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2024年4月16日 (火)

鷲田清一「所有論」

11112_20240416231701  所有とは、あるいは所有権とは何だろうか。著者が問題にするのは、それが本来は個人の自由と独立と安全を護るために作られた考え方であるはずなのに、近代に対象物は意のままにできること変質し、現代社会ではそれが強迫的なまでに主張され、かえって足枷になっているという事態だ。近代市民社会のルーツに位置付けられるジョン・ロックの所有権論が身体との関係で規定されている。そこでは、人は、自分の労働によって得たり作り出したりしたものは、自分のものとしてよいという。なぜなら、その労働をなした身体は、その人に固有のものなのだから。つまりロックにおいては、「この体は誰にも侵されない」という人が自身の身柄に対してもつ所有権が、それ以外のあらゆるものに対する所有の根拠になっている。さらに、モノをもつこと。所有を法的に保証すること。これらは自己を自己たらしめる根源的な営みに思える。他人が私の所有物に無遠慮に手をつけると、それだけで自己の存在が軽んじられた気になる。ならば「モノをもつこと」は「存在すること」と等しい。しかし、私たちは自分の身体を「所有」しているのだろうか?「わたしは身体をもつ」という言い方からして、わたしが身体の外に出られないことを考えるとなんだか奇妙だ。しかし他方で、わたしたちは自分の体を完全に意のままに操れるわけでもないから、わたしはわたしの身体の主人とも言い難い。身体はまぎれもない「わたし」としてしかありえない一方で、決して「わたし」のものにはなりえないという、所有論にとってやっかいな存在なのだ。
 その典型的な現象を、日本なら入会地とよばれる誰のものでもない共有地すらも、わたしのものとして枠取りしてしまう象徴的事例にもとめる。じつは、この誰でもないという間が問題のカギとなってくるのだが、その間に辿り着くまでの議論は、間というだけにキッチリしたロジックの隙間をさがす、迂回を繰り返す、きわめて見通しの悪いものとなる。論理の道筋を追い求めて読んでいて、肩透かしをくらうこともしばしばで、その読みは難渋を極める。しかし、そうでないと言えないことを言おうとしているのは分かる。最後に、著者がまとめをしてくれていて、ああ、こういうのを読んでいたのか、と後付けで読んでいたことに気づく。

 

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