係である。猥褻なこと、例えば相手の服を脱がすことは、鑑賞者にとって、道徳的に悪いと考えられる内容を表現しており、鑑賞者は「このようなことはよくない」という信念を持っている。しかし、同時に、鑑賞者には、それに逆らってあえてよくないことを求めるような欲望が呼び覚まされてもいる。つまり、鑑賞者は反発を感じながらも魅了されるという経験をすることになる。ポルノグラフィでは規範が侵犯されることが描かれるのであり、日常的に自明な規範が破られるのを目撃することで、鑑賞者にはさまざまな感情が喚起されることになる。
 しかも、ブルーフィルムの場合、内容だけでなく、鑑賞する営みそのものが規範の侵犯に繋がっている・フィルムが上映され鑑賞される状況そのものが独自の緊張感をもたらすことになる。鑑賞そのものが、あたかも禁じられたことをするかのような緊張感に溢れている。見るという営みそのものが、身体的理解としての「私はできる」という契機とどのように関連するかは複雑である。つまり、ポルノの鑑賞には、一方に覘きに結びつくような視覚的な欲望の契機があり、他方に「私はできる」という行為の実践的可能性に向かう契機がある。前者においては、窃視という視覚がそれ自体で性的な欲望の充足を果たすことも考えられる。後者において鑑賞者は視覚の水準を超えて、実際に性行為に至る可能性を思い描き、時にはポルノの登場人物と鑑賞者の自己とか感情移入や共鳴によって同化することもある。二つの契機のせめぎ合い、鑑賞者の静的欲望は覗き見ることに収斂する。「見てはいけないものをいま見ている」という感覚が際立つことになる。そこで、被写体と鑑賞者との間に成立する「覗き手と覗かれ手の共同体」は、圧倒的な性の禁制違反を軸にした共同体とも特徴づけられる。このような近さの関係、プライヴェートな空間の成立が、ブルーフィルムの鑑賞経験に特有のものである。そして、ブルーフィルムを鑑賞したものは、それを公にできないという秘密を抱えることになる。その秘密を共有するということで親密の密度が高くなる。そして、秘密⇒語ることができない、ということから語りえないものの神秘性が、そこか生じるという。

2024年1月22日 (月)

吉川孝「ブルーフィルムの哲学─「見てはいけない映画」を見る」(3)~第2章 ブルーフィルムを見るとはどのようなことか

 ブルーフィルムは大衆によって鑑賞されていたわけではない。ブルーフィルは映画館ではなく、旅館の一室や歓楽街のいかがわしい場所で、人知れずこっそりと上映されていた。一般映画の観客に制作者の意図した技巧を見分けで楽しむ層がいたように、ブルーフィルムの観客もまた作品の技巧を楽しむ層がいた。そのような好事家的な鑑識眼をもった観客に向けて吸くれた作品が制作されていた。ブルーフィルムの干渉は、一般映画を大衆が干渉するのとはかなり異なった営みであったと言える。
 このようなことから、ブルーフィルムを実際に見ることは困難である。ここで作品を論じても、一般映画のように、論じられた内容を読者は検証することができない。著者もすでに失われてしまった作品については見たものの証言のような間接的にしか知る手段がない。そこでは直接見ていない即品を評価できるかという問題が生まれる。
 ピンク映画の監督、若松孝二はブルーフィルムは実物で成り立つ一種の記録映画だと言っている。彼の指摘は、ブルーフィルムにおける剥き出しの性器の映像が、ある種の記録映画のように人間の世界の真実を伝えている。つまり、通常は手にはいらない性に関する認識を鑑賞者にもたらす。そして、ブルーフィルムの鑑賞は禁じられたものを見るということによって、他の映画にはない経験をもたらすことを意味する。前者については、ポルノ映画における性行為や性器の映像では、現実に存在する身体が描写され、現実の身体や性行為が再現されている。その映像からは性的な欲望や興奮などの主観的な感覚を読み取ることができるのであり、そこでは官能が表現されている。鑑賞者は、それらを見て、性器や性行為がどのようなものか、そこでどのような感情や欲望が生じているか、具体的にどのようなことをするのかを知ることができる。この知るというのは、実践知であり、自分がやるためのやり方を知るということだ。ポルノ映画においてはたいてい、何らかの性行為が鑑賞者の前に「できる」ことや「やりたい」こととして示されることになる。その場合、映像を通じて目の前に示されることが自分の欲望の充足される形、実践的可能性として了解される。さらに映像がリアルであるので、身体的に受けとめられる。そこにリアリティの経験が生まれる。それゆえ、ここでの映像は鑑賞者の運動感覚とともに経験されるのであり、単に目の前のものを見るという感覚的な需要ではなく、「私はできる」という身体能力の内的な感覚とも結びついている。

2024年1月21日 (日)

