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2024年4月17日 (水)

鷲田清一「所有論」(2)

 「所有権」は、歴史のある段階で、個人の自由と独立を安全とをぎりぎりのところで護る権利として措定されたはずなのに、現代社会の様々な局面は、これまでになかったほどに「所有」の強迫観念に隅々にまで浸透されていて、そのことによって世界の、社会の、そして自己自身の把握も歪んできているのではないか、そのことで私たちはさまざまな塞ぎに窒息しそうになっているのではないか。本書は、このような視点から「所有」ということを捉え直そうという試みである。
 まず、語源的意味からみていく。これは、後にジョン・ロックをはじめとした過去の考察を顧みるための準備として必要なことでもある。所有権を英語ではpropertyもしくはownershipという。それぞれの語幹はきわめて多面的な意味の広がりを持っている。まず、properだが、ある物をめぐる所有権は、本来他人に譲渡可能なものとしてある。しかし、propertyは、同時に人それぞれの掛け替えのなさ、つまり「固有性」を意味でもある。譲渡可能な所有権を意味すると同時に固有なあり方、つまり譲渡不可能なことを意味してもいる。そこに市民という近代的な存在様式の特異さが表れている。人々が自己を市民として意識して行くプロセスは、人々が自己を「所有の主体」すなわち何ものかをわたくしにだけ帰属するものとしてもつ主体として規定して行くプロセスと切り離すことができない。近代において、「所有」ということが「わたし」というものの存在に深くかかわるものとなったのである。また、properには所有、固有だけでなく、適切だと人々によって認められているという意味もある。そして、ownには所有するとともに借りがある、恩恵に与るという対他関係に言い及ぶ。
そこで、近代に、所有が私だけのものになったのかを問う。
 世界はただ「ある」のではなく「何かとしてある」。世界のいかなる事象も常に何かとして現われている。世界は、「何か」として現われるだけでなく、同時に「誰かのもの」として現われる。私たちがこの世で出会うものは特定の「誰かのもの」である。「誰かのもの」とは誰かの所有物であるということ。「何かとしてある」が、世界の現われ方を制約している条件としてあるのに対して、「誰かのものとしてある」は、決められたもの、つまり歴史的な制度の中でいわれるものである。
 私の筆記具を他人が勝手に使うとき、私の服を他人が無断で身につけるとき、それを目撃した私は、その私物が私の延長であるがゆえに不快感に襲われる。それは、見知らぬ人に身体に触れられたときに感じる恐怖やおぞましさを、私自身への侵襲として感受するのと同じだ。このときの私の身体は「わたし」そのものである。しかし、その身体も私のモノとされるかぎりで、売却されたり貸与されたりする。それが労働力だ。労働力を一定時間提供することで賃金を得る。これは交換の行為である。
 このように「所有」という概念は常に二重の相貌で現われる。一方で、法的な権利として普遍的に措定されるとともに、他方では、共同的な慣習として歴史的に維持されてきた。また、社会的な約束に基づく観念的な擬制態であるとともに、個々人の身体的存在の深層まで浸透しているリアルな感覚でもある。そらに、一人ひとりの「わたし」というものを成り立たせる根源的な事態であるとともに、おなじ「自己」の基底を制約し、ときに蝕む契機でもある。「所有」という観念は、法と慣習のあいだ、理念と感覚のあいだ、「わたし」の内部と外部、自由と不自由、のあいだを跨ぐもの、もしくはそれらを絶えず反転させるものとしてある。
 「所有」はしばしば何ものかが所持、もしくは保有として、「存在」に対置されてきた。「存在」と「所有」、すなわち「ある」と「もつ」の対置について、本書でまず言語学的な視座からみる。
 バンヴェニストによれば、etre(ある)という動詞は構文として叙述的に用いられるのに対して、avoir(もつ)という動詞は他動詞的に用いられるように見えるが、avoirは擬似他動詞的で、一般的な他動詞のように対象に働きかけ、この様態を変容させるような他動詞的な関係はもっておらず、むしろ状態動詞とでも言えるものだという。Avoirの語彙素は、動詞avoirの文法上の目的語であるものを主辞にして、etre(…には…がある)というふうに述べられてきたという。それでは、avoirはetreを逆にしたものだ。ただし、そんな単純ではない。両者が入れ替え可能なのは状態動詞である場合などの限定がつくので、存在と所有を等置することはできないという。
 そしてまた、「ある」という概念も一筋縄ではいかない。和辻哲郎によればドイツ語seinは存在賓辞「がある」であると同時に繋辞「である」でもあるという二義性から、「思惟と有との連関」という構図を出来させ、真にあるといえるもの、つまりは実在と、ロゴス、本質、実体、根拠、現象、関係などといった「存在論」的な思考を紡ぎだしてきた経緯を思えば、ドイツ語のseinに「存在」という語を当てるのは無謀だという。そもそも、「がある」の意味でのseinに訳としてあてられたのは、漢語の「有」だが、この「有」には、「がある」とともに「もつ」という意味もある。つまり「有る」と「有つ」である。「有」がそうであれば、「所有」も「有る所のもの」と同時に「有たるるもの」にもかかわることになる。「有」には存在と所有の切り離し難さがある。
 和辻は続けて、「金があるとは人間が金を有つのであり、従って金は所有物である。有つという人間のかかわり方にもとづいてのみ金が有るのである」という。「有為」「有意」「有志」「有罪」などもそうで、「がある」ことの根底には「人間が有つ」ということがあるのであって、そうすると「人間がある」とは「人間が人間自身を有つ」ことを意味していることになる。和辻は「一切の「がある」は人間が有つことを根底とし、そうしてかく物を有つ人間があることは人間が己れ自身を有つことにほかならぬ」とすれば、人間におけるこの自己保持を表わす言葉こそが「存在」だったという。この「存在」の意を次のように説く。「存」とは「あることを心に保持する」ということで、しかもそれを自覚的に心に留め置くことであり、現象学的にいえば、この保持は一つの主体的作用である。「有つ」は失うことを含み、把持は喪失を含む。「存」はいつ「亡」に転じるかもしれないという生成の構造をもつ。これに対して「在」は、「にあり」、つまり「ある場所にあること」という空間的な性格を帯びる。どこか「に在る」というのは、その場所「にいる」ということだ。つまり、「存」が「亡」や「失」に対置されるのに対して、「在」は「去」に対置される。
このように「ある」と「もつ」を対置させるには無理があると著者は言う。

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