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2024年4月

2024年4月30日 (火)

鷲田清一「所有論」(14)~13.所有をめぐる患い

 前々章のヘーゲルやクロソウスキーの議論から、ここにあるこの身体からのわたしの所有権の解除というところに至った。人格と身体との連帯性のこの破棄は、主体を制度的な軛から解き放つはずのものであった。クロソウスキーは言う。「わたしが犯しうる最大の罪とは、他者からその身体を奪うことであるよりも、わたしの身体に、言語によって制度化されたこのわたしの身体との連帯性を失わせることなのだ…彼がなによりもいたく感じるものは、彼自身のものとしての他者の身体なのである。そして規範的、制度的には彼のものである身体を現実には彼自身と無縁のものとして、つまり彼を定義するあの非従属の機能には無縁のものとして感じるのだ」。この解放のプロセスは、じつは人格を失調・乱調へと追いつめるプロセスでもある。
 たとえば、「すりかわり体験」といわれる症状を示す統合失調症。自分のものであるはずのモノが、知らないうちに誰かの手によってすり替えられているという所有物の自己所属性の否定、あるいは他者の所有物に対して自己所属性を妄想的に付与してしまう、あるいは、自己所属性の否定や混乱が自分自身の身体にむけられる、といった具体的症例。これらは自己所有制の不成立という事態の現われと捉えられるという。ものを所有し得るには、その物に自分のという特質を付与し続けることが可能であるためには、その物がその物であり続ける、判断以前の同一性に対する信頼が前提となるが、この症状はその信頼の喪失の現われと言える。患者にとって、そのような信頼の喪失は、目の前にある物との間で所有という関係を結べずにいる。ここでは、物の同一的な存在とともに、自分の時間的な存在と空間的な存在とが、いわば世界の蝶番が問題化していると言える。つまり、自己所属性を自明なこととして保証している何かが欠落してしまっている。そしてまた、もう一つの症状「つつぬけ体験」、たとえば、本来自分に属するものであるはずのものが不本意なまま他者化されるという事態。
 近代の市民社会を支える個人的主体の自立性というのは、自己自身のありようを自ら決めるという、主体の自律的な体制を条件としている。それは、わたしがそれぞれの個人の主であるという主体の自己決定的な体制、つまりは主体の自己所有性の成立をあらかじめ前提とするものだから。それゆえ、、契約を通して各個人がその権利を国家に仮託ないし委嘱するという近代の国家理念に通じる原理を、「すりかわり」や「つつぬけ」を訴える患者もまた共有している。このとき所有は「もつ」ことへ還元された「ある」の歪なかたち、本来所有の次元には還元できない存在の次元が、所有の次元に絡め取られることによって生じた症例。これがノーマルな思考と同型的であるどころが、鮮明で純粋な形であらわれたから症状となったという。

2024年4月29日 (月)

鷲田清一「所有論」(13)~12.演劇と所有

 前章のクロソウスキーの議論では、わたしとここにあるこの身体との連帯が解除され、その連帯が制度的なものであること、したがってまたわたしがこの身体に固有な所有主体であるというのも、仮構にすぎない。それは身体からの私の所有権の解除を意味した。これに先立って、ここにあるこの身体は端的に身体なのではなく、つねに誰かの身体であるという、人格概念の論理的原初性という考え方である。これは、わたしがこの身体の、ひいては自己自身の所有者であるという理解を反故にする。人は自分の身体を他の誰の支配や束縛を受けずにそのありようを自ら決定できる所有主体であるという意味で自由であるのでなければ、主権者であるのでもない。クロソウスキーが私たちの身体が、もろもろの他なるものが侵入し、また去ってゆく、そういう舞台に譬えた。演劇的なのだという。
 わたしが他者の身柄を演じるのではなく、身体は、複数の身柄が行き来する舞台のようなものであり、わたしもそういう身柄の一つとして行き来するという事態である。身体として在るものが、身体という一個の座において複数の異なる身柄を生きること、これは演戯であり、俳優の行為である。この演戯という構造契機がわたしという存在の根底でそれを支えるというかたちで動きだしている。演じるとは他人の人格を擬装することで、他人になりすますことである。自己のこの身体に別の人格をいかに宿らせるかということである。わたしが構成されゆぐプロセスというのは、内容受容的に感覚されている身体のその直接性を破って、それをその外、つまりはそれを間視線カクテキに意味づける象徴的なマトリクスに組み入れられるプロセスのことである。そのなかで身体としての人の存在は、具体的な誰かある人として、その身柄の限定を受けてゆく。つまり、身柄の述語規定が書き加えられていく。そしてそういうかたちで、わたしが物語として生きられる、つまり演じられる。つまり、わたしの生成プロセスが演戯という契機に負うことになる。
 そして、所有の演劇的起源という点から戸井田道三、小苅米睨に及ぶ。戸井田は「タマス」という分配するを意味する柳田國男の説から始める。かつての「家」で私有がほとんど認められていない時代でも餅だけは個々の所有と自由処分が認められていたうえで、タマス/タマシという語へ話を向ける。タマは魂からきており、共同狩猟の獲物を各人に分配するときの取り分をタマスと呼んでいた。漁師たちは大量の時に獲物を神社の前で撒いた。これは神への供物であると同時に神からの賜りものでもあり、そのお下がりとしてのそなえ餅がお年玉と呼ばれた。ここで、集団の紐帯の強化を確認するいとなみとして神前へのお供えがある一方で、お年玉として具象化された個々の成員への配分がある。しかし、これは集団のなかでのことで、他の集団とは獲物を取り合うことになる。そこで、他の集団との境界を設定し、われらのものの囲い込みである。そこで戸井田は、所有は一定期間人がものをもつ状態が継続することを条件として生まれた観念で、それは餅の保ちとして固定され、土地総有の共同紐帯をつよめる反面に、個別化の方向をふくむ各個のタマであった。つまり餅はそういう矛盾の集中的象徴であったのである。本来手に持てぬものを象徴的に客体化して、もつ対象としたという意味で、餅は貨幣に似ている。このように餅が持ちと保ちの二つの言葉の具象化であることから、所有を演技的として、共同体は土地所有と硬い結びつきを特徴とするが、共食をとおして実現される共同体の祭における餅を媒介にして土地所有の演技性として現象する。共有のものの個別的なものへの分配、つまり「もらう」という祭儀のふるまいが、この演技性の形式であった。祭祀においてタマを「もらう」ことが、ある物の占有をめぐって人と人の間に所有という架空の象徴的な関係がつくられる。そのような象徴的なふるまいが演技的なのだ。これは、現実の生産労働から離れることによって成立する。
 所有をめぐる議論で本書がめざしているのは、日常的な主体としてのわたしたちがそれに媒介されてはじめて成立しているといえるそのような構造契機として、演技や憑依を取り出すことである。人がそれぞれわたしとして自己形成するのは、その社会の意味と象徴の塑像的体系に憑かれ、またそれらを参照軸として一個の身柄としての述語的規定を加えてゆくことによる。このような憑依の構造のなかで、現代、人は自分を何ものかの所有者として自己形成する。何かをもつ主体であることが自分の存在の証であるかのように考える。そのようにいわば強迫的に所有物の主体であり続けようとするわたしたちの存在様態は、たえずノイズとして人々を追い詰める。

2024年4月28日 (日)

鷲田清一「所有論」(12)~11.人格と身体の連帯性の破棄

 人は所有者であることを止めることによって所有者になるという、所有をめぐる逆説をヘーゲルは提示した。ここには、所有という事態には放棄=譲渡の可能性が不可欠の前提として含まれている。これは所有の対象物のみならず、身体についても当然あてはまる、さらに所有する主体もまた所有者であるかぎり代替可能なものとしてあることになる。一方、固有手であるということはかけがえのないことでもある。ここに矛盾が含まれることになる。この原因は、わたしが身体としてあることと、身体をつねにわたしのもとにあることの間の位相差にある。
 (ヘーゲルの議論では、身体をわたしのものとしてもつことが、わたしの自由を打ち立てるとされた。自由な主体とは、それ自体は自分以外の者の所有の対象とはならない。その自由は主体が身体をわがものとするプロセスで起動する。しかし、この最初の所有、つまれ自己固有化のプロセスそのものが、所有権の剥奪、つまり非固有化のプロセスだとすれば、自由な主体の存在そのものもすでに、所有の対象となり得るという事態に先行されていることになる。つまり、所有=固有化はつねに非固有性という契機に蚕食されているということである。したがって、主体の自由は抽象的にならざるをえない。それゆえ、死を有する主体としてのわたしの存在もまた所有の論理に飲み込まれる。これは身体もまた所有の対象となる外的な物件であるということと、身体はわたしの自由の現存在であるということの隙間を閉じてしまう。)
 人は何かを見たり、聴いたり、嗅いだり、味わったり、触れたり、思索したり、意欲したりするが、その時には自分がそうしていることを同時に意識してもいる。その時々に随伴しているその意識が一つのものとして連なったところに各人の自己というものが生まれる。この同じ意識こそその人物の同一性をかたちづくるものであって、この意識が後方にすなわた過去の行為や思考に拡張されるかぎりで、人格としての人物の同一性は成り立つとロックは言う。ロックは時間が経過するなかで意識が自己を持ち続ける働き、つまり記憶というかたちで自己を保持し続ける働きの中に人格の自己同一性の根拠があるという。この議論は所有をめぐる議論と重なる。自己の同一的な存在が自分による自分自身の所有、つまりは自己所有という事態へと還元されでいることである。しかし、ここにヘーゲルの問題提起を突き合わせると事態は錯綜する。人は所有者であることをやめることによって所有者になるという逆説は自己所有という閉鎖性を破砕してしまうからである。
 このようなヘーゲルの論点をさらに突き詰めたのがピエール・クロソウスキーだという。かれは、身体からわたしによる所有を解除すると、わたしという自己同一的な存在によって所有されている身体という幻想を解体する。このことによって、わたしという所有主体の統合性という幻想も破綻する。クロソウスキーによれば、身体とわたしとの結びつきは偶然的なものでしかなく、身体はわたしの所有物ではなく、ひとつの通過地点にすぎない。このように、わたしとの固有な関係というものを解除された身体は、様々な他的な力が出現し消えゆく住み処であるような身体は、もはやだれのものでもない。ここから浮かび上がってくる身体のイメージは、わたしがわがものとして所有する身体のイメージとは大きく異なる。ここにあるのは私と身体との内密で自己閉鎖的な関係ではなく、私の分裂であり、多数化であり、偏在化である。これを所有に置き換えてみると、身体はわたしだけのものではなく、だれのものでもあるということで、それは私ではない誰かでありうるということで。それがわたしの内部における他的な力の出現ということだ。
 このようなクロソウスキーの議論はロック以来の近代の主体の捉え方に修正を迫るものである。人格と身体の恒常的な関係が否認されることによって、人が自己の身柄の所有者、つまりは自己自身の主人であることも幻想だということになる。実際、私の身体は私のものだとされても、私の自由になるわけではない。それは日常の生活で感じられることである。クロソウスキーの言うように、私たちの身体が、もろもろの他なるものが侵入し、また去ってゆく、そういう舞台としてあるとするなら、その身体を訪れる者と身体そのものとの関係は偶然的である。

