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2024年2月26日 (月)

野矢茂樹「言語哲学がはじまる」(5)~第4章 指示だけで突き進む

 フレーゲは語の意味は文の意味以前に確定すると考える要素主義を批判して、文の意味との関係においてのみ語の意味は決まるという文脈原理を提唱し、また指示対象という外延的側面だけでなく意義という内包的側面も考えるべきだと論じた。ところが、ラッセルは文脈原理を拒否して平然と要素主義的に考え、また、意義という側面を認めず指示対象だけで言葉の意味を捉えようとする。
 まず、著者は指示対象が存在しない固有名は無意味かと問いかける。例えば、19世紀に太陽系で水星より太陽に近い惑星があると考えられてバルカンと名づけられていた。しかし、現在では、そんな惑星はないとされている。その場合、「バルカンは地球より小さい」という文は無意味になる。それは「バルカン」という固有名が無意味だからだ。
 また、「日本の初代内閣総理大臣」について、フレーゲは個体を指すので固有名としたが、日常言語では固有名とされないので、ここでは個体指示語と呼ぶ。これは固有名のように指示対象を持たない場合には無意味ということになる。例えば、日本の初代大統領。とはいえ、日本の初代大統領について、たしかに間違っているとしても、意味は分かると言えなくもない。これに対して、フレーゲなら、意味に指示対象と意義という二つの側面を考えることから、日本の初代大統領には指示対象はないが、意義はあると論じる。しかし、実はこのことはフレーゲの議論の核心を揺るがす問題を秘めている。すなわち、言葉と世界の基本的関係は文の真偽にある。文脈原理に従えば、固有名と述語の指示対象は文の真偽との関係で決まる。このように指示対象のレベルで世界に錨を下ろしているからこそ、意義のレベルが考えられるわけだ。そこで、指示対象がなくても意義だけはあるというと、世界に下ろした錨を断ち切ってしまうことになってしまう。これに対して、ラッセルは一貫して意義という側面を認めない。日本の初代大統領が有意味だとすると、指示対象を持つ、つまり日本の初代大統領は存在するという。これはリアルに存在するわけではなく、実際に指さしなどで指示することはできない。そこで、ラッセルは第二形態へと進む。
 それについては、論理学で考えると、「猫はよく寝る」は「すべてのXに対して、Xが猫であるならば、Xはよく寝る」とう意味になる。一方、「猫が寝ている」はすべての猫ではなく、そういう猫がいるということだから、「あるXが存在して、Xは猫であり、かつ、Xは寝ている」という意味になる。このように論理学の体系では「すべて(all)」と「ある(some)」という論理語が中心的役割を果たす。そこでラッセルはallとsomeに定冠詞theを加える。定冠詞theはただ一つの対象を表わすことを示すものだ。そこで「the初代内閣総理大臣は好色だ」という文は、「Xは初代内閣総理大臣だ」と「Xは好色だ」といいう二つの命題関数を用いて分析できる。そのときも初代内閣総理大臣は主語ではなく、「Xは初代内閣総理大臣だ」という命題関数に読み替えられる。定冠詞theはただ一つの対象を表わしているので「the初代内閣総理大臣は好色だ」は「あるXがただ一つ存在し、Xは初代内閣総理大臣であり、かつXは好色だ」と分析できる。そうすると、「the初代内閣総理大臣」を個体指示語として捉えるのではなく、命題関数を用いて、全体をただ一つ存在するという趣旨の文に読み替えたことになる。
 そして、日本の初代大統領という表現について考えてみると、「the日本の初代大統領は好色だ」は「あるXがただ一つ存在し、Xは日本の初代大統領であり、かつ、好色だ」と分析される。そこで、日本の初代大統領が存在するというのは偽だから、この文は全体として偽ということになる。無意味だったら真偽は言えないので、この文は偽だが有意味なのだ。それで、「日本の初代大統領は好色だ」は偽となり、有意味とされる。この文が偽となるのは「Xは日本の初代大統領だ」という命題関数に当てはまる対象が存在しないから。それは、「the日本の初代大統領」という表現を個体指示語ではなく「…は日本の初代大統領だ」という命題を用いた文として分析したからだ。個体指示語だったら日本の初代大統領は存在するとしなければならないが、「Xは日本の初代大統領だ」という命題関数を用いた仕方で分析されれば、その命題関数に当てはまるものがないとしても、日本の初代大統領という表現が無意味になることはない。命題関数なら当てはまるものがなくても無意味にならない。これがラッセルの二次形態だ。このような読み替えを記述論理と呼ぶ。