吉川孝「ブルーフィルムの哲学─「見てはいけない映画」を見る」(2)~第1章 ブルーフィルムとは何かを問いながら

 ブルーフィルムは性行為を露骨に描いた作品であり、上映に際しては無修正の性器を映し出すために違法なものとなっている。性器と性行為が映っていれば成立しており、それ以外の要素は求められていない。いわば「性の映画ではなく、性器の映画である」。特別なストーリーやそれに結びついて演出があるわけでもなく、露骨な行為の映像があることだけを売りにしている。しかも、異性愛の男性を中心とする鑑賞者の性欲や知識欲を充たすために存在するブルーフィルムは、かならずといっていいほど、女性の性器のアップが含まれている。
 ブルーフィルムは映画館で上映することは法律で禁止された映画であるので、映画館で上映されるポルノ映画とは違う。ブルーフィルムは16mmとか8mmの小型のフィルムでプライヴェートな空間で見られるものだった。
 ブルーフィルムは、すでに多くが廃棄され、もはや鑑賞されたり論じたりすることがなくなっている。もともと当時から違法なもの、いかがわしいもの、あやしいもの、見てはならないものとして、一般には敬遠されていた。未だはさらに時代遅れのもの、過去のものとなって、忘却されている。もともと、ブルーフィルムは社会に流通するのにふさわしくないものとされて、表舞台から締め出されている。
 そもそも、「猥褻」だったり「性差別的」だったりするものは、欧米の歴史のなかで「ポルノ」と特徴づけられてきた。それは、社会にとって不穏当なものをめぐる意見の対立を示したり、無価値なごみを示すための語であった。本書ではブルーフィルムを「ポルノ」とも特徴づけているが、その上でブルーフィルムやそれをめぐる文化を忘却から取り戻そうとする。ブルーフィルムやそれを取り巻く世界は、目を背けたくなるような私たちの欲望や身体を描いており、多くの人から忌避されてきた。製作者などの関係者は犯罪者であり、まとも語られることもなく、彼らの名は匿名のままである。ここでは、そのような状況を踏まえて、これらが現われ、見られ、論じられるに値するものであることを示そうとする。

2024年1月20日 (土)

吉川孝「ブルーフィルムの哲学─「見てはいけない映画」を見る」

11113_20240120225901  ブルーフィルムとは違法のポルノ映画のことである。露骨な性表現を含むゆえに猥褻とされて刑法175条により上映が禁じられている映画のことである。ちなみに、英語の「ブルー」は性にかかわるような猥褻なものに用いられることがあり、例えば卑猥な冗談はblue jokeと言われる。
 このような映画について考察するにしても、作品そのものが残されていないので、間接的な資料を手がかりにせざるをえない。本書では、ブルーフィルムやそれをめぐる人々の経験にまつわるイメージを、文学、映画、漫画などの資料から集め、語りにくいもの、見えにくいものとしてブルーフィルムを考察する。
 例えば、音楽でグルーヴを感じるというのは、耳で音楽の性質を受けとめるだけでなく。身体全体が関与して、身体自身が動き出すことであり、そのような体感の次元を無視できない。グルーヴを掴むことは、身体の適切な動かし方を知っていて、実際にそうすることができるという実践知であり、私たちは、自分の身体をリズミカルに動かすことを意識しつつそれを把握している。私たちがポルノをポルノとして受け止めるときには、性的に興奮して身体的な反応が生じている。興奮するだけで終わることもあるが、場合によっては、鑑賞しながら性描写に合わせる形でマスターベーションをしたり、実際の性行為を始めたりして、自分の欲望を解放することもある。作品がどのようなものであるかの理解は、作品を前にして自分がどのように振舞うのかという自己の理解とも結びついている。ある作品を見て共感するのか反感を覚えるのかは、作品ばかりか自己についての理解の相違を示唆している。これと同じように、私たちは何らかの性行為などが描かれたポルノの作品を鑑賞して、それに応じて自分がどのように振舞うか、自分が何者であるかを理解することがある。この時の理解は知性の水準で生じるわけではないが、私たちの生きていることそのことに浸透しており、そこから切り離すことはできない。ダンス音楽において何らかの仕方で自分が踊りながらグルーヴを受けとめるのも音楽の鑑賞であり、そこでは踊ることで自己理解が表明される。ポルノを見ながらマスターベーションをすることも、芸術の美しさを鑑賞することの一つの様式と考えることもできる。
 表現の身体性においてエロスというのは無視できなないことだと思う。映画にしても、かつてのハリウッド映画にヘイズコードというエロスの表現に対する厳しい規制が存在したことを考えれば、それを剝きだしに映し出すポルノは、売る意味では本質的なものを表わすものではないかと、私は思う。

 

2024年1月18日 (木)

東浩紀「訂正する力」(5)~第4章 「喧噪のある国」を取り戻す

 これまでの訂正の考え方で日本思想を批判的に継承することもできるはず。丸山真男は「歴史意識の『古層』」のなかで、ものごとが何となく自然と生まれてつながっていくという発想が日本の思想や政治を動かしてきたと言う。明治維新は攘夷と言っていた人々がいつのまにか開国になって、成功してしまった。そこに明治維新の思想なるものはとくになかった。そういう自然生成性や主体性のなさを肯定する風土がある。
 訂正するということは、とりあえず今の状態を受け入れる、過去を受け入れ、それを守っていく。けれども、過去を守る行為には必ずスレが生じる。同じゲームをプレイしているつもりでも、ルールがいつのまにか変わっている。しかし、どう変わっているかは当事者にも分からない。伝統を受け継ぐとはイコール伝統をかえることであり、ゲームに参加するとは規則に違反もしてしまうこと、その違反がゲームを豊かにしていく。それは日本文化では自然生成性や主体性のなさとして肯定できる。
 それは、過去を肯定するか否定するかという二者択一の対立ではない。
 一方、訂正する力とは、幻想を作る力でもある。過去の解釈を変え、現在につながるような新たな物語をつくり、未来に進んでいく力だ。この幻想は現実逃避ではなく、現実を支えるために必要に時がある。その幻想を作るのが訂正する力だ。著者は、古代ギリシャのアテネに目を向ける。ペロポネソス戦争の影響で内乱が誘発され社会は大きく混乱した。その時、彼らは内乱の記憶を忘れるという決定をする。それで忘れたことにして、恨みがないことにして内乱の再発をおさめたという。こうして、現実をアップデートしていったという。日本に視線を戻せば、戦後の平和主義は一種の方便だった。それが、いまは抽象的な硬直した題目になってしまっている。今必要なのは平和主義の訂正なのだという。平和な国とは喧騒に満ちた国でもあるという。訂正する力は喧噪の力でもある。社会全体がひとつの話題に支配されないこと、友と敵の分断に支配されないこと。いろいろいな人が政治的な立場と関係なく結びつき、色々なことを語り、極論が極論のまま共存し続け、いつも新たな参加者に開かれている。日本には古来そのような喧騒を重んじ文化的な伝統があった。

