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2024年3月

2024年3月31日 (日)

生誕150年 池上秀畝―高精細画人(3)~第1章 「国山」から「秀畝」へ

 少年期から「國山」と号して絵を描き始めた秀畝は、15歳で上京し荒木寛畝に師事、明治23年頃から「秀畝」と名乗ります。寛畝から写生の重要性を学び、その影響は秀畝の作品に深く根付いているといいます。
Ikegamitanuki  プロローグの「秋晴」「伏姫」のとなりに荒木寛畝の「狸図」がありました。荒木寛畝は秀畝が15歳の時に弟子入りした師匠です。この人は、狩野派の伝統を受け継ぐ絵師でもあるが、西洋絵画も学んだ人でもあるということです。そういうことで、この作品は油彩画です。それで、会場のなかで違和感アリアリです。場違いで、何でこんな絵があるのかと戸惑うほどです。この作品の狸は、一般的な日本画で描かれている愛らしい姿と違って、生々しいケモノです。陰影による立体感があるし、背景の空間もしっかりしています。全体に明るく、派手な色彩の作品が並んでいる中で、重く暗い色調で異彩を放っています。でも、これは参考として、このような師匠から、秀畝は西洋画の要素、例えば解剖学的な人体把握、遠近法的な空間描写など、を学んだということを示していると思います。あと、絵画ならなんでも、という好奇心の旺盛さを荒木から秀畝はしっかり受け継いでいると思います。
Ikegaminichiren_20240331233501  池上秀畝にもどって「日蓮上人避難之図」は、順番ではなく、会場では対角線の反対側に展示されていました。日蓮は、鎌倉の松葉ヶ谷に草庵を結び、精力的に布教活動を展開していたが、焼打ちに遭う。そこで、彼の命を救ったのが、日蓮がかつて修行した比叡山の山王権現の白猿たった。その白猿の案内で、日蓮は草庵のあった松葉ヶ谷から、名越の尾根伝いに逗子の「法性寺」の裏山の岩窟に逃れることができたということです。そういう日蓮の伝記の場面を描いた作品です。伝統的な物語絵巻のようではなく、まるで映画の一場面を切り取ったかのような躍動感に満ちています。しかし、日蓮の目線の画面右下に向けられた先には松の葉越しに遠く赤い炎が上がっているのが窺え、草庵が焼かれていることを示しています。心配そうに振り返る日蓮に対して左下の白猿は袖を引っ張り、右下の猿は後押しするように、退避を促しています。それぞれのポーズは計算されたものではあるのでしょうが、その姿態に躍動感があります。しかも、白猿の白くて分かりにくいかもしれませんが毛並まで細かく描き込まれていて、その緻密さは驚くほどです。猿だけでなく、松ノ木は割れた幹の皮や針のような葉まで細かく描き込まれています。その描き込みの凄さ!画面すべてが明解に描き込まれていて、まるで、全画面にピントがあったパンフォーカスの映画の場面を見ているようです。おそらく、秀畝という画家は描かずにはいられない人なのだろうと思います。余白とか余韻などといっている暇があったら、筆をとって余白を埋めるように描き込んでしまうひとなのだろうと思います。それが、いわゆる新派の近代日本画の西洋に対して日本的な「間」とか余韻を強調したのとは異質な方向性だったことは、この作品や同じ部屋に展示されていた「四季花鳥」といった作品が端的に示していると思います。ちなみに、この作品の日蓮上人の目に星が描かれているということです。少女マンガみたい。

 

2024年3月30日 (土)

生誕150年 池上秀畝―高精細画人(2)~プロローグ 池上秀畝と菱田春草─日本画の旧派と新派

 会場は美術館の1階と2階に分かれて、1階の展示室では、このプロローグ、第1章、第2章の展示にあてられていましたが、スペースの制約があって、屏風をはじめとした大作のいくつかで展示室がいっぱいになってしまうようで、各章の説明のパネルは大作の展示の隙間に挿入されているような、展示作品に番号が振ってあっても、その番号が33→1→3→5→69→17というように飛び飛びで、順路とか関係なくなっている。それで結果として、ひとつひとつの作品に、それぞれ向き合うことになる。そういう展示でした。これって、ひとつひとつの作品に驚いてほしいという展示側の意図なのでしょうか。この展覧会は、そう勘繰りたくなるような、美術館の人々の思い入れが随所に感じられるような展覧会だったと思います。
Ikegamiakibare_20240330234401  さて、主催者あいさつにあるように、同郷、同い年ながら、秀畝は長野県の商家出身で、画家の家系に生まれ、15歳で荒木寛畝に師事したのに対して、春草は飯田藩士の家系で、15歳で上京し東京美術学校に入学。二人はそれぞれ徒弟制度と学校制度という異なる教育を受け、秀畝は旧派、春草は新派の日本画家として成長した、と対照的な存在に映ります。その二人の作品が並べられて展示されていました。ただし、これって、単に並べただけではないの?作品に並べた意味があるの?両作品の共通性?関連性?対照性?まあ、それぞれの作品はよかったので、そういうことでしょう。
 「秋晴(秋色)」という作品です。並べて展示されているのは菱田春草の「伏姫(常磐津)」という作品です。春草の「伏姫」は『里見八犬伝』という物語の人物を描いたのに対して、秀畝の「秋晴」で描かれているのは市井の人物です。おそらく、秀畝は実際に機織りをしている人をスケッチしているのでしょう。この機織りをしている女性の描かれているのをみると、旧派という伝統的というニュアンスとは違った印象を受けます。図式的でないのです。後の美人画のような図式化をより進めた記号のような人物ではなく、現実感があり、動きがある。後ろ姿で顔が見えていないからかもしれません。横に展示されている春草の作品の方が古色蒼然としているのです。しかも、画面は遠近法的です。ただし、画面全体の構成が現実にはありえない、いわばご都合主義的に並べられているので、現実感は無いのですが。
 Ikegamifusehime 春草の作品が朦朧体で霧のなかに人がいるようなうすぼんやりしているのに対して、輪郭をはっきりと線で区切られて、それが画面全体の細部にまで及んでいます。そういう明確さは、秀畝の特徴ではないかと思いました。
 これに対して菱田春草の「伏姫(常磐津)」は、想像上の人物である伏姫が画面中央に描かれていて、画面のほとんどが木、湖面などの自然物で覆われており、画面の大きさに対して人物が小さく配置されています。しかも、彼女は平面的で図式的ですらあり、存在感が稀薄です。輪郭線は薄く描かれ、湖面に映る姿は曖昧に描かれています。画面のほとんどを占める木などの輪郭線も曖昧に描かれて、モチーフが画面上部に集中していて、不安定な構図になっています。それが、薄ぼんやりしていることもあって、伏姫という存在の儚さ、幻想性を際立たせています。秀畝の作品が現実の風景を物語絵巻のようにご都合主義的な画面にしているのに対して、春草の作品は物語の場面を現実の風景のように描いています。そういうところは対照的かもしれませんが、これは新派と旧派というよりも、二人の画家の資質の違いではないかと思います。

 

2024年3月29日 (金)

生誕150年 池上秀畝―高精細画人―

Ikegamipos  年度内に一定数以上の有給休暇を消化するようにと会社から言われ、最低数の休暇取得のため、慌ただしくも休暇をとることになった。とくに予定もなく、朝寝坊をし、天気は雨だし、一日寝て過ごそうと思ったが、折角の機会だからと、インターネットで開催中の展覧会を調べて、面白そうなものを見に行くことにした。
 結構雨も強いし、展覧会の会期初めでもあるし、会場は比較的すいていた。といっても閑散としているわけでもなく、会場に他人がいることで緊張感があるという、私にはちょうど良いくらいの状態。
 私は、池上秀畝という画家については何も知らないので、主催者の挨拶を紹介がてら引用します。“池上秀畝(1874~1944)は、長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)に生まれ、明治22年(1889)、本格的に絵を学ぶため上京。当時まだ無名だった荒木寛畝の最初の門人・内弟子となります。大正5年(1916)から3年連続で文展特選を受賞。また、帝展で無鑑査、審査員を務めるなど官展内の旧派を代表する画家として活躍しました。同じく長野県出身で同い年の菱田春草(1874~1911)らが牽引した「新派」の日本画に比べ、秀畝らの「旧派」と呼ばれる作品は近年展覧会等で取り上げられることは少なく、その知名度は限られたものに過ぎませんでした。しかし、伝統に基づく旧派の画家たちは、会場芸術として当時の展覧会で評価されたことのみならず、屏風や建具に描かれた作品は屋敷や御殿を飾る装飾芸術として認められていました。特に秀畝は徹底した写生に基づく描写に、新派の画家たちが取り組んだ空気感の表現なども取り入れ、伝統に固執しない日本画表現を見せています。本展は生誕150年にあたり、秀畝の人生と代表作をたどり、画歴の検証を行うと共に、あらたなる視点で「旧派」と呼ばれた画家にスポットを当てる展覧会です。”
 展示作品は5章に章立てされ、展示リストには番号が振られていますが、会場の展示は、必ずしも、その順番に従っているわけではなく、スペースの都合なのか、モチーフやテーマの関連で並べられたのか分かりませんが、その展示の意図を考えだけでも面白く、いつも展示リスト片手に展示を追いかける私としては、一つの作品を見て、次の作品に移ると、「こんなこともやっているんだ!」と驚くことも少なくないという、手に汗握るといったに大袈裟ですが、面白い展示でした。それに加えて、展示作品に付加されている作品説明にタイトルづけがしてあって、例えば「爽やかなペパーミントグリーンの風」とか「七面鳥ってなんかキモカワ」といったキャッチーなものがあったりして、普段は見ないことが多い説明文を、今回は、作品とともに追いかけていました。これらのことから、美術館の人々の力が入っている思い入れが分かるようで、そういうのを感じさせられることもあって、充実感の高い楽しい展示だったと思います。個々の作品の感想は、章立てを尊重しつつ、展示されたものを見た順に書いて行こうと思います。

 

2024年3月28日 (木)

ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(15)~エピローグ

 著者は読者に向けて、この本で資本主義を嫌う人に、もっと真剣に経済学を受けとめるように促してきたと言う。経済学は貧困、不平等、社会的疎外等の問題に簡単な答えを与えてくれなどしない。経済学の研究は、善意の人たちが提案した簡単な解決法の多くが成功する見込みがないと証明することで、しばしば事態を紛糾させる。本書では、経済的な疑問について考えるときに起こる抽象的な誤りに終点を置いて論じてきた。その誤りは日常の政治に浸透している。
 謬見が経済学の分野でとくに根深い。それは、人は複雑なことをよく理解できないからである。私たちはすべてのものが他のすべてに依存している事実を無視する。人が環境の変化に応じて行動を考えることを忘れてしまう。すぐにでなくても長期的に帳尻を合わせねばならないことという事実を見落としてしまう。複雑な状況に対応するために単純な議論を提示するのだ。右派は、市場が最高最善の世界を、実践的に達成し得る最良の世界をもたらすと、信じさせようとする。競争は普遍的な万能薬として提示され、政府の非効率は実証的な証拠に訴えるのではなく、政府がしていることは非効率だという想像上の基本原理に従って非難される。これに対して、左派は経済に認められるどんな不公平でも、取引が行われる条件を直接修正するように命令を下すなり、法改正するなりすれば解決できると信じさせようとする。政府にすっかり任せればいいという。このような手っ取り早い解決法などない。と最後に著者は言う。

2024年3月27日 (水)

ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(14)~第12章 レベリング・ダウン─平等の誤った促進法

 平等を推進する方法として、平均より下の状態を改善するというレベル上げがあるが、それより簡単なのは、平均より上の人状態を悪くして平等を達成することだ。他の誰の状態も改善しないで、このような策をとることをレベリング・ダウンと呼ぶ。多くの人は、レベリング・ダウンはつまらないと言う。善悪の判断という点では、結果がよくなったと格付けするには、当人にとってよくなったという誰かが必要なはずだと考えたい。平等の原則の単純な定式化は、この基準を破ってしまう。もっと平等主義にもとづく分配は、たとえ誰一人として暮らし向きがよくならなくても、よりよいこととみなされる。平等にこだわる人ほど、レベリング・ダウンのつけが回ってくるのを避けようとしない。経済学者が平等のトレードオフと呼ぶものを気にしない。
 他の誰の状態も悪くしないで一人の状態が改善されるときには、効率性の向上の可能性が常に見出せる。しかし、効率の増大による便益が均等に分配される保障はない。そこで平等の名のもとに、このような効率の増大を妨げたくなる誘惑が沸き起こる。例えば、他の人よりもいい教育や医療を受けられる人を生み出すというだけの理由で、私立学校や医療機関に反対する人は少なくない。気づかずにレベリング・ダウンすることは起こりやすい。
 平等と効率のあいだには必ずしもトレードオフがあるわけではない。完全競争市場が完全に効率的な結果をもたらす理想の世界とほぼ同じ種類の世界では、効率と平等のあいだに何ら緊張関係はない。この結果は、厚生経済学の第二基本定理と呼ばれる。市場は、平等という点では基本的に透明であり、平等寄りにも反対にも偏っていない。どんな理由であれ、たまたま気に入った結果が得られるのであれば、まさにその結果を競争均衡として生みだす市場経済を整えることは可能である。つまり、たまたま完全な平等が好まれるのであれば、個人に完全な平等と交換するように導く当初の配分の設定は可能だ。だから、世界中に見られる不平等は、市場それ自体のせいではない。だから、原理的に平等主義の製作がレベリング・ダウンしなければならない理由はない。
 第二基本定理によれば、平等を実現するためには、「どれくらい多く」分配するかと、「誰が何を得るか」という二つの決定による。この二つの決定は相互に関係しはない。だから、現実の公共政策の問題を扱うときに出くわすトレードオフは、概して実践的・経験的困難の結果である。実際、効率性を犠牲にして平等性を求める提案は容易い。しかし、真の進歩的な政策の精髄は、効率性に大きな犠牲を求めないで平等性を改善する方法を模索することにある。現代経済学はそれが可能だと教えている。例えば、国が所得累進的な保険料で全国民に保険を提供するという社会保険の原則は、効率とのトレードオフという点ではほとんど負担なしに、平等を高めている。ただし、このような平等の達成は、包括的な平等化政策ではなく、たまたまめぐってきた機会を利用してのものにすぎない。
 左派は折にふれ、効率などどうでもいい、平等にしか関心はないと主張する。だいたい、このようなことを本気にすべきではない。効率に全く配慮せずに平等を高めるというのは、人間の幸福に対する異常な無関心の表われである。人々に平等にみじめか、平等に幸せかは無関心の問題であってはならない。それでも左派は基本的にレベリング・ダウンを擁護する姿勢を頑なに崩そうとしない。左派が犯す過ちのほとんどは自制心の欠如によるものだ。社会の道徳的欠陥をどう直せばいいか見当もつかず、直そうとすると絶対にかえって悪くなりそうなときでも、思いとどまろうとしないからだ。

ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(13)~第11章 富の共有─なぜ資本主義はごく少数の資本家しか生みださないか

 金持ちはのらくら過ごして投資で快適に暮らせることは多くの人を苛立たせる。このような人々の見方によれば、資本主義の問題は資本家をわずかしか生みださないことにある。生活水準を維持したかったら、生産するものをすべては消費できない。毎日の経済活動に使う工場やコンピュータを取り替えるための投資も必要だ。したがって、個人消費の形で支出するよりやや多く、労働力の形で投入しなければならない。このため最も簡単な方法は利子という形で貯蓄に対するインセンティブを個人に与えることだ。資本家は自己属性的に消費を節欲するおかげで利益を得る資格を与えられている。その節約した金に利子を付けて他人に貸す行為は社会的に有益なサービスでもある。彼らのような節欲の能力は思ったほど世間には広まっていない。
 多くの人は貧困は金の不足以外のことから起こるとは頑なに信じようとしない。そして、直接の再配分が社会福祉に多大な利益をもたらす力を過大に評価している。貧困者はただ金銭の不足だけで苦しんでいるのではない。貧困家庭の主な問題として資金管理能力のなさを著者は指摘する。貧困者が暮らし向きのいい人より基本的必需品に多くを支払うはめに陥るのはよくあることだ。そして、敷金を払えない貧困者はアパートを借りることができず、結局のところ割高な日払いのモーテルで暮らすことになる。このようなまとまった額を前払いするとか、長期的な支払ができるためにはある程度の貯蓄が必要になる。その貯えがないため割高な消費から抜け出せないこともある。特に開発途上国では、こういう場合、マイクロクレジットの実施で暮らし向きが大幅に向上したのだった。
 しかし、貧困者の資金管理能力のなさは消費のこらえ性のなさという特徴で表われる。経済学にはそれを表わす割引関数というツールがある。人は一般に将来より現在の満足を選好するという事実を説明するためのツールだ。楽しいことが今日あるのと一週間後にあるのとで、他の条件がすべて同じなら、たいていの人は今日の方を選ぶ。これは未来の不確実さを表しているが、純粋時間選好も表わしている。人は本来こらえ性がないので、あとじゃなくて今の幸せが欲しい。そこで、現在の満足を選好する人を特定の時間まで延期するように説得するには、将来にはもっと大きな満足があると約束するしかない。そのため、預金に利息を付けることが必要と考えられている。利率が゜10%なら現在の100ドルと1年後110ドルは価値が同じだということになる。これを証して1年後110ドルの現在割引価値は100ドルであるという。それが割引関数だ。ちょうどそれは金利と正反対というわけだ。また、このような経済学の金利モデルでは人の遅延の回避の傾向は一定だという前提の上に立っているが、人の未来に対する態度には歪みがある。つまり、きわめて近い未来の遅延はとても大きく、まだまだ先の未来の遅延は重要度が低くなる。これを双曲割引と呼ぶ。ひとは近視眼的な行動する傾向があることを表わしている。これはまた、意志の弱さの表れでもある。このことと、貧困者のこらえ性のなさとが関係しているのは明らかだ。
 これに対して、左派の反応は教育の拡充が万能薬として提案されることが多い。しかし、自分から学ぼうとしない人に教育することはできない。情報を与えることはできても、それに注意を払わせることはできない。教育を身につけるためには、それを受け入れる意思があることが前提となる。この解決策は、問題がすでに解決したことを前提にしている。
 双曲割引の正しい理解は、昔ながら自由と温情主義の対立をかなり解消するのに役立つ。国民に自己の最善の利益になるように振る舞うことを強いる社会政策は、過保護国家の高圧的な介入というより、むしろ個人が心から喜んで支持するであろう自己拘束的な戦略だと理解できる。

