佐藤康邦「絵画空間の哲学─思想史の中の遠近法」(7)~第2部 ルネッサンスの美術
1. ジオットとルネッサンス
アレーナ礼拝堂の全壁面を飾る『イエスの生涯』の連作壁画において、ジオットはマリアやイエスの生涯の物語をそれ以前には見られなかったような生々しい現実感と多様な人間的表情を備えたものとして描いた。線遠近法がとられ、現実の世界の空間に接続する感じを与える三次元的空間を描き出す手段となっている。そして、この空間の中にじつに表情に富み、生彩を放つ人物の描写が行われている。この人物の描写は、その人物が何を考え、何を意志し、何を感じ、何をしているのかがいかにも明瞭に見て取れるものとなっており、その肢態の処理も生理的必然性に従った自然さというものを示すものとなっている。身体をかがめようとしている男の身のこなしには頭の先から爪先に至るまでその動きに対応した有機的一貫性が見られるし、人々の足は大地をしっかりと踏みしめているように描かれている。建物や自然も、ここに描かれているのは超越的理念に従って恣意的に構成されたものではなく、あくまでも空間の一点から眺めた相において自然の必然的連関に従って客観的に捉えられた建物や自然である。そこに、我々はルネッサンスの精神の萌芽を見る。
2.世界と人間の発見
ジオットによって与えられた美術に対する画期的な方向付けが、最盛期のルネッサンスに至るまで200年かかった。この過程では、古代美術が学びとられることが、そして人文主義の教養が広く浸透して行くことが必要であった。最盛期ルネッサンスを、ここでは世界と人の発見と要約する。
まず、世界の発見は自然の発見と言い換えてもいい。レオナルド・ダ=ヴィンチの手稿の中で、我々は解剖された人体の諸器官や骨格の構造、動植物のの微細な構造から広大な地形に至るまでの自然な諸相の観察、また鳥の飛翔や人体の運動から万物を破壊する大洪水に至るまでの自然の運動についての研究、さらに時計の設計から飛行機械や殺戮の機械に至るまでの技術的発明などをめぐるレオナルドの果てしない考察の足跡を辿ることができる。。特徴的なことは、この研究は文字や数式による表現では不十分であり、常に豊富な素描を伴わなければならなかったということである。さらに、絵画や彫刻の製作が自然の科学的技術的探究と相互に動機付けあいながら進行していったものであった。彼の画面に縹渺とした効果を与えているスフマートとでも、光や色や大気や人間の視覚についての研究の一側面あるいは一契機として見なければならないものなのだ。そしてこの中でも、とりわけ重要なものとして、彼自身によって絵画の手綱であり舵であるとされた遠近法をあげることができる。この遠近法の研究を通じて絵画は、それを見る者が立っている空間と接続するような錯覚を引き起こすような三次元的奥行感を持った空間を獲得することとなった。
このようなルネッサンス美術の自然の客観的把捉の追究は、それが真に透徹したものであるがゆえに、この時代に接続する科学革命の先駆けという意識を持ち帰るものであった。彼の行った解剖学はデカルトに至る人体の機械論的把捉を予告するものであったし、遠近法に従う空間の把捉は、空間を無限に連続する均質な組織として捉え、それを数的比例に従って処理し得るものとして扱うことによって、ケプラーやデカルトの空間把捉に接続し、さらに無限遠点における平行線の収斂の問題はデザルグの射影空間の議論に課題を与える。もとより絵画が絵画である以上、単なる自然の客観的再現にとどまるわけではなく、それを様々の形で美化することが求められはした。レオナルドによって描かれる人物は、それがもっとも美しく見える種類の光を当てることが求められたし、人体の比例関係や黄金比率やピラミッド形が、身体の描写や構図の原理として追究された。しかしそれすら一個の科学として追究されことが示すように、ルネッサンス美術の自然の表現というものは、それ自体で自然の科学ともなり得るものとして、美術の一様式にとどまらず、普遍的打倒的な自然の発見の方式という意義を獲得した。
人間の発見にも同じことが言えるが、画家による個性の違いが現われる。手稿には、人間の外貌を通じて魂の精髄を捉えるすぐれた人物画家の眼というものが示されている。『最後の晩餐』では、肉体の描写を通じての人間の性格や感情、思考、意志の、典型にまで高められた、完全な表現をめざしたものとして制作された。自らに対する裏切りについて告げるイエスの言葉によって触発された、弟子たちの間に起こった動揺、驚愕、怒り、悲しみ、恐怖、狼狽の表情の表現は、『君主論』の人間心理の把握に匹敵するものとなる。そこでは徹頭徹尾、無限の陰影の階梯を備えた肉体の合理的で現実的な観察に基づく描写を、理想化された美の表現にまで高めたものだ。
これに対して、ミケランジェロでは様子が違ってくる。彼の人間の発見、人間の表現は、自然の客観的な再現という段階を大きく踏み越えたところで行われる。システィナ礼拝堂の天井画をみれば自然の風景の細部にわたる忠実な描写などが意識的に排除されていて、もっぱら人物の塑像てきな効果が追究されている。人物たちの肉感あふれる肉体描写は幾分か適度に筋肉の隆起が強調され、またある場合には過度に身体の捻転が与えられ、そこでは等身大の人間の尺度を越えて拡大された個人の自由な意志とか高き知性や怒りであり。また沈痛な思索に沈んだり苦悩や恐怖や絶望に打ちのめされている最中において際立った巨人的な精神のふり幅が現われる。
この両極の間に盛期ルネッサンスの他の作家たちの表現を見ることができる。
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