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2024年6月

2024年6月29日 (土)

南直哉「仏教入門」(5)~第4章 空と縁起

 1世紀ごろから大乗と呼ばれる仏教運動において、独特なアイデアが「空」である。大乗以前の部派仏教は、時間を実体視し、存在するものを要素に分解してこれを実体と考え、その集合で無常と無我を説明した。これに対して、「空」の思想は、要素であろうが部品であろうか、一切の実体を排して、無常と無我のアイデアを徹底する。この立場を、言語作用に焦点を当てて理論化したのが竜樹である。
 竜樹は『中論』において、言語批判を用いて空の思想の理論的解明がなされる。事物がそれ自体で存在することの否定を、仮にそれ自体で存在するかのように考えたとき、どんな矛盾が生じるかを論証することによって行う。例えば、「結果」として規定される事物が、「結果」それ自体として存在するなら、もう「原因」は不要である。「結果」とされる事物がないなら、そもそも「原因」は原因にならない。このような実体視は言語の作用である。例えば、「薪が燃えている」と言い表される事実において、薪と火が同一ならば、薪は常に燃えていなければならない。薪と火が異なって別ならば、薪は決して燃えず、火は消えることなく燃え続けることになる。不合理が起こるのは、燃えている事実を、言語によって「薪」と「火」と「燃えている」という概念に分割して実体視した上で、それらの結合で事実を把握しようとするからである。結合が成り立つたには、事物が成り立つためには、事物に差異がなければならず、それと同時に同一になれなければならない。この矛盾が、言語の作用において不可避なのだ。
 このような『中論』の議論から読み出すことができる縁起の考え方は、縁起の縁って起こる、すなわち関係から生起するの「縁」「関係」の実質を、我々の具体的な行為だとする。例えば、因果律は、事物の在り方を決める原理ではなく、思考の方法(道具)である。つまり、生活の現場で道具を使うとは、何かを目的に、それを実現する手段を駆使することである。この手段-目的の実践的関係が、事物の在り方を理解する存在論的な関係に適用されれば、これが原因-結果関係になるであろう。それがさらに概念同士の関係付けとして使われれば、理由-結論の論理関係になる。ということは、因果律はその根本に道具的思考がある。つまり、特定の欲望や意志に基づいてある対象を目的とし、これを操作し・支配する行為において現実化する。使わない道具が道具でないように、因果律は、操作と支配の意志と行為がない限り、無用であり、存在しない。
 主体と行為の関係も同じである。「歩いている彼が歩かない」というのは、彼がそのとき歩くという行為以外においては実存しないからである。歩く行為において彼であり得ているのに、さらにその上に歩くことなどない。同時に、歩く彼がいないところに、「歩く」行為はない。「彼が歩く」という認識は、徒歩移動という実存的事実から、その関係項として、言語が「彼」と「歩く」の概念を抉り出し、その結合によって成立している。すなわち、行為としての関係が存在を規定する。それが「縁起」のアイデアである。
 「生きる」という行為も同じで、「生きる」という行為が起動するとき、それはたしかに「私が生きる」という事態でしか現実化しない。しかし、それは同時に、すでに「生きる私」が実存していることを意味する。それは好意的な関係のシステムとして、一挙に現実化する。個々にそれ自体で存在するように認識されているものは、所詮はこのシステムにおける関係項として構成されるものだ。

2024年6月28日 (金)

南直哉「仏教入門」(4)~第3章 縁起と因果

 一切の存在は無常で無我だとすると、無常で無我なまま、いかに一切は存在するのか、問われた時、その説明に持ち出されるのが、「縁起」と「因果」である。
 普通、我々は原因があるという言い方をするが、それはあたかも「原因」というものが、それ自体で存在しているかまように考えている。因果律それ自体が、普遍的かつ実体的な原理のようにこの世に存在し、その原因とされたものが自動的に何らかの力を発揮して、結果となる事態を自動的に引き起こすと理解している。しかし、因果律はそれ自体で実在する原理ではなく、思考の道具である。だから、それ自体では存在するものではなく、何らかの目的に使われてはじめて意味を持つ。因果律は、後に結果とされる事態に直面して、その後原因が発見されたり、特定されたりものだ。だから、原因は「ある」のではなく「認識される」のだ。要するに「結果」とされる事態を操作する目的のたにどうするかという思考の道具に過ぎない。原因と結果と認識されるものは、膨大な因果の連鎖や条件が錯綜する事態から、一部を恣意的に切り取ったものなのだ。だから、因果律で事態を説明できたからといって、それが真実になるわけではない。
 このような考え方に基づいて、縁起、ここでは十二支縁起や四諦について著者の解釈が述べられる。

2024年6月27日 (木)

南直哉「仏教入門」(3)~第2章 苦、無常、無我

 仏教の自己と世界についての基本的な認識として、次のようなことが延べられる。
 「一切の形成されたものは無常である(諸行無常)」と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。「一切の形成されたものは苦しみである(一切皆苦)」と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。「一切の事物は我ならざるものである(諸法非我)」と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
 ブッダは老・病・死を嫌い、その嫌悪が若さ・健康・生存を驕る態度に由来することを問題視した。そのような嫌悪と驕りが可能なのは、人が若さ・健康・生存から老・病・死への移り変わりを認識できるからだ。その場合、変化が認識できるのは、変化しない何ものかについてである。老・病・死を嫌悪するためには、若くて健康で生きているときから一貫して変わらない「自分」というものが設定されていなければならない。人は変わらない「自分」を想定しているから、老・病・死を嫌悪できる。ならば、そういう「自分」を持たないなら、嫌悪などということは起こらないはずである。
 そういう自分を「私」と呼んでいる。「私」という言葉は名前の代替物である。名前とは他人と人間関係における位置を意味する。我々は、他人から名前を与えられ、その名前で繰り返し呼ばれ、呼ばれながら様々に扱われて、その相手との関係を徐々に理解する。その結果、多様な関係の結節点として自己という実存を理解する。するとこうなる、「私」と称する実存の名前はもちろん、肉体も他人に出来する。「私」の根拠は私にない。もし、人間と称する実存が、他者との関係の特定の結節点としての記憶をなくすか、他者にもその関係を承認されないか、あるいはその両方であれば、「私」は直ちに断絶し、崩壊する。「私」であることを根拠づけるものである、常に同一でそれ自体として存在するものは、「私」や様々な名前などの言語によって設定されたフィクションに過ぎない。このことは、「私」以外のすべてにも言えることだ。ある「机」が「机である」根拠はその物体そのものにはない。机として使われるから、その物体は「机」になる。この世の誰もが机として使わない机は「机」ではない。我々のその物体に対する行為の仕方。すなわち関わり方が「机」であることを生成しているのであり、「机」という語は、その関係の形式を意味する。
 そのような観点から「一切の形成されたものは無常である」という一節は、「あるものが何であるかは、そのものとは別のものとの関係からり生成される、それはそれ自体に根拠があって、そのようなものであるわけではない。関係の仕方が変化すれば、それはそのようなものではなくなる。」と言い換えることができる。
 ところが、言語は、そのような無常なものを、あたかも常に同一でそれ自体で存在するかのように錯覚させる。そのため、人間関係の結節点に過ぎず、記憶と他者からの承認を失えば即座に断絶するはずの「私」を、常に同一でそれ自体存在するもののごとく錯覚させてしまう。そこではじめて、「老・病・死」の変化を嫌悪し忌避できることになる。
 そこで、「一切の形成されたものは苦しみである」という一節は、「無常なものが苦しいのは、この錯覚のゆえで、同一のではありえないものを同一だと思い込んで扱うとき、あるいは同一であり続けることを欲望するとき、それが苦しみの原因となる」という意味になる。
 事物は言語によって構成され、概念化され、そういうものとして認識されたもののことである。したがって、その事物の内部にその事物がその事物である根拠はない。だから、「一切の事物は我ならざるものである」という一節は、我々の認識能力の範囲内に「我」がないということを意味し、同時にその埒外に「我」が存在し得ることを示唆する。我々の認識能力の及ばない埒外の領域における存在の有無については、認識能力が及ばないのだから知ることができない。そのため、事実上「我」はないも同然である。結局のところ、私が私である根拠もなく、およそ存在するものが、そのように存在する根拠はない、という身も蓋もない認識に至ることになる。
 そこで、時に我々が発する「本当の自分とは何か」という問いは、私が私である根拠への欲望の現われということができる。この欲望こそ、言語内存在とも言うべき人間の、根源的かつ強烈な欲望である。その欲望の根底には、記憶と他者の承認でかろうじて維持されている自己という存在の不安がある。したがって、不安というのは記憶も承認も必要としない何ものかを、根拠として欲望することになる。この欲望は死と誕生の不安と直結している。この生死の不安の正体は、それが分からない、分かりえないということである。分かれば不安はなくなるはずで、この場合の「分かる」は、実際は、分かったことが操作できることだ。つまり、生まれてくる理由と死の正体が分かれば、相応の対策がとれるに違いないと思うことができる。つまり、思ったように生まれて、思ったように死ねれば、生死の不安はほぼ解消される。これは、要するに、自己決定で生まれて、自己決定で死ぬことを意味する。しかし、実際にはそんなことはできない。そこで両端は諦めて、生きて自己でいる間だけ、思ったように自己決定し続けることで、自己がそれ自体で存在するかのように錯覚できる。「思う、ゆえに在り」というデカルトの言葉は、そういう意味である。こうして、「所有」という行為が「ある事物の処置を思うとおりに決定する」ことを意味することから、所有が自己の存在を根拠づけることになる。これが、近代以降の資本主義が造形する人間の基本的な在り方である。
 しかし、これは錯覚であり、「本当の自分」とは、「本当の自分」を欲望し続けて裏切られ続ける、実存の裂け目であり、破綻した構造である。無常とはそのことなのだ。