2024年3月25日 (月)

ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(12)~第10章 同一賃金

 資本主義で悩ましいことの一つに、労働報酬がその人が受けるに値するものと無関係にみえるというのがある。
 右派によれば、競争市場でならば稼ぎ手が組織にもたらす価値と全く同等な賃金を各労働者に振り当てられると期待できた。この考え方は間違いだった。賃金の最も重要な決定要因はその人が生み出すものではなく、どのくらい簡単に交替可能なのかということだ。それは多くの人の自然的正義の感覚に一致しないが、このように賃金が決められることの利点はいくつかある。また、左派によれば、賃金率は社会が特定の労働に与える価値で決まると考えがちだった。現実には、賃金率は雇用主が労働者の仕事に与える価値で決まるものですらない。
 勤勉で善良な人がいい給料をもらえるのが自然な考えのように思えるのに、資本主義ではそうはならない。結果としての所得の分配には控えめに言っても道徳的に問題がある。市場経済における賃金は他の価格と同じように、報酬というだけでなくインセンティブ効果でもあることだ。分配の公正を理由に慈善的な価格方針を採れば、負のインセンティブ効果を招きかねない。貧困対策として賃金を操作するよりは、労働者に金銭を与える方がましな場合が多い。
 賃金について議論する際には基本的に経済上の事実を念頭に置いておく必要がある。第一に、人間の条件の大本は極貧状態ということだ。人類史の大半で人々は生存水準すれすれ生活をしてきた。そういう状態がデフォルトなのだ。第二に、不公平は吹聴されるほどの大事ではないということだ。ほとんどの貧困社会では不公平はあまり庶民から多くを奪っていない。たとえ上流階級が貯め込んだ富を押収して再配分しても、庶民の生活水準はたいして改善されない。富は概してごく少数の手に集まっているだけで、大多数に分けるとたいして役に立たない。これは国民一人当たりのGDP統計を見れば、富の配分よりも問題は富の総量であることが分かる。
 実際、庶民の所得は社会・政治制度に労働がどれほど良くまたは悪く扱われているかで決まるのではなく、本当に重要なのは労働生産性の平均水準である。これが長期的に賃金を決める。
 賃金は短期的には経営者の好きに弄り回せるが、長期的には労働生産性で賃金が決まる。このため、平均的労働者の福祉の増進のためには、分配の問題にこだわりすぎるのは得策ではない。
 一つの部門の生産性向上から得られる労働者の便益は、当人が生産的に働いているか否かには関係なく、他の労働者たちにも分けられれるものだ。短期的には、一部の労働者が、とりわけ特殊技能をもっていたり時間と金のかかる訓練を受けたりして、他者がその市場に食い込みにくい場合には、特別な生産性上昇の便益を得られるかもしれない。しかし、長期的には労働力は職業間で移動しやすいため、数十年にわたって経済の様々な部門で生産性が上昇し、それを賃金の変化と比べると、ほとんど相関がみられない。ところが、平均生産性の上昇と賃金の上昇には強い相関がある。だから発展途上国の賃金は、労働者個人の生産性が富裕国と比べてもそん色ないほど高度に自動化された工場でも非常に低い。彼らの給料は清算しているものとは少ししか関係していない。
 そしてまた、企業は賃金を均等化する。それは、社員は協力して働かないといけないのに、賃金のばらつきは内輪もめの対立の種となる。このような平等ということは、企業の賃金に重要な制約を加える。幹部と他の従業員の賃金格差は着実に広がってきたが、これはアメリカに限った現象で、大手上場会社のCEOと取締役会の間のガバナンスの分裂に関係している。
 賃金は市場経済では価格であり、一つのものの価格はつねに他のすべての価格次第で決まる。そのうえ、価格は基本的に相対的な希少性を追いかけるもので、このため賃金は、その仕事をする意思または能力がある人間が何人いるかに強く影響される。実際の仕事や必要とされる労力とは、まったく関係がない要素に影響されるから、特定の賃金率が公正か不公正かという直観的道徳判断に頼れば、単純化された政治判断に、極端な場合には役に立たない労働市場政策に陥るおそれがある。

2024年3月24日 (日)

ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(11)~第9章 資本主義は消えゆく運命─なぜ「体制」は崩壊しなさそうなのか(しそうに見えるのに)

 資本主義は固有の矛盾を抱えており、これがいずれ結実して革命的な転換期を迎える、とマルクスは主張した。西欧では、1930年代の大恐慌の時代に、その議論が現実味を帯びたものだった。左派は、資本主義はやがて滅びるものと信じているが、これは過剰生産の誤謬に由来する。
 このことを議論するとっかかりとして景気後退を取り上げる。景気後退の見かけは需要の全般的な不足である。これは過剰生産、供給過剰の状態、つまり売り手が多すぎて買い手が足りない状態にあるからだという。しかし、これは需要の不足を別の視点から見ただけだ。セーの法則と呼ばれるもので、財それ自体が財の需要を生み出す。経済は基本的に交換のシステムであり、一つの財の売り手は他の財の買い手ということになる。総所得と総生産は一致する。それが、市場経済の発達により事情は複雑化した。支払手段として貨幣を使うことで、物々交換とはちがって、貨幣は他の商品のように消費されず、他の誰かに渡されていくし、あるいは貯蓄されることもある。貯蓄されるせいで供給過剰が起こるかもしれないということだ。ただし、銀行に預けられたのであれば、それは融資という形で流通し、需要をつくりだすので、問題はない。
 しかし、ケインズの考察では、貨幣を保有する傾向の変化によって尋常ではない破壊力が生じうる。貨幣で大切なことは支払手段としてだけでなく、価値の貯蔵手段としても用いられることで、企業や個人が保持しておきたい貨幣量は、取引を行うために手許に必要な現金金額ばかりか、特に物価が下がると期待していたら、すぐ使うより手放さず持っておきたいと思う。同じ金額でも将来の価値は高くなるのだから、通貨や金融システムへの脅威に対しても同じ効果が゜生じるわけです。つまり、貨幣の需要が急増するとしたら、ほかのすべての需要が減少しているように見える。ちょうどインフレで、すべての財の価格が上昇して見えるが、貨幣価値が下落しているだけなのと同じで、景気後退ではすべての財の需要が減少して見えるが、実は貨幣の需要が増大しているだけで、そのうえ、この需要を満たすだけの貨幣がなければ毛、人は貨幣を溜め込む。それから通常の財とサービスの取引に携わらなくなる。それは取引が不利だからではなく、貨幣を保持する方が有利だと考えるからだ。言い換えれば、貨幣がただの道具としてよりはそれ自体に価値があるように見えるとき、経済全体を停止させるほどの影響をもちうる。ケインズの主張では、現実世界の景気後退はどれも基本的に同じ構造であり、それらは経済の中での通貨の流通の不調が引き起こす貨幣的現象であって、資本主義システムの固有の矛盾の結果ではない。単に貨幣を増発すれば解決しうるものだという。そのおがけというか、それ以降大恐慌のときのような銀行の大規模な取り付け騒ぎは起こらなかった。
 ケインズの経済学の有害なイデオロギー的影響を著者は述べる。つまり、左派は、雇用の創出は企業の行う公益事業のようなものだと信じ込んでしまったということだ。一般には、労働とは辛いものだから、人はそれを避けようとする。大量失業ということさえなければ、同じことを達成するのに大きな労力を要するより小さな労力ですむ方がいいというのは当然のことなのだが、その反対の意味の結論を出す人が跡を絶たない。例えば、技術革新は労働者の雇用を奪うからよくないというようなこと。特に公共政策の議論では、こういう考えが現われる。
 通常なら雇用の創出はなされるべきことではなく経済がひとりでにすることだ。左派はこの事実をとりわけ意識してようなのに、根底にある原則はどうしても応用できない。例えば、移民が先住者から仕事を奪うという考えは経済学上の誤謬(労働塊の誤謬)に基づくものだ。移民は労働力の提供を増やす一方で、セーの法則により同時に材の需要も増大する。企業はこの需要増に応じるために生産を拡大しなければならず、もっと多くの労働力が必要になる。だから、一国の失業率はその国の人口とは関係ない。技術により引き起こされた失業などというものは移民が引き起こした失業と同じ理由からありえない。テクノロジーが特定の個人を特定の仕事から退けるように、移民が特定の個人を仕事から追い出すことはあるが。しかし、それは経済全体の雇用の損失にはならない。

2024年3月23日 (土)

ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(10)~第8章 「サイコパス的」利潤追求─なぜ金儲けはそうわるくないことなのか

 左派には、利潤を道徳的堕落の根源とみる傾向がある。それは経済的分析としては誤りだ。まず、一般に広く蔓延している二つの誤謬がある。ひとつは「営利」と「私利」との単純な混同によるもの。普通の企業は「利潤」を生み出そうと努める。だが利潤を最大化することは、その企業の従業員の経営者の私利とも一致しない。利潤は株主に支払われる配当という形をとる。しかし、この所有権と経営の分離により、株主は日常の業務に拘わらない。これに対して、実際に会社を仕切っている経営者は所有権を持たない。企業スキャンダルとして有名なエンロン事件はいかがわしい高収入の慣行に企業が関わったのではなく、利益がなかった。企業の経営者は公共部門のマネージャーとさほど変わらない規制の下にある。二つ目は、社会が企業に利潤の最大化を白紙委任しているという誤謬だ。社会が企業に利潤最大化の振る舞いを許しているのは競争市場が構成されている場合だけだ。競争市場が構成されていない構成されていないところでは、例外なく、政府の規制により利潤最大化は明確に禁じられている。例えば、電力会社は値上げしたければ、その都度政府に許可を求めなければならない。社会は独占企業に利潤最大化を許さない。
 利潤の道徳的地位をめぐる議論での不毛な曖昧さの原因として「金儲け」と「利潤を上げる」ことの混同があるという。企業が稼いだ収入はほとんど経費を賄うために使われる。人件費、原材料費、負債の返済など、企業の契約上の義務を果たした残りが「利潤」なのだ。企業は全般として利潤を生むことを目指す。だが、同時に事業を継続することも希望する。すなわち、従業員に賃金を支給し、仕入れ業者に支払いをし、顧客を失わないようにし、企業を倒産させないための数多くの契約の義務を果たす。株主への利潤の配分は、実は最も犠牲にしやすい、企業が法的措置を伴わずに支払いを怠ることができる唯一の部門なのだ。すべての企業は、投入物を提供する供給者、産出物を買う顧客、貸し手、労働者という4種類のステークホルダーと関係している。そこで、だれが企業の所有者なのかということは単純に言えない。企業には一般的な意味での所有者は必要ないからだ。必要な投入物はすべて市場の契約を通じて入手でき、残余財産は再投資される。企業に関係するグループが所有権を負わされる。さきの4つの関係者のグループのどれもが経営権を認められ、株主はそのひとつにすぎない。あるいは労働者か顧客か供給者が企業を所有する場合は協同組合と呼ばれる。実際には株式発行で資金調達をする株主所有の企業が一般的だ。それは、株主所有の形態が有利だからだ。例えば、銀行等の金融機関は、株主所有の形態以外に対して積極的に融資しない。また協同組合では、例えば労働者協同組合では多様な労働者の利益が衝突するとまとまりがつかなくなる。実際問題として協同組合の内部対立は往々にして破壊的になり、所有権を部外者のグループ、偏りのない事実上の決断ができ、効率的にそれを課せる人たちに渡すようになる。そういう人々のグループとは株主なのだった。
以上のように、人が営利追求にひっかかる主な理由は二つある。ひとつ目は営利と私利を同一視して、そのために政府のように非営利の組織の方がともかくも利他的に振舞うと思い込んでいるということだ。だが事実はずっと込み入っている。二つ目の理由は、一般的な企業とは特殊な協同組合にすぎないということ、協同組合はすべて所有者のためにあることを理解していないことだ。労働者、顧客、貸し手、支給者という4つの構成グループのどれが所有者となっても、経営者は、そのグループのために働く。したがって、これらの組織の性格に道徳的に重要な違いはないのだ。だから、株式会社だけが道徳的ではないとは言えない。

2024年3月22日 (金)

ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(9)~第7章 公正価格という誤謬─価格操作の誘惑と、なぜその誘惑に抗うべきか

 異常寒波で交通が遮断され燃料の供給がストップしたときの、燃料価格を値上げするのは合理的ではないと批判する左派は、市場とは何かを理解していない。市場経済での価格の機能は、需給のバランスを達成するために財を分配することだ。燃料が値上がりしていたのは、不足していたからだ。一般的には、不足した燃料の購入を抑えることになる。価格が高くなれば、無駄な使用は控えられて、結果的に必要な使用たけがなされるように調整されることになる。
 彼らは、価格の吊り上げと不当利得を結びつける傾向がある。古代ローマ帝国のディオクレティアヌス帝は「最高公定価格令」を発布した。900以上の財と150のサービスについて価格の上限を定めた。皇帝は特定の財にかんして不当利得に対処していると考えていた。しかし、実際にはあらゆるものの価格が上がるインフレーションに対処していたのだ。すべての価格が上がるということは、分析的には何の価格も上がらないことに等しい。そのとき、唯一その値を下げているのが通貨だ。通貨を見落としがちなのは、直接消費する対象ではないからだ。流通するだけなので、価値があることを忘れてしまう。このとき、賃金物価スパイラルが生じる。つまり、生計費=物価が上がると労働者は賃上げを要求し、その費用が値上げという形で消費者に転嫁され、さらなる賃上げにつながるというスパイラルである。この結果が、貨幣価値の下落を招く。誰もが不当利得を得ようとするとき、誰も成功はしない。インフレ経済で要求される非合理的価格に、道徳的に憤慨することは無意味でしかない。それは実質的な値上げではない。貨幣価値の下落が生み出した経済の幻影にすぎない。
 最初の燃料費の値上げに対して、燃料を必要とするが、値上げした燃料を買えない人々を見捨てるのか?と問われるかもしれない。ここで二つの見方がある。この解決策として、ひとつは燃料費が高すぎるとして価格を変えること、もうひとつはお金が足りないから人々の収入を補うことだ。後者の選択肢は見過ごされる傾向がある。左派の経済学が好むやり方は、価格は市場に設定させ、分配の構成の問題に収入側から取り組むというものだ。例えば、カナダでは電気料金を低く設定している。この種の価格操作は需給という点で負の影響を生み出す。電気が安いと使用量が増える。厳密には、必要より多く使うようになる。電気料金が安ければ節電しようなど考えない。
 社会が財の適正価格を決めるのに用いる指針はさまざまだ。その中でも支配的なのは財の相対的な稀少性によって決められるという考え方。この稀少性が相対的なのは、財のどのくらいの量が妥当かはどれほど多くの人がそれを求めるによるから、稀少性は往々にして、このことを無視する。希少性価値形成は、資本主義の擁護者からも経済学に通じた社会主義者からも受け入れられる魅力的な道徳的理想である。これは、総需要と総供給の一致するときが、個人消費者の支払う価格がその消費の社会的費用を適切に反映しているときだ。社会的費用は各人の消費が社会に課した放棄の度合、または控えさせた消費を表わしている。そこには、他の誰かに消費されたであろうその財だけでなく、その財を作るのに注がれた労働力と資源は他の何かに使えて他の誰かに消費されえたのだということが含まれる。つまり、何かを買った時に、他人にどれだけ不便をかけるかは、他の人がそのものをどれほど欲しているか、それを生産するのにどれだけ手間がかかっているかによる。それを意識していれば、それに応じたものを支払う。個人の消費行動が社会へどんな損失を与えるにしろ、消費した商品から個人が得る満足によって正当化される。もし価格がより安いなら、それを買った消費者は得をすることになるが、この財の生産に使われた資源を他の財の生産に使っていた場合に他の消費者がしたはずの得ほどではない。よって、この消費行動の社会的費用は正当化されていない。もし価格がより高いなら、その消費が社会にかけた費用が相対的にわずかだったことを考えると、これを買った消費者はしえたはずの得はしていない。ひとつの価格が高すぎることは、他のすべての価格が低すぎるということだから、全体の利得を考えると、他の全員の社会的費用は正当化されない。これは、価格が市場清算水準から逸れると、結果として生じる生産及び消費パターンがパレート非効率であるということを指す。
 これまでに、価格操作によって社会的公正という目標を達成とよとすべきでない理由を見てきた。分配の公正という観点からは非効率である。資源の不適切な割り当てによって多くの無駄が生じる。またこれを避けるべき政治的に重要な場合もある。結果として歪められた価格から、市場に予期しない反応が起こる。すると次は、政治家が原因療法より対症療法にあたりたがる。この場合の療法は概して、理に適った市場の振る舞いの一部を禁じるような弾圧的手段である。

