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2024年2月27日 (火)

野矢茂樹「言語哲学がはじまる」(6)~第5章 『論理哲学論考』の言語論

 『論理哲学論考』は、生死について、価値について、倫理について、論理についてなどといった哲学が取り組んできた様々な問題は、自然科学のように世界のあり方を探求すれば答えが出るものではなく、また数学のように考えるだけで答えが出るものではない。このような哲学的問題はそもそも思考の限界を超えようとする人間の知的衝動の所産なのだという。そこで取り組むのは、思考の限界を見定めるということだった。ただし、ここでの思考とは言語的思考のことで「論理空間」と呼び、言葉にならない漠然とした思いのようなものではない。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」と言う。その最大の特徴は、明確に言語優位の考え方を打ち出したところにある。
 ラッセルは、分の指示対象として命題を考え、明大は信念や判断によって構成されていた。信念や判断という心の動きから出発して、命題を構成し、それが言葉に意味を与えるという順番。『論理哲学論考』はこの順番をひっくり返す。言語が思考を成立させるのであって、言語以前の思考という考えはない。だから、矛盾したことや無意味なことは考えることができない。逆に言えば、それ以外のことなら何でも考えることはできる。とはいうものの、思考が言葉に意味を与えるのであれば、思考内容な言葉であれば有意味ということができる。しかし、『論理哲学論考』はその逆のことを言っている。
 『論理哲学論考』は「世界は成立していることがらの総体である。」「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」から始まる。これは、さきのラッセルへの批判であると著者は言う。ラッセルは偽な文の指示対象を確保するために、まず偽な命題の存在を認めた。それに対して、世界は成立していることがらである事実の総体であるとすると非現実のことは存在しない。では、存在するのは事実のみであるのに、非現実の可能性を考えることができるのはなぜだろう?ウィトゲンシュタインは言語があるからだという。
 われわれは「富士山に小惑星が衝突した」という非現実のことを考えることができる。このなかの「富士山」「小惑星」「衝突する」といった要素については様々な事実から取り出すことができる。これを対象と呼ぶ。事実を分解して、その構成要素である対象を取り出す、つまり分節化する。そして、これを組み立て直して「富士山に小惑星が衝突した」という可能な事実を構成するというわけ。
 このように現実に存在する対象を組み立てたら、できあがるものも当然現実に存在することになる。現実に存在する事実。可能な事態ではない。つまり、本当に富士山に小惑星を衝突させることになってしまう。そこで、対象の可能な組み立てを考えるには、対象そのものを組み立てるのではなくて、対象の代理物を組み立てることになる。それが言語だ。「富士山に小惑星が衝突した」という文は富士山に小惑星が衝突したという可能的な事態を表現する。現実の対象を代理する言葉をさまざまに組み合わせると、それがさまざまな可能性を表現する。可能性とは、言語が表現するものとしてのみ、成り立ちうる。
 以上の議論をまとめると次のような手順といえる。
現実事実を対象に分節化する