2024年1月17日 (水)

東浩紀「訂正する力」(4)~第3章 親密な公共圏をつくる

 第1章では時事問題への応用、第2章では理論的な説明に次いで、第3章は訂正する力が人生でどのように役立つかを見ていく。このことを時事、理論に対して実存という要素だという。
 そこで、著者個人のゲンロンの経営という自身の経験を語る。そこで鍵となるのは、固有名にならないと「じつは…だった」という発見の視線にさらされない。他者が自分を見てくれないと、自分の人生も訂正できない。したがって、訂正する力を身に着けるためには、まず固有名になるように敷ければならない。この場合の固有名になるというのは、職業や肩書といった属性を売りにするのではなく、属性を超えたなにかで判断されるような環境をつくるということ。そのために大事なのは余剰の情報だ。与えられた仕事をこなす、期待された役割を果たすでは、人は固有な存在とは思ってくれない。固有名になるためには、そういう期待の外で相手に交換不能な存在と思ってもらわなくてはならない。交換可能のは必要な情報だ、人は必要な情報しか交換しない。余剰な情報とは、その必要な情報ではない。例えば、人格がそうだ。必要な情報だけをやり取りをしていると間違うことが許されなくなり、したがって訂正することができなくなり、いつしか状況の変化に対応できなくなってしまう。自性は、訂正する力で豊かになる。自分のイメージで他人のなかでたえず訂正され、他人のイメージも自分のなかでたえず訂正されていく、そういう柔軟な環境が生きることを楽にしてくれるから。
 このようなことは、自分一人では成立しない。ある程度親密な関係のなかではじめて成立する。しかし、少数の人間の間で親密な空間を作ればいいかと言えば、そのような関係は閉塞した関係に変わってしまう。それゆえ、そのような親密な関係は、親密さを損なわないまま大きくしていく手段を考えなければならない。それができて、はじめて訂正する力は社会を動かす力に変わっていく。具体的には組織化だ。持続した組織。著者は、その例として地域の祭りやコミケの同人誌文化。あるいは草創期のIT業界はエンジニアを自由に遊ばせておきながら、それをあとで「じつは仕事だった」と訂正するというシステムで、どんどん新しいサービスを送り出し、世界を制覇した。遊びがいつのまにか仕事になってしまう。それはウィトゲンシュタインの言語ゲーム論そのもの、訂正する力だ。

2024年1月16日 (火)