2024年3月21日 (木)

ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(8)~第6章 自己責任─右派はどのようにモラルハザードを誤解しているか

 右派の多くは、自らの政治観を私利の表明だけではなく、より幅広い道徳上の責務から生じたと考えているように見える。福祉政策や公共サービスの削減、消費者保護や姿勢監督をゆるめること、環境に対する人間の行為の影響を無視することは、自分たちにとって好都合なばかりか、道徳的な義務だと思っている。
 右派の政治イデオロギーを優位にするものは、自己責任の正しさを信じていることだ。彼らは施しものを求める人を見ると、自然に財布に手が伸びるのではなく、立ち止まって自問する。「どうしてこの人はこうなった?」そして「夕食代を出すのが、なんで当人の責任じゃなくて私の責任なんだ?」と。施しを恵んでやることは、自己責任の問題を無視し、無責任な行動を促すことになり、ひいては社会の道徳の基礎を崩すことになる、というわけだ。このような自己責任の要求で反応しているものは、経済学ではモラルハザードと呼んでいる。
 モラルハザードとは、もともと保険業界の用語で、そこでは災難にあったときに備えて十分保険をかける人ほど災難にあいだちだ。火災保険をかけた人は火事を起こしがちで、健康保険をかけた人は多大な医療費用がかかるようだ、と。ここでの問題は、物事が自己責任の範囲外に出されることだ。個人の損失が他の誰かの問題になる。すなわち、個人の行動のコストを外部化できるようにする。その結果、コストが上昇して、保守派の感情を害することになる。しかし、だからといってすべての保険を捨て去ることはできない。
 自己責任の要求とは、モラルハザードへの対応としての自己保険の要求である。しかし、自己保険には費用も便益もある。そこで保守派による自己責任の要求は、費用便益分析の価値を損なうことになる費用計上かつ便益無視の誤謬に陥る。民間の保険制度が生み出すモラルハザードの問題を無視することになる。
 しかし、保険は経済全般の潤滑油だ。あらゆる取引、経済活動のコストを体系的に下げる。おかげで他人のたにさまざまなリスクをとったり、保険による補償がなければ経済的に実行不可能な様々なことができる。もし保険がなかったら、乗じ着物の配管工は水道管を修理してくれず、食料品店は肉を売ろうとせず、医者は健康診断をしてくれない。そして、ほとんどすべての品が手ごろな値段にならないことだろう。取引の価値はともかくとして、不都合があったときに生じる損害と比べて低すぎるのだ。
 保険は単純な仕組みだが、保険のもたらす便益はとらえにくい。市場取引と違って、型通りの交換の利益を生み出すものではないからだ。標準的な経済取引では、互いの選好が異なることから両者の利益となる。或る人が自分ものよ相手のものを欲しいと思い、相手も逆のことを思っていると、交換が完了したことで両者は満足を得る。それに対して、保険は大数の法則とよばれる現象から相互利益を生み出す。これは選好の相違によるものではなく、ほぼ同じ状況にあり、同じ選好を持つ二人が、両者ともさらされている特定のリスクを持ち合いとすることで互いに利益を得られる。そこでは何も交換されず、金銭のやり取りがなくても、便益は生み出される。そこでは、二人は同じくらいの確立で特定の災難に遭いそうだが、両者が同時に襲われる確率はそれより低くなる。だから、共通の損失の総和を分けることに合意すれば、それぞれが大きな損失の起こる低い確率に置き換えることができる。
 例えば、狩猟社会では狩りに失敗すれば食物を得ることができず飢餓のリスクにさらされている。そこで、10人の狩人が、お互いにその日その日で幸運だったものが不運だった者に獲物の一部を分けることにする。これは保険の原始的な形態だ。結果として分散が生じる。狩り自体には変化はなく、全体で食べられる獲物の量も変わらないが、リスクの共同管理により飢えの脅威が軽減されることになる。生存水準すれすれを切り抜けることも多い伝統的な狩猟・採集社会では、交換の利益よりリスク共同管理の方に関心が集まる。この社会に広範な食物分配や贈与のネットワークが存在するのは、このことの直接的な帰結である。このようなネットワークの存在こそ、現代の資本主義から利他的で、共産主義的な印象を与えられている。共有や相互扶助は単に利他的な心情に基づくとは限らない。従来から社会主義的と呼ばれるものは、平等な分売の公正よりも、リスクの共同管理によるところが大きい。
 狩人の例に戻ると、リスクの共同管理がなければ、10人は各自で獲物を得られなければ飢えるわけで、インセンティブは適正に付与されていたわけだ。しかし、相互扶助となったことで、狩人のひとりがサボっても飢えることはなくなることになる。これにより全体の収穫が減少する、リスク共同管理のしくみを設けた結果として、飢餓が再び起こるかもしれない。それかモラルハザードの効果でもある。だからといって、相互扶助をやめるべきだというのではない。現実的にはリスク共同管理の便益と、そこから生じる費用とを秤にかける。モラルハザードをすべて取り除くことはできないので、管理対策をたてる。つまり、モラルハザード効果が生まれることを認めた上で、より広範なリスク共同管理の便益と費用を秤にかける。
 右派の自己責任の推進、保守主義者たちによる政府の援助は自律の精神を損なうという非難に隠された誤謬は、保険制度の一般的な問題を道徳の問題にしていることだ。補償(援助)はモラルハザード(無責任)を生じがちだというわけだ。彼らが認識し損ねているのは、モラルハザード効果はあらゆる保険制度に共通する特徴だ。彼らは社会的セーフティネットを批判するとき、いつも同じ間違いを犯す。社会的セーフティネットのモラルハザード効果と、まったくそれがない場合のモラルハザード効果とを比較するということだ。後者が勝つのは当たり前で、これは費用計上かつ便益無視の誤謬だ。ここでは、まったくセーフティネットをしない場合の損失が見落とされている。

ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(7)~第5章 すべてにおいて競争力がない─なぜ国際競争力は重要ではないのか

 国際貿易やグローバリゼーションを論じる際に国際競争力が俎上に上がる。そこには誤解がある。経済のすべてに競争力がない状態などありえない。たとえあるとしてもたいしたことはない。なぜなら基本的に貿易は競争関係ではないからだ。競争には勝者と敗者があるが、貿易というのは協力関係だ。もちろん取引の売り手、買い手のそれぞれの側のなかでは競争はあるが、売り手と買い手の間には競争はない。この点で競争はすべてが国内競争である。
 しかし、グローバリゼーションとは勝者が敗者を犠牲にして利益を独り占めするゼロサムゲームであるとの考えが広まっている。国際自由貿易の政策のひとつである自由貿易協定について、著者は最初反対したが、それは誤りだったという。その理由の一つは、貧民労働の誤謬のバリエーションだという。賃金の高いヨーロッパが低賃金のタイや韓国と自由に競争して勝てるはずがない。効率的に競争するために国は、少なくとも場合によっては絶対的に製造コストが安くなければならず、だから豊かな国は貧民の国との貿易から利益を得られるはずがないというもの。それは、ヨーロッパとタイや韓国が、両者以外の第三国に売り込みの競争をする場合だ。ヨーロッパとタイや韓国が貿易をする場合には、そういう第三国は存在しない。両者が相互に貿易を行う。ヨーロッパがタイの製品に関税を課しても、第三国にヨーロッパの製品が魅力的になるわけではない。関税などの障壁を設ければ、両国の間で貿易しにくくなり、それで利益が生まれるか疑問である。
 貿易は交換のシステムであり、すべての輸入は結局は輸出で支払われる。タイはものをくれるだけではなく、何かの見返りを求めている。輸入が輸出を超過するとき、それは外国が過去より多くのわが国の通貨を保有しているから、今年の輸入が輸出を超過したというにすぎない。結局はどうかして輸出で返済しなければならない。相手も馬鹿でない。わが国の通貨は欲しくないのだ。財が欲しいのだ。だから、ヨーロッパの工場が閉鎖になり、オーナーが製造をタイに移転するとして、必ずしもヨーロッパの雇用に純損失があるわけではない。ヨーロッパの工場で作っていたのが何であれ、製造を中止するが、今やタイから輸入するようになった財の支払いのために、他の製品をもっと製造していなければならないからだ。

2024年3月19日 (火)

ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(6)~第4章 税は高すぎる─消費者としての政府という神話

 人は税金が嫌いだというが、それはお金を払うのがきらいだということの特殊な例にすぎない。なのに、人々は税金だけは他と区別されることに、著者は驚く。それを消費者としての政府の誤謬と呼ぶ。それは、医療、教育、国防その他の政府サービスは、私たちの社会にコスト負担させる。私たちがそれを払えるのは、もっぱら民間部門で生み出す富ゆえだ。それを税金という形で政府に譲与する。経済に重税を課す政府は目先の利益にとらわれて財源を失うとして非難される。政府サービスの提供のために、自らが依存している富を生み出すメカニズムを妨げているというのだ。このようにして、政府は富の消費者のように扱われ、民間部門は生産者のように見なされる。
 しかし、国家が生み出す富の大きさは市場のそれと全く同じである。国民が富を生み、国民が富を消費する。国家や市場などの制度は何も生産も消費もしない。これらが構成するメカニズムを通して国民が富の生産と消費を整えるのだ、さらに、人が生産するものの価値は誰がその給与を払うかは関係ない。警備というサービスは、その人が警察官とよばれる公務員か、ガードマンと呼ばれる民間の警備会社からかかわらず、国家の真の富に同じだけ貢献している。
 多くの人が経済制度を人間のように扱う傾向がある。政府に払わせるという表現は、友人や隣人に払わせることと同じだと理解していない。
右派がいうように20世紀に国家は劇的に大きくなり、社会的支出が増えた。そこには国家の質的な変化がある。それを福祉国家と呼ぶ。この場合の福祉は公共財といった方が誤解が生じないだろう。国家が巨大化したのは、市場だけでは届けられないタイプの財である公共財を提供する立場に置かれたからだ。公共財とは、誰もこれを享受することを妨げられず、誰かひとりの消費が他の人の消費を減らすことのないものだ。
課税によって資金確保して国が提供する財には、最適共有グループが反映されている。最適共有グループが全員であるのが、国防や警察消防、上下水道、道路網などで、これらの財は国が提供する。警察は原理的にはコンドミニアムの警備員と変わりはない。税という形でのサービス料の支払いは、コンドミニアムの料金が義務付けられているのと同じように義務的だ。つまり、便益が他と比べて、この便益享受から特定の人を排除するには法外なコストがかかるという理由である。保険、つまり健康保険や社会保険もそうだ。
 そうであれば、税金は本来よくないという見方、税率は低い方がいいという考え方が誤りだということが分かる。課税の絶対的基準は重要ではなく、重要なのは個人がどれほど公的部門から購入したいか、そして政府がどれだけの価値を届けられるかだ。政府は徴税した金を消費しない。政府は私たちが支出を構成する他の手段に過ぎない。この点で税制とは共同購入の一形態である。だから問題は、税がよくないと一律に決めつけるのではなく、最適共有グループの形成から生じる便益が、その共有の取り決めに伴う費用を上回るかどうかだ。

2024年3月18日 (月)

ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(5)~第3章 摩擦のない平面の誤謬─なぜ競争が激しいほどよいとは限らないのか

 ここでは、「次善の一般理論」という論文がアダム・スミスの「見えざる手」が正しくても、今日的な意義はない。それは経済のどこかで完全な効率性に求められる条件が一つでも破られたら成立しないからだということを示した。次善またはほぼ完全な競争市場が、非競争的な市場よりは効率的であろうと考える理由はなない。さらに、完全効率性の条件の一つが破られた場合に、できるだけ完全に近い効率性を達成する唯一の方法は、あえて完全競争市場に求められるルールをさらにいくつか破ることだと主張した。
 経済学者が効率性という概念を一般的な意味とは違う使い方をする。一般的には手段について効率的かどうかを云々するのだが、経済学者は結果が効率的か非効率的かを語る。他の誰かが満足度を下げなければ、ある人の満足度を上げられない結果が効率的と称される。専門用語でバレート最適という。反対に、他の人の条件を悪くしなくても、ある人の条件を改善できる状態は非効率的ということになる。
 この効率性の概念と取引の効用には密接な関係がある。例えば、パーティに集まった子供たちにお菓子を分配するとき、それぞれの子供には好き嫌いがあり、満足度に差が生じるだろう。そこで市場原理を導入して、子供同士で押しの交換を自由に行わせれば、結果は完全に効率的になる。これは「見えざる手」のシステムだ。全員の好みにマッチした理想的なお菓子の配り方をするためには、手の込んだ計画など必要ない。ただ、皆に自由に取引させるだけ。自分がしたいと思うときだけ、お菓子を交換する。この種の私利を求める行動こそが最も効率的な結果を生み出すのに必要となる。
 だからといって、これが自由放任経済でそれが当てはまるとは言えない。個人の交換と交換で構成された完全経済となるためには、かなりの条件をクリアする必要がある。その条件とは、規模の経済があってはならない(大量生産に優位性がない)、需給の決定に価格が影響される可能性も取引費用もあってはならない、将来の不確実性も情報の非対称性もあってはならない、そして外部経済があってはならない。このような条件は、現実の世界で成立するとは考えられない。
 科学的理論では理想的な条件下での結果に基づき法則を導いていく。現実世界に応用するときは、その理想をどの程度まで満たされていくか次第で、予測とはやや違う結果になることだけを念頭においてゆけばよい。現実の世界がニュートン力学の理想の世界に似ていれば似ているほど、観察結果は理想のモデルの予測結果に近くなる。特定の科学的理論に用いられるモデルを、非現実的というだけでは反論にならない。現実の世界のある面を単純化して表わすモデルを開発する目的は、全体を構成要素に分けて、常にすべてのことを検討するのではなく、観察された特定の現象の原因とかっている力だけを切り離して論じられるようにすることだ。これは「摩擦のない平面」手法と呼ばれる。科学に「摩擦のない平面」のような理想化を用いることは何の問題もない。物理学や幾何学であれば、条件の理想化を満たせば満たすほど、現実世界の結果は理想に近くなるが、経済学の完全競争に関しては、完全ではない範囲で条件を満たせば満たすほど、完全効率性の理想からは遠ざかってしまう。例えば、国際的な自由貿易は、貿易制限のない世界が効率的で繁栄する。そこから進んで貿易制限の少ない世界は、貿易制限の多い世界より効率的だ゛ということにはならない。貿易制限のない世界で、もし一国でも貿易障壁が実施されたなら、他の国は貿易への干渉ことが効率性を高めるだろう。

2024年3月17日 (日)

ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(4)~第2章 インセンティブは重要だ─そうでないとき以外は

