鷲田清一「所有論」(14)~13.所有をめぐる患い
前々章のヘーゲルやクロソウスキーの議論から、ここにあるこの身体からのわたしの所有権の解除というところに至った。人格と身体との連帯性のこの破棄は、主体を制度的な軛から解き放つはずのものであった。クロソウスキーは言う。「わたしが犯しうる最大の罪とは、他者からその身体を奪うことであるよりも、わたしの身体に、言語によって制度化されたこのわたしの身体との連帯性を失わせることなのだ…彼がなによりもいたく感じるものは、彼自身のものとしての他者の身体なのである。そして規範的、制度的には彼のものである身体を現実には彼自身と無縁のものとして、つまり彼を定義するあの非従属の機能には無縁のものとして感じるのだ」。この解放のプロセスは、じつは人格を失調・乱調へと追いつめるプロセスでもある。
たとえば、「すりかわり体験」といわれる症状を示す統合失調症。自分のものであるはずのモノが、知らないうちに誰かの手によってすり替えられているという所有物の自己所属性の否定、あるいは他者の所有物に対して自己所属性を妄想的に付与してしまう、あるいは、自己所属性の否定や混乱が自分自身の身体にむけられる、といった具体的症例。これらは自己所有制の不成立という事態の現われと捉えられるという。ものを所有し得るには、その物に自分のという特質を付与し続けることが可能であるためには、その物がその物であり続ける、判断以前の同一性に対する信頼が前提となるが、この症状はその信頼の喪失の現われと言える。患者にとって、そのような信頼の喪失は、目の前にある物との間で所有という関係を結べずにいる。ここでは、物の同一的な存在とともに、自分の時間的な存在と空間的な存在とが、いわば世界の蝶番が問題化していると言える。つまり、自己所属性を自明なこととして保証している何かが欠落してしまっている。そしてまた、もう一つの症状「つつぬけ体験」、たとえば、本来自分に属するものであるはずのものが不本意なまま他者化されるという事態。
近代の市民社会を支える個人的主体の自立性というのは、自己自身のありようを自ら決めるという、主体の自律的な体制を条件としている。それは、わたしがそれぞれの個人の主であるという主体の自己決定的な体制、つまりは主体の自己所有性の成立をあらかじめ前提とするものだから。それゆえ、、契約を通して各個人がその権利を国家に仮託ないし委嘱するという近代の国家理念に通じる原理を、「すりかわり」や「つつぬけ」を訴える患者もまた共有している。このとき所有は「もつ」ことへ還元された「ある」の歪なかたち、本来所有の次元には還元できない存在の次元が、所有の次元に絡め取られることによって生じた症例。これがノーマルな思考と同型的であるどころが、鮮明で純粋な形であらわれたから症状となったという。
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