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2024年3月11日 (月)

佐藤康邦「絵画空間の哲学─思想史の中の遠近法」(5)~第4章 近代絵画における遠近法からの離反

 19世紀末の画家たちによる遠近法からの全面的な離反はマネに始まる。彼の『笛吹く少年』では、影ほとんどつけない平面的な塗り方がされ、また鼻の脇や眼窩につけられたわずかばかりの影も、光の当たった明るい部分と影の暗い部分との間をハーフトーンでつなげ柔らかみを出すなどということをしないで、はっきりとしたアクセントをもった筆致で一気に決められている。少年の立っている床と壁の間の境界線ははっきりとは示されず、ほぼ同一の色で塗られている。これによって濁りのない色と色の取り合わせが鮮やかな効果を上げ。形態は水際立った処理をされ、平らに塗られているにもかかわらず見る者を圧倒する存在感にも欠けていない作品が生み出された。
 そして、ルネッサンス的遠近法の根底的な破壊者がセザンヌである。彼の作品では、物の見かけの大きさは、眼からそれが遠ざかっても幾何学的遠近法に従うよりはずっと抑えられた縮小しかしない。また斜め上から眺められた皿や壺の口も、網膜に映るはずの像よりはずっと少ししか楕円形に歪められない。全体にデッサンのデフォルメが顕著であり、たとえば頭部が描かれた場合に、目、鼻、額のそれぞれの方向の間に明白なズレが認められたり、リンゴや壺が著しく歪んでいたり、テーブルの縁が一直線に結ばれずに、例えば縁にかかるテーブルクロスの左右で食い違っていたり、切れ切れになっていたりする。物の外形が完全に解体することも、まだ輪郭線が完全に消滅することもないが、晩年には一つ一つの筆致による小さな色の面が画面を構成する単位となって、外形の破壊が進み、画面の流動性が高まる。こうして、セザンヌでは、色彩とデッサンは一体のものとして捉えられる。すなわち色彩遠近法が、肉付けにおいてもまた奥行き表現においても、陰影や短触法によるものと同様に重要な役割を与えられている。
 セザンヌの描く人物やリンゴや壺が歪んでいるということは、同一の対象を異なったいくつかの視点から見た形を一つに結合した結果であると解釈することができる。
 その点ですでに固定した網膜像に映る像の再現をめざしたルネッサンスの遠近法の原則から外れていることは明らかである。そしてこの対象を見る視点の多元化により運動の導入が、すなわち時間的契機の導入が可能となってくる。彼は、あくまで一点に止まり続け、対象に目を凝らす。しかし見つめれば見つめるほど、対象は揺らぎだし、動きの中で捉えなくてはならぬものとなる。セザンヌの場合、画家が見るということは、見る主体である画家のたえざる働きかけ、静止しているようでも絶えず小刻みに動き続ける眼球や身体の運動感を伴った働きかけ、あるいはそのような働きかけの可能性の中で対象が捉えられるということだ。したがって眼にもっとも近いという物の「頂点」も、その文脈の中で捉えなければならないものであって、けっしてたんなる物理的距離を意味するわけではない。また後退してゆく周縁部というのも、我々の視線が、たとえばリンゴならリンゴの円い表面を見える前面から見えない背後に向けてなぞってゆく、その動きの中で捉えるものと理解されなければならないものである。
 セザンヌの構図の方も、この運動というものと切り離すことができない関係にある。よく知られた彼の重層的で堅固な構図は、画面上の錯綜した運動感と結び付けられる。セザンヌの作品の多くのものにおいて、われわれはむ、見る者の眼差しが遠近法的に収斂する線に導かれていったんは画面の奥へと吸い寄せられながら、しかもそのまま消点に吸収されて終わってしまうのではなく、改めて遠景を近景へと結びつける運動を与えられて前方に揺り戻されるように構成された構図に出会う。そしてさらに色彩遠近法が加わる。例えば、サント・ヴィクトワル山を描いた作品では、ハーフトーンに暈されることなく紫、青、緑、黄色と微妙に変化する豊麗な色に塗られたサント・ヴィクトワル山が近景の樹木のかなたにたしかな密度と奥行きを感じさせながら浮かび上がってくる。このセザンヌの奥行表現の探究は、彼自身にとっては、自然を見るがままに再現する努力の中で為されたものだが、それが奥行きの問題に関しても全く新しい次元を開くものであった。
 このような19世紀以降の近代絵画における遠近法からの離反は、絵画の主観化ということができる。近代絵画は主観化されることにより、近代の生活の表現の可能性を開いた。例えば、マネは同時代の生活を描いた。しかもみるとおりに一撃でやるという流儀で。彼は、19世紀のバリ無、世界の中心、栄光と頽廃の同居する大都会も洗練をきわめた知性と感受性、懐疑的精神、革命と反革命の間を揺れ動く政治情況のただ中にあったパリの相貌を、人の意表をつくような断面から切り取ったことで、最も創造力豊かな画家といえる。これを達成する方法が、濁りのない色彩であり、ハーフトーンによって和らげられない明確な角度のあるデッサンであり、都会のスピード感に対抗するような大胆な省略的描写法であり、奥行きを浅くした平面的空間構成であったということだ。そして、セザンヌの場合は、その文学性を払拭した純造型的な質だけで、近代的生が何であるかを表現した。
 19世紀末のエルンスト・マッハの感覚論、あるいは20世紀のゲシュタルト心理学において、視知覚における対象の見かけの大きさは、とくに眼から近い場所にある対象については、幾何学的遠近法が示すように眼からの距離に逆比例するように縮小しないし、斜め上から見られた円盤も遠近法どおりに歪むわけではないという恒常視、地平線上の月が天空にかかる月よりもずっと大きく見えるといった錯覚、一点を凝視すれば視野の周辺部が歪んで見える現象、またさらに暖色、寒色の対比が前進後退の運動感を引き起こす共感覚の現象といったものが注目され、研究がすすめられた。このように我々の視知覚像、すなわち脳中枢が受け取る像が網膜像と異なっているということが問題視された。
 物理学的な、計測された空間や時間はけっして根源的な空間や時間ではない。ニュートンの「絶対時間」「絶対空間」も派生的に導き出されたものであって、我々の空間、時間についての感覚などの諸々の感官感覚的要素の方がもとのところにある。それが、我々の生物学的合目的性を持った環境への適応様式を方向づける組織されたものが、我々が空間、時間と呼んでいるものに他ならない。空間は、時間同様に、事物の外にある絶対的容器であるわけではない。また空間と時間とはまったく隔絶した別々の形式というものではなく、両者の連続性も想定される。このような理論が相対性理論につながるものである。しかし、マッハの場合、これはゲシュタルト心理学につながる発想も含んでいた。そこからさらに進んで、呪術的、前科学的段階にある空間と時間の観念を、相対的にではあれ、復権させる意味を持っていたと言える。これらのことから、パノフスキーは、遠近法を科学的普遍妥当性によって根拠づけられるものではなく象徴形式として考察しようとした。画面の彼方に三次元の奥行きを持つ世界が広がってゆくというイリージョンが抹殺され、その代わりに登場した方向を食い違わせた断片的な形態の結合により作り出される不連続な空間、あるいは色彩遠近法によって構成される空間、また時間的要素を導入される空間というキュビズムやフォービズムや抽象絵画における絵画空間には、絶対的容器としての空間というニュートン的空間ではなく、マッハの空間、すなわち物体の間に生起する空間を想わせるものが確かにある。それゆえにこそ、科学の世界における相対性理論の出現は、20世紀の前衛芸術を担う人々の間でも深刻な事実として受け止められたのである。

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