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2024年4月23日 (火)

鷲田清一「所有論」(7)~6.身体という生地

 所有との関連で身体が問題となるとき、「わたしは身体をもつ」と「わたしは身体である」のいずれかということが問題となる。「身体」という概念の位置付けがはっきりしない。ロックは、「人は誰でも、自分自身の身柄に対する所有権をもつ」と言っていた。そしてまた、「彼の身体の労働と手の動きとは、彼に固有のものであると言ってよい」とも言っている。これは、ロックが「ひと(身柄)」をあるときは人格として、あるときはフィジカルな身体として規定している。このような曖昧さは「ひと」の二義性、つまり人格と身体という二義性によるものだ。しかし、ロックはそのことを問題として意識していなかったと著者は言う。そこで著者はレヴィナスに注目する。レヴィナスの場合、身体は享受という生の元基とも言える出来事にあってその環境、言い換えれば生地であり、生がその存在を「始原的なもの」から分離し、住まいという位置を得て、そこから手で世界を編んでゆく占有のレベルを梃子にして、やがて様々な事物とともに自らの身体をそれ自身も同じ所有物として捉え直してゆくレベルまで、多次元的に生成し、捉え直され、変容するものとしてある。この各次元で、レヴィナスは身体を両義性において描き出す。
 ひとつ目の次元は、始原的なものから分離できない享受というあり方でそこに浸っている人称以前の生。そこでは自分以外のものを占有することとそれに占有されることの区別がない。言い換えると、享受の自存性は他なるものへの依存によって養われている。身体は私が持つものでもなく、私に帰属するものでもない。この状態は、幸福な充足状態であるが、その一方で、いつ消失するかもしれないという不安定性のなかにある。そういう脆さの中で、私というものが立ち上がり、享受から撤退して分離していく。そのプロセスで、占有するものとされるものとの関係が生まれてくる。そして、享受にあっては自存性と依存の両義性としてあった身体は占有の関係のなかでその両義性を更新していく。この更新により両義性は、ただ単に定立されているだけではなく、自らを定立する者が存在する仕方となる。このような両義性における身体を私が占有し、自由に取り扱うことができる、つまり意のままにできる。ここで言われる存在する仕方としての身体の両義性は、分離を生起する体制と言い換えることもできる。そこで、身体は単なる対象としてではなく、そのもとで分離が実現される体制として、そこで労働と獲得という運動が出会う。それは、内部性と外部性との境界にあるものとして身体が規定されている。
 このようにレヴィナスは身体を両義性に注目する。これについて、著者なりの言い換えを試みる。身体として適切に働いているとき、身体はそれとして現われていない。このとき、私の意識は身体を素通りして、向こうにある対象にじかに向かっている。なんとなく歩いているとき、私は右足の次に左足を前に出してなどと意識していない。敢えて意識するとかえって足がもつれてしまう。逆に、身体の存在を意識するのは、身体が適切に機能していない場合だ。身体の不調は、私と世界を遮る壁のようなものとして立ちはだかる。身体が主体の器官でありながら、同時に、私の外なる事物としてある。しかし、意識を向けても他の対象と同じように身体を認識できるわけではない。自分で自分の身体を見るのは一部しかできない。身体は十全たるかたちで私の知覚の対象とはなり得ない。つまり、私の身体は第一義的には知覚的経験の対象ではなく、むしろ「像」として経験される、すなわち想像の対象ということになる。しかもその「像」は身体の実態と一致するものとは限らない。そのずれを折にふれて修正する。このほかにも、身体が不調であれば、私の価値同に支障をきたす一方で、身体の方が私に不調のサインを送ってくれるという能動と受動の両義性がある。このように、私の身体の両義性は、単に私の器官であるとともに純然たる物質体であるであるという二義性にとどまらない。所有論との関連で重要なことは、私の子の身体が「私のもの」であるにしても、だからといって私が「意のままにできる」ものではないということだ。そして、もう一つ注目すべきことは、レヴィナスは身体の両義性について、廃案する二つの極の間でたえず反転が起こるとしていることだ。反転が繰り返されると再帰的な関係が起こる。それは菅家の全体を別の関係へと組み換えていくことである。両義性そのものの捉え直しが起こる。このような捉え直しを最初に起動したのが「分離」である。身体は、分離を通して固有の能力として捉え直され、労働力として捉え直されていく。分離とは隔たりを置くということで、時間的には現在から隔たりをとる。つまり、私たちが身を置く始原的なものに対して、未だ現在には到来していないものとして関係する。この時間の中で自らを繰り広げるというのは意識の働きでもある。そのプロセスで、永続的な存在として「もの」が、それは反照的に「わたし」が出現する。そして、何かを取り置き保存することのなかに「所有」が生じる。身体の両義性が意識として捉えられている。意識とは、身体が身体であることを繰り延べるという両義性の運動である。
  始原的なものに浸っている状態から自分を引きはがし、集約するという「分離」の起動。その「体制」が「身体」。その場所は「わたし」が身を据える特定の場所「わが家」である。「分離」は全体性からの離脱として、「わが家」は全体性を断ち切る空所としてある。それは、文字通り領域の外にある。それをレヴィナスは「治外法権にある」という。それは脱領域的であると同時に不可侵性でもある。ここでレヴィナスの議論はロックの問題意識に接近する。自由の拠点というところだ。レヴィナスが享受という生の位相を「幸福」あるいは「エゴイズム」と特徴づけたのは、それは人が最終的に譲れないものと考えたためだ。それ以外に人の幸福と自由の根拠地であると考えたからだ。

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