2024年6月26日 (水)

南直哉「仏教入門」(2)~第1章 ゴーダマ・ブッダ

 彼の生まれは裕福な家で、十分な教育を受けていた。つまり、彼は貧困や差別などの社会苦や病気や複雑な人間関係に苦しむような青少年期を過ごしたわけではない。そこで、彼の出家は、人間が生きていることの根本条件である、老い・病い・死がテーマであった。しかも、それらを感情的に嫌悪して、たとえば不老不死を目指したわけではなく、三つを嫌がる人間の考え方や態度を問題視していたことが実にユニークだ。
 彼は修業について次の三点を指摘する。第一に、二人の先輩修行者から教えられた瞑想法を習得した上で捨てた。第二に苦行を放棄した。第三に最終的に採用した修行法は禅定あるいは瞑想といわれる身体技法だということ。
 彼は、悟りという体験については語らず、残されているのは悟った後に悟ったこととして語られた教説だけである。しかも、彼は要請でもされないかぎり、自身の「悟り」を他人に教える気が全くなかった。そこで、彼は「悟った」ことを普遍的で絶対的な真理、すなわち誰もが知るべき教義などとは考えていなかった。彼はこの時点で、出家の動機となった自分の切実な問題に見解を得たので。それで十分だった。彼が何を悟ろうと、それを誰かに話してみて、相手が納得しないかぎり、ただの個人的妄想と区別できない。それが妄想でないかどうかは、話をすれば十分に理解し納得する他者がいるかどうかの一点かかっている。彼が、語ることを要請された意味はここにある。

2024年6月25日 (火)

南直哉「仏教入門」

11115_20240625235201  著者は、最初にこの本は一般的な入門書ではなく、個人的見解に着色され、偏向極まりない視点から書かれたとことわる。仏教入門というより、著者がこけまで各処で述べてきた仏教解釈を全体的にまとめたという、いわば著者の仏教解釈の入門になっている。
 そもそも「宗教」とはいったい何なのであろうか。最初に著者はこの問いにダメ出しをする。あまりに多様で言葉で説明しきれない。そこで視点を変えて、人は宗教に何を求めるのかを考える。まず考えられるのが現世利益だ。もうひとつは人に存在理由を与えてくれるというもの。著者は後者とくに、存在の根拠への不安に注目する。
 では宗教を信じるというときの「信じる」とはどういうことか。この信じるということの意味を問うことは仏教に対する姿勢を明らかにすることになる。そもそも、疑いを持たない人は信じることはできない。疑いがないなら、理解したり了解することで終わってしまう。しかし、その理解ということの根底には信じているということがある。1+1=2を理解しているといっても、とうしてそうなるのか説明できない。当たり前として理解している。つまり、理解するとは疑うことを忘れたまま信じていることでしかない。これに対して、「確信する」というのは、「疑い」があることを自覚した上で、「疑う」か、第三者に対して自分なりに説明しようとすることで「疑い」を否定しようとする。あるいは確信もなく、盲目的に信じることもある。著者はこれ以外に「信じる」こととして、「疑い」を当然の前提として、それを否定も排除もせず、疑いを受容して信じるという。これは信じるというより賭けるというもの。著者は、この「賭ける」という姿勢で仏教に対しているという。
というわけで、著者は自らの存在根拠への不安をテーマに、それにアプローチする方法として仏教に賭けた。著者は、その先駆者として仏教の創始者ゴーダマ・ブッダに共感する。そこで、中心的に語られるのは、ブッダは言語によって、本来は言い得ぬ何かが「言葉にできない」超越的な真実として実体化してしまうことを錯視だとして忌避したということだ。私見によれば、現象学のエポケーに親近したものとすると理解しやすい。
 そういう仏教の捉え方は、お寺でお経を唱えるとか、現代社会での不安や心の拠り所を仏教に求めるとかいった一般的な見解とか、体系的な仏教思想といったものとは一線を画する。

 

2024年6月16日 (日)