鷲田清一「所有論」(11)~10.所有と譲渡可能性

 固有であるということは、固より有るということである。人や物について、元来それに備わっていること、それだけに属するものをいう。そして「所有」において問われるのも、このわたしに固有なもの、つまりこのわたしだけに属するものは何かということである。だが、その固より有るものも、じつはそれをそのように固より有るものとする自己固有化というはたらきを媒介として生成したものではないかと本書は問うてきた。例え、この花は私が取ってきた、他の誰でもない、というふうに他者に向けて自分を「前に-押し出」すことによって、「固有」、つまり、もっぱら自分にのみ帰属するという事態を生成するが企てられるということ。そして、私に固有なものは、逆説的にも、「わたしにとってだけ」ということの否定によって初めて可能になるという議論になった。「所有」つまりは自己固有性が、「所有権剥奪」という逆のプロセスを介してはじめて可能になる、というのが前章の議論であった。
 このような議論はヘーゲルに遡ることができる。本書の起点にロックの所有権についての議論がある。ロックは所有権が立ち上がる基礎的な場面を、人は誰でも自分の身柄に対する所有権をもっており、その身体をもってなす労働の産物もまたそれゆえに彼自身の所有物である、と。ヘーゲルもまたそういう所有権の立ち上がり原場面から議論を始める。彼は個々人の自由というものを自分の身柄、活動、占有物、そしてその全所有権を自ら好むままに処分し、処理するというに見るロックの観念を共有する。だが、ヘーゲルが、そこから導き出したのは、所有はその放棄=譲渡することにおいてはじめて「わたし」の所有となるという論点だ。ヘーゲルは人は誰でも自分の身柄に対する所有権を持つというロックの議論の出発点に遡る。「身柄」とはその身体である。人は身体としてある。身体である、とは言わない。人は身体を煩わしく感じているのだから、身体としてのその存在をときに人は抹消することを意志し、また実行できるのだから。人は、この一つの身体としてありながら、それに距離を置き、ときにそれを持て余し、ときに重荷に感じもする。この持て余すの「持つ」とは、元来は自分自身のものではないものを、自分の意のままにできるものとして手許に留め置くことである。「余す」とは、持ちきれないこと、つまり、意のままにならないところが残るということである。身体は「わたし」の元基であり、場であるはずである。身体は「わたし」が作り出したものではない。「わたし」が生成する元基であり場である。それは「わたし」に与えられるものでもない。その意味で私にとって外的なものである。それが「わたし」のものとなるのは、それをわたしの器官としてつくりあげることによって、意のままにし得ることを通じてである。「わたし」は身体を自分の意のままになる器官、つまりはそういう特異な対象として持つ限りで、身体としてある。身体はわたしが占有するものである。しかし、この身体は他の人たちから見れば、「わたし」とはこの身体である。つまり、「わたし」とその身体は一つである。このようにわたしにとっての身体の基底からは他者にとっての身体という規定を外すことができない。ロックが自明のように前提していた人は誰でも自分の身柄に対する所有権をもつという単純な事態のうちに、ヘーゲルは無視しえない裂け目を見ていた。
 ここで、人は誰でも自分の身柄に対する所有権をもっており、その身体をもってなす労働の産物もまたそれゆえに彼自身の所有物であるという最初の場面に立ち戻る。人が占有するものは、自分でないもの、自分にとって外的なものである。外的とは主体としてのわたしにとって対象としてあるということだ。そこには、私の身体や生命も含まれる。私は、諸々の物件その他自分の身体や生命も「もつ」。このような「もつ」には、こうすることがわたしの意志においてのみという限定がつく。それらを占有するという事態には、主体であるかぎりにおけるわたしの自由がかかっている。私の自由とは、私が外的なものに拘束されないということである。「わたし」は所有の主体であっても、所有の対象とはならないものとして想定されている。ロックではあらゆる所有の根源的な所有としての身体が、ヘーゲルでは外的なものである身体をおのれのものとして捉え直す。そのプロセスは、身体を精神の意志ある器官としてみなすプロセスとして、主体に占有されることにより、主体が自分を対象として知ることができる。これは自由にもとづく主体としてのわたしが存在を前提にしていること、主体にとって「ある」が「もつ」に媒介されているということである。すなわち、ヘーゲルによれば、私にとっての無身体の基底が他者にとっての身体という契機を内的な構成因として含み込んでいる。そういう他者にとっての無身体という契機をわたしのものとして捉え直し、それを引受けるところに私の身体という像が獲得される。私は自己の身体を想像的なものとして獲得する。直接にはわたしのものではない可視的身体像を、「わたし」という存在の疎外態として了解し、それに自己を同化することでわたしの身体か形成される。このように私の身体はつくりあげられた。このとき、わたしの存在はこの同化としての所有のプロセスに媒介されたことになる。ここでヘーゲルは、所有をある物件と主体の意志との関係として捉える視点を抽象的であるとし、そこから所有とはある意志と別の意志との関係であるという契約の次元へと移行する。所有が展開する具体的な場面は、財の交換や譲渡という場面にこそあるという。
 所有は、わたしにとって外的なものの占有であった。それを意のままにできる主体は自由の主体であって、それ自身は所有の対象にはなり得ず、自己を構成する物件を所有する所有者としてあるのだった。所有者は自らは所有されることのない、いわば、自己をもむつねに対象化できる者であった。したがって、わたしがわたしのものとしている物件は、わたしか私の意思を置きいれる限りにおいてのみそうなのであって、私が意志を置きいれるのを止めれば、それらは放棄できるもの、わたしか自ら所有権を引き剥がすことのできるものである。ある物件について所有権の放棄、つまり譲渡は、これまで所有していたことの承認としてある。そのかぎりにおいて、所有者は、わたしという主体と何らかの物件との関係である以上に、他の意志との関係なのである。所有は、他の人との共通の意志の中で成立させることになる。人と人とが互いに所有者として認め合う、その承認の関係のなかでこそ所有は成り立つ。ここでは、先行する事態の根拠が遡行的に明らかになるという議論の形をとっている。所有が成り立っているから譲渡ができるのではなく、譲渡ができるから所有もできるのだ。

2024年4月26日 (金)

鷲田清一「所有論」(10)~9.所有権とそのあらかじめの剥奪

 ヒュームの議論では、占有の固定としての所有権が要請されるのは、人がその生を維持するために必要な自然の恵みが希少であることによって生じる、おのおのの取り分をめぐる抗争と紛糾を解消するための算段としてであった。そして、ヒュームに先立つロックの自然法的な論議が社会の成立をまつことなく成立する各人の所有権を認め、そのうえでそれらの相互調停として社会的な契約を位置付けたのに対し、ヒュームは立法以前の社会でその内部で編まれた黙契にその地盤を見出した。その所有権をめぐる紛糾を回避するため通じようの議論は、連帯であれ調停であれ、上級の審廷に訴える、言い換えれば。そこで身を翻して共同体的な次元から社会的な次元に自己を更新する。しかし、そこには困難がある。そこで著者が例をあげたのが石原吉郎によるシベリア抑留の際の食料を分け合った経験である。互いに敵対し憎悪しつつ共生する抑留者どうしが、極限状態において、その敵対と憎悪をそのまま共生へと変容させる。その際に上級の審廷に調停を委ねることなく成り立つ希少な例だった。ガブリエル・マルセルの「張り合いの体制」は、「わたし」という存在を提示し、指し示すという行為は、自分以外の他者一般の排除とともに、その場にいる他者丙の問い合わせを本質的に含んでいる。このとき他者は私にとって、櫃欠くべからざる部分としての証人、競争相手、あるいは敵である。そこには、自他を比較することによる歪みが入ってこない。石原の示す連帯は、これに通じるものではなかったか。マルセルは人が「わたし」という存在を前に押し出し、指し示すというときに、それを二種の他者に関係づけていた。一方はまずは自分が排除する他者一般であり、もう一方はそのような他者を考慮に入れずに、その証人であることを期待されている他者である。「わたし」はその他者に同時に証人であることを求めている。石原が記していた仲間の抑留者との関係は、証人であると同時に敵でもあるという関係である。そういう関係は、相手に譲ることがそのまま自分の死を意味するような抜き差しならぬ敵対関係である。そこでは、相手が敵であるまま証人でもあるような、立法者のいない掟の作成が、しかもある種の諦念とともにあったのである。利害の決定的な相反という絶対的な事実の中で、極限の共生の形が提示されたのだった。
 しかし、ここには抑留者という共同性が存在していた。もし、そのような共同性すら存在していない場合には、共生は可能なのだろうか。これは、同じ物差しを持たないところで比較は不可能だとしたら、そして所有権がその実効をめぐって争われる場面では比較が重視されるとしたら、所有権は比較を成立要件とするのか、その問題と関わってくる。
 ところで、媒介者のいない対面という事態を考えてみる。そこで互いに利益相反の関係にある二人に相互の持ち分の数量的な比較が可能なら、そこで上級審の調停に訴える他ないと観念するなら、そこには契約という、一次元上位の共同の取り決めを図ることになる。それは、やがて所有権を定める法として措定され、両者はそれに服属することを約束するというもの。それは自他の関係を、自己に固有なものと自己に異他的なものとの関係を、自他を俯瞰する視線を差し込むことによって、ユニットの関係へと再設定することである。しかし、実際にそのような視線、つまり、自己の固有なものと異他的なものとを相互的な一へと更新するということは、どうやったから可能になるのか。そもそも調停とか和解とかいう場合、その相互性は想像的なものにとどまる。その想像には自己固有性のバイアスがかかる。他と相互性は、その他が自による想像的に二重化された自でしかないかぎりにおいて、他の自への同化にすぎないことになる。この場合、上級審への訴えに先立って何らかの下級審で達成されていなければならないことになる。言い換えると「わたし」という存在の成立そのものがそういう相互性を内蔵している、「わたし」の存在そのものが自己固有化の産物だと言える。したがって、自分を「わたし」として生産すること、それを「わたしだけのもの」として指し示すことは、「わたしにとってだけ」ということの否定としてしかありえないのだ。このことは、「わたし」の単独性の主張そのものが、あくまで「わたしにとってだけ」という単独性の否定によって、つまり自他を相互性で見るような視線の中で、「われわれ」の名において為されるということにつながる。

2024年4月25日 (木)

鷲田清一「所有論」(9)~8.関係の力学

 占有を恒常的にすること、つまり所有として固定するという所有をめぐるヒュームの議論は、このことをいかに記述し、説明するかに向けられている。ヒュームは議論のスタートで、人間の欲求や必要に比して、それを獲得する能力もそれを充足する消費財も希少だという。言い換えると、人間が、その必要を満たすほど豊かであれば占有への執着は生じなかったというわけだ。このことが人々の生を不安定にしている。そして、この不安定さを解消させるためにこそ、社会が編み出されてゆく。その結果が、他人のものに手を出さないという「黙契」であり、占有の固定であった。
 この黙契から所有権をめぐる諸規則への移行において、人々が対象財を個々に占有するなかで、財の総体が希少であるがゆえに様々な紛糾が絶えず起こる。この不都合に対して人々が採る予防策が自己利益をめがける心性の抑制であった。それが「黙契」である。そこから編み出されたのが「所有」としての占有の固定、つまりは自己の占有財と他者の占有財との区別であり境界設定であった。そのことが一般性を導入する画期となった。占有を恒常的なものとする一般的な「黙契」は社会全体に通用しなければからず、悪意によっても行為によっても曲げられてはならない一般的な諸規則として通用されるものとならなければならなかった。利益の共通の感覚としての「黙契」は、「わたしのもの/あなたのもの」といった個々の場面では結ばれても、社会全体の公共の利益という視点から見れば、むしろそれを乱すこと、あるいはそれに反することがあって、それがさらなる紛糾を引き起こしもする。しかし、それを防ぐにはその都度の「黙契」では足りない。社会が国家という規模に拡張してくると、「黙契」では追いつかない。それに対処するために利益の共通の感覚にはさらにある種の「人為」が加わらなければならない。それが「一般規則」として、ある一つの事例で社会一般の人々が迷惑を蒙るとして規則を持続的に実行するという「黙契」がそれを内蔵することが必要である。ヒュームはその一般規則を「所有を決定する諸規則」と呼ぶ。ヒュームはこれを、あくまでも歴史などの条件によって限定されたものと見ていた。ヒュームはロックの社会に先立つ自然を批判する。
 さて、「黙契」が占有を固定的なものにするといっても、人はなぜそうするのかを考えてみる。その問いをヒュームは、人は特定の財の自己への帰属すなわち固有性に拘泥するのかということである。その説明として、欲求、嫌悪、喜び、恐怖、安心などといった快苦や善悪からじかに生じるような直接情念よりも、野心、自負心、虚栄心、妬み等といった他の諸性質と結合することで生じるような間接情念を取り上げ、それらを最終的には誇りと卑下、愛憎という二組の対抗情念に集約するのだ。これら四つの対抗情念の特質として、ヒュームは、人は対象に内在する価値からより、比較によって捉える。このことに起因する判断の偏りがあるという。そういう偏りが四つの対抗情念のように自己あるいは他者を対象とする場合は、その偏りはいっそう甚だしくなる。この比較が自他の比較で行われるとき、その眼差しは自他がせめぎ合う一種の磁圏の中で湾曲してしまう。そこでは偏った自己評価も耳に入る他人からの自己評価も偏りをますます強化させるように働く。ヒュームはこのような歪み私的なものであると同時に社会的なものでもあるという。著者はそこで、マックス・シェーラーの議論を引っ張り出す。シェーラーはこのように自他の価値の比較から自己価値の減退を体験し、そこで自己価値に固執し、反射的におのれを守ろうとするルサンチマンに注目する。これを「所有」に照らしてみると、自己価値の減退への反動が人々の所有への要求に追い立てることになる。それが「黙契」を歪ませ、執拗な所有に駆られるのだという。

2024年4月24日 (水)