東浩紀「訂正する力」(3)~第2章 「じつは…だった」のダイナミズム

 訂正は、誰もが日常に行っている行為であり、その意味で自覚的になり、現実の変化に活かすことができる。訂正の本質とは、ある種の「メタ意識」にある。自分が無意識にやってしまったことに対して、違うと違和感をもったり、距離を感じたりするときに、訂正の契機が生まれる。人間は多くのことを無意識に行っている。そして、そういう無意識に行っていることがうまくいかなかったときに、立ち止まって考えることを始める。違和感を感じて調整を始める。つまり、行動を訂正する必要が生じる。それが意識の出発点だ。このように、自分の行動を訂正していくことは、生きることの基本で、人間は他の動物に比べて、この能力が発達していた。その典型例が試行錯誤ということだ。
 訂正する力はコミュニケーションの原点でもある。ミハイル・バフチンによれば、対話というのはいつでも相手の言葉に対して反論できる、つまり終わりがない。誰かがこれが最後の結論。と言ったときに、別の誰かが、いやいやといって、再び話が続く、というように、話は終わりなく続く。言い換えると、ずっと発言の訂正が続く。言葉を発するとき、我々の頭の中に抽象的な概念が確固なものとしてあるわけではない。Aさんのなかに概念があり、それがBさんに渡されて理解するというのではない。むしろ、一緒に共通の語彙を作っていく作業に近い。言葉の意味というのは確定しているものではない。自分はこういう言葉を使った。それに対して相手は予想とは異なる反応を返してきた。このままだと対話が成立しないから言葉を変える。そうすると話が先に進んで対話が成立する。そういうことを繰り返す。このような調整には終わりがない。バフチンの言うとおりだ。
 また、ソール・クリプキという言語哲学者によれば、クワス算というでたらめな演算を例にとって、学問的に考えると屁理屈を飯間為すことは絶対に出来ないという。どのように反論したとしても、屁理屈で言い返されてしまうという。これを現実の生活の場面に置き換えると、クレーマーを完全は撃退できないということと同じだ。このクリプキの主張はバフチンと重なる。人間のコミュニケーションというのは本質的に開放的なのである。
 人間の社会は、どんなに厳密にルールを定めても、必ずそのルールを変なふうに解釈して変なことをやる人間が出てくる。そういう性質を持っている。社会を存続させるには、そういう人が現われたときに何らかの形で対処することになる。その時に訂正する力が必要になるのだ。裏返せば、ルールにはつねに穴があるということになる。人間というのは、ルールを守っているようで何でも自由にできてしまう。ルールは多様な解釈が可能だからで、これはクリプキの言うとおりだ。
 ところで、民主主義というのは「みんなでルール」をつくるというこが本質だ。だから、どんなルールをつくっても悪用する人間は必ず出てくる。そういう構造になってくる。そこには、完璧に正しい市民を育て、完璧な制度をつくり、完璧に守られる社会をつくればいいかもしれないが、それは専制主義と同じだ。むしろ、ルールが破られた時にどう対処するかが民主主義のみせどころで、このとき訂正する力が必要になる。
 そして、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」が持ち出される。ここで言われているゲーム(遊び)とは、人間の言語的なコミュニケーション全体を覆う概念である。そこではつねにルールが書き換わっていと、しかもゲームに参加しているプレイヤーはルールが変わっていることに気がつかない。これは子供の遊びを見ていると分かる。子どもが集まると、誰かが走り出して鬼ごっこが始まる、思ったらかくれんぼになっている、というようにルールが目まぐるしく変わる。いつの間にか新しい子どもが混じっている。ここでは遊びの内容が変わったり、参加メンバーが変わったり、でもずっと遊びは続き、しかも同じ遊びをしていると思っている。言語というのはそういうゲームであるという。
 ウィトゲンシュタインは、このようなゲームの本質を定めているのは参加しているメンバーではなく、観客や審判という外部の第三者なのだという。参加者自身は自分がどのようなゲームをしているかが分からない。そこで同じゲームという一貫性を保証できるのは、第三者しかいない。当事者はアイデンテティはつくれないというわけ。ゲームの一貫性は、参加者のプレイを外から解釈し、過去の記憶と照合し、ルールを訂正し続ける観客によって生みだされるということだ。これはゲームに限らず、広く社会的な事象にあてはまる。
 ところで、固有名というが言葉は定義できまるという考え方がある。これに対しては、新たな事実の発見があって、定義が書き換えられることがある。そのとき「じつは…だった」という、それは訂正する力だ。これがあるから、古くから親しんだものについて新しい発見をすることができ、過去を書き換えることができる。人間は「じつは…だった」の発見によって、過去をつねにダイナミックに書き換えられて生きていると言っていい。よく生きるためには、この書き換えをうまく使うことが大事なのだ。それが訂正する力と言える。例えば、人生の転機には必要な力だ。いままでの仕事はたしかに苦しかった。でもそれは「じつは…」こういう解釈ができて、その解釈をすると未来ともつながる。それが訂正する力の考え方だ。
 過去との連続性を大切にすることから、「じつは…だった」という訂正の精神は、本質的には保守主義に近いものである。過去を否定して、すべてリセットして新しい社会を作るというのは革命の思想だ。しか、結局のところ、そういうリセットの試みは歴史的に見て失敗に終わっている。フランス革命やロシア革命がそうだ。これらと明治維新の違いに表われている。逆説的な言い方になるが、前進のためには復古しかない。「じつは…だった」というクッションがないと、改良は社会のなかに根付かない。人間というものは合理的には動かない。だから社会はリセットできない。そこで、過去の記憶を訂正しながら、だましだまし改良していくしかない。
 このような発想は、実は文系の学問に通じるものだ。そもそも、文系の学問の対象は、存在するようでいて存在しない。善とか美とか真といっても、そういう物体が存在しているわけではない。だから文系の学問は、理系のように、言葉と対象が一致すれば真実といった基準で学問を進めることができない。そこで基準になるのは「じつは…だった」という訂正の論理なのだ。そもそも真実という観念自体が言葉のなかにしかなない以上、理系的な手法で探求しても意味はなく、できるのは、そういう過去の歴史を踏まえた上で、今の社会状況に照らし、真理という概念をあらためて使うとすればこういう再解釈が有効なのではないかという訂正の提案でしかないということなのだ。理系と文系の違いは反復可能性と訂正可能性の違いとも言える。

