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2024年4月18日 (木)

鷲田清一「所有論」(3)~2.所有と固有

 前章では、あるものの帰属をめぐる「所有」という問題系は、「もつ」の問題系とは合致しないということを確認した。本来、何かの対象をめぐる人と人との関係である「所有」を「も」こととして主題化した場合には、「所有」の問題を、持つ主体と持たれるモノとの対象関係へと引き寄せて考える、つまり、あらかじめ問題を狭めること危うさというのが、その理由である。
 帰属という意味での「所有」をめぐって、まず、「所有権」は英語のpropertyの訳語であり、propertyは所有という事態、もしくは関係と、何ものかを自分のものとして所有する権利とともに表わす。また、propertyには、さらに、所有の対象である所有物(財産・資産)という意味も含む。
 世界に「何かとして」あるものはすべて「誰かのもの」としてあるというのは現代の社会に特有の現象である。だから、それだけで「所有」のすべてを説明することはできない。一方で、「所有」は歴史的な慣習若しくは制度として多様な形で成り立ってきた。それは必ずしも現代の「所有」と一致しないで、現代の「所有」はその多様さを狭めてしまい、そこに軋轢を生むこともある。
 このような問題の背景には、「所有権」という現代の法的権利が過剰なまでに社会を覆うようになったためである。そのような近代の「所有権」は「可処分権」という概念とじかに連結しているからである。可処分権とは、意のままにしてよいということである。己の意志で自由に処分できるということ。これが「所有権」と連結されたことから、「これは私のものだから、それをどうこうしようと私の勝手だ」という理屈が生まれた。だが、あるものの存在が特定の誰かに帰属するということと、それを意のままにできるということは同一次元の事柄ではない。一方が帰属の権利にかかわるとすれば、他方は実際の使用にかかわる。それぞれは別々の問題である。
 人は自らの身体を駆使して様々なものを思い通りになるように操作し、変形してきた。そのことで自然の主になろうとしてきた。しかし、そのような操作という行為の媒体である身体という存在が、自分の意のままにならないという。このこともまた、病気ひとつ取り上げるまでもなく、人々が日常経験してきたことである。ここにも「所有」の両義的な構造が映し出されている。私の身体を私が所有するのではないということだ。また、たとえば何ものかを道具として思いのままに使っている過程で、その使っているものに似てくる。知らず知らずのうちに、それがそなえる構造に逆に規定されることになるということである。所有している者が所有される物所有され返す、という関係の反転が「所有」にはつきものだということである。このような意味でも、「意のままにできる」ことは、意のままにしたはずのものに逆襲される。つまり、意のままになるどころか、逆に意のままにしたつもりのものに意のままにされてしまう。守銭奴というのはその典型だ。この反転の構造は、「所有」がそのような現象形態をしているというより、所有する主体を規定しているもろもろの概念装置にすでに深く刻印されてものである。
近代社会になって、「自由な主体」は」所有する主体」として規定される。それは、近代の市民社会を構成する「自由で独立した主体」であるということは、何よりも、様々な偶然性や予測不可能性に左右される不安定な世界の中で確実に身を保つために必要なものを、身の回りに取り集め、それらを工作し、操作し、それらをレギュラーで安定的な環境世界への改変していく算段ができているということである。そしてまた、そのように設え直された環境世界を、それを強奪もしくは侵害・横領する強権から護ることができるということである。17世紀のデカルトはまず前者を「自然の主にして所有者」と呼び、ロックはさらに一歩踏み込んで「自己の主」にして「所有者」と規定した。「自由と独立」をそなえた自己決定可能な主体としてのありようは「所有する主体」のうちに求められたのである。
 このような市民社会で想定されているのが自由で独立した個人、つまり「所有する主体」である。ところが、この「所有する主体」の定立と連動している諸々の概念規定は、それぞれの意味を裏切り、意味を反転させるような契機を含んでいる。
 例えば、「個人」とは、「個」という無規程が「分割できない」という形で否定の契機を内蔵している。「個」は、それ以外の何ものにも還元も細分化もできない不可分の同一的な存在としてある。しかし、一方で、分割不能な個人は、孤立し単独の存在として、他の「個」から分離された存在でもある。そのような理路を封じ込めるかのように、「個人」は様々なレトリックやテクノロジーを駆使して形づくられてきた。例えば、個人の振る舞いを制度的に囲い込む規律だったり、帰責可能な法的人格の理念などで、これらはつねに一定のレトリカルな水準で発動され、編成されてきた。いわゆる正常性の形成であり、諸個人を規格に適合した存在とすべく検閲し、逸脱を測定し、調整しつつある「等質的な社会体」に帰属するものとして個別化されてきた。
 あるいは、人格的統一という概念は、個人の多様な経験を単一的で独自的な個々の「わたし」のそれとして統合してゆくプロセスを意味している。しかし、「わたし」の存在の独自的な統一は同時に、社会を構成する等質的で語感的な単位に回収されるものでもある。
 あるいは「主体」という概念は、「主体」を意味すると同時に従属しているという没主体的な状態をも意味する。
 そして、個人の存在の「私秘性」という概念は、「所有する主体」の自己所有との関連でいえば、主体は自己以外の様々な対象を所有しようとするが、その所有する自己その者との関係は、他者の介在も干渉もない内在的な関係と想定される。その内在的な関係はその意味で私秘的な性格、ときに秘匿されるべきものという性格を帯びる。これは「わたし」の内面性というものだ。
 これらのような意味の両義性、ないしは意味の反転が認められるのがpropertyの語源ともいうべきproperなのである。なお、propertyという語は「所有」「所有権」を意味する一方で、物の場合なら「特性」、人の場合なら「自己固有性」とでも訳すべき何ものかに固有の性質(特質や特性)を意味する。この「固有」を意味するpropertyには、他者に譲渡できないという意味が濃い影を落としている。異物に触れたり汚染されたりしていないという「固有」=清潔は、「所有する主体」の自己自身との内在的な関係と相まって、「所有権」という譲渡不可能なものを排他的に占有する権利が形成される。
 「所有権」を表わすpropertyという語は、譲渡可能性ということを本質的に含む「所有」という意味と、本来譲渡不可能なものの存在を言い当てるはずの「固有」という意味とを併せ持つという矛盾から、私たちは「所有」も「固有」も概念として自らの足元を突き崩すような意味契機を含んでいると考えざるを得ない。ここに、「所有権」という概念の過剰適用をめぐり発生している様々な葛藤や桎梏の起因するところがあると著者は言う。そこで、これからの課題は、それ自身のうちに矛盾する意味の二契機を内蔵している「所有権」の概念の組み立てと、そのレトリカルな構成に基づくその制度化の過程を浮き彫りにすることにある。「所有権」の概念が社会生活の中に深く浸透していく中で起こった様々の広範な問題の次元に遡ることから始める。

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