鷲田清一「所有論」(8)~7.法と慣行

 所有権という法的権利は個人の自由を根拠づけるに当たって導入される概念であると同時に、その足かせにもなってきた。平成の暮らしについて言えば、私的所有権は個人の身柄の自己所有を根拠としているが、その権利が主張される場面は、その存在がないがしろにされる場合に限られるのであって、普段は自分の身柄を自分で自由にできる場面などごくわずかしかそれはわからない。それは、ひとつには所有という権利の主張から引き起こされる諸問題が所有される物的対象や人の身柄や身体のみならず様々な知的制作物や情報さらには生命そのものにまでひろく拡散しているからだ。それゆえ、所有の問題にはさまざまなアプローチの仕方がありうる。そういうなかで、本書が選んできたのは「~のもの」であることが何を根拠に認められてきたのかということ、つまりは「帰属」の問題である。そしてそれが「所有」という関係として、ひいては市民としての個人の権利として浮上してくるその原場面をロックの所有権論のなかに探ることから始めた。本書では、これまで「所有」という社会的な事実と、そこから立ち上がる「所有権」という、それ自体正当性を要する権利との綴じ目に注意を集めてきた。それにレヴィナスの所有論を重ねることで、この綴じ目が「占有」と「所有権」の間にあることを明らかにした。しかし、所有を「もつ」という占有の観点からではなく、「~のものである」という帰属の視点から問題にするときには、他者の存在あるいは自他の社会的な関係が問題となってくる。しかし、ロックは自然権の一つとして、他者の合意に先立つ場面で問題とされた。またレヴィナスが占有を問題にする時は、その排他性も自己同一的な存在についていわれてのみで、帰属に深くかかわる「固有性」のもんだいはむしろ後段で所有の挫折という位相で問題となるはずであった。しかし、占有の問題は他者という契機に関係づけることなく成立しうるものなのだろうか。
 以上のような視点に、こんどはヒュームによる視点を重ねていこうする。ヒュームは、ロックが所有権の根拠とした人がその所有する身体による労働を付加することでできた物はその人のものであるという説を批判する。その根拠として、ひとつは所有権の認定には様々な形があって、労働を加えるという一事に還元することはできない、ふたつに所有権を決定する規則には様々あって、労働の付加はその一契機にすぎない、みっつに労働の付加というのが、労働に変化を加えるという事態の比喩的な表現にすぎないという。ここで注意を要するのは、ヒュームが所有の根源ならびに所有を決定する諸規則として念頭に置いているのは勤労や幸運によって得た占有だけだということである。
 ヒュームは、そもそも「所有」をめぐり社会で起こる係争のほとんどは所有物が人の手から手へと簡単に移転することが生じている。だから、勤労や幸運によって得た占有を固定的で恒常的なものとする人為や工夫が必要だという。その工夫をヒュームは「黙契」と呼んだ。これは遵守と違反という試行錯誤のプロセスを経て成員間に自生的に形成された慣行である。これは慣行であるので、原理によって根拠づけられ性質のものではなく、成員の間に徐々に浸透していく利益の共通の感覚なのだという。それは道徳のようなものだ。ヒュームは「道徳について」のなかで「所有」を次のように定義する。「われわれの所有物とは、その恒常的に保存が社会の法によって、つまり正義の法によって確立された財にほかならない」だが同時に、「対立する情念が人々を反対の方向に突き動かし、何らの黙契ないし一致によって抑制されない間は、固定した権利や所有等というものが自然に存在することはあり得ない」という。つまり、「所有」という法的な制度がそれとして成り立つのは「黙契」、つまり、「私は、相手が私と同じ仕方で行動するという条件のもとで、相手が自分の財を占有するに任せておくのが自分の利益になるのを見て取る」ことが不可欠で、他人の占有物に手を出さないことに関する黙契において、はじめて成り立つ。このように、ヒュームは所有権が法として社会的に制度化、設計されたものだという考え方に反対した。
 また、ヒュームは『人間本性論』で「所有」を次のように定義している。「所有とは、或る人とある対象との間の一つの関係であって、正義と道徳的衡平の法を破ることなしに、その対象の使用を占有をその人自身には認め、その他の人にはそれを禁ずるような関係」とした。他人は自分の占有物に手を出さないということである。

2024年4月23日 (火)

鷲田清一「所有論」(7)~6.身体という生地

 所有との関連で身体が問題となるとき、「わたしは身体をもつ」と「わたしは身体である」のいずれかということが問題となる。「身体」という概念の位置付けがはっきりしない。ロックは、「人は誰でも、自分自身の身柄に対する所有権をもつ」と言っていた。そしてまた、「彼の身体の労働と手の動きとは、彼に固有のものであると言ってよい」とも言っている。これは、ロックが「ひと(身柄)」をあるときは人格として、あるときはフィジカルな身体として規定している。このような曖昧さは「ひと」の二義性、つまり人格と身体という二義性によるものだ。しかし、ロックはそのことを問題として意識していなかったと著者は言う。そこで著者はレヴィナスに注目する。レヴィナスの場合、身体は享受という生の元基とも言える出来事にあってその環境、言い換えれば生地であり、生がその存在を「始原的なもの」から分離し、住まいという位置を得て、そこから手で世界を編んでゆく占有のレベルを梃子にして、やがて様々な事物とともに自らの身体をそれ自身も同じ所有物として捉え直してゆくレベルまで、多次元的に生成し、捉え直され、変容するものとしてある。この各次元で、レヴィナスは身体を両義性において描き出す。
 ひとつ目の次元は、始原的なものから分離できない享受というあり方でそこに浸っている人称以前の生。そこでは自分以外のものを占有することとそれに占有されることの区別がない。言い換えると、享受の自存性は他なるものへの依存によって養われている。身体は私が持つものでもなく、私に帰属するものでもない。この状態は、幸福な充足状態であるが、その一方で、いつ消失するかもしれないという不安定性のなかにある。そういう脆さの中で、私というものが立ち上がり、享受から撤退して分離していく。そのプロセスで、占有するものとされるものとの関係が生まれてくる。そして、享受にあっては自存性と依存の両義性としてあった身体は占有の関係のなかでその両義性を更新していく。この更新により両義性は、ただ単に定立されているだけではなく、自らを定立する者が存在する仕方となる。このような両義性における身体を私が占有し、自由に取り扱うことができる、つまり意のままにできる。ここで言われる存在する仕方としての身体の両義性は、分離を生起する体制と言い換えることもできる。そこで、身体は単なる対象としてではなく、そのもとで分離が実現される体制として、そこで労働と獲得という運動が出会う。それは、内部性と外部性との境界にあるものとして身体が規定されている。
 このようにレヴィナスは身体を両義性に注目する。これについて、著者なりの言い換えを試みる。身体として適切に働いているとき、身体はそれとして現われていない。このとき、私の意識は身体を素通りして、向こうにある対象にじかに向かっている。なんとなく歩いているとき、私は右足の次に左足を前に出してなどと意識していない。敢えて意識するとかえって足がもつれてしまう。逆に、身体の存在を意識するのは、身体が適切に機能していない場合だ。身体の不調は、私と世界を遮る壁のようなものとして立ちはだかる。身体が主体の器官でありながら、同時に、私の外なる事物としてある。しかし、意識を向けても他の対象と同じように身体を認識できるわけではない。自分で自分の身体を見るのは一部しかできない。身体は十全たるかたちで私の知覚の対象とはなり得ない。つまり、私の身体は第一義的には知覚的経験の対象ではなく、むしろ「像」として経験される、すなわち想像の対象ということになる。しかもその「像」は身体の実態と一致するものとは限らない。そのずれを折にふれて修正する。このほかにも、身体が不調であれば、私の価値同に支障をきたす一方で、身体の方が私に不調のサインを送ってくれるという能動と受動の両義性がある。このように、私の身体の両義性は、単に私の器官であるとともに純然たる物質体であるであるという二義性にとどまらない。所有論との関連で重要なことは、私の子の身体が「私のもの」であるにしても、だからといって私が「意のままにできる」ものではないということだ。そして、もう一つ注目すべきことは、レヴィナスは身体の両義性について、廃案する二つの極の間でたえず反転が起こるとしていることだ。反転が繰り返されると再帰的な関係が起こる。それは菅家の全体を別の関係へと組み換えていくことである。両義性そのものの捉え直しが起こる。このような捉え直しを最初に起動したのが「分離」である。身体は、分離を通して固有の能力として捉え直され、労働力として捉え直されていく。分離とは隔たりを置くということで、時間的には現在から隔たりをとる。つまり、私たちが身を置く始原的なものに対して、未だ現在には到来していないものとして関係する。この時間の中で自らを繰り広げるというのは意識の働きでもある。そのプロセスで、永続的な存在として「もの」が、それは反照的に「わたし」が出現する。そして、何かを取り置き保存することのなかに「所有」が生じる。身体の両義性が意識として捉えられている。意識とは、身体が身体であることを繰り延べるという両義性の運動である。
  始原的なものに浸っている状態から自分を引きはがし、集約するという「分離」の起動。その「体制」が「身体」。その場所は「わたし」が身を据える特定の場所「わが家」である。「分離」は全体性からの離脱として、「わが家」は全体性を断ち切る空所としてある。それは、文字通り領域の外にある。それをレヴィナスは「治外法権にある」という。それは脱領域的であると同時に不可侵性でもある。ここでレヴィナスの議論はロックの問題意識に接近する。自由の拠点というところだ。レヴィナスが享受という生の位相を「幸福」あるいは「エゴイズム」と特徴づけたのは、それは人が最終的に譲れないものと考えたためだ。それ以外に人の幸福と自由の根拠地であると考えたからだ。

2024年4月22日 (月)

鷲田清一「所有論」(6)~5.糧と労働

 ここで労働概念にこだわる理由について、著者が述べている。第一に、所有の権利が発生する原初的な位相を確定するため。「これは~のものである」という事物の帰属をめぐって、ロックがなぜその根拠を市民の明示的な合意ではなく、それに先だつ自然法に求めたのか、その理由を明らかにしたいということである。そもそも「帰属」ということは、人々の間、自他のあいだで発生する問題であり、そのかぎりでロックの言う明示的な合意のことがらであるはずだ。しかし、ロックはあえて自然状態としたのか。そもそも自然状態で生得に与えられている自由や人権を社会契約により政府に委譲するというのが社会契約説であり、帰属もそのようなものということになる。
 前にも述べたようにロックは労働と所有権に関係について、自然が残しておいたものから彼が取り出すものは何であれ、彼はそれに労働を混合し、それに彼自身のものである何かを加えたのであって、そのことにより、それを自身の所有物とすると説明している。ここで、ロックは自然状態における労働の記述においても所有の問題を権利の問題として論じようとしていたと著者は言う。『統治二論』の目的は市民の権利の基礎を論じるところにある。個人の存在にあって侵されてはならないものを標し、それを保護し擁護するためであった。所有もその権利のひとつとして、所有権の源泉をロックは論じようとした。ここでは、所有権が労働と切り離せないことを明らかにすればよく、労働という過程を詳細に論じるまではない。
 生命を授けられたものとしての人間が、その生命を保持するためになくてはならないものである「糧」を、人は自らの「労働」によって手に入れる。その「労働」をロックは、自然から供されたものに人が自らの労働を混合もしくは付加するとしていた。そして、労働を混合や付加したという事実が所有を権利付けるものではないことを前のところで論じた。そこで、著者はレヴィナスの議論に注目する。人は何かを糧にして生きている。大気、光、水から食糧、ねぐらまで、人はそれらなしに生きることはできないものに浸され、包まれ、支えられて生きている。生とはそれ自体が一つの非充足態であって、自分ではないものに与り、それらを自らに同化して消尽することで成り立つ。そこで糧となるものをレヴィナスは「始原的なもの」とよび、生とは始原的なものの享受であるという。
 ここに、これまでの議論と関連する問題が語られている。ひとつは、「享受」が主体と対象との関係に先行する関係だということ。「始原的なもの」は基体を欠いた純粋な質としてあって、未だ「もの」として現われていない。ここでは、対象となる「もの」も、それに対してあるところの人称的な主体も未だ存在していない。そしてその「始原的なもの」に私たちが関わるのは、「もの」に志向的に関わる知覚や思考や実践活動以前の感受性という形においてだと、レヴィナスは言う。私たちは、そのような始原的な環境の中で、誰としてでもなく、行動する。二つには、この「始原的なもの」は誰のものでもない、つまり占有不可能なものであるということ。したがって、三つには、そのような環境の中で何かを摂取しつつ住み着くということは、他なるものに依存して存在するということである。このような不充足は、私が私でないもののうちにとどまっているということであり、私が享受しているものは、「他なるもの」であって、自分自身ではないということである。最後にもうひとつ、私たちが「始原的なもの」に浸され、包まれ、支えられて、そこで身を保つ、そこに滞留するだけでなく住み着くこと、そこで身を支えることを始めるということである。これは、私たちの自存の萌芽といえる。そして、世界への働きかけとての「労働」を始動させることになる。それは、レヴィナスにおいて「分離」の過程として語りだされる。
 労働を始動させる以前は依存の中の自存の状態にあったとレヴィナスは言う。そして、ロックには、このような記述は見られない。何かを糧にして生きるということ、生存が「~によって生きる」ということは何かを当てにしているということで、それが依存である。依存はイニシアチブが向こうにあること、手綱を持つのが自分でないことだ。したがって、依存は不安定で、その支えはいつ外されるかわからない。飢餓や被災はその最たるものだ。だが、依存が依存であるのは、依存への反対動向、つまり自存への土光があるかぎりのことである。享受は隷属ではなく、あくまで与ることなのだ。それが身を支えることであり、レヴィナスは「定立」と呼んだ。「定立」とは、自らを置くこと、あるいは自らを据えるべき位置を見出すということである。しかし、そこに世界はない、客観的な空間の一地点を占めるということではない。生の地平ともいうべき環境の中で、足掛かりとなる場所に身を置くこと、そこに根付くことである。このことをレヴィナスは「分離」とも呼んでいる。分離されているというのは、依存という不安定な混沌への身構えでもある。生が、ここへと求心化してくる。それは環境の中で環境への没入から自らを剥がし、隔てて、そこに内部性を拓きそこへと己を引き込ませるということである。そこで重要なのは、他の「ここ」とも隔てられるということである。そして、「分離」が労働という占有を始動させる。
 依存の不安定さにある脆い生を保全するために、糧のより確実で安定した享受をなすために、享受は労働と占有に援助を求める、とレヴィナスはは言う。労働によって享受を見込みうる安定したものに変容させようとする。占有によって将来のために糧を備蓄しようとする。その意味で労働は享受を早め、占有は享受を遅らせると言えるかもしれない。そこで、重要なことが二つある。ひとつは、それまで襲われるばかりであった不意の未来、それを労働と占有とが意のままにし得るものに変えるということ。もうひとつは、労働と占有によって「始原的なもの」の環境にあっても基体を持たない「質」であったものが永続的な「もの」として出現してくるということだ。糧は同一的な「もの」として、意のままに処分可能となる。
 労働が、つづいて占有が、「もの」を出現させる。ものの実体性は労働と占有に負う。労働に基づいて遂行される占有は、享受における占有を冪化したもの、あるいは高次化したものと言える。つまり、享受と一体化した占有から、未来に備えて取り置き、保存し、貯蔵することを目的として、労働の産物を自分のもとに取り集め、引き込むというものに変わる。この過程で、糧は私の占有の対象になる。生それ自体も、私という占有する同一的な存在へと無自己を集約し、主体としてものに向き合うことになる。ここまで、レヴィナスは一貫して所有を占有として論じている。
 レヴィナスとロックの議論は方向性は異なっているものの、議論の構図や用語に重なるところが多い。ともに糧で身を養うという場面を最初に設定したし、明示的な合意以前の状況を設定したうえで論を進めるし、何よりもその議論は抵抗の意志に貫かれている点で共通している。ただし、レヴィナスの議論、占有論における身体論には言及していない。そこでもロックの議論と交錯するのだが、それは次章で論じられることになる。