東浩紀「訂正する力」(2)~第1章 なぜ「訂正する力」は必要か

 訂正するとは一貫性をもちながら変わっていくことで、この点についてはヨーロッパの人々は狡いほど巧い。彼らは政治からスポーツまでルールを容赦なく変える。これにより、自分たちに有利な状況をつくり出す。その際に、彼らの行動や方針が一貫して見えるように一定の理屈をたてて、伝統を守っているふりをする。これはある意味でこまかしだが、ごまかしをすることで持続しつつ訂正していくのだ。
 現在の日本で改革の大きな障害となっているものとして「空気」つまり社会の無意識的なルールがあげられる。これは、みなが他人の目を気にするだけでなく、同時に気にしている他人もまた他人の目を気にしているという入れ子の構造をもっているので、厄介な代物なのだ。このような空気に抵抗して変えようと主張すると、そういう主張があらわれたという新たな空気の問題として理解されてしまう。空気は空気批判も空気に変えてしまうので、空気という状況は変わらないのだ。そのとは、そのような空気から脱しようとすれば、空気批判になってしまうので、同じ空気のなかにいるようでいながら、少しずつ違うことをすることにより、いつのまにか本体の空気が変わっているというような仕方を考えたい。つまり、いつのまにか空気が変わっているというように状況を作り変える。それが「訂正する」ということだ。
 日本には、もともと、ヨーロッパとは違う「訂正する力」があった。古くから中国や西洋からさまざまなものを輸入してきたが、肝心なところで日本の伝統は変わっていない。そういうしたたかさがあった。しかし、現代の日本人は、それを忘れつつある。今の日本には訂正できない土壌があるという。日本社会で全体で聞く力、意見を変える力が失われてきている。「以前に言ったことは間違っていました」という説明ができない。そんなことをしたら徹底的に攻撃され、計画が潰されると、警戒してしまう。そこで、官僚型答弁のような言説が横行し、行政の施策のようにいったん決めたことは何があっても完遂させられる。訂正できる土壌には信頼関係が成立していることが必要で、それがないと、関係者は訂正すると弱みを見せることになってしまうので、構えざるをえない。「変わる」ということに否定的なニュアンスが含まれてしまう。
 また、訂正する力は現状を守りながら変えていく力ことだが、「声をあげる」に近いが、それとは違う。声をあげることは、既存の価値観異議申し立てで、必然的に反発を伴う。これは、さきほどの空気への批判が空気になると似たようなところがある。これに対して訂正する力は「このルールはおかしいが、じつは甲解釈できるものだ」と行動で示し、そのあとで事後承諾を求める。声をあげるとは順番が逆なのだ。単に批判するのではなく、行動により対案を提案することでもある。このことには決断がともない、そのためには勇気が必要で、一方、受ける側にも信頼や異なった意見を聞く寛容さが求められる。
 一方で、訂正する力は自分に都合よく現実を見ようとする再解釈とは違う。現実を直視する。それは、現実からのフィードバックを絶えずうけながら、訂正を繰り返すということだ。つまり、訂正する力とは持続する力でもある。
 また、訂正と修正はよく似た言葉だが、本質的なところは違う。訂正する力は歴史修正主義とは違う。訂正する力は過去を直視し、記憶する。つまり、記憶する力でもある。
 今の日本では、これらの力の発揮が阻まれている。先ほど触れたように社会全体に信頼が失われ、皆が安直な「正しさ」に飛びついている。単純に正しいか悪いかの二択になると、誤りを認め訂正するということができなくなってしまう。それは、訂正する力を十全に発揮するためには、訂正行為の梃子となる外部が必要になるということだ。
 例えば、我々は、日常の会話では訂正を平気で何度も繰り返している。そもそも、我々が会話をしているとき、同じ言葉を同じ意味で使っているとは限らず、相手の顔や反応を見ながらどんどん意味を変えていっているのだ。それが正しいか正しくないかだけにこだわると相互の信頼が失われ、会話が成立しなくなる。こういうのが成立するのは科学の世界のような特殊なコミュニケーションの場に限られる。このような場では、人間の身体とか感情といったものが切り捨てられる。そういう人間のあり方に沿ったのが訂正する力なのだと言える。もともと、民主主義も、そういう人間のあり方に沿ったものだったはず。そこには、人間というものは時に感情で動かされ、判断を誤る弱い存在であるという認識がある。誤ると自覚しているからこそ、訂正することに意味がある。
 これら外部は文脈と言い換えることもできる。どんなメッセージにも、必ずそれを支える余剰部分という外部がある。それを削ぎ落して本体だけを残そうとすると訂正する力は衰退してしまう。というのも、余剰部分がないと読みが単純化してしまい、「この人はこういう表現をしているけれど、本当に言いたかったのは別のことで、今の時代に置き換えるとこういうことなんじゃないか」という読み換えができなくなってしまうからだ。
 だからといって、全く光明がないわけでもない。例えば、動画配信などの新たな伝統も生まれている。それらは、余剰の情報を提供することで、訂正する力を新たに強める可能性を秘めている。

2024年1月14日 (日)

東浩紀「訂正する力」

11112_20240114232201  今の政治経済が低迷する日本において必要なのは、大胆な改革ではなく、ひとりひとりがそれぞれの現場で現状を少しずつ変えていくような地道な努力であるという。それは、過去を再解釈し現在に生き返らせることで、それを本書では「訂正する力」と呼ぶ。
 日本のような成長して、ある程度豊かになった社会では、その豊かさの維持を考えなければならないはずで、何かを維持するとは、古くなっていくものを否定して、リセットするのではなく、肯定的に語ることになる。それが成熟した社会のあり方で、これを個人の話に置き換えれば、老いを肯定することになる。老いるとは、若いころの過ちを訂正し続けるということで、同じ自分を維持しながら、昔の過ちを少しずつ訂正していくことだ。
 同じ著者が本書の少し前に刊行した『訂正可能の哲学』が理論編だとすれば、本書は実践編に当たるのかと思って読み始めたら、どうもそうではなく、『訂正可能性の哲学』は訂正ということについて求心的にこういうことだと追求しているのに対して、本書は遠心的にこっちもあっちもと様々な方向に考察が広がっていくという、方向性が異なるものだと思う。いずれにしろ、両者とも「訂正」という行為をキーワードにして、ダイナミックな視点で見たらどうなるか、という視点の転換を提案しているのではないかと思う。
 でも、本書も訂正する力で訂正されるということは、述べられていないが、そのときは、どうするのだろう。

 

2024年1月13日 (土)