 経済学者は人間の行動の動機は私利私欲にあると信じていると言われているが、実際に彼らが信じているのは、人間の行動は無節操であるということだ。彼らは、それを、行動はインセンティブに支配されていると表現する。そして、しばしばインセンティブの外的要因をお金に限定してしまう。その原因の一つに、彼らが帰結主義を方法論の前提としてとこにある。帰結主義とは行動は結果によって評価すべきという考え方だ。一般論では、帰結主義は、人が最もしそうなことを知りたいと思うなら、過去ではなく未来へ目を向けるべきだという傾向を示すものだ。過去に約束や決定をしたであろうことより、この意思決定からどんな損得が生ずるかを考えるべき、つまり人が向き合っているインセンティブを検討すべきであるということだ。帰結主義について哲学者は、これを人が理想社会でどう判断すべきかの理論として用いる。それに対して、経済学者は実際に人がどう判断するかの理論として用いる。人間は現実には、そんな狭い判断の仕方はしない。そこで、経済学者は、例えばランズバーグは、人はインセンティブに反応するが、インセンティブにだけ反応するわけではないという。あるいはレヴィットやタヴナーはインセンティブを経済的なものに限定せず社会的や道徳的も含めて考える。
 ランズバーグはインセンティブは重要だと言う。問題は、インセンティブだけが重要かということで、実際に、人は行動の結果だけではなく、行動を支配する基準も気にする。人は、ほとんど経済学者が主張するように行動することはない。経済学者がいうようにインセンティブが重要なのは確かだ。しかし、彼らはその重要性を過大に評価している。それを冷ますこととして、インセンティブだけが重要ではないということ、そしてインセンティブは途方もなく複雑であるといいうことをあげる。例えば最低賃金法は雇用者に対して賃金を上げさせることで、労働力の需要の減少および供給の増加を招き、その結果として実質雇用率は下降し、失業が発生するという経済学のシンプルな図式がある。しかし、労働市場は複雑で各個人が働くか否か、どれくらい、どこで働くかの意思決定は多くの要素に基づいてなされる。また、雇用者が労働力をどう利用するか、どのように雇用決定をするかと同様に複雑だ。だから、シンプルな図式に納まりきれない。最低賃金は生産性を向上させるという見方もある。つまり、人は愚かではないという最初に上げたポイントを忘れてしまうと、インセンティブの重要性の過大な強調が出てくる。大規模な社会のパターンは個人の選択の集積であり、その個人の選択は現地の背景や状況に敏感であるということだ。
 以上のことから、人間心理はとても複雑で、経済学者まいうような人間の合理性やインセンティブへの反応についての仮定は、単純化しすぎたものだ。この過度に単純化されたモデルがよい結果を生み出すこともあるが、的外れな予測をすることもあるのだ。

2024年3月16日 (土)

ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(3)~第1章 資本主義は自然─なぜ市場は実際には政府に依存しているか

 リバタリアニズムの市場さえあれば政府は必要ないという考えには、合成の誤謬がある。リバタリアニズムの大前提は、特定の経済的関心を共有する人たちは、この関心を進展させるためにおのずとまとまる、ということだ。ハイエクは、資本主義経済システムを自生的秩序と呼んだ。しかし、それは誤りであると著者は言う。多数の個人の利害を集めても、ひとつの集団の利害にまとまらない。同じ目的のもとでさえ、全員がその共通の目的に向かって行動するためには、政府の「見える手」の介入が必要になるという。
 リバタリアニズムのベースには次の二つの19世紀に出現したイメージがある。第一には自然を最適化のシステムと見なすことで、ダーウィンの進化論の自然淘汰により弱者や不適なものが排除されるように。第二は資本主義を最適化のシステムと見ることで、市場の秩序が怠惰なもの、無責任なもの、非効率なものを排斥する。この二つの接点はスペンサーの適者生存に要約される。アダム・スミスの「見えざる手」と自然淘汰のメカニズムには親和性があるし、結びつけやすい。綿密な計画と設計の産物に見えたのが、実は盲目的メカニズムの結果だったというわけ。中世キリスト教の世界観では、宇宙の秩序は根底にある神意の産物とされた。森羅万象が追求される善という観点から理解される必要があった。その善がこれらの被創造物の神意の秩序における位置づけを表わしている。善を追求する努力は自然と生命の運行の目的因とされた。人間の場合、この善の追求が最大限に発揮されたのが国家である。これに対して、近代の発端となった科学は神意なしに秩序性を説明した。そこで、生物には善を追求することも神意に従うことも無用だった。自然淘汰が起こるには、自己保存欲求があればよかった。社会に関しては、アダム・スミスが盲目のメカニズムから秩序がもたらされることを示した。国家による意図的な指導など無用だった。市場メカニズムはそれ自体で最適配分を作り出せるというわけだ。そして、この基本となる出発点から、二種類のリバタリアニズムが形成された。第一は、私利だけでも、個人の自己の権利を主張するばかりか、他者の権利をも尊重する動機になる。政府などというものは必要なく、市場経済は自然状態から自ずと発生する。第二は、個人の利益が互いに侵害し合うのを避けるために政府は必要だが、その正当な役割は、それだけに限られるとする。
 この致命的弱点は適者生存から求めることができる。適者生存は、同じ種においては各個体の競争になるが、特定の特徴をもった個体がより多くの子孫を残すことができると、その特徴をもった個体がそれ以外の個体を圧倒し、結果として適者生存ということになる。例えば、オスがメスに交配の相手に選ばれるために美しい尾羽でメスにアピールするが、その尾羽は動くには邪魔で、天敵に襲われた時に逃げにくくなる。つまり不適応という結果だ。ということから、進化は最適化とはイコールではない。これは合成の誤謬による、と著者は言う。ある特定の性質がそれを備えた個体の適応度を高めると、ひいてはその個体が属している集団(種)の適応度を高めることと混同してしまう。ところが実際は、個体にとって良い適応が種にとって良いものである必然性はない。個人が集団の利益の拡大に必要なことをするとは期待できない。
 かりに適切に構成された資本主義経済のもとでは、各自が勝手に関心事に取り組むことができる。全員がルールに従ってかぎり、他者がよい取引をしているかどうか誰も心配しなくていい。全員がその取引を受け入れているという事実が、善い取引をしている証拠になっている。しかし、このように市場を正しく機能させるためには、人は進んであらゆる迷惑行為を慎まねばならない。だからといって、誰もがそのルールに従うとは限らない。そこで、著者が持ち出すのが囚人のジレンマ、あるいはフーライダーの問題だ。人は合理的な私利ばかりを動機とすると仮定した場合では、市場経済の基礎を築くことはできない。
 そこで、現実に人々をルールに従わせる強制力として国家の力が必要なのだ。市場は自然に生じるわけではなく、国家によって創られ、その基本ルールが施行される。
 そこで、リバタリアンは譲歩する。政府は最小の国家の形態をとって、市場という制度の前提条件を整えるのに必要なことだけをすべきだとした。しかし、そのような最小の政府では資本主義経済は安定した成長をしなかった。そこで20世紀にはいると政府は資本主義制度の大幅な改造を図った。資本主義経済を円滑に機能させるために銀行などの金融機関の支払準備制度や倒産した会社の債権者保護などのための破産法制度など。これにより資本主義システムを安定させ、アウトプットの変動を抑え、投資と経済成長を促す大きな力となっている。資本家のための社会事業といってもいい。
 その結果、小さな政府や自由放任の資本主義への傾倒は原理に基づいた個人の自由の擁護というよりも、投資する金のある金持ちに恣意的に利益を与えることになっている。だから、右派の小さな政府の要求は金持ちに益するこれらの措置を続け、ほかはすべて排せよという要求になる。

2024年3月15日 (金)

ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(2)~プロローグ

 著者はSF映画で映しだされる未来社会に広告看板が溢れている街の光景に資本主義経済が当たり前に受け取られていることに驚く。このように資本主義経済が当たり前のようになっている。人々は、決して資本主義に満足し、安心して身を委ねているわけではないが、物質的な欠乏が減じたという実績は否定できない。じっさい、需要と供給のシステム以上に効率的に物がいきわたるシステムは思いつかないだろう。しかし、そこで、資本主義について正しく知らないまま、道徳的見地からは反対の意見を持っている人が多い。それは、資本主義の批判者を標榜する左派にも言えるし、資本主義を擁護し市場経済の推進を主張する右派にも言える。本書では、経済に対する誤解を、その生まれてくるところから見ていこうとする。前半は右派(保守、リバタリアン)の主張を、後半は左派(革新、リベラル)をとりあげる。その際に念頭におくべきこととして次のことをあげる。
・人はバカではない
 社会には他人という自分以外にも自分と同じ程度にものを考えるものがいるということを忘れがちだということ
・均衡の重要性
 経済学的な分析の中心となる概念は均衡という、色々な変化が行き着いて変化しなくなった状態と理解されている。人は変化に対応して行動を起こすから、均衡という状態はそれに相反する
・すべては他のすべてに依存する
 市場経済は巨大な相互依存のシステムと言える。だから、発生した出来事の影響については、十分に関連を辿る必要がある。
・帳尻を合わせるべきものがある
 例えば、誰かがものを売るときには、かならず別の誰かがものを買う。それは、ものを売る唯一の方法とは、それを別の誰かに売り渡すことだからだ。この等価の原則を忘れがち

2024年3月14日 (木)

ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」

11114_20240314234301  10年以上前に読んだはずの本の再読。以前に読んだ記憶が全くない。自宅の本棚(というより本の置き場)を漁っていたら見つけた本。置き場にあるということは、一度読んだことのある筈の本のはずだが、こんな本があることすら覚えていなかった。
 新聞の経済欄などで半可通の経済知識(先入観)に対して、「それは本当か?」と考え直す。著者は経済学者ではなく哲学者。だから、経済学の概念や数式を用いずに通俗的に経済の常識とされていることを由来に遡って考え直す。例えば、保守派の新自由主義の前提とする「神の見えざる手」は現実にありうるのか、完全競争市場という抽象概念は自然科学のモデルと同じように扱えるか、あるいはリベラル派に対して利潤追求は道徳的に許せないか、公正価格を理念から決められるか、といった学説の前提となる考えに対して、「それ本当?」と問いかける。というのだが、分かりにくい。ひょっとしたら、著者自身も正しい理解をしているか疑問に思われるところがある。説明には具体的な例示が頻繁になされて、一見取っ付きやすいのだが、その例が何の例なのか判然としないケースが少なくない。また、著者は結論を明言せずに、例をあげて、その例から読者は察して下さいという体裁をとっている場合が多い。それが、明確に結論を言えなくて逃げているように見えるところがある。全体に表現がストレートでなくて、持って回ったような語り方で、時には論点をぼかしているように見えるところもある。それで、何の例なのか分からない例示があると、読んでいて難しいなと思う。少なくとも、経済学の正しい知識をある程度持っていないと、ちゃんと読むことができない本ではないかと思う。

 

2024年3月13日 (水)

佐藤康邦「絵画空間の哲学─思想史の中の遠近法」(7)~第2部 ルネッサンスの美術

1. ジオットとルネッサンス
 アレーナ礼拝堂の全壁面を飾る『イエスの生涯』の連作壁画において、ジオットはマリアやイエスの生涯の物語をそれ以前には見られなかったような生々しい現実感と多様な人間的表情を備えたものとして描いた。線遠近法がとられ、現実の世界の空間に接続する感じを与える三次元的空間を描き出す手段となっている。そして、この空間の中にじつに表情に富み、生彩を放つ人物の描写が行われている。この人物の描写は、その人物が何を考え、何を意志し、何を感じ、何をしているのかがいかにも明瞭に見て取れるものとなっており、その肢態の処理も生理的必然性に従った自然さというものを示すものとなっている。身体をかがめようとしている男の身のこなしには頭の先から爪先に至るまでその動きに対応した有機的一貫性が見られるし、人々の足は大地をしっかりと踏みしめているように描かれている。建物や自然も、ここに描かれているのは超越的理念に従って恣意的に構成されたものではなく、あくまでも空間の一点から眺めた相において自然の必然的連関に従って客観的に捉えられた建物や自然である。そこに、我々はルネッサンスの精神の萌芽を見る。
2.世界と人間の発見
 ジオットによって与えられた美術に対する画期的な方向付けが、最盛期のルネッサンスに至るまで200年かかった。この過程では、古代美術が学びとられることが、そして人文主義の教養が広く浸透して行くことが必要であった。最盛期ルネッサンスを、ここでは世界と人の発見と要約する。
 まず、世界の発見は自然の発見と言い換えてもいい。レオナルド・ダ=ヴィンチの手稿の中で、我々は解剖された人体の諸器官や骨格の構造、動植物のの微細な構造から広大な地形に至るまでの自然な諸相の観察、また鳥の飛翔や人体の運動から万物を破壊する大洪水に至るまでの自然の運動についての研究、さらに時計の設計から飛行機械や殺戮の機械に至るまでの技術的発明などをめぐるレオナルドの果てしない考察の足跡を辿ることができる。。特徴的なことは、この研究は文字や数式による表現では不十分であり、常に豊富な素描を伴わなければならなかったということである。さらに、絵画や彫刻の製作が自然の科学的技術的探究と相互に動機付けあいながら進行していったものであった。彼の画面に縹渺とした効果を与えているスフマートとでも、光や色や大気や人間の視覚についての研究の一側面あるいは一契機として見なければならないものなのだ。そしてこの中でも、とりわけ重要なものとして、彼自身によって絵画の手綱であり舵であるとされた遠近法をあげることができる。この遠近法の研究を通じて絵画は、それを見る者が立っている空間と接続するような錯覚を引き起こすような三次元的奥行感を持った空間を獲得することとなった。
 このようなルネッサンス美術の自然の客観的把捉の追究は、それが真に透徹したものであるがゆえに、この時代に接続する科学革命の先駆けという意識を持ち帰るものであった。彼の行った解剖学はデカルトに至る人体の機械論的把捉を予告するものであったし、遠近法に従う空間の把捉は、空間を無限に連続する均質な組織として捉え、それを数的比例に従って処理し得るものとして扱うことによって、ケプラーやデカルトの空間把捉に接続し、さらに無限遠点における平行線の収斂の問題はデザルグの射影空間の議論に課題を与える。もとより絵画が絵画である以上、単なる自然の客観的再現にとどまるわけではなく、それを様々の形で美化することが求められはした。レオナルドによって描かれる人物は、それがもっとも美しく見える種類の光を当てることが求められたし、人体の比例関係や黄金比率やピラミッド形が、身体の描写や構図の原理として追究された。しかしそれすら一個の科学として追究されことが示すように、ルネッサンス美術の自然の表現というものは、それ自体で自然の科学ともなり得るものとして、美術の一様式にとどまらず、普遍的打倒的な自然の発見の方式という意義を獲得した。
 人間の発見にも同じことが言えるが、画家による個性の違いが現われる。手稿には、人間の外貌を通じて魂の精髄を捉えるすぐれた人物画家の眼というものが示されている。『最後の晩餐』では、肉体の描写を通じての人間の性格や感情、思考、意志の、典型にまで高められた、完全な表現をめざしたものとして制作された。自らに対する裏切りについて告げるイエスの言葉によって触発された、弟子たちの間に起こった動揺、驚愕、怒り、悲しみ、恐怖、狼狽の表情の表現は、『君主論』の人間心理の把握に匹敵するものとなる。そこでは徹頭徹尾、無限の陰影の階梯を備えた肉体の合理的で現実的な観察に基づく描写を、理想化された美の表現にまで高めたものだ。
 これに対して、ミケランジェロでは様子が違ってくる。彼の人間の発見、人間の表現は、自然の客観的な再現という段階を大きく踏み越えたところで行われる。システィナ礼拝堂の天井画をみれば自然の風景の細部にわたる忠実な描写などが意識的に排除されていて、もっぱら人物の塑像てきな効果が追究されている。人物たちの肉感あふれる肉体描写は幾分か適度に筋肉の隆起が強調され、またある場合には過度に身体の捻転が与えられ、そこでは等身大の人間の尺度を越えて拡大された個人の自由な意志とか高き知性や怒りであり。また沈痛な思索に沈んだり苦悩や恐怖や絶望に打ちのめされている最中において際立った巨人的な精神のふり幅が現われる。
この両極の間に盛期ルネッサンスの他の作家たちの表現を見ることができる。

 

2024年3月12日 (火)