2024年4月21日 (日)

鷲田清一「所有論」(5)~4.所有と労働

 私のものである4根拠として、ロックは私の労働の介在をあげた。それらは私の労働によってそこにある。しかもその労働は私の所有物である私の身体によるものであるから、それらは私のものである。つまり、労働が何ものかを所有する権利の源泉であるという。このことは、所有権は市民社会における明示的な契約に拠るのではなく、自然法のうちあるということが根底にある。
 では、その所有権の根拠としてあげられている「労働」とはどういうものなのだろうか。その内容について、人は、共有のものとして人に与えられている中から、それらのうちのいずれかに、身体の労働と手の働きを「混合」し、それらに「彼自身のものである何ものか」を「加える」ことによって、その何ものかを彼の固有のもの、つまりは彼の固有物にする、ということだ。
 労働の「混合」とはどういうことなのか。「混合」といっても何が混合されるのか等について、ロックは詳しい説明をしていない。ヒュームは「混合」は比喩的な言い方でしかなく、その実質は事物に変更を加える、つまり、ある物を別のものにしてしまうということだと言っている。ロックの言う労働の「混合」も、自己の変化であって、決して自己の拡張ではない。混合するということは主体が自らの労働力を、素材としての事物に投入するということではなく、人が事物を前にして投入するのは、あくまでも自分のものとしての労働そのものであって、それが事物の特性やその様態と応答しつつ、事物のありようを、そしてそれを通じて所有物としての自己の身柄を、ひいては自己自身のありようを、変容していくということである。「混合」はまた、他者のような自分以外の事物に依存せずには生きてゆけないという、人間という存在の足りなさによって迫られる不可避の活動でもあると言える。その、自分以外の事物との関わりをどう編み、繕い、安定したものにしてゆくかということが、人には最も重大な問題としてある。つまり、何を自分の所有物として生みだしてゆくかという、身柄のそのゆくえにかかっているということである。そこに所有権論が身柄論に重なる所以がある。
 人には生きていくうえで、なくてはならないものがある。言い換えると、その生存を維持し、展開させるうえで外せないもの、大気であり、食物であり、住まいであり、そして何より生命であり、健康であり、自由と安全である。ロックが所有を認めたもの、プロパティの内容に揺れ幅があるのは、人が何をもって自分のものとするかが多岐的であるからだと著者は言う。それに加えて、所有権の基礎が人間の自然状態のなかにあるとすることによる。自然状態について、ロックは次のように考える。自然状態とは、人それぞれが、他人の許可を求めたり、他人の意思に依存したりすることなく、自然法の範囲内で、自分の行動を律し、自らが最適と思うままに自分の所有物や自分の身柄を処理することができる完全に自由な状態としている。そのような完全に自由な状態の中で、人はそれぞれに、その生の最大の便宜を活かすべき勤勉で理性的に振舞わなくてはならないという。その振舞の一つが労働であり、その質がいつも問い糺される。ひとつは所有が可能であることを前提としての完全に自由な状態を創出し,維持することにたえず努めること、もう一つは労働が勤勉で理性的で雨かを点検することである。それが労働のあるべき姿とロックが考えている。
 このような考えは、一方で、所有というものが、もともとは自己変容の過程であって自己拡張の過程ではなかというのだが、自然法の枠を外されれば、勤勉の奨めは、その先に所有の拡大・拡張という別の過程に読み替えられるいったのだった。勤労の程度がもろもろの財の割合の差を生むことを、その位置の差が財産の不平等を生むこと肯定することになる。
 また、視点を変えると、所有を生存との関係で考えてみる。生命について、ロックは所有権論の中で特異な位置づけ意をしているという。曰く、身柄は譲渡できるが性眼は譲渡できない。つまり、生命と身柄(人格)とはカテゴリーが異なる。生命に対する所有権とは生命を享受したり、利用したりする権利であって、生命や身体を破壊したり消滅させたりする権利ではない。そういう意味では、所有という場面に現われながらも、所有という関係のなかに収容しきれない。自己保存はは何よりも神の欲するものなのである。
 著者は、この点について、アプローチは異なるものの、エマニュエル・レヴィナスが同じようなことを言っていると言う。彼は、諸々の事物が対象として明確な輪郭をもって現われてくるのに先立って、人はそれらをじかに享受している。そのような生の基盤とも言える次元を見ている。著者は、ここから、ロックとレヴィナスを対比的に見ることで、所有権論における労働概念の位置付けについて、より明確な理解を得ようと目論む。

2024年4月20日 (土)

鷲田清一「所有論」(4)~3.ロックの問題提示

 まずはロックの所有権論から始める。ロックは『統治二論』において、自由主義と民主主義を基礎とする市民政府の政治原理を説く一方で、あらゆるものが商品として流通し、交換される資本主義的な市場社会を基礎づける議論を行った。このようにロックの個人主義、自由主義的思考を現代の新自由主義につながるという解釈もあれば、もう一方では逆に、ロックの所有権論を資本主義的な市場論理への批判と解釈もできる。ロックの理論はこのように大きく引き裂かれ、正反対の方向に揺さぶられてきた。そのひとつの理由は、ロックの時代が自由主義的伝統の揺籃期にあたり議論の成熟には至らなかったこと、そして、この書の書かれた当時の政治的状況の影響もあるという。著者はロックの「所有論」には、これまで述べてきた課題のすべての萌芽が見られるという。
 ロックの所有権論は、次のようなものだ。「自然の諸物は共有物として与えられているが、人間は(彼自身の主であり、また、自分の身柄およびその活動の所有物であることによって)自らのうちに所有権の偉大な基礎をもっていた」というものだ。ただし、これには二つの重要な条件が付く。ひとつは労働という手段によって、他人の共有状態を排除するということ。もうひとつは生活の便益のために自分の労働によって所有権を定めることができる。つまり、ある事物が誰に所属するかは、それを誰が作り出したかによって決まる。事物は、神によって共有ものとして与えられたものからそれを取り出した者、もしくは作り出した者のものである。なぜなら、そこに持ち込まれたような「労働」をなす身体は、その身体を用いたその人のもの、その人に固有のものだからである。つまり、人が自身の身柄に対して有する所有権にあらゆるものの所有の根拠があるという。人は生まれながらにして、自らの身柄に対して、自分だけの、つまり他者を排除できる所有権を有しており、その身柄のものとしてなされる労働によって、その労働の所産であるものにも所有権は拡張されていく、ということ。ただし、これは無制限に認められるのではなく、それには厳格な制限二つ付される。ひとつは他人に十分なものが残されていること、もう一つは労働によって自らのものとなったものを破壊したり、腐敗させたり、浪費しないことである。これは他人の所有権を侵害しないことと、共有のものとして神から与えられたものから生存の便宜を引き出すべしという神慮にそう努力をすべしということだ。
 この論点の背景には、次のような思考のモティーフがある。第一に、自己保存、つまり各人が自己の存在を維持することが、人にとって究極の懸案であって、そのためには生存を可能にするもの、すなわちプロパティが自分のものとして手許になければならない。それを自らに固有のものとして保持する権利を自然状態に求めなければならない。つまり、各人は自分の生命を保全する権利を持つという公準。第二に、この所有権の根拠は各人のうちにあるとする。それは労働、つまり、各人が自ら投下した労働がその人のものであって、他者からの承認をまつまでもなく成り立つとする。所有権こそが、個人が生まれながらにして自由であるという事態を裏打ちしている。要するに、労働は労働するその人自身のものであるという公準。第三に、このような排他的な所有権は、たとえ自然状態にあっても互いに衝突する。自然状態では、その対立や衝突を調停すべき共通の裁定者は存在しないので、各人の所有権を保全するためには、他者からの自然法に対する侵害を処罰する機能を共同体に委譲して市民社会を構築する必要がある。つまり、所有権は最終的に「市民社会」の存立を要請する。
 このようなロックの主張に対して、著者は、ロックが最初に前提にしている「共有のもの」は、もはや現代には存在せず、現代ではあらゆるものが誰かのものとしてある。しかしまた、基本的に彼の考え方、とくに労働所有論は、現代に深く浸透している。労働所有論は合意所有論と対置され、西欧近代の所有論はこの二つの考え方を軸として展開してきた。彼の労働は労働する者自身のものであるがゆえに事物はそれを作り出した者のものであるという考え方は、資本主義的な所有論とそれを批判したコミュニズム的な所有論の論拠となってきたものでもある。
なお、ロックの説明について概念が曖昧で派生的な問題をいくつも生んでいる。その中には所有権の内容についての本質的なものも含まれている、と著者は言う。

2024年4月18日 (木)

鷲田清一「所有論」(3)~2.所有と固有

 前章では、あるものの帰属をめぐる「所有」という問題系は、「もつ」の問題系とは合致しないということを確認した。本来、何かの対象をめぐる人と人との関係である「所有」を「も」こととして主題化した場合には、「所有」の問題を、持つ主体と持たれるモノとの対象関係へと引き寄せて考える、つまり、あらかじめ問題を狭めること危うさというのが、その理由である。
 帰属という意味での「所有」をめぐって、まず、「所有権」は英語のpropertyの訳語であり、propertyは所有という事態、もしくは関係と、何ものかを自分のものとして所有する権利とともに表わす。また、propertyには、さらに、所有の対象である所有物(財産・資産)という意味も含む。
 世界に「何かとして」あるものはすべて「誰かのもの」としてあるというのは現代の社会に特有の現象である。だから、それだけで「所有」のすべてを説明することはできない。一方で、「所有」は歴史的な慣習若しくは制度として多様な形で成り立ってきた。それは必ずしも現代の「所有」と一致しないで、現代の「所有」はその多様さを狭めてしまい、そこに軋轢を生むこともある。
 このような問題の背景には、「所有権」という現代の法的権利が過剰なまでに社会を覆うようになったためである。そのような近代の「所有権」は「可処分権」という概念とじかに連結しているからである。可処分権とは、意のままにしてよいということである。己の意志で自由に処分できるということ。これが「所有権」と連結されたことから、「これは私のものだから、それをどうこうしようと私の勝手だ」という理屈が生まれた。だが、あるものの存在が特定の誰かに帰属するということと、それを意のままにできるということは同一次元の事柄ではない。一方が帰属の権利にかかわるとすれば、他方は実際の使用にかかわる。それぞれは別々の問題である。
 人は自らの身体を駆使して様々なものを思い通りになるように操作し、変形してきた。そのことで自然の主になろうとしてきた。しかし、そのような操作という行為の媒体である身体という存在が、自分の意のままにならないという。このこともまた、病気ひとつ取り上げるまでもなく、人々が日常経験してきたことである。ここにも「所有」の両義的な構造が映し出されている。私の身体を私が所有するのではないということだ。また、たとえば何ものかを道具として思いのままに使っている過程で、その使っているものに似てくる。知らず知らずのうちに、それがそなえる構造に逆に規定されることになるということである。所有している者が所有される物所有され返す、という関係の反転が「所有」にはつきものだということである。このような意味でも、「意のままにできる」ことは、意のままにしたはずのものに逆襲される。つまり、意のままになるどころか、逆に意のままにしたつもりのものに意のままにされてしまう。守銭奴というのはその典型だ。この反転の構造は、「所有」がそのような現象形態をしているというより、所有する主体を規定しているもろもろの概念装置にすでに深く刻印されてものである。
近代社会になって、「自由な主体」は」所有する主体」として規定される。それは、近代の市民社会を構成する「自由で独立した主体」であるということは、何よりも、様々な偶然性や予測不可能性に左右される不安定な世界の中で確実に身を保つために必要なものを、身の回りに取り集め、それらを工作し、操作し、それらをレギュラーで安定的な環境世界への改変していく算段ができているということである。そしてまた、そのように設え直された環境世界を、それを強奪もしくは侵害・横領する強権から護ることができるということである。17世紀のデカルトはまず前者を「自然の主にして所有者」と呼び、ロックはさらに一歩踏み込んで「自己の主」にして「所有者」と規定した。「自由と独立」をそなえた自己決定可能な主体としてのありようは「所有する主体」のうちに求められたのである。
 このような市民社会で想定されているのが自由で独立した個人、つまり「所有する主体」である。ところが、この「所有する主体」の定立と連動している諸々の概念規定は、それぞれの意味を裏切り、意味を反転させるような契機を含んでいる。
 例えば、「個人」とは、「個」という無規程が「分割できない」という形で否定の契機を内蔵している。「個」は、それ以外の何ものにも還元も細分化もできない不可分の同一的な存在としてある。しかし、一方で、分割不能な個人は、孤立し単独の存在として、他の「個」から分離された存在でもある。そのような理路を封じ込めるかのように、「個人」は様々なレトリックやテクノロジーを駆使して形づくられてきた。例えば、個人の振る舞いを制度的に囲い込む規律だったり、帰責可能な法的人格の理念などで、これらはつねに一定のレトリカルな水準で発動され、編成されてきた。いわゆる正常性の形成であり、諸個人を規格に適合した存在とすべく検閲し、逸脱を測定し、調整しつつある「等質的な社会体」に帰属するものとして個別化されてきた。
 あるいは、人格的統一という概念は、個人の多様な経験を単一的で独自的な個々の「わたし」のそれとして統合してゆくプロセスを意味している。しかし、「わたし」の存在の独自的な統一は同時に、社会を構成する等質的で語感的な単位に回収されるものでもある。
 あるいは「主体」という概念は、「主体」を意味すると同時に従属しているという没主体的な状態をも意味する。
 そして、個人の存在の「私秘性」という概念は、「所有する主体」の自己所有との関連でいえば、主体は自己以外の様々な対象を所有しようとするが、その所有する自己その者との関係は、他者の介在も干渉もない内在的な関係と想定される。その内在的な関係はその意味で私秘的な性格、ときに秘匿されるべきものという性格を帯びる。これは「わたし」の内面性というものだ。
 これらのような意味の両義性、ないしは意味の反転が認められるのがpropertyの語源ともいうべきproperなのである。なお、propertyという語は「所有」「所有権」を意味する一方で、物の場合なら「特性」、人の場合なら「自己固有性」とでも訳すべき何ものかに固有の性質(特質や特性)を意味する。この「固有」を意味するpropertyには、他者に譲渡できないという意味が濃い影を落としている。異物に触れたり汚染されたりしていないという「固有」=清潔は、「所有する主体」の自己自身との内在的な関係と相まって、「所有権」という譲渡不可能なものを排他的に占有する権利が形成される。
 「所有権」を表わすpropertyという語は、譲渡可能性ということを本質的に含む「所有」という意味と、本来譲渡不可能なものの存在を言い当てるはずの「固有」という意味とを併せ持つという矛盾から、私たちは「所有」も「固有」も概念として自らの足元を突き崩すような意味契機を含んでいると考えざるを得ない。ここに、「所有権」という概念の過剰適用をめぐり発生している様々な葛藤や桎梏の起因するところがあると著者は言う。そこで、これからの課題は、それ自身のうちに矛盾する意味の二契機を内蔵している「所有権」の概念の組み立てと、そのレトリカルな構成に基づくその制度化の過程を浮き彫りにすることにある。「所有権」の概念が社会生活の中に深く浸透していく中で起こった様々の広範な問題の次元に遡ることから始める。

