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2024年4月22日 (月)

鷲田清一「所有論」(6)~5.糧と労働

 ここで労働概念にこだわる理由について、著者が述べている。第一に、所有の権利が発生する原初的な位相を確定するため。「これは~のものである」という事物の帰属をめぐって、ロックがなぜその根拠を市民の明示的な合意ではなく、それに先だつ自然法に求めたのか、その理由を明らかにしたいということである。そもそも「帰属」ということは、人々の間、自他のあいだで発生する問題であり、そのかぎりでロックの言う明示的な合意のことがらであるはずだ。しかし、ロックはあえて自然状態としたのか。そもそも自然状態で生得に与えられている自由や人権を社会契約により政府に委譲するというのが社会契約説であり、帰属もそのようなものということになる。
 前にも述べたようにロックは労働と所有権に関係について、自然が残しておいたものから彼が取り出すものは何であれ、彼はそれに労働を混合し、それに彼自身のものである何かを加えたのであって、そのことにより、それを自身の所有物とすると説明している。ここで、ロックは自然状態における労働の記述においても所有の問題を権利の問題として論じようとしていたと著者は言う。『統治二論』の目的は市民の権利の基礎を論じるところにある。個人の存在にあって侵されてはならないものを標し、それを保護し擁護するためであった。所有もその権利のひとつとして、所有権の源泉をロックは論じようとした。ここでは、所有権が労働と切り離せないことを明らかにすればよく、労働という過程を詳細に論じるまではない。
 生命を授けられたものとしての人間が、その生命を保持するためになくてはならないものである「糧」を、人は自らの「労働」によって手に入れる。その「労働」をロックは、自然から供されたものに人が自らの労働を混合もしくは付加するとしていた。そして、労働を混合や付加したという事実が所有を権利付けるものではないことを前のところで論じた。そこで、著者はレヴィナスの議論に注目する。人は何かを糧にして生きている。大気、光、水から食糧、ねぐらまで、人はそれらなしに生きることはできないものに浸され、包まれ、支えられて生きている。生とはそれ自体が一つの非充足態であって、自分ではないものに与り、それらを自らに同化して消尽することで成り立つ。そこで糧となるものをレヴィナスは「始原的なもの」とよび、生とは始原的なものの享受であるという。
 ここに、これまでの議論と関連する問題が語られている。ひとつは、「享受」が主体と対象との関係に先行する関係だということ。「始原的なもの」は基体を欠いた純粋な質としてあって、未だ「もの」として現われていない。ここでは、対象となる「もの」も、それに対してあるところの人称的な主体も未だ存在していない。そしてその「始原的なもの」に私たちが関わるのは、「もの」に志向的に関わる知覚や思考や実践活動以前の感受性という形においてだと、レヴィナスは言う。私たちは、そのような始原的な環境の中で、誰としてでもなく、行動する。二つには、この「始原的なもの」は誰のものでもない、つまり占有不可能なものであるということ。したがって、三つには、そのような環境の中で何かを摂取しつつ住み着くということは、他なるものに依存して存在するということである。このような不充足は、私が私でないもののうちにとどまっているということであり、私が享受しているものは、「他なるもの」であって、自分自身ではないということである。最後にもうひとつ、私たちが「始原的なもの」に浸され、包まれ、支えられて、そこで身を保つ、そこに滞留するだけでなく住み着くこと、そこで身を支えることを始めるということである。これは、私たちの自存の萌芽といえる。そして、世界への働きかけとての「労働」を始動させることになる。それは、レヴィナスにおいて「分離」の過程として語りだされる。
 労働を始動させる以前は依存の中の自存の状態にあったとレヴィナスは言う。そして、ロックには、このような記述は見られない。何かを糧にして生きるということ、生存が「~によって生きる」ということは何かを当てにしているということで、それが依存である。依存はイニシアチブが向こうにあること、手綱を持つのが自分でないことだ。したがって、依存は不安定で、その支えはいつ外されるかわからない。飢餓や被災はその最たるものだ。だが、依存が依存であるのは、依存への反対動向、つまり自存への土光があるかぎりのことである。享受は隷属ではなく、あくまで与ることなのだ。それが身を支えることであり、レヴィナスは「定立」と呼んだ。「定立」とは、自らを置くこと、あるいは自らを据えるべき位置を見出すということである。しかし、そこに世界はない、客観的な空間の一地点を占めるということではない。生の地平ともいうべき環境の中で、足掛かりとなる場所に身を置くこと、そこに根付くことである。このことをレヴィナスは「分離」とも呼んでいる。分離されているというのは、依存という不安定な混沌への身構えでもある。生が、ここへと求心化してくる。それは環境の中で環境への没入から自らを剥がし、隔てて、そこに内部性を拓きそこへと己を引き込ませるということである。そこで重要なのは、他の「ここ」とも隔てられるということである。そして、「分離」が労働という占有を始動させる。
 依存の不安定さにある脆い生を保全するために、糧のより確実で安定した享受をなすために、享受は労働と占有に援助を求める、とレヴィナスはは言う。労働によって享受を見込みうる安定したものに変容させようとする。占有によって将来のために糧を備蓄しようとする。その意味で労働は享受を早め、占有は享受を遅らせると言えるかもしれない。そこで、重要なことが二つある。ひとつは、それまで襲われるばかりであった不意の未来、それを労働と占有とが意のままにし得るものに変えるということ。もうひとつは、労働と占有によって「始原的なもの」の環境にあっても基体を持たない「質」であったものが永続的な「もの」として出現してくるということだ。糧は同一的な「もの」として、意のままに処分可能となる。
 労働が、つづいて占有が、「もの」を出現させる。ものの実体性は労働と占有に負う。労働に基づいて遂行される占有は、享受における占有を冪化したもの、あるいは高次化したものと言える。つまり、享受と一体化した占有から、未来に備えて取り置き、保存し、貯蔵することを目的として、労働の産物を自分のもとに取り集め、引き込むというものに変わる。この過程で、糧は私の占有の対象になる。生それ自体も、私という占有する同一的な存在へと無自己を集約し、主体としてものに向き合うことになる。ここまで、レヴィナスは一貫して所有を占有として論じている。
 レヴィナスとロックの議論は方向性は異なっているものの、議論の構図や用語に重なるところが多い。ともに糧で身を養うという場面を最初に設定したし、明示的な合意以前の状況を設定したうえで論を進めるし、何よりもその議論は抵抗の意志に貫かれている点で共通している。ただし、レヴィナスの議論、占有論における身体論には言及していない。そこでもロックの議論と交錯するのだが、それは次章で論じられることになる。

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