貴田庄「小津安二郎と「東京物語」」
著者の「小津安二郎と七人の監督」を読み、手に取ってみた。「東京物語」はどのように完成したのか。脚本はどのように書かれたのか、撮影はどのように進められたのか。当時の小津の日記や俳優・スタッフの証言、雑誌記事などから明らかにする。たしかに、小津が脚本家の野田と旅館に缶詰になって、どんなスケジュールで仕上げていったとか、撮影はどのようなシーンから行っていったとか、詳細に説明されている。知識としては収穫のあるものだと思う。これは、いわゆるファンとかオタクと呼ばれる人たちが、関連グッズを蒐集するのと似ている。ということで、グッズに興味のない私には、そういう知識には興味がない。例えば、脚本はどのように書かれたのか、ということなら、コンテをつくったりして視覚的な場面からなのか、ストーリーからなのか、キャラからなのかといった基本的なつくりを知りたい。「東京物語」もそうだが、いわゆる小津調の映画は、あれだけ沢山の短いショットをつなげて、そのつなぎのリズムが映画のアクションを生み出したり、劇的効果を作り出したりする。そのためには、他の監督よりも沢山のショットを撮影しなければならない。それを、他の監督と変わらぬ日数で制作してしまうわけだが、そのためには、どのような設計、つまり、脚本段階から見越して設計図をつくっているのか、脚本ができてから撮影プランを作るのか、私には、小津の映画は科白の意味内容よりは、視覚的な掛け合いで映画が進んでいくので、映像から発想されているのではないかと想像している。このように、「東京物語」を見るについて、これまで自分が見てきたのとは違う見方、あるいはこれまでの見方でより深く味わうためのきっかけとなるようなことだ。たぶん、黒澤明とは、作り方の発想がまったく異質のように思う。そういうことの知識は、とても知りたいと思う。
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