2024年4月17日 (水)

鷲田清一「所有論」(2)

 「所有権」は、歴史のある段階で、個人の自由と独立を安全とをぎりぎりのところで護る権利として措定されたはずなのに、現代社会の様々な局面は、これまでになかったほどに「所有」の強迫観念に隅々にまで浸透されていて、そのことによって世界の、社会の、そして自己自身の把握も歪んできているのではないか、そのことで私たちはさまざまな塞ぎに窒息しそうになっているのではないか。本書は、このような視点から「所有」ということを捉え直そうという試みである。
 まず、語源的意味からみていく。これは、後にジョン・ロックをはじめとした過去の考察を顧みるための準備として必要なことでもある。所有権を英語ではpropertyもしくはownershipという。それぞれの語幹はきわめて多面的な意味の広がりを持っている。まず、properだが、ある物をめぐる所有権は、本来他人に譲渡可能なものとしてある。しかし、propertyは、同時に人それぞれの掛け替えのなさ、つまり「固有性」を意味でもある。譲渡可能な所有権を意味すると同時に固有なあり方、つまり譲渡不可能なことを意味してもいる。そこに市民という近代的な存在様式の特異さが表れている。人々が自己を市民として意識して行くプロセスは、人々が自己を「所有の主体」すなわち何ものかをわたくしにだけ帰属するものとしてもつ主体として規定して行くプロセスと切り離すことができない。近代において、「所有」ということが「わたし」というものの存在に深くかかわるものとなったのである。また、properには所有、固有だけでなく、適切だと人々によって認められているという意味もある。そして、ownには所有するとともに借りがある、恩恵に与るという対他関係に言い及ぶ。
そこで、近代に、所有が私だけのものになったのかを問う。
 世界はただ「ある」のではなく「何かとしてある」。世界のいかなる事象も常に何かとして現われている。世界は、「何か」として現われるだけでなく、同時に「誰かのもの」として現われる。私たちがこの世で出会うものは特定の「誰かのもの」である。「誰かのもの」とは誰かの所有物であるということ。「何かとしてある」が、世界の現われ方を制約している条件としてあるのに対して、「誰かのものとしてある」は、決められたもの、つまり歴史的な制度の中でいわれるものである。
 私の筆記具を他人が勝手に使うとき、私の服を他人が無断で身につけるとき、それを目撃した私は、その私物が私の延長であるがゆえに不快感に襲われる。それは、見知らぬ人に身体に触れられたときに感じる恐怖やおぞましさを、私自身への侵襲として感受するのと同じだ。このときの私の身体は「わたし」そのものである。しかし、その身体も私のモノとされるかぎりで、売却されたり貸与されたりする。それが労働力だ。労働力を一定時間提供することで賃金を得る。これは交換の行為である。
 このように「所有」という概念は常に二重の相貌で現われる。一方で、法的な権利として普遍的に措定されるとともに、他方では、共同的な慣習として歴史的に維持されてきた。また、社会的な約束に基づく観念的な擬制態であるとともに、個々人の身体的存在の深層まで浸透しているリアルな感覚でもある。そらに、一人ひとりの「わたし」というものを成り立たせる根源的な事態であるとともに、おなじ「自己」の基底を制約し、ときに蝕む契機でもある。「所有」という観念は、法と慣習のあいだ、理念と感覚のあいだ、「わたし」の内部と外部、自由と不自由、のあいだを跨ぐもの、もしくはそれらを絶えず反転させるものとしてある。
 「所有」はしばしば何ものかが所持、もしくは保有として、「存在」に対置されてきた。「存在」と「所有」、すなわち「ある」と「もつ」の対置について、本書でまず言語学的な視座からみる。
 バンヴェニストによれば、etre(ある)という動詞は構文として叙述的に用いられるのに対して、avoir(もつ)という動詞は他動詞的に用いられるように見えるが、avoirは擬似他動詞的で、一般的な他動詞のように対象に働きかけ、この様態を変容させるような他動詞的な関係はもっておらず、むしろ状態動詞とでも言えるものだという。Avoirの語彙素は、動詞avoirの文法上の目的語であるものを主辞にして、etre(…には…がある)というふうに述べられてきたという。それでは、avoirはetreを逆にしたものだ。ただし、そんな単純ではない。両者が入れ替え可能なのは状態動詞である場合などの限定がつくので、存在と所有を等置することはできないという。
 そしてまた、「ある」という概念も一筋縄ではいかない。和辻哲郎によればドイツ語seinは存在賓辞「がある」であると同時に繋辞「である」でもあるという二義性から、「思惟と有との連関」という構図を出来させ、真にあるといえるもの、つまりは実在と、ロゴス、本質、実体、根拠、現象、関係などといった「存在論」的な思考を紡ぎだしてきた経緯を思えば、ドイツ語のseinに「存在」という語を当てるのは無謀だという。そもそも、「がある」の意味でのseinに訳としてあてられたのは、漢語の「有」だが、この「有」には、「がある」とともに「もつ」という意味もある。つまり「有る」と「有つ」である。「有」がそうであれば、「所有」も「有る所のもの」と同時に「有たるるもの」にもかかわることになる。「有」には存在と所有の切り離し難さがある。
 和辻は続けて、「金があるとは人間が金を有つのであり、従って金は所有物である。有つという人間のかかわり方にもとづいてのみ金が有るのである」という。「有為」「有意」「有志」「有罪」などもそうで、「がある」ことの根底には「人間が有つ」ということがあるのであって、そうすると「人間がある」とは「人間が人間自身を有つ」ことを意味していることになる。和辻は「一切の「がある」は人間が有つことを根底とし、そうしてかく物を有つ人間があることは人間が己れ自身を有つことにほかならぬ」とすれば、人間におけるこの自己保持を表わす言葉こそが「存在」だったという。この「存在」の意を次のように説く。「存」とは「あることを心に保持する」ということで、しかもそれを自覚的に心に留め置くことであり、現象学的にいえば、この保持は一つの主体的作用である。「有つ」は失うことを含み、把持は喪失を含む。「存」はいつ「亡」に転じるかもしれないという生成の構造をもつ。これに対して「在」は、「にあり」、つまり「ある場所にあること」という空間的な性格を帯びる。どこか「に在る」というのは、その場所「にいる」ということだ。つまり、「存」が「亡」や「失」に対置されるのに対して、「在」は「去」に対置される。
このように「ある」と「もつ」を対置させるには無理があると著者は言う。

2024年4月16日 (火)

鷲田清一「所有論」

11112_20240416231701  所有とは、あるいは所有権とは何だろうか。著者が問題にするのは、それが本来は個人の自由と独立と安全を護るために作られた考え方であるはずなのに、近代に対象物は意のままにできること変質し、現代社会ではそれが強迫的なまでに主張され、かえって足枷になっているという事態だ。近代市民社会のルーツに位置付けられるジョン・ロックの所有権論が身体との関係で規定されている。そこでは、人は、自分の労働によって得たり作り出したりしたものは、自分のものとしてよいという。なぜなら、その労働をなした身体は、その人に固有のものなのだから。つまりロックにおいては、「この体は誰にも侵されない」という人が自身の身柄に対してもつ所有権が、それ以外のあらゆるものに対する所有の根拠になっている。さらに、モノをもつこと。所有を法的に保証すること。これらは自己を自己たらしめる根源的な営みに思える。他人が私の所有物に無遠慮に手をつけると、それだけで自己の存在が軽んじられた気になる。ならば「モノをもつこと」は「存在すること」と等しい。しかし、私たちは自分の身体を「所有」しているのだろうか?「わたしは身体をもつ」という言い方からして、わたしが身体の外に出られないことを考えるとなんだか奇妙だ。しかし他方で、わたしたちは自分の体を完全に意のままに操れるわけでもないから、わたしはわたしの身体の主人とも言い難い。身体はまぎれもない「わたし」としてしかありえない一方で、決して「わたし」のものにはなりえないという、所有論にとってやっかいな存在なのだ。
 その典型的な現象を、日本なら入会地とよばれる誰のものでもない共有地すらも、わたしのものとして枠取りしてしまう象徴的事例にもとめる。じつは、この誰でもないという間が問題のカギとなってくるのだが、その間に辿り着くまでの議論は、間というだけにキッチリしたロジックの隙間をさがす、迂回を繰り返す、きわめて見通しの悪いものとなる。論理の道筋を追い求めて読んでいて、肩透かしをくらうこともしばしばで、その読みは難渋を極める。しかし、そうでないと言えないことを言おうとしているのは分かる。最後に、著者がまとめをしてくれていて、ああ、こういうのを読んでいたのか、と後付けで読んでいたことに気づく。

 

2024年4月15日 (月)

前田啓介「おかしゅうて、やがてかなしき─映画監督・岡本喜八と戦中派の肖像」

11113_20240415233901  映画監督、岡本喜八の評伝。岡本喜八は、東宝を担った商業的作品、いわゆるプログラム・ピクチャーを量産した監督。私にとっては、映像に躍動感が満ち溢れていて、マキノ雅博とは方向性は異なるがスタッフや俳優といった関係者が楽しんでいることが見ている側につたわってきてそれで観客も楽しんでしまうような作品を量産した人だ。助監督時代、ある有名な監督の下で、作品の予告編の制作を任されて、本編より面白いものを作ってクビになったという伝説もある。それも、ありそうだと納得してしまうような監督だった。本書では、岡本は、ちょうど太平洋戦争時に青春時代をおくり、本人は本土決戦の迎撃部隊で死を覚悟していたし、同級生の半分以上は戦死したという戦中派だった。その時、死ぬのはしょうがない、死ぬんだと誰でも思っていたという。ただ、彼個人としては何のために死ぬんだというときに、国のためとか天皇陛下万歳はあまりに抽象的すぎて、具体的なイメージがわかない。では何のため、どうしたら納得できるか、ということを戦争が終わってからも、身についてしまって、脱することができなかった。それが、彼の監督した映画に通奏低音のように通底しているという。そういう視点で、書かれた岡本の伝記。たしかに『肉弾』なんかは、そういうのを感じるかもしれなが、それ以外は・・・。岡本の作品に溢れる楽しさはどういうとこから生まれたのか、というような話を期待したのだったが、ちょっと違った。

