ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(14)~第12章 レベリング・ダウン─平等の誤った促進法
平等を推進する方法として、平均より下の状態を改善するというレベル上げがあるが、それより簡単なのは、平均より上の人状態を悪くして平等を達成することだ。他の誰の状態も改善しないで、このような策をとることをレベリング・ダウンと呼ぶ。多くの人は、レベリング・ダウンはつまらないと言う。善悪の判断という点では、結果がよくなったと格付けするには、当人にとってよくなったという誰かが必要なはずだと考えたい。平等の原則の単純な定式化は、この基準を破ってしまう。もっと平等主義にもとづく分配は、たとえ誰一人として暮らし向きがよくならなくても、よりよいこととみなされる。平等にこだわる人ほど、レベリング・ダウンのつけが回ってくるのを避けようとしない。経済学者が平等のトレードオフと呼ぶものを気にしない。
他の誰の状態も悪くしないで一人の状態が改善されるときには、効率性の向上の可能性が常に見出せる。しかし、効率の増大による便益が均等に分配される保障はない。そこで平等の名のもとに、このような効率の増大を妨げたくなる誘惑が沸き起こる。例えば、他の人よりもいい教育や医療を受けられる人を生み出すというだけの理由で、私立学校や医療機関に反対する人は少なくない。気づかずにレベリング・ダウンすることは起こりやすい。
平等と効率のあいだには必ずしもトレードオフがあるわけではない。完全競争市場が完全に効率的な結果をもたらす理想の世界とほぼ同じ種類の世界では、効率と平等のあいだに何ら緊張関係はない。この結果は、厚生経済学の第二基本定理と呼ばれる。市場は、平等という点では基本的に透明であり、平等寄りにも反対にも偏っていない。どんな理由であれ、たまたま気に入った結果が得られるのであれば、まさにその結果を競争均衡として生みだす市場経済を整えることは可能である。つまり、たまたま完全な平等が好まれるのであれば、個人に完全な平等と交換するように導く当初の配分の設定は可能だ。だから、世界中に見られる不平等は、市場それ自体のせいではない。だから、原理的に平等主義の製作がレベリング・ダウンしなければならない理由はない。
第二基本定理によれば、平等を実現するためには、「どれくらい多く」分配するかと、「誰が何を得るか」という二つの決定による。この二つの決定は相互に関係しはない。だから、現実の公共政策の問題を扱うときに出くわすトレードオフは、概して実践的・経験的困難の結果である。実際、効率性を犠牲にして平等性を求める提案は容易い。しかし、真の進歩的な政策の精髄は、効率性に大きな犠牲を求めないで平等性を改善する方法を模索することにある。現代経済学はそれが可能だと教えている。例えば、国が所得累進的な保険料で全国民に保険を提供するという社会保険の原則は、効率とのトレードオフという点ではほとんど負担なしに、平等を高めている。ただし、このような平等の達成は、包括的な平等化政策ではなく、たまたまめぐってきた機会を利用してのものにすぎない。
左派は折にふれ、効率などどうでもいい、平等にしか関心はないと主張する。だいたい、このようなことを本気にすべきではない。効率に全く配慮せずに平等を高めるというのは、人間の幸福に対する異常な無関心の表われである。人々に平等にみじめか、平等に幸せかは無関心の問題であってはならない。それでも左派は基本的にレベリング・ダウンを擁護する姿勢を頑なに崩そうとしない。左派が犯す過ちのほとんどは自制心の欠如によるものだ。社会の道徳的欠陥をどう直せばいいか見当もつかず、直そうとすると絶対にかえって悪くなりそうなときでも、思いとどまろうとしないからだ。
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