立岩真也「私的所有論」(5)~第4章 他者

 著者が批判しようとしているのは主体による制御を所有の根拠にする議論と、自己による制御から出発する発想である。ちょしゃは、ここで、制御できることに価値があるという発想を転換させ、むしろ制御できず、また制御しないことの方に価値がある、ということを言おうとする。
 私が制御できないもの、精確には私が制御しないものを、著者は「他者」と呼ぶ。この「他者」とは、私との違いで規定されるのではない。ただ、私が制御しないものとして在るものだ。私の存在は、私が作り出し制御するものではなく、私のもとにあるもの、私が在ることを、奪うことはしない、奪ってはならない、そう思われている。他者が他者として、つまり私ではないものとして生きているときに、その生命、その者のもとにあるものは尊重されなければならない。それは、人は、決定しないこと、制御しないことを肯定したのだ。他者が存在し、他者の決定しない方が私にとってよいのだという感覚を持っている。自己が制御しないことに積極的な価値を認める、あるいは私達の価値によって測ることをしないことに積極的な価値を認める。
 これは「制御できない」ものを制御すべきではないと言っているわけではない。自己によって制御不可能である他者が存在するから、私は他者を世界を享受する。制御でき敵も制御しないことにおいて、他者は享受される存在として存在する。世界が私にとって制御可能であるとしたら、それは私と同じであり、退屈なものとなる。それは欲望の対象とはならないだろう。私が届かない他者が在るということを受け容れる、あるいは肯定する感覚が、人にはある。それゆえ、私が選択し行ったことが私を指し示し私の価値を表示すという社会のシステムを信用しない感覚がある。他者を意のままにすることを欲望しながら、他者の存在を尊重する感覚がある。この欲望がありながら、それを抑制しようとする感覚がある。
 さらに、この「他者」はいわゆる他人に限らず、自分の精神に、あるいは身体に訪れるものも含まれる。私の身体も私にとって他者であり得る。私が思いのままに操れるものが私にとって大切なものではなく、私が操らないもの、私に在るもの、私に訪れるものの中に、私にとって大切なものがある。それゆえに、それを奪われることに抵抗する。例えば、身体は道具として、本人によってしか動かすことはできない。しかし。その処分権は本人にはない。また、結果は本人のものではない。身体は、本人にとっては必要不可欠な道具であり、それを奪うことはできない。それを奪うことは本人の存在を否定することになる。その一方で身体は感受されるものであり、本人自身にとって他者でもある。
 私たちは私による世界の制御不可能性の上で、何かをしたりしなかったりするのであり、そこでどれほどか私の意のままに私と私の周囲とがなることから確かに快楽を得ている。しかし、その不可能性がすべて可能になった時には、私たちにとっての快楽も終わると言える。このような感覚や快楽は基本的な感覚、倫理である。、これがないと、基本的なよい/わるいについての判断を導くことが論理的にできない。そのような゜価値を私たちは持っており、失うことはない。人は操作しない部分を残しておこうとする。それは人間に対する操作が進展していく間にも、あるいはその語にも残るはずだ。それはまったく素朴な理由から出、他者が在ることは快楽だと考えからである。
 その上でしかし、当然のことだが、仮に他者を「制御しない」ようにしようと思うとして、具体的にはまだ何も言ったことにはならない。私たちは世界を制御することへの抵抗感と世界や他者を手段として使う(制御する)、それら両方を使い分けている。後者があって交換や分配が成立している。例えば、贈与では、私自らが自らのもとにあるものを他者のために譲渡するのでだから、このとき自らのもとにあり他者に贈与しようとするものは、その目的の他の手段としてはならないのであれば、他者のために自らのものを手段として贈与できないことになる。そこで、何をその者のもとに残し、何を移動させることができるのかという問いが生じる。その基準は何なのか。それは誰が決めるのか。
 私たちの現実において、いくつかのものは既に特定の人とのかかわりを持っている。「Aがxを行う」のをBが取って代わることはできない。そこに規範的な境界はないけれど、AやBにくっついて存在する領域が、AにもBにも関わらない領域とともにある。しかし、Aがxを行うという事実を認めることと、その行為の結果をその者が取得する権利があることとは別のことである。xをAが獲得したから、xはAのものであるとは言えないが、Aが行為を介してxを獲得したこと自体を否定したわけではない。また、xがAのもとに置かれるのは、xがAのもとにあるということがAがあることの一部をなしているとき。このことから、そうでなければ、xはAのもとから離れてもよいわけだ。Aのものではない。Aが作った生産物はAがいなくても存在することができる。A自身もxを譲渡する用意のあるものとして生産する。AにとってAが在ることから切り放すことができるものを、Aは手段として、制御の対象とする。また、そういうものの多くを別の人は使うことができる。他者が他者であることを保存したまま移動させることができる。
 これらのことから、何をその者のもとに残し、何を移動させることができるのかの基準は、、当人つまりAから切り離すことができないもの、Aから切り離すことによってそのものの存在が失われるようなものであるかどうか、である。Bのものになることによって、Bによって制御する、制御し尽くすことによって、そのもののAにとっての意味、そして私たちにとってAの意味が失われてしまうようなAのもとにあるaを、Bは制御してはならない。それはAのもとに置かれなければならない。そこにBが介入すること、aを奪うこと、aの譲渡を求めることをしない。一方、Aは、この状態から自らを解き放つことはできない。Aの在り方を譲渡しようとしないものとして、譲渡しようのないものとして、引き受けている。この時、xはAにとって他者としてAにある。Bにとって、このようにAがあるということはAが他者としてあるということである。
 それはAがそれを領有しているからではない。Aのもとに置かれるものaであるとは、aとは独立の存在であるAがaを所有していることではない。領有というときには、領有されるものは領有する者とは別に存在する。それは、事実として制御できるかどうか、与えられたものなのかねといったことは本質的な問題ではない。具体的に挙げられるのは、性や子をもつことなどの経験自体への自由は奪われてならない。すべての具板的な場合についてあれかこれかを判断できるものではない。しかし直接に知ることはできないにしても、試すことはできる。事実、それらを自らのもとから切り離すこと、他者に譲渡することができず、それを私のもとに置こうとする場合にだけ、私のもとに置かれることを認めることである。
 そこで、自己決定である。まずは、当人が決められるならば当人に委ねるべきだとされる。相手を尊重することの一部に自己決定がある以上、他者であることの尊重と自己決定の尊重は矛盾しないし、自己決定は尊重されるからである。この自己決定、何について自己決定できるのかは、前章の自己決定権とは異なる。生産者=労働者の権利の範疇に収まるものではない。そのように決めたと言えば決めたことであると言えることの中に、制御しないことが含まれるのであり、制御すること自体を価値とするのではないし、制御できることに権利が発生するのだと捉えることもしない。
 その一方、自分で決定して、決定したことを自分でやるなら、それが誰にも迷惑をかけないなら、誰も困らない。これに対して、例えば身体障碍者の場合、その人は決定できるが、その決定の実行は他人が行う。その他人には負担という不利益が課されることになる。この場合、自己決定は実現されるとは限らない。このような場合に限らず、何かを提供する側と受け取る側の利益が対立するのはよくあることである。とはいえ、いちがいに自己決定を受け容れることが不利益だとも言い切れない。それは決定がどういう方向を向いたものか、どういう内容の決定であるかによる。あるいは決定に関わる責任といった面倒を決定者に帰属させることで心理的負担を取り除くことができる。決定をめぐる決定は、このような背景のもとに行われている。自己決定としてなされることのすべてを、自己決定だから認める、と単純には言い切れないわけだ。例えば、代理出産を依頼する側が自己決定をして依頼する。代理母の側も自己決定して依頼に応じる。ここに著者は、、むしろ当人の自己決定も含めて問題があるという。Aがa(それは他の者が手段とすることを望まないものかもしれない)を手段として扱うことができ、それを譲渡してBからbを得ようとする時、それを認める。だがなお抵抗がある。例えば借金に追われて自殺が選ばれる、あるいは腎臓を提供する。性を提供する。たしかにその人はそれを選択し、自己決定した。腎臓よりお金を優位においた。死ぬ方がよかった。この事実を否定する必要はない。自殺だったら、生命という私たちの大抵が大切にしているものが天秤の片方に乗っているからこれは大変だと思うかもしれない。しかし、天秤に乗るものの大切さの大きさが基本的に重大な問題なのではない。お金よりも腎臓や性の方が大切なもののはずだというのではない。大切さは状況相関的に決まる。
 私たちは、結局のところAの行いを止めることはできなくとも、これらが悲惨なことだと考えるし、Bのすることを非道だと感じる。このような悲惨さの感覚、非道だという感覚はどこから来ているのか。その人は、その人が在ることと切り離せないもの、在る時にはついてまわるものを切り離さなければならない。手段として扱うことができないものを手段としなければならない。手段として扱うことができない両方を天秤にかけ、比較しなければならない。その一方を失うことによって初めて他方を得ることができる。αにあるものとαにあるものを比較しどちらかを失わなければならない。あるいは、αにあるものを自らに置くためのβを得るために、αにあるものを譲渡しなければならない。当の者の同意があっても、その者があるものを譲渡することが私たちにとって無残なことだと映るのは、制御の対象として想定していないものが、制御されるもの、比較されるものの範疇に織り込まれる場合、そこで他者の他者性が剥奪されてしまう場合ではないか。他者が他者であること、自らが他者であることが尊重されるべきだという感覚は、そしてそこに生ずる快楽を得ようとする感覚は、これらを無残なことだと考える。このような場に人を置くべきでないと感じる。そしてそこから利益を得ることを卑怯なことだと感じる。そのような状況をBが、それがBにとってやむにやまれぬものであっても、利用すること。さらにBが、自分の中の何かを変えることなく(自分から切り離すことのできるbを譲渡することによって)aを得る、あるいはAにこのようなあり方をとらせること自体を目的とすること(この時、BはAを支配している)。このような場合に、たしかにBはAを自らの欲望によって制御したのであり、Aが自らに受領されるものとしてあるものをあえて制御し譲渡し失うことによってはじめてbを得ることができるのだとすれば、Bのなすことは不当なのである。他者を認める、あるいは他者から快楽を得ようとする感覚は、これらに対して抵抗する。
 では「抵抗する」として、規範的には何が主張されるのか。次のように著者は言う。譲渡しがたいものを譲渡せざるを得ないという決定をしないことを大切なことだし考え、自己決定を含めたその人のありようが大切なことだと考えるのであれば、決定すること(そして決定しないということを決定すること)も含めて生きることができる条件があることが前提になる。つまり私的所有権としての自己決定権を否定し、両者を切り離すことが必要になる。私的所有の原理の内部では、私の行える行いだけについて私が決定できるのであり、私の持ち物と交換して得られるものによって行わせることが認められるのだが、ここで主張されるのは、そういうことではなく、私があること、そしてその一部である私の自己決定を端的に認めさせることである。その自己決定の困難は生きるための、そして自己決定するための資源が十分でないことに関わる。自己所有と自己決定を等価とする誤解は、この点を考慮せず、自らの働きによって得たものや与えられたものだけが決定の対象となるから、自らの働きによって十分なだけを得られない者の決定を阻害することになる。例えば、身体障害者が自分でできず他者の力を借りなければならないことについては、自己決定できないことになってしまう。稼げず金のない人は病気になって死んでもよいということになる。
 そこで、自己決定のために人が得ることのできる範囲は、人並みに生きられるだけのもの(それは身体等々の状況によって変わる)であると著者は言う。ただし、具体的にどれだけのものになるかは、一義的に決めることはできない。一人一人の具体的な決定を具体的に実現していくかが考えるべきことだという。
 以上が、本書の中心的な主張と、続く諸章では具体的な場面での議論が考察される。

2024年6月15日 (土)