斎藤慶典「デカルト─「われ思う」のは誰か」(5)~第1章「われ思う」のは誰か 3.「私」とは何か

 ふつう「私」といえば、それは人間であるかぎりの1人の人物の誰か、その当人のことだ。ところが、デカルトは、私とは人間のことではない、という。方法的懐疑の終着点で出会っているものは人間ではありえない。なぜなら人間とは現実世界に存在するものたちの一種であって、しかも理性を備えたものということになっているが、現実世界の存在や理性といったことは夢や狂気の下で潰え去ったことを経ているからである。
 ではいったい「私」とは何か。「私」ということで思いつくものをひとわたり列挙し、それらを斥けた後、「思考すること」はどうかと問う。先ほどの「私が何ものかであると私が思考する限りで」という限定に立ち帰る。「ここに私は見つけ出す、思考がそれである。ただ思考だけが、私から引きはがすことのできないものである」。だが、私が思考だと言っても、それが正確に何を意味するかがあらためて問われなければならない。そこで、「思考するもの」とはどのようなものか想像力を駆使して捉えようとするが、失敗してしまう。なぜなら、何かのものを想像しようとすれば、それはわれわれがものとしてすでに知っているものの像を形成することにしかならないからだ。方法的懐疑の終着点で出会った「私」は、そのようにものには当てはまらない。そのようなものは疑わしいものだったのである。したがって「私」はいかなる意味でもものではない。
 そこで、デカルトは、「私」とはむしろ、その想像する力を含めて、疑ったり。理解したり、意志したりする当のもののことだという。それは「想像されたもの」との対比でいえば「想像する力それ自体」だと言う。感覚したり、疑ったり、理解したりするそのような力とか働きそれ自体が「私」なのだと言う。何かが何らかの仕方でそのようなものと「思われ」たのであればつねそのような「思われ」の中で「思われ」たものが実は「思われ」た通りのものではなく、そのかぎりで欺かれていいようとも、現にそのように「思われ」ているそのことは、「疑いえない」。ここで、この「思われ」ると言われる事態こそ「私」の正体だとされた「思考すること」の内実なのである。ここで、デカルトは「私」を「思うこと」として捉えている。デカルトが方法的懐疑の頂点で出会った「疑いえない」ものとは、「思考すること」そのことであり、それは「私には…と思われる」ということに舗他ならなかった。
 いまや「私」は端的な「思考すること」である。ただし、ふつう「思考すること」といえば、それは世界内の一人物であるかぎりでの人間として私が行う振る舞いのことを意味してしまう。そうではなくて、デカルトが言おうとしているのは、「思考する」のが人間としての私であるか否かは疑おうとすればいくらでも疑えるのに対して、いま・ここに「思考する」という事態が起こっていることだけは「疑いえない」ということなのである。
 たしかに「思考すること」は、それが成り立つための不可欠な要素として、それを「思考するもの」とそれによって「思考されたもの」を、それらが世界内の同一人物なのか、物体なのかといったこととは独立・無関係に含んでいる。ふつうの場合は、「思考するもの」に「私」の名前が与えられる。だが、デカルトが言おうとしたことは、端的な「思考すること」こそが「私」の正体だということである。つまり、「思考すること」の内にその不可欠なメンバーとして含まれている「思考するもの」が「私」なのではなく、「思考するもの」と「思考されたもの」の両者を含んだ一つの統一的な事態としての「思考すること」こそが「私」だったのである。そのような「私」のみが「疑いえない」のである。そうであれば、そのような「私」を「思考するもの」と言い換えてしまうのは取り違えである。
 この場合、「思考すること」は「思考するもの」とは区別される。「思考すること」をそれ自体として考察するということになる。「思考する」とは何かを思考することであり、その何かとは「思考されるもの」である。したがって、「思考されるもの」なしに「思考する」ことはありえない。「思考するもの」は像として捉えられる何かであり、その点では「思考されるもの」にもなる。一方、方法的懐疑のプロセスで「私」は像を結ぶものとして存在は「疑わしい」として対象外にされる。「思考するもの」は「思考する」ために必要という要請にしたがってはじめて登場するという、あくまでも「思考する」があって、それについてくるもので方法的懐疑の終着点に残るものではない。ここで要請された「思考するもの」は、「思考する」の外にあって「思考する」を引き起こす原因であるような遂行者ではなく、それ自身が「思考する」であるような何か、それ自身において「思考する」が実現されているような媒体になりきること。この媒体は、ものではなく、それを通して、そこにおいて「思考する」。このようにそれ自身が「思考すること」そのことであるような何か、それをデカルトはあらためて「私」と呼んだのではないか。これが「私」とは「思考すること」そのことだ、というデカルトの奇妙な命題の言おうとしていることではないか。
 このような「私」はものとしての私(思考するものとして私)とは別物で、「思考すること」と「私であること」とが重なり合っている。この場合、「思考すること」と「私であること」は同じことなのである。そしてこの後者の事態に、デカルトは「私」とした。われわれが日常で用いる言葉の中にも、単に世界内の一人物という意味ばかりでなく、当人という意味でのある種の直接性・臨在性の意味合いもある。この直接性・臨在性を、誰かが何かに居合わせているという意味から解放して、改めて用いるのである。さらに、「私」という実体に何らかの属性を帰属させることをやめるのである。したがってこの意味での「私」に関しては、もはや「私はデカルトである」とか「私は存在する」という言い方は成り立たない。それどころか、「私は存在する」という言い方すら、ふつうには「私」という実体にその属性として「存在する」という述語を帰属させる以外ではないのだから、ここでの「私」には使えない。
 つまりも「私が何ものかであると私が思考する限りで」「私はある、私はは存在する」というのは、私という「思考するもの」が「存在する」ことでもなければ、「思考すること」という事態がどこかに「ある」というのでもない。そうではなく、「私」や「存在する」や「思考する」はすべて同じひとつのことを言い表そうとしているのであり、それらの言葉の共通の源泉を指し示そうとしている。「私」=「ある」=「思考すること」とでもなるだろう。そして、この同じひとつのことを端的に言いあらわす言葉はない。
 まとめると、方法的懐疑の終着点に出会ったものは、具体的にはこういうことだ。「1+1=2であると私には思われること」は、かりに1+1が実は2ではないとしても、それがそのように思われているかぎりで端的に存立しており、この存立を疑う余地はどこにもないということである。「思考すること」とは、「私には…と思われること」だが、このときの「私には」という部分に現われる「私」は、普通にそれを解すれば「…」という「思われるもの」をそのように思っている「私」、すなわち「思うもの」として私以外ではないから、デカルトが「思考すること」と等置した「私」ではない。「私」とは、「…と思われること」の端的な存立のことなのである。
 この章の問いである「われ思う」のは誰にたいしては、この問いを普通の意味で答えれば、その都度の私ということにる。デカルトであったり、あなたであったりする私である。だが、デカルトが「私」の名で呼んだのは、そうではなかった。それは「思うこと」そのことと完全に重なり合い、等しいような「私」であった。それは「思うこと」そのことと完全に重なり合い、等しいような「私」であった。それは「思うこと」の遂行者のことではなかった。そして「誰か」という問いが「思う」という行いを遂行する人物を問うことでしかないから、デカルトにおいて、この問いに答えることはできない。「われ思う」のは誰でもない。

2024年1月12日 (金)

