ヴィンフリート・メニングハウス「美の約束」(5)~Ⅳフロイトの仮説─人間の美しさの根源的な文化性
フロイとは美について「美の派生が性的感覚の領域からである」と言っているが、この点でダーウィンの進化論的な立場に立っている。すなわち、性的選択は対象を美的基準に従って区分する。その基準の発生源には嗜好がある。フロイトとダーウィンは出発点は重なるがそこからの結果は大きく異なる。フロイトは美しさというものは性的興奮を刺激するものからきているが、我々は性的興奮を呼び覚ます性器そのものを美しいと見なすことはできない、と言う。このような二律背反的は人間に特有のものである。クジャクのような場合と違って、性器がある特定の外見をしているために人が美しいと呼ばれることはない。フロイトにとって美しさというのは、セクシャリティという目的のための媒介的な機能である。もし、人間の性器そのものが美しいのであれば、性的興奮と美的興奮は一致する。しかし、両者の間には亀裂がある。そこから美的なものの機能的固有価値と美による昇華の可能性が開ける。その可能性とは、性的興奮が美しくない性器に走ることを、二次性徴と身体の全体像に喚起される美的快が阻む場合である。その時、性的生殖はダーウィン的な機能を停止し、繁殖成功を妨害し、高次の文化に味方する力に転じる。そこに美の自律化の道が開ける。フロイトはクジャクの飾り羽と人間の肌の裸出との間には断絶があるという。裸出した肌への進化は、それと並行して被服の文化がなければ、なしえなかったし、少なくとも生存不可能だった。そこで性的なものが文化的秘匿を義務づけられることになる。クジャクの飾り羽のような可視的なものと人間の肌のように衣服により秘匿され不可視なものの差異は、パートナー選択に新しい状況を生み出した。想像的なものに隠された部分を補完する役割が割り当てられたからである。その結果、性的身体の美しく魅力刺激するものが部分的に想像界へ転移させられることになる。これにより、美的魅力が性的目標を直接追求することから外れる可能性が生じた。人間の性行動は、動物とはカテゴリーが異なり、秘匿する被覆という並行する身体像の想像化に縛られている。
羽や毛皮が裸の肌と人工的な被覆の二元性となることにより、装飾的な性的記号システムは身体固有の魅力刺激と人工的な補完へと二重化し、それが美的淘汰の構造変化を起こした。オスのクジャクは、メスのクジャクがどのような基準で選択するのかを知る必要はない。オスが必要なのは、飾り羽を持つことだけである。オスはそれ以上の変化を加えることができない。これに対して、人間の場合は、人工的に自らを飾るのであり、異性の嗜好を知らないといけない。そうでなければ、装飾理苦労は効率が悪いし、進化的安定化もできない。異性の視線、自分の身体のハードウェア、つまり見える装飾だけに効果があるだけでなく、ソフトウェアにも組み込まれる。精確な自己観察が求められるばかりでなく、異性の美的選好も知られ、自らの装飾実践の自己統御に利用される。そこで、選択された対象の側に、美的選好と自己観察、自己産出の間に精神的なフィードバックループが生じる。こうして、美しい対象の自己観察は多様な新しい美の効果を開拓することになる。フロイトは、それをナルシシズム的な自己愛と呼んだ。
たとえば、人間は二足歩行をすることにより身体を直立させるようになる。そのことは、四足歩行において鼻が、相手の性器の高さに位置し、嗅覚により性的刺激を得るメカニズムから離れることを意味する。それは、視覚による遠隔からの刺激の比重が相対的に高まる。二次的な性装飾の視覚的な魅力刺激は、条件反射の力を弱めることと引き替えに相対的な恒常化を果たしている。性的な刺激に比べると、美の享受が提供するのは、穏やかに恍惚とさせる感覚の性質となる。それは性的な結合に移行しなくても、自己充足的にも享受でき、文化的な成果を促す刺激の機能となっていく。フロイトは、ここに文化プロセスの始まりを見ている。性的目標に到達するため、美に対する人間の欲望は、必ずしも目で見ることから始まり、手で触れ、臭いを嗅ぐことを経て、ついには性的合体へと結びつく必要はない。欲望は美の領域全般を超越化する。美しい身体への美的な快は、性以前のもの、極端な場合は非性的なものとなる。美の快が強力で純粋であればあるほど、そして対象が美しければ美しいほど、関心が性器から全体の身体形姿に移る。美の快は性的に興奮させる質とは無関係に、本質的に昇華された快でもある。この昇華は、美的知覚の新しいもの、人間独自のものである。美の志向は、人間の文明化全般の巨大な力の一つとして規定される。
ダーウィンは、人間が美しさに向かって遺伝的に発達することを、人間が未だ一夫多妻制の集団で生活していた原始時代の現象と考えた。文化と一夫一婦制が進歩する、それとは逆に、種として美しくなるための可能性が消えると見ている。フロイトの思考はここから始まる。彼は人間の身体を、最初から被覆と直立歩行と嗅覚を刺激する性分泌液の価値下落によって文明化されたものとして見る。この美の主要機能は、相変わらず、配偶機会を増大させるままだが、子どもの数の量的な最大化とは結びつかない。最も美しい対象は、自己充足に向かう傾向により、脱セクシュアリティー化を促進する。
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