稲葉振一郎「不平等との戦い─ルソーからピケティまで」(5)~第3章 新古典派経済学
マルクスの時代の後、19世紀から20世紀にかけて、ジェヴォンズ、マーシャル、ワルラスのような新古典派経済学が登場する。
古典派経済学では、土地の価格は需要と供給によってのみ決まるとされるのに対して、資本、労働、そしてほとんどの商品の価格は、長期的には経済全体の生産技術と人々の消費生活の構造により決まると考える。新古典派はこのような発想の逆を行く。古典派経済学は、資本と労働を主役に、経済を生産中心で捉えていたとするなら、新古典派は経済を交換中心で捉える。そして古典派が関心の焦点を資本と労働に置き、その価格形成を生産技術との関連で捉えようとしたのに対して、新古典派では市場、価格メカニズムを資本と労働を大量に投入した生産物の取引をではなく、人間には生産できない土地の取引をパラダイム、準拠枠として捉えようとする。ものに経済的価値が付与され、価格が付けられるのは、あくまでもそれが人によって欲され、取引されるから、つまりは需要と供給があるからだと考える。そこで出てくるのが、「収穫逓減」という発想であり、それを捉えるための「限界分析」という方法である。
「収穫逓減」とは、たとえば農業を例にすると、一定の面積、一定の環境のもとでの土地に対して、労働や資本を投入して耕作し、農作物を作る場合、より投入を増やせば収穫は増えるが、その増え方は次第に鈍くなる。これが収穫逓減である。したがって、投入を増やした分だけ収穫が上がるわけではない、ということは投入当たりの収穫が段々と減っていくということで。それは、生産費用あたりの収穫、収入、そして利益が落ちていくということだ。収穫、生産が増えていくのであれば、総体としての収入は増える。しかし、それ以上に費用の方が増えていくなら、やがいは、それ以上生産すると利益減り始める限界点に到達することになる。つまり、利益を最大化する最適な生産量が存在するということだ。新古典派、これを農業に限らず、工業にも当てはまると主張する。新古典派は、実は、この理屈は生産者側だけでなく、消費者についてもあてはまるという。新古典派は、功利主義哲学を引き継いで効用という害門を用いて、消費者というより生身の人々の幸福の尺度、行動を導く基準とする。ここでは、人々は自分の効用を最大化する存在とみなされる。この最大化は最適化である。
新古典派は最適化という行動原理の一般化によって人々の行動パターンの間の階級による違いが平準化される。古典派経済学では資本家と労働者という階級の違いが行動パターンの違いと捉えられていたが、新古典派では最適化に一元化され、パターンの違いは消滅することになる。経済全体が豊かになれば、誰でもが資本家になれるというわけだ。
これは、マルクスが不平等の捉え方を古典派経済学からルソーに戻そうとしたところを、論点をずらすことにより、改めてスミス的な回答に寄せたものと言える。
また、新古典派のアルフレッド・マーシャルは「労働者階級は紳士になれるか?」という問いに「なれる」と答えようとした。その根拠となるのが「人的資本」という考え方だ。マーシャルは、労働の対価としての賃金で生計を立てる労働者も、実際には多種多様で、中には比較的高度な訓練を必要とする高賃金の熟練労働に従事する人々と、経験や知識を要せず簡単で低賃金の労働者の違いに注目した。その違いを人的資本の違いだとした。つまり、熟練技能を習得するための訓練を、時間と労力というコスト、そして学費や訓練期間中の生活費などのコストを投じる投資だと考えた。熟練労働者と単純労働者の賃金格差は、その能力に由来し、その能力の主因は訓練の有無にあり、そのために投じられたコストの違いということになる。つまり、訓練は労働者の能力を上げ、生産力を上げ、その分け前として賃金を上げることは可能だと考えた。そうであれば、労働者にも資本を蓄積していくことは可能であるし、またそれを経済全体の成長にとってプラスであるということになる。つまり、現に貧困なままの人々を人的資本の蓄積のチャンスなら誰にでもあるのだから、貧困は努力不足という議論につながるおそれもある。
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