斎藤慶典「デカルト─「われ思う」のは誰か」(4)~第1章「われ思う」のは誰か 2.狂気

 次にデカルトが検討するのは、それ自体で存在していると考えられる「理念」の世界である。「理念」とは、知覚される個々の経験対象とは独立に、われわれがそれを思考する限りそれ自体で存在していると考えられる普遍的なものである。その典型的な例として数学をあげることができる。1+1=2は、古代ギリシャにおいても現代の日本でも同じものであるし、小学生が計算しても、著名な数学者が計算しても同じものである。1という数はものではなくものとして現実世界に存在していない。数字の1は現実世界に存在するものとは別の仕方で存在しているそれは見ることも触ることもできないが、思考される限りで存在している。理念の典型としての数学的対象は現実世界の存在とは独立に、すなわち現実世界が存在しようがしまいが、そのこととは無関係にそれ自体として存在している。1+1=2は現実世界の存在よりも確かではないか。
 デカルト、それにたいして否と答える。それは誤りうるからだ。個々の数学的問題にわれわれが間違えるからだ。とはいえ、個々の計算ではなく加法の法則、はてまた数学という理念という全体は確かではないのか、に対して、デカルトは「欺く神」ということを言う。こういったものは神が創ったものであるが、その神が、これらを人間の理性をそもそも根本から誤るように仕立て上げたかもしれない、という。そうなると、狂気と呼ぶしかない。理性が狂気に陥っている可能性があるというのだ。
 そうなると、「真理」に近づく途はすべて断たれているように見えてしまう。知覚も理性も信用できないのだとすれば、われわれに何が残っているというのか。もはや、われわれのもとには本当らしく思われるものはあっても、「確かな」「疑いえない」ものはないのか。そして、デカルトは気がつく。もし、われわれの理性が根本から欺かれているのだとしても、少なくともそのように理性を欺かれた私は存在しているのでなければならない。そうだとすれば「わたしはある、私は存在する」ということだけは「疑いえない」と言ってよいのではないか。「私が何ものかであると私が思考する限りで」「私はある、私はは存在する」。これは、有名な「われ思う、ゆえに我あり」という命題を想起するだろう。しかし、こういう筋道を考えると、「われ思う、ゆえに我あり」の「ゆえに」が、この場合にはない。いわば「われ思う」の部分は「私が何ものかであると私が思考する限りで」という限定の文章として、「わたしはある、私は存在する」を修飾・限定しているだけなのだ。「われ思う、ゆえに我あり」ではなく、限定をともなったかぎりでの「わたしはある、私は存在する」なのだ。つまり、「わたしはある」をふつうの意味にとってはならない。そうしてしまえば、これは方法的懐疑の終着点を示す結論として、「疑いえない」ものの探求は終わるはず。ところが、彼は、『省察』で、まだ十分この言明を理解していないとして、この言明を続けるのである。この先で、「わたしはある」の新たに意味に直面するかもしれないのだ。

2024年1月11日 (木)

斎藤慶典「デカルト─「われ思う」のは誰か」(3)~第1章「われ思う」のは誰か 1.夢

 例えば、目の前にある本について、その色や形や重さが、その本の「ありのままの姿」を示しているのであれば、私は、その本についての真理を所有している。しかし、色や形は見る角度や照明の光によって変わってくる。本がたんにそう見えるだけでなく、本当にそうである、ということが、絶対に疑いえないかをめぐってデカルトの探求と吟味が始まる。この探求は、「真理」の探求であるはずの学問が自らの正当性をどこから汲み取ってきているのかを明らかにする試みであり、彼に言わせれば、そんなこと今まで誰もやってない。
 この場合、「真理」とはあるものの「ありのままの姿」であるというのは本当か、「ありのまま」とはそもそもそどういう状態なのか、「ありのまま」であることとそれが「疑いえない」こととは同じなのか、といったことはデカルトにとっては問うまでもない自明のことで、探究の前提となっている。この自明の前提について彼は疑ったことはなかった。
 そこで、彼は方法的懐疑を進める。ほんの僅かでも疑いの余地が残るものに対しては「偽」とみなし、斥けなければならないというもの。なお、これは疑いの余地のうるものは偽であるというのではない。何かを偽であると認定するためには十分な根拠が必要で、そのたには膨大な時間と労力を要する。そこで、少しでも疑わしいところがあれば、「疑いえない」のではないから、そういうものはさしあたり考慮の対象かに外すことはできる。それで、偽とみなして斥ける(対象から外す)という操作をするというものである。これは、疑うためではなく、確かなものを求めるためのものであるからだ。
 方法的懐疑による最初の吟味の対象となるのは感覚を通して与えられるものである。いわゆる「知覚」である。これには、見違いや聞き違いが避けられない。だから、疑いえないものではない。とはいっても現実の世界全体が存在することは疑わしいとは、誰も思わないだろう。この世界の存在を疑いつつ、日々の生活をおくっている人などいないだろう。だからとして、確からしいことは、疑いえないと同じではない。そこで、デカルトは考える。この現実の世界の全体としての存在それ自体が、夢で見られたという可能性はないのか、と。そこで、デカルトは夢と現実を分かつ唯一の基準を「醒める」という経験にあるという。夢は醒めた後で、はじめてそうと知れるものだからである。そうなると、この現実が現実であって夢でないと断言するのは、原理的に不可能となる。醒めた時だけ、夢ではない現実だということができる。醒めたかどうかは、確かではい。したがって、個々の感覚を通してわれわれに与えられるものが「疑いうる」というだけでなく、われわれ自身がその中に存在すると思われている現実世界の全体としての存在もまた疑いうるものであるということ。方法的懐疑としては、それは斥けなければならないということになる。そうだとすれば、現実世界の一員として考えられている限りでの私自身の存在もまた「疑いえない」ものではなく、方法的懐疑では斥けられなければならないものとなる。言い換えると、方法的懐疑の途上で「私」が登場するとすれば、少なくともそれは現実世界に存在する私ではないということになる。
 このように夢の懐疑を前にしてわれわれの現実世界に関するすべては、「疑いえない」ものではないことが明らかになった。

