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2024年5月13日 (月)

鷲田清一「所有論」(27)~26.危うい防御

 人は生きようとして、その生存に必要不可欠なものの争議や略奪にさらされる。そうした争闘の歴史のなかで、生存の最低限の保障を維持するために所有権が案出された。ハンナ・アーレントによれば、所有権はもともと人が世界の特定の部分に自分の場所を占めることだという。そこで、世界は自然的目的のことではなく、むしろ世間(社会的共同体)だ。実際、生存が断ち切られるような恐怖においても、皆が同じ厳しい条件下で飢餓の恐怖に怯えることと、弱肉強食の下で他人に踏み倒されわたし一人のこととして恐怖に襲われることは別ものである。ジャック・アタリの『所有の歴史』では、それに抗う算段として多産財の獲得し所有をめぐる争いが始まる。アタリによれば所有の歴史とは多産財という財を生産する財の所有の歴史に他ならない。現代では、情報がそれに当てはまる。情報は物としての固有性の存立があやしく、所有=固有性の失効にいたる。そこから、所有権、つまり人が自分に固有のものと思っているものそのものはイメージでしかないという議論が生じる。そこまで来ると、生命体の争闘の歴史の治療薬として案出された制度だったはずの所有からの逸脱ではないか。
 同じようなことは別の側面からも、所有権それ自体が財産のひとつであるということ、所有の一形態であるということ、これはつまり、個人の存在の自由の基底そのものが所有関係としてあることである。そしてこのことは、わたしたちの自己自身との関係としての自己所有が、主人と奴隷の関係として設定されているということである。この主人と奴隷の関係が近代哲学のなかでは精神と身体との関係として表象されてきたと言える。自分自身の所有者としての自己、西欧の近代哲学が独立の個人として自己を表象する根拠は、このような概念的な道具立てにおいてのみありえた。このように所有の権利がそれ自体として所有の一形式である循環論。これはやがて、所有される物が所有する者を所有し返すという事態へと反転し、ついには所有が所有するという閉回路へと至る。
 この問題を掘り下げると最初の「有」をめぐる議論に戻ることになる。わたしが何かを所有しているという関係は、わたしという同一的な主体が、何かある対象をじぶんのものとして、つまりその有りようを自ら決することのできるものとして保有していると、普通は考えられている。しかし、このわたしと特定の対象との関係を所有として規定し、下支えしているのは、わたしという主体なのではない。所有という関係は、所有する主体と所有される客体とり恒常的な関係ではない。言い換えると、所有する者としてのわたしと所有される物としての対象との関係は、わたしと対象との閉じた関係としてあるのではなく、つねに社会的な承認や受託という契機を内蔵することではじめて所有へと構造化されている。つまり所有関係の形式である所有者/所有物は、それぞれに独立の二項ではなく、わたしは常にある対象の所有権をめぐる係争に晒され、いつ破棄されるかもしれない。一方、対象もまた、どこまで所有権の対象であるかもわたしの意思によって決められない。それゆえ、ある物について所有権を持つことは必ずしも所有する者がそれを意のままにできる自由処分権を意味することではない。しかし、その一方でまた、所有という契機なくしては人の生存は成り立たない。そこかに存在に所有という契機が組み込まれていることを考える必要がある。
 日本語で「金を持つ」ことを「金がある」というように所有は、誰かが何ものかを持つことと、何ものかが誰かに帰属するという二様に表現できる。フランス語でもそうだが、和辻哲郎は、そもそも存在賓辞「がある」であると同時に繋辞「である」でもあるフランス語のetreを「存在」と訳すのは無謀だと批判する。「存じている」という表現にあるように、「存」は忘失に対する把持であり、忘失に対する生存でもあって、その意味では「存」は「忘」や「亡」に電ずるかもしれない生成的な性格のものであると和辻は言う。一方、「在」はある場所、それも特定の場所にいることを意味する、つまり、「在」は「去」に対置されている。また、etreには「有」があてられもしてきた。「有」はあるとともにもつでもある。これは何かがあるという事態は基本的に何かを保持する働きを基盤として成り立つということである。そして、人として存在することは、身を持するという意味で所有を本質的に内蔵して成り立っている。和辻流の言い方をすれば、「存」「在」がともに「有」を含むということ。とどのつまり、所有が存在を支えている。だがそのとき、もつは所有権と言われるときの所有ではない。