佐藤康邦「絵画空間の哲学─思想史の中の遠近法」(6)~第5章 奥行きの哲学的考察

 ルネサンスの遠近法と近代絵画の遠近法からの離反とを対比させることは、じつはそのままガリレオ、デカルト以来の近代科学を相対化しようとする20世紀の科学的論争主題に重なる。
 幅や高さや、左右といった他の空間のカテゴリーと比べて、奥行きの知覚は、とりわけ身体をたずさえて見るというということに伴う視覚の不思議さが顕在化されるものだと言えよう。というのも、奥行きの距離を正しく知ることは常に困難が伴い、かといって奥行きの距離を直接見ようと思って奥行きを横に回ってみれば、もうそれは奥行きではなくなってしまうということがあるからである。このように奥行きの知覚には、我々が対象を見るにあたっての空間の一点に限定された場所から見ざるを得ないということとの両側面が分かちがたく結びついて、一義的な解明が容易にできないという性格が見られる。
 ではどのようにして奥行きの知覚は擁護できるのか。第一に確認しておかねばならないのは、我々の視知覚が常に感覚の構造化を前提として成り立つということである。我々が奥行きを知覚するためには、対象に向かう両眼の視線の修練する角度(両眼視差)、二次元的網膜に映った対象の見かけの大きさの変化や対象の鮮明度の違いなどの感覚与件が指標となる。しかし、それらのものが奥行き知覚の指標になるためには、それらがばらばらの感覚与件にとどまっているのではなく、三次元的体制化を加えられたものとなっていなければならないということなのである。
このことを現象学で追究したのがフッサールである。奥行き知覚のためには、対象に向かう両眼の修練する角度、見かけの大きさ、対象の鮮明度などが体制化される枠組が必要である。しかし、これも、奥行き知覚がこれらの条件の因果的帰結であるというように捉えてしまうのでは一個の抽象に終わってしまう。したがってこれを正しく把握するためには、奥行き知覚を、フッサールの言葉が示しているような身体、すなわち客観的対象について知覚するに当たって自己自身を意識しており、その能動的な働きかけが世界に受容的に開かれることによって可能となり、局所的に分節化されつつ一なるものであるような二重構造のうちにある身体に引き戻して考察しなければならないということになる。それによって、視知覚にとって両眼の視線の修練する角度、見かけの大きさ。鮮明度の相違が奥行き知覚の指標となり得るのは、それが主観が距離をとって何物かを眺めるという主体的方向づけのもとではじめて奥行きを現前させるように、視知覚を動機づける限りでのことであるという構造が、正しく把握されるということになる。
 この距離をとって眺めるということは、両眼の視線の収斂する角度や見せかけの大きさの縮小を前提として可能なことであるのだから。当然両者は循環構造をなすものとされる。そしてさらに検討を進めるならば、ある瞬間において対象を奥行きの中で知覚する主観は、様々に身体の位置を変えつつ対象を眺め、自らの身体を基礎として対象の大きさや、対象までの距離を測定する主観自身の無数の経験を暗黙のうちに前提しているという構造も見えてくる。すなわち、奥行きの知覚という空間的知覚が、じつは過去と未来の時間の次元を現在の知覚のもとで集約するような時間性を、自らの身体の存在と世界の存在へ確信ともども、潜在的地平とすることによって成り立っているという構造も見えてくる。奥行きの距離というのは、デカルト等が言うように、一点に固定された網膜に映る像とそれを読み取る大脳の作用に還元し得るものであるわけではなく、解きがたい循環をなす生を時間的に生きる主観の手がかりを持つ能力に対する対象の位置として捉え直さなければならないものなのである。このようにとかくされた奥行きが、メルロポンティのいう始元的奥行に他ならない。幾何学的遠近法の原則に従って、見かけの大きさの縮小した対象の実際の大きさや、奥行きの距離が、ほぼ正しく読み取れるのも、逆にまた見かけの大きさの幾何学的遠近法からの逸脱というのも。この見る主観の、世界への手がかりを求めてという文脈の中ではじめて説明することが可能となる。網膜上には同じ大きさの像を結びながら、天空にかかる月に比べて地平線上に昇る月は、とくにまっすぐ延びる街路のかなたにあるような場合、はるかに巨大に見える。これは、近くから徐々に縮小していく建物の並びや街路が奥行きの距離を視知覚させる手がかりを与えてくれるからである。
 このようなことから、今、現に目の前に見えている奥行きには、じつは潜在的には、無数のアスペクトから見られた遠近法構造の交叉というものが前提となっているということである。ところでこの無数の異なるアスペクトというものは、けっして一個人のものに限定して考えてはならないはずのものである。個人の歴史に現われた数々の視知覚の経験の背後には、同一の種としてこの世界に住まう人類の幾百年の匿名の経験が沈殿している。それどころか、両眼をそなえてこの世界を見る動物たちのもとへまで遡って考えるべき視知覚の膨大な年月にわたる経験が沈殿している。このように始元的奥行きは間主観性という性格をはじめから帯びたものとしてある。
 以上のことから、始元的奥行きを、未開人であろうと、古代のエジプト人であろうと、遠近法を知っている近代人であろうと、それぞれの空間経験の基盤として共有しているものとみなすことにしよう。これが間主観性の第一の側面である。しかしまた我々は、一人一人他とは代えがたい個性を持つ者であると同時に、他の人々ともに生きる共同的存在である。したがって、この始元的奥行きに基づいて知覚されたものに反省を加え、能動的に文化的形式をもって奥行きを表現するにあたっては、それぞれの文化と時代を共に生きる人々の間でだけ共有される固有の表現形式に従わざるを得ないということが認められるはずである。これが間主観性の第二の側面である。
 そして、絵画的知性の最大の課題ともいうべき奥行きの探究は、二つの両極のあいだで為されてきた。すなわち、古代エジプト人は、眺める対象について時間的に次元を異にした視覚経験を展開図のように一つの画像中に並列的に描いて表現した。これは彼らの経験の領野の制約に従って、個人的な経験に密着しているという意味で主観的なもののきわみといえる。これに対して、ルネッサンス人は時間的契機を排除して、固定した網膜上の像の再現よって表現しようとした。これは客観的なもののきわみと言える。

2024年3月11日 (月)

佐藤康邦「絵画空間の哲学─思想史の中の遠近法」(5)~第4章 近代絵画における遠近法からの離反

 19世紀末の画家たちによる遠近法からの全面的な離反はマネに始まる。彼の『笛吹く少年』では、影ほとんどつけない平面的な塗り方がされ、また鼻の脇や眼窩につけられたわずかばかりの影も、光の当たった明るい部分と影の暗い部分との間をハーフトーンでつなげ柔らかみを出すなどということをしないで、はっきりとしたアクセントをもった筆致で一気に決められている。少年の立っている床と壁の間の境界線ははっきりとは示されず、ほぼ同一の色で塗られている。これによって濁りのない色と色の取り合わせが鮮やかな効果を上げ。形態は水際立った処理をされ、平らに塗られているにもかかわらず見る者を圧倒する存在感にも欠けていない作品が生み出された。
 そして、ルネッサンス的遠近法の根底的な破壊者がセザンヌである。彼の作品では、物の見かけの大きさは、眼からそれが遠ざかっても幾何学的遠近法に従うよりはずっと抑えられた縮小しかしない。また斜め上から眺められた皿や壺の口も、網膜に映るはずの像よりはずっと少ししか楕円形に歪められない。全体にデッサンのデフォルメが顕著であり、たとえば頭部が描かれた場合に、目、鼻、額のそれぞれの方向の間に明白なズレが認められたり、リンゴや壺が著しく歪んでいたり、テーブルの縁が一直線に結ばれずに、例えば縁にかかるテーブルクロスの左右で食い違っていたり、切れ切れになっていたりする。物の外形が完全に解体することも、まだ輪郭線が完全に消滅することもないが、晩年には一つ一つの筆致による小さな色の面が画面を構成する単位となって、外形の破壊が進み、画面の流動性が高まる。こうして、セザンヌでは、色彩とデッサンは一体のものとして捉えられる。すなわち色彩遠近法が、肉付けにおいてもまた奥行き表現においても、陰影や短触法によるものと同様に重要な役割を与えられている。
 セザンヌの描く人物やリンゴや壺が歪んでいるということは、同一の対象を異なったいくつかの視点から見た形を一つに結合した結果であると解釈することができる。
 その点ですでに固定した網膜像に映る像の再現をめざしたルネッサンスの遠近法の原則から外れていることは明らかである。そしてこの対象を見る視点の多元化により運動の導入が、すなわち時間的契機の導入が可能となってくる。彼は、あくまで一点に止まり続け、対象に目を凝らす。しかし見つめれば見つめるほど、対象は揺らぎだし、動きの中で捉えなくてはならぬものとなる。セザンヌの場合、画家が見るということは、見る主体である画家のたえざる働きかけ、静止しているようでも絶えず小刻みに動き続ける眼球や身体の運動感を伴った働きかけ、あるいはそのような働きかけの可能性の中で対象が捉えられるということだ。したがって眼にもっとも近いという物の「頂点」も、その文脈の中で捉えなければならないものであって、けっしてたんなる物理的距離を意味するわけではない。また後退してゆく周縁部というのも、我々の視線が、たとえばリンゴならリンゴの円い表面を見える前面から見えない背後に向けてなぞってゆく、その動きの中で捉えるものと理解されなければならないものである。
 セザンヌの構図の方も、この運動というものと切り離すことができない関係にある。よく知られた彼の重層的で堅固な構図は、画面上の錯綜した運動感と結び付けられる。セザンヌの作品の多くのものにおいて、われわれはむ、見る者の眼差しが遠近法的に収斂する線に導かれていったんは画面の奥へと吸い寄せられながら、しかもそのまま消点に吸収されて終わってしまうのではなく、改めて遠景を近景へと結びつける運動を与えられて前方に揺り戻されるように構成された構図に出会う。そしてさらに色彩遠近法が加わる。例えば、サント・ヴィクトワル山を描いた作品では、ハーフトーンに暈されることなく紫、青、緑、黄色と微妙に変化する豊麗な色に塗られたサント・ヴィクトワル山が近景の樹木のかなたにたしかな密度と奥行きを感じさせながら浮かび上がってくる。このセザンヌの奥行表現の探究は、彼自身にとっては、自然を見るがままに再現する努力の中で為されたものだが、それが奥行きの問題に関しても全く新しい次元を開くものであった。
 このような19世紀以降の近代絵画における遠近法からの離反は、絵画の主観化ということができる。近代絵画は主観化されることにより、近代の生活の表現の可能性を開いた。例えば、マネは同時代の生活を描いた。しかもみるとおりに一撃でやるという流儀で。彼は、19世紀のバリ無、世界の中心、栄光と頽廃の同居する大都会も洗練をきわめた知性と感受性、懐疑的精神、革命と反革命の間を揺れ動く政治情況のただ中にあったパリの相貌を、人の意表をつくような断面から切り取ったことで、最も創造力豊かな画家といえる。これを達成する方法が、濁りのない色彩であり、ハーフトーンによって和らげられない明確な角度のあるデッサンであり、都会のスピード感に対抗するような大胆な省略的描写法であり、奥行きを浅くした平面的空間構成であったということだ。そして、セザンヌの場合は、その文学性を払拭した純造型的な質だけで、近代的生が何であるかを表現した。
 19世紀末のエルンスト・マッハの感覚論、あるいは20世紀のゲシュタルト心理学において、視知覚における対象の見かけの大きさは、とくに眼から近い場所にある対象については、幾何学的遠近法が示すように眼からの距離に逆比例するように縮小しないし、斜め上から見られた円盤も遠近法どおりに歪むわけではないという恒常視、地平線上の月が天空にかかる月よりもずっと大きく見えるといった錯覚、一点を凝視すれば視野の周辺部が歪んで見える現象、またさらに暖色、寒色の対比が前進後退の運動感を引き起こす共感覚の現象といったものが注目され、研究がすすめられた。このように我々の視知覚像、すなわち脳中枢が受け取る像が網膜像と異なっているということが問題視された。
 物理学的な、計測された空間や時間はけっして根源的な空間や時間ではない。ニュートンの「絶対時間」「絶対空間」も派生的に導き出されたものであって、我々の空間、時間についての感覚などの諸々の感官感覚的要素の方がもとのところにある。それが、我々の生物学的合目的性を持った環境への適応様式を方向づける組織されたものが、我々が空間、時間と呼んでいるものに他ならない。空間は、時間同様に、事物の外にある絶対的容器であるわけではない。また空間と時間とはまったく隔絶した別々の形式というものではなく、両者の連続性も想定される。このような理論が相対性理論につながるものである。しかし、マッハの場合、これはゲシュタルト心理学につながる発想も含んでいた。そこからさらに進んで、呪術的、前科学的段階にある空間と時間の観念を、相対的にではあれ、復権させる意味を持っていたと言える。これらのことから、パノフスキーは、遠近法を科学的普遍妥当性によって根拠づけられるものではなく象徴形式として考察しようとした。画面の彼方に三次元の奥行きを持つ世界が広がってゆくというイリージョンが抹殺され、その代わりに登場した方向を食い違わせた断片的な形態の結合により作り出される不連続な空間、あるいは色彩遠近法によって構成される空間、また時間的要素を導入される空間というキュビズムやフォービズムや抽象絵画における絵画空間には、絶対的容器としての空間というニュートン的空間ではなく、マッハの空間、すなわち物体の間に生起する空間を想わせるものが確かにある。それゆえにこそ、科学の世界における相対性理論の出現は、20世紀の前衛芸術を担う人々の間でも深刻な事実として受け止められたのである。

2024年3月10日 (日)

佐藤康邦「絵画空間の哲学─思想史の中の遠近法」(4)~第3章 遠近法の世界観的意義

 ここでは、遠近法にル絵画をその世界観的意義という観点から把握し直す。
 ルネッサンスに先立つ中世キリスト教美術の非遠近法的性質というものが、実は画家たちは遠近法を十分に知っていて、あえてそれに背を向けたということに由来するものだという。彼らは、中世の世界や人間についての独特の考え方の要求に従った。それは。古典古代の仮象の肯定という世界観が力を失ったところから始まる。古代ローマがキリスト教化されると奥行きの表現は写実的な身体の肉付けともども後退した。皇帝の肖像は、神の代理人としての皇帝を中心とした神聖なる階層的秩序に比べれば、移ろいゆく仮象の再現など何の価値もないというわけで、図式化されていった。絵画空間の神聖化が図られ、写実的な描写が消し去られて行った。一部で遠近法は逆転した形となった。このような様式の頂点がロマネスク美術に見出される。ロマネスク絵画に見られるのは、三次元的な奥行感を感じさせるものを徹底的に画面から消し去ろうとする堅固な意志であり、そこから生まれる造形的集中力である。例えば、ヴィックのサン・マルタン教会の『イェルサレム入城』の著しくバランスを欠いた身体表現、見開かれた眼、鋼のように強い輪郭線、強調された衣褶のリズムなどの様式化は、奥行きのない平版な画面ではじめて可能となる。個々には、徹底した現世拒否と彼岸志向の姿勢が示されている。この不合理ともいえる画面には西洋精神の奥深い本性を現わしていると著者は言う。そこには、我々の心をゆさぶって、死についての想念とか、この世界の悲劇的性格についての想念を呼び覚ます何者かがある。
 しかし、ルネッサンスはこれを捨て、再びギリシャ精神を蘇らせた。中世キリスト教絵画の成立過程とは逆に、遠近法の成立の過程は、絵画空間の世俗化の過程でもあった。それは、生身の人間が、自らの住む空間と網膜像を肯定するところから始まる。ルネッサンスの1世紀前にジオットが出現とともに、それまでとは異なった新しい世界が開かれた。パドヴァのアレーナ礼拝堂の『イエスの生涯』の壁画で描かれた空間は三次元の奥行を示し、そこでは生々しい人間のドラマが繰り広げられる。中世の絵画のような正面を向いた紋切り型のポーズの人物はいない。すべて内発的な意志と感情に従ってかがんだり、横を向いたり、身体をねじったり、また後ろ姿を見せたり、その場にふさわしい動きを示すように描かれている。それが短縮法による空間の三次元的表現と結びつき絵画的空間の世俗化への第一歩が明瞭に印された。
 そして、絵画の世俗化は、ルネッサンスの最盛期になると、聖母子の頭上から聖性を象徴する光輪を除き去り、聖性はただ無限に柔らかで、微妙な凹凸よりなる肉体表面の美によってのみ無表現されるところまで進む。
 以上は、遠近法の持つ啓蒙的、進歩的、側面の要約であり、これまで定式化されてきたルネッサンス解釈である。これに対して、著者は違った観点を提示する。それにより遠近法の世界観的意味を深く掘り下げて把握することができるという。
 ジオットによるパドヴァのアレーナ礼拝堂の『イエスの生涯』から一直線に遠近法が進んだわけではない。ジオット以後の画家でも短縮法のかかわりを極力回避する図式的な作品で優れたものを残している。
 また、イタリアから遠く離れたフランドル地方では15世前半にファン・アイク兄弟たちが現われ、例えば聖母子を描いた作品の中で、場違いであることをおそれずに、その背景にフランドルの壮麗な都市の景観が描かれた。住居や教会や他のもろもろの建物、港、橋、帆船に至るまで都市、人間の多彩な活動の場であり、遠近法もまたそこで誕生を見ることができた都市の光景が驚くほど細密に描かれた。彼らにおいては、神聖なるものに触れるのも、自らの身辺の細々した事物を通じてのみ可能だと思われたのである。ここには、遠近法による空間の世俗化と言い切れない何者かがそこには漂っている。
 例えば、ヤン・ファン・アイクの『ファン・デル・バーレの聖母子』では、一見完璧に見える遠近法において、床と天井を構成する平行線の消点にずれがある。これは彼の未熟さによるものではなく、彼の芸術の本性に根ざす意味を持っている。彼らが生きたのは最後の中世的宮廷「ブルゴーニュ公国」支配下のフランドルであり、そこには近世へと向かってゆく新しいものと、中世の古きものが分かちがたく混在していた。ファン・アイクも中世的なものを引きずっているのである。したがって、彼の細密描写、遠近法の工夫、一点の濁りもとどめぬ色彩からなる画面は、たんに現実の忠実な再現ということを越えて、見る者に一種名状しがたい情調を感じさせるものとなっている。それが、彼の作品における遠近法の消点のずれが対応している。
 同じように、イタリア・ルネッサンスを見ると、例えば、パオロ・ウッチェロの描く馬は極端な短縮法と単純化が施されて木馬のように見えるし、斜めから見られた室内は遠近法を強調するあまり、ひどく歪んで見える。しかも、そこにシルエットのように平板な人物が描かれたりする。彼のように遠近法を突き詰めていくと写実を突き抜けて抽象的なものに見えてくる。
 あるいは、ピエロ・デラ・フランチェスカの作品は、厳しい形態の単純化のゆえに、ルネッサンスを突き抜けてキュビスムにつながるものを感じさせる。このようなことは、盛期ルネッサンス、例えば、レオナルド・ダ=ヴィンチにも言える。
 遠近法の技法の開発による奥行き表現の探究はルネッサンスの絵画を生み出したが、さらにそれを変質させ、次の近代の絵画の様式を生み出す原動力ともなった。
 著者は、以後の絵画を見ていく。
 ルネッサンスの次の世代の様式、マニエリスム、例えばティントレットは主な平行線の消点を画面の中央から片隅に移し、そのことによって激烈な渦巻運動を作り出して独特の熱っぽい効果を高めた。このように、マニエリスムやバロックの絵画は、ルネッサンスの絵画により見られるように主な平行線の消点が画面の中心に置かれる構造上の不自然さが克服され、より自然で柔軟な空間表現が可能となった。それに加え、色彩について固有色への従属が絶対的ではなくなり、微妙な光と影の色の戯れの表現への道が開かれ、デッサンにおいてデフォルメが行われるようになり自由な運動感が表現できるようになった。これらは、けっしてルネッサンスの否定ではなく、ルネッサンスの表現力の拡張を目指すものであった。ここでは、ルネッサンスの理想主義は後退するが、代わりに、世界の多面的な姿についてのより強烈な現実感を伴った客観的表現が可能となった。それは同時に、画家の個性に深く根差した主観的表現の道も開かれたのだった。
 同時代にはデカルトがいる。デカルトの数学的自然観の前提には、思惟する自我についての果てしない省察があった。世界が、思惟する自我の打ち立てた合理的な前提の前で透明になるにしたがって、自我の内面に無限の陰影が生まれる。このような思想のあり方に対応する芸術として、著者は17世紀オランダの画家レンブラントをあげる。レンブラントの筆を通じて、人間のうちなる天使的なものと獣的なものとは、白日のもとにさらけ出される。そこで描かれているものは、たとえばルネッサンスの絵画に見られるような人間の様々な典型、高貴な者、下劣な者、賢き者、愚か者、美しき者、醜い者といった者の典型であるわけではなく、箒を抱えた女中であろうと、死に近きユダヤ人の老人であろうと、その眼差しは誰にも逃れることはできない人間の条件を見つめているようであり、生の喜びのうちにある人間の姿を描いても、そこには常に慎ましい内省の影が差しているように描かれる。その一方で、アブラハムを訪れる天使はまるで腹をすかした乞食の老人のように描かれる。レンブラントは多数の自画像を描いたことで知られているが。そのことは彼の芸術の特質を物語っている。その一連の自画像の中で、自我への果てしない問いが繰り広げられる。このただ人間の肉体の表面を描いたにすぎない画像において、言葉では語り尽くせぬ思想が表われている。
科学(学問)と芸術との対応が語られたとしても、同時代の科学的発見や技術的発明が単純に芸術技法に転用されるという水準で捉え切れるものではない。バロックの巨匠の絵画は、自然のさまざまな構造を明らかにしていく精神、それだけでなく国家の構造さえも経験と合理的原則に基づいて明らかにする精神の無対応物として捉えられる。遠近法による空間の世俗化は、バロックにおいて爛熟の域に達する。しかしまた、爛熟の域は崩壊によって受け継がれる。つまり、遠近法からの逸脱が始まる。

