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2024年2月23日 (金)

野矢茂樹「言語哲学がはじまる」(2)~第1章 一般観念説という袋小路

 本書は著者が様々な問いを投げかけ、それについて様々な例を出しながら解き明かしつつ、そのプロセスで新たな問いが生まれ、その問いにまた例を出しながら解き明かしていく、その繰り返しのプロセスが魅力となっている。その問いかけの最初として、冒頭に「どうして言葉は無限に新たな意味を無限に作り出せるのか」を問う。これについて、「猫が富士山に登った」という例文を提示して、この問いを考え始める。実際に、こんなことはありえない荒唐無稽な文だが、意味はすぐ分かる。それは、文で使われている単語、「猫」も「富士山」も「登った」も分かるし、文型も分かるからだ。「猫が富士山に登った」は既知の語を既知の文法に従って作った文だから、初めて読んでも意味が分かる。こうして、新たな意味の産出の問への答えが見つかる。これを要素主義という。
 ところが、その単語、例えば「猫」の意味は何なのかと問われると、答えるのが難しい。猫を知らない人に猫を言葉で説明しようとすることを考えれば、その難しさがわかる。まず、「猫」も「富士山」も、ある対象をさした、その名前である。「富士山」は固有名で、「猫」は一般名と分けられる。固有名は富士山という固有名詞、特定の一つの個体を指す。このように語の意味を指示対象とする考え方を指示対象説という。これが、一般名にも成り立つかというところで問題が生じる。そこで、一般名の指示対象とは何かという問いが生じる。「猫」という語の指示対象は何だろうか。猫という動物?では実際にどこに存在しているのか?現実に猫一般を実体として指すことはできない。実際に指示することのできるのは、ある特定の個別の猫でしかない。ならば、一般の猫の意味をどうやって理解しているのか、という問いが生まれてくる。それに答えようとしてジョン・ロックが持ち出したのが「猫」という言葉は心の中の一般観念を表しているという考えだ。世界で出会う猫はすべて個別の猫で、これは心の外の世界で、ロックは、猫の指示対象は心の中にあるという。心の外で出会う個別の猫は、大きさ、色、毛の長さ、尻尾の形等さまざまだ。心の中は、そのような個々の猫たちから多様性を剥ぎ取った一般的な猫の観念が形成される。これを抽象と呼ぶ。観念とはイメージのようなもので、これを一般観念説と呼ぶ。
 これを批判したのがバークリーだ。一般的な猫をイメージできるのかという反問だ。これを受けてフレーゲは、さらに、心の中に猫の一般観念が形成されたとして、そのイメージがはっきりしていないと、他人がどのような意味で一般名を用いているか分からない。そこで、他人が猫と言っていると、自分と同じ意味で言っているかどうか分からないことになる。こうして、コミュニケーションが不可能になってしまう。
一般観念説には、別の批判がある。世界は心の外だというが、心の中だって世界の一部で、例えば、私が猫を見てきわいいと心の中で思ったことも世界に含まれる。そうなると、心の中で形成されたものが一般的だとは限らないことになる。そこで、心の外と中を区分して、個別と一般と分けることは成立しなくなるわけだ。
 このようにして、一般観念説は袋小路に陥る。そこで登場するのがフレーゲの説だ。

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