無料ブログはココログ

« 稲葉振一郎「不平等との戦い─ルソーからピケティまで」(6)~第4章 経済成長をいかに論じるか | トップページ | 稲葉振一郎「不平等との戦い─ルソーからピケティまで」(8)~第6章 不平等ルネサンス(1)─「クズネッツ曲線」以後 »

2024年2月10日 (土)

稲葉振一郎「不平等との戦い─ルソーからピケティまで」(7)~第5章 人的資本と労働市場の階層構造

 古典派・マルクス派の経済学では、どのような財産、生産要素を保有しているのかが人々の属する階級をきめ、行動原理を規定していくと想定されていた。成長問題と分配問題とは不可分というわけだ。これに対して新古典派では、賃金水準が上がり、生存水準を上回るようになれば、当初は財産を所有せず、他人に雇われて労働者になるしかない無産者にも、資本を蓄積する機会が大きくなると考える。それ以外にも新古典派の想定を支えるものとして金融システムの発展をあげることができる。とくにもここでは信用取引を取り上げる。信用取引とは、異時点間取引ということで、例えばお金の貸し借り、Aはある金額を一定の期間経過後に一定の利息をつけて返済してもらうことを条件にBに貸し出した場合、貸し出しの時点と返済の時点、取引の開始時と終了時との間には、時差がある。ここで、Bは約束通りに返済しない可能性もある。Aは、その危険を冒してでもあえてBを信用して取引をする。
 古典派・マルクス派の想定の下では、投資の主体はすでに資本をもち、利潤を新規投資の財源に出来る資本家と地主だけだったが、金融市場が発展し、無産者でも理論的には、金融業者から資金を借り受けて、投資を行うことができるようになる。
 また、投資の大衆化には、株式会社と株式市場も貢献している。古典派が想定する典型的な企業は資本家が同時に経営者であり、会社を丸ごと所有して経営するものであった。ところが株式という仕組みによって、会社を丸ごとではなく、所有する株式の持ち分だけ所有することができ、株式を持つことで人は、会社があげた利益から配当を受けることができ、株主総会を通じて経営に参画することもできるようになった。そこで、無産者も資本家になる可能性が開けるということになる。
 このように、資本・富の分配が問題となる場合、階級間格差から個人間格差へと変化していったが、同じことは労働経済の領域でも言える。かつての資本家と労働者の関係は労働者の集団である労働組合と資本家の側は集団としての業界団体であった。ヨーロッパで19世紀までの労働組合運動をリードしたのは機械工など高度な熟練技能者たちの職能別組合であり、彼らはどこの職場でも通用し、かつ経営者に依存しない自身の技能によって企業の外側に生活基盤を置く存在であった。彼らは現在の職場が気に食わなければ容易に他所に移動するし、自己資本が貯まれば自ら経営者に転じるような存在だった。雇主たちは団結して組織で彼らに対応していた。それが19世紀末以降は、重工業が発展し、大企業が増えてきた時代の労働運動の主役は、巨大企業に対して、その企業の外側にはもはや容易に出られない労働者たちが企業の内側で団結するタイプの産業別組合になる。巨大企業では、技術もまた労働者が自らの熟練職能として支配できるものではなく、企業の経営者や専門技術者に占有され、知的財産となり、機械にともない資本設備とは切り離せないものとなる。そこでは、労働者の技能は職場での固有の経験に依存するところが大きく、職場を離れても通用するものではなくなってしまう。さらに、工場の生産設備が巨大で複雑なシステムと化し、一人の労働者の担う職務はそのほんの一部の断片にすぎず、かつ単純で熟練を必要としないものになっていた。そのような支配の下では、気に食わなければ他所へ行くということを労働者は雇主に言えなくなる。その代わりに、労働者が団結して気に食わなければ働かないというストライキが交渉手段として採られるようになる。それが20世紀後半の経済発展に伴い、伝統的に労働組合が基盤としてきた製造業の工場労働者の比率が減少して、商業・サービスあるいは事務労働者の比率が増えてくると、労働組合も変化する。組合の組織率が低下し、企業レベルでの組織である企業別組合に運動の重心がシフトしていった。これは、労使関係の主導権を握るのが労働者から雇主に移っていったプロセスとしても見ることができる。
 19世末ごろの巨大企業の労働者は長期雇用を志向するようになる一方で、不況などで一旦失業すると再就職まで長い期間を要するようになる。このような状況下で企業の側は長期的に雇って現場の中枢を担う基幹労働者は、景気が悪化しても簡単に解雇しないようになり、代わりに末端の労働者を基幹労働者とは別の身分で雇うようになる。例えば、正規と非正規という区別。そうなると、労働問題は労働者対雇主の対立ではなく、労働者同士の格差・利害対立に移っていく。
 ここまで見てきたようなロジックは古典派・マルクス派経済学によるものだ。これに対して新古典派の立場からは、違って見えてくる。すなわち、人間社会の中で市場が成立していない場面でも、人間は経済学が想定するような合理的意思決定を行うことが多い。それが「人的資本」という考え方だ。人的投資の違いが、その後の賃金、収入や労働条件の違いを生み出すのだという。このような見方をすると、労働市場の階層構造を労働者側の人的投資(訓練費用負担)能力の差によって説明する。これは、新古典派による分配問題と生産問題の分離という方向性に沿ったものだ。労働者間の所得格差は、労働対資本の構図ではなく、労働者間の格差になり、その労働者間の格差は、能力差と人的投資の差によるものとされる。それが意味するものは、第一にそれは資源の活用という効率的なものであり、第二に、その格差を放置しようと、あるいはその格差を修正するたに人的投資の分配を平等にしようと、資本市場が十分に効率的であれば、どちらでも差はないということになる。
 しかし、企業の側からも、そうとはいえない問題が生じてくる。このような労働者間格差は労働者を個人でバラバラなものとして見るものだが、職場の仕事にはチームワークも必要だし、このようなものでは実際の労働者のモチベーションは低いままで、生産性は高まらない。

« 稲葉振一郎「不平等との戦い─ルソーからピケティまで」(6)~第4章 経済成長をいかに論じるか | トップページ | 稲葉振一郎「不平等との戦い─ルソーからピケティまで」(8)~第6章 不平等ルネサンス(1)─「クズネッツ曲線」以後 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 稲葉振一郎「不平等との戦い─ルソーからピケティまで」(6)~第4章 経済成長をいかに論じるか | トップページ | 稲葉振一郎「不平等との戦い─ルソーからピケティまで」(8)~第6章 不平等ルネサンス(1)─「クズネッツ曲線」以後 »