佐藤康邦「絵画空間の哲学─思想史の中の遠近法」(3)~第2章 科学革命と遠近法

 ここでは、絵画の遠近法が科学における空間や視覚の解明とどのような関係を結んでいるかを見ていく。
 幾何学的な遠近法に従って平行線を一点に収斂するように描いた場合、その一点、すなわち頂点は無限遠の場所を意味する。これを数学的に解明したのは17世紀前半の射影幾何学だが、15世紀初頭の神学者コニラウス・クザーヌスは宇宙の無限性や地球の円運動について語っていた。ただしこれは、科学的な知見によるものではなく、神学上の思弁、万物を神の展開されたものとして捉える汎神論的思弁によるものであった。それは、小さな画面上に二本の平行線が一点に収斂する消点を示すことにより無限遠の距離を表わす遠近法絵画への対応するよすがとなった。この無限概念はルネッサンス末期のジョルダーノ・ブルーノによる宇宙をまったく等質で無限な広がりを持つものと捉えるところまで進む。そしてガリレオによる、空間を無限に連続する均質な組織として取り扱い、数的な比例関係によって処理するという考え方に至る。これは幾何学的遠近法の前提となる考え方である。
 遠近法技法の空間把握に対応し得るものは、視覚についての解明にも見ることができる。遠近法の視覚ピラミッドによる視覚の客観的解明への歩みは、ケプラーやデカルトによって解剖学的、光学的裏付けを与えるところまで進む。デカルトは『屈折光学』において、スコラ哲学の「志向的形質」の概念を排除して、視覚をただ光線の作用としてのみ理解する。外界の対象から発せられた、あるいは反射された光は、我々の眼の水晶液に満たされたレンズ状の部分を含めた三重の膜を通過して眼底の膜(網膜)に達し、そこに対象の倒立の像を結ぶ。この光線による刺激は動物精気によってふくらまされた神経管中の繊維を伝わり、脳の一点、すなわち思惟する実体の座す一点に到達する。そこから、我々は対象の姿を読み取るのだが、その際、デカルトは眼底に映った像が実際の対象にあまり似ていないことに注意を促す。それは遠近法どおりに描いた絵画と同じで、遠方の物体はひどく縮小して見えるし、斜め上から見られた円盤は楕円形に歪み、平行線は一点に収斂する日本の線分のように見える。にもかかわらず思惟する実体は、ここから対象のほぼ正しい形や大きさ、さらにほぼ正しい眼から対象への距離や対象に向かう角度についての知識が相互に支え合う形で、対象の認識に到達する。それというのも、見る主体が眼ではなく心であるからだとデカルトは説明する。
 以上のことから、イタリア・ルネッサンスの画家たちによって探究されて来た遠近法的空間が、科学革命の時代に成立した数学的、機械論的自然観を支える空間や視覚の理論に先駆ける位置にあることが明らかとなった。遠近法に従う絵画で探究されたことは、空間と視覚とを客観化すること、すなわち閉ざされた経験や習慣に従うのではなく、無限についての新たな把握を含む数学的な手続きと実験的手続きをもって、外界の客観的な像の再現を図るものに他ならなかった。

2024年3月 8日 (金)

佐藤康邦「絵画空間の哲学─思想史の中の遠近法」(2)~第1章 遠近法とは何か

 本書の主題は、絵画における遠近法の哲学的意義というものだ。絵画というものは、点、線、面、色彩をもって二次元の平面に視覚的世界を作り出そうとする芸術だが、それはいつも三次元的な立体の世界でのわれわれの視覚的経験の報告という使命を負っている、というパラドクスを負っている。遠近法はそのパラドクスに深く根差したものである。しかし、このパラドクスは、われわれの視覚のものでもある。それゆえ、絵画というものは、いつも平面であることを越え出ようとする衝動に駆られつつも、平面にとどまることを余儀なくされ、そこに秩序を構成してゆかねばならないものと定義し直すことができる。絵画が芸術として称えられる場合、三次元的立体を二次元的平明に゜移し替えるだけの機械的な技術を越える何かが付加されることが求められるのだ。
第1章 遠近法とは何か
 遠近法は、狭義では、ルネッサンスの時代にイタリアやフランドル地方で確立された、絵画の画面上に奥行のイリュージョンを出現させる技術のことを言う。
 ただし、絵画の奥行表現ならばルネッサンス以前から、いくつかの方法が存在していた。例えば、線で形態の枠取りをすることで背景から浮かび上がる地と図の関係に基づく効果や重なりを描くことや陰影をつける、画面の上の方に位置させると当区にあるように見えるなどの方法である。それらは遠近法ではなく、一般的に平面的な絵と呼ばれる。
 古代ギリシャをはじめ近代以前にも遠近法的な絵画は描かれていたが、遠近法ではなかった。その理由として、等質で無限定な量的システムの内にすべての物体を包括するようなデカルト的空間把握が成立していかなったからだという。また、古代ギリシャ人は同じ事物でも、見る場所や条件の違いによって、見かけの大きさや形が変わってしまうことに気づいた。それを忠実に模倣したのが遠近法であり、それは我々の視点に忠実であろうとしたことに他ならない。さらに、ギリシャ人たちは神話の一場面を描く時でも、神話の物語や登場人物が「何であるか」を図式的に示すだけでは満足せずに、物語の情景や人物の容姿、衣服、振舞などが「いかにあるか」までも詳細に描かずにはすまなかった。束の間の仮象に目を止め、そこに高い価値を認め、じっしょうてきに研究することと、その仮象においてこそ至上の美を認め、そこに真の深みを探るところにギリシャ人の性格が表れている。ギリシャ人は、立体を立体で表現する彫刻の方を絵画より重視した。しかし、レリーフや壺絵では4分の3射角デッサンなどの描法で遠近法の萌芽を見ることができる。
 いわゆる文芸復興でギリシャ古典の再興と言えるルネッサンスの遠近法は、そういうギリシャ文化を引き継いだものと言える。遠近法の成立は15世紀のブルネレスキによるとされている。しかし、後方に向けて事物を縮小させるように描く短縮法は14世紀にジオットが行っている。ルネッサンスにより遠近法が成立したというのは、遠近法が科学、とりわけ数学的原理結び付けられて研究され、理論化されたからだ。
 すなわち、我々かこの世界の事物が見えるということが、対象の表面から発せられる、あるいは反射される光が我々の眼を通って感覚に対象の形態を伝えると説明される。眼の奥の一点と対象の表面とを結ぶ糸のように細い光線の束が作る視覚ピラミッドが我々に対象を見ることを可能にする。そして絵画とはこの視覚ピラミッドを、どこか任意の場所で切り取った裁断面に他ならないとされる。この裁断面上の像は、対象の頭が裁断面と平行に場合には対象の表面と相似形になり、見かけの大きさは対象が遠ざかるにつれ対象との距離に反比例する形で縮小する。しかし、我々の感覚は、このようなことを、はっきりと確認することは、実は容易ではない。それは、日常の視覚では恒常性が、次々と移り変わる視覚的感覚与件の根底にあって、見かけの大きさや形の変化を気づかせないように作用しているからである。だから、遠近法的な見かけの大きさや変化を捉えるには、日常の感覚的態度を一旦停止させる必要がある。この日常的な態度を越え出て視覚について検討を加え、視覚ピラミッドの裁断面を定着させるため数学的・図学的裏付けにより人工的手段を用いる。例えばデッサンである。三平面法などがそれであり、このような工夫は画家を科学的研究に向かわせることとなった。
 その典型例がレオナルド・ダ=ヴィンチである。彼にとって、絵画は自然についての経験的な観察に基づく諸研究の最終目標であるとともにそれらの研究を導く上での最上の手段でもあった。彼が絵画の技法の中でも特に重視していたのが遠近法だった。彼は遠近法を次の三つに分類している。
(1)線遠近法:眼から遠ざかってゆく対象が縮小していく
(2)色彩遠近法:眼から遠ざかってゆく物体の色彩の変化に基づくもの
(3)消失遠近法:対象が眼から遠ざかるにつれ対象がぼやけてゆくことに基づくもの
プラス(4)空気遠近法

2024年3月 7日 (木)

佐藤康邦「絵画空間の哲学─思想史の中の遠近法」

11113_20240307231501  芸術と哲学の関係については、プラトンは『国家』で、可視的な事物がイデアの模倣にすぎないものであり、さらにその瑕疵的事物の模倣にすぎない美術は二重の模倣の結果であり、誤謬も甚だしいものとなっているはずだと否定的に評価している。あるいは、パスカルのように宗教的倫理の立場から否定的言辞を呈する等していた。彼らから見れば、美や芸術には恣意的で、曖昧で、理不尽な側面は否めない。
 しかし、一方で、美や芸術は人々の多大な関心と情熱を惹きつけ続けてきた対象であり、そこに多大な努力が注がれ、人間の文化の中に固有の価値を占めていることは否定できない。さらに、一面において、芸術の美は科学的真理とも、倫理的善とも、また生理的快感とも区別されるものであるが、他面において、それらと緊密な結びつきを持つでもある。偉大な芸術作品は世界についての深い知識を語り、偉大な科学上の発見には優れた芸術創造を思わせるものがある。
 プラトンも『饗宴』では美が真理と同一視されている。可視的世界に属する肉体の美への恋が、やがてはイデアの世界への恋へと移し替えられるべきものとされている。肉体と魂、イデア的世界と可視的世界の峻別というプラトンの哲学の表向きの前提とは別に、彼の哲学は美によって深く動機づけられている。それゆえにこそ、イデアという概念が芸術家に霊感を与え、さらに芸術に特別な高い地位を授ける類の哲学者に対して鍵となるような思想を提供しえた。ルネッサンスの芸術にとって新プラトン主義の教説は、その典型例と言える。
 芸術には、プラトンの説くイデアの助けを借りずには語りえぬものがある。人が真理を知るのはけっして魂の外の対象からの感覚的刺激によるものではない。魂がもともと持っていたイデアについての記憶を蘇らせることによってなのだ。それは学問的真理にとどまらず、絵画、音楽、詩によって自己の内面の意識の開花期の原初的な記憶とでもいうべき記憶を呼び覚まされた経験を持つ者であれば、納得できるものだ。
それゆえ、芸術作品について言えは、何らかの形で哲学に拮抗しうるような内容の深さを含まないものは真に優れた作品とは見なされないであろうし、また哲学について言えば、芸術の与えてくれる豊かな生の諸相とかかわり得ぬものは貧困なものにとどまる。

 

2024年3月 6日 (水)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2023(8)~オマハで何を?

 2024年5月4日に開催されるバークシャーの株主総会にぜひお越しください。ステージには、現在会社の舵取りにおいて主要な責任を負っている 3人のマネージャーが登場します。この3人の共通点は何だろうと思われるかもしれません。確かに似ていません。さらに深く掘り下げてみましょう。
 バークシャーで保険以外のすべての業務を統括するグレッグ・アベル氏は、あらゆる面で明日バークシャーのCEOになる準備ができています。彼はカナダで生まれ育ちました(彼は今もホッケーをしている)が、1990年代、グレッグは私からわずか数ブロック離れたオマハに6年間住んでいました。 その間、私は一度も彼に会うことはなかったのです。
 10年ほど前、インドで生まれ、育ち、教育を受けたアジット・ジェインは、私の家(私が1958年から住んでいる)からわずか1マイルほどのオマハに家族と一緒に住んでいました。アジットと妻のティンクにはオマハ人の友人がたくさんいますが、(再保険の活動の多くが行われる場所のため)ニューヨークに移住してから30年以上が経ってます。
 今年はチャーリーがステージから姿を消します。彼も私も、皆さんが5月の集まりで座る場所から約2マイル離れたオマハで生まれました。最初の10年間、チャーリーはバークシャーが長年オフィスを構えてきた場所から約800mのところに住んでいました。チャーリーも私も幼少期をオマハの公立学校で過ごし、オマハでの子供時代が子供時代が忘れがたいものとなりました。しかし、私たちが会ったのはずっと後になってからでした。(皆さんを驚かせるかもしれない脚注: チャーリーは、アメリカの45人の大統領のうち15人の下で生きました。人々はバイデン大統領を第46代と呼んでいますが、その番号付けでは、グローバー・クリーブランドは第22代と第24代の両方に数えられています。なぜなら、彼の任期は連続していなかったからです。アメリカはとても若い国なのです。)
 企業レベルに話を移すと、バークシャー自体は1970年に81年間住み慣れたニューイングランドからオマハに定住し、問題を後に残して新しい本拠地で開花しました。
 「オマハ効果」の最後の締め括りとして、バーティ――そう、あのバーティ――はオマハの中産階級が住む地域で幼少期を過ごし、数十年後、この国の偉大な投資家の一人として頭角を現したのでした。
 皆さんは、彼女が全財産をバークシャーに投資し、ただそこに座っていただけだと思っているかもしれません。しかし、それは真実ではありません。1956年に家庭を築いてから、バーティーは20年間経済活動に積極的に取り組み、債券を保有し、資金の1/3を公募投資信託に積み立て、株をある程度の頻度で取引しました。 彼女の潜在能力は注目されるませんでした。
 そして1980年、46歳のとき、バーティは兄からの強い勧めにも関係なく、ある決意をしました。投資信託とバークシャーのみを保持し、その後43年間、彼女は新たな取引をしませんでした。この期間中に、彼女は多額の慈善寄付(9桁の金額を考えてください)を行った後でも、非常に裕福でした。
 何百万ものアメリカの投資家が、彼女がオマハで子供の頃に何らかの形で吸収した常識のみを含む彼女の推論に従うことができたでしょう。そして、バーティはチャンスを逃さず、毎年5月にオマハに戻って活力を取り戻します。

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 そこで何が起こっているのでしょうか?オマハの水ですか?オマハの空気でしょうか?それは、ジャマイカの短距離走者、ケニアのマラソン選手、あるいはロシアのチェスの専門家を生み出したような、不思議な惑星現象なのでしょうか?AI がいつかこのパズルの答えを導き出すまで待たなければならないのでしょうか?
 オープンマインドでいましょう。5月にオマハに来て、空気を吸い、水を飲み、バーティとその美しい娘たちに「こんにちは」と挨拶しましょう。知るか?マイナス面はなく、いずれにせよ、楽しい時間を過ごし、大勢のフレンドリーな人々と出会うことができます。
おまけに、『Poor Charlie's Almanack』第4版も入手できるようになります。ぜひ手に取ってみてください。チャーリーの知恵は、私の人生と同じように、あなたの人生をより良いものにしてくれることでしょう。


これで、2023年の株主への手紙の翻訳を終わります。拙い訳にお付き合いいただき、ありがとうございました。

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2023(7)~2023年のスコアカード.