2024年4月14日 (日)

大月康弘「ヨーロッパ史─拡大と統合の力学」(6)~第5章 歴史から現代を見る─俯瞰

 現代ヨーロッパは1600年の歴史の中から産み落とされたものだ。18世紀までは神の統治とその代務者による「善き支配」こそが「世界」救済の要請である、という世界観を多くの人々が共有していた。王権紫綬説を支える原理には、神意による摂理が前提され、神意の代務者としてのキリスト、または皇帝、そして各地の王の存在が導き出されていた。それは、10世紀の皇帝コンスタンティヌス7世が描いた帝国統治のイメージからの導かれた原理だった。ヨーロッパは、キリスト教的世界観によるこのような社会秩序論を古層に持ちながら現代国家論を含んだ文化的精華を生み出した。大雑把にいえば、古代末期に地中海世界の文明社会はキリスト教化し、周辺の諸民族を取り込み、彼らをも文明化した。そのなかから西北ヨーロッパの地域にフランク王国を母胎とするヨーロッパ社会が発展していくこととなった。

2024年4月13日 (土)

大月康弘「ヨーロッパ史─拡大と統合の力学」(5)~第4章 近代的思考の誕生─視座

 現代の教科書が語るような事実、たとえばローマ帝国の崩壊という事件には、現代から見た古代の没落という視点が潜んでいる。ところが当時の人々の中に古代ローマが崩壊したとか没落したといった意識はなかった。そもそも、我々が古代人と呼ぶ人々が自らを古代人と称した事実はない。ビザンツ帝国の人々は自らの国家をローマ帝国と名乗り、自分たちをローマ人としか称さなかった。つまり、ローマは終わっていない。古層のヨーロッパ社会にあっては、世界暦というカレンダーを軸に地中海=ヨーロッパ世界が律動していた。ユスティニアヌスは、世界暦6000年の時機にあって相次ぐ自然災害、外敵との争いに終末の予兆を感じていた。そして、その後の大帝たちや、15世紀に属する諸事象もまた、じつのところこの時間意識とつながっていた。
 話は変わって、レコンキスタは8世紀から15世紀にかけてイベリア半島をイスラーム勢力から奪還する運動であった。世界暦によれば、その7000年は西暦1492年にあたり、この年はイベリア半島のカスティーリャとアラゴンの連合軍がグラナダ周辺に残っていたイスラーム勢力を駆逐してレコンキスタを完成した年として知られている。
 一方1453年コンスタンティノープルがオスマン朝の攻撃により陥落する。14世紀にビザンツ帝国は内政の乱れにより弱体化し、世紀末からオスマンの侵攻を受け、何度もコンスタンティノープルの包囲を受けた。マヌエル2世は西欧からの支援をとりつけようと、自ら代表団率いて西欧を訪問する。その目的の一つがバーゼル公会議であり、そこで東西の教会合同、十字軍の招集であった。その出席者であるベッサリオンやブレトンたちが、ビザンツ帝国で継承されていたギリシャ語の哲学や文化をイタリアに伝えた。それが、ルネサンスの基礎となった。
 世界暦にもとづく終末意識は、15世紀の始まった大航海時代と呼ばれる事象もまた、この終末意識との関連なしには理解できない。通常はオスマン朝の伸長によりヨーロッパ人の東方交易が困難になり、直接アジアに向かうルートを開拓するために冒険的な航海に出るものが出現したと説明されている。しかし、そこにはキリスト教的動機も見られたのだった。終末意識との関連では、当時、人々が待望していた世界暦7000年が過ぎても世界が消滅することはなかった。15世紀末のヨーロッパの人々はやがて、自らが依拠していた暦年が不正確なのではという疑念を持つようになった。折しも、イタリアには古典ギリシャの諸文献が流入し、それらを学び、一部の人立つが学術活動を展開していく。そのなかには、自らの立ち位置世界創造の暦のなかに再定義する試みも含まれていた。新しい知識の体系に触れて、学術研究を深めていく者も少なくなかった。その総体がルネサンスの文化活動なのだ。他方、コンスタンティノープルが陥落したとき、ヨーロッパの人々がその出来事に世界の終末の予兆を見たとしても不思議ではない。その時が来ても続く世界に生きる中で、世界についての探究は加速されて行った。
 15世紀から18世紀にかけてヨーロッパの人々は、ヨーロッパ以外の世界を、現地から持ち帰られた具体的なモノ、異なる生活様式・文化に関する情報から知ることとなった。さらに16世紀のルネサンス活動を推進した者たちは、これから出発すべき彼らの新しい時代を現代と呼んだ。そして、それに改新の手段を与える模範としてのキリスト教以前的なギリシャ・ローマ文明を「古典古代」として、その中間にあるキリスト教中心の時代を「中世」とした。
 ヨーロッパ初期の学問は、ヨーロッパ以外の世界である東方のキリスト教以前の時代からもたらされた情報、モノ、事象に関する整理、分類から始まっていた。それが18世紀になると、啓蒙思想家たちは「文明」と「野蛮」の指標をもって分類し、「野蛮」から「文明」という発展経路を示すことで自らの属するヨーロッパを比較文明論的に考察していった。ここで注目すべきは、「法」などが複数形で表記されたのに対して「精神」は単数形で表記されたということだ。つまり、世界の各所にはそれぞれ固有の「法」があるのに対して、「精神」は普遍的で、人に共通のものである。その陶冶によって人は文明化する。そういうメッセージがそこには端的に現われている。いわば、単一な時間軸に沿って、ひとはまた集団としての人間社会の歴史は発展していくもの、と想定されていた。「古代→中世→近代→現代」という時代認識、また啓蒙思想の「野蛮→文明」という図式は、歴史は進歩するという考え方を伴っていた。
 次に、ヨーロッパの近代思想の1つの源流になったものとして「オイコノミア」に注目している。第3章の終わりでは「オイコノミア(神の摂理)」として登場したが、もともとは「家」を意味するオイコスと、「法」や「摂理」を意味するノモスを結合した言葉で、家政と結びついていたものだった。家の家長には財産や使用人をマネジメントする能力が求められる、こうしたことを教えてくれるのがオイコノミアだった。このオイコノミアはエコノミー(経済学)の語源でもあるが、同時に神学的な意味を与えられていた時期もあった。パウロはオイコノミアを「信仰にもとづく神の恵みの分配」、「慈悲深いご計画」、「奥義の分配」といった意味で使っている。さらにエウセビオスはオイコノミアをテオロギア(神性)に対する「受肉」の意味で使っており、「本質」に対置される地上における「実践」の意味を持つようになっている。こうした使い方は17〜18世紀のフランスのキリスト教思想家ニコラ・ド・マルブランシュなどにも受け継がれているという。フーコーもこうしたオイコノミアの概念を使って議論を展開しており、「霊魂の統治」が実際の政治統治のモデルになった。アダム・スミスが打ち立てた経済学についても、著者は「「見えざる手」(摂理)のもとにある《自由》な行為主体」ということで、キリスト教的世界観に規定されたものとみている。

2024年4月12日 (金)

大月康弘「ヨーロッパ史─拡大と統合の力学」(4)~第3章 ヨーロッパ世界の広がり─外延

 古代末期にできあがったヨーロッパの基層は、キリスト教の救済観念にもとづくローマ皇帝が統べた版図とほぼ一致するかたちで存在した。キリスト教ローマ帝国は、ビザンツ帝国によって体現されていた。西欧のゲルマン諸部族国家、また最後まで命脈を保ってその後のヨーロッパ史を紡いだフランク王国など、地中海周辺の諸地域社会は、国家理念ばかりでなく現実の制度においても、社会生活にあっては、文化要素としてキリスト教会・聖職者を自らに組み入れて、国家社会をかたち作っていった。
 コンスタンティノープルに座したビザンツ皇帝が、国家・社会がキリスト教化した後も一貫してローマ皇帝と称したが、その歴代皇帝は、そういう自意識を持って世界を見渡し、その安寧に心を砕いた。彼らの自己了解、振る舞うべきとされた当為の内容と意識の構造はどのようなものだったのか。それは地中海の世界が切られてことではなく、アルプス以北の地域にも同様の世界観、帝国観を共有していた。
 9~10世紀のビザンツ帝国は安定していた。もっとも、7世紀に発生したイスラーム勢力は対抗勢力として緊張関係にあった。歴代の皇帝は、自らを一貫してローマ人の皇帝と称した。国家観念としてもローマ帝国以外の何物でもなく、キリスト教と結びついて、ローマレ年を継承していた。そんななかで、ビザンツ皇帝コンスタンティノス7世は「帝国の統治について」を著している。この著作は皇帝が息子のために書いた帝王学の書であり、そこで主に語られているのは、当時の世界の中心であるコンスタンティノープルから眺めた周辺部の様子である。ビザンツ皇帝の目線からは、西ヨーロッパでなく、四方の周囲の王や族長たちとの関係の総体がローマ帝国であった。神の代理人である皇帝が世界平和を構築するという帝国理念の実現のために、歴代の皇帝は不断の努力を惜しまなかった。皇帝は、神の恩寵のもとにある戦士であるとともに、神の僕として世界の安寧を委託されていたのである。帝国を原理的に支えるこのような理念は、独特なキリスト教的救済理念にもとづく世界観によって支えられていた。それは世界を救済する主の恩寵、救済の摂理(オイコノミア)を実践するものとして皇帝が位置づけられている。夷狄の民にも開かれた世界、神の恩寵のもとにある皇帝。その構図は、ギリシャ古代都市の民主政治というよりは、パウロ的なキリストの身体としての開放性を思わせる。

2024年4月11日 (木)

大月康弘「ヨーロッパ史─拡大と統合の力学」(3)~第2章 終末と救済の時間意識─動力

 前章の大帝たちの事績や彼らを取り巻く時代の状況を探っていると、中世の地中海世界または西ヨーロッパ世界には、ひとつのデモーニッシュな<力>が広汎に伏在していたのではないかと著者は言う。古来、地中海世界には、人を衝き動かす触媒ともいうべき観念的な<力>が存在していた。アリストテレスが定式化したポリス市民の倫理規範、普遍的なローマ法理念、ユダヤ/キリスト教の救済観念などは、理念的にも実際にも市民生活を支え、人々の行動に範型を与える基準の役割を担っていた。観念的な力の体系は、人間の行動に積極的な意味を与え、それを規定する価値であることが多い。例えば、市民の旺盛な寄進行為、次第に資産を蓄積していったキリスト教会、そこで営まれた貧民救済、神の恩寵としての慈善を担保する帝権といった宗教的動機に導かれて展開した人々の行動は、地中海の都市社会を特徴づける風景を紡ぎ出していた。皇帝もまた、税制上の特権や所領や金品の下賜などを通じて慈善を恩顧を与えることを期待され、その当為を自覚していた。この恩顧には善行の模範として自らの事績を天下に知らしめんとしていた。正義と公正の感覚に支えられた皇帝・市民の日常的営為が社会救済的再配分の構造を現出していた。
 このような行動には、黙示文学的な系譜の考えの影響が見られると著者は言う。
 例えばユスティニアヌスの時代、地中海世界では大地震や旱魃が頻発し、ペスト禍に襲われ、人々は不安を煽る自然現象の中に暮し、自らの運命への関心を強めていた。それで、人々は自らの存在を見つめ直すこしをした。そのひとつのあらわれが「世界年代記」の出現といえる。ヨアンニス・マララスによりギリシャ語で書かれた「世界年代記」はユスティニアヌス帝治世の出来事を伝えている。そこで興味深いのは、歴代皇帝の統治年数を数えあげ、最後の審判の日を計算していた。いわゆる終末論である。ビザンツ人が観念していた未来のあり方は現代人とは違っていた。彼らの終末論には三つの基本要素と二つの付加要素があった。まず、基本要素とは①旧約聖書の預言、②新約聖書の預言、③世界には終わりが有、計算可能なその時間は天地創造の6日間に対応しているという観念である。人間の千年は神の一日にあたりキリストはその六日目の半ばに生まれた。そして、六日目の晩が来る前に、人類に懺悔のための半日の猶予を与えた。という。さらに二つの付加要素とは、④「ヨハネ黙示録」と➄外典の預言であった。キリスト教徒は、キリストの昇天以後、最後の時のキリストの再臨を待望してきた。そのような世界の終わりが、当時、広汎に話題になっていた。聖書には最後の帝国がその力を後退すると反キリストが登場すると書かれている。その「終末」の意識はキリスト生誕500周年への意識もまた喚起したのだった。
 「世界年代記」で、その終末を計算したのは世界暦である。世界暦とは天地創造から数えての紀年法で、西暦1年は5509年にあたる。その中で、キリスト教徒は自分自身とローマ帝国との関係を、神による人類救済の歴史の中に位置付ける必要に迫られた。それまでの種々の黙示録などの文書を通じて、ローマ帝国を、イエス再臨直前の最後の世界帝国として否定的に描写してきたキリスト教徒たちは、新たな時代状況に対応して、このローマ帝国に積極的な歴史的意義を抱くようになっていた。ローマ帝国を神による壮大な世界救済計画の担い手としてローマ皇帝の存在を意識したのだった。

2024年4月10日 (水)