立岩真也「私的所有論」(4)~第3章 批判はどこまで

 この章では私的所有を正当化する論理が二つ紹介され、
 それぞれ検証されます。その前に、正当化とはどういうことかの内容として、私の身体が私のもとにあること、私が身体のもとにあること、また意のままに私が身体を使えること、これらの事実と、その身体を他者に使用させず、私の意のまま動かしてよい、処分してもよいというルールとは次元が異なることで、その二つをいかに結びつけるか、ということだ。
 そのひとつは近代的な規範による正当化だ。その規範の特徴として、次の三点があげられる。第一に個人単位に財に対する権利が配分されていること。第二に、配分されたものについて独占的で自由な処分が認められること、第三に、その権利は、ある者が実際にあるものを所持している、利用しているといった具体性から離れていることだ。実際の場面で、これらがすべて成立するとは必ずしも言えない。では、その正当化とは端的どういうことかというと、典型的なものがジョン・ロックによるものだが、自己労働→自己所有という図式である。端的に言うと、Aがaを作ったゆえに、aはAのものどなる、ということだ。このとき身体は出発となる。つまり、私が自分の身体で作ったものだから、それは私が自由に処分していいというわけだ。著者は、これを自己制御→自己所有と図式化している。これに対する批判として、はたしてAがaをつくったと全面的に言えないということがある。例えば作るための原材料はどこからか拾ってきたとしたら、それはAが作ったとは言えない。自分の身体は自分が作り出したのではないから、これでは自分のものとは言えないことになってしまう。そしてさらに、仮に、自分で作ったり、制御できとしても、それが所有していることになる根拠は、どこにもない。だから、Aがaを作ったゆえに、aはAのものどなるというのは根拠ではなく、これ以上遡れないという出発点なのだ。「結局のところ、『自分が作ったものを自分のものにしたい」」と言っているにすぎない、と指摘される。
 それは、次のように図式化できる。自分に内蔵するものを基点とし、それに起因する結果が自分のものとして取得され、その取得したものが自らを示す。それが「私」という主体に因果の開始点、判断・決定の基点を認める。私が第一のものであり、それ以外のものは、その外側に在って私に制御されるものである。これは近代の社会のなかで作動するメカニズムであり、人々の意識の土台になっている。
 著者がこの原理を疑うのは、この原理から、「自己決定能力をもつことが『人格』であることの要件とされる。能力に応じた配分が正当とされる。自己決定なら、合意があれば、全てが許容されることになる」、という三つの「帰結」がもたらされるからである。ここで想定されているのは、能力が相対的に劣る人、自己決定能力がないとされる人々である。それに対して、本書の問いを駆動するのは、「こうした帰結を受け入れられないという感覚」である。
 もうひとつの正当化は、帰結主義的な正当化である。つまり、「私のものは私のもの」という私的所有の観念はそれ以上の根拠づけできないのだから、いったんそれを是として、そのことから帰結する結果のメリットの大きさから正当なものと認めようというもの。要するに、人は、誰も自分に得るものがなければ働かない、だから生産者が取得する方が生産性の維持向上にとって「有利」だ、という議論である。人は、自身が得られるものを予期しながら、自己にとって有利になるような行為を行おうとする。自分の行為の活用は自身によって為されている、人は自らの行為を制御することができる、というのがその前提となる。これは、その身体・力能がどこからきたのか、それが本来その者のものかどうかということとは別のことである。そこに能力主義が現われる。身体と精神、その力能の行使の自己所有が有利であり、自己の利得を増やすことになるという。これは次のような構造になっている。①その人AにAの資源aⅰ(能力・身体…)があり、それは他者Bに移すことができない。②そのある部分について、Aだけがそれを使うか使わないか、行為を実行するかどうかを決めることができる。他方、Bは直接的に決めることはできない。③さらにaⅰのあるものについてAだけがそれを増やしたり増やさなかったりすることができ、Bは直接的にそれをすることができない。④Aにはaⅰを行うことと成果bをえることについて欲求の関数がある。
 Aはbをできるだけ多く、しかしaⅰをできるだけ少なくしたい。
 これに対してaⅰを必要とするBは⑤対価を支払うというかたちでAの関数に働きかけるとことによって、aⅰを使いⅰを提供することを促す。
次に、有利さとはどのような有利さなのかについては、①②③④が充たされている場合、第一にそのものが本人のもとにだけあるものであること、第二に当人だけが出し惜しみできる、それを行うかどうかの選択ができること。第三に、当人が自らの資源を管理し、増やすことができることである。
 ここで、この自由にできる資源の差が能力の違いということになる。そして、問題は手持ちの資源が平均以下の全体の判断の人たちにとっては、このシステムは不利益にものとなる。また、各自が能力と関係なく均等に利益を配分されるようなら全体の意欲が失われ、生産が増えないということだ。しかし。現実に人の欲望の関数を認め、他者の行為の取得の欲望を認めるなら、①②の条件が成立している限りにおいて能力主義を阻止することは現実には困難だ。あるいは、たまたま体が、あるいは頭がうまく働かないように生まれてきた者、つまり障害者であるような人は、こうした社会では生きられないことになる。
 ただし、このようなことはシステムを管理する者がいないと維持できない。いわゆる「共有地の悲劇」である。仮に、労働の成果を私有させることが効果的であるとしても、農地や工場といった生産インフラは①を満たすものではない。資源を゜所有していても、その配分は別問題。これらについては、頻繁に所有権を移すことはよろしくない(効率的ではない)。人は自身の身体の所有を移すことはできない。つまり、自らの生産物の私的所有について、その効能による正当化は、あるものをその人しか使えない、例えばその人しかその人自身の身体を動かせないという事実に依拠しているということであり、その条件を満たさないものについては、共有により私有が有効であるとしても、それをどのように配分すべきは関係ないということである。
 その土台となり、自由主義と対置される平等や公平という考え方である。これが正当性に対する批判として機能してきた。著者は功利主義的な資源の配分では正当性を得られないという。例えば、社会の幸福の増進に有益な人間のために無益な人間を犠牲にしていいのかという問題が付きまとう。
 この章をまとめると、私の作ったものは私のものであるという言明は、まず一つの信念として存在し、その理由は何かと問われるとそれ以上言うことがない。何か言おうとすると、その効果・意義を言うことになる。限定された範囲、私だけが行い、私だけが作ることのできるものについては、私的所有の有効性を言うことはたしかにできた。しかし、私が作った、あるいは私に与えられた私の能力の移動可能性を前提するなら、今度はそれを私のもとに置くことが正当化されない。例えば、身体の自己所有は正当化されない。この前提をさらに根拠づけようとすると、それを根拠づける者は何もないので、身体は自己のものだと言えなくなる。このことは、自己の身体が他者によって奪われてはならないという感覚もまた正当化されないことを意味する。しんーかし、これは私たちの感覚に反する。私は身体に対する侵害を認めない。つまり、身体に対する自己決定を言う。これは私的所有全般を肯定しない人でも、同じ主張をするだろう。そこで、処分権としての所有と身体の自己所有との間に差がある。そこで、第3章では、身体の譲渡や使用に対する抵抗について言われていることを検討する。

2024年6月14日 (金)

立岩真也「私的所有論」(3)~第2章 私的所有の無根拠と根拠

 この章では私的所有を正当化する論理が二つ紹介され、
 それぞれ検証されます。その前に、正当化とはどういうことかの内容として、私の身体が私のもとにあること、私が身体のもとにあること、また意のままに私が身体を使えること、これらの事実と、その身体を他者に使用させず、私の意のまま動かしてよい、処分してもよいというルールとは次元が異なることで、その二つをいかに結びつけるか、ということだ。
 そのひとつは近代的な規範による正当化だ。その規範の特徴として、次の三点があげられる。第一に個人単位に財に対する権利が配分されていること。、第二に、配分されたものについて独占的で自由な処分が認められること、第三に、その権利は、ある者が実際にあるものを所持している、利用しているといった具体性から離れていることだ。実際の場面で、これらがすべて成立するとは必ずしも言えない。では、その正当化とは端的どういうことかというと、典型的なものがジョン・ロックによるものだが、自己労働→自己所有という図式である。端的に言うと、Aがaを作ったゆえに、aはAのものどなる、ということだ。このとき身体は出発となる。つまり、私が自分の身体で作ったものだから、それは私が自由に処分していいというわけだ。著者は、これを自己制御→自己所有と図式化している。これに対する批判として、はたしてAがaをつくったと全面的に言えないということがある。例えば作るための原材料はどこからか拾ってきたとしたら、それはAが作ったとは言えない。自分の身体は自分が作り出したのではないから、これでは自分のものとは言えないことになってしまう。そしてさらに、仮に、自分で作ったり、制御できとしても、それが所有していることになる根拠は、どこにもない。だから、Aがaを作ったゆえに、aはAのものどなるというのは根拠ではなく、これ以上遡れないという出発点なのだ。「結局のところ、『自分が作ったものを自分のものにしたい」」と言っているにすぎない、と指摘される。
 それは、次のように図式化できる。自分に内蔵するものを基点とし、それに起因する結果が自分のものとして取得され、その取得したものが自らを示す。それが「私」という主体に因果の開始点、判断・決定の基点を認める。私が第一のものであり、それ以外のものは、その外側に在って私に制御されるものである。これは近代の社会のなかで作動するメカニズムであり、人々の意識の土台になっている。
 著者がこの原理を疑うのは、この原理から、「自己決定能力をもつことが『人格』であることの要件とされる。能力に応じた配分が正当とされる。自己決定なら、合意があれば、全てが許容されることになる」、という三つの「帰結」がもたらされるからである。ここで想定されているのは、能力が相対的に劣る人、自己決定能力がないとされる人々である。それに対して、本書の問いを駆動するのは、「こうした帰結を受け入れられないという感覚」である。
 もうひとつの正当化は、帰結主義的な正当化である。つまり、「私のものは私のもの」という私的所有の観念はそれ以上の根拠づけできないのだから、いったんそれを是として、そのことから帰結する結果のメリットの大きさから正当なものと認めようというもの。要するに、人は、誰も自分に得るものがなければ働かない、だから生産者が取得する方が生産性の維持向上にとって「有利」だ、という議論である。人は、自身が得られるものを予期しながら、自己にとって有利になるような行為を行おうとする。自分の行為の活用は自身によって為されている、人は自らの行為を制御することができる、というのがその前提となる。これは、その身体・力能がどこからきたのか、それが本来その者のものかどうかということとは別のことである。そこに能力主義が現われる。身体と精神、その力能の行使の自己所有が有利であり、自己の利得を増やすことになるという。これは次のような構造になっている。①その人AにAの資源aⅰ(能力・身体…)があり、それは他者Bに移すことができない。②そのある部分について、Aだけがそれを使うか使わないか、行為を実行するかどうかを決めることができる。他方、Bは直接的に決めることはできない。③さらにaⅰのあるものについてAだけがそれを増やしたり増やさなかったりすることができ、Bは直接的にそれをすることができない。④Aにはaⅰを行うことと成果bをえることについて欲求の関数がある。
 Aはbをできるだけ多く、しかしaⅰをできるだけ少なくしたい。
これに対してaⅰを必要とするBは⑤対価を支払うというかたちでAの関数に働きかけるとことによって、aⅰを使いⅰを提供することを促す。
次に、有利さとはどのような有利さなのかについては、①②③④が充たされている場合、第一にそのものが本人のもとにだけあるものであること、第二に当人だけが出し惜しみできる、それを行うかどうかの選択ができること。第三に、当人が自らの資源を管理し、増やすことができることである。
 ここで、この自由にできる資源の差が能力の違いということになる。そして、問題は手持ちの資源が平均以下の全体の判断の人たちにとっては、このシステムは不利益にものとなる。また、各自が能力と関係なく均等に利益を配分されるようなら全体の意欲が失われ、生産が増えないということだ。しかし。現実に人の欲望の関数を認め、他者の行為の取得の欲望を認めるなら、①②の条件が成立している限りにおいて能力主義を阻止することは現実には困難だ。あるいは、、たまたま体が、あるいは頭がうまく働かないように生まれてきた者、つまり障害者であるような人は、こうした社会では生きられないことになる。
 ただし、このようなことはシステムを管理する者がいないと維持できない。いわゆる「共有地の悲劇」である。仮に、労働の成果を私有させることが効果的であるとしても、農地や工場といった生産インフラは①を満たすものではない。資源を゜所有していても、その配分は別問題。これらについては、頻繁に所有権を移すことはよろしくない(効率的ではない)。人は自身の身体の所有を移すことはできない。つまり、自らの生産物の私的所有について、その効能による正当化は、あるものをその人しか使えない、例えばその人しかその人自身の身体を動かせないという事実に依拠しているということであり、その条件を満たさないものについては、共有により私有が有効であるとしても、それをどのように配分すべきは関係ないということである。
 その土台となり、自由主義と対置される平等や公平という考え方である。これが正当性に対する批判として機能してきた。著者は功利主義的な資源の配分では正当性を得られないという。例えば、社会の幸福の増進に有益な人間のために無益な人間を犠牲にしていいのかという問題が付きまとう。
 この章をまとめると、私の作ったものは私のものであるという言明は、まず一つの信念として存在し、その理由は何かと問われるとそれ以上言うことがない。何か言おうとすると、その効果・意義を言うことになる。限定された範囲、私だけが行い、私だけが作ることのできるものについては、私的所有の有効性を言うことはたしかにできた。しかし、私が作った、あるいは私に与えられた私の能力の移動可能性を前提するなら、今度はそれを私のもとに置くことが正当化されない。例えば、身体の自己所有は正当化されない。この前提をさらに根拠づけようとすると、それを根拠づける者は何もないので、身体は自己のものだと言えなくなる。このことは、自己の身体が他者によって奪われてはならないという感覚もまた正当化されないことを意味する。しんーかし、これは私たちの感覚に反する。私は身体に対する侵害を認めない。つまり、身体に対する自己決定を言う。これは私的所有全般を肯定しない人でも、同じ主張をするだろう。そこで、処分権としての所有と身体の自己所有との間に差がある。そこで、第3章では、身体の譲渡や使用に対する抵抗について言われていることを検討する。

