佐藤康邦「絵画空間の哲学─思想史の中の遠近法」
芸術と哲学の関係については、プラトンは『国家』で、可視的な事物がイデアの模倣にすぎないものであり、さらにその瑕疵的事物の模倣にすぎない美術は二重の模倣の結果であり、誤謬も甚だしいものとなっているはずだと否定的に評価している。あるいは、パスカルのように宗教的倫理の立場から否定的言辞を呈する等していた。彼らから見れば、美や芸術には恣意的で、曖昧で、理不尽な側面は否めない。
しかし、一方で、美や芸術は人々の多大な関心と情熱を惹きつけ続けてきた対象であり、そこに多大な努力が注がれ、人間の文化の中に固有の価値を占めていることは否定できない。さらに、一面において、芸術の美は科学的真理とも、倫理的善とも、また生理的快感とも区別されるものであるが、他面において、それらと緊密な結びつきを持つでもある。偉大な芸術作品は世界についての深い知識を語り、偉大な科学上の発見には優れた芸術創造を思わせるものがある。
プラトンも『饗宴』では美が真理と同一視されている。可視的世界に属する肉体の美への恋が、やがてはイデアの世界への恋へと移し替えられるべきものとされている。肉体と魂、イデア的世界と可視的世界の峻別というプラトンの哲学の表向きの前提とは別に、彼の哲学は美によって深く動機づけられている。それゆえにこそ、イデアという概念が芸術家に霊感を与え、さらに芸術に特別な高い地位を授ける類の哲学者に対して鍵となるような思想を提供しえた。ルネッサンスの芸術にとって新プラトン主義の教説は、その典型例と言える。
芸術には、プラトンの説くイデアの助けを借りずには語りえぬものがある。人が真理を知るのはけっして魂の外の対象からの感覚的刺激によるものではない。魂がもともと持っていたイデアについての記憶を蘇らせることによってなのだ。それは学問的真理にとどまらず、絵画、音楽、詩によって自己の内面の意識の開花期の原初的な記憶とでもいうべき記憶を呼び覚まされた経験を持つ者であれば、納得できるものだ。
それゆえ、芸術作品について言えは、何らかの形で哲学に拮抗しうるような内容の深さを含まないものは真に優れた作品とは見なされないであろうし、また哲学について言えば、芸術の与えてくれる豊かな生の諸相とかかわり得ぬものは貧困なものにとどまる。
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