無料ブログはココログ

« 岡本喜八監督の映画「日本のいちばん長い日」 | トップページ | 小坂井敏晶「責任という虚構」(2)~序章 主体という物語 »

2024年5月20日 (月)

小坂井敏晶「責任という虚構」(1)

11112_20240526231501  4年前に読んだ本の再読。
 人間は主体的存在であり、自己の行為に責任を負うという考えは近代市民社会の根幹を支える。人間は自由な存在であり、自らの行為を主体的に選択した結果として責任が生じるというわけだ。他方で、実際には人間というのは自律的な存在などではなく、常に他社や社会環境から影響を受けている。このように人間の行動が社会環境に左右されるなら、責任を問う根拠はどこにあるのか。本書は、責任の根拠を問うわけではない。本書が問うているのは、実際に人間はどのような行動をするのか、責任と呼ばれる社会現象は何を意味するのか、ということである。
人に噛みついた野犬を殺処分する。犬に責任は問わないが、危険だから殺す。これに対して人間の場合は犯罪に関わっても責任が認められなければ、罰しない。壊れた機械を修理したり、スクラップにして廃棄処分するように、危険な人間を再教育したり、刑務所に閉じ込めたり、処刑する、というような発想ならば、責任は無駄な概念になる。このように単なる自律性とは区別して、我々は人間の主体性を理解する。では主体性はどこにあるか。
 行動・性格・能力の原因が環境条件であれば、その環境を作った原因がまた考えられる。したがって因果関係は無限遡及し、最終原因は定まらない。遺伝も同じだ。つまり、身体及び知的能力・人格・美醜等の我々の属性は外来要素の沈殿物であり、それらを生成した原因は我々自身をすり抜けてしまう。仮に、これらを外界から授かったとしても、他の誰でもない、まさに自分の属性である以上、責任が発生するといい、人格形成は自己責任だと考えると。その責任を問うためには、その人格形成の時点で自由意志で選択をしたことが前提になる。だが、その自由意志は過去に育まれた人格が生むのだから論理が無限背進する。
 責任を問うためには原因を同定し、根拠を見つけなければならない。だが、原因や根拠には必ずその原因や根拠があり、その連鎖は無限だ。そこで人々は二種類の最終原因・根拠を捏造した。一つは外部に投影される神だ。そして、近代が創出したもうひとつの根拠が内部に投影される自由意志だ。
 世界のどこかに神を同定できないように、個人のどこを探しても主体は見つからない。主体はモノでもプロセスでもない。個人の心理状態でもなければ、脳あるいは身体のどこかに位置づけられる実体でもない。自由意志が発動される内部はどこにもない。主体とは、責任を問うための論理的な虚構といえる。犯罪や不平等などの不都合な事態に際して、誰かに責任を押し付けて収拾を図る社会的な装置であり、イデオロギーである。これを著者は虚構と呼ぶ。
 端的にはこうだ、人殺しをした者を不良の機械をスクラップにするように処分できないので、まず人を殺すことを禁忌として、それは悪いことだとした。殺したということは、その悪いことをあえてやってしまったことにすると、責任があったことになる。それを口実にして処分できるようにした。脱線するけれど、なぜ人を殺してはいけないかということについて、功利的に、いちばんすっきりした説明だと思う。

 

« 岡本喜八監督の映画「日本のいちばん長い日」 | トップページ | 小坂井敏晶「責任という虚構」(2)~序章 主体という物語 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 岡本喜八監督の映画「日本のいちばん長い日」 | トップページ | 小坂井敏晶「責任という虚構」(2)~序章 主体という物語 »