大月康弘「ヨーロッパ史─拡大と統合の力学」(2)~第1章 大帝を動かす<力>─伏流水

 古代ローマ帝国の皇帝Imperator Romanorumは、正確にはローマ人たちの司令官という意味で、ローマという国家の全軍団を率いる総司令官というもの。他方で、生身の人間としての皇帝とは別にローマ支配権Imperium Romanumという概念があり、この支配権を生身の人間としての皇帝が体現していた。このような皇帝に、後に、キリスト教的な世界観が加わり、世界を救済する使命を自らの当為とする。これは、東ローマ皇帝が西ローマ帝国を再興することでヨーロッパ世界を救うというように具体化された。そういう皇帝を体現するものとして大帝と呼ばれる皇帝たちがヨーロッパ史で何人かいる。彼らの事績やその背景をみるとヨーロッパ史の伏流水の片鱗に触れることができる。
 4世紀のテオドシウス大帝が死に瀕してローマ帝国を東西に分割した後、ユスティニアヌスはローマ帝国の版図を復活させると同時にキリスト教的な皇帝でもあった。「世界」を救済する使命を自らの当為とした皇帝でもあった。彼の帝国の復興という姿勢は、後の大帝たちのモデルどなった。
 彼のモデルとなった大きな要素としてキリスト教皇帝としての振る舞いがある。有力者の善行、つまり社会奉仕、たとえば公共的な建築や市民への饗応などだが、彼は各地の都市の要塞化を推進し、キリスト教の聖堂を建設した。キリスト教の聖堂には慈善活動を行う諸施設が付属し、その運営に財政制度上の支援を与えた。
 彼は即位の半年後にローマ法典の編纂を命じ、のちに『ローマ法大全』と呼ばれるものが完成した。ローマ帝国には、彼以前には一大法令群があった。それらはすでに廃れたもので、それに新法と呼ばれる皇帝勅令が時代に応じて発布され、それらが累積して錯綜した状態にあった。そこでは法体系として法令相互に矛盾が生じ解釈が分かれる混乱が生じていたため、再編成の試みが何度も行われた。ユスティニアヌスは単なる過去の法典の整理だけにとどまらず、現行法として有効であるように改変を施した点で画期的だった。彼の事績は、後に「ローマ法大全」と呼ばれ近現代ヨーロッパ諸国の法の基礎となった。
 ユスティニアヌスは、世界を復興し、その秩序と安寧に心を砕いたと言える。
 ところで、古代地中海世界の社会は、各都市の参事会員層が自らの資産から得られる富を応分に拠出して成り立つ都市財政によって営まれていた。都市の自治は彼らによって、道路、水道、橋梁の建設や補修あるいは宗教祭儀や市民的娯楽の提供、饗応などがその財政から行われた。それが、4世紀以降衰退していく。そこに著者は古代社会の転生を見る。いわばヘレニズム的社会からキリスト教的社会への転換である。かつての参事会員層はキリスト者としての振る舞いに行動を転換させていた。彼らのイエ経済から得られる富を都市への自治に向けることから神への寄進へとシフトさせたのである。その結果、キリスト教会機構は、かつての都市参事会員たちが担っていた社会機能を肩代わりするようになる。主教たちは、日常的な市民生活にとって中心的役割を担い、それぞれの都市の司法を担うこともあった。教会の活動は、帝国財政から減免措置を与えられることで、公共的あるいは国家的な機能を帯びるものとなっていった。この社会経済構造はユスティニアヌス帝の治世で完成する。
 8世紀から9世にかけてフランク王カールは西ヨーロッパ世界を立ち上げた人物として知られている。彼の神聖ローマ皇帝としての戴冠は西ヨーロッパ世界にローマ帝国復活を読み取った後のヨーロッパ人の想いが反映されている。そこでは、その背景にイスラームのヨーロッパへの進出があるという。北アフリカを西進したイスラーム勢力は711年にトレドを占領して西ゴート王国を滅亡させた。さらにピレネー山脈を超えてガリアにも侵攻したが、トゥール・ポワティエの戦いでフランク王国の宮宰であるカール・マルテルに敗れたことから、さらなるヨーロッパへの進出は食い止められたのだった。カール・マルテルの子ピピンは、フランク王国の王となってカロリング朝を開くと、イタリアに遠征し教皇に土地を献上した。ピピンの子がカール大帝である。
 8世紀のカール大帝のフランク王国はゲルマン民族の王と貴族の関係を変化させた。ゲルマン古来の考え方では、貴族は王の従属者というより協力者だった。有力貴族は、王にあまり奉仕せず、自らの利益を追求し、王の側も彼らの忠誠を買うために土地を与えていた。征服によって得られた王領地の多くが、こうして貴族層の手に渡っていた。カール大帝のカロリング家はメロゴング家の諸王のもとでこのようにして領地を拡大し、多くの家臣団をもって実力を備えた家門だった。カロリング家は王国の実権を握り、このゲルマン古来の王と貴族の関係を変えた。その時大きな役割を果たしたのがキリスト教会との関係構築だった。王権に超越的な神権的性格を与えることで、王の存在を同輩者中の第一人者から超越的な地位に引き上げたのだった。
 この戴冠は必ずしもカールが望んだものではなかったとも言われる。ローマ皇帝を名乗ることはビザンツ帝国との軋轢を生むから。そのため、この戴冠には聖像崇敬問題でコンスタンティノープルと対立していたローマ教会の思惑があったと考えられる。ローマ教会はビザンツの普遍性を認めず、カールを「新ダヴィデ」とすることで、カールの王国を「キリスト教の帝国」にしようとしたという。ゲルマン語には「帝国」という言葉は存在しなかった。richiという語が「王国」と「帝国」の概念を併せもつものとして使われた。「帝国」とか「皇帝」という語はキリスト教的な世界観におけるローマ帝国理念と不可分に結びついているものだった。これは4~6世紀にビザンツ帝国で鍛え上げられた観念であったが、ビザンツ帝国はキリスト教の防衛において十分に働いていない。カール大帝のフランク王国の方が本来のキリスト教ローマ帝国の伝統に近いというわけだった。
 カール大帝の死後、フランク王国は東西に分裂する。10世紀の東フランク王国にオートー大帝が現われる。オットーはイタリアの経営に腐心した。イタリア中南部は伝統的にビザンツ皇帝の支配下にあり、オットーはビザンツ帝国との関係改善を図った。8世紀まではローマという都市はビザンツ帝国の一部であった。それが、8世紀中ごろローマ教皇が東方からの影響力から離れ始め、8世紀の終わりには結びつきが実質的に崩壊する。オットーがローマで皇帝として戴冠したことにより、その後の西欧世界が自前の皇帝の存在を前提に、独自の政治的発展の途を切り拓く起点になった。ただ。この皇帝戴冠が、教皇による加冠のみで西欧の政治的自立を担保したとまでは言い切れない。引き続きビザンツ帝国との交渉を前提しとしていた。ローマ皇帝の称号を得ることは、西ヨーロッパ世界のゲルマン諸王にとってひとつの念願となる。
 このように大帝たちが精力的に活動した背景に著者は「シュビラ」と呼ばれる預言書の存在があると指摘している。シュビラとは本来、神の御意志を解釈し、人びとに将来生ずることを伝える女預言者」であったが、こうした預言が文書の形で残り、黙示的文学として広がっていたという。

2024年4月 8日 (月)

大月康弘「ヨーロッパ史─拡大と統合の力学」

11112_20240408233601  ヨーロッパの通史ではない。ヨーロッパの歴史の中で、汎ヨーロッパ的規模で行われた事象が間歇的に現われるしそれらの事象を検討すると、近代や国民国家とは異質な原理が伏在していることに気づく。ヨーロッパ史は、このような文化的伏流水が間歇的に噴出したときに動いたという。そういう視点で、前半はビザンツ帝国のユスティニアヌスやフランク王国のカール大帝、オットー大帝などの皇帝たちの行動から、彼らを突き動かしたものを探り、そこから「ヨーロッパ」というまとまりを考えようとする。また、後半は「オイコノミア」というキーワードなどから、ヨーロッパの近代社会がいかにして立ち上がってきたのかを探る構成になっている。
 著者はあとがきの中で次のように述べている。「ひとは時代のなかに生きています。そして各々の土地の作法のなかで暮らしています。ある時、ある場所に生まれ落ちた私たちにとって、自らが立つ基盤を理解することは大切な作業に違いありません。その際、自らが生きる時代と場所の論理をより深く認識するために、他の時代、他所の作法を知ることは有効な契機となることが多いでしょう。同時代の旅でも多くの効果は得られるものですが、過去のさまざまな社会に旅することから学べることも少なくなく、知らない土地であればなお、虚心坦懐に事態を見極める眼も養われるというものです」
 歴史を通史として見ると、現代に通じているという現代の眼で振り返るという視点にどうしてもなってしまう。ここで著者は歴史を他所として、つまり現代とは別の世界として、それ自体の論理で見ようとしている。そこには、歴史の教訓といったような手前味噌で歴史を都合よく解釈する姿勢とは違う姿勢を見ることができる。だからといって、本書で述べられている内容が、どうかとは言えないところもある。

 

2024年4月 7日 (日)

貴田庄 「小津安二郎と七人の監督」

11112_20240407233001  「24歳で監督となった小津安二郎。移動撮影やオーヴァーラップやパンをせず、ローアングルから撮ったショットを積み重ねる静的映像をどのようにして確立していったのか。」と紹介文にあるが、小津。本人については、エルンスト・ルビッチへの憧れと絵コンテのこと以外は、あまり語られていない。むしろ、溝口健二、五所平之助、清水宏、成瀬巳喜男、木下恵介、加藤泰そして黒澤明という七人の監督について、小津との対比で語られているところに読み応えがあった。例えば、溝口の有名なワンシーン・ワンショット。私にとっては溝口の映画は、有名なワンシーン・ワンショットも含めて、何がいいのか分からないものだった。この本では、溝口は最初は舞台からキャリアを始めて、映画のワンカットと俳優の演技を細切れにするのが好ましくなく、俳優を舞台と同じ緊張感で演技させるには一つの場(演劇でいう「一幕」とか「一場」)を通して撮影するためだったと説明されていた。「一スジ、二ヌケ、三ドウサ」 という映画の基本があるが、溝口は「一スジ、二ドウサ、三ヌケ」だったというわけ。ワンシーン・ワンショットの長回しは、例えば相米慎二もよくやるのだが、相米の場合はカメラが対象を移動しながら舐めるように映すところにゾクゾクするような官能性があるのだが、溝口のは他の監督とは全く違った、私に言わせれば映画的ではないものと言えるという点で、溝口の映画を見る糸口が見つかったと。個人的には収穫だった。あるいは、小津の代名詞ともなっているローアングルについて、加藤泰のローアングル(「緋牡丹博徒 花札勝負」の藤純子の仁義を切るのを正面からローアングルで撮ったその姿勢の美しさと迫力!は絶対小津にはない)は小津とはいかに違うかとか、二人目の小津はいらないと松竹を追いだされた成瀬の決して二人目の小津ではないところなど。とりわけ注目すべきは清水宏について一章を設けて言及しているところで、この埋もれた監督を掘り起こそうというところは著者の使命感すら感じられた。しかし、黒澤明についてはエピソードだけで、「白痴」での原節子の撮り方批判くらいしかなく、なくてもよかったのではないか。その代わりに山中貞夫との関わりが取り上げられなかったのは残念だと思う。例えば、原節子という女優の撮り方で、山中、成瀬、黒澤は小津といかに違うかだけで、一冊の本が書けてしまうのではないかと思うのだが。

2024年4月 5日 (金)

廣野由美子 「シンデレラはどこへ行ったのか─少女小説と「ジェイン・エア」」

11113_20240405233501   「女性は美しく素直でさえあれば、じっと待っていても白馬に乗った王子様が迎えに来て幸せにしてくれる」というメッセージを発する物語の典型が童話「シンデレラ」。そのような女性自身のなかに潜在する無意識の依存願望を「シンデレラ・コンプレックス」と名付けたのはコレット・ダウリングだが、女性が他者に守られ、難問を受動的に解決するという物語を多くの女性は幼い頃から刷り込まれていく。しかし、それとは別の女性たちを内から駆り立てる「もうひとつのストーリー」があると著者は言う。
 それは、恵まれない境遇に生まれ、美人でなくとも自分の能力や人格的な強みによって道を切り開き、自己実現しながら自分と対等な男性と認め合うというストーリーだ。幾多の試練を乗り越えて自力で幸せを獲得するという新しいタイプの女性像を描いた嚆矢がシャーロット・ブロンテの「ジェイン・エア」で、以降同様の少女の試練を描いた脱シンデレラの物語が陸続と登場する。著者は一連の「少女の試練の物語」が出てきた現象、及びそれらの作品の特色の表れを「ジェイン・エア・シンドローム」と名付け、各作品がどのように生まれ、それぞれの新しい要素がどのようなものかをたどっていく。
 女主人公は美人に設定すべしという従来の約束事を打ち破り、主人公が語り手として激しい感情を吐露するという「ジェイン・エア」の独創性は、故国の英国より北米の女性たちに受け継がれていく。「若草物語」「リンバロストの乙女」「あしながおじさん」「赤毛のアン」「木曜日の子どもたち」などの作品だ。いずれの主人公も、シンデレラストーリーから脱却するために用いた最大の武器は「言葉の力」だった。その土台を形成するのが文学を読むことだ。また、伝統が堅固な英国ではなく開拓精神の新大陸であるアメリカで女性も戦力として自立する環境のなかで、ジェイン・エアの系譜が花開いて行った。
 その論旨については、そうなのかとも思う反面、本書が著者の個人的エピソードから始まっているように、ここで取り上げられた作品の読みについて、著者個人の思い入れが強く反映していると思う。例えば、「若草物語」は、私には四人姉妹が父親不在の家庭で、けなげな良い子であることを競争するという話で、優等生であることを読み手に強制するような説教臭く、読んでいて閉塞感にとらわれるような小説だった。

