無料ブログはココログ

« 鷲田清一「所有論」(4)~3.ロックの問題提示 | トップページ | 鷲田清一「所有論」(6)~5.糧と労働 »

2024年4月21日 (日)

鷲田清一「所有論」(5)~4.所有と労働

 私のものである4根拠として、ロックは私の労働の介在をあげた。それらは私の労働によってそこにある。しかもその労働は私の所有物である私の身体によるものであるから、それらは私のものである。つまり、労働が何ものかを所有する権利の源泉であるという。このことは、所有権は市民社会における明示的な契約に拠るのではなく、自然法のうちあるということが根底にある。
 では、その所有権の根拠としてあげられている「労働」とはどういうものなのだろうか。その内容について、人は、共有のものとして人に与えられている中から、それらのうちのいずれかに、身体の労働と手の働きを「混合」し、それらに「彼自身のものである何ものか」を「加える」ことによって、その何ものかを彼の固有のもの、つまりは彼の固有物にする、ということだ。
 労働の「混合」とはどういうことなのか。「混合」といっても何が混合されるのか等について、ロックは詳しい説明をしていない。ヒュームは「混合」は比喩的な言い方でしかなく、その実質は事物に変更を加える、つまり、ある物を別のものにしてしまうということだと言っている。ロックの言う労働の「混合」も、自己の変化であって、決して自己の拡張ではない。混合するということは主体が自らの労働力を、素材としての事物に投入するということではなく、人が事物を前にして投入するのは、あくまでも自分のものとしての労働そのものであって、それが事物の特性やその様態と応答しつつ、事物のありようを、そしてそれを通じて所有物としての自己の身柄を、ひいては自己自身のありようを、変容していくということである。「混合」はまた、他者のような自分以外の事物に依存せずには生きてゆけないという、人間という存在の足りなさによって迫られる不可避の活動でもあると言える。その、自分以外の事物との関わりをどう編み、繕い、安定したものにしてゆくかということが、人には最も重大な問題としてある。つまり、何を自分の所有物として生みだしてゆくかという、身柄のそのゆくえにかかっているということである。そこに所有権論が身柄論に重なる所以がある。
 人には生きていくうえで、なくてはならないものがある。言い換えると、その生存を維持し、展開させるうえで外せないもの、大気であり、食物であり、住まいであり、そして何より生命であり、健康であり、自由と安全である。ロックが所有を認めたもの、プロパティの内容に揺れ幅があるのは、人が何をもって自分のものとするかが多岐的であるからだと著者は言う。それに加えて、所有権の基礎が人間の自然状態のなかにあるとすることによる。自然状態について、ロックは次のように考える。自然状態とは、人それぞれが、他人の許可を求めたり、他人の意思に依存したりすることなく、自然法の範囲内で、自分の行動を律し、自らが最適と思うままに自分の所有物や自分の身柄を処理することができる完全に自由な状態としている。そのような完全に自由な状態の中で、人はそれぞれに、その生の最大の便宜を活かすべき勤勉で理性的に振舞わなくてはならないという。その振舞の一つが労働であり、その質がいつも問い糺される。ひとつは所有が可能であることを前提としての完全に自由な状態を創出し,維持することにたえず努めること、もう一つは労働が勤勉で理性的で雨かを点検することである。それが労働のあるべき姿とロックが考えている。
 このような考えは、一方で、所有というものが、もともとは自己変容の過程であって自己拡張の過程ではなかというのだが、自然法の枠を外されれば、勤勉の奨めは、その先に所有の拡大・拡張という別の過程に読み替えられるいったのだった。勤労の程度がもろもろの財の割合の差を生むことを、その位置の差が財産の不平等を生むこと肯定することになる。
 また、視点を変えると、所有を生存との関係で考えてみる。生命について、ロックは所有権論の中で特異な位置づけ意をしているという。曰く、身柄は譲渡できるが性眼は譲渡できない。つまり、生命と身柄(人格)とはカテゴリーが異なる。生命に対する所有権とは生命を享受したり、利用したりする権利であって、生命や身体を破壊したり消滅させたりする権利ではない。そういう意味では、所有という場面に現われながらも、所有という関係のなかに収容しきれない。自己保存はは何よりも神の欲するものなのである。
 著者は、この点について、アプローチは異なるものの、エマニュエル・レヴィナスが同じようなことを言っていると言う。彼は、諸々の事物が対象として明確な輪郭をもって現われてくるのに先立って、人はそれらをじかに享受している。そのような生の基盤とも言える次元を見ている。著者は、ここから、ロックとレヴィナスを対比的に見ることで、所有権論における労働概念の位置付けについて、より明確な理解を得ようと目論む。

« 鷲田清一「所有論」(4)~3.ロックの問題提示 | トップページ | 鷲田清一「所有論」(6)~5.糧と労働 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 鷲田清一「所有論」(4)~3.ロックの問題提示 | トップページ | 鷲田清一「所有論」(6)~5.糧と労働 »