 そして、本書の所有を受託として捉えかえすという議論は、この論点につながる。その意味は次の二点にある。一つは所有という営みが最終的に帰着するところは、主体による私的所有の権利要求ではなく、状況にとって何が最も適切な配置かということ、つまりは所有=固有ではなく適切さたという点。もう一つは、所有において最終的に問題となるのは、その権利の由来するところというより、その対象をどう維持し、その可能性を生成させていくかということ。つまり、帰属の問題というより、帰責の問題だという点。所有権はそもそも何を護ろうというものか。食料や水源や土地といった生存の基盤を護ることは、人がその存亡をかけた条件である。そしてそのための資源が稀少であることから、太古より集団の間で、熾烈な争闘が繰り返されてきた。それを調停する第三者が存在しないところでは、争闘は一方が他方を制圧もしくは殲滅するまで続くという所有の血腥い歴史はつねに略奪のれきしとしてあった。争闘に終止符を打つのは力であり、その力は集団と集団の間のみならず、集団の内部でも行使された。そうした集団が、後に、社会として編み直され、さらに集団側でも社会が設定されていく過程で、それと連動して案出されたのが所有権、それも私的な所有権であった。それは人々が互いに最低限の生きる装備を保障すべく編み出した共存の智恵であった。この権利はたしかにある物件をおのれのものとして保持する権利を意味したとはいえ、それが護るのはその物ではなく、人であった。所有権はその人の所有を護るものとして設定された。だから、人は所有権を持つと言われてきたのである。そして、現代では、この所有権が本来それに適合しないような場面にまで拡張され、さらに所有者なる人の生存そのものを攻撃するような所有権の過剰の様相を呈するに至った。
 この所有権を受託として捉え直すとすれば、所有権は、「それを持たせられる人がそれを持つべき」という思想とみなすことができる。それは誰に預けるべきものか、つまりは対象との関係やその配分の適切なあり方を判断するよすがとしてである。ここで、何かを持つことが何かが自分のものとしてあることとは同一のことではない。持つの対象は孤立的なものではなく、それよりむしろ他者に分け与えたり、共有したり、譲り渡したりというように人の間を目巡るものである。「カネは天下の回りもの」というが、所有は単にわたしとものとの固有とか帰属という意味でのプロパティという権利関係ではなく、むしろ、リスクの分散と相互扶助の可能性を担保する一定の社会的調性の行為として捉えるべきものということになる。所有という関係は、人ともの、ひいては人と人との持ちつ持たれつの関係ネットワークのなかに組み込まれている。所有という関係は単独の私的主体とその対象との関係ではなく、ある場、ある環境のなかでの人とものとの関係、つまりものを媒介とした人と人との関係であり、またそのものとそれが置かれた他のものとの配置関係でもある。所有は関係の適切さのことと言える。そうだとすると、受託としての所有も、そうした関係が誰かに預けられることとして、たんに私的な権利ではなくて、各自が負うべき公的な責任のひとつという意味を帯びることになる。そこから、権利としての所有から責任としての所有に始点が移る。
 所有を権利の地平でのみ捉えないということ、それはつまり法的な次元でのみろんじることはしないということ、言い換えると、所有を何かが誰がのものであるとしてではなく、誰かのものになることとして捉えるということ。それはさらに、各人にとってのっぴきならない自身の身体や自信を養ってきた知識や能力についてとわれることでもある。これは誰のものかという言い方は、所有する者と所有される物との分離を前提にしている。ものから独立に所有する主体としてわたしがいるわけではない。人も物も相互にかかわるなかで主体に、そして対象になってゆく、それを所有者/所有物にするのは所有者の発想である。所有する/所有されるという関係とそういう主体と対象の相互生成的なプロセスを前提にしている。所有する者と所有される物もまた、このような過程のなかでその都度存立を得るということである。そして、所有権の概念がその関係に適用されることで、その関係はわたしに閉じたもの、排他的なものとなっていく。所有の関係も権利の関係とされることで、所有権の前提である稀少性を盾に、排他性をさらに私的利益への主張と誘導してしまう。これはわたしの労働の結果としてここにあるのだから、その経済的恩恵を受けるのはもっぱらわたしであるべきだという他者排除の論理へと屈折し、持つ者と持たざる者との関係を断ち切ってしまう。
 所有権が市民一人ひとりの自由を擁護し、防禦する最終的な概念として機能しつつも、しかしその概念過剰適用すれば逆にそうした個人の自由を損ない、破壊しもするということ、そのかぎりで所有権はわたしにとって危うい防具だということである。だからこそそれはその適用の文脈を綿密に選り分けていかねばならない。所有をめぐる調停と約束は、場面場面でそのつど関係者によって様々な思いの不一致や軋轢を選り抜けて探られるものであるがゆえに、一般的なルールや法規範のかたちでではなく、その都度のそこにはたらきだす叡智として辛抱強く持つべきであろう。

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