稲葉振一郎「不平等との戦い─ルソーからピケティまで」(9)~第7章 不平等ルネサンス(2)─成長と格差のトイ・モデル
一つのモデルとして規模に関する収穫一定の生産技術の下での、労働能力において全く違いがない自営業者からなる経済を想定する。そこでは、手許で使用する資本の量がすべての事業者、すべての主体の間で等しくなる場合に、最大の生産量が達成される。というのも、まず社会的に見れば既に存在している資本と労働のすべてを使い尽くす(完全雇用)ことにより、最大の生産量が達成されると考えられるからだ。しかし、駒想定の下でそれが達成されるためには、各事業者の資本-労働比率が、経済全体での総資本と総労働の比率に一致していなければならない。ということは、各事業者の手許にあって生産活動に投入できる資本の量が等しくなければならない。実際には、ほとんどの事業者はそうはならない。そして、ポイントは資本に関する収穫逓減のおかげで前者の生産高が平均を上回る度合が、後者の生産高が平均から下回る度合いを相殺するには足りないのだ。それは、1人当たりの資本が増えるほど、その生産性は落ちていくからだ。平均以上の資本を持つ富者にとっては、自分の資本を全部自分で使うのが私的に最適だからで、このような非効率は、大体において資本の分配が不平等であればあるほど大きくなる。このモデルでは、少なくとも短期的には、分配が生産を規定している。
そして、これが時間の流れの中でどのように展開するか、資本が蓄積されていけば、それぞれの経済主体、人々の所有する資本や経済社会全体での総資本の量も増えていき、その時々の資本─労働比率も変わっていく。
このモデルでは主体の長期的な生活設計とそれに基づく行動を想定している。投資とは手持ちの財を今すべて消費してしまわず、将来に備えて取っておく、あるいは将来使えるものに変える。ここでは、経済成長を、ある程度長い期間を生きる主体が、その日その日の目先の利益ではなく、ライフサイクル全体での利益を最大化するように行動することにより実現されるプロセスと捉えられる。手持ちのお金を今消費してしまうか、貯めておいて1年後に使うがという、異時点間の選択をモデル化すると、それは将来の選択肢の現在価値を考えて、今現在の選択肢とその価値の比較を可能にするというものである。ここでの現在価値を算出するときに割引率が使われる。単純に考えれば、今確実に実現可能な選択肢の方が不確実な将来の選択肢よりも重視される。借金に利息がつく理由もそこにある。この場合の割引率は利子率に対応する。だから、収益率が割引率を下回るような投資は、やる価値がないと判断される。
資本に関する収益逓減が成り立つということは、投資の収益は最初の内は高いが、資本が蓄積されるにつれて下がってくるということ。資本の収益率が割引率を下回ってしまうと、それ以上さらに投資することは利益を減らしてしまうに至る。これが資本の限界生産性である。
このモデルでは資本所有の多寡以外に人々の間に違いはないと想定しているので、すべての人々の割引率は等しいということになる。
このモデルで、資本市場が完全であれば、市場で決まる利子を支払えば足りない資本を借り入れられるし、自分には用のない資本を貸し出すことができるため、資本所有の不平等が、短期における資本の効率的な利用の妨げにはならないことになる。これに対して、資本市場が欠けている場合は、資本の貸し借りができないので、人々は手持ちの資本をフル活用せざるを得ないが、それはこれまで述べてきたように非効率となる。長期的に見て、資本蓄積の最適な水準は資本の限界生産性と割引率の一致点だが、それまでは投資していくことが利益になる。最終的にもともとの資産格差は保存される。これに対して資本市場がない場合は市場で行われる調整が一人一人がバラバラに行う。
そして、このモデルになかった技術変革による総要素生産性が持続する内包的成長の下での所得と分配を考えてみる。技術革新は私的利益を目指す合理的選択をした結果であることを理論化しようとするモデルは1980年代後半から研究され始めた。
新規さ牛が新しい知識・技術を伴い、かつそうした知識・技術が当の投資の主体以外の人々にもスピルオーバーして、社会全体で総要素生産性が向上してプラスの成長を定常状態として引き起こすというモデルを作ると、そこでは投資が個々の経済主体のレベルでは資本に関する収穫逓減が成り立っているのに、全体社会、総資本のレベルでは資本に関する収穫一定が成り立っているのである。となると、社会全体の資本の限界生産性が一定で下がることがなく、それゆえ、割引率と一致することがない。
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