南直哉「超越と実存─「無常」をめぐる仏教史」(2)~序章 問いの在りか
釈迦と呼ばれるゴータマ・ブッダは仏教という真理を理解し信じて出家したわけではない。彼は真理などない中で、問題を抱えていたからこそ出家したのである。著者はその抱えていた問題を次の二つに要約する。死とは何か、私が私である根拠は何か、である。そして、道元の言葉に出会う。この問いには答えが出ない。これは問い方自体が間違っている。○○とは何かという問いの答えは、○○とは違うものを持ち出して○○とは××であるという答えが導かれる。この答えは単なる言い換えにすぎない。だから答えは確定しない。となると、死とは何か、私が私である根拠は何かという問いは、原理的に確定的な答えがでない。すなわち、何であるか分からないままに存在する何ものかなのだ。それゆえ、○○とは何かと問われるのではなく、それが何か分からないままに○○はどのようにあるのかと問われる。何であるかわからないものとは、そのようにあるという根拠を欠いたものである。それは無常として根拠を欠いたまま存在する事実、すなわち実存を意味する。
仏教はこのように考えるが、仏教以外の思想は根拠があると考える。その根拠を押さえれば実存の核心が理解できると信じている。この時、その根拠は実存ではない。根拠が実存の内部あっては根拠として機能しない。それは外部から実存の仕方に決定的に作用しなければならない。それが超越的存在である。それは本質とか実体と呼ばれる。なお、本書では隠れたテーマとして言語が通奏低音のように働いている。
そもそも超越と実存というような゜問題設定が可能なのは、我々が言語で考えている。そこで、言語の起源だから、我々は、それを知ることはできない。言語の起源を知るには言語を使用せざるを得ず、意識の起源を知るには意識を対象化、すなわち意識化せざるを得ない。言語は個々の物に対して超越的であり、その本質を示すもの。
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