ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(3)~第1章 資本主義は自然─なぜ市場は実際には政府に依存しているか
リバタリアニズムの市場さえあれば政府は必要ないという考えには、合成の誤謬がある。リバタリアニズムの大前提は、特定の経済的関心を共有する人たちは、この関心を進展させるためにおのずとまとまる、ということだ。ハイエクは、資本主義経済システムを自生的秩序と呼んだ。しかし、それは誤りであると著者は言う。多数の個人の利害を集めても、ひとつの集団の利害にまとまらない。同じ目的のもとでさえ、全員がその共通の目的に向かって行動するためには、政府の「見える手」の介入が必要になるという。
リバタリアニズムのベースには次の二つの19世紀に出現したイメージがある。第一には自然を最適化のシステムと見なすことで、ダーウィンの進化論の自然淘汰により弱者や不適なものが排除されるように。第二は資本主義を最適化のシステムと見ることで、市場の秩序が怠惰なもの、無責任なもの、非効率なものを排斥する。この二つの接点はスペンサーの適者生存に要約される。アダム・スミスの「見えざる手」と自然淘汰のメカニズムには親和性があるし、結びつけやすい。綿密な計画と設計の産物に見えたのが、実は盲目的メカニズムの結果だったというわけ。中世キリスト教の世界観では、宇宙の秩序は根底にある神意の産物とされた。森羅万象が追求される善という観点から理解される必要があった。その善がこれらの被創造物の神意の秩序における位置づけを表わしている。善を追求する努力は自然と生命の運行の目的因とされた。人間の場合、この善の追求が最大限に発揮されたのが国家である。これに対して、近代の発端となった科学は神意なしに秩序性を説明した。そこで、生物には善を追求することも神意に従うことも無用だった。自然淘汰が起こるには、自己保存欲求があればよかった。社会に関しては、アダム・スミスが盲目のメカニズムから秩序がもたらされることを示した。国家による意図的な指導など無用だった。市場メカニズムはそれ自体で最適配分を作り出せるというわけだ。そして、この基本となる出発点から、二種類のリバタリアニズムが形成された。第一は、私利だけでも、個人の自己の権利を主張するばかりか、他者の権利をも尊重する動機になる。政府などというものは必要なく、市場経済は自然状態から自ずと発生する。第二は、個人の利益が互いに侵害し合うのを避けるために政府は必要だが、その正当な役割は、それだけに限られるとする。
この致命的弱点は適者生存から求めることができる。適者生存は、同じ種においては各個体の競争になるが、特定の特徴をもった個体がより多くの子孫を残すことができると、その特徴をもった個体がそれ以外の個体を圧倒し、結果として適者生存ということになる。例えば、オスがメスに交配の相手に選ばれるために美しい尾羽でメスにアピールするが、その尾羽は動くには邪魔で、天敵に襲われた時に逃げにくくなる。つまり不適応という結果だ。ということから、進化は最適化とはイコールではない。これは合成の誤謬による、と著者は言う。ある特定の性質がそれを備えた個体の適応度を高めると、ひいてはその個体が属している集団(種)の適応度を高めることと混同してしまう。ところが実際は、個体にとって良い適応が種にとって良いものである必然性はない。個人が集団の利益の拡大に必要なことをするとは期待できない。
かりに適切に構成された資本主義経済のもとでは、各自が勝手に関心事に取り組むことができる。全員がルールに従ってかぎり、他者がよい取引をしているかどうか誰も心配しなくていい。全員がその取引を受け入れているという事実が、善い取引をしている証拠になっている。しかし、このように市場を正しく機能させるためには、人は進んであらゆる迷惑行為を慎まねばならない。だからといって、誰もがそのルールに従うとは限らない。そこで、著者が持ち出すのが囚人のジレンマ、あるいはフーライダーの問題だ。人は合理的な私利ばかりを動機とすると仮定した場合では、市場経済の基礎を築くことはできない。
そこで、現実に人々をルールに従わせる強制力として国家の力が必要なのだ。市場は自然に生じるわけではなく、国家によって創られ、その基本ルールが施行される。
そこで、リバタリアンは譲歩する。政府は最小の国家の形態をとって、市場という制度の前提条件を整えるのに必要なことだけをすべきだとした。しかし、そのような最小の政府では資本主義経済は安定した成長をしなかった。そこで20世紀にはいると政府は資本主義制度の大幅な改造を図った。資本主義経済を円滑に機能させるために銀行などの金融機関の支払準備制度や倒産した会社の債権者保護などのための破産法制度など。これにより資本主義システムを安定させ、アウトプットの変動を抑え、投資と経済成長を促す大きな力となっている。資本家のための社会事業といってもいい。
その結果、小さな政府や自由放任の資本主義への傾倒は原理に基づいた個人の自由の擁護というよりも、投資する金のある金持ちに恣意的に利益を与えることになっている。だから、右派の小さな政府の要求は金持ちに益するこれらの措置を続け、ほかはすべて排せよという要求になる。
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