ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(10)~第8章 「サイコパス的」利潤追求─なぜ金儲けはそうわるくないことなのか
左派には、利潤を道徳的堕落の根源とみる傾向がある。それは経済的分析としては誤りだ。まず、一般に広く蔓延している二つの誤謬がある。ひとつは「営利」と「私利」との単純な混同によるもの。普通の企業は「利潤」を生み出そうと努める。だが利潤を最大化することは、その企業の従業員の経営者の私利とも一致しない。利潤は株主に支払われる配当という形をとる。しかし、この所有権と経営の分離により、株主は日常の業務に拘わらない。これに対して、実際に会社を仕切っている経営者は所有権を持たない。企業スキャンダルとして有名なエンロン事件はいかがわしい高収入の慣行に企業が関わったのではなく、利益がなかった。企業の経営者は公共部門のマネージャーとさほど変わらない規制の下にある。二つ目は、社会が企業に利潤の最大化を白紙委任しているという誤謬だ。社会が企業に利潤最大化の振る舞いを許しているのは競争市場が構成されている場合だけだ。競争市場が構成されていない構成されていないところでは、例外なく、政府の規制により利潤最大化は明確に禁じられている。例えば、電力会社は値上げしたければ、その都度政府に許可を求めなければならない。社会は独占企業に利潤最大化を許さない。
利潤の道徳的地位をめぐる議論での不毛な曖昧さの原因として「金儲け」と「利潤を上げる」ことの混同があるという。企業が稼いだ収入はほとんど経費を賄うために使われる。人件費、原材料費、負債の返済など、企業の契約上の義務を果たした残りが「利潤」なのだ。企業は全般として利潤を生むことを目指す。だが、同時に事業を継続することも希望する。すなわち、従業員に賃金を支給し、仕入れ業者に支払いをし、顧客を失わないようにし、企業を倒産させないための数多くの契約の義務を果たす。株主への利潤の配分は、実は最も犠牲にしやすい、企業が法的措置を伴わずに支払いを怠ることができる唯一の部門なのだ。すべての企業は、投入物を提供する供給者、産出物を買う顧客、貸し手、労働者という4種類のステークホルダーと関係している。そこで、だれが企業の所有者なのかということは単純に言えない。企業には一般的な意味での所有者は必要ないからだ。必要な投入物はすべて市場の契約を通じて入手でき、残余財産は再投資される。企業に関係するグループが所有権を負わされる。さきの4つの関係者のグループのどれもが経営権を認められ、株主はそのひとつにすぎない。あるいは労働者か顧客か供給者が企業を所有する場合は協同組合と呼ばれる。実際には株式発行で資金調達をする株主所有の企業が一般的だ。それは、株主所有の形態が有利だからだ。例えば、銀行等の金融機関は、株主所有の形態以外に対して積極的に融資しない。また協同組合では、例えば労働者協同組合では多様な労働者の利益が衝突するとまとまりがつかなくなる。実際問題として協同組合の内部対立は往々にして破壊的になり、所有権を部外者のグループ、偏りのない事実上の決断ができ、効率的にそれを課せる人たちに渡すようになる。そういう人々のグループとは株主なのだった。
以上のように、人が営利追求にひっかかる主な理由は二つある。ひとつ目は営利と私利を同一視して、そのために政府のように非営利の組織の方がともかくも利他的に振舞うと思い込んでいるということだ。だが事実はずっと込み入っている。二つ目の理由は、一般的な企業とは特殊な協同組合にすぎないということ、協同組合はすべて所有者のためにあることを理解していないことだ。労働者、顧客、貸し手、支給者という4つの構成グループのどれが所有者となっても、経営者は、そのグループのために働く。したがって、これらの組織の性格に道徳的に重要な違いはないのだ。だから、株式会社だけが道徳的ではないとは言えない。
« ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(9)~第7章 公正価格という誤謬─価格操作の誘惑と、なぜその誘惑に抗うべきか | トップページ | ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(11)~第9章 資本主義は消えゆく運命─なぜ「体制」は崩壊しなさそうなのか(しそうに見えるのに) »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 渡邉雅子「「論理的思考」の社会的構築─フランスの思考表現スタイルと言葉の教育」(4)~終章 フランス社会の<論理>の構築─ディセルタシオンが導く思考表現スタイル(2024.09.04)
- 渡邉雅子「「論理的思考」の社会的構築─フランスの思考表現スタイルと言葉の教育」(3)~第2章 哲学のディセルタシオンと哲学教育(2024.09.03)
- 渡邉雅子「「論理的思考」の社会的構築─フランスの思考表現スタイルと言葉の教育」(2)~第1章 論文の構造と論理の形(2024.09.02)
- 渡邉雅子「「論理的思考」の社会的構築─フランスの思考表現スタイルと言葉の教育」(2024.09.01)
- 堀米庸三「正統と異端─ヨーロッパ精神の底流」(5)~第4章 グレゴリウス改革と秘蹟論争(2024.08.31)
« ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(9)~第7章 公正価格という誤謬─価格操作の誘惑と、なぜその誘惑に抗うべきか | トップページ | ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(11)~第9章 資本主義は消えゆく運命─なぜ「体制」は崩壊しなさそうなのか(しそうに見えるのに) »
コメント