 当社は四半期ごとに、以下に示すような方法で営業利益(または損失)の概要を報告するプレスリリースを発行します。通期の集計は次のとおりです。(集計表は省略)

 2023年5月6日に開催されたバークシャーの株主総会で、私はその朝早くに発表された第1四半期の業績を説明しました。続いて、通期の見通しを簡単にまとめました。(1)当社の保険以外の事業のほとんどは2023年の収益低下に直面しました。(2)この減少は、2022年の営業利益の30%以上を占めていた当社の2つの保険以外の最大の事業、BNSF とバークシャー・ハサウェイ・エナジー (「BHE」) の業績の好調によって緩和されるだろう。(3)バークシャーが保有する巨額の米財務省短期証券のポジションが、ついに私たちが受け取っていたわずかな額をはるかに上回る額が払込まれるようになったので、当社の投資収益は大幅に増加することが確実でした、そして(4)保険の引受業務はいずれも好調であったため、利益は経済の他の分野の利益とは相関関係がないこと、それを超えて損害保険の価格は上昇していた。
保険は期待通りでした。しかし、BNSFとBHEに対する私の予想は間違っていました。それぞれを見てみましょう。

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 鉄道はアメリカの経済の将来にとって不可欠です。鉄道は、コスト、燃料使用量、二酸化炭素排出量を測定した結果、重量物を遠くの目的地に移動する最も効率的な方法であることは明らかです。短距離輸送の場合はトラック輸送が有利ですが、アメリカ人が必要とする多くの商品は、何百マイル、場合によっては数千マイルも離れた顧客まで運ばなければなりません。 国は鉄道なしでは運営できず、鉄道業界の資金需要は常に膨大になります。 実際、ほとんどのアメリカ企業と比較すると、鉄道は資本を食いつぶしています。
 BNSF は、北米を網羅する6つの主要な鉄道システムの中で最大です。私たちの鉄道は、23,759マイルの線路、99のトンネル、13,495の橋、7,521台の機関車、その他の各種固定資産を貸借対照表に700億ドル計上しています。しかし、私の推測では、これらの資産を複製するには少なくとも5,000億ドルがかかり、その作業を完了するには数十年かかるでしょう。
 BNSF は、単に現在のビジネスレベルを維持するために、減価償却費を上回る額を毎年支出しなければなりません。 この現実は、投資した業界が何であれ、オーナーにとっては不利ですが、資本集約型の業界では特に不利です。
 BNSFでは、14年前の買収以来、GAAP 減価償却費を超える支出は合計220億ドル、つまり年間 15億ドル以上という驚異的な額に達しています。 ああ!このようなギャップは、私たちが定期的に負債を増やさない限り、BNSの所有者であるバークシャーに支払われる配当がBNSFの報告されている利益を大幅に下回ることが定期的にあることを意味します。そしてそれを私たちは、そのようなことをするつもりはありません。
 その結果、バークシャーは、見た目よりも低いとはいえ、購入価格に対して許容範囲内の利益を受け取り、また、不動産の再取得価値についてもわずかしか受け取っていません。 それは私やバークシャーの取締役会にとって驚くべきことではありません。 これは、2010 年に BNSF をその代替価格のほんの一部で購入できた理由を説明しています。
 北米の鉄道システムは、大量の石炭、穀物、自動車、輸出入品などを片道で長距離輸送しており、その移動により逆輸送の収益上の問題が生じることがよくあります。 気象条件は極端であり、線路、橋、設備の利用を妨げることがよくあります。 洪水は悪夢になる可能性があります。 これはどれも驚くべきことではありません。 私はいつも快適なオフィスに座っていますが、鉄道の仕事は屋外での活動であり、多くの従業員が困難で、時には危険な状況で働いているのです。
 進行中の問題は、一部の鉄道事業に特有の困難で、しばしば孤独な雇用条件を求めないアメリカ人の割合が増えていることです。 技術者たちは、3億3,500万人のアメリカ人口のうち、孤独な、あるいは精神に障害を抱えたアメリカ人が、100両編成で1時間、1マイル(約1.6キロ)以内に停止できない異常に重い列車の前に横たわって自殺しようとしているという事実に対処しなければならない。あなたも無力な機関士になってみませんか?このようなトラウマは北米ではほぼ1日に1回発生します。 それはヨーロッパでははるかに一般的であり、これからもずっと続くでしょう。
 鉄道業界における賃金交渉は、最終的に大統領と議会の手に委ねられる可能性があります。さらに、アメリカの鉄道では、業界がむしろ避けたい危険な製品を毎日輸送する必要があります。 「コモンキャリア」という言葉は鉄道の責任を定義します。
 昨年のBNSFの収益は、収入が減少したため、私が予想していた以上に減少しました。 燃料費も下がったのですが、ワシントンで公布された賃上げ率は国のインフレ目標をはるかに超えていました。この相違は今後の交渉で繰り返される可能性があります。
 BNSFは北米の主要鉄道会社5社の中で最も多くの貨物を輸送し、設備投資に多くを費やしていますが、当社の買収以来、その利益率は5社すべてと比較して低下しています。BNSFの広大なサービス領域は他の鉄道会社にも負けないものであり、したがって利益率の比較は改善できるし、改善すべきであると私は信じています。
 私は、この国に対するBNSFの貢献と、アメリカの商業動脈の開通を維持するためにノースダコタ州とモンタナ州の冬に氷点下の屋外仕事で働く人々の両方を特に誇りに思っています。 鉄道が動いているときはあまり注目されませんが、鉄道が利用できなくなったら、その空白はアメリカ全土ですぐに注目されるでしょう。
 今から1世紀後、BNSFは国とバークシャーの主要な資産であり続けるでしょう。それを期待してほしい。

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 昨年、2回目の、そしてさらに深刻な収益の失望がBHEで発生しました。BHEの大手電力事業と大規模なガスパイプラインのほとんどは、ほぼ予想通りの業績を上げました。 しかし、いくつかの州の規制環境により、収益性がゼロになるか破産する可能性が高まっています(カリフォルニア州最大の電力会社で実際に起こったことであり、ハワイ州では現在その恐れがある)の可能性さえも高めている)。このような管轄区域では、かつては米国で最も安定した産業の一つとみなされていた電力産業の収益と資産価値の両方を予測することが困難になっています。
 1世紀以上にわたり、電力会社は固定株主資本利益率(優れた業績に対しては少額のボーナスが付く場合もある)という州ごとの約束を通じて、成長資金を調達するために巨額の資金を調達してきました。 このアプローチにより、数年後に必要となるであろう容量のために巨額の投資が行われました。 この将来を見据えた規制は、電力会社が建設に何年もかかることが多い発電・送電資産を建設しているという現実を反映していた。BHEによる西部の複数州にわたる大規模な送電プロジェクトは2006年に開始され、感性までまだ数年かかります。最終的には、米国本土の面積の30%を占める10州に送電することになります。
 このモデルが民間と公営の両方の電力システムで採用されていたため、人口増加や産業需要が予想を上回った場合でも、電灯は点灯したままですみました。「安全域」アプローチは、規制当局、投資家、一般の人々にとって賢明であるように思えました。現在、この「固定的だが満足のいくリターン」の約束はいくつかの州で破られ、投資家は電力システムの破綻が広がるのではないかと懸念し始めています。気候変動は彼らの不安に拍車をかけています。地下送電は必要かもしれませんが、数十年前、誰がそのような建設に驚くべき費用を払いたいと思ったでしょうか?
 バークシャーでは、これまでに発生した損失額について最大限の見積りを作成しました。これらのコストは森林火災から発生しており、対流性の暴風が頻繁に発生すると、その頻度と強度は高まってきて、今後も増加し続ける可能性が高いです。
 BHEによる森林火災による損失の最終的な被害額が分かり、脆弱な西部の州への将来の投資の是非について賢明な意思決定ができるようになるまでには、何年もかかるでしょう。 他の地域で規制環境が変化するかどうかはまだ分からない。

 他の電力会社も、パシフィック・ガス・アンド・エレクトリック社やハワイアン・エレクトリック社と同じような存続問題に直面する可能性があります。現在の問題を没収するような解決策は、明らかにBHEにとってマイナスとなるだろうが、BHEとバークシャー自体はどちらもネガティブな突発事項に耐えられる構造になっています。私たちの基本的な商品はリスクを想定する保険事業で定期的にこのような事態が発生しますが、他の地域でも同様の事態が発生する可能性があります。バークシャーは予想外の経済状況に耐えることができますが、良貨を悪貨に投じるようなことはありません。
 バークシャーのケースが何であれ、電力業界の最終的な結果は不吉なものになるかもしれません。一部の電力会社はもはやアメリカ国民の貯蓄を引き寄せることができなくなり、公営電力モデルを採用せざるを得なくなるかもしれません。ネブラスカ州は1930年代にこの選択をし、州全体で多くの公営電力による運営が行われています。最終的には、有権者、納税者、ユーザーがどのモデルを好むかを決定することになります。
 塵も積もれば山となり、米国の電力需要とそれに伴う設備投資は驚くべきものになるだろうと思います。私は、規制上の収益の不利な展開を予期しておらず、考慮すらしていませんでした。そして、BHEのバークシャーのパートナー2名とともに、そうしなかったという大きな失敗を犯しました。

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 問題点についてはもう十分です。昨年の当社の保険事業は非常に好調で、売上高、フロート、保険引受利益で過去最高を記録しました。損害保険(「P/C」)は、バークシャーの幸福と成長の中核を担っています。損害保険事業を始めて57年になりますが、取扱高は1,700万ドルから830億ドルへと約5,000倍に増加したにもかかわらず、まだまだ伸びしろがあります。
 それ以上に、私たちは、どのような種類の保険ビジネスや、どのような人々を避けるべきかについて、あまりにも頻繁に、そして痛いほどに多くのことを学びました。 最も重要な教訓は、私たちの引受人には、痩せている人も太っている人も、男性も女性も、若い人も年配の人も、外国人も国内人もいるということです。 しかし、生活において質が高いことが望ましいとしても、オフィスでは楽観主義者にはなれないのです。
損保ビジネスにおけるサプライズは、6ヵ月または1年の保険が満期を迎えてから数十年後に発生する可能性がありますが、ほとんどの場合ネガティブなものです。 業界の会計はこの現実を認識するように設計されていますが、見積もりの間違いの影響は甚大なものになる可能性があります。そして、詐欺師が関与している場合、多くの場合、発見には時間とコストがかかります。バークシャーは、将来の損失支払いの見積もりを常に正確にしようと努めますが、インフレ(金融および「法的」変動の両方)はワイルドカードです。
 私たちの保険業務については何度もお話してきたので、保険事業の話は何度もしてきたので、初めての方は18ページをご覧下さい。ここでは、1986年にアジット・ジェインがバークシャーに入社していなければ、私たちの地位は今のようなものではなかったということだけを繰り返しておきます。その幸運な日の前は—1951年初めに始まったGEICOでの、一生終わることのない、ほとんど信じられないような素晴らしい経験を除けば--私は保険事業の構築に奮闘しながら、ほとんど荒野をさまよっていました。
 バークシャーに入社して以来、アジットの業績を支えてきたのは、さまざまなP/C業務に携わる有能な保険会社の幹部たちでした。彼らの名前と顔は、ほとんどのマスコミや一般人には知られていません。しかし、バークシャーの経営陣の顔ぶれは、P/C保険業界にとって、野球界におけるクーパーズタウンの栄誉ある選手のようなものです。
 バーティ、あなたは、比類のない資金力、名声、才能を持ち、今や世界中で事業を展開している素晴らしい損害保険事業の一部を所有しているという事実に、満足することができるでしょう。2023年、その日がやってきました。は 18 ページを参照していただきたいと思います。ここで繰り返しますが、アジット・ジェインが 1986 年にバークシャーに入社していなかったら、私たちの立場は今のようにはなっていなかったでしょう。 幸運な日 – 1951 年の初めに始まり、決して終わることのない GEICO での信じられないほど素晴らしい経験を除けば、私は保険事業を構築するのに苦労していた間、ほとんど荒野をさまよっていました。
 バークシャーに入社して以来、アジットの業績は、当社のさまざまな損保業務に携わる、非常に才能のある保険幹部の大勢によって支えられてきました。 彼らの名前と顔は、ほとんどの報道機関や一般の人々には知られていません。 しかし、バークシャーの監督陣は損害保険にとっては野球にとってのクーパーズタウンの受賞者と同じだ。
 バーティさん、あなたは、比類のない財務資源、評判、才能を持って現在世界中で運営されている素晴らしい損益計算書の一部を所有しているという事実に満足しているでしょう。 2023年のその日がやってきました。

2024年3月 4日 (月)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2023(6)~私たちを快適にする非管理ビジネス

 昨年、私はバークシャーの長期部分所有ポジションのうちの2つ、コカ・コーラとアメリカン・エキスプレスについて言及しました。 これらは、アップルの場合のような巨額のコミットメントではありません。それぞれはバークシャーの GAAP 純資産の 4~5%を占めるにすぎません。 しかし、それらは意味のある資産であり、私たちの思考プロセスを説明するものでもあります。
 アメリカン・エキスプレスは1850年に営業を開始し、コカ・コーラは1886年にアトランタのドラッグストアで発売されました。(バークシャーは新規参入に消極的です)。両社は長年にわたって関連性のない分野への進出を試みましたが、どちらもほとんど成功しませんでした。過去には(今は間違いなく違うが)、両社とも経営不振に陥ったことさえあります。
 しかし、それぞれがベースとなるビジネスで大成功を収め、状況に応じてあちこちで形を変えました。 そして重要なことに、彼らの商品は「旅行」しました。 コークもアメックスもどちらも、その主力製品と同様に世界中で知られる名前になりました。液体の消費と疑う余地のない金融的信頼の必要性は、私たちの世界にとって時代を超越した必需品なっています。
 2023年の間、私たちはアメックスとコークのどちらの株式も売買しませんでした。これにより、20年以上続いたリップヴァンウィンクルの休眠期間がさらに延長されました。両社は昨年も私たちの不作為に利益と配当を増やすことで報いてくれました。 実際、2023年の アメックスの収益に占める私たちの取り分は、過去の購入費用 13億ドルを大幅に上回りました。
 アメックスとコークの両社は、2024年にはほぼ間違いなく増配する予定です (アメックスの場合は約16%)。そして、私たちは年間を通して保有資産をそのままにしておくことはほぼ確実です。 この2社よりも優れた世界規模のビジネスを創造することはできるでしょうか? バーティが言うように、「そんなことはない」。
 バークシャーは2023年に両社の株式を購入しませんでしたが、バークシャーで実施した自社株買戻しにより、昨年はコークとアメックスの両方の間接的な保有比率が少し増加しました。 このような自社株買いは、バークシャーが所有するあらゆる資産への参加を増やすために機能します。 この明らかだが見落とされがちな真実に対して、私はいつもの警告を付け加えます。すべての株式の買い戻しは価格に依存するべきです。 ビジネス価値を割り引いて考えれば賢明なことでも、プレミアムを付けて行うと愚かになります。
 コークとアメックスからの教訓? 本当に素晴らしいビジネスを見つけたら、それを継続することです。忍耐は報われます。そして、1つの素晴らしいビジネスが、避けられない多くの凡庸な決定を補うことができるということです。