 このように記述理論が受け入れられ、ラッセルは指示対象だけで言葉の意味を考えようとする。固有名、述語そして文に対して指示対象だけで説明できるとしたら、とくに文の意味は真か偽の二つしかないことになる。これについて、固有異から考えてみる。「初代内閣総理大臣と伊藤博文は同一人物だ」という文は、「初代内閣総理大臣」と「伊藤博文」は指示対象が同じで、したがって同じ意味ということになり、置換可能となるはずだが、フレーゲは認識価値が違うという意義を持ち出して、それを否定した。それに対して、記述理論は異議に訴えない解答をすることができる。「初代内閣総理大臣」という語は個体指示語と考えず、「初代内閣総理大臣と伊藤博文は同一人物だ」し「あるXがただ一つ存在し、Xは初代内閣総理大臣であり、かつ、Xと伊藤博文とは同一人物だ」と分析することができる。伊藤博文という固有名は伊藤博文という人物を指示する。そして「初代内閣総理大臣」は「Xは初代内閣総理大臣だ」という命題関数に読み替えることができる。Xに個体を入力して真偽が出力される。ここではすべて外延的に捉えられる。
 しかし、例えば宵の明星(フォスフォラス)と明けの明星(ヘスペラス)は両方とも指示対象は金星だが、初代内閣総理大臣と伊藤博文の場合のようにはいかない。それは、フォスフォラスもヘスペラスも固有名だから記述理論が使えない。そこで、ラッセルは第三次形態に進む。「フォスフォラス」も「へスペラス」も、すべて述語として分析していく。「フォスフォラスとへスペラスは同じものだ」という文は、「あるXがただ一つ存在し、Xはフォスフォラスであり、かつ、Xはヘスペラスだ」と分析される。これなら、「初代内閣総理大臣」の時と同じやり方で処理できる。これは他のすべての固有名に及ぶことになる。ラッセルは固有名は述語として読み替えられると主張する。例えば、「伊藤博文」という人物を知っているとして、何を知っているのだろうか。初代内閣総理大臣とか、かつての千円札の肖像だったとか、ハルビンで暗殺されたとか、その他にもあるが、結局、このような記述の束でしか捉えていない。だとすれば、このような記述の束を列挙して、それに「ただ一つ存在する」ことを意味するtheをつけて確定記述にしたものが「伊藤博文」という語の実質だという。
 そうなると、今までふつうに固有名されているものが、実は確定記述なのだとすれば、固有名がなくなってしまうことになる。そうなれば、命題関数に入力する個体を表わす表現がなくなってしまう。そうすると、命題関数に入力する個体は何なのか、そしてそれを表わす本当の個体名は何なのかが問題となる。ラッセルが注目するのは、「あれ」とか「これ」という指示語だ。目の前にミケがいるとき、その姿を「これ」として指示する。何が指示されているかというと、今見えている姿だ。ミケという猫はその姿だけでなく、他の機会に出会われる様々な姿や、今年で3歳になるオスだとかいった様々な知識に関わっている。だから、正確に言えば「これもミケだ」となる。そこで今見えているその姿を指示する語である「これ」が本当の固有名というべきというのがラッセルの主張だ。固有名は指示対象が存在しなければ無意味になる。「バルカン」や「伊藤博文」が、その語の指示対象が存在しなくても無意味ではないように思えるのであれば、それは「バルカン」や「伊藤博文」が本当の固有名ではないということになる。それに対して、「これ」や「あれ」という指示語は指示対象がなければ無意味になる。何もないところを指示して「これ」とか「あれ」と言っても、それは意味がない。そうなると、固有名の指示対象となるのが個体だから、本当に個体と言えるのは「これ」とか「あれ」という指示語で指示されるものということになる。それは今見えているかぎりの「これ」であり、直に経験しているもの、そしてその経験を超えたものをいっさい含まないもの、それが本当の個体ということになる。
 そうなると、他人と私が同じものを指示することはできないということにならないか?言葉と世界のつながりをラッセルは指示関係に見る。そして彼は要素主義的に考えるので、語の意味は意味以前に語だけで決まる。それゆえ、固有名と個体の指示関係が言葉と世界のつながりの基本になる。この、言葉と世界の関係がとこで成り立つかを問い詰めていくと今私が経験しているものを「これ」とか「あれ」として指示することに行き着く。それは、コミュニケーションを不可能にしてしまう。そして、固有名が「これ」と「あれ」だけで他は述語ということになる。それはつまり、世界を記述する言葉のほほすべては述語ということになる。
 文の意味を考える。フレーゲの議論では、文の指示対象は真と偽の二つだが、意義という祖君も考えなければならないとされる。ラッセルは意義という側面を認めないので、指示対象だけを考えようとする。したがって、文の意味は真と偽の二つだけということになるかというと、ラッセルは文の意味は命題だという。「ミケは猫だ」という文では、「ミケ」は個体を指示するが、「…は猫だ」という述語の指示対象について、ラッセルは「ねこだ」という性質を指示すると考える。その性質という事実を表わす命題を述語は指すという。そうだとすると、命題は存在するということになる。著者は、一般観念説と変わらないし、それでは個別性と一般性のギャップの問題も再び表われるという。これを批判したのがウィトゲンシュタインだ。

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