2024年6月13日 (木)

立岩真也「私的所有論」(2)~第1章 私的所有という主題

 第1章は総論として、本書の基本的姿勢と、議論の基本的方向性を概観する。
 近代的な意味での所有権というのは、単に所持する権利ではなく処分権であるという。あるものを所有することと、その物をどのように扱う(例えば、売却する、廃棄する)こととは同じものである。
 この決めるということに関して、話題は「自己決定」にとぶ。自己決定とは「自分のことは自分で決める」ということだ。ふつう、この「自分のこと」ば自明とされている。本書は、その「自分のこと」とは何かを問う。そこで私的所有が考察されるべきものとしてあらわれる。決めるということは所有することでもあるからだ。私的所有とは私が所有することである。その限りでは、私の身体も私が所有するといえる。それなら、私は私の身体を自由に処分することができると言い切ることができるのか。そのことが、所有というものを逆照射することになる。端的には、所有=処分ということに対して、私は私の身体を自由に処分することができるかということは反証になりうる。例えば、中絶、安楽死など、本人の意志だけで許されるのか。
 もし、身体が自身のものであるなら、身体を自由に処分したり譲渡したりすることが許されることになる。仮に、この私の所有しているパソコンを譲渡するのと同じように、身体を自身が所有しているというのなら、相手との間で合意が成立すれば、身体を譲渡することについて、誰も強制されてはおらず、不利益にもならない。しかし、それに対して抵抗がでてくる。その反対は、この自己所有=自己決定という論理の外からくるという。それは、中絶や安楽死の議論は実際そうである。つまりそれは、「私が作りだし私が制御するものが私のものであり、私を表示するものであり、そのような行いを行うことが人が人でありも人であることの価値である」という近代社会の基本的な原則とされているものとは別の価値観で反対が述べられるのだ。ただしそれは、すべて肯定か否定かの選択ではなく、あるものについては自己所有・自己決定を認めるか、すべてについてはそう思ってはいないという認められるものとそうでないものとを分けるという考え方だ。そこで、問題となるのは両者の境界をどこで引くかということ。
 これらを、そもそも論ではなく、具体的な現実の場面に即して考えていくというのが本書の立場だという。

2024年6月12日 (水)

立岩真也「私的所有論」

11114_20240612234301  文庫本だけど本文が800ページ、注を含めると1000ページ近くなるため、見た目は立方体。下手なハードカバーより重い。よくまあ、こんなの文庫本にすると思ったら価格を抑えるためだという。しかし、この本は何度も繰り返し読み返すことを要求するようなところがあり、文庫本では、すぐにボロボロになってしまいそう。実際、膨大な分量だけでなく、読み易いものではない。読んでいて、もうちょっと整理しろよ、と愚痴をこぼしたくなることもしばしば。でも、それだけ著者は考えているのを、そのままストレートに表出しているともいえる。これは、取り上げていることが一筋縄ではいかない、スッキリとできないもので、それをそのまま出しているし、著者はそれに直面して、行きつ戻りつし、立ち止まり、またある時は場面を変えたりしている(実際、読んでいて、前に述べたところを読み返してから、またもどって読み直すところがたびたびある。そのたびに、その前に読んだところの捉え方が変わってしまうので、読んでいるうちに全体の筋が分からなくなる)。それが、そのまま記されているようなところがある。この中で、こうだと断言していない(できない)ので、読んでいて、結論はどうなんだ、と請求したくなるが、現実にこの問題に直面した時に、一義的に結論を出せず、その場で逡巡しながら決断せざるをえないのを、そのまま読んでいる読者にも、自分で考えろ、と投げかけているところがある。
 本書のタイトルは「私的所有論」だが、中心的に述べられているのは「自己決定」についてだ。「自分のことは、他人に決められるのではなく、自分で決めるのが当たり前だ」といえば、直観的にそれはそうだという気がするが、よく考えてみると、そうしたスローガンを叫ぶだけでは片づかない問題がいくらでもある。ある人の自己決定と他の人の自己決定とが抵触する場合にはどうすべきか、自己決定が自己責任と表裏一体だとしたら、それはむしろ本人にとって辛いことになる。例えば、身体障害者が外出したいと思っても、他者の手を借りなければならない、そのとき自己責任と自己決定が遊離する。また、母胎の中絶について、自分のことは自分で決めるのが当たり前と言い得るか。そこで私的所有。自分のものは自分でどうしようと自分の勝手だ。決定と所有は切り離せないというわけ。しかし、この原理はそれ以上根拠づけることはできない、そうであるべきだという信念であり、規範命題にすぎない。それで、自分が作ったもの、自分が制御するものを自分のものであるということは必ずしも正当化されないとする。自分で制御できると所有すること、そして決定することの境い目(例えば、身体障害者が自分の身体を完全には制御できないだろう、だけど身体は自身のものである)を、そこで著者は探っていく。それが本書の作業であろう。

 

2024年6月10日 (月)

貴田庄「小津安二郎と「東京物語」」

11114_20240610233301 著者の「小津安二郎と七人の監督」を読み、手に取ってみた。「東京物語」はどのように完成したのか。脚本はどのように書かれたのか、撮影はどのように進められたのか。当時の小津の日記や俳優・スタッフの証言、雑誌記事などから明らかにする。たしかに、小津が脚本家の野田と旅館に缶詰になって、どんなスケジュールで仕上げていったとか、撮影はどのようなシーンから行っていったとか、詳細に説明されている。知識としては収穫のあるものだと思う。これは、いわゆるファンとかオタクと呼ばれる人たちが、関連グッズを蒐集するのと似ている。ということで、グッズに興味のない私には、そういう知識には興味がない。例えば、脚本はどのように書かれたのか、ということなら、コンテをつくったりして視覚的な場面からなのか、ストーリーからなのか、キャラからなのかといった基本的なつくりを知りたい。「東京物語」もそうだが、いわゆる小津調の映画は、あれだけ沢山の短いショットをつなげて、そのつなぎのリズムが映画のアクションを生み出したり、劇的効果を作り出したりする。そのためには、他の監督よりも沢山のショットを撮影しなければならない。それを、他の監督と変わらぬ日数で制作してしまうわけだが、そのためには、どのような設計、つまり、脚本段階から見越して設計図をつくっているのか、脚本ができてから撮影プランを作るのか、私には、小津の映画は科白の意味内容よりは、視覚的な掛け合いで映画が進んでいくので、映像から発想されているのではないかと想像している。このように、「東京物語」を見るについて、これまで自分が見てきたのとは違う見方、あるいはこれまでの見方でより深く味わうためのきっかけとなるようなことだ。たぶん、黒澤明とは、作り方の発想がまったく異質のように思う。そういうことの知識は、とても知りたいと思う。

