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2024年2月 6日 (火)

稲葉振一郎「不平等との戦い─ルソーからピケティまで」(3)~第1章 スミスと古典派経済学─「資本主義」の発見

 アダム・スミスの『国富論』が画期的だったのは、浩瀚な「神の見えざる手」ではなくて、生産要素市場を見出したということ。つまり、市場で売買される商品を作りだすために投入される資源を生産力の源として、人間の「労働」、人間が生産できない自然である「土地」そして「資本」の三つを見出したうえで、それらが市場で取引されると考えた点にある。これらの生産要素の市場を価格メカニズムとして解釈し、そして経済を穀物とか鉄とか、あるいは農業とか工業とかといった具体的で個別的な物財や産業で捉えるのではなく、抽象的で一般的な視点で考えたところにある。例えば、「労働」についていえば、スミスが問題にしているのは、農業の現場での農作業だの家畜の世話だの、あるいは製造業の現場での熟練職人の手仕事や監督だの下働きの単純作業だのといった、あれこれの具体的な作業、仕事のことではない。そのようなあらゆる種類の作業、仕事は多様であっても煎じ詰めれば、人間がやることにすぎない。手仕事として見るなら、荷運びや畑の草取りといった単純作業は具体的な身体運動としては違うことをやっているとしても、時間当たりで見た疲労の度合などで測ると、ほとんど同じような休息や栄養補給で補償できるもの、つまりは同じ「労働」と見なすことができる。もっと複雑で予備知識や訓練を要するような仕事なら、単純に同一視、等価視できないかもしれないが、訓練や習得に必要なコストを、お金や時間といった同じ尺度で測ることができれば、同じ種類の「労働」に還元することができる。スミスは、賃金という価格で取引され、その需要が市場で調整されるものとみなしている「労働」とは、せんじ詰めれば、このような抽象的で一般的な、人間であれば誰でもできるような「労働」のことであって、あれこれの具体的な仕事、作業のことではない。そしてもこのような意味での「労働」「資本」「土地」か、それぞれ競争的市場において取引され、価格メカニズムに従ってその需給が均衡させられている、という風にスミスは捉える。「労働」の価格は賃金であり、「資本」の価格は利子で、「土地」価格は地代である。
 そして、スミスの系統を継ぐ古典派経済学では、すべての人々が市場の中で生きる社会は、人々がそれぞれ持っている資源の種類の違いに応じて構造化される。すなわち、土地を所有する地主、資本を所有する資本家、労働を所有する労働者の三大階級に社会は分かれる。スミス、賃金という価格の変化対応して、労働の供給が既存の労働の在庫調整、つまりは労働時間や仕事量の増減(例えば残業)にとどまらず、生産調整、つまりは労働人口そのものの増減(例えば、解雇、失業、)によって変化するという。あるいは賃金が上昇すると兎同社の所得が上昇し、生活水準があがく、結婚が早まり、子供が増えて人口が増える。そして、賃金上昇、労働者の所得向上には限度があり、生存水準を保つ以上のレベルにはならないという。このことは、労働者は賃金の一部を貯蓄して資本を生み出し資本家になる可能性を一般的に否定していることになる。労働は使ったら消耗するもので、賃金はその消耗を補填するだけで、それ以上の何かをくわえるものにはならない。それに対して、資本は減耗しても消耗し尽くされることはなく、利潤を生活のために使いなながら、貯蓄や投資にまわして増やすことができる。
 つまるところ、不平等はルソー的な構図では、所有権制度の下での持てる者と持たざる者との区分として定式化されたが、スミスなどの古典派経済学では、資本主義の下での、蓄積する富としての資本をもっているかどうか、資本蓄積の主体であるかどうか、として定式化し直された。これ以降19世紀から20世紀にかけて、資本主義経済の下での不平等現象は基本的に、この枠組みを軸として理解されるようになる。

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