 

2024年4月 4日 (木)

生誕150年 池上秀畝―高精細画人(7)~エピローグ 晩年の秀畝 衰えぬ創作意欲

Ikegamishigure  「片時雨」という作品です。後景の黒い森や岸壁は朦朧体で描かれているようです。時雨でもやっている景色、新派とか旧派とか関係ないですね。この遠近感による空間の広がりと、前景の紅葉と、葉が散って舞っているのを細かく描いているのがクローズアップされていて、3匹の猿が点景としてアクセントとなっています。風景の中に入っていってしまいそうな作品です。
 展示を通して見ると、池上秀畝という人は画家というよりは絵師と称した方が似つかわしいのではないかと思います。展覧会あいさつで対比的に取り上げられていた菱田春草と比べると、春草は画家というとイメージが掴みやすいでしょう。春草は新たな日本画を求めて試行錯誤をしながら自身の画風を確立していきました。彼の短い生涯を追いかけると、成長、成熟の過程が見えてきて、そのプロセスで画風が変化したりします。それに対して、秀畝の若い頃と晩年の作品を並べて見ても、画風はほぼ同じように見えます。一貫しているというか。ある意味、スタートの時点で、ある程度出来上がっていた。迷いがなかった・・・、というよりも、自身の画風云々といったことは、あまり考えなかった(といったら馬鹿みたいですが、そうではなく、却って春草方が頭でっかちで考えすぎではないかと思えてくるのです)のではないか。芸術とか、画風、個性とかを考えることよりも先に、筆を持つ手が動いてしまう、そんな風に見えるのです。秀畝は旧派に属する日本画家ということらしいのですが、それにしては、遠近法的な描き方をしていたりするし、花鳥風月のパターンによらず写実的なスケッチによって描いたりしています。また、一般的にいわれる日本画の特徴とされる画面に余白を残すことをあまりしていないように見えます。彼の作品は、西洋絵画的に見えるところがあります。それは、秀畝が鳥や花を見ていて、無意識のうちに筆をとって描いている、その結果、作品が描けてしまった、というように見えるのです。だから、余白をあまり残さずに細かく描き込まれている作品を見ていても、重苦しさのようなものは感じられないのです。西洋絵画は余白が残っていると未完成と見られるところがありますが、画家によっては余白恐怖症とでもいうような、画面を絵の具で塗り重ねる人もいて、例えばゴッホなんかがそうですが、そういう人の作品は重苦しいところがあります。そういうのを好きな人は深刻とか精神性などと称揚するのです。ところが、秀畝の作品には、見ていて楽しい、明るいのです。その理由のひとつに、鮮やかな色づかいがある。色を混ぜると鈍い色になり、重く暗い印象が強まります。秀畝は色を混ぜることをあまりしない。また、“高精細”とは、この展覧会で秀畝を評していますが、たしかに精密に描き込まれていますが、細かいという感じはしません。それは、秀畝の描く線が意外とゴツゴツしていて、しかも入りと出がはっきりしている。それによって、線が生きいきとした生命感(躍動感)がある。だから、精密な静止ではなく生きている。それは、頭でいろいろ考えるのではなく、身体感覚として手で描いているというものであると思います。春草の作品が、その当時は新しい日本画として時代をひらくものだったのに現代の今見ると古色蒼然と移るのにたいして、秀畝の作品は時代を感じさせず、今、古い感じがしないのは、そのためではないかと思います。

 

2024年4月 3日 (水)

生誕150年 池上秀畝―高精細画人(6)~第4章 秀畝と屏風 画の本分

Ikegamiautum  文展や帝展などの展覧会では、大型の掛軸や屏風が主流で、特に六曲一双の屏風は人気のアイテムでした。秀畝はこれらの展覧会用作品だけでなく、旧家や大家族向けにも多数の屏風を制作していたそうです。
 ここで、別の部屋に移ります。廊下に椅子があって、そこで一休み。圧倒され続け、疲れました。ここで、スケッチ画のことを全く書いていないことに気がつきました。書き切れません。ここまできたら、いっそのことスルーことにします。
 そして、新しく部屋に入って、目に入ったのは屏風ではなく掛け軸でした。「秋日和」、これも第2章に属する作品でした。この作品で描かれている鳥は七面鳥です。さきほどの青鷺といい、ここでの七面鳥といい、秀畝は好奇心が強いといいますか、従来にない題材にも果敢に挑戦するひとのようです。しかも、しっかり実際にスケッチして細かく描写している。伊藤若冲にも負けないですね。そして、縦長の画面は上に行くにしたがって遠方になるという遠近法で構成されているようです。この人の描き方は概して、空間が感じられるようで、平面的な印象の作品は、あまりありません。そんなところからも、旧派と称するのは適切ではないと思います。
Ikegamitake  「竹林に鷺図」は六曲二双の屏風です。この展示には屏風を座敷で鑑賞するかのような体験を提供するための工夫が施されていました。水墨画のような作品ですが、竹の葉が薄い緑で描かれていて、それが画面に清涼感を与えています。秀畝は色彩を作品から切り離すことがない人なのですね。

 

生誕150年 池上秀畝―高精細画人(5)~第3章 秀畝と写生 師・寛畝の教え、“高精細画人”の礎

 秀畝の写生帖やスケッチ画が数百点残されており、これらは師である寛畝によって重視された写生の習慣によるものだということで、寛畝は日常的に写生帖の提出を求め、秀畝は動物園や街中で多様な被写体を描いてその技術を磨いたそうです。
 2階に上がると、壁一面にずらりとそのスケッチ画が並んでおり、壮観です。秀畝という人の印象を一言でいうとボリュームです。それは、大きさであり、さらに数です。なお、この人の場合はねそのボリュームに質が伴っているから圧倒されるのです。これらのスケッチ画をひとつひとつ追いかけていたら日が暮れてしまうし、そのなかから採り出すのも難しいので、ここではあえて触れません。そこで、展示室の向かい側にはスケッチ画以外の作品が並んでいました。
Ikegamikure  「暮雪」は第2章に属する作品です。絹本に着色された作品で、今まで見た大作に較べれば小品です。雪の積もった木に登る動物はテンというイタチの仲間で、黄褐色の体は冬毛の特徴なのだそうです。細かな毛並みや鋭い爪がリアルに描かれる一方、その表情はなんともユーモラスです。あまり、日本画では描かれない動物だと思います。秀畝は、様々な鳥や動物をスケッチしていますが、おそらくテンもどこかで見てスケッチしたのでしょう。そして、面白かったのは雪の描き方で、重いのです。この雪は重量感かあって存在感があるのです。こういう場合、雪景色が背景になって、白い世界で、それを演出しているのが雪というのではないのです。雪は白い背景ではなくて、少し絵の具が盛られているようで確固として存在感があります。白が背景で引っ込んでいなくて、鮮やかなのです。だから、この絵の主役は題名のとおり雪なのではないかと思います。
 Ikegamisanyu 「歳寒三友」も第2章に属する作品で、「暮雪」と同じ季節、雪が印象的な作品です。「歳寒三友」という題名は、厳寒を共に耐え忍ぶ3種の植物を意味し、一般に松竹梅を指すということです。しかし、秀畝は本来「松」を描く所をあえて「椿」に差し替え、鮮烈な赤を画面のアクセントとしました。この作品の雪は、「暮雪」よりももっと存在感がある。胡粉を盛り上げた雪は、実際に触れそうなくらいリアルです。しかも重量感がある。その雪の鮮やかな白の下から木の幹の黒々としたのと、梅の花のピンクと椿の赤がとても印象的です。この人の描く冬は寒いとか、寂しいという感じがなく、鮮やかなのです。この人の特徴なのでしょう。この人は鄙びたとか、枯れるという性格の絵は性に合わないのでしょう。
Ikegamisummer  「盛夏」も第2章に属する作品です。六曲一双の屏風は、先程見た「花鳥四季」の「夏」を横長の画面に拡大し置き換えたような内容です。真ん中に芭蕉の葉がデーンとあって、それを上から地面を見下ろすようにして、下の地面には紫陽花などの花が、芭蕉には朝顔のつるが巻き付いて、ところどころで青い花を咲かせていて、木には石榴の赤い花が咲いている。真ん中の鮮やかな緑の芭蕉を中心に、石榴の花の赤、そして紫陽花と朝顔の青が点描のように散りばめられている。さらに、その周囲を黒い鳥がアクセントをつけています。大胆な構図で、鮮やかな色彩が印象的です。日本画というよりグラフィックなイラストを見ているような気がします。
Ikegamisugito  「桃に青鷺・松に白鷹」も第2章に属する。杉戸絵ということで、杉の戸の裏表に直接描かれているので、展示室の中央に置かれて、表と裏と両方から見ることができるようになっています。「桃に青鷺」に描かれているのは、最初は孔雀と思ったら、青鷺という鳥だそうで、東南アジアに分布する鳥で、一説によれば想像の鳥である鳳凰のモデルになったとも言われているそうです。そんな、あまり知られていない鳥を、多分、画題として一般的でないところ、どこで知って、スケッチできたのかと知りたくなります。その羽のひとつひとつが精緻に描かれています。杉の板目に負けていないのは、その鮮やかな色彩ゆえでしょうか。その裏面は「松に白鷹」で、白い鷹の白い羽の細かな描写を白の使い分けで描き切っている。

 

2024年4月 2日 (火)

生誕150年 池上秀畝―高精細画人(4)~第2章 秀畝の精華─官展出品の代表作を中心に

 秀畝は荒木寛畝主催の展覧会や旧派の公募展で実力をつけ、文展で横山大観や菱田春草といった新派の画家たちと競いました。とくに、第10回から12回の文展で3年連続特選を受賞する快挙を成し遂げ、画壇の大家、人気画家となっていきます。展示のメインとなる作品はここでしょう。
Ikegamishiki  「四季花鳥」という4枚1組の大作です。これはインパクトが大きかったです。画面が大きかったのと、明るく派手で、鮮やかな色彩の洪水という感じです。しかも、その大きな画面を埋め尽くすように描き込まれていて、その描き込みが高精細というほど細かいのです。それぞれで競うように咲き誇る数々の花や埋め尽くすように生い茂る葉や茎や枝。不思議なのは「四季花鳥」といいながら、秋は紅葉の枯れを感じさせるものはなく、冬での葉が落ちたり枯れ木のような寂しいところは全く見られません。すべてにわたって生命感に溢れ、葉は青々とし、冬でも花が咲いています。伝統的な四季の形式的なパターンには当てはまりません。これが伝統を重んじる旧Yokoyamasen2 派の画家なのでしょうか。私は、ジャンルは異なりますがアンリ・ルソーの「夢」に代表されるジャングルを描いた作品を連想してしまいました。例えば、真ん中向かって右の「夏」を見ると、見上げるほどの大画面に、紫陽花や朝顔の濃淡の青が群れ、芭蕉の茎と葉が上昇していくように高揚感を生み出し、上方には石榴でしょうか真紅の花が散りばめられています。それぞれ植物が植物図鑑を思わせるほど鮮明かつ精妙に描かれているのです。また、左隣の「秋」はどうでしょうか。中心部の瘤をもつ屈曲した枝はゴツゴツした線で描かれて、この様子は狩野永徳の「檜図屏風」の屈曲した枝が伸びて画面全体を覆い尽くすようなのを自然科学的な客観性の高い描写でやり直しているかのようです。
 しかし、これだけ植物が大きく生き生きと描かれているのに対して、空間で飛んでいる鳥が相対的に不釣り合いなほど小さいとは思いませんか。
Ikegamitanigawa1  Ikegamitanigawa2 続いて「晴潭(紅葉谷川)」これも圧倒的。展示室で、「花鳥四季」とこの「晴潭(紅葉谷川)」という鮮やかな大作が並んでいるのって想像できないかもしれません。「晴潭(紅葉谷川)」は六曲二双の屏風で、「四季花鳥」よりさらに大きい。全体として谷川沿いの紅葉の風景ですが、全体として明るく色彩が鮮やかです。とくに左側の下部の流れる川面は、伝統的な波模様が描かれ、流れのなかにある岩は水墨画の山水の岩のようなゴツゴツとした線で描かれていて、形式的に描き方とは思いますが、全体として少し離れて見ると、少しも形式的な感じがしません。そのひとつの理由として考えられているのが、3羽の鴨で、とくに中央で羽ばたいている鴨は不自然に頭が大きい感じがしますが、その不自然さが却って羽ばたいている躍動感を生んでいる印象で、リアルな印象を与えてくれるのです。また、右側の無数の紅葉した葉は、一枚一枚が違って描かれていて、それが生き生きと存在主張しているようで、それがリアル感と生命感の横溢を感じさせていると思います。
 1階の展示室については、このくらいに留めておいて、2階に上がります。

 

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