2024年6月 8日 (土)

絲山秋子「御社のチャラ男」

11115_20240608001301  『御社のチャラ男』は、地方の小さな食品会社の人間模様を描いた短編集。「チャラ男」と呼ばれるのは、部長の三芳道造。社内、社外を問わず彼を知る人間がチャラ男について自分のエピソードとともに語っていく。そんな構成なので、読み進めるとパズルのピースがはまるように、チャラ男の人間像が分かってくる。「チャラ男」はどこの会社にもいそうな、軽くて世渡り上手、そのくせ仕事をしない。タイトルがそうだから、チャラ男をいわばトリックスターにして、地方の小さな会社の日常をユーモラスに描く小説の類かと思って読み進めていくと、たしかにそういう面もないわけではないのだが、ふつう、それなら最後に種明かしとして、当のチャラ男による語りが全体の中間あたりで出てきて、物語は会社の日常風景から少しずつ動き始める。チャラ男自身は、自分が嫌われていること、才能がないこと、何よりも自分自身がない、寂しい人間であるということを自覚していることが明らかになる。そこで、チャラ男はトリックスターから一人の存在感をもった人間に変わる。同時に、これまで登場した語り手たちはひとりとしてステロタイプでなく、それぞれの語りがモノローグであることに気づく。彼らの語りは、ブレるし、その定まりなさが、モノローグであるにもかかわらず、それぞれの語りに影響を及ぼしていく。そして、変わらないはずの語り手たちの関係や立ち位置が動き始め、最後には、ささいなきっかけから会社が第三者の手に渡ってしまう。
 これを読んでいて、二人の人物の独白なのだが、それぞれの思いが全くのすれ違いになるというジョン・ファウルズの『コレクター』という小説を思い出した。『御社のチャラ男』は何人もの関係者が独白をするので、関係は複雑になるのだが、それだけに関係そのものの動きが小説の物語となる。軽さを帯びた文体で書かれているのと、最後は会社が人手にわたるのが一種の解放としても捉えられるので、読みやすい小説ではある。

 

2024年6月 6日 (木)

南直哉「超越と実存─「無常」をめぐる仏教史」(7)~第3部 日本─「ありのまま」から「観無常」へ

 日本産思想の特色は、『古事記』以来、実体論や超越的理念を核心とする形而上学的思考を必要としない態度が通底していることである。その思想的な基軸は、地縁血縁を基盤として構成された、共同体の現状維持を目的とする「ありのまま」肯定主義ともいうべきアイデアである。簡単に説明すると、こういうことだ。『古事記』では、天地の始めについて、『旧約聖書』は神がすべてを創造したと明確に述べていたのと違って、何が大地を発したのか、何が天地になったのか説明はなく、人間が現に見ている天と地は最初からそういうものとして現われていたものとなっている。神々の住地である高天原も最初から、そこにあった。神もまた、どういうわけかそこに自然にいた。それらの存在根拠も存在理由も比定しえ、いかなる理念も語られない。このような『古事記』の特徴はアニミズムによく見られるものである。自然発生的な地縁血縁共同体の由来を説明し、その秩序を正当化する言説ということだ。地縁と血縁で共同体を組織し秩序づけるなら、特定の血筋や土地を組織原理や秩序原理として設定しなければならない。となると、共同体の安定は特定の血筋や土地の維持にかかるから、それらが「変わらず」「そのまま」続いていくことが重要となる。また、共同体のメンバーにとっては、そこで生まれたという事実それ自体が、彼らの存在根拠になる。地縁と血縁が共同体の原理ならば、そこに生まれた事実は、アニミズムの言説によって原理的に肯定されるのである。この状況は。全く異質な共同体の大規模な侵入や征服がない限り、根本的に変化することはない。異質な共同体との相克が。初めて地縁血縁とは別の、自らの存在根拠を設定する必要を生じさせる。これが形而上学成立の重要な条件である。しかし、大陸と海を隔てた日本列島の共同体は、地縁血縁を原理とする組織構成や秩序構築の持続が可能であったゆえに、繋辞時洋学は無用であり、「そのまま」「ありのまま」の現状肯定的アイデアが『古事記』後の思想的言説の根底に、常に強力に作用し続けることになる。それが、著者の言う「ありのまま」肯定主義の源である。
 そんな日本に無常という「ありのまま」を否定する仏教が渡来しても、相容れるはずがなく、当時の為政者の間で現世的利益をもたらす先進文明の伝来であり、仏教が仏教として自覚されなかった。平安時代になって、最澄と空海によって初めて仏教が思想として認識されたのだった。とはいっても、地縁血縁共同体に規定された実存が超越的念を吸収して、「ありのまま」の中に溶解し、「ありのまま」こそが真理として超越化する。さらに言えば、吸収され得る超越的理念、つまり、「ありのまま」が真理として超越的理念化するという変質を経た日本オリジナルと言い得るような形而上学としてだった。「ありのまま」主義に親和的なものに変質させられて、はじめて受け容れられたというわけだ。
 しかし、平安末期の社会情勢は「ありのまま」を肯定できる状況ではなくなりつつあった。従来の共同体の体制の秩序が大きく動揺し、共同体がメンバーの実存を包摂しきれなくなった、つまり不安定な個人が社会の全面に現われるようになった。そこに鎌倉新仏教が生まれてくる。その先陣を切ったのが法然だった。大乗仏教が真理ならば、それが一切衆生をすべて成仏させうる教えである以上、どのような凡夫も成仏できる方法を提示できなければならない、と法然は考える一切衆生を成仏させる、させなければならない、という思想的大前提から彼が方法として導き出したのが、浄土教であり称名念仏なのだ。誰もが成仏できる方法は、誰にでも可能な方法でなくてはならない。したがって、彼の考える念仏は念仏者自身の努力(自力)ではなく、必ず衆生を成仏させるという阿弥陀仏の本願(他力)によって効果が保証される。つまり、阿弥陀如来は誰でも成仏させることができるという絶対的救済力を持つ超越的存在として出現するのだ。その絶対的救済力は、通常の教えでは救済され難い者にまで及んではじめて、その絶対性が実感となる。法然版の悪人正機説である。実際、救済力の絶対性そのものは、凡夫に認知できるわけがなく、それは自らの凡夫性(相対性)の根源的で際限ない自覚から、いわば反照的に感受されるほかない。悪人とは、その凡夫性である。そうすると、悪人としての実存の把握は、原罪の考え方に近く、きわめて一神教的である。このような一神教のパラダイムは、「ありのまま」肯定の思想傾向とは相容れない。最優先するのは念仏であり、個々の生活状況などは一切眼中になく、やがては身分の無視に及ぶ。彼は、念仏による往生が、唯一かつ最高の成仏の道であると言い切った。しかしながら、法然のアイデアと一神教には決定的な相違点がある。それは「審判」の不在である。法然思想では、念仏しさえすれば誰でも成仏し、救済されるということになる。すると、死後に漏れなく来世で絶対的に救済されるなら、生前現世では「ありのまま」でよいではないか、という発想が現われてくる。それが、法然の限界でもある。
 その限界を突破したのが親鸞と道元であると著者は言う。しかし、それは「ありのまま」を否定して超越的形而上学を打ち立てたのではなかった。そもそも、ゴーダマ・ブッダの根本思想は、形而上学的な思想と相容れないばかりか、「ありのまま」を肯定しない。ところが、それと同時に、「ありのまま」主義の思想風土は、本来形而上学を必要としなかった。ならば、超越的理念や実体論的思想と正面から対決した上でそれを解体し、無常・無我・無記・縁起の思想を確保する言説が、日本に現われる可能性も必然性もある筈である。その言説こそ、親鸞と道元の思想と実践であり、ブッダの日本における形而上ならぬ形而外学であり、ブッダの根本思想の捉え直しだと著者は言う。
 親鸞は阿弥陀如来の本願の力を信じることができるかどうか、を問題にした。それは、法然の信じれば救われるへの根本的な疑念である。それでも「信じる」ことが可能なら、それは自分の力ではなく、他者の力によって「信じさせられる」ことによってである。信じることが可能になり、また真実の心を聞くことができるのも、すべて阿弥陀如来の力によってだと親鸞は言う。これが彼の「他力」というアイデアなのだ。ということは、無邪気に「念仏すれば必ず往生できる」と信じる者は、その意識が「自力」のうちにとどまり、「他力」に依らない。すなわち、「信じる者は救われる」という因果関係を前提にするなら、結局それは努力と成果の取引なのであり、阿弥陀如来の本願の力を疑うことになる。しかし、ここまで「信じる」行為を問うなら、次に出てくる問題は、自分の「信じる」行為が、正しく如来の力でなされているものだと、どうして分かるのかということである。分かるはずがない。実際は、如来の力によって自分は信じているのだと、そう「信じる」に過ぎない。すると、「信じる」ことへの問いは無限遡及に陥る。親鸞において、「信じる」行為それ自体が主題化してくる必然性はここにある。そして、主題化してしまった以上は。もはやそれは単純に「信じる」行為を不可能にするだろう。「信じるは何か」と問う人間が、同時に「信じる」ことは不可能である。親鸞と浄土教との間の深淵は、この「信じる」行為への問い、すなわち、その時点で「信じる」ことができなくなっている事態にある。彼の言う「悪人」とは、この「信じることができない」実存の根源的危機のことなのだ。親鸞の「悪人正機説」はこのような如来の本願を信じられない「悪人」でも果たして往生は可能なのかを問うものなのだ。「信じることができない」人間でも念仏により阿弥陀如来の本願による往生は可能となる。では、その念仏はどのように実行されるのか。阿弥陀の本願によって、「信じることができない」まま行う念仏とは、実際どういうものなのか。それは「信じる」行為そのものを脱落してしまうことによって行う念仏である。真に「他力」によるというなら、「信じる」「念仏する」行為に澱のように残らざるを得ない「自力」を、「信じる」行為は、「誰か」が「何か」を「信じる」という構造でしか発現しない。すると、その脱落は「信じる」主体を放棄し、「信じられる」対象を消去するだろう。このとき、念仏はただの音声、意味を理解する必要のない発言の連続になるのだ。意志的な、あるいは目的に向かう行為のない、自動的行為、それを親鸞は自然と呼ぶが、その自動的行為の駆動力が「如来の力」つまり本願なのである。これは「信じる」行為の断念を意味し、「信じる主体/信じられる対象」の実体的存在を前提とする超越路論的パラダイムを破壊する。阿弥陀如来が念仏者を成仏させようとして、その仏は「かたちもなく」存在するという。これはパラダイム破壊のゆえである。「かたち」があるなら、そこに「かたち」の認識がある筈で、それは「自力」だろうから。とすれば、超越的実体として存在する阿弥陀如来など認められないことになる。そこで親鸞は、これまで信じてきた阿弥陀如来は自然という存在の仕方を教えるための手段に過ぎないという。このようにして、信じる主体も信じられる対象も消失すれば、念仏も意味も喪失する。事ここに至って言えることは、親鸞のアイデアか、かろうじて仏教の範疇に留まっていた法然の浄土思想を突破し、それが内包する超越的理念を悉く念仏という行為に落とし込み、消失してしまったのである。親鸞に結実した思想は、人間という「無常」の実存を、超越的理念によって根拠づける形而上学ではない。むしろ、無意味な念仏、すなわちそれ自体無常の称名行為において自覚的に受容するという、形而外学である。
 一方、道元はブッダの根本思想への回帰を直接意志して形而外学を構築した。道元の出家において「無常」は重要なテーマであった。彼の思想と実践の核心には無常を観ずる心すなわち「観無常」があり、そこから一切を導くべきと考えていた。彼は天台本学思想の「本来本法性、天然自性身」つまり、我々は本来悟っているのであり、この身がそのまま真理だという「ありのまま主義」的形而上学を棄却しようとした。道元は、中国に留学し天童如浄に師事する。天童如浄が「参禅は身心脱落なり」と言ったと、道元は書き留めている。これは、天台的な「心塵脱落」と似ているが違うものだ。この場合の「身心」とは、自意識を持って実存する日常的な「自己」の在り方のことだ。日常的な「自己」の在り方とは、「自分がいる」という確信、言い換えれば、「自己」が根拠を持ってそれ自体で存在すると思い込んでいる事態である。「脱落」とは、この錯覚から脱却することで、そこでは身心の脱落として坐禅が検討されることになる。ところが、道元は「身心脱落」がどういう状態であるかを具体的には何も語っていない。著者は、「身心脱落」は坐禅中に発生する特異な心身状態を意味しているのではないという。さうではなくて、道元の中国留学中の修行体験の全体、さらにそれによって彼が会得した、ものの見方・考え方、自己と世界の存在についての認識や見解を総括するアイデアだという。そこで、坐禅は「身心脱落」の重要な一部で、彼の思想と実践の土台・基盤なのだという。坐禅中は、意識のレベルを最小限に低減させ、意識の現実態である言語作用を極力停止して、成仏や悟りなどの目的を設定するような作為をしてはならない。ただし、それは単純な思考停止状態ではない。意識と言語作用の絞り込みによって、自意識をが解体された状態に直面し、それを覚知する。この心身の事態が「非思量」である。この「非思量」の坐禅によって分かるのは、自意識を一定の身体技法で解体できると言うことである。ならば、それは「自己」の在り方は行為の仕方に規定されている、ということである。「自己」は、そう名付けられた、人間の実存が採用せざるを得ない。ある特別な行為の様式なのである。行為が規定するのは行為する主体だけではない。同時に行為の対象の在り方を規定する。ところで、主体と対象それ自体がまず存在していて、しかる後に行為が発動するのではない。発動している行為が、主体と対象を構成するのだ。このように解釈されるとき、行為は「縁起」を意味する。このとき「悟り」も「涅槃」も現実的には何であるか認識不能だから、「成仏」は「自己」にはできない。「自己」に可能なのは、「仏になろうと修業し続ける」主体として実存することである。すなわち、「仏」は「仏となろうとする」主体の実存様式である以外に、現実化しないのだ。したがって、修行者が「成仏」したり「悟る」ことはない。何故なら、ある時点で「成仏した」「悟った」と「わかった」瞬間、それが認識である以上は観念化するわけで、結果は超越理念として扱われるからである。それは「観無常」の立場が許容しない事態である。そうなると、成り行きは、「成仏」「悟り」が無限遠に後退し、現実的に無効になり、修行や坐禅は事実上、ただ坐禅する、ただ修業する、ということになる。「成仏」と「悟り」は坐禅・修業という行為そのものへと脱落されるのだ。

