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2024年3月22日 (金)

ジョセフ・ヒース「資本主義が嫌いな人のための経済学」(9)~第7章 公正価格という誤謬─価格操作の誘惑と、なぜその誘惑に抗うべきか

 異常寒波で交通が遮断され燃料の供給がストップしたときの、燃料価格を値上げするのは合理的ではないと批判する左派は、市場とは何かを理解していない。市場経済での価格の機能は、需給のバランスを達成するために財を分配することだ。燃料が値上がりしていたのは、不足していたからだ。一般的には、不足した燃料の購入を抑えることになる。価格が高くなれば、無駄な使用は控えられて、結果的に必要な使用たけがなされるように調整されることになる。
 彼らは、価格の吊り上げと不当利得を結びつける傾向がある。古代ローマ帝国のディオクレティアヌス帝は「最高公定価格令」を発布した。900以上の財と150のサービスについて価格の上限を定めた。皇帝は特定の財にかんして不当利得に対処していると考えていた。しかし、実際にはあらゆるものの価格が上がるインフレーションに対処していたのだ。すべての価格が上がるということは、分析的には何の価格も上がらないことに等しい。そのとき、唯一その値を下げているのが通貨だ。通貨を見落としがちなのは、直接消費する対象ではないからだ。流通するだけなので、価値があることを忘れてしまう。このとき、賃金物価スパイラルが生じる。つまり、生計費=物価が上がると労働者は賃上げを要求し、その費用が値上げという形で消費者に転嫁され、さらなる賃上げにつながるというスパイラルである。この結果が、貨幣価値の下落を招く。誰もが不当利得を得ようとするとき、誰も成功はしない。インフレ経済で要求される非合理的価格に、道徳的に憤慨することは無意味でしかない。それは実質的な値上げではない。貨幣価値の下落が生み出した経済の幻影にすぎない。
 最初の燃料費の値上げに対して、燃料を必要とするが、値上げした燃料を買えない人々を見捨てるのか?と問われるかもしれない。ここで二つの見方がある。この解決策として、ひとつは燃料費が高すぎるとして価格を変えること、もうひとつはお金が足りないから人々の収入を補うことだ。後者の選択肢は見過ごされる傾向がある。左派の経済学が好むやり方は、価格は市場に設定させ、分配の構成の問題に収入側から取り組むというものだ。例えば、カナダでは電気料金を低く設定している。この種の価格操作は需給という点で負の影響を生み出す。電気が安いと使用量が増える。厳密には、必要より多く使うようになる。電気料金が安ければ節電しようなど考えない。
 社会が財の適正価格を決めるのに用いる指針はさまざまだ。その中でも支配的なのは財の相対的な稀少性によって決められるという考え方。この稀少性が相対的なのは、財のどのくらいの量が妥当かはどれほど多くの人がそれを求めるによるから、稀少性は往々にして、このことを無視する。希少性価値形成は、資本主義の擁護者からも経済学に通じた社会主義者からも受け入れられる魅力的な道徳的理想である。これは、総需要と総供給の一致するときが、個人消費者の支払う価格がその消費の社会的費用を適切に反映しているときだ。社会的費用は各人の消費が社会に課した放棄の度合、または控えさせた消費を表わしている。そこには、他の誰かに消費されたであろうその財だけでなく、その財を作るのに注がれた労働力と資源は他の何かに使えて他の誰かに消費されえたのだということが含まれる。つまり、何かを買った時に、他人にどれだけ不便をかけるかは、他の人がそのものをどれほど欲しているか、それを生産するのにどれだけ手間がかかっているかによる。それを意識していれば、それに応じたものを支払う。個人の消費行動が社会へどんな損失を与えるにしろ、消費した商品から個人が得る満足によって正当化される。もし価格がより安いなら、それを買った消費者は得をすることになるが、この財の生産に使われた資源を他の財の生産に使っていた場合に他の消費者がしたはずの得ほどではない。よって、この消費行動の社会的費用は正当化されていない。もし価格がより高いなら、その消費が社会にかけた費用が相対的にわずかだったことを考えると、これを買った消費者はしえたはずの得はしていない。ひとつの価格が高すぎることは、他のすべての価格が低すぎるということだから、全体の利得を考えると、他の全員の社会的費用は正当化されない。これは、価格が市場清算水準から逸れると、結果として生じる生産及び消費パターンがパレート非効率であるということを指す。
 これまでに、価格操作によって社会的公正という目標を達成とよとすべきでない理由を見てきた。分配の公正という観点からは非効率である。資源の不適切な割り当てによって多くの無駄が生じる。またこれを避けるべき政治的に重要な場合もある。結果として歪められた価格から、市場に予期しない反応が起こる。すると次は、政治家が原因療法より対症療法にあたりたがる。この場合の療法は概して、理に適った市場の振る舞いの一部を禁じるような弾圧的手段である。

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