2024年1月10日 (水)

斎藤慶典「デカルト─「われ思う」のは誰か」(2)~序章 哲学とは何か

 デカルト多数の書物との対話や世界遍歴を通じて、すべてが「不確か」で「疑わしい」ということに気づいた。そして、当時の哲学では、そういうことは論議の的にならないことに失望したのだった。そして、彼は、そのことに驚き、それが彼固有の哲学へと、彼を押しやった。哲学は驚きに端を発する。ウィトゲンシュタインもハイデガーもそうだった。
 このことを別の側面からみれば、デカルトは当初から「確かなもの」「疑いえないもの」を求めていたと考えられる。「確かなもの」が得られると期待して学問をしたにもかかわらず、そうしたものに出会わないことに、彼は驚いたのだ。では、彼は、なぜ「確かなもの」を求めていたのか。それは「私の人生をよりよく導いていく」ためだった、と彼は書き残している。「自分の行いを明らかに見通し、確信をもってこの人生を歩いてゆく」たには、「どうしたら真なるものを偽なるものから見分けられるかを学び知る」ことがぜひとも必要であり、その「真なるもの」の真理たるゆえんが「疑いえない」という確かさだった。
 自らの人生とすべての学問を支えるに足る「確かなもの」「疑いえないもの」を発見すること、たとえすべてが疑わしいのだとしても、すべてが疑わしいというそのことだけは「確か」だと言える地点に到達すること、これこそがデカルトを駆り立てた原動力であり、そのような「疑いえない」もののみが「真理」の名に値する。哲学とはこのような意味での真理の探究なのである。そしてこのような真理を求めて飽くことなく探究する、可能ならばそのような真理に支えられて自らの生を導くこと、それがよりよく生きること、すなわち「よき生」なのだった。
 そこで、著者は二つの疑問を提示する。ひとつは、「確かな」「疑いえない」ものが「真実」であるということについて、デカルトが疑った形跡はないということ。もうひとつは、そのような「真理」を求め、それにしたがって生きることが「よりよき生」であるのはなぜか。これについてデカルトが疑った形跡はないということ。

2024年1月 9日 (火)

斎藤慶典「デカルト─「われ思う」のは誰か」

11112_20240109230801  10年前に読んだ本の再読。
 デカルトは「私の人生をよりよく導くため」、「自分の行いを明らかに見通し、確信をもってこの人生を歩いてゆく」ためには、「どうしたら真なるものを偽なるものから見分けられるかを学び知る」ことがぜひとも必要であり、その「真なるもの」の真理たるゆえんが「絶対に疑いえない」「確かなもの」であるとして、確かなものを求めた挙句、方法的懐疑に行きつく。「われ思う、ゆえにわれあり」という、しかし、このわれがあるのを思うは、在るわれではありえない、となるとそこに他者の存在が、しかも絶対的な他者がどうしても必要になってしまう。そう考えると、デカルトが彷徨いあるいた道というのは、なんもいえない荒涼とした風景だったのではないか、思われてしまう。10年前は、そんなように読んだようだった。
 だが、この本は、デカルトについて書かれたのではなく、デカルトを読んで著者がどう考えたかを綴ったというものだった。自らの人生とすべての学問を支えるに足る「確かなもの」「疑いえないもの」を発見すること、たとえすべてが疑わしいのだとしても、すべてが疑わしいというそのことだけは「確か」だと言える地点に到達すること、これこそがデカルトを駆り立てた原動力であり、そのような「疑いえない」もののみが「真理」の名に値する。哲学とはこのような意味での真理の探究なのである。そしてこのような真理を求めて飽くことなく探究する、可能ならばそのような真理に支えられて自らの生を導くこと、それがよりよく生きること、すなわち「よき生」なのだった。このとき、疑いえないことが確かであるとどうして言えるのか、そして、確かであることが真実であるとどうして言えるのか、という疑問を呈する。
 また、「われ思う、ゆえにわれあり」というが、そこにいたる方法的懐疑のプロセスで、世界があるということは疑わしいとされたわけで、その世界のなかには「われ」もあるのだが、このときすでに「われあり」は疑わしいとされているはず。それを「われ思う、ゆえにわれあり」というのは矛盾があるという。それはたしかにそうだと思う。
 そこから、著者は、この「われあり」は「われ」が「ある」ということではない、と考え始める。それは無理があるのでは、と思うが、それがだんだん面白くなってくる。結局、最後までついていけなかったが。

 

2024年1月 5日 (金)

今年の年賀状

 毎年、年賀状は印刷やパソコンのプリンター印字にすることなく、手書きにしてきた。1枚1枚、送り先の人の顔を思い出しながら、ある時は筆で、ある時はペンで異なる文面で、宛名まで、1文字ずつ書いた。時間もかかるし、けっこう腕も疲れるもので、気力や体力が充実していたときも30枚が限界で、それ以上は年賀状の数を増やすことはできなかった。それで、昨年受け取った相手に、その年の年賀状を送ることにしていた。それが、ある年から年賀状を書く枚数が減り始めた。60歳で、会社の定年を迎えた年は、会社関係者への年賀状をやめたことで、年賀状の数が以前の半分以下となり、それ以降も減り続けた。今年は、ついに一桁になった。それでも、日常、ペンを握る習慣がなくなったので、書くこと億劫になり、今回初めて印刷済みの年賀状を買った。次回からは、どうしようか…

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