2024年6月 5日 (水)

南直哉「超越と実存─「無常」をめぐる仏教史」(6)~第2部 中国─超越論思想としての中国仏教

 仏教はインドから東方に広まっていった。その一つの方向が中国を経て日本に伝わるというルートである。中国における仏教の展開にとって決定的な問題は、この地にすでに形而上学が存在していたことである。の代表が孔孟の思想と老荘の思想である。これらの中国の形而上学の特色は、超越的理念を持ちながら、人格性を帯びた「絶対神」的観念をもたないこと、そして、「死後の世界」や「前世」「末世」などといった現実世界とは別の世界の設定に関心を示さないことがあげられる。極端なことを言えば、中国には宗教がなかったのである。孔子や孟子は「天」に言及し、老子や荘子は「道」を説くが、これらは人間的な実存を想定する現実の構造を説明するための根本理念であった。
 中国への仏教の伝来は経典の翻訳から始まった。このとき、「空」の観念は老荘の「無」によって解釈される。それは諸存在の非実体性を指摘するのではなく、存在を究極的に根拠づけるものとなる。そして実体化される。それは、ひとつは、竜樹の批判した言語化されたものとして中国に伝播したということと、言語の翻訳により、中国語化され、ということはもともとの中国文化の形而上学の枠組みで捉えられたのだった。
 この枠組みとは、次のようなものだ。例えば、極めて限定的な範囲に孤立して存在する地縁血縁共同体で人間が生活するというのなら、基本的にアニミズム的思想で実存を解釈して、個々の人間はその解釈から導かれたルールと秩序に従って身を処せればよいだけである。彼らの実存は共同体に埋没するから、個人と共同体の関係そのものを問う視点は必要なく、視点を提供する理念も生まれない。ところが、地域的孤立が成立しがたい中国大陸では、個人・家族・親族のあり方を規定する地域・民族・国家という、地縁血縁共同体を超える上位共同体があり、しかもこれが安定しない。王朝や支配民族の度重なる興亡と交代があり、そのたびに上位共同体は崩壊と興隆を繰り返す。したがって、個人は、みずからの実存と共同体の関係を意識せざるをえず、崩壊と興隆の原理や法則に関心に持つことになる。孔子は、権力者に仁と徳による政治を行わせ、それによって人道的で安定した社会を実現することを目指し、その根拠として「天」の理念を提示した。孔孟の形而上学は、あくまで人間の現実的生活に焦点があり、それを根拠づけるものとして超越的理念が持ち出されるにすぎず、概念自体の思想的・論理的展開は乏しい。その意味では、仏教の考え方とは異質なものだった。
 一方、老荘の思想は中国における仏教受容に決定的な影響を及ぼした。仏教伝来の初期において、老子の思想的観念を利用して仏教を解釈したからである。その老子の形而上学的根本理念は「道」だ。「道」は言語での解釈を超えた超越的理念であり。言語化できるなら、それは「道」ではないとする。万物の根源であり、そこから名づけられる個々のものが生まれる。その「道」の創造的運動は、その超越性ゆえに我々には認識できない。「道」の運動と作用は、人間の認識に直接捉えられるほど顕在的なものではない。すべてのものは究極的存在である「有」から生成され、その究極的存在は我々の認識を超越する「道」である「無」から生じる。すると、この根源的実在からすれば、我々が認識可能な個々の存在は実体を持たない、仮設されたものということになり、つまりは虚構の存在なのだ。ということは、すべてのものは、「道」に帰趨するという意味で同一なのである。
 このような考え方はウパニシャドの思想や、それを取り込んだ密教の考え方に極めて近い。しかし、老荘の思想はインド思想が促すような実践、つまり超越的理念と一体化するような修業的行為は、一切排除した。そのような人為的作業を排して、超越的理念に随順することを志向する「無為」である。仏教は、これらの現実肯定的志向を持つ思想風土に強い影響を受ける。