対象を語で代理する。

語を組み合わせることで可能的な事態を表現する。
 ただし、対象を分節化するという第一のステップは可能的な事態を考えるという第三のステップを必要とする。対象を分節化するのに、それによってどのような可能的な事態が考えられるのかも了解されねばならないという。例えば、「ミケがソファの上で寝ている」という事実があるとする。この事実から「ミケ」という対象を分節化するには、ミケがソファの上でなく、床の上だったり布団の上だったり、あるいは寝ているのではなく、歩いていたり、あくびをしていたりする可能性も了解されているはず。そのような可能性が理解されていないで、ミケはただソファの上で寝ているだけの存在であるとしたら、ミケはソファと一体化し、寝ているという状態だけの存在ということになる。「ミケ」という対象は、他の可能的な事態の中に現われることを想像することができる。そのような可能性を解していなければ、「ミケ」を一つの対象として取り出すことはできない。対象とは必ず何らかの事実のもとにありながら、さまざまな可能的な事態のもとに現われるという仕方で、事実から切り離された存在となる。これは、個体だけでなく、性質や関係も同様だ。したがって、まずむ現実に成立している事実を対象に分節化してから、その後で可能的な事態が思考可能になるのではなく、対象が分節化されるときは、その対象がどのような可能的な事態に現われうるのかも同時に理解される。ある対象について、それがどの可能的事態に現れうるかということをウィトゲンシュタインは「論理形式」と呼ぶ。
 「ミケ」や「寝ている」の論理形式はどうか。世界において我々が出合うのはすべて現実に成立している事実であって、非現実の可能的な事態に出会うなどということはありえない。「富士山に小惑星が衝突した」という可能性は現実には存在しないし、ただ「富士山に小惑星が衝突した」という文が表現するものとしてあるだけである。「富士山」という固有名、「…は小惑星だ」「…は…と衝突した」などの述語を有意味に組み合わせる仕方でのみ、何が可能的な事態なのかが捉えられる。ある語について、他のどの語と組み合わせて有意味な文が作れるかということをウィトゲンシュタインは「論理形式」と呼ぶ。
 われわれは、ただ事実に取り囲まれているだけで、それを言葉で表して、しかも文が語に分節化されてはじめて、非現実の可能性を表わす組み合わせを作ることができる。それゆえ、語の論理形式と対象の論理形式は一致する。さらに、有意味な文の全体と思考可能な事態の全体も一致する。これにより、対象に分節化された世界が言語以前に成立していて、それが言葉に意味を与えるというラッセルの考え方は否定される。
それなら、どういう組み合わせが有意味なのかという論理形式の理解は、どういう文が有意味なのかという理解に基づくことになる。そのどういう文が有意味なのか、どうなるのか?それについて、ウィトゲンシュタインは、有意味の最終的な根拠はわれわれの言語使用にあるという。言葉は、実際に使えているのなら有意味だと、ウィトゲンシュタインは言う。。語の論理形式は実際の言語使用から了解される。「富士山」という固有名や「…は噴火する」「…は…と衝突する」という術語が文から切り離されてくるときには、その語の論理形式、すなわちそれらの語を使ってどういう文が実際の言語の実践で使用できるのかが了解されていなければならない。そして、語の論理形式は、その語の対象の論理形式としても捉えられる。対象の論理形式は、その対象がどのような可能的な事態に現れうるかということだから、このようにして思考可能な事態が捉えられる。
 整理すると次のようになる。
文から語が分節化されるとき、語の論理形式も了解されている。