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 今年は、私たちが無期限に維持すると予想される他の 2つの投資について説明したいと思います。コークやアメックスと同様に、これらの投資は私たちの経営資源に比べればそれほど大きなものではありません。 しかし、価値のある投資であり、2023年中に両方のポジションを増やすことができました。
 年末時点で、バークシャーはオクシデンタル・ペトロリアムの普通株式の27.8%を所有し、さらに5年以上にわたって固定価格で保有比率を大幅に引き上げることができるワラントも保有していました。私たちはその所有権とオプションを非常に気に入っていますが、バークシャーはオクシデンタルの買収や経営にはまったく興味がありません。この技術の経済的実現可能性はまだ証明されていませんが、米国におけるオクシデンタルの膨大な石油とガスの資源と、二酸化炭素回収イニシアチブにおけるリーダーシップが特に気に入っています。 これらの活動はどちらも我が国の利益に大きく貢献します。
 少し前まで、米国は外国の石油にひどく依存しており、二酸化炭素回収には意味のあるものではありませんでした。 実際、1975年の米国の生産量は日量石油換算 800万バレル (「BOEPD」) であり、米国が必要とする水準には遠く及ばないレベルでした。第二次世界大戦における米国の動員を促進した有利なエネルギーポジションから、この国は後退し、海外の(不安定になりかねない)供給国に大きく依存するようになっていました。将来の使用量の増加に伴い、石油生産量はさらに減少すると予測されました。
 長い間、この悲観論は正しかったように見え、2007年までに生産量は 500万BOEPDにまで落ち込みました。一方、米国政府は、この問題を軽減するために、1975年に戦略石油備蓄 (「SPR」) を創設し、アメリカの自給率低下を緩和しました。
 そしてハレルヤ! – シェール経済が2011年に実現可能となり、エネルギー依存は解消されました。現在、米国の生産量は1,300万BOEPDを超えており、OPECが優位に立つことはなくなりました。 オクシデンタルの年間石油生産量は毎年 SPR の全在庫にほぼ匹敵します。 もし国内生産が 500万BOEPDに留まり、米国以外の供給源に大きく依存したとしたら、我が国は今日非常に、非常に、神経質になっていたでしょう。 そのレベルであれば、外国産の石油が入手できなくなった場合、SPRは数か月以内に空になっていただろう。
 ヴィッキー・ホラブのリーダーシップの下、オクシデンタルは国とオーナーの両方にとって正しいことを行っています。 石油価格が今後1ヵ月、1年、または10年の間にどうなるかは誰にもわかりません。しかし、ヴィッキーは石油と岩石を分離する方法を知っており、それは株主にとっても国にとっても貴重な、類まれな才能です。

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 さらに、バークシャーは、日本の超大手企業5社のパッシブ長期保有を続けており、各企業はバークシャー自体の経営方法とやや似た高度に多角的な方法で運営されています。昨年、グレッグ・エイベルと私が経営陣と話をするために東京を訪れた後、5社すべての保有株を増やしました。
 バークシャーは現在、5社の株式の約9%を保有しています。(細かい点:日本企業は米国の慣行とは異なる方法で発行済株式を計算している)また、バークシャーは各企業に対し、私たちの持ち株比率が9.9%を超える株式を購入しないことを約束しています。 5社合計のコストは1.6兆円で、年末時価は2.9兆円でした。しかし、近年円安が進み、年末の含み益はドル換算で61%、つまり80億ドルとなりました。
 グレッグも私も、主要通貨の市場価格を予測することはできないと考えています。 また、このような能力を持った人材を採用できるとは考えていません。 したがって、バークシャーは日本でのポジションの大部分を1.3兆円の社債からの収益で賄っていまます。この債券は日本では非常に好評であり、バークシャーは他の米国企業よりも多くの円建て債券残高を抱えていると思います。 円安によりバークシャーは19億ドルの年末利益を生み出したが、この額はGAAP規則に従い、2020年から2023年の期間にわたって定期的に収益として認識されてきました。
ある重要な点において、伊藤忠商事、丸紅、三菱商事、三井物産、住友商事の5社はすべて、米国で慣例的に行われているものよりもはるかに優れた株主優遇政策をとっています。私たちが日本での買収を開始して以来、5社はそれぞれ株主数を減らしてきました。 発行済株式を魅力的な価格で提供します。
 一方、5社すべての経営陣は、米国の例に比べて自社の報酬についてあまり積極的ではありませんでした。5社とも利益の約 1/3程度しか配当に充てていないことにも注目しています。 5社が保有する巨額の資金は、多くの事業の構築と、程度は低いが自社株買いの両方に使用されています。バークシャーと同様に、5社は株式発行に消極的です。

 バークシャーにとって有益なのは、私たちの投資が、経営がうまく、評判の高い5つの大企業と世界中で提携する機会につながる可能性があることです。彼らの関心は私たちの関心興味よりもはるかに広いです。そして日本のCEOらは、バークシャーがその規模に関わらず、そのような提携に即座に利用できる膨大な流動資源を常に保有していることを知って安心しています。
 当社の日本での買い付けは2019年7月4日に始まりました。バークシャーの現在の規模を考えると、公開市場での購入を通じてポジションを構築するには、多くの忍耐と「友好的な」価格の長期間が必要です。そのプロセスは戦艦を回転させるようなものです。 これは、バークシャーでの初期の頃には直面していなかった重要な欠点です。

2024年3月 3日 (日)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2023(5)~私たちのそれほど秘密ではない武器

 時折、市場や経済の状況により、一部のファンダメンタルズ的に優良な大企業の株式や債券の価格が著しく誤って設定されることがあります。 実際、1914年の 4ヵ月間や2001年の数日間のように、市場は予測不能に急落したり、消滅したりする可能性があり、またそうなるでしょう。米国の投資家で以前よりも安定していると信じている人がいるなら、2008年9月のことを思い出してみてください。通信速度とテクノロジーの驚異は、瞬時に世界中が麻痺させるのを容易にしてしまいました。私たちは信号機以来長い道のりを歩んできました。 このような瞬間的なパニックは滅多に起こるものではありませんが、必ず起こるものです。
 巨額の資金とパフォーマンスの確実性の両方で市場の掌握に即座に対応するバークシャーの能力は、時折私たちに大きなチャンスを与えてくれるかもしれません。 株式市場は初期の頃と比べてはるかに大きくなりましたが、今日のアクティブな参加者は、私が学生だった頃よりも精神的に安定しているわけでも、教育が行き届いているわけでもありません。 理由は何であれ、今の市場は私が若かった頃よりもはるかにカジノのような動きを示しています。 カジノは現在多くの家にあり、毎日、その住人を誘惑しています。
 経済生活において決して忘れてはいけない事実があります。 ウォール街は、この言葉を比喩的な意味で使うなら、顧客にお金を儲けてもらいたいと願っていますが、実際にその住人の心を動かしているのは、熱狂的な活動です。 そのような時には、宣伝できる愚かなことはすべて、すべての人によってではなく、常に誰かによって精力的に宣伝されるでしょう。
 時々、醜い光景が現われます。政治家たちは激怒し、悪事の最も悪質な加害者たちは、金持ちのまま罰も受けずに逃げ去り、隣の友人は当惑し、貧しくなり、時には復讐に燃えるようになります。彼は、お金が道徳に勝ったことを学びました。
 バークシャーの投資ルールは、これまでもこれからも変わりません。それは、資本を永久に失うリスクを決して冒さないということです。 アメリカの追い風と複利の力のおかげで、私たちが活動する舞台では、一生のうちにいくつかの良い決断を下し、重大な失敗を避けることができれば、これまでも、そしてこれからも報われるのです。

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 私は、バークシャーはこれまで経験したことのないような大規模な金融災害に対処できると信じています。この能力は私たちが手放すことのできないものです。バークシャーの目標は、2008年から2009年にかけてのように、経済的な大混乱が起こったときに、国の資産として機能することであり、不注意であれ何であれ、大火災に火をつけてしまった多くの企業のひとつになるのではなく、金融の火消しに貢献することです。
 私たちの目標は現実的です。バークシャーの強みは、金利、税金、減価償却費を差し引いた(「EBITDA」はバークシャーでは禁止されている指標)多様な収益の洪水から生まれます。 また、たとえ国が長期にわたる世界経済の低迷、恐怖、ほぼ麻痺に直面したとしても、私たちは現金の必要性を最小限に抑えて運営しています。
 バークシャーは現在配当を支払っておらず、自社株買いは100%任意に行われています。年間債務償還額は決して重要ではありません。
皆さんの会社はまた、従来の常識で必要とされる額をはるかに超える現金および米国財務省短期証券のポジションを保有しています。2008年のパニック中、バークシャーは営業活動から現金を生み出し、コマーシャルペーパー、銀行取引ライン、債券市場には一切頼りませんでした。 私たちは経済麻痺がいつ起こるか予測していませんでしたが、常にその準備はできていました。
 極端な財政保守主義は、バークシャーの株主になった人々に対する当社の企業公約です。ほとんどの年、実際、ほとんどの数十年で、私たちの警戒は不必要な行動であることが判明する可能性が高く、耐火性があると考えられている要塞のような建物に保険をかけるのと同じです。 しかしバークシャーは、バーティや私たちを信頼して貯蓄をしてくれている個人に、長期にわたる相場下落という永久的な経済的ダメージを与えることを望んでいません。
 バークシャーは長持ちするように作られています。

2024年3月 2日 (土)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2023(4)~何をすべきか

 バークシャーにおける私たちの目標はシンプルです。私たちは、基本的で永続的な良好な経済性を享受している事業の全部または一部を所有したいと考えています。 資本主義の中で、非常に長期間繁栄する事業もあれば、陥没する事業もあるでしょう。 どれが勝者でどれが敗者になるかを予測するのは、想像以上に難しいです。そして、その答えを知っていると言う人は、たいてい自己欺瞞に陥っているか、蛇の油のセールスマン(詐欺)のどちらかです。
 バークシャーでは、将来的に高い収益率で追加資本を投入できる稀有な企業を特に支持しています。 これらの企業を1社だけ所有し、ただじっと我慢していれば、計り知れないほどの富を手にすることができます。そのような企業の相続人であっても、生涯悠々自適の生活を送ることができる可能性はあります。
 私たちはまた、これらの好意的な事業が有能で信頼できる経営者によって運営されることを望んでいますが、それはより難しい判断であり、バークシャーも失望した経験もあります。
 1863年、米国の初代会計検査官ヒュー・マカロックは、すべての国立銀行に書簡を送りました。 彼の指示には次の警告が含まれていました「悪党に騙されるのを防げると思って取引してはならない」。悪党を「なんとかできる」と考えていた多くの銀行家は、マカロックのアドバイスから知恵を学び、そして私も同様です。 人はそんなに簡単に信用できるものではありません。 誠実さや共感は簡単に偽造されてしまいます。 それは 1863年当時も今も同様です。
 企業買収必要なこの2つの要素を組み合わせることが、長い間買収における当社の目標でありました。しばらくの間、評価すべき候補者は、一つを逃しても、そしてたくさん逃しても、必ず別のものがやって来るほど豊富にありました。
 しかし、そんな日々はもう過ぎ去りました。買収競争の激化も一因ではありましたが、規模が私たちを追い詰めたのです。 バークシャーは現在、アメリカの企業が記録した最大のGAAP基準での純資産を保有しています。 記録的な営業利益と好調な株式市場により、年末の純資産は5,610億ドルに達しました。 他の499社のS&P企業のGAAP 純資産総額 (アメリカ企業の名どころ)は、2022年に8兆 9,000億ドルでした(S&Pの2023年の数字はまだ集計されていませんが、実質的に 9兆5,000億ドルを超える可能性は低いです)。
 この指標によれば、バークシャーは現在、事業展開する世界の6%近くを占めていることになります。この巨大な基盤を5年以内に倍増させることは不可能であり、特に私たちは株式の発行(純資産を直ちに増加させる行為)を非常に嫌うからです。
 バークシャーで真に力を発揮できる企業は、この国にはほんの一握りしか残っていませんが、それらの企業は私たちや他の企業によって際限なく選ばれ続けています。その中には、私たちが大切にできるものもあれば、価値あるものもありますが、そうでないものもあります。そして、もし評価できるものであれば、魅力的な価格でなければなりません。米国以外では、バークシャーの資本展開にとって有意義な選択肢となる候補者は基本的に存在しません。全体として、目を見張るようなパフォーマンスは望めません。
 それにもかかわらず、バークシャーの経営はほとんど楽しいものであり、常に興味深いものです。 良い面としては、59 年間にわたる集結を経て、現在、さまざまな事業の一部または100%を所有しており、これらの事業は加重ベースで、ほとんどの米国の大企業よりもいくらか良い見通しを持っています。 運と機転の両方によって、何十もの決断の中から、少数の大きな勝者が誕生しました。 そして今、私たちには、他の場所に行くことを決して考えず、65歳を単なる誕生日としか考えていいない長年にわたるマネージャーである少数の幹部がいます。

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 バークシャーは、尋常でないほどの一貫性と目的の明確さから恩恵を受けています。 私たちは従業員、地域社会、サプライヤーを大切に扱うことを重視していますが、そうしたいと思わない人はいないでしょうか。私たちの忠誠は常に祖国と株主のたにあります。 私たちは、皆さんのお金が私たちのお金一緒になっているとはいえ、それは私たちのものではないということを決して忘れません。
 この点に重点を置き、現在の事業構成を考慮すると、バークシャーは平均的な米国企業よりも少しだけ良い業績を上げられるはずであり、さらに重要なことに、資本が永久に失われるリスクも大幅に軽減されることであります。 ただし、「少し良くなる」以上のことは希望的観測にすぎません。このささやかな願望は、バーティがバークシャーに全面投資した時には当てはまらなかったが、今はそうなっています。

2024年3月 1日 (金)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2023(3)~経営成績、事実と仮説

 まずは数字から見ていきましょう。 公式年次報告書はK-1から始まり、124ページもあります。そこには膨大な量の情報が詰まっています。重要なものもあれば、些細なものも含まれます。
 その開示内容の中で、多くの株主や経済記者はK-72ページに注目します。そこには、ことわざの「純利益(損失)」という諺のようなラベルの付いた「最終結果」が表示されています。 この数字によると、2021年は900億ドル、2022年は230億ドル、2023年は960億ドルと書かれています。
 一体何が起こっているのでしょうか?
 皆さんがガイダンスを求め、これらの「収益」の計算す手続は、熱心で勤勉な証券取引委員会(「SEC」)の命令を受けた、厳正で信頼できる財務会計基準委員会(「FASB」)によって公布された基準に従い、Deloitte & Touche (「D&T」) の世界クラスの専門家によって監査されています。 K-67ページで、D&T は次のように述べています。「当監査法人の意見では、財務諸表は、すべての重要な点において(イタリック体は私見)、会社の財政状態および経営成績を適正に表示している。 」
 そうして聖域化された、この役立たずにもほどがある「純利益」という数字は、インターネットやメディアを通じて瞬く間に世界中に発信されます。すべての関係者は、自分たちは仕事を果たしたと信じており、法的にもそうしています。
 しかし、私たちには違和感が残ります。 バークシャーでは、「収益」は、バーティがビジネスを評価する多少なりとも役に立つ、しかしあくまでも出発点として役に立つ、その程度の概念であるべきだと考えています。 したがって、バークシャーはバーティや皆さんにいわゆる「営業利益」も報告しています。それらが語るストーリーは次のとおりです。2021 年は 276 億ドル。 2022年は309億ドル、2023年は374億ドル。
 義務付けられた数値とバークシャーが好む数値の主な違いは、1日あたり50億ドルを超えることもある未実現キャピタルゲインまたはキャピタルロスを除外していることです。皮肉なことに、「改善」が義務付けられる2018年までは、私たちの好みの方がほぼルールでした。 数世紀前のガリレオの経験は、上層部からの命令に手を出してはいけないことを私たちに教えてくれたはずです。 しかし、バークシャーでは頑固になることもあります。

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 キャピタルゲインは重要です。その点は間違いないでください。私はキャピタルゲインが今後数十年間のバークシャーの価値増加の非常に重要な要素になると考えています。そうでなければ、私の投資生涯を通じて私自身の資金と同じように、皆さんの(そしてバーティーの)巨額の資金を市場性のある株式に投じる理由がないだはいですか。  
 私が初めて株式を購入した 1942年3月11日以来、純資産の大部分を米国株に投資していなかった時期は記憶にありません。そして、これまでのところ、とても順調です。私が「引き金を引いた」1942年の運命の日、ダウ平均株価は100 ドルを下回りました。学校が終わるまでに5ドルほど下がりました。すぐに事態は好転し、現在その指数は38,000前後で推移しています。アメリカは投資家にとって素晴らしい国です。投資家に必要なのは、誰の言うことも聞かずに静かに座っていることだけです。
 しかし、株式市場の日々の気まぐれな動き、さらには毎年の動きさえも組み込んだ「収益」に基づいてバークシャーの投資価値を判断するのは、あまりにも愚かなことです。 ベン・グレアムが私に教えてくれたように、「短期的には市場は投票マシーンとして機能するが、長期的には体重計になる。」

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