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2024年5月21日 (火)

小坂井敏晶「責任という虚構」(2)~序章 主体という物語

 この章では人間の根源的な他律性を検討し、責任概念を支える自律的人間像の脆弱さを確認する。
 人間は主体的存在であり、自己の行為に責任を負うという考えは近代市民社会の根幹を支える。人間は自由な存在であり、自らの行為を主体的に選択した結果として責任が生じる。これが近代の責任を考えるときの前提だが、実際はどうなのか。そこで、実際の例として本書が取り上げたのがナチス・ドイツによるホロコーストだ。ハンナ・アーレントは『イェルサレムのアイヒマン』において、ナチスのユダヤ人虐殺は、ナチスという精神異常者が起こした事件ではなく、普通の人間の正常な心理過程を経て生じた出来事だと主張した。普通の人なら、このような組織体制と精緻なメカニズム、社会状況の中では、加担してもおかしくない。そうなると、実際にホロコーストにコミットした人々の責任を問うことができなくなる。彼らは主体的にホロコーストへコミットしたとは言えなくなるからだ。そこで、アーレントの主張には、その当時、批判が相次いだ。
 本書では、そのアーレントの主張の基本となる考え方について、社会心理学の実験(ミルグラムの実験など)結果や豊富な実例で検証している。人間の行動は他者に強く影響されるが、かといって外部環境の情報によって行動が完全に決定されるわけではないのである。心理学では、意志が行為を導くという「のはバイアスであるとして根本的帰属誤謬」と呼ぶ。人の行動を根本で規定するのは精神分析では無意識であり、行動主義では条件反射である。意識という観察不可能な存在は人間行動を理解するうえで無用だと切り捨てた。
 理性的精神が行為を司るというデカルト的自己は間違っている。そのような統一的視座はどこにも存在しない。意志決定があってから行為が遂行される構図は脳科学によって否定されている。ベンジャミン・リベットの実験により、手首を動かす指令が無意識のうちに生じると、運動が実際に起きるための神経過程と、手首を動かすといった意志を生成する心理過程とが同時に作動し始める。自由に行為すると言っても、行為を開始するのは無意識過程であり、行為実行命令がすでに出された後で、「私は何々がしたい」という感覚が生まれる。意志や意識は行為の出発点ではない。社会心理学では、意識は行動の原因ではなく、行動を正当化する機能を担う。意識が行動を決定するのではなく、行動が意識を形作るのだ。
 そもそも、外界から影響を受けずに自律する自己など存在しない。互いに拮抗する多様な情報に包まれて自己の均衡が保たれる。影響されるという言い方は実は正確でない。影響されるというとき、外力が働かない限り自己同一性を保つ我々は存在を前提している。そのような同一性はない。

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