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2024年2月25日 (日)

野矢茂樹「言語哲学がはじまる」(3)~第2章 文の意味の優位性

 そもそも対象の把握は事実の把握とともになされるので、事実と切り離して対象だけを考えるということはされない。例えば、ミケという一匹の猫を見るとき、ミケは必ず何らかの状態にいるか何らかの動作をしているわけで、ミケが寝ているという事実に出会う。ミケという対象だけに出会うということはない。同じように、ミケは猫だという事実にも出会う。しかし、ここまでの議論では、われわれは世界の中で一般的猫に出会うことはないとしてきた。でもミケは猫だという事実には出会う。ミケは寝ているにしても、ミケは固有名だが、寝ているは一般性をもっている。そういうわけで、事実の中には一般性をもった構成要素が含まれている。
 ところで、前章の一般観念説が袋小路に陥ったことについて、フレーゲは、一般観念説が出てきた根底には要素主義、つまり、文は語の意味がつながって形成されるという考え方があるとして、要素主義を批判して文脈主義を主張する。つまり、語の意味を考えるにも、語を文から切り離してひとつひとつの語を単独で考えるのではなく、文全体との関連において考えるべきだという。つまり、語の意味は、文以前にその語だけで決まるのではなく、文全体との関係において決まる。
 では、文は、この章の最初で述べた世界と事実の関係はどうなのか?ミケは寝ているという文はミケが寝ているという事実を表わしている。それでは、文の意味は事実であるのか?文には真もあるが偽もあるし、ミケが寝ているという文は特定の事実をさしていないといった難点(個別性と一般性のギャップ)から、文の意味は事実、つまり、文と事実の関係が指示する関係にある、というのは難しい。そこで、問いを次のように手直しする。真な文でも偽な文でも成り立つような、文と事実の関係は何か。真にも偽にもなるということが、文が事実に対して持つ関係だという。このような真偽を文と事実の基本的な関係と考えると、個別性と一般性のギャップを考慮する必要はなくなる。ミケが寝ているという文は、ある場面での特定の事実のもとで真になったり偽になったりする。個別の事実に対して、一般性をもった文が真になることはおかしいことではない。
 前章で「猫」の意味は猫の一般観念だという考えはなくなった。文脈原理を受け入れ、文と世界の基本的関係は真偽であることを前提とすると、「猫」の意味はどう考えられるのか?「ミケは猫だ」という文では「猫」は述語として用いられている。この文から「ミケ」を取り去ると「…は猫である」となる。「猫」という語(一般名)を文との関係で捉えるのなら「猫」という名詞よりも、このような文から取り出した形となる。つまり、猫という一般名の意味は何かではなく、「…は猫である」という述語の意味は何かというのだ。この形の「…」にはミケだけでなく、タマでもポチでも入れられる。ポチを入れれば「ポチは猫である」という文は偽ということになる。これは、「…」を変数とする関数ということもできる。それゆえ、これを命題関数と呼ぶことができる。
 指示対象説は「猫」という語の意味を文から切り離して、それ単独で「猫」という語の指示対象を求めた。それに対してフレーゲはこれを「…は猫だ」という述語として捉える。これは文の一部であることを意識したものだが、これだけでは文脈原理に従っているというほどではない。「…は猫だ」という述語の意味を「Xは猫だ」という個体から真偽への関数として捉える。ポイントはここにある。真偽は語ではなく、文に対して言われることである。文脈原理に従って、述語の意味が、まさに文との関係において捉えられている。
 固有名の意味は指示対象である。これには文脈原理は当てはまらないだろうか?対象を指さして名づければ、それで固有名の指示の対象が定まるというほど、単純なものではない。例えば、私が何も知らされずに理化学研究所の計算科学研究センターに連れて行かれたが、そういう場所だとは知らされていないで、そこに箱のようなものがずらっと並んでいるところに案内されるとする。それはスーパーコンピュータなのだが、私はそのことを知らない。そこで、「これが富岳だ」といわれても、私は何が富岳なのか分からない。そもそも「これ」が何を指しているのか分からない。何かよく分からない対象を指して、「これが××だ」と名前を与えても、それだけでは何が「××」と呼ばれたか分からない。では、何を分かっていればいいのか、それもはっきりしない。したがって、固有名の意味は文との関係において決まる。つまり、固有名の指示対象は文との関係において定まる。
 文脈原理は文の意味を基本において、そこから語の意味を捉えていこうとする考え方だが、本書の冒頭の問いである新たな意味の産出可能性とは、どのようにつながるのだろうか?要素主義では、一般観念説が袋小路に陥ったりして、それがうまくいかない。それだけではない。要素主義は、それぞれ語の指示対象を明らかにするが、それだけでは「ミケ」「寝ている」という語があるだけで、それらをどう組み合わせればよいのかは分からない。これに対して、命題関数の場合は、「寝ている」は「Xは寝ている」という関数として、Xには個体が変数として入るという組み合わせができる。このように要素主義は語の意味を基本として、そこから文を組み立てようという考え方だから、語の意味は分かったとしても、そこからどうやってちゃんとした文に組み立てれはいいかという問題が残される。一般観念には組み合わせが示されてはいない。それに対して、命題関数は分の一部として取り出されたものだから、Xのような変数のところに個体を入力するということになっている。このように文脈原理の考え方では部の意味を基本として、そこから語の意味を捉えようとするので、語を文に組み立てるのもやりやすい。
 最も単純な文型は固有名と述語から成るものだ。「ミケは猫だ」というように。文はそれだけではない。「猫はよく寝る」というように。このような文を組み立ているには、固有名と述語だけではなく、論理の言葉も必要だ。「猫はよく寝る」という文の場合、「ミケはよく寝る」ならば、固有名+述語だが、「猫」は固有名ではない。では何か、これも「…は猫だ」という述語なのだ。したがって「Xは猫だ」という命題関数として捉えられる。「猫はよく寝る」の「猫」は「…は猫だ」という述語なのだ。「猫はよく寝る」は「猫」が主語で「…はよく寝る」が述語に見えるが、命題関数の考え方からは、「猫」も「Xは猫だ」という命題関数を意味する述語となるので、「猫はよく寝る」は二つの述語を組み合わせた文になる。そうすると
 「Xは猫だ」に当てはまるものはすべて、「Xはよく寝る」にも当てはまる。 
これを論理学に近づけると 
 すべてのXに対して、Xが猫であるならば、Xはよく寝る。
と書くことができる。何かある個体Xについて、それが猫だったら、それは間違いなく寝る、というわけだ。この「ならば」を二つの命題関数をつなぐ論理定項と呼ばれる。固有名、述語、論理定項を組み合わせると色々な文を作ることができる。
このように文を構成する語の意味が決まれば、文の意味は決まるという考え方を合成原理と呼ぶ。新たな意味の産出可能性を考えるときに、合成原理が必要になってくる。ただし、この合成原理が要素主義に向かうと袋小路にはまってしまう。では文脈原理はどうか、というと合成原理と並び立たないようにも見える。ここで要素主義は、文の意味に先立って語の意味が定まるという考え方だ。そうすると、言葉を学ぶことも、文の意味を理解する前に語の意味をすべて理解して、それから文の意味の理解へと進むということだ。しかし、われわれの言語理解はそうではない。文の意味を知らない状態で語の意味だけを学べばいいとは思わない。

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