稲葉振一郎「不平等との戦い─ルソーからピケティまで」(4)~第2章 マルクス─労働力商品
労働力というアイディア、そして労働力商品という概念は、資本家と労働者の間の不平等を説明するために導入されたものだ。自由な市場における取引は、双方の自発的な合意に基づいているのが普通なので、そこで交換されるもの同士はその限りで等価である。資本家が労働者を雇う場合も同様であるはずだが、資本家は儲けをふやし、労働者は貧しいまま。マルクスは、その理由を労働力商品の特異な性質に求めた。そのポイントは、労働力とは労働する能力、労働がそこから出てくる源として想定されていて、労働の営みそのものとは区別されているということ。マルクスはスミスの「労働」を「労働」と「労働力」を区別し、取引の対象となるのは「労働力」の方だと主張した。賃金は労働の対価ではなく労働力の対価だという。マルクスによれば商品の価格は市場における需給できまるが、長期的にはその生産に要したコストで決まる。そのコストの内訳には支払われた労賃も含まれる。この労働ベースで換算したコストを「労働価値」という。
労働者の賃金が、彼の生計を支えるに足る水準を満たさないと社会は成り立たない。そこで、賃金の自然的な基準は標準的な家族の生計費にだいたい一致する。それを、マルクスは、賃金は労働力商品の価格である、という。その生計費の内実を考えると、衣食住や教養娯楽に支出するお金ということになる。つまり、マルクスの考える労働力商品の投下労働価値とは、労働者と家族が普通の暮らしの中で購入し消費していく商品総体の投下労働価値ということになる。そして、マルクスが言いたいのは、この労働力商品の投下労働価値と労働力商品が生み出す総労働価値とは全く別の量であるということだ。普通は、後者が前者を上回る。そうでなければ資本家は労働者を雇っても利益を出せない。この後者が前者を上回る分が「剰余価値」で、資本家の利潤の源泉なのだという。
このように、マルクスは労働を特別視した。人間が経済的な価値を与えるもののほとんどは労働が関与して作り出されたものであるから、マルクスは、労働がものに経済的価値を与えられる特別なもの、価値の源泉であると考えた。しかし、労働によらない製品は少なくない。例えば自然から与えられるものがそうだ。そこで、労働が価値の源泉という主張は反証されてしまう。
むしろ重要なのは、労働と労働力を別物と区別したことだ。そもそも、土地や資本の取引価格は丸ごとの売買価格ではなく、使用料である地代や利子なのだ、これに対して労働の場合の賃金とはどういうものなのかはっきりしなかった。土地や資本の使用に対する報酬が地代や利子であるなら、労働に対する報酬が賃金ということになるが、この場合、労働において、土地本体の価格や資本のまるごとの価格に対応するものは何かはっきりしない。そもそも、マルクスは労働力を資本ではなく商品であると言っている。つまり、労働力は土地や資本とは違って、売り渡されると消耗してしまうものだ、と考えていた。一方、労働者は、ある一定の制約つまり労働契約の下で、雇主によって人身を支配される存在である。労働者の自由は契約する際に発揮されるが、契約関係に入っている間は制約される。端的にいって、雇主と雇人の関係は、非対称な支配服従関係として身分関係だ。マルクスが雇用において売買されるのは労働ではなく労働力商品であるといったのは、このためだ。労働と労働者を切り離すことはできない。
マルクスは、スミスたちの古典派経済学と同じように賃金上昇には限界があると考えていた。しかし、その理由を彼らとは別の床に求めていた。スミスたちは、賃金が労働者の生活水準ギリギリをあまり大きく超えないのは、賃金、収入が上がればより早く結婚し、より多くの子供を産み、それがやがては労働供給を増やし、需給バランスから価格は上がらなくなる、というわけだ。マルクスは失業者の存在により理由を説明しようとした。資本主義経済においては、厳しい競争が資本家に対して、つねに合理化の圧力をかけてくる。それで、資本家は、できるだけコストを下げようとする。そこで、労働強化をする。それは労働者の反発をうけるので、技術革新で生産性を上げようとする。機械による効率化により従来10人必要だった作業を5人でできるようにする。そうすると人員を減らして、賃金の支払いを減らすことができる。その結果、失業者が生まれる。
まとめると、資本主義経済という商品のみならず労働、資本、土地までもが市場メカニズムに支配される社会では、経済的な不平等を生み出す中心的なメカニズムは資本蓄積、経済成長なのだ。貯蓄し、投資する主体は資本家だ。他方、労働者は賃金が生活水準あり上回ることはなく、貯蓄や投資をする余裕がない。そこで、労働者は自分の身ひとつ、手持ちの労働力で稼ぐしかなく、稼ぎの元手、収入源を投資して賦与していける資本家との間で、長期的では格差が拡大していく。マルクスは、私的所有と市場経済の社会では不公正なことが起こっているというルソー的な視点に立って不平等の批判をしようとしている。それは、スミスによってすり替えられた問いをルソーの方に引き寄せようとするものであった。
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