南直哉「超越と実存─「無常」をめぐる仏教史」(6)~第4章 竜樹と無着・世親の思想

 ブッダの後の仏教が、ブッダが避けた方向に進み始めたことに対して、もともとのブッダの方向に戻れと主張する人々が現われる。竜樹である。彼はブッダ以来の無常・無我・無記・縁起そして空のアイデアを言語の問題として捉え直した。
 ブッダの教説、常に・不変で・それ自体で存在する実体の否定を、竜樹は言語批判という上座部の要素分割主義的理解とは別次元の手法を用いて、徹底的に行った。「無い」ということを証明することはできない。「無い」ことは、「ある」ことを原理的に証明できないことを示すか、「ある」と判断すると矛盾が生じることを指摘するしかない。たとえば、過去・現在・未来を貫通する「自己」それ自体は、昨日の自己と今日の自己と明日の自己の同一性を原理的に証明できない。またそれが「存在する」というなら、その判断はいつ、どこで誰がしたのかという問いが解決しない矛盾として残る。このような問い方は、あくまで「無い」ではなく「あるとは言えない」と主張しているにすぎない。「無い」ことの論証はできない。「無い」ことの主張は「有るとも言えず、無いともいえない」という有無の判断をもろとも無効化する方法で行うしかない。これがブッダの無記の論理である。竜樹は形而上学的な問いに対する無記を人間の認識一般にまで適用範囲を拡大した。我々は認識を言語によって行う。この言語というが、そもそも形而上学的に作動するものだからだ。そして、我々が使用する言語が正しく世界を認識していると考えるには、文字や音声による言葉の意味するものが、個々の事物や現象の在り方を規定する「実体」や「本質」なのだと断定しなければならない。そして、そのような言語の使用、つまり認識には、その正しさを保証する根拠がある、ということになるだろう。そうするとこれは、一方に「実体」的対象世界があり、他方にそれ自体で成立している認識主体がある、という形而上学的二元論のアイデアになる。竜樹は、このパラダイムを根源的な言語批判で撤廃する。そして、我々が通常理解している「自己」と「世界」が言語の作用による錯覚であり、実は無常で無我や空なのだと。竜樹は言う。唯識思想は、この竜樹のアイデアが源となり、存在を認識するのではなく認識が存在を生成するという無着や世親らによって成立した。しかし、このように精緻に理論化するとは、竜樹が批判する言語化することでもあるという危険を孕んでいた。唯識思想は、この竜樹のアイデアが源となり、存在を認識するのではなく認識が存在を生成するという無着や世親らによって成立した。
 唯識思想は、言語を言語で批判する結果、言語の埒外の領域を括り出し、これを「言語を超えた真理」と言い切ってしまえば、それはまさに形而上学的実体を呼び込むことになる。この危険を回避するには、言語化が必然的に引き起こす実体視に対して、禅定で確保された実存の視座から、言語による批判を不断に続ける以外にない。その徒労の切なさに耐えるしかない。歴史的には、インドではヒンドゥー教の侵蝕をうけ、仏教は衰退していった。

2024年6月 3日 (月)

南直哉「超越と実存─「無常」をめぐる仏教史」(5)~第3章 法華経、浄土経典、密教経典の思想

 『法華経』はブッタとその教えの絶対性を主張する。絶対性とは、普遍性(誰でも真理を悟って成仏できるという)と永遠性(ブッダの教えは歴史を超越して無限の過去から未来へと存在する)である。ところで、絶対性は、人間に理解可能な言語で表現されたり証明されたりことが、原理的にない。そこで、一神教はしばしば奇跡のエピソードを持ち出して、それを小委しようとする。『法華経』では、奇跡のかわりに「火宅」のような比喩話を持ち出す。この『法華経』の転回は、上座部が教説の前提とする歴史的実存としてのゴーダマ・ブッダを超越的理念的存在に転換して、修行者や信者に開放したことである。そして、修行して成仏するという基本パターンに法華経を信じる者は成仏できる授記というサポートを加えた。
 『浄土経典』は、法華経の場合のサポートを超え、極楽浄土という世界を主宰する現存の阿弥陀如来が教えを信じて浄土に生まれたい「往生」を願う衆生を招き入れ、人間世界の苦境の中では実践困難な修業の便宜を図って、最終的には浄土で成仏させる。その要件として南無阿弥陀仏をとなえる念仏により、救済の普遍性という一神教的世界が成立する。
 密教は、7世紀ごろヒンドゥー教の勃興に対抗して成立した。その対抗の方法はヒンドゥー教の源流であるヴェーダ聖典の利用だった。つり、ヴェーダ聖典の核心は宇宙における超越的原理的存在であるブラフマンと自己存在の内在的根拠であるアートマンの一致を目的とすることである。密教は、この梵我一致を大日如来と修行者との一致に置き換えたのだ。したがって、密教は思想のパラダイムが仏教とは異質なのだ。密教の言葉、「真言」はそれ自体としてある。つまり、言語が単なる記号ではなく、それ自体が実体的な力を持つ。これは、もともとの仏教が言語による現象は錯覚だという考え方とは別物だ。

2024年6月 2日 (日)

南直哉「超越と実存─「無常」をめぐる仏教史」(4)~第2章 アビダルマ、般若経典、華厳経典の思想

 前章で見たブッダの悟りについて、何も語られていないのだから、ブッダ以後の人にとっては、彼の後を追って悟りをめざしても、どうしたらいいか分からないし、仮に悟ったとしても、それが本当に悟りであるかどうか分からない。悟りとは、いってみれば、実体(アートマン)として存在しないものを、存在すると錯誤ことの自覚であり、この錯誤が言語機能による「迷わせる不当な思惟」から生起すると認識することである。この自覚と認識は、「私がある」という事実から生じる決定的問題、例えば「私とは何か」、に決して正しい答えを与えない。正しい答え、つまり真理は、それ自体として不変でなければならない。無常や無我でありえないのだ。しかし、この解消しがたい問いに、「私」という様式で実存する存在者=人間は耐えられない。だから答えを出そうとする。ゴーダマ・ブッダが亡くなると、間もなく、その試みが始まる。ある存在に実体はない。しかし、その存在には根拠がある。この矛盾した考え方を解決する場合、神だの霊魂だの持ち出すことなく用意できる最も単純な答えは、その存在自体には実体がないとしても、別の何かが集合して、あたかもそれが実体としてあるかのように見えているという考え方だ。つまり、超越的な根拠を外部に設定するということを始める。そのような考え方は形而上学と呼んでもいい。

南直哉「超越と実存─「無常」をめぐる仏教史」(3)~第1章 ゴータマ・ブッダ

 序章でいうように形而上学の超越的真理ではなく、現実の人間のあり方、つまり実存を「無常」「無我」として捉えたブッダの思想が、次第に超越的真理となっていく経緯をみていく。つまり、最初に著者が仏教徒それ以外と区別していた仏教が次第にそれ以外にすり寄っていくプロセスをのべているのが本書の大部分である。それ以外ではない仏教は創始者であるゴーダマ・ブッダの思想である。
 仏教の経典には、ブッタの「悟り」について、その内容は語られていない。というのも、ブッダは言葉にできないような根拠のない何か分からないものを追求しようとしたのだろうし、それを語ることには意味がない、語ることができないのだった。それについて、著者は推測する。ブッダは、人が苦しむのを目の当たりにして、そこから考え始めた。その苦しむというのは、人間には「自己」というものがあるからだ。自己は「私がいる」「私である」と認識する実存と、それを承認する他者が共同で仮設している存在様式だ。動物には、この自己がないから苦しい感じることはない。人は自己を持つ。それは、古代以来インド思想では自己を実体化しアートマン(我)と呼んだ。ブッダは、その自己というあり方に疑問を持った。自己が存在根拠を持つ実体と考えることを否定した。これが後の仏教の中心的教説となる無常とか無我という言葉の核心的意味である。自己という実存様式は、具体的には自意識として現象化する。そして自意識の現実様態は私とは私である説明できる事態、つまり言語機能である。自己の実存は自意識的実存であり、言語内存在なのだ。この自意識と言語機能が、無常、無我であるはずの自己を、それ自体に根拠を持つ実体と錯覚させるのである。「机」と呼ばれる個々の物体は千差万別だが、それらはすべて「机」である。言い換えると、「机である」と認識されたものが「机」であるということになる。このことは、個々の物体には「机である」と認識させる何かから内在していて、それを「自己」が認識する、という理屈を作っている。これとまったく同じ理屈が、「私がいる」という認識、つまり自己認識にも作用している。時と場所が異なっても同じ「私」がいるのは、その同一性を保証する根拠があるからであり、その根拠こそが真の私であると言いたいわけだ。およそ存在するものは無常であり、何ものも存在するものはそれ自体を根拠づけない(我ではない)にもかかわらず、「我である」と錯覚することが苦しみの原因なのだ。
 しかし、「我である」は錯覚であり、無常とか無我といって、そんなものは「ない」と言ってしまうことは、「ない」というものがあるということになってしまう。だから言葉でかたることはできない。語りえない、語ることに意味がないのだ。

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