事実から対象が分節化されるとき、対象の論理形式も了解されている。

対象の論理形式は語の論理形式をもらってきたものだ。

語は対象を代理したものだ
 ウィトゲンシュタインは、われわれがどのように言葉を使っているかという事実をみるが、それを論理的に説明するのではなく、記述する(解明する)ことに努めている。
 フレーゲのような語の意味に対しては意義のような内包的側面を考えることはなく、語の意味は指示対象だとする。その点ではラッセルと同じだが、指示対象を捉えるときには語と対象の論理形式が了解されていなければならない、という点で異なる。
「富士山は噴火する」が有意味であることは、「富士山」の論理形式も「…は噴火する」という術語の論理形式も部分的に明らかにする。
 そうだとすると、「富士山」の論理形式を明らかにするためには「…は噴火する」の論理形式の分かっていなければならない。つまり、ある語Aの論理形式を理解するとは、その語と他の語B、C、D…との組み合わせが有意味な文を作るかどうか理解しているということなので、語Aの論理形式を理解するためには、他の語B、C、D…の論理形式も理解していなければならないことになる。他の語についても同様だ。ということは、一つの語の論理形式を理解するためには、結局はその言語含まれるすべての語の論理形式を理解していなければならないことになる。語の論理形式が分からなければ対象の論理形式も分からない。したがって、対象を分節化することもできないのに、指示対象も定まらないから、その語の意味も分からないことになる。結局は、「富士山」という一つの語の意味を理解するためには、日本語のすべての語の意味を理解しなければならないことになる。これを全体論的言語観と呼ぶ。
 われわれの言語使用の実態は、このようなことになっている。論理的な説明を試みると、部分が先が、全体が先かという循環論に陥ってしまうが、全体が部分からできているだとという単純な構造ではなく、部分は全体との関係で意味を持っていて、部分と全体が緊密に結びついているという。それは、幼児が言語を習得しているありさまをみれば分かる。
 語の意味が分かると、それをもとに論理空間を構成できるようになる。語の意味を理解するとは、その語の指示対象と論理形式が分かるということだから、論理形式の理解をもとに、有意味な文を作り出すことができる。有意味な文は可能的な事態を表現しているので、可能な事態を列挙することができるようになる。現実の世界では、これらの可能な事態のどれかが成立している。「富士山は江戸時代に爆発した」という事態は現実の事実として成立しているが、「富士山は明治時代に爆発した」は事実ではなく可能的な事態にとどまる。論理空間では可能的世界を列挙するが、かといって存在するわけではない。存在するのはわれわれが生きている現実の世界だけだ。可能的な世界は、ただ言語が表現することにより思考可能な世界として立てられる。
 このように現実世界以外の可能的世界が存在するわけではない。事実以外の可能的な事態も存在しない。可能的な事態が指示対象になることはできない。存在しないものを指示することはできないからだ。ところで、語の意味は指示対象だ。指示対象である個体も性質も関係も、現実に成立している事実から分節化されたものだから、現実に存在している。語の理解には論理形式の理解が伴う。現実世界以外の可能的な世界は、ただ言語が表現することによって思考可能な世界として立てられる。だから可能的な事態が指示対象になることはできない。存在しないものを指示することはできない。決して可能的な事態が言語以前に存在して、それが文に意味を与えるのではない。著者は「a」、「b」、「c」、「点灯している」の4つだけの世界を例として考える。「a」、「b」、「c」の3つの点だけがあって、それぞれが点灯したりしていなかったりする。この4つの対象を有意味に組み合わせて作ることのできる可能的な事態は次の3つになる。
A…「aは点灯している」
B…「bは点灯している」
C…「cは点灯している」
この3つの可能的な事態から作られる論理空間は、どの可能的な事態が現実に成立しているかによって、つぎの8つの可能性を列挙する。
世界W1…A-成立、B-成立、C-成立
世界W2…A-成立、B-成立、C-不成立
世界W3…A-成立、B-不成立、C-成立
世界W4…A-成立、B-不成立、C-不成立
世界W5…A-不成立、B-成立、C-成立
世界W6…A-不成立、B-成立、C-不成立
世界W7…A-不成立、B-不成立、C-成立
世界W8…A-不成立、B-不成立、C-不成立
 ここで、「aは点灯している」という文は「aは点灯している」という可能的な事態を表現し、それは単に可能的な事態を述べるだけでなく、この現実世界が「aは点灯している」という事態が成立している世界なのだということを述べている。文は、論理空間に列挙された可能的な世界の中で、それが真になるような可能的な集合を特定する。つまり、「aは点灯している」という文は、現実世界がW1、W2、W3、W4のいずれかだということを述べている。このように分は現実世界がどのようであり得るかに関して、論理空間から可能な世界を取り出すものとなっている。これは、フレーゲの言う真理条件と呼ぶものだ。これは、「aは点灯している」が事実として入力するとW1~W8が成立するか不成立かを出力する関数、それを真偽に置き換えると真理関数と言える。このようにして作られる真理関数の全体こそが、何事かを「語っている」すべてなのだ。真偽は、それが表現している可能的な事態が現実に成立しているどうかを調べることにより、知ることができる。それにより真偽が確定したら、真理関数によって論理空間の真偽が確定する。真理関数は世界のあり方を調べることにより真偽が確定する文なのだ。
 『論理哲学論考』が言う「語る」とは、世界のあり方を記述するということで、それは世界のあり方に応じて真偽が言えるということで、真理関数こそが世界のあり方を「語る」文であるということなのだ、
 このようにして、『論理哲学論考』は「語りうる」ことを規定し、それに基づいて哲学問題を語りえぬものとして、まっとうな「語り」から除外する。『論理哲学論考』の最後近くで、次のように言っている。
 「だがもちろん言い表わしえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。」

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